虚実の蜃気楼

虚実の蜃気楼 第1話

空気が澄み渡り、夜空に天高くオリオン座が輝くのが見えた。山岸徹やまぎしとおるはアスファルトで舗装された細い山道を静かに歩み始めた。赤や黄に綺麗に染まった広葉樹は徐々に葉を落とし、冬の装いへと少しずつ移ろいでいた。


山岸の歩む山道の先には一軒の寺があるのみだった。その寺こそが倶利伽羅不動明王寺くりからふどうみょうおうじ、彼の目指す場所だった。


山の頂上付近に建立された倶利伽羅不動明王寺は檀家を持っていない。仏僧の修行場だったからだ。だが、仏の教えを伝授しているわけではなかった。伝授しているのは仏の功徳や呪法といった術、所謂仏の力を伝授していた。


倶利伽羅不動明王寺には大きく分けて五つの領域に分けられた伽藍があった。一つは本堂、二つ目が母屋、三つ目が護摩行や催事を行う焚き上げ場、仏具や教典を保管している籠部屋、最後に茶室があった。


この倶利伽羅不動明王寺の特色は伽藍の背後に巨大な大岩が顔を出している崖がある事だった。この崖の上こそが倶利伽羅不動明王寺が立つ朝日山の山頂だった。


大岩は何時落石しても不思議ではなかった。まるでこの倶利伽羅不動明王寺を見定めるだけでなく、地域周辺を見張っているように埋まっている。何を隠そう、この大岩こそが倶利伽羅不動明王寺の真の御本尊が掘られている神聖なものだった。


山岸は寺の山門に潜り、敷地の中に入る。そして何時ものように本堂の横を通り、大岩の下にひっそりと建てられた籠目模様の細工が壁に施された小屋へと行く。小屋の壁は二重に作られており、外側の壁に施された細工には呪が込められていた。


籠目には呪が宿ると言われている。一つの編み目がダビデの星、つまり六芒星になっている為に如何なる存在も絡め捕らえる。籠部屋に施した細工も同じ理由であり、壁を越えようとする存在は有象無象、差別無く絡め取られて通ることが出来ないようになっていた。その為、体を穢れから守る際や、悪しき存在を封じ込める際に籠部屋は使用されていた。


山岸は籠部屋の二つの木製の入り口を開けて中に入る。籠部屋の中は裸電球が一つ天井から吊り下げられいた。部屋内は広く、裸電球一つでは十分な明るさとはいえず薄暗い。中にはすでに見知った顔の二人が居た。


「こんばんは、小笠原おがさわら先輩と海野うみのさん」


山岸の言葉に二人は笑って返事を返す。籠部屋の半分は大岩の下に掘られた穴に入っているために一年中を通して暗くて気温が低く、湿度が一定だった。その為、この部屋を使用する際には夏でも火鉢で暖を取ることがしばしばあった。だが、現在は十二月の上旬、骨にも染みる寒さで火鉢一つでは心許なかった。


「やっぱり冬でもこの部屋で酒盛りは辛くありませんか?」山岸も白い息を吐きながら火鉢の前に座った。


「山岸な、ただ飯を食わして貰っているんだぞ。文句なんて言えるか。温かい酒の肴と酒が飲めれば私は文句は言わない」海野道琉うみのみちるはコートを羽織りながら手を火鉢に翳していた。「大体、お前は分かっていないんだ。世の中にはこの部屋よりも寒いものが沢山あるんだ」


「分かった。海野さんの財布の中身でしょう」


「……君さ、二ヶ月前は見かけよりも骨がある奴だなと感じたけど、実際はただの恐れ知らずだね」海野は震える拳を山岸に見せながら不敵に笑った。「さあ、お姉さんが教育をしてあげよう」


「じょ、冗談ですよ。小笠原先輩、ちょっと海野さんを止めて下さいよ。本気で俺を殴ろうとしていますよ」


「今のは山岸君のほうが悪いから仕方がないよ。道琉、山岸君を教育してあげてね」止めるどころか、火に油を注ぐ如く応援をした。


二週間前に比べると小笠原は大分顔色が良くなっていた。道端で偶然にも人の心につけ込む「魔」という存在に憑かれた小笠原は心を苦しめられた。見たくもない幻を見せられ、心に思っていない酷い言葉を好意の相手に言い放った。不可抗力とはいえ、小笠原は自分の口から出た言葉として苦しんだ。だが、幸いにも心の後遺症は見られなかった。それ以上にあの人物の隠された一面を垣間見る事が出来、距離が近づけた事に喜んでいた。


「ところで、会長は未だ来ないんですか?」山岸は腕時計で時刻を確認する。「九時過ぎてるな。何時もなら会長が遅れる事なんて無いのに」


「チビは忙しいみたいだよ」海野は溜息を吐く「坊さんも忙しいって嘆いてたわ」


「師走だもんね」小笠原は火鉢の赤く燃える炎を見つめながら呟いた。「早いな、もう今月で一年が終わるんだよね。長いようであっという間だったね」


「本当にいろいろありましたよね。よく考えれば霧隹島の取材から俺の常識がぼろぼろと崩れていくは、鼬騒動では骨を掘り返す羽目に遭うわと散々でしたけど」


「何をめそめそ思い出してるの。一番辛かったのは渚のほうだよ。変な被害妄想の中学生に勝手に敵みたいにされて挙げ句の果てに苦しめられたんだぞ。全く自分中心で物事を考える男は器が小さいぞ」


「すいませんね。俺はどうせ器が小さいんですよ」山岸は海野の痛い言葉に溜息を吐くと小笠原を見る。「でも以前に比べてすっきりした顔をしてますよね、小笠原先輩。何かあったんですか?」


二週間前の告白めいた事を思い出した小笠原は顔から火が出そうになった。勢い、そして待っていた時とはいえ、改めて思い返すのは恥ずかしかった。が、どうやら薄暗い部屋だったために真っ赤になった顔を山岸には悟られなかった。


「野暮な事を聞く男はやっぱり器がちっせぇな」と海野は一度舌打ちをすると、こっそりと隠れて見ていた事を思い返して広角が緩んだ。




三人で思い出話に花を咲かせていると、籠部屋の入り口が開く音がした。そして聞き慣れた声が聞こえた。どうやら外には三人がいるようだ。


「御前、版木が欠けているともう少し早めに教えて貰えませんか。こちらにも都合というものが存在するんですから」


「なあにが都合じゃ、儂にも教授阿闍梨きょうじゅあじゃりとしての勤めがあって忙しいじゃ。あっちの坊主に挨拶にいったり、こっちの僧正に催事について確認しなければ行けない事が多々ある。それを版木が欠けていないか一々確認するのも暇を見つけてはしているんじゃ。版木の三枚や四枚を彫るぐらい弟子として素直にやれ。その為にも義兄のところに坊の仕事を一ヶ月休ませてくれと頼んであるんじゃから」


「片桐さんのところも年末は非常に忙しいのですよ。忘年会は行われるは、クリスマスで静さんはケーキを作らなければならない。お世話になっているんですから私も暇を見つけては手伝いに行かなければ顔向けができない。全く、温泉にうつつを抜かす暇があったなら十一月から早めに確認していれば済む事でしょう」


陰宮楓かげみやかえでと倶利伽羅不動明王寺の住職である鍋島香雲なべしまこううんは言い争うようにして籠部屋に入ってきた。後ろからは香雲の娘である茜が両者の仲裁に入っていた。


「今晩は、先輩」小笠原は挨拶をする。


陰宮は一瞬小笠原に顔を向けると簡単に返事を返した。珍しく不機嫌さが感じられた。陰宮は無言で部屋の隅に陣取ると煙草盆を手繰り寄せて一服する。彼は着流しに羽織を着ており、長い髪は束ねられていた。


香雲は棚に置かれている日本酒を手に取ると小笠原達に話しかけずに手酌を開始した。最初の一杯を豪快に飲み干す。


「何だか……荒れてませんか。二人とも」見た事がない陰宮の様子に違和感を山岸は感じた。普段ならゆったりと煙管を吸っていたが、この日は一服を吸っている間にすでに二服目の煙草を丸めている。


「山岸さん、毎年の事だから気にしなくても大丈夫ですよ」茜が耳打ちをした。「何時もこの時期になるとお父さんと陰宮さんは言い争いになるの。ただ、二人とも機嫌は確実に悪いので刃向かわないほうがいいですよ」


「それって嫌でも気にしませんか?」山岸は遠巻きで二人を見た。そんな山岸を茜は苦笑いで答えた。


茜は一度母屋に戻って料理を持ってくると籠部屋を出た。その間も香雲は一人手酌で酒を飲み、陰宮は煙管を嗜んでいた。


「一週間時間を下さい」陰宮は煙で目を細めながら呟く。


「駄目じゃ、二日で彫らんか。本堂の掃除に、本尊の供物の準備をしないといけないんじゃぞ」


「幾ら何でも二日では版木を彫る事は出来ません。一週間。これは以上は譲れません」


「たかが彫るぐらいで何が一週間じゃ。初めて掘るわけじゃないんじゃから、二日で十分じゃ」


「御前、ならご自身で彫ってみなさい。いかに慣れているとはいえ、どれ程集中して彫らなければいけないかという難しさ。その身で知る事が一番です」


「坊は莫迦か。儂はいろいろ出向かなければいかんとさっき申したはずじゃ。それを性懲りもなく、自分で彫れじゃと。片腹痛いわ」


籠部屋に静かな重い空気が浸食する。普段ならば如何なる空気でも切り裂かん海野ですら、萎縮している。明らかにこの場に山岸等三人は相応しくなかった。


「あの……先輩」小笠原が勇気を振り絞って陰宮に近づき、声を掛ける。


陰宮は上目遣いで小笠原を見る。眉間に皺を寄せており、彼女にとってそんな陰宮は今まで見た事がなかった。


「何だい、小笠原」


「先程から版木って言っていますが何の事ですか?」


陰宮は目を瞑り、深い溜息を吐く。懐に入れていた一枚の板を取り出して、彼女に渡す。


「不動明王の符が彫られている」墨で片面が黒く染まった板を見つめる小笠原に説明した。「版木とは木版印刷にしようする板の事だ。倶利伽羅不動明王寺で売られている普通の札は版木で印刷している」


「筆で一枚一枚書かないんですか?」


「ふん、嬢ちゃん、筆で書いていたら時間は無いし、各人の技量で符の仕上がりがばらばらになってしまうじゃろ。ましてやこの倶利伽羅、厄除けに大願成就として参拝者が多い。札が少なければ苦情を言われるし、字が下手では御利益がないと文句を言われる。だから大量に作れ、品質も変わらない木版で札を作っているんじゃ」


「字が汚いのはご自身ではないか」陰宮は小さい声で呟く。


「坊こそ、筆は利き手で書けないから字が下手ではないか」


二人の会話から再び重苦しい緊張が漂う。海野は関わらないが仏と茜の手伝いをする為にこっそりと籠部屋から抜け出す。山岸もついて行こうとしたが、万が一の時は渚を守ってねと残留を言いつけられてしまった。


「あの……印刷でも御利益はあるんですか。下手な字でも手書きの御札のほうがありがたいと感じるのですが」


「札の仕上がりは儂の祈祷を持って完了する。御利益はある。最後に寺の印章を押すが、それは御利益があるありがたい札だという証明と責任を込めてじゃ。生半可な気持ちで押せるか」


「何が生半可な気持ちで押せるかですか。日頃版木の確認を怠る御前に何の責任があるのです。今現在の版木はほとんど私が彫ったものですよ。生半可で出来ないならば始めからご自身ですれば良いではないですか」


その言葉に香雲は据わった目で陰宮を睨む。どうやら空酒で酔いが早く回っているようだった。酒瓶を勢いよく床に置く。


「遣るか……坊」


「仏に仕える身で争いを求めるとは……この糞坊主」陰宮は煙草盆に上の灰吹きの竹筒に煙管の雁首を入れると煙草の灰を吹く。そして、静かに立ち上がる。「毎年、毎年、年末になるとあれをしろ、これをしろと面倒事は私に押しつける。確かに教授阿闍梨として忙しいのは分かっていますが、日帰り出来る予定を温泉という欲に負けて泊まりがけに変更するとは何事ですか。いい加減にして欲しい。我慢の限界だ。少しはご自身でしなさい」


「……術を教え、挙げ句の果てに寝食の場所を与えているのにその口ぶりは何だ、餓鬼」香雲もふらつきながら立ち上がり、巨躯の体で痩躯の陰宮を見下す。「毎年、毎年、年末になると師である儂に刃向かい、簡単な仕事さえ駄々をこねる。あれもやりたくない、これもやりたくない。日々の生活もまた修行、正式な継承者になったのなら修行と思い甘んじて働け」


二人の会話は平行線を辿る。さすがに目が据わっている香雲と小さいながらも毅然と睨み付ける陰宮を見て小笠原は戸惑ってしまった。


「今年は一段と険悪ね」皿一杯に料理を乗せた茜が籠部屋に戻ると溜息混じりに呟く。


「ねえ、どうしよう、茜ちゃん。先輩と住職が」小笠原は二人から少し離れて不安げに見る。


「気にしなくてもいいってさっきも言いましたよね。大丈夫ですよ。毎年の事だから大丈夫。二人とも忙しいからその鬱憤を互いに晴らしているだけなの」


小笠原には大丈夫には見れなかった。一触即発、何時殴り合いになっても可笑しくはない空気だった。


「ほら、喧嘩するほど仲がいいっていうじゃない。それと同じなの」


茜が笑いながら話す。茜の笑みを見ると小笠原も大丈夫な気がした。


「それにしても寺って年末はそんなに忙しいんですか?」山岸は持ってこられた料理を見る。魚の煮付けや揚げ出し豆腐があり、美味しそうに湯気が上がっている。「いつも暇そうにしているし、週末になると俺たちと酒飲んでいるから意外だな」


「……山岸君、暇そうにしていて悪かったな」香雲が陰宮から目を反らさずに低い声で呟く。


山岸はびくんと体を震わすと、弱々しく「そんなつもりは」と何度も謝る。


「お父さん、怖がらせないの……うちの寺は修行場、しかも仏の教えを伝授するのではなく呪法を伝授しているの。仏の功徳や加持とかをね。昔は修行僧の方も大勢居たみたいで御札も修行僧の方々が版木を彫って、印刷してと分担していたけど、呪法よりも仏の教えが大切って考えが強くなってだんだんと修行僧の方が減っていったの。今はご覧の通り下北しもきたさんと長谷川さんしかいないでしょ。だから自然と一人の仕事量が増えたの。それに檀家さんが居ないから収入を得る機会も限られているの。殆どがお正月と節分、あとは浄霊とかでしょ。だからお父さんは気張ってしまってイライラしているわけ」


「そんなに大変なら鼬騒動で来た方々を呼んだりはしないの?」


「あの方々にも自分の寺があるからお願いしても偶にしか来れないの」


小笠原と茜が寺の裏事情を話すと海野が御握りを持って帰ってきた。


「うわ……すげぇ殺気立ってる……」海野は香雲と陰宮を一別する。「あんな危ないチビに大切な友人を奪われるとは……奪還しないと渚がドメスティックバイオレンスで泣いちゃうな」


「な、何言ってるの、道琉」


「ほう、あんな意外な一面を見ても受け入れるとは、感動しちゃうな。妬けちゃうな。私だったら卒倒しちゃうけどな、もし宗君が変貌したら……」海野は最後濁すように呟く。小笠原がどうしたのと尋ねたが慌てて何でもないと誤魔化した。「で、みんなで何を話していたの?」


「お寺は年末忙しいって」


「でも今年は本当に大変なんですよね。いつもお正月に売り子で親戚の方々が手伝ってくれていたのですが、今年は喪中だから駄目で。お父さんと修行僧の二人は厄払い等の祈祷で忙しいし、私と陰宮さんは特別な事を今年はする予定だから、売り子が出来るのはお母さん一人だけなんです」


先程まで目が据わっていた香雲が何かを思いついたように微笑む。


「嬢ちゃん達……正月は帰郷するのか?」


「えっ? 私は成人式があるので正月には帰りません。道琉はいろいろあるから帰らないよね?」小笠原は海野に尋ねると嫌そうに誰が帰るかと吐き捨てた。山岸は実家が遠いので面倒だから帰りませんよと答えた。


「のう……アルバイトをしないか」


「御前、何を言っている」陰宮が血の気を引いた顔をした。


「年末年始……時間が空いている時でいい、掃除や売り子といったアルバイトじゃ。時給は一時間千円」香雲は指を一本立てる。


「千円か……」時給に心動かされたのは海野だった。「あたしはバイトも休みだから年末年始は先生と過ごそうと思っているんだけどな。あたしでも偶には休まないと倒れるし」


「……風呂も食事もつけるかのう」香雲は顎を触りながら以前耳にした海野の生活を思い出す。「母屋には幾つもの修行僧用の部屋があるから、そこで寝泊まりしてもいい。食事はかかあの作る品、大晦日と正月には坊も料理をこさえるぞ。おまけに風呂は沐浴に使う檜の風呂……最高の湯心地じゃ。家で過ごせば食費はかかるし、電気代もかかる。折角の正月なのに自炊だと大変じゃないかのう」


香雲の甘い文句に海野の目が輝く。彼女が住んでいるアパートには共同で使用している風呂が一つあるだけだった。だが風呂はバイトが終わって帰宅した頃には何時も閉まっていた。海野はここ二年ほどゆっくりと落ち着いて風呂に入った記憶が無かった。


「待て、海野。それでも割が合わない。君はどれほど正月が大変なのか分かっていない。あれは地獄絵図、時給二千、いや一万は貰わないとやってられないぞ」陰宮は先程と打って変わって見た事もない挙動不審な態度をとっていた。


「お坊様、年末年始、不束者で御座いますが、全力で頑張ります」


「おう、お嬢ちゃんは素直な子じゃな。サービスで酒もあげようかのう」海野は「ははあ」、と頭を下げる。「嬢ちゃんは如何する?」


小笠原は一瞬考える。香雲の後ろで何も言わずに睨みだけで「断れ」と伝えてくる陰宮の迫力に戸惑う。


「私もお手伝い……しようかな」小笠原は陰宮と目を合わせずに自分の意見を述べた。


陰宮は手で顔を覆い項垂れる。山岸は別に正月に予定もなく、悲しい独り身だった為これを承諾した。


「よりによって……如何して」陰宮は低く呟く。「山岸、しっかりと働いて貰うぞ」


「えっ、如何して小笠原先輩や海野さんに対しては働くなってアピールしたのに、俺の時だけ何で働けって言うんですか!!」


陰宮は煙草盆の横に座ると煙草を丸め、煙管の雁首に詰めて火を付ける。


「……静かに年越しは出来ないのか」


陰宮の愚痴は白い煙となって行き場もなく空中に漂い続けた。




本堂の屋根に二匹の犬が月明かりで朧気に浮かび上がる。


「のう、珀天翔」黒い毛並みを風に靡かせる。


「どうした、哭天翔」白い毛並みが月光に輝く。


「もうすぐ一年も終わるな」


「ああ、そして毎年のように騒がしい師走だ」


「これが無ければ師走とは言えぬな」


二匹は穏やかに目を細め、籠部屋を穏やかに見つめていた。



***


今年もあと四日で終わろうとしていた。街では年越しの準備に東奔西走している人々で溢れており活気があった。時刻は十八時、暗い空から幽かに舞い落ちる粉雪は車の窓に触れると雫となり消えた。


小笠原は小さいローバーミニに乗っていた。車を運転する陰宮は黒いワイシャツにトレンチコートを着ていた。顔を少しばかり暗く強ばっていた。どうやら倶利伽羅不動明王寺の仕事の大変さが少し伺えた。今、二人が向かっているのは海野の自宅だった。


「先輩、疲れているみたいですが大丈夫ですか?」陰宮の顔を覗き込んだ。「目の下なっかクマが出ていますけど、寝てますか?」


「三日前に半日寝た」


「……昨日は寝ていないんですか?」


「遣らなければいけない事が沢山あるからな。寝なくても多少は大丈夫だ。慣れているから心配しなくても良い」陰宮は運転中に横目で小笠原を見た。「それよりも君の方は大丈夫なのか。先週まで風邪をこじらせていた。あまり張り切りすぎて風邪をぶりかえすなよ」


「あの時は迷惑を掛けてしまって御免なさい。でも、今は大丈夫です。風邪はばっちり治しましたから安心してくださいね。先輩の料理で早く風邪が治りましたから」


「風邪は治ったと思っても風邪のウィルスは完全に消えているわけではない。御前の直々に頼まれた仕事だからって無理はするな。何時もなら少人数で準備をしていたのが普通。売り子だって正月の二日までが山場、それも君たちの想像している忙しさを越えている」


「私達は何をすればでしょうか?」


「御前が言うには年末は奥様のお手伝いと言った仕事が主となる。本堂などは修行僧が掃除をしなければ修行の意味がないからな。母屋の掃除や売り子としての準備だろう」


「売り子をする時の服装は何を着ればいいのでしょうか?」小笠原は後部座席に置かれた着替えなどが入ったボストンバックを見る。「お寺の売り子に相応しい服が無かったので持ってこなかったのですが、大丈夫でしょうか?」


「構わない、私服で結構。ただ本堂は寒いから温かい服装にする事」


陰宮は小笠原に簡単に仕事内容を説明しながら、車を一軒の古いアパート前に停車させた。


***


陰宮と小笠原は車を降りてギシギシと軋む築三十年を軽く越えたアパートの階段を上る。二階の一番奥の部屋が海野の部屋だった。壁が薄いのか海野の明るい声が聞こえた。


「まだ準備できていないのかな」小笠原はチャイムが無いためドアをノックする。


部屋の中から「おっ、もう来たのか」と海野の慌てた声が聞こえた。そして、しばらくしてドアが開く。


海野はタオル地のヘアバンドをしながら出迎えた。身なりもジャージ姿の為明らかに準備が出来てないと伺えた。もう少し待っててと話す海野は二人を家の中に招く。綺麗に整えられているが、部屋の隅に出し忘れたゴミ袋が三つ積まれていた。


「御免、まだ先生のお供え物が終わっていないんだ。一週間ほど家を空けるし、お正月だからしっかりと準備してから家を出たいから少し待ってて」


海野は二人に部屋の中央に座らすと御茶を入れ始めた。


「道琉。手伝おうか?」小笠原の言葉に海野は「大丈夫だから、私自身でしたいんだ」と穏やかな声で答えた。


海野の入れた御茶を二人は受け取る。素朴ながらの玄米茶だった。香ばしい穀物の香りが小笠原の鼻を擽る。彼女はゆっくりと口に運んだ。


陰宮は御茶を受け取ったが、畳の上に置いた。少し時間が過ぎると頭が上下と動く。どうやら海野を待つ僅かな時間に休む事を選んだようだった。小笠原は静かに陰宮を見つめる。


「もしかしてチビ、寝てるのか?」流しの湯垢を落としている海野は振り向きながら呟く。「ずっと眠そうにしていたもんな」


「うん、寝てる」陰宮の顔は長い髪で隠されて見えなかったが小さな寝息が聞こえた。「二日間寝ていないみたいだからそっとしておこう」


小笠原は目の前で寝ている陰宮の姿を見て思い出す。導かれるような些細な出逢いが始まりだった。海野の今住んでいるこの部屋に幽霊が出る、そんな非科学的な悩みを持っていたの時に陰宮と出逢った。その後はまるで後ろ姿を追いかけるように小笠原は陰宮に近づく。当初は邪険に扱われ、距離を置かれていた。それが同じ研究会に所属した事、夏の霧隹島むすいじまでの取材での事件、大学祭で出逢った一人の少年と白兎の事件、そして小笠原自身に魔が憑いた事件により距離が次第に近づいた。


小笠原はふと人の気配を感じた。流しの掃除をしている海野の気配でもない。窓際に彼女は視線を送った。


「お久しぶりです。お元気でしたか?」


和服を着た書生風の男性が立っていた。一目でこの世の者ではないと察しが付く、儚げな透き通った存在。彼こそが海野の部屋に出る幽霊であり、先生と慕われている奇妙な同居人だった。名は小山右衛門宗一郎こやまうえもんそういちろう。明治時代に亡くなった方だ。彼は静かに小笠原に頷いた。


「あれ? 渚って見える人だっけ」


「うん……」小笠原は答えるのに戸惑った。


海野の彼女が何を言おうとしたのか理解し、それ以上は聞こうとはしなかった。恐らく魔に憑かれた際の霊障だろうと心で納得した。


「道琉は先生と過ごすようになって見えるようになったんだよね」


「そうだけど。お陰で先生と一緒に住んでいるって気がして楽しいよ」炊飯器から御飯が炊き上がったという報せの電子音がなった。「おっ、出来た、出来た。茶碗に御飯を盛って、着替えを鞄に詰め込んだら行けるからな」


「不動明王寺で黒くて大きな犬って見た事ある?」


「犬って人よりも大きい感じの奴か?」海野は茶碗に御飯を盛りながら、しゃもじで軽く押さえつけながら形を整えた。「チビの使い魔だったか、なんて言ったか忘れたな。まあ、陰宮の召使いに黒い奴と白い奴の二匹いるけど。それが如何した」


「前々から気になっていたの。ほら、私が憑かれた時があったでしょ。その時に籠部屋の前で黒い犬が寝ていたの。優しそうな感じがしたから怖くなかったけど、先輩に聞いても何も答えてくれないし。それよりも私が霊が見えるようになった事に対して罪悪感を感じているみたいで謝ってばかりだし」


「渚は見えるのが嫌なの?」


「怖いものを見るのは嫌だけど、先生とか優しい幽霊なら嫌じゃないよ」小笠原は小山を見つめる。小山は恥ずかしいのか目線を合わせずに窓から外を眺めていた。


海野は小山へのお供え物の御飯と御茶の準備が出来ると窓際の棚の上にハンカチを敷いてから置いた。そして倶利伽羅不動明王寺に泊まり込んで働くための準備をする。着替えを鞄に詰め込んだ。そして、服をジャージから何時ものパンクファッションの私服へと着替える。


「よし準備が出来た」海野は部屋を見渡す。「そうだ、カメラを持って行こうと」


部屋の隅に置かれたケースに入ったカメラを持つ。海野は公立の美術大学芸術学部写真学科の生徒だった。この部屋で一番高価なのは一年間休み無く働き生活費を惜しんで貯金して買った中古の一眼レフカメラだった。


「行ってきます、先生。お留守番お願いしますね」海野は小山の前に立って頭を下げた。「さて行こうか」


小笠原は陰宮を起こす。陰宮は目を覚ますと御茶を飲み干した。


三人が海野の部屋を出る時、幽かに「気をつけて行きなさい。私の事は気にせずに友人と過ごしなさい」と温かい声が聞こえた。


***


倶利伽羅不動明王寺に着くと陰宮と別れた。代わりに香雲が小笠原と海野の二人を案内した。横長の木造の母屋に入ると階段が目に入った。一階には台所、沐浴場、座敷、居間、香雲と妻である智子の寝室があった。二階には茜の部屋、書庫、修行僧の方々が寝る部屋が幾つもあった。


香雲に連れられて小笠原と海野はゆっくりと階段を上った。階段の踊り場の壁には睨みを効かせた不動明王の絵が掛けられていた。二階に上がると香雲は一度立ち止まる。


「嬢ちゃん達、右手の奥の部屋には茜が居る。儂やかかあに話し辛い事があったら気軽に聞いてみるが良い。その隣が書庫、教典や札が置かれている物置じゃ。狭い上に棚が古いから危ないから無闇に一人では入らないようにな」香雲は指で指しながら説明をした。「そして、嬢ちゃん達が泊まるのは左手の方じゃ」


小笠原は奇妙な感覚を覚えた。細い廊下に面して左右に襖が幾つもあった。あまりにも襖があり遠近感が狂う。突き当たりにもまた襖があった。


「何て大きな母屋だろう、と感じていましたが何部屋あるのですか?」小笠原は自宅から持ってきた着替えなどの入った重い大きな鞄を持ち直す。


「左右に六部屋、計十二部屋じゃ。」香雲は静かに歩き出した。「奥の襖は雪隠、つまりトイレじゃ。手前の部屋の方に修行僧が居る。山岸君には真ん中の部屋に泊まって貰い、嬢ちゃん等は奥の二部屋に泊まって貰う」


襖の間隔が狭かった。建築学部の小笠原は頭の中で図面を作る。襖の幅はおよそ半間はんげんの九百ミリメートル、それが一間毎の間隔である。つまり一部屋の幅が二百七十ミリメートルあると考えた。一部屋は四畳ほどだろうかと彼女は予想する。


香雲が襖を開ける。小笠原の予想は外れ二畳だけの部屋だった。部屋には押し入れと、電気スタンドが置かれた経台と電気ストーブだけが置かれているだけだ。他にあるのは窓だけだった。


「狭くないか?」海野は率直の感想を言った。「私の家よりも狭いぞ。それに何も無い」


「これでも広い方じゃ。ここは修行の為の寺、だからどうしても狭いんじゃ。最近では物好きの泊まりたい外国人の客もおるから一部屋一人にしたが、本当はこの広さで二人部屋だ。昔から修行僧には起きて半畳、寝て一畳という言葉がある。勉学のために経台は置いているが他は修行の阻害しかならぬから置いてはおらぬ。まあ、嬢ちゃん達は修行に来たわけではないから物寂しいと感じるが暖を取るストーブだけは置いとくが、喉が渇いたら台所の飲み物を飲んだって構わないから少し我慢してくれんかのう。荷物は空いている部屋に置いても良いぞ。布団一式は押し入れに入っておるから寝たくなったら自分で敷いて寝て良いぞ」


「なあ、当然だけどカギは付いていないんだよな。私達は大丈夫なのか?」


「大丈夫って何じゃ?」香雲は呆気に取られた顔で尋ねる。


「ほら、修行僧って禁欲生活で欲求不満でしょう。そんな奴らの隣にこんなに可愛い女の子が二人、鍵の付いてない部屋で泊まるのは安全かなって思ってさ」


小笠原は失礼だよ、と海野に言うが耳を傾けなかった。


「内側から木を引っかければ開かないようになっとるが」香雲は不敵に笑いながら少し髭の伸びた顎を撫でる。「安心せい、大丈夫じゃ。修行僧の奴らはそんなに命知らずの猛者ではない。奴らはそんな事をすれば、破門以上の怖い目に遭う事を知っているからのう。だからこそ大切な一人娘が同じ階にいるんじゃ」


「あの子の部屋にも鍵は付いていないのか?」


「……付いておる」香雲は急に悲しい顔をした。


「本当に大丈夫なのか、自分の娘の部屋にはしっかり鍵を付けておいて私達の部屋についていないとなると不安だぞ」


「……茜の部屋の鍵は」香雲は暗く静かに一階へと向かう「儂と話す事も会いたくない時に掛ける為のものじゃ。嬢ちゃん達、荷物を置いて一段落したら晩飯を食べに下りてきなさい」


「渚、何か聞いちゃ駄目な事を聞いたかな」


小笠原はただ苦笑いする事しか出来なかった。


***


小笠原は海野と相談し、向かいの空いている部屋に二人の荷物を置く事に決めた。冬休み明けに提出するレポート関係の資料を持って自分の部屋と小笠原は戻っていく。


二畳ばかりの小さな部屋だった。少し肌寒いので電気ストーブのスイッチを入れる。硝子管が赤く輝くと心なしか温かくなった。赤外線には本来色はない。赤外線を利用した技術者が安全面を考慮して熱による危険を知らせるために赤く輝くように工夫したのだ。


色は精神面に影響を与える。暖色系統は暖かみを感じさせ、寒色系統は冷たさを感じさせる。また、青系統は精神を落ち着かせ、赤系統は精神を興奮させる効果があった。


「先輩の暮らしてきた場所か」小笠原は壁にもたれるようにして膝を抱えながら座った。「私は少しずつでも先輩に近づいているんだよね」


その時、襖越しから海野が声を掛けてきた。


「どうしたの?」小笠原は襖を開ける。


「お腹が減ったから飯を食べようって呼びに来た」海野はお腹を押さえる。「ただ食いできるから朝昼抜かしていたから、もう我慢できない。ほらほら、食べに行こうよ」


小笠原は海野に引っ張られるようにして一階へと下りる。台所に行くと鍋島智子なべしまともこが和服に割烹着を着て料理を作っていた。


「挨拶が遅くなりました。短い間ですが宜しくお願いします」二人は頭を下げると智子は「こちらこそ。賑やかになって嬉しいわ」と優しい笑顔で答えた。


「食事は居間に用意しているから遠慮せずに食べて下さいね」


二人は「お言葉に甘えます」と言って台所を出た。居間に向かう最中に二階から下りてきた鍋島茜と出逢う。どうやら先程まで寝ていたようで半分寝ぼけていた。


「あ、渚さんと道琉さん、もう来てたんですね」茜は目を擦りながら話しかける。


「年末年始は宜しくね、茜ちゃん」


「ええ、こちらこそ。さっきまで寝ていたので挨拶が遅れてすいません」


「気にしなくていいさ。同じ屋根の下でしばらく過ごすんだし、遠慮は無用だよ」海野は手を上下に動かす。「でもさ、チビ……陰宮といい茜ちゃんといい眠そうだったりするけど、寺ってそんなに忙しいの?」


茜は手で隠しながら欠伸をした。「もう年末の山場は越えましたので、それほど忙しくはないんですが、私の場合は元旦に陰宮さんと一緒に焚き上げ供養をする事になっているんです。でも私は焚き上げ供養が初めてで陰宮さんに経典の読み方を教わっているんです。陰宮さん、厳しいんですよ。少しばかり音を間違えただけで一時間も補習と題して写経させるし」


「へえ、お寺の子って大変だね。だからチビも眠そうにしているのか」


「それは少し違うかも」茜は首を傾げる。「何時も陰宮さんはこの時期になると自分の流派の祭事で忙しいみたいですよ。ただ私はどういった祭事かは知りません。お父さんも詳しくは知らないようで口伝のものではないかと」


「口伝?」


「口で伝えるで『くでん』です。経典に載せる事が出来ない門外不出の教えみたいなものです。父も教授阿闍梨ですから別に陰宮さんの祭事を知ろうとは思わないみたいですが」


「前に坊さんが自分の事を教授阿闍梨って言っていたけど何なの?」


「阿闍梨とは仏僧の位の事で規範になる師匠の意味で高僧の位です。教授阿闍梨は法を教える者の事ですよ」


「……高僧ってもしかしてさ、あの坊さんて偉い人なの?」


「ええ、一応偉い人です。総本山の僧正などにも顔が利きますよ。あんな格好ですし、時々暴言を平気で吐きますのでそう見えませんが。呪術に関しては宗派で五本の指に入るほどの持ち主だと母や修行僧の方から聞いてますよ」


「うわ……私、偉い人の事を坊さんとか坊主とか気安く呼んでいたんだ」海野は顔を青ざめる。「それにさっき精神的な攻撃をしちゃったし、どうしよう」


茜は海野の言っている事が分からなかった。三人が居間に行くと一人寂しく手酌をしている香雲を見つけた。その姿は高僧とは程遠い親莫迦な父親にしか見えなかった。


***


陰宮は籠部屋にいた。彼は棚に置かれた漢方薬を粉末にするための器具である薬研やげんといくつかの白磁の壺を手に取ると床に置く。白磁の壺には墨で香の名前が書かれていた。白磁の蓋を開けると薬包紙で小分けされた香が入っていた。


陰宮は白檀びゃくだん伽羅きゃら沈香じんこう丁香ちょうこう等の香を選び、配合の割合を考えながら薬研に入れて磨り粉末にした。


「主上、如何するつもりですか」陰宮についてきた哭天翔が尋ねた。「天見の鬼共はああ申しておりますが主上は主上で御座いまする。言いなりにならなくてよいのですよ」


「おうさ、哭天翔。まさにその通り。鬼共め、主上の心情を考えないず、体裁ばかりを気にしておる。厄介な過去の遺物だ」


「……巽流は元々は天見の一族の出。始祖である巽小次郎忠次はあくまでも武士。正式に巽流を築いたのは妻である天見一族の巫女であった巽蓮華だ。ならば天見の言うとおりにしないといけない。君達が深く考える必要はないよ」


陰宮はある程度香を粉末にすると、薬匙やくさじに乗せて火鉢の墨にかざして香りを聞いた。


「少しばかり白檀が多くはありませんか?」哭天翔は鼻を動かす。「折角の伽羅の香りが隠れていますぞ」


「いや、これで良い」陰宮は磨った香を薬包紙で包む。「伽羅を全面に出しては護鬼は奥ゆかしさを感じないと愚痴を溢す。高価な伽羅は幽かに見え隠れする方が護鬼の好みだ」


陰宮は棚に白磁の壺や薬研を片付ける。


「それにしても、正装を着ろか。主上、如何するおつもりか」


「着るしかないだろう。今までは正式に継承者じゃないと言って拒んでいたが、今は違う。着ない理由がない」


「しかし、芳明様の遺品の狩衣を着る事、即ち紋である曼珠沙華と蛇を背負う事……そして嘉納泰晴かのうやすはる様の御依頼……あまりにも不吉で御座います」


「吉と凶は紙一重。顕世と幽世もまた紙一重だ。だから私は気にしない」陰宮は煙草盆の引き出しから煙管を取り出す。「朧なるかな顕世は、神の戯れか、真の姿か」


「芳明様のお言葉ですね」


「ただ、正装を躊躇うとするならば、今の自分が着るに相応しいかだ」陰宮は火鉢の墨で煙草に火を付けると煙を吐く。「童は童、何時になったら大人になれるのか」


陰宮は左目を押さえる。顕世の因果と幽世の因果が混じった左目。この世の全てを歪めて見せ、あの世の全てを正しく見せる左目。


不吉だとするならば、この目を持って生まれた事だと彼は心で呟く。




***



山岸徹は大きな段ボールを抱えるようにして本堂へと運んでいた。段ボールの中身は参拝者用に販売する和蝋燭や線香が入っていた。重量もあり本堂へ入るための五段ばかりの階段を上るのに苦労した。


蹌踉よろめきながらも彼は本堂の中に運び入れると、札や和蝋燭の販売や厄払いの申請を行う受付所に持って行く。


倶梨伽羅不動明王寺で最も重要である本堂はとても広い。本堂の入り口には賽銭箱が置かれ、その上には神社の拝殿にある鈴と同じ役目の銅鑼があった。中に入ると石畳の空間があり、特大の鉄製の香炉が据えられて参拝者は御利益を得ようと煙を浴びる。入り口左手には蝋燭を灯し祈願する不動明王の眷属けんぞくである三六童子が並べられていた。本堂の奥は段になっており畳の空間となる。そこは厄払いや日々の勤めを行う場所であり金色に輝く仏具の中央にはありとあらゆる厄や邪気を憤怒の顔で睨み付け、功徳を得ようと求める者に救いの手と邪気を絶つ利剣である倶梨伽羅剣くりからけんを携えた不動明王の像が鎮座していた。


本堂内の入り口右手にある受付所には小笠原と海野、そして智子が雑巾で拭き掃除をしていた。


「住職に言われた段ボールはこれで最後です」山岸は智子に報告する。


「山岸さん、それも先程の箱と同じようにそこに置いて下さい」和服に割烹着を着た智子は掃除をする手を休め受付所の横に置かれた箱を指さす。「本当に有り難う御座いますね」


今年があと十一時間で終わりを告げようとしていた。昨晩の夜に今年最後のアルバイトを終えた山岸はその足で倶梨伽羅不動明王寺へとやって来た。檜の湯船は仕事納めにとっては最高の一時だった。だが、一夜が明けると重労働が待っていた。


智子は山岸が運んだ段ボールの一つを開封する。そして、蝋燭などを取り出すと受付台に置かれた大きさや種類毎に区別された年代を感じる木枠に並べた。


「小笠原さん、海野さん。明日はこちらで参拝者の方々に童子様に捧げる蝋燭や焼香用の線香の販売を御願いしますね」智子は線香と小さい和蝋燭を手に取る。「こちらは両方とも五十円になります。少し大きめの和蝋燭は百円、土産用の絵蝋燭は一本が三千円ですので」


小笠原は絵蝋燭を手に取る。ずっしりと重みを感じ、朱に塗られた胴体に正月らしい松と鶴が見事に描かれていた。


「何か値段も高いし、火を付けるのが勿体ないな」海野は小笠原が持った絵蝋燭を見る。


「これは火を付けると言うよりも観賞用ですよ。毎年手作りで絵柄が異なり、意外に買われる方も多いのですが、数が少ないので無くなりましたらお求めの参拝者の方にはお詫びして下さい」


山岸は段ボールの中から蝋燭や線香よりも沢山入っている木製の板を見つけた。長さは十センチ程。何も彫られてなく描かれてもいない木の板だった。


「この板は何ですか?」


「これは護摩用の木札です」智子は丁寧に教える。「本来厄払いは節分に行われますが、今年の節分は平日、その為時間のある正月に厄払いを済ませてしまおうと考える方も大勢居ると思われます。中には他の寺社へ初詣に行く為や、仕事のために時間が無い人も居ります。その様な方々にはこちらの木札に名前を書いて貰い護摩を以て厄落としを行います。

また正式な厄払いですと一万近くと値段も高い。それと違って木札での厄払いは五百円とお値段が手頃です。またお願い事を祈願する為にも使われますので、一番売れるのはこちらの木札でしょう。小笠原さんと海野さんは木札の受付も御願いしますが、正式な厄払いは種類により値段も変わりますので参拝者の方に尋ねられたら私や娘、手の空いている修行僧の方に言って下さい」


小笠原と海野は分かりましたと頭を下げた。


「結構、大変そうだな」海野はぽつりと口に漏らす。


「あまり心配せずとも大丈夫ですよ。忙しいと御近所の方々が何も言わなくても手伝って下さいます」


「近所の方が手伝い?」


「ええ、この寺は江戸時代よりある由緒ある寺。戦時中にも不動明王の御利益の御陰かこの一帯は戦火で燃える事は無かったと聞いております。その為今でも御近所の方は御不動さんと親しみを持って信仰して戴いております。ですので、年配の方は進んで手伝って下さるのですよ。それに近所の方と言っても香雲の御友人や碁打ち仲間が大半ですので遠慮せずにお言葉に甘えれば宜しいですので」智子は受付所にある古びた振り子時計を見る。「さて少し遅れて申し訳ありませんがお昼に致しましょうか」


***


倶梨伽羅不動明王寺の数少ない修行僧であるふっくらとした顔つきの下北宗寛しもきたそうかんは法衣を身に纏い山頂に居た。心を落ち着かせるためか何度も深呼吸する。腰には太いロッククライミング用の命綱が付いていた。命綱の片方は太い広葉樹にしっかりと括られていた。


「下北、早く覚悟を決めてくれよ」修行僧の長谷川成斉はせがわせいさいは下北の様子に痺れを切らした。「命綱だってしっかり付いているんだ。切れる事も落ちる事も無い。安心しろよ」


「解っている。解っているんだが……」寒い時期にも関わらず下北の額から汗が一筋流れる。恐怖から来る脂汗だった。「僕は高所恐怖症なんだ。幾ら命綱が付いているからって高所が平気になれるわけじゃない。怖いものは怖いんだ」


下北が遣ろうとしているのは倶梨伽羅不動明王寺の真の御本尊が彫られている本堂の背後にそびえ立つ崖の中腹にある大岩まで降りて供物を捧げる事だった。この「供物奉納」が寺の今年最後の大きな勤めだった。


「いい加減に供物奉納をせんか!! 迷っている間に今年が終わってしまうわ!!」崖の下から罵声に似た香雲の声が聞こえた。「仏に仕え、仏になろうと日々修行する者が仏に経を捧げる事も出来ないとは何事じゃ!!」


長谷川は早く供物を捧げないと香雲にどんな苦行をさせられるか分からないぞと小声で幽かに震える下北に呟く。下北は頭の中で香雲の苦行とは名ばかりの組み手を思い出す。組み手の本来の目的は憑き物により自制が聞かず暴れる相手を押さえる為の技術だった。人間は本来通常の八割程度しか力を発揮する事はない。十割の力を発揮しては肉体を傷つけてしまう為、本能的に力を制御している。だが、憑き物は宿主の制御を無視し異常な限界を越える力を使用する。その為、憑かれている宿主本人の体を守るためにすぐに押さえる必要があった。しかし、憑き物は「火事場の莫迦力」を使用するが、こちらはただの制御された八割程度の力。そこで香雲は相手の力を流し、逆に利用する合気道に似た体術を修行僧に教えていた。力を流し、利用するという言葉では簡単だが実際には難しい体術を修行僧の体自身に叩き込む。修行僧を何度も投げ飛ばし、何度も拘束した。修行僧はその体術の教義をあまりにも痛く辛いので苦行と影で愚痴っていた。


「苦行も嫌だ」下北は拳を握る。「だが、それと同じくらい高所が嫌なんだよ。僕の代わりに供物奉納を遣ってくれないか?」


「俺は去年遣ったんだ。それにこれは修行の一環だって香雲様も言っていただろ。供物奉納がまともに出来なかったら一層修行が厳しくなる。頼むから覚悟を決めてくれよ」


二人が話している間にも香雲の声が静かな朝日山に響く。声からも苛立ちが感じられた。


「供物奉納に手こずっているようですね。下北さん、大丈夫ですか?」山の木々から黒い法衣を身に纏った陰宮が煙草を吸いながら現れた。手には神紙垂かみしでが付いた古びた縄と鎖で繋がれた鉄製の香炉を吊り下げていた。「全く御前にも困った者ですね。他人がどうこう言おうと最終的には自分自身との対峙。御前の言葉に心を惑わせず、自分のペースで行けば良いんですよ」


「陰宮様、如何してここに」長谷川は尋ねた。「香雲様から何か言われて来たのですか?」


「いえいえ、私自身の私情です。その最中に御前の怒号が聞こえたので寺に帰る前にこちらに寄ったまでの事」


陰宮は下北に近寄る。手に持った吊り香炉からは薄く細い糸のように煙が上っていた。幽かに香木の香りが周辺に広がる。


「怖いという感情。それは大切であり、恥じる事ではありません。逆に誇るべきです。世の中には度胸試しと無謀な事を行う方々が居ますが、それこそ恥じるべき行為。何故怖いという感情を押し殺し逆らおうとするのか。怖い事を怖いと感じ、楽しい事を楽しいと感じる。それこそが自分自身に素直になる事であり、自分自身との対峙ですよ」


「それは分かっているのですが、高所はどうしても怖くて」下北は暗い表情を陰宮に見せた。「崖の下を覗き込むだけで眩暈がしてしまい、大岩で座禅を組み読経するどころか、大岩まで降りる事など出来ません」


陰宮は崖の縁まで行き、下を見下ろす。崖の高さは三十メートルはあるだろうか。見下ろすと中腹に埋まっている大岩が見えた。その下には籠部屋の屋根も窺える。


「俺は去年必死の思いで遣ったんだ。俺に出来てお前に出来ない事はないだろう」長谷川は下北のとばっちりにより香雲の苦行をさせられる事を恐れているのか急かす。


「長谷川さん。貴方は貴方ですが、下北さんではない。下北さんがどれ程怖いかは分からない。他者を自分と同じように考えてはいけませんよ」陰宮は口元に手を当てる。「しかし、このままでは御前に痛い目を見るのもまた事実。困ったな」


下北は何度も陰宮に「すいません」と謝った。長谷川の苛立ちはしているものの陰宮の言った言葉の為か黙って見ているだけだった。


「仕方がない……私が供物奉納を行うか」


「えっ、良いのですか!!」


「私も高所は怖いのですが」陰宮が苦笑いする。「下北さんの苦しんでいる姿を見ていたら私でお力になればと思いましたから頑張りましょう。御前に話を付けてきます」


陰宮はそう話すと背中を丸めて下北と同じような暗い表情で山を下り始めた。


***


「おう、坊。式神達の依り代の注連縄は取り替えたのか」山から下りてきた陰宮に香雲は話しかけた。


香雲は両手を組んで、眉をひそめて崖の上を見る。崖の上からは法衣を来た下北が震えた声を出しながら命綱を頼りに降り始めていた。


「ええ、これで私の仕事はあと一つ残るだけです」


「焚き上げ場の具合は如何じゃ?」


「垂れ幕も無事に張れました。明日の護摩行の準備も滞りなく」


「すまんのう。茜の晴れ舞台、あの子が自分からしたいと言ってきた時は嬉しかったが、儂も多忙の身。茜の教育から護摩行の準備を全て任せて申し訳ない」香雲は陰宮を一切見なかった。


「いえ、お気にすることなく。毎年私が厄払いで忙しい御前達に変わって護摩行をしていたので苦にも感じません。令嬢も自身から言っただけあって経典や印を教えるのも意欲的と感じられ教え甲斐があったというものです」


陰宮も香雲の見つめる先を見る。少しづつながらも下北は確実に崖を降りていた。


「下北さんは見た目通り心が優しいですね。私が代わりにすると言ったら決心したようですね。無事に終わるように不動明王の加護があらん事を祈りますか」陰宮は不敵に白い煙を吐く。「偶にあるとはいえ、嘘を付き人の良心につけ込むとは嫌ですね」


「何を言っているのだ、坊」香雲もまた不敵に横目で陰宮を見た。「坊は儂に下北の代わりをすると言いに来た。だがその前に下北が降りた事。誰も嘘は付いておらぬ」


「……嘘も方便とはまさにこの事ですね」


「飴と鞭と言って欲しいのう。だが、この供物奉納はただの定例行事ではあらず。だからこそ修行僧自身が必ず遣らねばならん」香雲は顎を触りながら呟く。「彼奴等はいつか修行を終えたらこの寺を出て行く。だが、仏に仕える者の修行の終わりはない。己との対峙、そして己の恐怖の理解。それを忘れないためにも供物奉納は大切。まあ、簡単な恐怖である高所、つまり死の恐怖で彼奴等には分かって欲しいんだがな」


「それにしても毎年恒例になっていますね。我々の策と気付かないのが不思議だ」


「儂が罵声を投げかけ、彼奴等が嫌がる苦行なるもので脅迫し、そこに甘い言葉で優しく接する坊が現れる。坊が来てから供物奉納の儀も大変に楽になった」


二人が話をしていると何時の間にか辿々しく、半泣き混じりの読経が響く。


「全く、大の大人が」香雲は溜息を吐き、優しく供物奉納をしている下北を見る。「坊よりも七歳ばかし年上というのに、子供のようじゃ」


供物奉納の儀の最中に小笠原がお昼御飯が出来ましたよ、と呼びに来た。香雲は「儂は見届けなければいかんから」と陰宮に話す。陰宮はでは失礼しますと一言呟くとその場を去り小笠原と共に母屋へと向かう。


「全く、下手な読経じゃな。不動明王もご立腹じゃ」香雲は微笑む。「だが、よくやったのう」


***


夕方、山岸と小笠原、海野は居間で寛いでいた。三人には疲れが出ていた。


「腹減った……」海野はお腹を押さえながら呟く。「渚、食べ物持ってない?」


「道琉。もうすぐ御飯だよ。先輩がお風呂から上がればすぐに晩御飯を作るって言っていたから我慢しなよ」


「そうだ!!大晦日にはチビのイタリア料理だった!!」海野は寺のアルバイトを引き受けた時の条件を思い出した。「何が出来るのかな? 何を作るのかな?」


海野は俯せに寝転び足をバタバタしながらリズム良く楽しそうに呟く。


「小笠原先輩、何を読んでいるんですか?」分厚い本を読んでいた小笠原に山岸は尋ねた。


「これは建築関係の本だよ」小笠原は山岸に表紙を見せた。表紙にはマッキントッシュと書かれていた。


「マッキントッシュ?」工学部の山岸にはコンピューターのマッキントッシュを頭に浮かべる。「誰ですか、それ」


「アールヌヴォー時代の建築家、チャールズ・レニー・マッキントッシュ。有名なのがグラスゴー美術学校やヒルハウスと言った建築。でもこの本は彼の建築ではなく彼の作品である椅子が載っているの」小笠原は本を捲る。「ほら、私は来年は三回生でしょ。一月に設計を専門にするか、デザインを専門にするかでコース分けがあるの。そのコース分けに如何してそのコースに行きたいのかレポートで纏めないといけないんだ」


「コース分けのレポートですか。大変ですね」山岸は本を覗き込んだ。「でも如何してイスの本を?」


「私は建築よりも家具のデザインがしたいの」小笠原はマッキントッシュの作品を一つ指さす。「この椅子、どのように感じる?」


白黒の写真で色は分からないが、山岸には奇妙に感じた。椅子の脚が短く、座面の面積も小さい。そして背もたれが高い。明らかに普段使用するには不便だと感じるイスだった。


「これはね、普段座る為の椅子ではないの。靴を履く時に座る椅子。だから床に置かれた靴を取りやすく、履きやすい様に脚が短くて座面が小さいの。背もたれは一種のデザインで高いけど、彼はコートなどの長めの物が掛けられるようにと考えたのかもしれない」小笠原は穏やかに語る。「私は大きな建築物を考えるよりも、その場その場で何気なく使う家具を使う人の事を考えながらデザインしたいの」


「何だか似ていますね」


「えっ、何が?」


「会長に似ているなって」山岸は腕を組む「ほら、会長だって誰かの為に行動してませんか? 霧隹島の事件も俺達が興味本位で取材したいって我が儘を言って、申請の許可を認めなくても行くと考えたから自分は万が一に守ればいいって以前話していたでしょ。鼬の時だってうーたんとたくや君の為だった。会長も人の事を考えて行動しているし、小笠原先輩も人の事を考えて作りたい。ほら似てる」


そう話していると小笠原の顔が薄く赤くなる。


「カメラで取りたいな」海野が小笠原を見つめた。「渚のその赤くなった姿を凄く写真で残したいけど良い?」


小笠原は止めてよと良いながら手で顔を隠した。山岸はその姿を見て少し可愛いなと感じた。


「ところで山岸君」海野は猫を撫でるような声で尋ねた。「霧隹島の取材って何の事かな? 怖い目に遭ったの? チビが話に出てきたって事は幽霊関係だよね……少しお姉さんに話してくれないかな。俺達が興味本位でって言ったけど渚を巻き込んでいないよね?」


山岸の表情が固まる。以前小笠原を泣かしたという理由だけで陰宮をぶん殴ろうと倶梨伽羅不動明王寺に一騎当千の猛将の如く乗り込んできた海野。目の前にいる小柄で髪を赤く染めた彼女の右手が強く握られているのを見ると山岸は冷や汗を流した。


***


陰宮が沐浴から上がると料理を作った。茜と小笠原も彼の手伝いをした。作られた料理はカサゴのアクアパッツァ、ミラノ風カツレツ、若鶏のロースト、カポナータ、バーニャカウダ、茄子とボロネーゼのリガトーニ、フリッタータといった陰宮が得意とする料理が次々と出来上がった。色とりどりのメニューがここがお寺だという事を忘れさせた。


智子も和食を作っていた。茸がふんだんに入ったかやく御飯、菠薐草ほうれんそうの胡麻和え、土鍋に塩ひとつまみと昆布だけの味付けの湯豆腐、高野豆腐の煮物、煮豆と言った肉や魚を一切含んでいないお寺らしい料理だった。


小笠原は陰宮の手伝っている際に奇妙な違和感を感じていた。今日は陰宮は一切味見をしなかった。茜や小笠原に味見をさせるも自分自身では一切味見していなかったのだ。


居間へと運ばれた料理を修行僧も含めた全員で囲む。この日は珍しく香雲も陰宮も酒を一滴も口にはしなかった。


家族の様に団欒と食事をする。普段交流が少ない修行僧と山岸達は会話した。


何時の間にか紅白歌合戦が終わりを告げようとした。それと同時に陰宮は静かに席を離れる。


「先輩、後片付けですか?」小笠原も席を立つ。「私も手伝います」


「待て」立った小笠原の方を香雲は掴む。「行ってはならん。坊は後片付けをするために席を立ったわけではないから嬢ちゃんはゆっくりしなさい」


小笠原は香雲の目を見ると、言うとおりにするしかなかった。声こそは優しそうに話す香雲だったが、目から威圧感を感じた。


***


陰宮は一人伽藍内を歩く。初詣の一番乗りを考えているのか山門の外から人の声が聞こえた。ポケットに入れておいた五つの鍵を取り出した。


倶梨伽羅不動明王寺の伽藍の外れには納屋があった。彼が目指しているのはその納屋だった。入り口に掛けられた五つの南京錠を暗闇だというのに手慣れた手つきで開ける。


ひんやりとした空気。オイルライターで火を付けると朧気に内部が照らされた。オイルライターの火で燭台に火を灯す。そして事前に用意していた葛籠つづらを開けた。中には上等な布で作られた漆黒の狩衣があった。


「童、あまりにも遅くて逃げたと思ったぞ」何処からともなく声が響く。「漸く決心がついたか」


「黙れ、過去の遺物である天見の鬼共」歯を剥き出しにして陰宮の式神である珀天翔は吠える。


陰宮は「珀天翔」の一声で制止する。着ている服を脱ぎ、赤い着物に白い袴を着る。


「私は別に逃げておりません。そして着る事を躊躇ったわけではありません」陰宮は狩衣を広げる。「この左目を持つ因果は分かりませんが、この目を持って生まれ、先生に出逢い術を学んだ事は事実。ならば甘んじて狩衣を身に纏いましょう」


陰宮は狩衣に袖を通す。かつて師である辰巳芳明が着用していた狩衣。


「しかし、この狩衣を纏う事により悲しませる者がいると思うと心苦しい」陰宮は烏帽子を被る。


納屋の奥には天蓋で覆われていた。陰宮は丁寧に天蓋を外すと、祭壇が現れた。中央には黒い漆塗りの小さな箱が置かれ、両脇に八稜鏡はちりょうきょう等が置かれている。


「さて、二十九代巽流継承者……星濫せいらん……」天見一族に仕える式神である護鬼達が祭壇の前に列をなした。「間も無くぞ」


「珀天翔、哭天翔、誓約を以て命じる。納屋の前に立ち如何なる人も獣もここに近づけさせるな」陰宮もまた祭壇の前に座す。


珀天翔と哭天翔は「御意」と一声だけで答える。


しばしの無音が続くと、参拝者が鳴らした銅鑼が伽藍に響く。


「御尊顔拝し奉る」陰宮は祭壇に頭を下げた。


陰宮の着た狩衣の背中に施された曼珠沙華と蛇の紋が燭台の朧気なる灯りで赤く照らされた。




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