晨星

「母ちゃん!」


東の空にようやく光がさした頃、大通りは一面に白い雪に覆い尽くされていた。


「どこ行ったんだよう!」


薄暗く人影一つ見当たらない通りに、幼い声が響く。


「お花売りに行く時間だよう!」


本当は、いつもなら、化粧を落とした母親がお湯を沸かして、買ってきた朝食の粽子の包みをテーブルで開いているぐらいの時刻だと鴉児は知っている。


だが、そんなことはどうでも良かった。


「早くしないと間に合わないよう!」


まだ爪先が湿ったままのボロ靴で雪の上を急いて駆け出すと、少年は凍り付いた路面につるりと転んだ。


「もう朝なんだから……」


それに、おれは朝までいい子で寝てたんだから。


柔らかな雪は、まるで綿の様に転んだ痛みを和らげたが、握り締めた拳の中で、瞬く間に冷たい水に溶けて零れ落ちる。


「あっ!」


転んだまま空を見上げた少年は思わず息を飲んだ。


藍色が薄まって水色に転じていく西の空を、真っ白な星が尾を引きながら、緩やかに流れ落ちていく。


流れ星だ。

やっと、もう一度出て来てくれた。


鴉児は雪の上に膝を着くと、赤くなった小さな手を合わせて震えながら祈った。


「お星様」


少年の大きな黒い目に光るものが点じて揺れた。


「どうか、母ちゃんに会わせて下さい」


瞬き一つしない両目から、涙が溢れて零れ落ちた。


「ご馳走も何もいらないから、ずっとボロを着たチビのままでもかまわないから、今すぐ、おれを母ちゃんに会わせて下さい!」


星は、光り輝きながら、空と地上のあわいに紛れて消えた。


少年は立ち上がると、膝にこびり付いた雪を払うのも忘れてまた歩き出した。


足は自然といつも花売りへ行く公園に向かう。


きっと、母ちゃんは先に花売りに行ったんだ。


頭の中で、そう呟く声がした。


公園に近づくにつれて、踏みしめる雪は次第に柔らかさを失い、足の下で軋んだ音を立てる。


だが、鴉児にはむしろ快かった。


おれ以外の足音が聞こえたら、それが母ちゃんだ。


公園に辿り着くと、一晩空けてすっかり様変わりしていた。


昨日までは葉の殺げた枯れ木そのものだった植木が、一斉に雪の花を枝に咲かせている。


人にたとえれば、まるで乞食ばあさんから着飾った若い綺麗な女に化けたみたいな変身振りだ。


これなら寒くても公園に来る人がいっぱいいるぞ。


今日なら、花がいっぱい売れる!


少年は思わず雪の上で飛び跳ねた。


すると、バサリと背後で何かが落ちる音がして、鋭い叫びが耳に飛び込んできた。


鴉児が振り向くと、背後の木の根元に雪の小山が出来ていて、水色の影が白い雪道の上を流れて去っていった。


どうやら、自分が飛び跳ねた拍子に、木の枝の雪が落ちて、木の上に止まっていた烏鴉(カラス)が逃げたらしい。


「びっくりした」


烏鴉の鳴き声は時々人の悲鳴みたく聞こえるのだ。


しきりに頭の上を飛んでいく烏鴉の鳴き声に胸をざわつかせながら、少年はまた舗道を歩き出した。


雪を積もらせた木々の間は、普段の枯れ木の時より冷たい風を通さない代わりに暗い。


「雪を踏みしめる」というより、「一歩前に踏み出すたびに、一瞬の間を置いて足が雪に沈む」状況になってきた。


靴の中に入り込む雪が段々、冷え切った小石に思えてくる。


母ちゃんはやっぱりここじゃなくて、入れ違いで大通りの方に売りに行ったのかもしれない。


そう思った瞬間、行く手に何かが半ば雪に埋もれて落ちているのが少年の目に入った。


「あ!」


雪に足を取られながらもがく体で進んでいって、小さな手で雪を掻き分ける。


「これ……」


白い雪に埋もれていたのは、果たして母親が夜に履く踵の高い靴だった。


拾い上げて、まるでそれ自体が靴の一部になった様に固くこびり付いた雪を削ぎ落とす。


露わになった細い踵の部分は、靴本体から半ば取れかかっていて、指先でちょっと突いただけでもグラグラ揺れた。


「こっちだ!」


鴉児は赤くなった手に片方だけの靴を抱くと、夢中で駆け出した。


母ちゃんは間違いなくこの先にいる!


「母ちゃーん!」


幼い声が響き渡ると、雪道にたむろしていた黒い鳥の群れが一斉に飛び立った。(了)

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賊星(ナガレボシ) 吾妻栄子 @gaoqiao412

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