第7話 甘露煮と南蛮

 桂が織田方沢村吉重さわむらよししげの鉄砲隊へ潜り込んでから、もうすぐふた月が経とうとしていた。

 今では初も、少しずつ落ち着きを取り戻している。


 相変わらず与六と冬馬、吉之助の三人は織田の情報を得るために市中を徘徊はいかいしては、時より流言るげんや偽の張り紙などをして廻っている。

 特に吉之助は、この頃剃髪ていはつして坊主のていをなしていたので、片耳を失った法師が語る織田軍に対する恨みの唄は、京の街中でもちょっとした話題になっていた。

 当然、その分危険も付きまとうわけだが、不思議と京の町民達は、この異色法師をかくまったりしては、わずかな食べ物と路銀ろぎんまで与えてくれた。


 ある日のこと、若狭屋の部屋ではいつものように桂の事に話がおよんだ。

 「もう二月近くになるが、桂は本当に大丈夫かのう?」

 何時も切り出すのは、決まって与六のこの言葉である。彼は脇に立て掛けた槍を眼の前にかざしては、必ず彼の安否を口にする。

 今では与六の槍の柄も新しいものになっていた。長さこそ二間と短くしたもののその材質はかしを用いたため硬く、打刀だとうとしても使える。

 また、刃渡りは以前と変わらず十二寸だが、穂先の近くには蛭巻ひるまきが施されている。さらに、青銅の石突きの周りにも鉛のへんが巻かれており、以前とは比べものにならない程の威力を持っていた。


 与六のその言葉には、これまた必ずといって良いほど冬馬が言葉を繋ぐ。

 「心配無用じゃ」

 当然冬馬にも確信があるわけではない。ただ、里の前では皆が明るく振る舞いたいと無意識のうちに思っていたからである。


 「里さん、桂様は何がお好きなのですか?」

 初は里の右手を掴んで尋ねた。

 この二月もの間に、里はすっかり初と心を許しあえるようになり、今では本当の姉のように慕っている。

 里は努めて気丈に答える。

 「分かりませぬ」

 これには初の方がキョトンとした。

 「私はまだ桂様のことを何も分かってはおりませぬ」

 そう言う里の眼からは、一筋の涙がこぼれ落ちる。

 初はそれを小袖で拭うと、里の肩をそっと抱いた。


 「では里さん、二人で魚の甘露煮かんろになど作りましょう。京では良い小魚がたくさん手に入りましょう。それに、甘露煮なら日持ちも致しましょうし」

 初はまたいつものように小首を傾げると、冬馬と与六の方に微笑みかける。

 「皆様にも作って差し上げたいのですが・・・」

 この一言で、全ては足りるのである。冬馬と与六は、早速とうで編んだ駕籠かごと酒や醤油用のびんを小脇に抱えては、朝の町へと出掛けていった。


 「本当に皆さんは桂様と里さんのことが好きなのですね」

 覗き込むように初が見ると、里はまたいつものような笑顔を見せた。

 普段はほとんど口を開かない吉之助も、この時ばかりはポツリと呟くのである。

 「必ず皆で丹後に、お里様の家に帰ると決めておるのです」

 初は、あえてその理由を聞こうとはしなかった。それでも、二人の表情から十分にその理由を伺い知ることができたようにも思えた。


 半時もすると、息を切らして与六らが戻って来た。後ろには珍しく若狭屋の主人角衛門も並んでいる。

 与六が差し出す駕籠には、たくさんの小魚とうなぎが二匹。冬馬が背負った行李からは大根や牛蒡ごぼうなどが出てきた。

 彼はそれとは別に、ふところから紙の包みを二つ取り出すと、里と初の前にかざした。

 「開けてみなされ」

 二人は手渡された包みを静かに開ける。中には柘植つげくしがひとつ。


 「冬馬様」

 「残念ながら、今のわしたちは無一文むいちもんじゃ。これもみな角衛門殿の心遣いじゃ」

 二人の言葉に冬馬はそう答えると、後ろに控えている角衛門に深々と頭を下げる。

 「お二人が甘露煮をお作りになられると聞きまして、ひとつ私にも味見をさせて頂けないかと思いましてな」

 角衛門はいつもとは違う、優しい老人の眼を里と初に送った。

 「こりゃあ、うんと美味い甘露煮をこさえんといかんな」

 与六がいつものように、ひとつおどけてみせる。

 「では亀井様、まずはこの大根から洗って下さいまし」

 初は笑いながら、与六の掌に太く立派な大根を乗せた。それに習って里も、冬馬と吉之助にそれぞれ牛蒡と川魚をそっと手渡した。


 日も幾分西に傾きかけ、甘露煮と野菜汁の良い香りが部屋中に立ち込めて来たときのことである。この部屋へと続くからくりの壁が勢い良く開けられた。

 見るとそこには角衛門が血相けっそうを変え、口をパクパクしながら立っている。

 「と、冬馬様・・・」

 皆が一応に壁の方を振り返ると、角衛門がさらに手招きをする。そして、一呼吸間をおいて、壁の向こうから桂がその顔を覗かせた。


 「桂―っ」

 与六が階段を駆け上がる。

 「桂―っ」

 野菜汁の鍋を持ったまま、冬馬も声を張り上げる。

 「桂様・・・」

 里はその場にへたり込み、彼を見つめながらぽろぽろと大粒の涙を流しはじめた。

 桂は鉄砲を角衛門に預けると、静かに階段を下り始めた。途中、与六が肩を抱き、吉之助は深々と頭を下げる。


 そう言えば、少し見ないうちに桂の風貌ふうぼうは以前のそれよりも精悍せいかんさを増しているように思えた。

 顔色も浅黒くなり、頬の肉も少し落ちたようである。そんな中でも爛々とした眼の輝きだけは、一際ひときわ鋭さを増したように感じられた。

 桂は懐から紙を取り出すと、それを冬馬に差し出す。

 彼はその場に胡座あぐらをかきながら、静かに眼を閉じ語り始めた。


 「織田の鉄砲隊は一組三十名程で、その組が六組まとまり一隊となっておる。その指揮を執るのが鉄砲隊長じゃ。沢村吉重様もそのひとりじゃが、これに変わる隊長がもうひとりおる。沢村隊では古関十四郎こせきじゅうしろうという者が副隊長を務めておった。隊は隊長の号令一下のもと、陣取りからの配置、弾込めから射撃まで、寸分違すんぶんたがわぬように統率されておる」

 うつむく桂の額から吹き出た汗が、褐色の頬を伝わりあごの先より垂れている。

 皆は片言の音も立てずに聞いている。

 「冬馬、すまんがこれからのことを書き留めておいてくれんか」

 彼の言葉に、紙を握りしめていた冬馬は、慌てて筆を執った。


 「足軽が持つ織田の鉄砲には二種類のものがある。ひとつは堺筒さかいづつと呼ばれるもので、長さは四尺二寸、筒は三尺。銃口は三匁弾さんもんめだまと比較的小さいものじゃ。射程は三十間ほどじゃが、本当に使えるのは十五間以内じゃ。もっぱら威嚇いかくに使うことが多いのじゃが、数が揃えば騎馬隊といえども至近距離では勝ち目はない。この銃を、織田は畿内だけでも五百挺は持っておろう」

 冬馬は桂の言葉を一言ずつ認めながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 桂はさらに続ける。

 「いま一方は国友筒くにともづつと呼ばれるもので、長さは堺筒よりも二寸長く四尺四寸。筒は三尺二寸。銃口は六匁弾が入れられる程あるので、その重さも一貫五分いっかんごぶとかなり重いものじゃ。これを隊の中でも選ばれたものが扱うという代物しろものじゃ。当然射程も長く、一町いっちょうほど先まで届く。これを並べられては、槍合わせなどひとたまりもない。相手の顔を見る前に国友筒の餌食えじきになってしまうじゃろう。今のところ細川隊には二十挺程だが、じきに増えるはずじゃ」

 語り終わると、桂はまた静かに眼を開いた。


 「これが、わしが見て来た織田の鉄砲隊の姿じゃ」

 皆は動くことを忘れてしまったかのように、瞬きひとつせずに桂を見つめている。

 張りつめた緊張感の中、火にかけた鍋の湯が沸く音だけが単調に聞こえる。

 「それ程までに強いのか、織田は?」

 与六が尋ねる。

 「ああ、強い。それにあの織田信長という男、これまでの武将とはまったくもって違うのじゃ」

 桂は思い出すように拳を握った。

 「どのように違うのじゃ?」

 冬馬がすかさず聞き返したが、桂はそれには答えず、もう一度思い出すかのように遠い眼差しをする。

 それでも、そんな彼の表情が急に崩れた。


 「それにしても良い香りじゃの。何の汁を作っておったのじゃ?」

 桂は鉄砲足軽が身に付ける緋色ひいろの薄い胴回りをぽんと叩くと、真っ白な歯の笑顔を里に送った。

 里は椀いっぱいに野菜汁をよそると、それを彼に手渡す。

 桂の手が里の指先に触れた途端、里の眼からはまた大粒の涙がぽろぽろとせきを切ったようにこぼれ落ちた。

 「どうじゃ桂、お里とお初さんがお前のためにこさえたんじゃぞ。まあ、買い出しと下ごしらえをしたのは、わしと冬馬じゃけどな」

 すでに与六も椀を片手に、口いっぱいに大根を頬張ほおばっている。


 「お初さん?」

 桂は初めて耳にする言葉に辺りを見回す。

 里の後ろから顔を覗かせた初は、彼を見るなり深々と一礼をする。彼女はその頭を上げることなく挨拶あいさつの言葉にした。

 「初と申します。二月ほど前、こちらの日下部様と亀井様に危ういところを助けていただいた者にございます」

 「危ういところ?」

 桂の問いかけには冬馬が答える。

 「そうなのじゃ。二月ほど前、ちょうどおぬしが織田の鉄砲隊へと潜入した頃の事じゃ。与六と市中を散策していると、織田の兵に追われているお初さんと出くわしたのじゃ」


 「与六、織田の兵は何人じゃった?」

 桂ははしわんの上に置いた。

 「さあ、わしらが覗いたときには、すでに織田の兵はひとりもおらなんだ」

 与六の言葉に冬馬が繋ぐ。

 「確かに兵はいなかったが、材木問屋の大戸屋おおとやが織田方によって取りつぶされたというのは確かじゃ。お初さんはその大戸屋で奉公していたのじゃ」


 桂も織田の陣中で大戸屋の一件のことは聞いていた。

 彼は椀を置くと、静かに初に語りかける。

 「お初とやら、その時の織田の兵はいかほどであったか。それを指揮していた大将はどのような男じゃった?」

 「桂、お初さんにそのようなことが分かるわけあるまい。お初さんは命かながら逃げてきたのじゃぞ」

 冬馬が割って入る。

 「では何故、織田の兵はそこにいなかったのじゃ。冬馬、織田の兵は他の者とは一重ひとえにも二重にも違う事はおぬしも知っておろう。もし織田方がわしらの動静を探るために送りし間者かんじゃだとすれば何とする?」


 「お初様はけっしてそのような方ではございませぬ」

 今度は里が桂の前に歩み出ると、初の横でともに頭を下げた。

 彼女にしてみれば、丹後を出て以来、桂の安否に毎日心が裂けそうになっていた中、初とともに過ごした日々は彼女の支えになっていたのであろう。


 「お里の時もそうじゃったが、わしらにはどうしてもお初さんをその場に置いてくることができなかったのじゃ」

 与六の言葉に、桂はハッとして里を見つめた。彼にもあの時の記憶が、鮮明に脳裏のうりに蘇ってきたからである。

 暫しの沈黙が空気を包む。


 「どうであろう桂、このままお初さんをわしらと供に・・・」

 冬馬が言葉を言い終わらぬうちに、初が言葉を挟んだ。

 「私の生まれは、南近江おうみは甲賀郡でございます。父は六角義賢ろっかくよしかた様が家臣三雲城主、三雲成持みくもしげもち殿にお仕えしておりました。ちょうど十年ほど前のことでございます。美濃を治めた尾張の織田信長は足利義昭あしかがよしあき公をたまわり、六角の地に進入してきたのです。この戦では三雲様を始め、多くの方々が城を追われることとなりました。私の父もこの最中、箕作城みつくりじょうにて討ち死にいたしました。それからというもの、母は私を連れこの京へと逃れて来たのでございます」


 「それで、大戸屋に奉公していたと申すのか?」

 冬馬が思わず声をあげる。

 彼は初と出会った一件の後、自分なりに事の真相を探り出そうとしていたのである。

 当時大戸屋の主人は猪飼弥平いかいやへいというものであったが、弥平は三代目の主人で、初代松吉まつきちは確か甲賀の出であると聞いていたからだ。京において一代で財を成したという人物でもあった。

 「で、母上はいかかしたのじゃ?」

 「一昨年他界たかいいたしました」

 初の目頭から光るものが落ちる。

 「織田は亡き父母のかたきでございまする」

 顔を上げた初は、あらためて桂の眼を真っ直ぐにと見つめる。

 「いかがであろう、桂」

 「今ではお里の、良き話し相手でもあるしな」

 冬馬に続いて与六も口を添えた。


 「どうであろう結城殿、人ひとりを救うのも、丹後の民百姓を救うのも、手にかかるは同じ重さではござるまいか」

 角衛門は穏やかな顔で語りかける。

 桂は小皿に盛られた小魚の甘露煮をひとつ摘むと、里の方に話しかけるよう静かに口を開いた。

 「これからも、お初さんに色々と料理を教えてもらえると良いのお」

 「結城様・・・」

 里は初の小袖をしがみつくように顔に引き寄せる。

 いつになく吉之助も、崩れるほど満面の笑みを桂へと向けている。

 こんな時は、決まって最後は与六の一言が飛び出すのだ。


 「それにしても、まったくもってうまい甘露煮じゃの」

 その言葉に、桂はもう一口それを頬張った。

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