第二話 濡れ狐と狸

花見鳥が求愛歌の鍛錬を始めた季節。気候は落ち着き払い、漁師の言う春一番とてすでに過去の細波である。白梅や紅梅などは、真珠のごときとっぷり膨らんだ蕾を開花させる時節を窺っている。菜種梅雨には早い季節はずれの長雨は、凪いだ海とて薄暗く。まるで町全体を憂鬱で包み込んでいる様子であった。

 明けても暮れてもしんしんと降り続ける雨に、勝はいい加減飽き飽きしていた。学校にせよ家にせよ、いずれも屋内で有り余った体力を発散させるのは難しく、昨日に至っては、ついに襖に穴を開けてしまった。苦々しくも今では母に取り上げられてしまった軟式ボールを用い、土間で遊びに興じた結果である。

 宵の口を思わせる朝方、流行病の様に憂鬱風を吹かせる勝は、熱湯を浴びせられたチョコレートの様に机に突っ伏し、気になる隣人の机を跨いで分厚くどんよりとした空模様を眺めて居た。

 最近、桜の登校は目に見えて遅い。

 相変わらず学校では勝とも言葉を交わすことのない少女。

 しかし、勝にとっては少女の横顔こそ、この重苦しい風景にあって唯一の花なのであった。

「漢字テストどうだった?」

 柳 幸太は、太陽の様に燦然と笑顔を輝かせて、勝の机の前に立った。

「まあまあ」

 心無く勝は返事をした。

 まだゴミ箱の中に入っているだろうか。昨日返却された漢字テストの答案には、『皆無』である数字が刻まれていた。全身が硬直する中、震える手をそのままに、あの時、救いの手を差し伸べた少女を見やると少女は肩をすくめ、無言の励ましをくれた。我を押し通して得た結末。少女に甘えるべきだったと今更ながら深く後悔した。それは、忸怩【じくじ】として非道に転ばなかった己を賞賛した過去の日を超越する苦い後悔である。

 般若面を被る咲恵の顔が安直に想像できた勝は、人知れず答案を小さく丸めてゴミ箱へ押し込んだ。

「俺さぁ、満点取ったから、グローブ買って貰えるんだぜ!」

「本当かよっ!」

 まさかっ。と勝は立ち上がった。

「本当なんだなぁ。これがぁ。雨が止んだらデパート行くんだ!」

 血色の良い歯茎を見せて、幸太はグローブを装着したように左手に右拳を打ち付けた。

「すげーなぁ、良いなぁ」

 自分のことの様に喜んだ勝は、外の雨を忘れて心を躍らせた。

「早く雨止まねーかなぁ。止んだら、空き地で野球しようぜっ!」

「おうっ!」

 少年の心はまさに生命力に溢れていた。

 手に馴染む白球を追い掛ける情景。それは、大空へ飛翔する海猫のごとく勝の胸を高鳴らせた。閑話に花を咲かせる勝は、少女の着席にすら気がつかない程であった。

 一向に盛り上がりを見せた、単純な男子の絵空事はチャイムと同時に現れた橘教諭の粛正によって呆気なくも四散した。

 真っ赤に焼けた鉄とて、次第に熱を冷まし、無機物の嵯峨かその身を冷やす。興奮冷めやらぬ勝の体温を下げたのは、隣に佇む少女の姿であった。

 気にはなっていたのだ。

 ここ最近、桜は髪の毛から靴下に至るまで、衣服を丸ごと洗濯したかのように濡らして座席に止まっている。

 一層、色濃く艶めかしい濡れ髪は艶容であった。しかし、表情を窺うに色の薄い肌はますます色を失い、唇は薄く紫を宿している。それでも、桜は重そうに張り付くカーディガンを身に着けたままなのだ。

 勝は一瞬にも『濡れ女』を連想してしまった。

 それは着物を着た女性の妖怪であり、梅雨の時季、地面にまで伸びた黒髪を弄びながら海辺に佇み、男であるなら皆一様に誘惑したあげく海へ引きずり込むのである。

 無論、勝は見たことはない。

 

       ○


 その日の放課後。

「実は俺も買って貰うんだぁ。グローブ!」

そう言ったのは、二組の古西 一郎である。

「バットも欲しいよな」

「俺はスパイク!」

 野球談議に花を咲かせながら、勝と幸太を含めた三人は大手を振って廊下を歩いていた。一郎は誕生日と、遅い入学祝いを兼ねてグローブを買って貰えることになったのだった。

「グローブ良いな」 

 勝は手を頭に回して、埃っぽい天井を見上げた。

「でもその替わり、ご馳走なしだぜ」

 溜息混じりに言う一郎。

「飯なんて食えば終わりだろ。ご馳走よりやっぱグローブだって」

 幸太は食い気よりも物欲である。

「そう言えば、勝だけだな、グローブ持ってないの」 

「お前も買って貰えよ」

 現実とはかくも残酷か。浮かれていた勝は冷や水を浴びせられた面持ちであった。幸太と一郎がグローブを手に入れてしまえば、勝だけがグローブを持っていないことになる。己の幸せのごとく喜んだ勝だったが、それは所詮他人の幸せであり、勝自身への恩恵など皆無なのである。

「貸してくれよ」

「新品だぜ?!」

「そうだな、ボロになったら貸してやるよ」

 持つ者と持たざる者。勝だけを置き去りにして二人の意識は知らずの内に通じていた。持たぬ勝は口を閉ざして俯くしかない。

「父ちゃん帰って来たら、買ってもらえって、なっ」

 勝の肩を叩く一郎。

「行こうぜ一郎!」

 傘を手に取った幸太は一郎と共に、肩を組んで水溜まりを踏み越えて行ってしまった。

残された勝は、一本残された骨の折れた傘を見つめ、悔しくて仕方がなかった。

 勝は約束したのである。

『中学に上がったらグローブを買ってやる。男同士の約束だ』父である勝太郎は小学生の勝にそう言った。その父が遠く単身赴任して行ったのは、くしくも勝が中学に上がる春の頃だった。そろそろ一年が経とうとしている。父は約束を必ず守る。まして『男同士の約束』なのだ。勝は信じ続けている。だからこそ、母にグローブを強請った事はなかった。

 しかし、子供心にも悔しい。粗末な試合であろうとも、使用する軟球は打球となれば、

素手で取るには余りある威力が宿る。ゆえに、グローブの持たざる者は打席にしか立つことを許されない。

 それでも仲間がいた。だが、それも年々少なくなり、幸太と一郎がグローブを手に入れてしまえば持たぬ者は勝を残すのみとなってしまうのである。

 数本骨が折れて見るも無惨なこうもり傘、ここ最近毎日のように登下校時に興じた、ちゃんばらが原因であることは言うまでもない。雨粒が足下で跳ねる下駄箱の軒端。そこに立つ勝を後ろからどんどんと生徒達が抜いて行く。

 そして次々に咲く花々は姿良い八角形。 

 勝は、傘を開くのさえ恥ずかしくなってしまった。綺麗に羽ばたくコウモリたち、それに比べ、自分は骨が折れ満足に翼さえも広げられないでいる。勝は、傘を開かずに歩き出した。雨音ほど雨は強くない。しんしんと雪が降るように、注ぐ雨粒は細かかったが、それでも、その滴は冷たかった。

 色を失った様に殺風景に写る景観は勝の心境そのままである。白と黒が混ざった灰色の世界。囁くように耳を掠める雨。無情がそれをさせるのか、勝は何度も溜息をついた。

 国道沿いに突き当たる頃になると鼻面から水が滴っていた。いつの間にか雨を吸い込んだ制服は色を濃くしてずしりと肌に張りついて気持ちが悪い。

 忙しなくトラックが行き交う道路も、今日は静寂そのものである。池のような水溜まりが見る限り永遠と点在している。

 本当に静かであった。

 勝は空を仰いだ。目に入る雨粒が視界を遮りながらも、やはり分厚い雲が天を覆っている。視線をおろして歩き出すと、遥か前方。国道からして海側に膨らんだ一角に建てられた選果場に青が見えた。選果場と言えど、所々錆の浮いたトタン張りの外装に屋根。一部瓦が使用された部分が見受けられるが、全体像は廃材で作られた急ごしらえの小屋である。

 勝はその青に視線を固めて、歩みを続けた。

 やがて、先入観はその実像を露わと映し出し、その青の正体を認識させたのである。

「何してんだ」 

 軒下に俯いて立ち据えて居た『青』は石切坂 桜だった。しっかり水を含んだカーディガンは青と言うよりは藍色である。

「雨宿り……」

 黒髪から滴る粒と、しっかり雨水を吸った制服とカーディガン。様相からすればまるで、海に飛び込んだかの様である。

「傘ないのか?」

「うん」

 前髪のから覗く上目遣いは、目元の影を濃くし、まるで妖怪の様であった。

 思わず息を飲んだ勝だったが……

「これ使えよ」

 見栄えの悪さから本来の役務すら果たせずにる傘を勝は桜に差し出した。

「いらない、筒串君が濡れちゃう。もう少ししたら、止むかもしれないから……」

 桜は日和見てそう言った。

「俺は濡れても気にしねぇよ。それに雨やまないだろ」

 ここ数日、断続的に降り続く雨は一度として雨脚を休めた試しがないのだ。

「今度は返さなくていいからな」

 勝は傘を地面に置いて、少女の元を後にした。

 視線を落とした時、偶然にも泥だらけになった少女の足下が見えた。ここまで駆けて来たのだろう、白い靴下には砂やら木屑やらが付着している。

 悪戯者なら描いたことがあるだろう。 まず、簡単な線書きの傘を書き、その柄を境として両側に男女の名前を書く。

 所謂、相合い傘。

 少女は、勝の後を追うと無言で相傘を促したのである。骨抜きにだらしなく垂れ下がったコウモリの羽は、勝の横顔に接近し、漏斗【じょうご】のように雨粒を一手に引き受けて勝の肩へと注いだ。

「俺はいいって」 

 肩の気持ち悪さを表情に出して、勝が言った。

「それじゃやだ」

 少女は一度として首を縦に振らなかった。

 二人は並んでしばらく歩いた。

 時折、勝の肩に桜の肩が触れる。すると、濡れ雑巾を絞ったようにカーディガンから水が滴った。

  幾度目かの後、勝は染み入る冷たさで、それに気が付いた。

「そのカーディガン脱げよ。俺の肩まで濡れるだろ」

 己の肩に触った勝は、局地的豪雨に見舞われた、ずぶ濡れの上着の有様にうんざりして、隣を歩く少女の横顔にそう言った。

「ごめん、気が付かなかった。本当にごめんなさい。でもこれは脱げない。もう少し我慢してくれないかな……」

「なんでだ」

 理路整然と勝は立ち止まって少女に問うた。雨ざらしとなってしまった勝に、少女は慌てて傘を握る腕を伸ばした。

 もはや、濡れ雑巾を身に纏った少女を正面に、勝は毅然と仁王立ちになり、勝は、憮然【ぶぜん】と頭に血をのぼらせた。翌々考えて見ても、石切坂 桜は身勝手なのである。

 事ある事に事情は疎か、自身の事は何一つとして語ろうとしない。

 

 なぜ、友達がいらないのか。

 なぜ、漢字テストではのうのうと悪魔のごとく自分に囁いたのか。

 なぜ、慌ただしくも駄菓子屋から走り去ったのか。

 なぜ、今まさにカーディガンを脱がないのか。


 それは、混沌のごとく渦巻く疑問であり、大いに勝を苛立てた。

「言わなきゃだめ……かな……」

 しかし、今回にかぎって少女には隠す意図はなさそうである。ただ、恥じらうように上目遣いとなってしまった……

「言えよ」

 勝としては、これを皮切りにバケツをひっくり返したように、質問攻めに徹しても一向に構わなかった。

「えっと……服の下がね……透けちゃう……から……」

 少女は頭頂部だけを勝に向けて、そう言った。

 思わずカーディガンの下に視線を向けた勝は、それがしっかり毛糸に遮られていることを確認して安堵の息を飲んだ。

 偏執的になった自分がただ恥ずかしかった。

「そっか……」

 ようやく言ったものの、雰囲気は雨にもまして重く、少年には己が蒔いた種さえ収拾する術すら思い浮かばなかった。純然な乙女たる桜の口から、その様な卑猥な言葉を吐かせてしまうなど、咲恵に知られた日には、拳骨だけでは到底済まされまい。

 勝は石切坂 桜に対し、申し訳なかったと猛反省した。

 そんな時……

「何ちちくりあってんだぁ!」

「逢い引きじゃ!この軟派めぇ」

 共に立ち止まったまま俯いてしまった二人に、後方から乾いた笑い声と一緒にそんな野次が飛ばされたのである。

 野次に腹の虫を刺激された勝は、意識を取り戻したかのようにはっと顔を上げると、

「てめぇら、ぶっ飛ばすぞっ!」

 猪のごとく猛進に鞄を振り回しながらケラケラと笑う、不逞の輩に向かって駆けだしたのである。

 猛々しく、水溜まりも泥濘【ぬかるみ】さえも構いなく駆ける勝。それはまるで返り血をも容赦を忘却し、勝のズボンへ刻銘にへばりついた。


      ○


「あら、勝君お帰りなさい。随分やんちゃしたのね」

 ぶっきらぼうに少女の前方を歩く勝は病院の角で、咲恵の声を聞いた。黒い雨カッパに赤い傘をさした母の腕には、竹籤で編まれた買い物籠が掛けられてある。

「あらあら、桜さんだったかしら?」

 勝の仏頂面を通り過ぎ、咲恵は過去に咲かせた笑顔を今一度開花させ、桜の元へ歩み寄った。

「こんにちわ……」

 桜は恥ずかしそうに色の薄い頬に肌色を宿し、か細い声でそう答えた。

「まぁまぁ、こんなに濡れて。風邪でもひいたら大変だわ」

 桜の前髪を撫でてから、驚いてそう言った咲恵は、

「勝君、急いでお風呂湧かして。今日は水道使っていいから」

 眉を顰める勝に檄を飛ばすのであった。 

「ちぇっ」 

 勝は男の子である。

 しかし、勝とて桜同様にずぶ濡れなのである。足下だけを見れば勝の靴はバケツであり、ズボンに至ってはボロ雑巾である。

 勝は土間でそれらを脱ぎ捨てて、一目散に風呂場へ向かった。板間を通って、脱衣所替わりのドアを一枚開け、さらに、上下の木枠にそれぞれ磨りガラスを填め込むんだドアを開ける。すると、部屋全体を緑色のタイルで囲んだ風呂場である。母は『エメラルド部屋』と呼んでいる。

 床に滑り止めも兼ねた、王冠程の丸いタイル。側面と天井には四角いタイルが貼り並べてあるのだ。しかし、見上げると、天井には不細工にも歯抜けの様に幾枚かタイルが剥がれ落ちていた。考えようによっては危険極まりない。

 肝心の釜は部屋の奥、向かって右端に備え付けられている。寸胴鍋を轆轤【ろくろ】でもって上部につれて押し広げた形。所謂『五右衛門風呂』である。大人三人がらくに入れる広さを誇る風呂釜は、過去にこの家が大所帯であったことを人知れず語り継いでいるのである。

 風呂釜とは逆方向の壁には、タイルの繋ぎ目に打ち込んだ釘に束ねて掛けられた、自転車のチューブを思わせる黒いゴムホースがあり、それを用いて風呂釜へ水を入れるのだ。それを掴んだ勝は釜の中にホースの口を放り込み、それを蓋で挟んでから、ホースを携えたまま洗面台まで走り、もう片方の口を蛇口に噛み付かせた。

「水加減見ろよっ!」

 台所へ移動した後、土間を覗き、ようやく家に入って来た二人に向かって勝は大きな声で言った。

 台所を横切り進むと裏木戸がある。木戸を開けて外に出ると身震いするほど寒かった。

 しかし、そのような弱気を吐いている場合でもあるまい。足下に揃えて置かれた下駄に指先を突っ込んで、雨ざらしに三歩大股で飛ぶ。すると丁度、風呂場の裏手に当たる場所である。

 そこには掘っ建て立て小屋を思わせる粗末な小屋が建てられており、その中の両端には薪やら枯葉やらが、倒れてきそうな程積み上げられてあった。

 正面には不気味にも大きな口を開けた竈が堂々と勝を見据えている。勝は、大きい鍋程ある切り株に腰を降ろすと、手近にあった松葉を大量に放り込んだ。次にくべるのは細い枝である。これを大層放り込んで、後はマッチを擦り入れば、瞬く間に炎が燃え上がる。勝は、竈の傍らに置いてあるマッチ箱を手にマッチを擦った。何度も擦った。仕舞いには赤燐が剥がれ落ち、棒が折れるまで擦った。

「湿気てやがる」 

 勝はマッチ箱を竈の中に放り込んで、台所へ戻った。

 居間を通って仏間へ向かう……

「もうっ!桜さんがいるんだから、服着なさい!」

 居間を訪れた瞬間、板間の戸が勢い良く閉じられ、咲恵の怒号が飛んだ。

 下着姿である勝は、不本意であると、地団駄を踏んで仏間へ入った。身を震わしてまで風呂を沸かすのは誰であろう桜のためなのである。

 新しいマッチ箱と蝋燭を数本手に取った勝は、閃いた。

 鬱憤晴らしに丁度良い物を見つけたのだ。

 勝は、蝋燭やらをパンツのゴムに挟み、土間から金バケツを持ち出すと、台所の布巾をその中に入れ、食器棚に深皿と共に収納されてある、ランプの燃料ビンを取り出した。

 茶褐色のビンに並々と入った油をバケツに注ぎ、再びビンを戻して隠蔽【いんぺい】すると、含み笑いを携えたまま竈の前まで戻った。

 蝋燭を竈に投げ入れ、薪を両手に持ってランプの油がたっぷりを染みこんだ布巾をも

枯れ枝の上に投げ入れる。

 ヘドロでも投げ入れた様な嫌な音がしたが、勝の気分は高鳴る一方である。

 ショータイムの時は満ちた。

 勝は、得意な顔でマッチを擦る。すると、今度は迸る火花と共に赤燐が煌々と小さな火を讃える。

 やがてそれを口の中へ放り込む……

 刹那。

 爆発にも似た熱風を発生させた劫火は竈の上唇をも煤で焦がし紅蓮の炎を吐き出したのである。

 快感である。勝は爽快な胸中に口元を綻ばせて、湿度をたんまり吸い込み、幾らか重くなった薪を次から次へくべた。さながら、蒸気機関車に石炭をくべるように。竈の中で轟々唸りを上げるオレンジ色の炎は、勝体の体温め、その暖かさは心底から胸をなで下ろす境地へと誘ってくれた。

「さてと」 

 顔は火照ったし、足から腕にかけても肌は赤く色づいた。しかし、肝心な背中が寒い。かと言って背を向ければ前が冷える。悪循環とはかくも厄介である。薪を余計にくべた勝は、ようやく服を着るべく家の中に足を踏み入れたのであった。

「勝君ってば、服着なさいって言ったでしょう」

 居間の奥にある押入をひっくり返していた咲恵が吠えた。

「じゃあ、出してくれよ」

「無理よ。今お母さん忙しいんだから」 

 押入をひっくり返す咲恵は、それどころではなさそうである。勝は仕方なく、離れへ向かい、押入を開けると、敷き布団の間に挟まれてある寝間着を取り出して、それに袖を通した。

「勝君、はい」 

 鳥が羽ばたいたように、ふわりと放物線を描き、仏壇の前に着地したのは半纏だった。

「半纏かよ」

 とは言え、勝はそれを着込むと再び釜小屋に向かった。

 一度として同じ形を持ち合わせない、オレンジ色は未だ衰えるどころか、勢いを増して釜底を焼き付けている。火がついてしまえば、火の番など暇なのである。

 しかし、今日は違った。

「勝君。お湯加減良いから、火を弱めて」

 十文字の木製枠にガラスが四枚収められて一枚となす窓。

 ガラスは粗末にも緑色のペンキで目隠ししてあった……だが、所々剥げ落ちているのである。

 火吹竹で炭のように炎なく熱気を発する薪を叩いて、細かくするか、或いは足下に出して来た。

 ドアが閉まり、少しの間をおいて再びドアが開閉した。

「言い忘れてたわ。石鹸も色々あるけど、好きなの使ってね」 

 咲恵の声……

 すなわち、石切坂 桜が風呂場に入ったのである。パチパチと跳ねる火炎を睨み付け、勝は窓に耳を近づける。すると、桶を床に置いた軽調子で乾いた音が、聞こえて来たのである。見る見る間に熱を帯びる顔面。

「湯加減どうだ」

「ちょっと熱い……」 

 勝は慌てて、薪数本を火ばさみで取り出した。

「ぬるくなったら言えよな」

「うん、ありがと」

 それは紛れもなく桜の声であった。

 勝は切り株に腰を降ろすと、頭を抱えた、麗しの同級生は今壁一枚を挟んだ先にいる。

 しかも一糸挂けぬ姿で……幸太が兄に無言で持ち出した桃色本が脳裏に蘇ったのを誰が責められよう。勝とて、明瞭たる男児なのである。

 しかし、何故に葛藤するのか。それは、『男児』だからである。それだけで桜の入浴を覗く行為を正当化するには、道理にほど遠く及ぼうはずがない。濛々と舞い上がる土埃のように、勝の頭の中に湯煙の潜む桃色天国が桃源郷のごとく見え隠れして仕方がなかった。例え今すぐに雨中に身を投じようともこの煩悩を払拭することは不可能なのである。一時の興味、快楽、欲求、それらに身を窶し、石切坂 桜に軽蔑され罵倒されようとも、それは若さゆえの過ちか……

 『男児に生まれたるは!例え意中の人に唾棄されようとも!負けてはならぬ時がある!』

 奇怪千万。法螺吹き行者が、勝の耳元で熱弁を振るう。

 

『いざ行かん!桃色の世界へ!』 


 行者の合図と共に、勝は徐に立ち上がり、窓枠に手を掛けた。つま先だって背伸びをすれば、大きくペンキの剥げた部分に目が届き、かつ風呂場が一望できるのである。

 湯を掛け流す音から察すれば桜は体を洗っているのだろう。強張った目つきで勝は気取られぬように背を伸ばす。股の辺りが熱気で焼けそうだったが、

『桃色世界への船出は痛みも伴うのだ!』

 行者の一喝に無理強いの我慢である。

後、小指の先程で本懐を遂げてしまう……

 ここに来て勝は臆するように、体を硬直させた、相変わらず股が強烈に熱い。

 はたしてこれは大きな岐路なのである。桃色世界へ足を踏み入れるか、それとも、行者を一蹴りして切り株に戻るか……不安定な少年の胸中は不安と悦楽とが鬩ぎ合っていた。ご都合主義にも、悦楽を選べば桃色世界である。

 しかし、足を踏み入れたその刹那に、とても大切な『何か』を失ってしまうだろう。「勝ちゃん何やってんの?」 

 勝は慌てて振り返った。その拍子に、焼けた股生地が内腿に触れると、アイロンを押し当てられているかのごとく激しく熱かった。

「あちっ、あっつ、うわうわうわっ!」

 股の生地を両手で引っ剥がして、ことなきを得た勝。

「筒串君、大丈夫?」

 窓から、桜の声が漏れた。

「大丈夫。気にすんな」

 がに股のまま、息を吹きかけながら勝は、ようやく、生きた心地を取り戻したのである。

「なんで、石切坂さんが、勝ちゃん家でお風呂入ってるのよ」

「うるせえ。母さんに聞けよな。それより、何の用だよ」

「お母さんが、お寺さんから大福貰ったから持ってけって。ほら」

 竹皮をぶら下げてみせる幼なじみは、黒傘にぶかぶかの長靴を履いていた。

「ほんとかよ。しっかし、お前んとこよく大福貰うよな」

「悪かったわね、大福ばっかで。咲恵おばさんに、すけべ勝ちゃんのこと言ってやるから」 

「景、それは待て」 

「ふん」

 そっぽを向いた景は、そのまま、玄関へ向かって歩いて行ってしまった。

  

      ○


 風呂場の向こうが一頻り賑やかになり、一抹の寂しさを抱いた勝は、そろそろ火の番をやめて、温かいお茶と大福にありつこうと切り株から立ち上がった。

 だが、背中には風呂場のドアの開閉音が響く。雨音に混ざって、微かに聞こえてくるのは包丁がまな板を打つ音。

 勝は、背伸びをして風呂場を覗いた。

 すると、霞に漂う中に、腰まで伸びた黒髪が見えた。

「石切坂?」

 勝は切り株に腰掛けて、不可抗力と自身を偽るかそれを否とするなら、行者を蹴り飛ばした先の葛藤なんだったのかと眉を痙攣させた。

「勝ちゃんぬるい」

「ん?」

「ぬるいってば」 

「んん……?」

「ぬるいって言ってるでしょっ」

 窓が勢いよく相手、湯煙と一緒に景が顔を出した。

「桜じゃない……って景かよ」

 やはり行者を蹴り飛ばしておいて良かったと勝は思った。

 むぅ、と言う景。

「何よその物言い。石切坂さんじゃなくて悪かったわね」

 短気激昂した景は、顔を引っ込めたと思いきや、手に水を汲んでそれを勝めがけてこれを投げつけた。

「冷てっ!」

 条件反射にて思わずそう言ってしまった。

 しかし、実際に表情を濡らした水は温かい。

「お湯ですよぉだっ。ばか勝っ」

 最後に舌を出して、窓を閉めた景。

「これでも食らえっ!」

 勝は枯葉を一握りすると、窓を開け、それを放り込んだ。

 風呂場に響く、景の悲鳴。

 それは実行犯である勝ですら驚く程だった。それから、再び風呂場が一頻り賑やかになった。景の泣き声が聞こえて、咲恵の声が木霊して、その後に桜が何かを喋って……

 そして、木戸が開いて、

「何してんのっ!」

 咲恵の振りかざした擂り粉木が勝の脳天に振り下ろされた。「痛い……」 勝は、頭を抱えてその場に座り込んだ。擂り粉木に付着していた山芋だろうネバネバが頭頂部で糸を引いていた。

                           

      ○


 「虫が虫が……うにょうにょが……」と目を真っ赤にした景子が風呂から居間に帰って来たのは、折しも勝が頭を押さえて座り込んでいる途中であった。居間にはちゃぶ台か置かれ、台所からは夕餉の準備をする咲恵の姿が見えた。ストーブの前に干されているのは桜の制服であり、桜はその前に陣取ってテレビを見ていた。

 瓢箪型の島を舞台とした人形劇である。

 学校では見せない微笑みを携えた少女は、長着の寝衣を着込んでいた。少々丈が 大きく、指先まで袖がおよんでいる。

 景はその向かいに陣を取り、まるで等身大の日本人形の様な石切坂 桜を見つめていた。悔しい程色っぽいではないか。体つきは景と桜の間に大差はない。むしろ、その点では景の方が『女性らしい』。しかし、桜には人を引きつける特別な雰囲気が漂っているのだ。時に魅力と良い、普遍的な第六感とも言う。とにかく、筆舌するには困難極まれりなのである。

「?」

 景の視線に気が付いた桜が、景を見て首を傾げた。

「私、竹下 景って言うの、景でいいわ、よろしく」

「……私は、石切坂 桜です」 

 視線を泳がしつつ、自己紹介を終えた桜。

 同級生の間に広がる『石切坂 桜は喋れない』と言うのはただの噂であった。桜は景の視線を気にして苦し紛れにテレビへ視線を逃がした。

「あなた、勝ちゃんのこと好きなの」

 回りくどい台詞の嫌いな男勝りの性格は父親譲りである。

「えっ」

 桜も思わず、景に視線を向けた。

「はっきりしましょ」

 ちゃぶ台に肘を置いて、身を乗り出した景。

「景ちゃんはどうなの」

 小動物的な言動が目立った桜だったが、景の予想に反し、景と同じ体勢にて対峙したのである。

 握り拳ほどの隙間を経て、鼻面は衝突間近。時はまさに火花散る女の戦場であった。

「もし『はい』なら頷く『いいえ』なら横を向く。いいわね」 

 桜は無言で小さく頷いた。

「いっせーのーでっ」

 景子の合図で火ぶたは切って落とされた。そして二人は同時に首を動かした……

「そう言うこと」

「景ちゃんこそ」

 二人は前髪を密着させ、上目遣いに闘志を剥き出したのである。

「まっ良いわ。肝心なのは勝ちゃんの気持ちだから。はい」

 体勢を正座に戻して言った景は、語尾と共に右手を差し出した。

「好敵手同士、正々堂々とね」

 瞳の奥に火山の如く紅蓮を宿し景が言う。

「うん」

 桜とて轟々と燃え狂う焔を宿していた。桜は景に呼応して、差し出された手に左手を重ねた。


 次の瞬間……


「痛っ!不意打ちなんて卑怯だよ……」

 桜の小さな手をトラバサミの様に景の素手が噛み付いた。ギリギリと締め付ける景の握力に桜は表情を歪めた。

「ソフトボールで鍛えた私の黄金の右手は強力なのよ」

 もはや景の確信犯と言わざる得ない。

「私だって毎日洗濯で鍛えてるもん」

 その言葉は文字通り劣勢からの逆襲の狼煙であった。桜の細く長い指はたちまち、蛇のように景の指をすり抜け、今度は野兎を丸飲みにする蟒蛇【うわばみ】のごとく、景の手を握り閉めたのである。その力の強い事と言ったら、右利きの景が左手に欲しと切望する程であった。

「私、左利きだから」

 景の失策であった。左利きなどと稀な存在が桜であるはずがない。『右利き』であると、固定概念が失策の根本。

「景ちゃん景ちゃんって慣れ慣れしいわね」

「呼び捨てよりいいと思うわ」 

 人知れず繰り広げられる姑息で地味な駆け引きは意外な結末を迎えることとなった。

「お前ら何やってんの?」

 手拭いで頭をごしごしやりながら、勝が居間へやって来たのである。

 一瞬、眼を見合った両者であったが……

「「握手」」

 停戦に無言で調印すると、声を揃えてそう言うのであった。


      ○


 桜の制服は短時間で乾くはずがなかった。カーディガンに関して言えば、幾度となく絞ったにも関わらず、乾燥の兆しさえも見当たらない。勝の出現によって、しきりに襟元を気にし始めた桜と、それを苦々しく見つめる景。やがては、二人共に居間をはなれ台所へ向かうと、競うように咲恵の手伝いを始めたのであった。

 笑い声と言うものには、多かれ少なかれ人を惹き付ける誠に摩訶不思議な力が宿っている。台所に並ぶ二人の乙女と一人の婦女は、実姉妹のようにキャイキャイと何かにつけて明朗愉快な声を上げるのである。

 かたや越えられぬ冬の八甲田みたく、厳然と立ちはだかる『男』である勝は、テレビなどすでに眼中になく、ただ忙しなく動く三つの背中に羨望の眼差しを向けていただけであった。ゆえに、その延長線で展開された夕餉は、宵宮の様子であったのだ。

 いつもは二人の寂しも静かな食卓。されど、天変地異のごとく様相を様替えし、路傍の人でさえ振り返るであろう、四人で囲む食卓はおおよそ黄色い世界である。

 蹴り飛ばした行者は勝に語らい掛けることもなく、乙女どもと勝との温度差は沸点と氷点であった。

 宴もたけなわ。仏頂面でもって、肘をついて食事をしようとも、咲恵の目が光ることなく、寄せ箸、刺し箸、探り箸、加えてねぶり箸、かき箸。勝は、これ見よがしに思いつく無作法を披露してみたが、結果は前者と同様に無反応であった。

 勝にとっては歴然と面白くない夕餉は、それからしもばらく続いたのである。通常であれば、夕食の始まる時刻となり、ようやく各食器が空になって早い時分から続いた夕餉が終宴を迎えた。

 せめてもの救いと言えば、桜の制服に着時が訪れたことである。

「ほら勝ちゃんはあっち行ってなさい」  今宵は理不尽がてんこ盛りである。

 冷えた体どうよう。しかし、桜は風呂でそれを温め、勝は服さえも出してもらえず、竈の火で暖を取り。助平の汚名と共に景にはぬるま湯を浴びせられ、これに応戦しようものなら、山芋の付いた擂り粉木で脳天を殴られ。笑顔の日陰で、味気ない飯を食ったあげく、着替えると言う名目で離れまで追いやられた。もはや男児たるに生まれた不幸を呪う他にあるまい。

 ややあって、勝は寝間着に長靴を突っ込んで桜と景を送って行くことを咲恵に命じられ、渋々それを拝命した。何を隠そう咲恵の手中には拳大の大福が握られているのである。

「桜は濡れるのが好きなの?」

 一列で小道を歩く傘は三つ。先頭の景が首だけを後ろに桜に問い掛けた。

「家に和傘しかなくって……ボロボロだから恥ずかしくって」

「それで、ずぶ濡れになってたわけ?」

「そう」 

 『はあ』と呆れ声を出す景。

 勝の家の側面に通る小道を少し行けば突き当たる。しかし左右に伸びた道は自動車が優に通れる程度開けるのである。

 丁度、夕餉時と相俟って、両側に並ぶ家々からは味噌汁や焼き魚の芳しい香りが漂っていた。そんな中を傘を並べて歩く三人の足取りは軽い。

「そう言えば家はどこなの?私は農協を通り過ぎた所なんだけど」 

「えっと、家は無いの……」

「じゃあ、どこに住んでんだ?」

 桜の顔を覗き込む勝。

「公民館……」

「「はあ?」」

景も加わって桜を覗き込んだ。

「私のお父さん、地回り芝居の、大道具とか衣装とか直す仕事しててね。それで、今は公民館が舞台と住居を兼ねてるの」

「ああ、最近来たどさ回りね。あなたもそうだったの」 

「うん」

「石切坂も出るのか?」 

「私はお芝居しない。お父さんに付いて回ってるだけ」

 桜は首を大袈裟に振ってそれを否定した。

 宵の口はさすがに昼間に比べて格段に暗く足下が危うい。ほぼ直線の道を歩き、郵便局の裏、最後のS字カーブを曲がれば、川沿いの道と合流する。満潮で幾分水位の増した水面を眼下に橋を渡った。日の暮れた商店街は見るも無惨に閑散としていた、もとより商店はすでに暖簾を降ろしている。

 長靴の優位性を遺憾なく発揮し臆せず、勝はあえて水溜まりの中を歩く。若干の抵抗を足に感じながら、小さな優越感は心地良いものであった。

 農協を過ぎると、そこにも小川が流れており、コンクリート製の橋が架けてられてあった。

「景、お前ん家、あっちだろ」

 川沿いの小道を顎で指して勝が言った。

「私も公民館見に行くの、いいでしょ桜」 

「別に……」

「一緒にすんなよな、俺は見物に行くんじゃないぞ」

「同じようなもんよ」

 舌を出した景は『行きましょ』桜の手を引いて先に歩いて行ってしまった。

 その先、大きくカーブしきった所で、再び小道へ入る。

 この辺りは民家が少なく、山肌に至るまで一面、蜜柑畑で覆われている。常緑樹畑の中の一角だけが肌色を露出していて、そこが公民館なのである。

 蜜柑畑に挟まれた道を歩くと、大きなタイヤが通った跡や刳ぐられ轍が出来た箇所など、往来の物々しさが見て取れる。久々に訪れた公民館前の芝の上には、トラックやテントが並び、公民館には灯りが灯っていた。

「演劇って感じじゃないわね」

 演劇と言うには雰囲気からして殺風景である。

「公演はまだ先だから、準備中なの」 

 桜は苦笑してみせた。

「それじゃ、筒串君、景ちゃんさよなら」

 桜は、二人に向き直ると微笑み混じりにそう言って、足早に公民館へ歩いて行ってしまった。

「なあ、景」

「ん?」

「『さよなら』って……寂しい言葉だよな」

 桜が公民館の中へ姿を消し、勝は一抹の寂しさを感じた。もう桜と会えないのではないか……そんな気がしたのだ。

「そう言われれば……そうね」

 公民館を見つめる勝の横顔を見て景も頷いた。

 

      ○


 春雨が止んだのはそれから数日経ってからであった。

 一週も巡る前に、勝は憮然とした日常を過ごさずに居られなかったのは、友人である幸太と一郎が、雨上がりに先んじてグローブを手に入れたからである。そして、休日である本日、空き地は白球を追い掛ける少年達が雲霞【うんか】のごとく押し寄せていた。隣町の連中との試合が開催されるのである。

 そんな未曾有の盛り上がりを見せる空き地を通り過ぎて、勝が向かったのは、選果場の真向かいに聳える石造りの鳥居を潜った先にある七福神社の境内である。

 ある時は物置であり、またある時は盆踊り会場、そして、子ども達の遊び場。豆砂利を敷き詰められた広い境内には神楽舞台やら四阿やらがあり、鳥居から正面、一息走った所には観覧席のように四角く削った巨石で階段が築かれてある。

 もっぱらここが勝の野球場なのである。数日前では『勝達』の練習場であった。

 勝はさっそく握った軟式ボールを階段に投げつける。

 父は言った。

『道具は無くとも努力でそれを越えられる』

 遠い異国では、当たり前の様に裸足で生活している人間も居るのだとも言った。父の存在は絶大である、その父が言うことに間違いがあるはずがない。勝はボールを階段にぶつけ続けていた。

「筒串君、こんにちは」

 鳥居を潜った石畳に桜が立っていた。

「よう」

「明日から舞台の組み立てが始まるの、だから安全祈願」

「そうか……」 

勝は足下に転がって来たボールを拾いながら、勝は何度か頷いた。 

「何も聞いてないのにって思った?」

「えっ」

 図星である。

「おでこに書いてあるよ」

 上機嫌でそう言った桜は、手を後ろに回したまま、本殿へ続く階段を上って行ってしまう。

 風がなく木々が互いに枝を打ち合うことも無い。凪いだ本日は誠に天気晴朗である。

ゆえに、空き地は黒山の人集りとなり、神社はまさに無人のごとく。仮に天狗が飛来し勝を連れ去ったとて、誰も気づく者などいまい。

 白球が巨石を打つ音の合間に、木々の先から柏手を打つ音が聞こえた。風の妨害を非とする今日は音が良く通る。

 それからしばらくの後、再び境内に桜が姿を現した。

「この神社って無人なんだね。お守り買おうと思ってたんだけど……」

「暮れと正月に宮司さんが向かいの島から来るんだ。いつもは無人だな」

「そうなんだ。あっ、そうだ。ここにしばらく居る?」 

 桜は階段の先を見上げてながらそう言った。

「空き地の試合が終わるまでここに居る」

 咲恵には『空き地』にて野球をすると、宣言して出てきたのである。口走ったからには、試合が終わるまでは、家に帰るわけにはいかない。

「そっか」

 そう言うと桜は、豆砂利を大層鳴かせて、鳥居を潜って行ってしまった。

 枯れ木も山の賑わい。例えキャッチボールの相手にならざれども、ただそこに佇んでさえ居てくれれば、言葉のキャッチボールくらいは出来たのである。

 勝は、再び誰も居なくなった境内を見回すと、一抹の不気味さを背筋を携え、坊主頭を掻いた。喧騒と成り立つ以前に、砂利の擦れる音、カラスの鳴き声、そして潮騒。そこへ一石を投じたとて、ただただ虚しい。数年前に父と交わしたキャッチボールはとても楽しかった。

 餡を包み込む皮の様に手の平に収められた球体は、大凡素手では扱う事が困難であろう球速でもって矢の如く一直線に硬い石面へ打ち付けられた。

 放物線を描く、勝の弾道を考えれば、歴然とした差が明瞭である。

 いつか、あのような光線が放てるのだと、心弾ませた頃から幾星霜を経て、未だ山を描く弾道からして道程は遥かに遠い。

 越えるべき壁の背中はあまりにも巨大過ぎる。

 勝は渾身の力を込めて、白球を時放った。想像以上に球威を増したボールは、石段を打って軌道を変え、勝の頭上を越えて砂利の上を何度か跳ねた。

「ナイスボール」

 振り向くと桜が立って居た。

 額に汗した桜の両脇には、なんとグローブが抱えられていたのである。

「それグローブ」

 指を差して硬直した勝は、ボールを拾い、歩み寄った桜からそれを渡されると、狐につままれた面持ちでグローブを見つめていた。

「キャッチボールしようよ」

 桜はそう言うと、右手にグローブを填めて勝と距離を取った。

 石段に水平に立ち位置を取った二人は、左腕を扇風機みたくぶんぶんと回す桜と、半信半疑の勝。大凡、逆転の風景である。

「上投げでいくよっ」

 覇気の籠もった声の後、桜は、大きく振りかぶると、軸足を残してもう片方を折り畳むように上げ、体重移動と共に傾けた体位そのまま、腕の振りと折り畳んだ足の解放を寸分違わず合わせ、やがて撓る腕から白球を放った。

 弾道はあの日見た父のごとく、まさに一閃の矢のように勝に迫り来る。素手では対処する範疇ではない、しかし、勝の手にはグローブが宿っているのである。

 不可能を可能にする、その輝かしき道具を駆使し、迫り来る軟球を受け止めさえすれば良いのだ。

 勝は目を閉じてグローブを構えた。


 その刹那……

 

 勝の耳元で熊蜂の大群が群が通り過ぎた轟音がした。

「後ろっ!」

 勝は桜の言葉にグローブを見た。何を捕らえたのだろう、虚空な様はどこか虚しい。

振り向くと、勝をあざ笑ようにその身を踊らせる白球が目に映った。

「にゃろっ!」

 勝は豆砂利を巻き上げて、掛け出した。

 細い腕から放たれなど到底思えない……いや思いたくない。軟球はやがて、樫の梢に当たって勝の足下へ舞い戻って来た。

 無論、瞬間的に勝の横顔を掠めたのは熊蜂などではない。俄に信じられるはずもない。桜が投げた白球が己の球威を遥かに凌駕していたなど。

「いくぞっ!」

 ここで見せねば男が廃る。勝は、助走を白球に乗せる勢いで全身を使いボールを投げた。勢い余って前のめりに転けてしまった勝。

 しかし、立ち上がると必ずや、華やかしい桜からの賞賛の眼差しが待っていることだろう。

 だが、勝の耳に届いたのは、あまりにも痛々しい音であった。

 床板を踏み抜いた様な、ドブ板を踏み抜いた様な……

「見たか!」

 顔を上げると、頭を抱えて座り込む桜の姿があった。

 見れば、桜の頭上に提灯の様に連なって釣り下げられた、角燈の一つが無惨にもなくなっていたのである。

 勝は顔を蒼くして、桜の元へ駆け寄った。

「大丈夫か?」

 桜の足下には無数のガラス片と無惨な姿となり果てた、角燈が転がっていた。

「私は大丈夫……でも、これどうしよう……」  

 桜は、壊れた角燈と勝の顔を行ったり来たりさせてそう言った。

「見つからなきゃ大丈夫だって」

 勝は桜の目の前に転がる角燈を拾い上げると、さっさと林の中へ放り投げた。

 熊笹を掻き分けて、ボールを手にした勝は、それを桜に手渡して、

「何でそんな球投げられんだ」

 と目くじらを立てた。所詮、鵜の真似をする烏は溺れるのである。

 えっとね。桜は深々と頷いてそう前おいてから、

「お父さんが昔野球やってて、私、お父さんと小さい頃から一緒にキャッチボールしてたの、だから」

 言葉を選んでそう言った。

 再び距離を取る勝は笑顔で佇む桜を何度も振り返って、スカートにカーディガン、そしてグローブを左手に着けた少女の姿を確認した。

 まるで、ガキ大将がスカートを履いたようである。

 それから、砲弾と砲丸投げの応酬が続き、時に桜の球を勝が腹に受け、また時には勝、渾身の大暴騰により二人で熊笹の生い茂る林を探し歩くことにもなった。

 桜の頭上から角燈は更に三個姿を消し、果たして、林の中に三個増えた。

 呼吸を荒げる勝はようやくグローブで受けることを覚え、もう後数時間あれば捕らえることも可能となったことだろう。一方、一点の曇も無い桜も両肩を上下させ、手を膝にやって疲労を訴えていた。頭上を越えて行く白球を追ってどれだけ走り回ったことだろう。まともにグローブに収まった試しなど一度だってなかった。

「今日はこれくらいにしといてやるよ……」

 ついに勝は砂利の上に腰をついてしまった。

「それ、助かる……」

 桜も、勝と同じく砂利の上に尻餅をつく様にして座り込んだ。


      ○


「お前の柔らかくなったか?」  

「昨日銭湯に漬けたら、親父に殴られた……」

 新品のグローブは木彫りの様に硬かった。

  ゆえにボールを掴むどころの話しではない。精々、受け流すのが関の山……先日の試合では真逆方向への大活躍で敗北を身内へ提供した幸太と一郎はの心持ちは漬け物石の様に重い。

「宝の持ち腐れだな」 

 肩に心地よい疲労を伴った勝はざまぁみろと笑って言った。

「持ってない奴に言われたくない!」

「試合にも出られないくせによ」

 口を酸っぱそうに揃えて言う二人は、勝を蚊帳の外に置いて『いかにグローブを柔らかくするか』を議題に作戦会議に夢中になった。

 『道具は無くとも努力でそれを越えられる』道具に頼らずとも、時として技量がそれを上回りさえすれば、グローブの有無など誰もバカにしなくなる。勝は桜の投球にそれを見出したのである。あの日から、時折、勝は桜とキャッチボールをする様になった。ボールをグローブで捕らえられる様になり、角燈を壊すこともなくなった。目に見えて技量の向上が実感できたのが勝は何よりも嬉しかった。

 キャッチボールをしながら、桜とも色々話しもできた。

 石切坂 桜は本当はとても活発的でそれいて素直。ただの器量よしで可憐な少女なのであった。決して狐などと呼称されるような女の子ではない。

 狐と呼ばれる度に勝は腹の中を煮えたぎらせた。本当の桜を知りもしないで、畜生扱いする事が許せなかった。桜のかわりに殴りかかってもよかったのだが、桜本人のたっての願いで勝はそれに口に出す事をしなかった。

 体育終わりの昼休み。

 勝は弁当を楽しみに教室に戻って来た。

「何で着替えないんだ」

 着席した勝は、ブルマー姿の桜に小声で呟くようにして聞いた。

 女子は男子よりも早く終わり、教室で着替えを済ませるのが常である。

「……」

 桜は俯いたまま、上目図解でベランダを示した。

 勝がベランダに出てみると、桜の制服が箒で拵えた即席の物干しに干されてあった。今朝から快晴であったにも関わらず、制服からは水滴が滴っている……

「おい、これどうしたんだよ」

 勝は眉を顰めて背中越しに桜に問い掛ける。

「帰って来たらバケツに入れてあって……」 

 震えた声でそう言った桜。

 バケツにはボロ雑巾が幾枚か沈んでおり、そこに張られた水とて、埃やら髪の毛やらが渦巻き、水面には油のような膜が張っていた。

「誰だ!こんな卑怯なことしやがった奴!」

 勝は怒髪の形相で怒鳴った。

 閑話にはしゃぐ、教室は一瞬にして静まりかえり、誰もが顔を赤くした勝に目を向け、互いに顔を見合っていた。

「やった奴出てこい!俺が殴り飛ばしてやるから!」

 続けて言う勝。

 火山の如く火を灯す瞳に睨まれただけで、みな一様に顔を背けた。

「濡れ狐だから、濡れてないとなぁ」

 激怒する勝を罵るようにそう言ったのは、誰であろう一郎であった。

「お前っ」

 勝は、問答無用で幸太の隣に立っていた一郎を殴り飛ばした。

 近くにあった机と椅子を大いに巻き込んで倒れ込んだ一郎、勝は尽かさず一郎に馬乗りなって、「お前かっ!どうなんだっ!」厳しく問いつめた。

「俺じゃない!本当に俺じゃないって」

 潤んだ眼に鼻から血を流して一郎は何度も首を左右に振って答えた。

 勝は眼光を強めてそれを見ていた幸太へ向ける。すると幸太も一郎と同じく首を何度もぶんぶんと振ったのである。

 白昼の乱闘騒ぎに、教室内は元より廊下でも一時騒然となった。呼んでいない野次馬が押しかけ、窓は雁首が一同に会した様相であった。

その中を掻き分けて、勝は桜の手を引いて歩いた。桜は赤い瞳を前髪で隠すように、終始俯いたままであった。

 勝の怒りは未だ収まるところではない。桜が何をしたと言うのだ。今までも、桜は何かと嫌な目に遭わされている。きっと勝の目が届かない所でも……健気にもそれに耐え続ける桜を思うと、男気にも何度でも怒りの劫火は再燃するのであった。

「痛いよ」

 保健室の前で桜はそう言った。

「わるい」

 バネ仕掛けの様に勝は桜の手を離した。怒りに任せて握った手はいつの間にか汗ばんでおり、保健室は運悪く無人だった。

 書類と万年筆が転がった机、そして壁に背もたれを付けて並べられた丸い椅子が三脚。ベッドが二床配置された室内は、微かに消毒液の匂いがした。

「ここで待ってろよ、先生呼んで来るから」

 勝は桜を残して、隣接する職員室へ向かった。

 出来れば一生入りたくないと思っていたこの部屋に入ることになろうとは、勝は深呼吸をしてから、重い引き戸をゆっくりと開けた…… 

 途端に流れ出る熱気とインクの匂い。

「失礼します」 

 控えめに声そう言う勝。

 泥棒にでも入ったかのように、勝は頭から純に室内に忍び込ませ、出来れば誰にも気が付かれる事無く、橘先生に桜のことを伝えたいと願ったのだが……。

「ノックぐらいしなさい。後、声が小さい」

 勝が忍者であるならば、今頃は槍で串刺しになっていたであろう。入室したそばから、黒縁眼鏡を掛けた、男性教諭に見つかってしまった。

「えっと、橘先生いませんか……?」

 すっかり縮こまって何とか言えた勝。

「『えっと』じゃない!まずは『すみません』だ。それから『居ますか』じゃないだろ『橘先生はおられますか』だろ。もう一度やり直し」

 子猫よろしく体を震わせた勝。それが生徒指導部長であったことが全ての不幸の根源であった。。

「すみません。橘先生はおら、おられ?ますか?」

 極度の緊張に舌は思い通りに回らない。大人はこんな面倒くさい言い回しをしなければならないのか。勝は棒読みに加えて、眉を寄せた。

「次からは組と名前。それからはっきりと挨拶するように」

 低い声で更に指導を続けた教諭。

 はい。勝は早くこの部屋から脱出したい一心で、素直に頷いた。

「廊下で待ってなさい」勝の返事の後、男性教諭はそう言うと印刷室へ姿を消した。勝は、胸をなで下ろして職員室を後にする。

 廊下に出るや、清らかにも冷ややかに頬を撫でる冷気が気持ち良い。まるで生き返った様である。

 緊張の糸が切れた勝は、すっかり怒りの居所を忘れて橘先生の出現を待つに徹した。「筒串君どうしたの?」 

 ほどなくして、袖を捲った女性教諭が姿を現した。勝は、教室で行われた桜への仕打ち。そして、その桜が保健室の中にいることを告げ、

「先生の着替え貸してやって下さい。お願いします」

 と勝は頭を下げて、嘆願したのだった。

「わかったわ。石切坂さんの事は先生に任せて、筒串君は教室に帰ってなさいね」

「はい」 

 勝は困った表情を浮かべる先生にそう言われ、大人しく背を向けた。

「筒串君。石切坂さんの制服、保健室に頼めないかしら?」

 振り返ってそれを聞いた勝は『わかりました』と簡素に答え、その後は一度として振り返らなかった。

 平静を取り戻した廊下。そして、激動直下の教室内はまるで何ごとも無かったかの様に相変わらずの様子である。

 ベランダに干された桜の制服は、汚水を吸い込んだ所為か日差しを浴びて微かに異臭を放って居た。

 勝は制服を両腕に抱えると、水場へ向かった。周囲の視線など気にはしない。ただ悔しかった。

 どうして!なぜ!

 勝の胸の中に再び怒りの炎が唸りを上げる。桜が何をしたと言うのだ、『沈黙』はそこまでの大罪なのか……

 否!

 例え、桜の寡黙が大罪であろうとも、深い軋轢を生じさせた根源であろうとも。それがこの仕打ちに化けるのは理不尽を通り越して不条理である。断固として、姑息かつ卑怯極まりない所行を肯定する理由になり得るはずがあるまい。勝は、憤りを携えたまま、蛇口を捻りまだ冷たい水に袖を濡らしながら、桜の制服を何度も濯いだのであった。

 勝はしっかりと絞った制服を保健室へ届けた。

 そこには橘先生の姿はなく、ストーブで暖をとる桜の姿のみがあった。

「ありがとう」 

 制服を携えた勝に桜は優しく微笑んでそう言った。制服を乱暴に手近な椅子の上に置いた勝は、拳を硬く握って保健室のドアの前で一度立ち止まった。泣いていれば声の一つも掛けられた、涙はなくとも俯いていても同じこと。されど、桜は勝に微笑んだのである。やりきれない思いが勝の憤慨に拍車を掛けた。

 勝の瞋恚【しんい】にのべつまくなし、下唇を噛んだまま渡り廊下を歩いていた時であった、見慣れた一団が勝を横目に笑みを浮かべていたのは……

「お前がやったのか。森田」 

 森田 明美とその取り巻きは、接近する勝に一度は怯えた表情を窺わせたが、

「証拠でもあるって言うの?」  

「証拠出しなさいよ」

「そうよ、証拠出しなさい」

 弱い者ほど徒党を組み、尻尾を丸めて高い虚勢を張りたがる。森田一味は明瞭にその典型例なのである。

「バカらしい」

 前歴上の推測だったが、関わるだけ無駄の様子である。勝は、尾を股に挟んで立派に吠える一味に捨て台詞は吐き捨てて、立ち去ろうとした。

「狸が人間様に『バカ』ですって!狸っ!謝んなさいよ」

「そうよ……」

 首の数だけ吠えさせる暇を与えず、踵を返した勝は、強い眼孔で森田の眼前へ迫った。

「誰が狸だ!」

 鼓膜が破れるほど大声を張り上げた勝。怒りの捌け口としては好ましくないことは先晩承知である。しかし、もはや堪忍袋に矢を突き立てた愚弄には、荒れ狂う心中は宥める理性を遥かに凌駕していた。

「濡れ狐と仲良くしちゃってさ、知ってるんだからね、影でこそこそ逢ってるのも!

狐と狸は仲が良いの、だからあんたは狸なのよっ!」

 引きつった目元と口元で、声を張り上げた森田 明美。それはさながら、窮鼠が猫に牙を剥いた絵でもあった。

「もう一度言ってみろっ!」

 勝は、森田の胸ぐらを握り上げた。

「た……狸っ!!」

 目に一杯涙を貯めて、それでも明美は最後まで言い切った……躍動する勝の右腕。勝は目を剥き出すと拳を振り上げ、それを森田 明美の頬打ち下ろした。

 無音に近い鈍い音と共に、勝の前から女子生徒の姿が消え去った。

 その瞬間、勝の脳裏にしっかりと焼き付いた。時が緩やかに流れるがごとく己の平が明美の頬を捕らえ、その衝撃で水ではない滴が四散し、そして少女は床に倒れ込んだ。

 コンクリートの床に倒れ込んだ明美は、やがて頬を押さえたまま、取り巻きと共に駆けて行ってしまった。

 胸くそが悪かった。嗚咽よりも胸焼けよりもずっと胸くそ悪かった。怒りに我を忘れたにせよ、とっさに拳を解いたのは唯一の賞賛である。

 しかし、手の平に残る確かな痺れと甲に光る滴に勝は、思わず頭を柱に渾身の力でもって打ち付けたい衝動に駆られた。

 だが、後悔はいつだって先んじて予見できないのである。



 そして、二人は『濡れ狐と狸』と呼称される様になった……



 昼休みを過ぎても桜は帰って来なかった。橘先生も急用で授業は自習となった。


 男子生徒の多くは雪合戦のように紙飛行機や紙くずを競って投げ合い。女子生徒たちは森田が音頭をとって、昼休みに起きた暴力沙汰と『狐狸』の話題で持ちきりであった。

頭目である森田 明美は、時折、勝を睨み付けながら高揚と何かを話している様子である。今更聞き耳を立てる必要もあるまい。もとより勝には興味がなかった。何を叫ぼうが所詮は遠吠えでしかないのである。

 再び姑息な真似をすれば、正面からこれを粉砕すればそれで万事は良し。断固にしてそんな安易な思慮。勝は手の平にしっかり記憶された嫌悪に眉を顰めた。

 『狐狸』『濡れ狐と狸』それは、人をあやかし、姑息にも悪事をする不逞の輩。その意味に相違ない。虚勢を張っていたのは勝の方だったのかもしれない。空虚なる孤独と裏打ちされた孤独。一気にそれを飲み込まされた気分であった。孤独を知らぬ者ほど孤独を恐れぬ。ゆえに孤独を知った時、はじめてその恐ろしさ怯え身を振るわせるのである。そして孤独を嫌い人を求める。

 勝は一郎と幸太に声を掛けた。

「お前なんかしるか」

「狐と仲良くしてろよな」 

 帰って来たのは心ない言葉だった……

「バカたれっ!」

 勝は何も言い返せず、ただそれだけを同級生に捨てて放課後の廊下を走った。それは、廊下に止まらず、靴箱、校門、そして国道にまで及んだ。

 『バカたれ!バカたれ!バカたれ!』勝は胸の内で何度も叫ぶ。

 俺が何をした!なぜ誰もわからない! 勝は下唇を噛んで足を止めた。ただ貝でいるだけの少女。それをどうしてほおって置けないんだ!桜を困らせて何が楽しいんだ!俺や桜が何をした!

 桜は素直で大人しくて、とても愛らしいと言うのに……どうして……。当惑する勝の頭中には壊れたレコードの様に何度も同じ言葉が浮かんでは消えて行く。少年には難解過ぎる『どうして』…………

 勝は渇望して心中で大いに叫んだ。答えが欲しい……明瞭かつ燦然とした解答が……憤慨し地団駄を踏んで悔しがりそして情けなくなる。藻掻けば藻掻くほど、一筋の光さえも見つからない。

 勝は景色を滲ませる温かいものを腕で拭うと再び駆け出した。

 どいつもこいつも信用ならない。

 勝が半ば自棄になっていた矢先、

「筒串君、今帰り?」

 勝が顔を上げると、そこには橘先生が立っていた。

 転入生を迎えた時を同じ、礼服の様な黒の上着と白のブラウス姿である。

「先生こそ急用じゃなかったかよ」

「丁度良いわ。筒串君、少し先生とお話しましょ」 

 女性教諭はそう言って微笑んだ。

 勝は、橘先生に先導されるがまま、選果場まで歩き。丸太を横倒しにしただけの簡素な椅子に腰を降ろした。

 無言で座った勝に対し、橘先生は白いハンカチを敷いてから徐に腰を降ろした。

「石切坂さんのこと、ありがとう」 

 第一声は感謝の言葉であった。

「先生がなんでそんなこと言うんだ」

 感謝されるべきは桜からであって、橘先生ではない。無論、勝は感謝をされたくて行動を起こしたつもりはない。

「今日、石切坂さんから聞いたの。筒串君が色々と助けてくれたり、優しくしてくれたりしたこと」

「別に……」

「筒串君は男前なのね」 

 照れて鼻面を上向かせた勝に橘先生は口元を綻ばせながらそう言った。

 そうだ、と呟いた先生は黒光りする片手持ち鞄から、丸められた油紙を取り出した。

「頂き物だけど、これあげるわ」

 包みを広げると、霰のように真っ白な金平糖がごろごろとあった。

「うん、甘い」 

 橘先生は一粒摘むとそれを口の中へ放り込んだ。

 油紙に包まれた金平糖はやがて勝の手の平に収まった。しかし、勝は先生の表情を窺うに徹し、決して食べようとはしなかったのである。

「石切坂さんね。また転校することになるの。だから、短い間だけど仲良くしてあげてね」

 満潮が近づき潮騒が目立つ時分となって来た。橘教諭はどこか悲しそうに、だが精一杯の微笑みを浮かべてそう言った。

「うそだ」

勝は思わず立ち上がった。

「先生まで俺たちをからかうのかよっ!」

 握り締められた金平糖がぎしぎしと悲鳴を上げた。

「実は先生ね。今、石切坂さんのお父様とお話して来たの」

 勝を見上げる凛とした瞳に一片の嘘は見当たらなかった。

 それでも何度も首を振る勝。

「先生も寂しいけれど、本当なのよ」

 勝はただ戸惑うしか出来なかった。何を言いたくて何を聞きたいのか。とにかく混乱していたのである。大袈裟な所作さえも、どこか空回りだった……

 石切坂 桜が転校してしまう。

 細波に撫でられたみたいに、勝の心中では思いと想いが複雑に交錯し、ある時は絡まり合った。すでに桜に対する疑問も、同級生へ向けた怒りの矛先も眼中にはない。この深淵を筆舌するにはただただ難しい。

 体が鉛になったように重く、まるで深海に佇む沈没船であった。

「ただいま……」

 すぐにでも寝転がりたい。次に覚醒してしまえば、全てが『夢』で納得出来る。そんな気がした。

「勝君。ちょっとおいでなさい」

 板間に足の裏を付いた頃、母の声がした。

 その凛とした声はいつもの柔らかいそれとは明確に一線を画していた。

「なんだよ」

 それどころではない。そう口に出したい言葉飲み込んで、勝は不機嫌を大いに表し居間へ向かった。母は居間に正座して静かに佇んでいる。目を閉じ背筋を正し、指先は揃えて膝に置かれてあった。

 勝はそんな母の姿を見るや、瞳を右往左往させながら、その前に正座した。勝が座ると、母は帯から一枚の藁半紙を取り出して勝の前に置いた。

「えっなんで……」

 それは設問に対して、散々たる解答。そして、即席に作られた偽漢字。漢字試験にも関わらず氏名以外に一つとして体を成す漢字が見当たらない答案である

 当然のごとく、答案には『皆無である!』と罵られるように唯一の丸が打ってあった。

「少し前に橘先生がいらっしゃいました」

「嘘だっ、先生は石切坂の所へ行ったって!」

「それじゃあ、どうして、教室のゴミ箱に丸めて捨ててあった、漢字試験の答案をお母さんが持ってるの」 

 動かす事は出来ない物証である。

「……」

 黙り込んでしまった勝は、微笑みながら金平糖をくれた清楚な女性教諭が突如として夜叉に豹変した。大いに恨んだことは言うまでもない。

「お母さんは漢字試験の事は怒ってません。例えレイ点だろうと、勝君が頑張ったのなら何も言いません」

 咲恵は再び瞼を閉じ、次に開けた時には強い眼光で勝を見据えた。

「お母さんが何を怒っているのかわかる?」

 妙に優しい口調だった。

「わからない……」

 勝は即答した。今は石切坂 桜の事ことで頭も胸も溢れている、回顧する余裕など持ち合わせていない。

「!」 

 背を曲げて頭を垂れた勝の頬を咲恵の平が打った。軽調な音が鼓膜に響き、それに続いて目の舌から顎の先まで痛烈な痛みが波紋のように広がった。

「勝!たとええどんなことがあっても、男の子が女の子に手をあげてはいけません!」

 団栗眼で咲恵を見つめる勝。頬に手をやると焼け石のように熱かった。

 森田 明美も同じ痛みを感じたに違いない……そして母も手もまた、痺れている事だろう。

「反省もしてるし、後悔もしてる」

 あの胸くそ悪さは二度と味わいたくない。

「それじゃ、森田さんに謝れるわね」

「うん」

 勝は俯いて言葉小さく答えた。

 『自分がしでかした責任は自分で果たしなさい』父が口を酸っぱくして勝に残した言葉の一つである。

 森田 明美に頭を下げるなど不本意以外の何ものでもない。しかし、ここで男としてのけじめを疎かにしては、曲げてはならない一本がねじれ曲がってしまう。

 少年ながら勝は父の言葉の意味を理解したのである。

「勝君」

 母の声に、勝が顔を上げると、咲恵は止め処なく頬に涙を伝わせて居た。

「母さん……ごめん」

 母がそこまで落胆するとは思わなかった……今更ながら激しい罪業の念に勝は肩を落としてしまった。

「わっ」

 母は涙を流しながら、突如勝を力一杯に抱き締めたのである。

「違うの。お母さん嬉しくて……勝君がしっかり誠実で優しい子に育ってくれた事が本当に嬉しいの……」

 勝の耳元で嗚咽混じりにそう言う咲恵。

「先生おっしゃったわ。勝君が桜ちゃんを守ってくれてるって。周りのみんなが嫌なことを言っても勝君だけは矢面に立って、桜ちゃんの為に頑張ってるって」

 言葉にするには容易くも、行動に移すのは難しい。しかし、我が子は多くを前にしても惑わされることなく、また迷うことなく。己の誠を貫いてくれた。それが嬉しかった。

「……」

 咲恵の懐柔は勝の心身をほぐす様に、その全てが五感を伝って全身を温かく優しく包み込んだ。

 いつだって勝は子どもなれど己が正しいと思うことを貫いて行動した……したはずだった……正しいと信じて疑わなかったことを誰一人として認めてくれなかった……

 そればかりか、掲げた正義が軋轢を生んだ。

 勝の心は、はじめて感じた『孤独』と共に徐々に崩壊を始め、いつしか自身さえも信じられなくなりかけていた。そんな勝の荒んだ心を母の言葉は不協にも噛み合わなくなった歯車をことっことっと、一つず癒す様に勝の深淵へ浸透していったのである。

 勝の瞳からは自然と水ではない温かい粒が一筋となって頬を流れ落ちた。

「あらあら。勝君、もらい泣きかしら」

 玉響の抱擁を解いた咲恵は指で涙を拭いながら優しい笑顔を勝に向けて穏やかにそう言った。

「ちっ、違うわい。男は親の葬式でしか泣くもんか」

 勝は慌てて後ろを向くと痛くなるほど、何度も瞼に袖を擦りつけた。

「さてと、今日は勝君の大好物。オムライスにしましょうね」

 咲恵は心を弾まさせてそう言うと立ち上がり台所へ歩いて行ってしまった。

「勝君嬉しくない?」

 念を押す様に問う咲恵……

「嬉しい」

 勝は正座のまま向き直って、そう答えた。

 無論、オムライスは好物であり、それが夕餉に並ぶ風景を思い浮かべただけで、口の中に洪水の如く唾液が滴る。

 だが、今日は違う。

 一番認めて欲しかった母に認めてもらえたこと、それが感慨無量に嬉しかったのである。


      ○

  

 翌朝目が覚めてもやはり、家の中だった。

夢すら見なかった覚醒は、一切れたりない沢庵みたく物足りなかった。上半身を起こしたまま、ぼーっとする勝。不意に昨日の母の温もりを思い出した。あの時は心身を癒す温泉のように心地よかった。

 しかし、改めて思い返してみると…………小っ恥ずかしい。

「おはよう勝君」

「おはようございます」

 いつもと変わらぬ朝が幕を開けた。

 昨日が万年床で高熱に魘【うな】されていたとすれば、本日は完全治癒である。桜が近々転校してしまうと言う事実こそ後ろ髪を力強く引っ張っていた。だが、勝は考えないようにしたのである。

 母に認めてもらえた。『勝に出来る事』を精一杯する。そうすれば事態は好転するかもしれない。半信半疑であったが一夜明けてそう思うようにした。

 春休みを間近に控え教室内は一層閑話に華が咲いていた。すこぶる温かくなった気候が春の訪れを肌で知らせ、春告げ鳥も随分と歌声を上達させていた。かといって、勝の軋轢が緩和されたわけではなく。勝に語りかける友人達は遠い場所から勝に目配せするに止まっていた。定時のチャイムと共に橘先生が出生簿を携えて教室に現れ、平素通り厳かに朝会が執り行われた。しかし、到頭隣人は姿を見せなかったのである。勝の胸の奥が再び騒ぎ始めた。

「橘先生!」 

 朝会が終わり、再び騒がしくなった教室内を飛び出した勝は、教諭を呼び止めた。

「なにかしら?筒串君」

徐に振り返った女性教諭は眉を上下させて、そう聞いた。

「今日、石切坂休むんですか……」

 真剣な眼差しを向ける勝。

「今日から本格的に公演の準備が始まるから、石切坂さんもお手伝いをするそうなの。先生、お父様に桜さんを学校を優先するようにお願いしたのだけれどね…………大丈夫。転校はまだ先の話しだから」

 先生はそう言うと、勝の頭を優しく撫でてくれた。

「わかりました……」

 胸をなで下ろした勝は、そう言って先生に背を向け、歩き出す。

「筒串君っ」

 今度は橘先生が勝を呼び止めた。

「はい」

 慌てて勝が振り向くと、

「放課後、職員室へ来て」

 短くそう言った。

座席に戻った勝は、再び不安に駆られて居た。橘先生の言葉がそうさせたのである。職員室などと、二度と行きたくもない。正直に勝は強くそう思っていたからなのだ。

 生ぬるい空気に混じってタバコの煙やインクの匂い。加えて、威厳ある教諭達が机を並べ、茶をすすっているのである。生徒からすれば、そこはまるで恐怖の巣窟であり、鬼ヶ島の存在だった。

 あの時は桜を救いたい一心でようやく入室できたものの、大義名分の無きに勇敢にも鬼の巣窟へ足を踏み入れることはしたくない。勝など、たちまち喰われてしまうだろう。

 皮肉にも懸案事項を抱えた日ほど、体感する時間の経過は秒読みの如く早い。

 やはり、昼休みは渡り廊下で狸と陰口で罵られた。だが、勝の口からは憂いの溜息しか出てこなかったのである。皺を寄せるように瞼を固く閉じて、時間を止めるべく念も込めた。顔さえ知らぬ曾祖父にすら願った。

 しかし、その時は順当にやって来るのである。

「早くどいてよね。掃除始められないじゃない」

 机に突っ伏した勝に晴海が言う。「今日はお習字に行かなきゃいけないの!」と続ける。

 ふーん。勝は額を少しだけ上げて、生返事でそう言った。

「お前、俺と同じ当番なのになんで掃除してんだよ」

「友達と代わってあげたのよ。テレビが来るって言うから……」

 あっそ。とすでにテレビが家にある勝が再び気なく返事を返した。

「だからどきなさいっていってるでしょーがーっ!そろばんに行かなきゃいけないんだから!!」

 晴海は声を荒げてそう言うと勝の頭に箒の柄で持って一撃を加えた。

「痛ってぇー。何すんだ」

 頭を押さえつつ立ち上がった勝。

「とっとと帰れっ」

 さらに箒を振り上げる晴海…………団栗眼でそれを見た勝は「やっべっ!」っと勝は鞄を抱え、慌てて廊下へ飛び出した。「凶暴女め。習字に行くんじゃないのかよっ」 

 廊下で悪態をついた勝。

「習字の後にそろばんに行くのよっ!」 

 勝の目の前を怒号と共に雑巾が横切った。

「凶暴で地獄耳かよ」

「何か言った!?」 

 勝は晴海の声が近く聞こえたことに思わず逃げ出してしまった。さすがに追い掛けてまでは来なかった様子だったが……

「丁度良かった」

渡り廊下まで逃げた所で橘先生と偶然出会った。

「これ石切坂さんに届けてほしいの」

 先生はそう言いながら、三つ折りにして携えていた藁半紙を勝に差し出した。

 見覚えのなるそれは、今朝配布された『図書室だより』であった。春休みに入る前の変則貸し出しと返却期日。新巻の案内などが記載されており、すでに勝の鞄の中で無惨にも教科書辺りの下敷きになっていることだろう。  橘先生とすれ違った後、勝は『図書室だより』を握り締めて、脱力した。半日近く憂いた懸案は今まさに一瞬で終わりを告げたのだった。

 しかし、余韻漂わぬあまりの瞬時の終演に拍子抜けすらしたい心境である。とは言え、快哉!と雄叫びを上げんばかりの開放感と公民館へ行く口実が出来たのである。もう一つおまけに僥倖【ぎょうこう】!とカモが葱を背負ってやって来た面持ちで万歳をしたい。

 皺まみれの藁半紙を鞄に忍ばして、勝は足取り軽く下駄箱を出た。春の日差しが温かく勝の前途を祝福してくれているようである。

 そんな折り、校門を越えた向こうには不可抗力にも大女の姿がある。桜への嫌がらせの数々万事許し難き、桜の敵であり勝の敵でもある、忌々しきその名は森田 明美。いつも通り森田を取り巻くのは二人つの顔。

 桜が欠席した本日は、森田が持って来たシャープペンシルの話題で一日中暇を潰して居た様子だった。

 むぅ……、勝は天を仰いだ。

 今更ながらもう一つの懸案事項を思い出してしまった。思い出さなければ知らぬ顔で通り過ぎたはずだった。

 だが、思い出してしまったものは仕方がない。勝は色々と思い浮かぶ限り覚悟を決め、自慢話に興じる森田の前に正々堂々と歩み寄った。

「なっ何よ…………」

 思わず身構える森田 明美。

「またぶつ気っ!」

「また先生に言いつけてやるからね」

 平手の一件が橘先生に知れたのはこいつらだったのかと、納得したものの所為が判明したところで何を展望しようものか。

「昨日は俺が悪かった。ごめん」

 勝は多少の抵抗感を無視して、それは堂々と頭を下げてはっきりとそう言い切った。

「……あっ謝ったって……まだ痛いんだけど……どうしてくれるのよ」

 意表を突かれたとばかりに、明美は返す言葉もたじたじである。

「俺医者じゃないから、痛いのはわかんねぇよ。なら、お前も俺をぶてよ、それで相こだ」

 これが勝なりの責任の取り方だった。例え、気に入らない憎たらしい相手とて、己の不徳を正すのは徳義ゆえである。

「思いっきりやっちゃいなよっ!」

「そうよ森田さん!」

 森田本人を差し置いて、取り巻く2二人は牙を露わに、今にも勝に殴りかからんばかりである。

「ほら早くしろよ」

 凛然と森田に歩み寄る勝。

 森田は鯉の様に口をぱくぱくさせて居たが…………

「もう……いいわよ……」

 明美は頬を紅潮させ、鞄を抱えた指をもじもじと絡ませながら、アヒル口でそう言った。背景に可憐な華が一瞬見えた勝は、眉間に縦皺を作って、見たこともない森田 明美の表情に凍りついた。

「そんなに見つめないでよ」

 勝から目線を逸らした通称、森ブタは耳を疑うしかない高い声を捨てて、駆けて行ってしまった……その姿に気を失う寸前であった勝。取り巻きの二人ですら、しばらく顔を見合わせて、口をぱくぱくさせていた。

 残った二人が森田を追い掛けてから、勝は摩訶不思議な面持ちのまま反対方向へ歩き出した。

 道中。頬も赤くなるまで抓ったし、頭とて拳骨で打ってみた。いずれにしてもこれは夢ではなかったようだ。夢であったなら、一年に一度の大悪夢であろう。

 てっきり機関銃の如く罵詈雑言を浴びせられた上、強力な張り手を仰々しく覚悟していたのだが…………拍子抜けと言うなればこれが真である。

 振り払っては舞い戻る小蠅のように、頬を紅潮させた森田 明美が眼前に蘇る。その度に、勝の徒労感は増すばかり……物理的苦痛は回避された事これ幸い。しかし、それ以上に厄介な精神的苦痛を残して行ったのである。

 恐るべし森田 明美。


      ○


 注意してさえ見れば、至る所に春がやって来ていた。電信柱の根本にはタンポポが黄色い花を開いていたし、見上げれば蚊柱も見受けられる。櫻の蕾はまだ堅かったが、田畑に目をやれば、つくしや大犬の陰嚢など萌え立つ春を演出している。

 勝は、家を通り過ぎ公民館へ向かった。

 人気の少ない公園と小道を経て、賑わう商店街へ。そして、櫻並木の小川を横切って蜜柑畑の道へ入る。

 常緑樹である蜜柑の木は別段代わり映えしない様相であった。公民に近づくにつれ、金槌や鋸の音、そして忙しなく作業に没頭する人夫の姿が目立つ。ある者は木材を運び、またある者は廃材を燃やしている。丁度、土台が完成した所だろう。複雑に組まれた木材の上に手慣れた様子で板が打ち付けられて行く。これ程の人間が公民館で生活しているのかと思うと、勝は思わず桜の事が心配になってしまった……

「おい小僧。見せもんじゃねーんだよ」

 入り口に佇んで居た勝に、粘っこく蔑んだいけ好かない物言いの男がそう言いながら近寄って来た。

 男は浴衣の襟をだらしなく開け、懐手した左手で胸をぼりぼりと掻いている、風貌からして人品骨柄いやしい人物であろうと勝は思った。

 しかし、細身の体躯に目尻の下がった目に泣き泣き黒子。小さな鼻と口はまさに眉目秀麗であり、加えて独特に醸す妖艶なる雰囲気からして、とても男であるとは信じられなかった。折しも胸元を露わとしていなければ、勝とて当惑しただろう。

「お前になんか用はない」

「あんだとぉ」

 額を寄せて言う男。

「俺は石切坂 桜に用があるんだ」

「あぁ、あの娘お前のこコレか?」

 へへへっ。と後味の悪い笑みを浮かべた男は小指を立て、それを勝の頬に軽く触れさせた。

「言っただろ、お前に用事はないんだよ」

 埒が開くはずがない。勝は男を避けて公民館の敷地へ足を踏み入れようとした。

「つれねーこたぁ、言いっこ無しだぜ小僧」

 細く長い足で勝の行く手を阻んだ男は、そう言って勝の胸ぐらを握り締め、見下した視線で勝をあざ笑い、続け様に鼻でも笑う。

「まずは言葉遣いからだ。年上には敬語だろ?普通?」 

 楽しんでいるかのように、胸元を握る腕が徐々に宙へ向けられる。見るからに貧弱な腕、しかし、その腕力は勝の体重を軽々と持ち上げるのである。

 勝は鞄を放り投げると、両手でもって男の素手に抗った。猫のように爪を立て、力の限りそれを食い込ませた。

「ちっ……」

男は勝の抵抗を受けるとバネの様に敏感に反応すると舌打ちをして、素手を引っ込めた。恨めしく勝を見据えた男は「あぶねーあぶねー」と言いながら、手の甲を丹念に確かめていた。

「俺には筒串 勝って名前があるんだ!名乗りもしないで〝おいこら〟扱いしたのはお前だ!」

 勝は声を荒げて、一喝した。

「んだと、くそガキがぁ」

 袖を捲って怒りを露わにした男だったが……

「礼儀には礼儀を持って接する。遊松【ゆうまつ】てめぇが悪ぃ。童に一本取られたな」

 遊松と言う男の背後に、坊主頭に捩り鉢巻、晒し布を巻いた下腹。両襟の付近に朱で染め抜かれた『祭』文字は黒地の半被にあって、派手に目立っている。

「座長……」 

 体躯しかり遊松より二回りは大きい。とにかく巨漢なのである。

 威風堂々と威厳を振りまくその大男は言わずとも知れた親分肌であり、気質が窺える。

「遊松!童の相手してる暇があったら、稽古しやがれっ!てめぇがこけらだろうがよ!」

 襟首を捕まれた遊松は、勝に向けた気勢はどこえやら、親に連れて行かれる子どもの様に「おやっさん!勘弁してくれよぉ」と情けない声を漏らした……

「童っ!見たけりゃ好きなだけ見てけ!」

 ガハハッ、と笑いながらそう言った親方。背中に大きく朱抜かれた『祭』の文字が威容に写った。

「筒串君、どうしたの?」

親方とすれ違う形で、もんぺ姿に箒を携えた桜が駆けて来た。

「先生に頼まれたんだ」

 勝は放り投げた鞄を拾い上げると、中をまさぐって皺にまみれた、無惨な藁半紙を桜に差し出した。

「図書室だより?」

 桜は、辛うじて破れていない配布物に目を通しながらそう呟いた。

「明日は来るんだろ」

「うん、そのつもり。わざわざありがと」

 桜の笑顔は健在でる。

「おう。じゃあ……あー、あの剥げ頭のごっついおっさんってさ…………」

「うん?座長さんがどうかした?」

「石切坂の父さんじゃないよな?」

 少し心配になったのである。

困惑した勝の表情の一方、

「違うよぉ。筒串君ってば面白い」

 桜はきょとんとした表情でこれを聞き。そして、大いに笑いながらそう答えるのであった。


      ○


 古今無双な出で立ちの祭男はその日の夜、何を血迷ったのか勝の夢中に登場し、あろうことか勝の枕元にて太鼓の乱舞を始めたのである。褌【ふんどし】に半被姿でバチを振り回す様は、さながら鰹の一本釣りの様相であった。「これでもかぁ!これでどうでぃ!」太鼓に負けず、がなる座長は明らかに勝の睡眠妨害を意図していたのだろう。そんな巨漢はやがて額のみならず全身至る所から雨の様に汗を滴らせ始め、やがて、味噌臭い汗が勝の布団に浸食を始めた。全身に渾身の力で持って布団を蹴り飛ばした勝は起き上がり小法師みたく、上体を起こした。 

 夢と連鎖し、呼吸は些か荒かった。しかし、見回した限り太鼓も祭男も姿は無く、雀の鳴き声と日溜まりだけがあった。

 最悪な夢見の朝。勝はぐったりとして学校へ向かった。祭男による精神的負荷は森田 明美を優に超越して勝の精神に傷を残したのであった。

 何せ、朝餉の味噌汁が飲めなかった程である……

 味噌汁恐怖症なる不可解な病に陥らんことを願いつつ、教室へ入った勝。

 その朝は教室内に雑談の声は少なかった。みな一様に広縁へ視線を向け、笑う者に首を傾げる者、他の教室へ吹聴に走る者。十色の同級生を訝しげに見回して、から勝は自席へ鞄を置いた。

 喜ばしい事に隣の少女は登校しているらしく、机の上には鞄が鎮座されてあった。

 石切坂 桜は広縁に佇んでいた…………

 勝の背中に注がれる視線を感じながら、勝は桜の隣へ歩いた。

 何とも風変わりな格好である。桜はセーラー服にもんぺを履いていた。それは昨日、公民館で見た物であり、これには勝も眉を顰めた。

「スカートどうしたんだ?」

 桜の隣に立った勝は桜に問い掛ける。

「破れちゃったの」

 勝だけに聞こえる声で桜はそっと答えた。

「何したんだ?破れるって……それに何だその格好」

 桜の立ち姿を頭から足先まで見て、勝は言った。

「ブルマで居るよりずっとましだよ」

「まあな……」

 セーラー服にブルマー。想像力を発揮した勝は桜の言葉に妙な納得感を得てしまった。

「それより、景ちゃんがんばってるよ」

 桜の視線が追う先には、グランドで走り込む景の姿があった。

 ソフトボール部の練習着を着込んだ景は数人の部員と共に、グランドの端から端まで全力疾走をしている。

 そう言えば……、と勝は呟いた。

 最近景の顔を見ないのである。大体は景から勝の家遊びに来ていたのだが、この所とんとと姿を見せていない……

 授業が始まる前、橘先生は桜を呼び出した。教壇に立った女性教諭の表情を窺えば誰しもそこに帰結するだろうと安易に予想をすることが出来た。すぐに席へ帰って来た桜であったが、それからが正念場である。桜の服装は明確に校則違反である。女性教諭の全ては桜に理由を求め、桜がそれに答えると渋々それを見逃した。

 しかし、男性教諭の全てはこれを断固として妥協せず、決まって桜を廊下に立たせたのである。この仕打ちにはさすがに、同級生達とて桜に同情の念を込めたが、それでは事態は好転するはずもなかった。

 唯一男性教諭の横暴に食って掛かった勝はもまた、漏れなく廊下に立たされる事となった。弁明をも聞く耳持たぬ不埒な教諭に勝はしかめ面で廊下に立ち据えていた。

 一方の桜は、廊下へ出る際ノートと鉛筆を携え、教室から漏れる教諭の声を一字一句聞きのがすまいと、廊下に這い蹲って殊勝にも筆を走らせていた。そんな繰り返し……昼休みまでほぼ立ちっぱなしだった勝は弁当を掻き込むと、しみじみと座席の有り難みを肌身に染み通らせていた。

「何か面白いもんでもあんのか?」 

 桜は広縁に佇んで、グランドを見下ろして居る。

「景ちゃん。がんばってるなって」

 防風林である松や、椚が植林された緑地越しに見えるグランドでは、時々木々の幹に隠れながら、今朝同様にソフトボール部員数名が自主鍛錬に勤しんでいるた。その中に腰まで伸びるお下げ髪を振り乱して駆けるのが景である。

「補欠のくせにな」

「でも、何かに一生懸命になってる人って輝いてると私は思うよ」

 桜は傍らに佇む勝の方を向いて、そう言った。

 まぁな、と勝も答える。

「昼からもずっと廊下だぜ……どいつもこいつも頑固だよな」 

 昼からの授業を憂いた勝が溜息混じりに頭を垂れた。

「ごめんね。私の為に……」

「絶対俺も一緒に廊下に出るからな」

 申し訳なさそうな桜の表情を見た勝は、桜の言葉を遮って顔を上げ、胸を叩いて見せた。

 宣言通り、午後の授業も勝は桜と一蓮托生。相変わらず桜は廊下を机変わりに、鉛筆を忙しなく走らせていた。

 我ながら、これほど体力を消耗した授業は初めてであると、勝は手前味噌にも一日を振り返り、廊下で耐え忍んだ授業の数々を思い返した。過ちにも抗議の際ついつい飛び出した暴言に拳骨をもらったのもすでに懐かしい過去の記憶である。

 頭を掻いている間に夕礼は終わり、早速桜は橘先生に拉致されてしまった。勝は橘先生ならばと、追随をせず大人しく下校の途につく事とした。

「ちょっと待って」

 校門を出た所で、勝は森田 明美の取り巻きである二人の女子生徒に呼び止められた。

「なんだよ」

 顔を見るたびに好戦的な二人であったが、今日は敵意の影は薄く、どこか当惑している様子であった。

「付いて来て、お願い」

 んー、と訝しむ勝。

「お願いよ」 

 面白いことに、この二人から嘆願されるこおになろうとは、断る体で居た勝もさすが断れば男気に欠ける。

「わかった」

 その言葉を聞いて二人は喜びはせずとも、見事に調子を合わせて安堵の息を漏らした。

 案内されるまま、勝は歩いた。

 校門から直線に伸びる道は里山へ続いており、それまでには長屋の様な木造家屋が軒を連ねている。

 家屋を群を抜けると、林を望広場に出た。切り株や掘り起こした岩などがそのまま幾つか残っており、加えて鍬や鋤などの農業用具も放置されたままである。

「またお前かよ」

 勝は追わず頭を掻いた。

「なによ」

 広場には森田 明美が居たのである。切り株にどっかりと尻をのせて待っていた明美は勝と顔を合わすなり、顔を赤らめて悪態をついた。

「じゃあ、森田さん。私たち帰るね」

「さよなら」

 勝の後ろに立って居た二人は、使命を果たしたと言わんばかりに、さっさと退場してしまう。枯れ木も山の賑わい、この時ばかりはいけ好かなくとも女子生徒に居てほしいと思う勝であった。つまり勝は、森田 明美と二人きりを心底望んでいなかったのである。

「帰っていいか」

 頭を垂れて勝の一言。

「今来たところでしょ!まあ良いわ。先にこれこれあげる」

 森田は鞄をゆったりとした手つきで鞄を開けると、ラムネビンを取り出し、勝の元へ駆け寄って来た。

「本当にいいのか」

 ラムネビンにはご丁寧にもビー玉落としまで添えられているではないか、勝は悦に入って、遠慮無くラムネを落とすと、立ち上がる泡を逃すまいとビン口を急いで自分へ押し込んだ。

「筒串君は、豪快でいいわよね」

 いつの間にか距離を取って切り株に腰を下ろしていた明美は、そう言って口元を隠して微笑んだ。張った頬肉が目元を押し上げ、まるで目を閉じている様である。

「んで、なんか用か?」

 交換条件は好まざる勝。

 しかし、ラムネを貰った手前、用件ぐらい聞いても罰は当たらないだろう。

「そのね……あのね……えっとね……」

 突如として体を尺取り虫みたく体をもじもじくねくねと動かし始める森田 明美。果たして、これは雨乞いの踊りだろうか。勝は見るも残念な森田踊りに、気力を奪われる面持ちであった。

「あなたに言いたい事があるの」

「だから早く言えって」

 今更何を前置くつもりだろうか。勝は段々と苛立って来た。手には温いラムネ。目前には気色の悪い踊りをこれ見よがしに見せつける森ブタ。そろそろ一息に逃げ出しても良い頃合だろう。

「その……パンツの事よっ!」

 辛うじて開いていた目を閉じて明美は大きな声でそう言った。

 いやーっ、と金切り声を続ける明美。

 あぁ、と勝も思い出した。桜に喰ってかかっっていた森田を突き飛ばし、派手に転んで露わとなった大きな尻に被さっていた白い物である。

「はぁ」

 思い出し、悪夢であると勝は溜息をついた。

「あれ誰にも言ってないでしょうねっ!私だってお父様にも言ってないのよ」

 顔全体をゆ夕日の様にして言う森田 明美。

 それは己が純白の乙女であると、声高らかに歌っている様であった。

「誰が言うかよ」

「ラムネもあげたんだから、誰にも言わないでよ!もし言ったらお父様にも先生にも言いつけてやるんだから」

 恥じらいの朱か憤怒の赤か…………いずれにせよ、用意周到に口止め品まで用意していた森田の思惑がようやく露呈したのである。

 馬鹿らし、勝はそう呟いた。

「俺はな、こんなもん!渡されなくても誰にも言わねぇよ!」

 怒れる事火山のごとし、勝は憤慨して、ラムネビンを岩に叩き付けた。 ラムネビンは果たして真っ二つに割れその破片が残っていた内容物と共に飛び、一方は明美の足下に、もう一方は切り株に当たって転がった。意図せず、ビー玉だけが勝の足下へ転がって来た。

「お前なっ!物をやれば誰でも言うこと聞くなんざ思うなよ!バカにすんなっ!」

 自己遵守において物品による懐柔などは愚弄以外の何ものでもない。思い返せば、取り巻きに自分を呼びにこさせたことさえ卑怯なのである。

 驚愕の表情を浮かべる森田を一目睨んでから勝は背を向けて歩き出したが、数歩進んで所で再び森田に向き直った。

「謝れ!」

「……ごめんなさい……」

「俺にじゃない!石切坂に謝れ!」

 怯える様に声を震わした明美。しかし、桜の名が飛び出すや、見る見る生気を回復させて、

「なんでよ?!あの子が私を無視したのよ!謝るのはあの子の方でしょ!」

 譲れないとばかりに森田は勝を睨み据えた。

「無視したら、机にブスって彫るのかよ、制服バケツに入れるのかよっ!俺は桜が悪いとは思わない、全部お前が悪いんだ!だから謝れ!」

 舌鋒【ぜっぽう】鋭く言及する勝。

「いやっ!」

「俺は何度だってお前をぶつぞ。お前の父さんや先生なんざ、恐くないんだ」

 口から出任せにも勝らしからぬ言動である。勢いに任せて吐き捨てた言葉を悔いながら、勝は口を閉じた森田に再び背を向けたのだった…………

 嘘も方便……しかし、この嘘を己が誇りと天秤に掛けて見ても、いずれにも傾かず空虚たる己への情けなさのみが悔恨として自身を落胆させるのであった。


      ○


猫柳が葉を出し始めた時節。風さえ吹かなければ日差しは暖かく、海岸で昼寝でもしたくなる陽気であった。

 そんな日和、勝は一人で選果場前の磯で釣り糸を垂れて居た。午前中の奮闘を物語る金バケツの中には底一面に沙蚕(ごかい)が犇めいている。

 幸運と不運は均一にかつ交代にやって来るもの。早朝から引き出した潮は未だに帰って来ないのである。見える魚が釣れるわけがない。

 しかし、海底が手に取る様に見えてしまう現状では、遺憾とせざる得ない。海猫すら波間に浮かんで狩猟を諦めているのだ、そこへ人間が浮きを浮かべた所で釣果など期待できるはずがない。

「今日は釣れないって、隣のじーちゃんが言ってたわよぉ」

 猫背に水面を眺める勝の背に声が掛けられた。

「景。何やってんだ?」

 振り向いて見ると、両足を交互に動かしながらその場に止まっている景の姿があった。あちこちが泥で汚れた練習着を着込んでいる。

「見ればわかるでしょうが。走ってんの。今日はもう練習終わったから自主練。春休み中ずっと部活だもん、体力つけとかなきゃ途中でばてちゃうもん」 

 ふーん、と不返事で言う勝。

「ねぇ、今晩、勝ちゃん家行っても良い?」

「ああ、つーか、いつも勝手に来てるだろ」

 むぅ、と景は言いながら額の汗を拭った。

「母さんにも言っとくから、晩飯食いに来いよ」

「やったあ!じゃあ夕方行くねっ!」

 胸の辺りで拳を作った景はそう言うと、堰を切った川のように勢い良く走り出した。

再び釣りに興じる勝は竿を上げてみた。だが、一口として食われていない……引き潮の時は漁師さえ海でないと言う、船を用いる玄人であっても見放す潮の悪さにどうして勝の竿にあたりが生まれるのだろうか。

「筒串君、こんにちわ」

 今度は桜が姿を現した。

 名に揃えた櫻色のスカートに色を合わせたセーターを来ている。

 よう、と勝は言った。

「これ咲恵おばさまに頂いたの。若い頃に着てらしたんですって」

 服に合わせたのか今日は長髪の黒髪を一つに束ね、馬の尻尾のようにしていた。

「ほぅ」

 身装が鮮やかになり、髪型が変われば少女の印象が変貌しないわけがない。艶めく黒髪にあって雪を思わせるほどに肌白く、日本人形の様相であった桜、しかし、麗らかな日和を感じさせる明るい装いとなった限りは、絢爛に咲く櫻の花そのものであった。

「釣れた?」 

 勝の傍らに立って、微笑みを浮かべる桜。

「もうすぐ釣れるから」 

 波間に浸した網は寂しく細波と踊っている。

 潮が動く気配が無いまま、時間だけが過ぎゆく勝は桜が居る手前どうしても釣果を上げ、格好良いところを見せたい。

 しかし、釣りとは魚からすれば生死をかけた戦いなのである、本意不本意に関わらず銀色の釣り針にかかろうものなら忽ち、陸上へ上げられ事切れる運命にあるのだ。勝の体裁に、その身を捧げるお人好しな魚がいようはずがない。

 当然、時間を空費しているに止まった。

「なぁ、学校一日くらい休めば良かったんじゃないのか?」

 先日のもんぺ姿で登校して来たことが急に気になった。安易に登校しただけに止まらず、まるで、これから待ち受ける困難さえも予見していたかのように、桜は廊下に出されてもなお、気概でもって筆を走らせ続けていたのである。

「私、勉強しないと駄目なの。お医者になりたいから」

 桜は遠い目をしてそう言った。

「医者かよ……」

「うん。私のお母さん私が小さい時に病気で死んじゃって、だからお医者になってお父さんや私みたいに家族を失って悲しむ人を無くしたいの」

 桜見上げた勝。桜は瞳に断固たる意思を輝かせて遠い海を見ていた。

「俺勉強できねぇけど、困ったら言えよな、なんとかしてやるから」 

「ありがと。でももう十分助けてもらってるよ。筒串君の側にいると心強いもの」

 耳にかかった髪の毛を掻き上げ、勝の顔を覗き込む様に言う桜。『ブス』の一件があった朝を彷彿とさせる仕草。今回はまとめられた髪が肩を支えに胸元で揺れていた。

 生唾を飲み込んだ勝は押し黙ってしまった。

「ねぇ、もしかしてこれ餌……?」 

 しばらくの沈黙の後、そろそろ尻が痛くなって来る頃合いで桜が勝の肩を突いた。

 桜はバケツの底で犇めく沙蚕を、指さしている。

「そう」

「手で触るんだよね」

 そう聞いた桜は一歩後ずさった……

「時々噛むけど、可愛いもんだぜ」

 勝はあっけらかんとした顔で、無視を一匹摘むと桜に突きだした。

「私はいい。バケツに戻して」

 首を何度も往復させながら桜は更に後ずさった。心なしか表情が引きつっている。

 勝は沙蚕を海に放り投げると、バケツを持って立ち上がった。

「おーいっ!貝拾いに行こうぜ!」

 いつの間にか選果場まで退避していた桜に声を掛けた。桜が駆けて来るのを見てから、勝は海辺にバケツを逆さに向け、沙蚕を放してやった。

 いいの?、と不思議そうにそれを見つめる桜。

「また取ればいいし、家に置いとくとすぐ死ぬから」

 こっち、と勝はバケツを片手に磯を歩き始める。

 潮だまりには小さな魚や蟹。海藻に磯巾着。磯に幾つもある潮だまりはまるで、別々の世界が広がっているようである。

 桜は「わぁ」といちいち潮だまりを覗き込んで感嘆の声を上げている。そんな桜の姿を横目に、勝は一人貝を堀を始めた。呼び寄せることは至極容易かった。しかし、あれほど愉快に笑う桜に声を掛けるのは野暮というものである。

 潮の引いた海には蟹やそれを啄む海鳥、加えて、流木やらゴミやら、とにかく賑やかであった。その中にあって波打ち際へ足を伸ばすと、灰色の砂に小さな穴が幾つも開いており、これが貝の埋まっている証拠である、その下を浅く掘れば間違い無く貝が顔を出す。

 おぉ、勝がは貝の見つけ方を指南すると、桜は目を輝かせて尊敬の眼差しを勝に向けた。勝が舞い上がったことは言うまでも無かった……

 二人は夢中で貝を掘った。

 桜がぎこちない手つきで砂を掻く傍らで、勝は雑巾掛けをする格好で、砂を一直線にほじくり返した。

「すごいすごい!」

 思わず拍手をする桜。勝が描いた一筆書きには大きな二枚貝が数多くその姿を露呈させていたのである。

「秘技っ!座布団返し!」

 砂の上に座り込んだ勝は、荒い息で得意になって言った。

 しかし…………

「ぶあっ!」

 次の瞬間、突如として押し寄せた波が勝を襲った。頭から水を被った勝は全身ずぶ濡れとなり、這々の体で波から遠ざかった。 

 今更潮が動き出した。干潮の次は満潮である、見る見る間に砂浜が波に浸食され、折角勝が掘り起こした貝も軒並み波に浚われてしまった。なんと間合いの悪いことだろう。

 ズボンから上着まで冷たい海水を吸い込み更に纏わり付いた細かい砂は払っても落ちる気配すら感じさせない。

 げんなりする勝。

 しかし、波間を見れば、靴を片手に黄色い声を上げながら、寄せては返す波と戯れる桜がいた。その姿は傾き行く優しい太陽の日差しと凪いだ海、広大で美しい無為自然な風景に良く映えていた。

 不幸中の幸いとはこれかいに。

瀬尻から瀬頭へ打ち寄せる波はやがて、磯を覆い隠しはじめた。勝と桜は、足場に波が届かない間に選果場へ道具を携えて逃れたのであった。

「たくさん取れたね」 

 貝で半分埋まったバケツを両手で持つ桜が覗き込みながら微笑み掛けた。

「本当はもっと取れたんだぜ」

 不本意とばかりに、水の滴る袖を桜に示す勝。

 そうだね、と言った桜の足取りは軽快である。

「母さんの作るバター焼きがうまいんだ」

 勝は嬉しくなり、砂の付着した袖で口もとを拭う真似をして見せた。

「いいなぁ、咲恵おばさまお料理上手だもの」

「じゃあ、今晩食べて帰れよ。景も来るし……その、大勢で食べた方が……うまいだろ」

 勝は頬を指で掻きながら、桜から顔を背けてそう提案した。

「じゃあ、今日は甘えちゃおっかなっ。でも本当に良いの?」

「いっ!良いに決まってんだろっ!」

 晴れ晴れとした気持ちになった。小躍りしたい面持ちである。勝は思わず笑顔で桜に歩み寄ってしまった。

 人知を凌駕した壮大なる茜空の下並んで歩く二人つの影の面持ちは明るい。勝はこれほど悦喜にまみれたことは久しくなかった。夕餉を桜と共にしてその後は咲恵も交えて、大いに遊ぼうと膨れ上がる勝の算段は止まる所を知らないのである。

「なぁ、そろそろ、みんなと喋っても良いんじゃないか」

森田は言った『あの子が無視した』と。桜が周囲お距離を置かず、勝に接するように教室内に溶け込んだなら、きっと隠忍自重かつ孤高に振る舞う必要も無かっただろう。

「みんなには悪い事してるってわかってる……でも、仲良くなったら、友達になったら、別れる時辛いから……」 

 小揺らぎに物憂を含んみ桜は俯いた。

 勝も口を詰むってしまった……橘先生の話しを思い出したからである。『近いうちにまた転校する事になるの』桜は転校することになる。勝は心中は荒れる事無く、それを冷静に装った。

「転校だってもう何度もしてるから、慣れっこなんだけれど、やっぱり別れだけは慣れなくて……だから、友達も作らないし、誰とも喋らない。意地悪されても、すぐに転校しちゃうから耐えられるし……不思議なんだよ。叩かれても痛みはすぐに消えるけど、〝さよなら〟の痛みはずっと消えない……ずっと……」

 桜は声を震わせながら胸に手をやった。

「泣くなよな。今は俺もいるし景だっているだろ。母さんは桜が来てから嬉しくて仕方ないみたいだしさ」

 慰めるつもりなど無い。時に言葉とは通り過ぎる微風のごとく無力なのである。桜の悲しみ苦しみは、勝がいかに苦悶しようともわかるはずもなく。取り繕った同情などそれだけで業腹である。

 勝に言えることは桜の述懐に対し、赤心でのみ答えることだけ……

 うん、と桜は頷いた。

「私ね、ありがとうが言いたかったの。だって筒串君ってばお豆腐置いてどこかに行っちゃうんだもん」

 懐かしい光景が勝の脳裏に蘇る。

「転入して来た日ね。私、絶対っ。筒串君に意地悪されると思ってたんだ」

 えぇ、と勝は思わず立ち止まってしまった。

「だって、こそこそ私のこと見てたから……」

 誤解である。っと、心底から叫びたかった。あの日始めて見た転入生の燦然としたるや、勝の心を鷲掴みにして放さなかった。

 しかし、第一声に怖じ気づいた少年が堂々と話しかけることが出来るはずがない。今であれ果敢かつ敢然にも、声を掛けなかった己の度胸の無さは嘆かわしい限りである。

「見てねぇよ」

「見てたもん!」 

「……まぁ、少しは……」

 終わりよければ全て良し、己が意気地のお陰でこうして桜と並んで歩く今がある。恥じるべきはそれを素直に喜ばない自身であろう。

「でも、すっごく優しくて、私の為に一生懸命になってくれるんだもん。ありがとうって言いたくなっちゃった」

 桜は、はにかんでそう言った。

 桜に笑みが戻って来た。勝はそれを見て胸中に込み上げる熱い何かを感じ、そして悦に入ったのである。母が認めてくれた己の正義。それが故に拳骨を貰おうとも廊下に立たされようとも、背に掲げた錦の御旗が威風堂々と靡く限り、勝は挺身して桜の為に奔走するだろう。

「うぉおおおっ!!」

 瞬時に烈火の如く情熱を滾らせた勝は天に向かい凱歌の咆哮を上げるのであった。


      ○


「んもぉ、勝君たらなんでもっと早く言ってくれなかったのよぉ」

 桜を伴って家に帰ると、咲恵が余所着に着替え終わった所であった。

 無柄の桃色地の着物に赤い帯を締めた出で立ちである。

「景ちゃんも桜ちゃんも来るなら、お母さん婦人会お断りしたのにぃ」

 もぉ、と板間で悔しがる咲恵。

「いえ、あの私帰りますから」

 遠慮を額に並べていう桜……

「桜ちゃん!それは私が許しません!すぐに帰って来るから、絶対に待っててねっ」

咲恵はそう言うと、風呂敷を板間に置いてから小走りに台所へ向かった。

「勝君、貝は水につけて置いてね。帰ったらすぐバター焼きにするから」 

 台所から指示を飛ばす母は一心不乱に米を研いている様子である。

「おばさま、私もお手伝いします」

 土間から台所へ通じる格子戸を開けて桜は台所に姿を消してしまった。

 残った勝は、釣り具を土間の端に置いてバケツを携えると、敷居を跨いで裏庭へ向かった。途中小道に面した台所の窓からは、親子の様な会話と笑い声が漏れて聞こえる。台所に立った事の無い勝にはわからない声であった……

 勝は井戸の水を汲み上げ、バケツに水を張る。バケツをそのままに再び土間に戻ると、も一つバケツを手に戻って来た。

 風呂の水張り勝の日課である。竈の上部にある窓を開け、そこに並々と水を汲んだバケツをひっくり返す、この作業を何度か繰り返すと、丁度一人分の水量となるのである。ついでに、竈の準備のしておく。勝は水を入れたバケツを持ち帰ると、格子戸の手前にそれを置き、ようやく板間にあがった……

「そんな濡れたままで畳みの上歩いちゃ駄目よ。着替え出しとくから、縁側から上がってね」

 たらい回しと、勝は「別に良いだろ」と抗議したものの「駄目っ!」離れから木霊する咲恵の一喝に仕方なく縁側に向かうのであった。

 早々と寝間着に着替えた勝は居間へ行き、テレビを付けた。

「勝君。机くらいは用意しておいてね。後、景ちゃんと桜ちゃんにお風呂沸かしてあげてよ。お母さん早く切り上げて帰って来るから、絶対に二人とも帰しちゃ駄目だからね!」 

 余程急いでいるのだろう、咲恵は口早にそう勝に言付けると風呂敷を抱えて「行ってきまーす」と夕暮れ迫る外へ出て行った。

「風呂入るか?」  

 ガス釜の様子を見ている桜に尋ねてみた……

「私はお米見てるからいい。景ちゃん来るんでしょ?沸かしておいてあげたら?」

 少し考えた勝。桜が湯浴みするならば、今すぐに沸かしても文句はないのだが……

「そうしてやるかな」 

 幼なじみである景では重い腰を上げるに欠ける。

 しかし、快晴とて肌寒い昨今、額に汗するほど走るのは相当な距離である。磯辺で出会った景を思い出すと、勝はさぞかし気持ちが悪いだろうと、老婆心を起こした。

 白い三角巾を頭に、足先まである割烹着を着た桜を横目に勝は風呂釜へ向かった。

 我ながら大雑把に放り込んだものだと竈の中を覗き込んで思った。勝は、成り行き任せにも、マッチ三本を一気にすると、棒に火がたっぷり宿るまで我慢して釜の中へ放り込んだ。

 乾燥した松葉はまさに『一瞬の喜び』と称すに恥じぬ燃え上がりを見せ、折り重なった薪を煤で化粧する。

 だが、所詮は一瞬なのである。炎を上げたかと思うと、すぐにフィラメントの様に赤い線を宿すに止まり、やがては灰になってしまう。勝は、一瞬を今一度とばかりに、尽かさず火吹竹を口元に思い切り息を吹き込む。すると、再び炎は文字通り息を吹き返した様に薪を焦がすのであった。

 一度薪に炎が宿れば、恐い物など無い、次々と薪を放り込めば後は炎がそれを飲み込んでくれる。

 成り行き任せにしては上々な結果である。勝は切り株に腰を降ろすと、ぱちぱちと音を立てながら炎が踊り狂う竈を見つめていた。

 時々炎が生き物の様に見える時がある。熱を受け火照った顔でぼーっと見つめていると揺れる炎の一つ一つが追いかけっこをしているように写るのだ。

「勝ちゃん、来たよぉー」

 景だった。

 紺色のスカートに風呂桶を抱えている。着替えだろう衣服の上には黄色いアヒルのおもちゃが窺えた。

「まだそのアヒル持ってんのかよ」

「そうよ、勝ちゃんからの贈り物だもーん」

 はいはい……と勝が半ば呆れて言った。

「今、火入れた所だから、ちょっと待ってろよな」 

 そう言って、勝が火吹竹を柱に立て掛けた丁度その時、

「ねぇ、お味噌どこにあるか知らない?」

 桜が裏木戸から顔を出した。

「あっあら……石切坂さんっ……いたの……ね」

 表情を引きつらせ、口元を痙攣させながら景が言う。

「景ちゃん」

 一方の桜はきょとんとした顔をしていた。

「味噌?俺わかんねぇや」

 男子厨房に入らず。父が酒の席で吹いた大法螺である。それを真に受けてしまった勝は、つい最近まで台所にすら近づかなかった。

「お味噌ならお砂糖の隣の大きな壺に入ってるわよ。ぬか床のそば」

 景は溜息をつきながら、桜に説明して見せた。

「あの壺、お味噌だったんだ。私お漬け物だと早合点しちゃった、景ちゃんありがと」

顎に指をやって思い出すようにそう言った桜は、燦然とした笑みを残して、顔を引っ込めた。

「景、よくわかったな」

 感心する勝。

「まぁ、何回かお手伝いした事あるしね。そっかぁ……石切坂さんいるんだ……」

 項垂れて肩を落とした景はそう言って玄関へ向かって歩いて行ってしまった。

「変な奴……」

 勝は景の意図を知るよしも無く、勝は再び竈へ顔を向けた。

 沸かし過ぎたところで景が風呂場に入り、第一声に「熱ちぃーっ」と大声を出して騒ぎ「勝ちゃん沸かし過ぎ!」と涙目の景が窓から顔だけを出して勝に文句を言った。これに対して「かけ湯するだろ普通?」と半分笑い返した勝。「なにをぉ!」拳を振り上げて身を乗り出そうとして景子は慌てて身を引っ込め「ばかっ!」と窓ガラスが割れんばかりに勢いよく窓を閉めた。

 その後、風呂場からは水がつぎ足される音が反響し、勝もこれに合わせ煌々と熱気を讃える薪を数本抜いた。

 しばらくはかけ湯の音だけが木霊していたが、やがて景の鼻歌が聞こえて来た限り勝は、再び抜いた薪を火ばさみで放り込んだ。

「景、湯少ないか?」

 鼻歌が終わり、静かになった所で勝は、口元に両手を添えてそう聞いた。

「だいじょーぶ、お湯加減も良くなったし」

 疲れが取れたのだろうか、弾んだ景の声が帰って来た。

 しばしの静寂があって、再び風呂場のドアが開いた。

「先にお湯もらうね」

 桜の声。

 はなっから勝は『行者』の囁きに耳を貸す気は無い。理非曲直は別として、勝にとって桜は高嶺の花を脱し、すでにそばに咲く憐花となっていたからである。

「湯加減良いか?」

「うん、気持ち良い」

 しかし、やはり風呂場から聞こえる桜の声を聞くと、行者が肩に手を置くのである。

片足でも突っ込もうものなら、そのまま全身を引きずり込まれるだろう。

 行者再び…………

『剣客よ!桃色冒険浪漫譚を高々と謳い!己が欲情を大義名分に戦の時は再来した!此度こそ!我と共に桃色世界へ!』

 誘惑とは常に傍らでほくそ笑んでいるものなのだ。耐え難きは流され、易きもまた流され、欲望のままひたすら流される生涯ほど虚しいものはない。

『戦とは機なり!地の利を征し天の利をも得た今!何を恐れるものあろうや!』

 奇しくも行者は勝ち鬨を上げた。

「勝ちゃん、ちょっと来て」

 裏木戸が開き、今度は景が顔を出してそう言う。

「なっ!なんだよ、吃驚するだろ……」

 行者は抜かったのである。


 《地の利は天の利に如かず、天の利は景に如かず》


 景は行者を大いに落胆させ、桃色世界を今度とて諦めざる得なくしてしまった。

  居間に戻るとすでに居間にちゃぶ台が出され、湯気を讃えるお櫃が傍らに置いてあった。台所からは味噌汁の芳しい匂いが鼻腔を擽る。

「また覗こうとしてたんでしょ」

 テレビの前に腰を降ろした勝に景は断定した。

「ばっ!ばかなこと言うなよ」

 勝の狼狽たるや、弾みでチャンネルダイヤルを半回転もさせてしまった。

「私のも覗いてたんじゃないでしょうねぇ」

 身を乗り出して言い寄る景。その膝元にはアヒルのおもちゃが見える。

「お前の裸見ても仕方ないだろ」

 がっかりした顔をわざわざ作り景に向けて言う勝。

「そんあ顔しなくたっていいじゃない。濡れた黒髪が色っぽいかもしんないよ」

 まだ湿り気を含んだ長髪を撫でながら景は主張する。

「それさ、鬱陶しいから切れよ、短い方が似合うって」

「なにそれぇ!勝ちゃんが〝長い方が可愛い〟って言ったんじゃない!」

 景はついに立ち上がってしまった。

「俺そんな事言ったか?」

「言ったわよ!私が……おかっぱだった頃……」

 んー。腕を組んで一様思い出してみる勝だったが…… 

「覚えてないや」

「むきぃぃーっ!!」

 景は顔を真っ赤にしてそう叫んだ。

「どうしたの?何の話し?」

 景の咆哮が勝を仰け反らせた瞬間、戸が開き、桜が姿を現した。風呂上がりの桜は頬を桃色に染め。艶を増した黒髪を丁寧に手拭いで拭いて居る。

「筒串君、温くならないうちにどうぞ」

 桜は勝にそう言いながら、丁度景の向かい側に腰を降ろした。

「俺風呂行ってこよー」

 触らぬ神に何とやら、勝は助け船とばかり洗面所へ駆け込むと迫り来る景の目前で戸を閉めた。

「傷つくなぁ…………」

 戸の前で肩を落とした景はそう呟いて、とぼとぼと桜の対面に座った。

 丁度、ブラウン管には人気の人形劇が始まっており、桜は髪の毛を拭きながらそれを食い入るように眺めている。景も桜と同等の長髪であり、その艶も色も拮抗している、しいて言えば景の方がくせっ毛である。

 だが、それは大凡敗因になるとは俄に思えない。

「勝ちゃん、あなたのお風呂覗いてたわよ」

 意地悪と、景は桜の様子を窺った。

「へっ、そうだったんだ……」

 眼を丸々として景に向き直った桜だった。

 しかし、やがては風呂上がりの桃色の頬を紅潮させて俯いてしまった。

「うそ……あんた覗かれても平気なの?」

 景は桜の反応に絶句した……

「少しだけなら…………」

 桜は黒髪を指で弄びながらはにかむ。

「なんですとぉ!」

破廉恥極まりない!景は大股を広げ逆体位で四つん這になって後ずさると、腰を畳みに落として、目元だけを痙攣させていた。

「よくあんな熱い湯に入れたもんだぜ、茹でたこになっちまう」

 あちぃー、と手団扇で仰ぎながら勝が戸を開けた……

「……景……お前……まだアップリケパンツ履いてんのかよ……」

 紺色の中に目立つ白。その純白の一部には、赤い生地で林檎を象ったアップリケが施されてあった。

 えっ?と景が勝の顔を見ると、勝は汚い物を見るかの様に眉を顰め縦皺をこさえていた。

「すっすけべっ!」

 景は泣きそうになりながら、スカートでそれを隠すと、お櫃の蓋を取って勝に投げつける。

 あぶねっ、と勝は紙一重でこれを回避したが、次に飛んで来たアヒルのおもちゃは見事勝の顔面を捕らえた。

 のわっ、と情けない声を出して勝はひっくり返ってしまった。

 その拍子に洗濯ばさみが山と入った一斗缶を倒し、積み木が崩れる様な音と缶が凹む間抜けな音が居間に広がった。

「すけべっ!」

 自業自得よ。景は洗濯ばさみを拾う勝を一瞥すると、怨念を込めるかのように戸を閉めた。

「はぁ……私、もうお嫁に行けないわ……」

 項垂れて肩を落として呟く景……

 大きな溜息をもう一つ付いてから、景はちゃぶ台に突っ伏してしまった。

「あのね、景ちゃん。さっきの嘘だよ……私、筒串君がそんなことするはず無いって思って……」

 景の様子を見ながら顔を寄せて呟くように桜が言う。

「むぅ。そんな事わかってるわよ」

 じゃなきゃ変態よ、っと景は顔を上げて桜に言った。

「よかったぁ、まだ二人とも帰ってなかったのねぇ」 

 どっぷり日が暮れた頃、咲恵が帰って来た。

「「お邪魔してます」」

 見事に二人の言葉が重なった……思わず顔を見合う桜と景。

 あらあら気が合うのねぇ、と咲恵は笑いを含ませて言った。

「たい焼き頂いたからみんなで頂きましょう」 

 咲恵はそう言いながら、膨れた紙袋をちゃぶ台の上に置いた。途端に香ばしくも甘い匂いが立ち上る。

「お手伝います」「私もっ」

 またしても声が重なった二人……

「いいのいいの、桜ちゃんも景ちゃんも座っててねぇ。やっぱり気が合うのね二人とも、

お母さん何だか嬉しい」

 立ち上がろうとした二人は咲恵に制され、渋々腰を降ろした。

「景ちゃん……」

「何よ」 

 桜は強い眼光で景を呼び、景がそれに答えると、目線でちゃぶ台の下を指した。「ん?」景がちゃぶ台の下を覗いて見ると、桜の足とスカートがあった。

 景が文句でも言ってやろうと思った矢先……何と桜のスカートの裾が徐々に巻くし上げられ始めたではないか、景子は驚きつつも生唾を飲み込んでこれを凝視した。

 景も羨む透き通る様な色の太股が段々と露わになり、やがて、純白の園が露わとなった。「!」景は驚愕した。驚きのあまり、ちゃぶ台に思い切り頭をぶつけてしまったほどである……

 白の園には禁断の果実が縫い付けられてあったのだ。

 それもなんと、景と同じ赤い生地で…………

 この様な偶然が果たして都合良く成り立つものだろうか……景は表情を硬直させたまま、桜を見つめる。桜は、そんな景に、力強く頷いて見せるではないか。

「どうやら私達本物の同士だったみたいね」

 景も深く頷いてから、声を太く凛として宣言した。

「私、林檎のアップリケ大好きなの」

 一方の桜も、瞳に決然と意思を込めてそう言った。

「これからは〝桜〟って呼ばせてもらうわ」

「望むところよ」

 互いに揺るぎない共鳴を深淵から感じた景子と桜。二人は今一度深く頷き、熱い握手を交わした。


 かくして満場の一致を経てここに『林檎アップリケ同盟』が成立したのである。


      ○


 人間万事塞翁が馬。咲恵によって修繕されたスカートを身に桜は景と登校するようになった。偶然にも勝と鉢合わせれば三人で歩くこともある。

 しかし、女子と共に登校するのが気恥ずかしい勝は前か後ろか……いずれにしても肩を並べることはなかったのである。

 摩訶不思議なことに、母が婦人会からたい焼きを持ち帰ったあの夜から桜と景は目まぐるしく仲良くなった。たい焼きの仕業なのか、はたまた咲恵のバター炒めが成した業なのか……いずれにせよ、勝の知るところではなかった。

 そろそろ春休みの予定が目立って来る時季であり、宿題の出ない春休みは、学生の本分を忘却の彼方へ追いやり、学業から解放された非現実を謳歌する貴重かつ大胆な日々。

それを悠然と過ごすは勿体ない!ゆえに色めき立つ教室内では所狭しと日捲りに、『友との用事』を書き込んで行くのである。

 去年の今頃は幸太や一郎と相俟って恍惚と夢想家のように物見遊山や愚考なる悪巧みで盛り上がったものである。

 しかし、今年にそれはない。未だ幸太や一郎との軋轢も治まっておらず、勝は完全に蚊帳の外に放り出されたままとなって居た。

 それでも勝は別段気にも止めなかった。下校は桜と坂を下り終えた国道で待ち合わせして一緒に帰り、家に帰ると一目散に神社へ走ってキャッチボールをする。

 こんな調子が勝の日常となりつつあったのである。その日も、桜と汗を流した勝は家に帰るなり「腹減ったぁ」と居間へ寝転んだ。

「今日、桜ちゃんは?」

 台所に掛かりっきりの咲恵は、背を向けたまま勝に聞いた。

「今日は、大入りの宴会があるんだってさ」

「あらあら、それは景気の良い話しねぇ」

 こけら落とし公演から客入りは上々であり、昨日ついに満員御礼を迎えたと桜が嬉しそうに語っていた。

「それじゃあ、このお稲荷さん持って行って、陣中見舞に行っておいで」

 まだ温かい揚げに酢飯を詰め込んだ咲恵は、大皿にこれを大層並べて、勝の目前に持ってやって来た。

「こんなにかよ……」

 そうよ、と指についたご飯粒を口へ運びながら咲恵が言った。

「景ちゃんの所もって思ってたんだけどね、ほらお酒の肴って桜ちゃんの口に合わないと思うのよ。だからこれだけ届けてきて」

 果たして、自分の口に入る分はあるのだろうかと一抹の不安が勝の胸中は小揺らぎを起こした。

「懐中電灯もってく?」

「いいよ」

 両手で皿を抱えた勝は、「持てやしない」と呟いて家を後にした。

さすがに一寸先すら見えない小道は遠慮した勝は、公園から平行に国道を通り、フェリー乗り場である桟橋と農協へ向かう分岐点の橋を川沿いに進路を取った。今夜は十五夜に負けず劣らずの優美な満月であった。家々から漏れる灯りと相俟って道路は宵の口程度明るい。

 満潮を迎え川の水位も格段に高くなっている。波打つと水飛沫が道路を湿らせた。

 商店街には一座の幟が何本も立てられ、さながら盆踊り会場の趣である。小川を通り過ぎ、蜜柑畑が目に入ると、入り口から公民館までの道程には中央で紅白に塗り分けられた提灯が両端に釣り下げられ、灯りこそ灯っていなかったが、地道の悪路を宵祭りの参詣道のごとく賑やかに飾りたてていた。

 耳を澄ませば祭囃子が聞こえてきそうな情景に、勝は和やかにも明後日から幕を開ける春休みに一層胸を高鳴らせるのであった。

「やめてっ!」

 前方から、そんな悲鳴が聞こえた。

 勝が駆けて行くと、背の高い者と小柄な者とが争っているではないか、さらに近づく勝……その目前には戦慄が走った……

「お前っ!何やってんだ!」

 勝は思わず、手に持って居た大皿を大柄の背中に叩き付けた。

「んだぁ……小僧お前かぁ……!」

 一度は蹌踉めいた。

 しかし、振り向き様に振り上げた不意の一撃が勝の顔を捉え、勝は大皿を投げ出して派手に地面に倒れ込んでしまう。細く見えた腕は勝の想像を凌駕する豪腕だったのである。

 路傍の石と化した勝の目前で意中の少女が髪の毛を引っ張られ、今まさに畢生【ひっせい】の傷を負わされようとしている。「痛いっ、やめてっ!」叫び疲れ、声すらも気力で絞り上げる少女。

 勝は瞬きを何度かした。その度に瞼が岩のように重くなる、このまま暗幕を下ろせば次に目を覚ます時には朝になっているのだろうか。もしやこれこそがすでに夢中なのではなかろうか。夢見騒がしなら…………

『何をしている男児よ』 

 行者が話しかける。

 すでに音すら耳に入って来ない、目前にはついに押し倒された少女の姿が朧気ながら映るのみ……

『今立たずしていつ立つ時ぞ!』

 破れた和傘を差した小人が勝の目の前に立った。

『思い出すのだ、我が誇れりし強者よ!歴戦の日々を!さぁ!』

 行者そう言うと懐から米粒程も無い何かを手の持ち、やがてそれを勝に向けたひょいと投げつけた。

 その刹那。勝の眼前には、

『……勝君だけは矢面に立って、桜ちゃんの為に頑張ってるって』

賞賛してくれた母の姿。

『……私の為に一生懸命になってくれるんだもん……』

 はにかんだ桜の顔。

 そして……


『……男には、死んでも負けてはならない時が来る……』

旅立つ朝、中学生になる勝の頭に手を置いて、残した父の言葉……


『いざ行かん戦人よ!そこに負けられぬ戦がある限り!』


 行者は勇敢の弁を終えると和傘を空高く舞上げるた。

「父さんっ!」

 和傘の下に現れた懐かしき父の顔。

 勝は途端に意識を鋭意に成し、手をついたまま形振り構わず敢然と桜に馬乗り唇を奪わんとする唾棄すべき不埒者に頭から体当たった。

 酒の匂いをまき散らす不届き者は、勝の不意打ちに蜜柑畑へ勝と共に倒れ込み、仰向けに四肢を暴れさせながら何かを怒鳴り散らした。

「逃げろ!」

 勝は、ブラウスの襟元を押さえる桜に檄を飛ばした。樹木の影で表情こそ窺えなかったが、桜は小刻みに震えていた。 

「るせぇ!」 

 勝の腹に乱暴者足が食い込んだ、道まで転げた勝は嗚咽を繰り返した。口から内蔵が飛び出しどうな激痛に悶える勝。

 桜はすでに公民館へ駆け出し、傍らに姿はない。

 無惨にも割れ飛び散った稲荷鮨。その一つを自分が踏んでいる事に気が付いた勝はいたたまれなくなった。母のこしらえた稲荷鮨なのである。

 だが、感傷に浸っている余裕などあろうはずが無い。額に浮かんだ脂汗、呼吸の度にずきずきと傷む腹。

『退きぎわぞ!』 

 蜜柑畑に視線を向け、立ち尽くしていた勝は、背後の恐怖に抗うように、行者の号令一下、疾走した。痛む腹に力を入れ、今保てる力を全て用いて走りに走った。

 背後に迫る恐怖。振り向けば鬼気迫る形相がすぐ後ろに背襟首を掴まんと迫っているやもしれぬ。勝は咄嗟に近道である闇の小道を感覚だけを頼りに駆け抜けた、とにかく無我夢中で走ったのである。

 門柱の影に背を持たした勝は、追っての有無に心震わせながら佇んだ。

 追っては無かった……

 胸をなで下ろすと、途端に嘔吐感が再び襲い加えて頭痛までもが加わった。

「勝君、お帰り、随分と遅かったのね」

 離れから勝の下着を持って現れた咲恵は、「そんなに汚して、何かあった?」と心配そうに駆け寄った。

 しかし、勝は「寝る」と言うに止まり、母の傍らをすれ違い離れへ向かおうとしたが、

結局、土埃の付いた服で寝ることは許されず、母はそれ以上の言及をすることはしなかったが、、断固として風呂に入らなければ布団には入れないと明言したのである。

 風呂にから上がった勝は、ちゃぶ台に並んだ稲荷鮨を横目に見て離れへと向かう。母の作るお稲荷さんはこの辺では珍しく揚げを薄味で仕上げ、その分酢飯に混ぜる具材にしっかり味をつける。揚げの薄味が優しい舌触りを与え、歯を入れると途端に広がる旨味の数々、歯ごたえのある具材は噛めば噛むほどに味が滲み出てくるのである。

 いつもは食卓へ並ぶ前から垂涎していた。

 しかし、今晩はどうしても食欲が湧かなかった…………

 頭の中で発狂した僧侶が木魚を叩いてるような単調だが連続した鈍痛は度合いを増し、呼吸の度に痛みを訴えていたが、下腹の腹痛は幾分穏やかとなった。

 台所を片づける音や布団を敷く音、そして消灯。勝は瞼を堅く閉ざしていたにも関わらず、一時として眠ることが出来なかった。


      ○

 

 『父さん家に居なくなるけど、母さんのこと頼むな。勝、お前はもう大人の男だ。男にはな死んでも負けてはいけない時が必ず来る。もし、勝がその時だと思ったら躊躇するんじゃないぞ』

 勝太郎が咲恵にハンカチを取って来てくれるように頼んだ時、残った勝の頭に手を添えてそう言った。勝は思い描いた。自分が悪人をトーキーのようにばったばったとなぎ倒す様を……悶絶びゃくちの悪人の山を背にかすり傷の自分。それは勝が平穏な世に生きている証拠であった。

 昨夜がまさに『負けられぬ時』。しかし、己の力はあまりにも非力過ぎたではないか。相手は体中から酒の匂いを発するほど酩酊しており、ゆえに非力な己にも勝機が見えた。結果的には桜と勝、双方共にかすり傷程度でことは去った。

 しかし、仇敵たる者が酒を呷っていなければ、勝など赤子の手を捻るがごとく蹴散らされていたことだろう。勝は酔いつぶれた相手の二撃にて満身創痍となったのである。

 己の非力さに気が付いた時、勝は父の偉大さ母の聡明さに触れた気がした。非力たる己が威風堂々と背筋を伸ばせるのは、影で支える両親がいてこそ……虚勢の張りぼてを背負っていたのは誰であろう自分自身であった。

 それが腹のそこから悔しかった……

「朝ですよぉ。早く起きてらっしゃい」

 勝はゆっくりと目を開けた。

 頭痛も腹痛も治まっている。いつも通り味噌汁の香りが漂い、いつもの場所に日溜まりもできていた。

 ただ、勝の襟元や枕がなぜか湿っていた、勝は涎かと思った。だが、その正体は目から流れ落ちたものであった…………

 折しも、今日は終業式だった。

 校庭にて教諭達の長話に耐えさえすれば晴れて明日からは待ちに待った春休みなのだ。気分こそ晴れやしない。自己嫌悪はそこそこに桜の身が心配でならない。元気な姿で登校さえしてくれればそれで勝の憂いは払拭されるだろう。門柱に立って見ても桜の姿はなく景の姿すら見当たらない。

 勝は胸に不安を抱いたまま、学路を歩いた。

 教室内は、破裂する前のゴム風船を思わせる賑わいの最高潮に保っていた。

 はぁ、隣の机を見て勝が溜息を漏らした……

 ベランダに出てみると、グランドを走る景の姿が見える……勝の心中は拍車を掛けて穏やかではない。

「筒串君、石切坂さんにこの封筒届けてくれないかしら?途中で開けたりしたら駄目よ」

 粛々と挙行された式典は午前中で幕を閉じ、終礼の後、橘先生が勝を廊下へ呼び出し、大きな茶封筒を手渡した。

「今日、……石切坂どうしたんですか……」

「風邪でお休みするそうよ。朝早く竹下さんが、石切坂さんのお父様からの手紙を届けてくれたわ」

「そうですか……」

 悄然とした勝に「具合でも悪いの?」と橘先生は勝の額に手をやった。

「熱はないわ。具合が悪いのなら、先生が持って行くけど……」

「俺は大丈夫。ちゃんと届ます」

「じゃあ、よろしくね。新学期にまた会いましょう」

 はい、と勝は顔を上げて返事をした。

 昼前に校門を飛び出した勝は韋駄天走りで坂を駆け抜け、神社の前で少し息を整えると、土埃を舞上げ再び駆け出した。

 一度家に帰ろうか否か考えたが、不測の事態が待ち受けていれば、この鞄とて打撃をに相当する武器になり得ると、そのまま公民館へ直行を決断した。

 病院の塀沿いの小道を一歩で通り過ぎた勝……

 横目に写った門柱に違和感を感じた。通り過ぎた足を後ろ向きのまま巻き戻す。

「石切坂っ……?」

 門柱には石切坂 桜がうずくまっていたのである。

 勝の声に顔を上げた桜は門柱を背に立ち上がり、怯えた表情で勝の瞳に何かを訴えかけている。

「心配したんだぞ、風邪もう平気なのか?」

 勝が安堵の表情で近づいて行くと、桜は首を何度も激しく振り、小道の奥へ駆けだした。

「どこ行くんだ!」

 なんとか桜の手首を掴めた勝は、最低限に抗う桜の身を引き寄せた。

「これ……どうしたんだ!」

 手を引いた時に偶然まくれた袖……そこには痛々しい青痣があった。「なんだよこれ」勝がさらに袖を捲ると痣は一つだけではなかった。

 更にもう片方の腕も袖を捲ると、そこにも同様の内出血の後が見えたのである。

 良く見れば左目の下、首の付け根など、大凡肌が見える箇所に痣があるではないか。

「あいつにやられたのか!」

 みるみる熱を帯びる勝。

「……」 

 桜は無言で顔を歪めるに止まってしまった。

「ごめん……」

 勝は慌てて思わず力の籠もってしまった手を放すと、硝子を扱う様に桜の背中に手を添えて、家に入るよう促した。

 俯いたままそれに従う桜の表情は憔悴しきっていた。

「母さんっ!」

 勝は桜を板間に座らせて母を呼ぶ。

 正直に勝はどうしていいのかわからなかったのである。一端駆けに憤怒の紅蓮を狂わせ、不逞の輩に猛進することは勝とて容易い。しかし、今は疲れ切って生気をやつした桜を一刻も早く介抱することが何よりも優先されるべきなのである。

「そうね、今日は終業式ですものねぇ、お昼は少し待って……ね?…………桜ちゃん!どうしたの!」 

 居間から割烹着に袖を通しつつ姿を現した咲恵は助けを求めるように見上げる桜の表情を見るや、表情を一片させ桜の元へ駆け寄った。

「恐かったわね、痛かったわね。もう大丈夫だから、もう安心していいのよ」

 青痣を見た咲恵は、桜の顔に両手を当て、優しくそう言うと桜をそっと両手で包み込んだ。途端にあふれ出す涙と嗚咽…………桜は全てを吐き出すように泣きじゃくった。

この温もりを放すまいと咲恵の服を力一杯握り締める細い指。

 勝はその光景を目の前にして居堪れない気持ちになった。眼を背けるように庭へ出る勝。戸を閉めても悲痛な桜の泣き声は勝の耳に痛く聞こえてくる。

 勝は俯き加減に拳を堅く握り締めた。そして、堅く震えた拳を渾身の力でもって壁に打ち付けた。

 拳は痺れ痛みは一瞬しか感じなかった……指の付け根の皮膚は押しつぶされた様にえぐれ、指からは血がしたたり落ち、それよりも早く勝の頬には水よりも濃く血液よりも重いものが止め処なく流れ落ちてた。

 己が非力を嘆かずにいられようか……掲げたる正義は虚無であったのだ。一瞬でも桜を救えたと矜持した自分の愚かさが恨めしい。到頭、桜をあのような目にあわせてしまった。

 自責の念は尽きることなく、額を地面にもたせて声を上げて泣いた。恨めしや恨めしや己が恨めしや。何度も地面に打ち付ける拳、骨が折れようとも全身の血液が流れ出ようとも構わない。夜朗自大に正義を振り上げたが為に、守りたかった人が生涯の傷を負ってしまった。

 後悔、憎悪、憎しみ、全てをもって雑然と己の非力さを呪った。

 勝は桜を助けたかったのだ……父の言った言葉通り、命さえも厭わなかった、だが!命を懸けてなお、これほど無力なのか!

 懊悩【おうのう】の果て、勝は赤く虚ろな眼でただそこに映る物を無気力に見つめているしかできなかった。


      ○


「勝君入って」

 もう何時間が経っただろう。戸を開けた咲恵がそう言ったのは夕暮れ時になってからであった。

 勝の心には何も無かった、荒れ狂い爆破を繰り返した心中……崩壊を恐れた誰かが『無』へ導いてくれたのかもしれない……

「まずは顔を洗ってらっしゃいな」

 母はそう言いながら勝の頭を撫でた。

 居間に座した咲恵は、微笑みで勝を見送る。勝が顔を洗い再び居間へ戻って来ると、

母は救急箱を傍らに置いて、包帯を切っているではないか、勝は痛々しく傷ついた拳を見て、その理由を悟った。

「勝君。自分を責めちゃだめ。勝君がしっかりしないと誰が桜ちゃんを守ってあげるの?大切なのはこれからどうするかよ」

 母はそう諭しながら、拳の傷口を消毒し包帯を巻いてくれた。

「……」

 勝は手当される非力な手を見て、母の言葉に耳を傾ける。

「手って、小さくて頼りなく見えるけど。手と手を重ね合わせただけで、伝わってくる温もりはね、人の一番大切な所を癒してくれるのよ。手を繋いだり、撫でたり、涙を拭ってあげたり、それだけで救ってあげることができるの。だから、その手を自分で傷つけないで。お母さん、勝君の傷ついた手を見て悲しくなってしまったもの」

 母そう話しながら傷ついた勝の手を慈しむようにずっと優しくさすり続けてくれた。

「もう一度言うわね。勝君は悪くない。勝君のせいでもないの、だから自分を責めないでね」

 うん、と勝は微かに声を出した。

「じゃあ指切り」

 母は勝の小指に自分の小指を絡ませ、「約束よ」と述べたのだった。

 勝はまるで手の甲に心臓が移動したかのような鈍痛に苛まれる手を見て思った。自分が欲しているのは勇猛なる剛力ではない。父の強さでもない。傷ついた心体を癒すことのできる母の聡明たる信愛なのであると……

 だが、それは思慮にいたらぬ漠然たる思考の一片に過ぎないのである。子である勝でさえ咲恵の思考は深遠なのである。

「昨日何があったのか、話してくれるわね」 

 勝の瞳に光が宿ったのを察してから、咲恵が話しを進めた。

 母は最初からこの話しを聞きたかったに違いないと勝は思った。

 そして、桜が襲われていたこと、不埒漢の事、気を失いかけたこと……大皿と稲荷鮨を駄目にしてしまったこと、勝は昨日の出来事を覚えている限りより鮮明に詳しく全て話し尽くした。

「そう……そんな事があったの…………」

 咲恵は目を閉じて何度も深く頷いてそう言った。

 表情を引き締めた咲恵は、無言で立ち上がると、仏間の隣に据えてある着物箪笥に向かって静かに歩いて行ってしまった。

 勝はそれを見ていたが、やがて徐に立ち上がると、そっと離れへ向かった。離れには布団が敷いてあり、泣き疲れた桜が静かな寝息を立てている。

 頬に残る涙の後が生々しい……

 勝は桜の枕元に正座して佇んだ。これが勝にできる唯一の慰めなのである…… 穏やかな寝顔は桜の身に起きた事象がまるで狂言であったように錯覚させた。

 しかし、勝は微々たる安心を得ることが出来た、寝顔まで煩悶としていたならば、再び母に助けを請う他に手立てはない。

 その内、「勝君」と小さな声で咲恵が呼んだので、勝は静寂を破るまいと気を配りながら仏間へ向かった。

 母の姿は土間にあった……

 漆黒の生地に鮮血を思わせる赤い帯。襟元から裾に至るまで縫い込まれた彼岸花は、身の毛もよ立つ不気味な鮮やかさを誇り、帯にさされた白絹袋に治まった懐刀は高貴でありながら妖刀の域を醸していた。

「桜ちゃんのお父様とお話をしてきます。桜ちゃんが起きたらお風呂を沸かしてあげてね。夕餉は遅くなるけれど、我慢できるわよね」

  紅をさしたのだろうか、雪原に咲く一輪の花のように母の唇は赤く燃えている。

「わかった……」

 口元は綻ぼうとも、消して笑みは浮かべていない。初めて見る母の眼には凛然たる覚悟が劫火として燃え上がっていたのであった。

「行ってきます」

 鬼気迫る形相を纏う妖艶なる母は、振り返らずに宵の口の町へ姿を消してしまった。

 勝はその場にへたり込んでしまう。圧倒的な存在感と押し迫る圧迫。『世の女性と言う女性は化粧と書いて化けると読むように、菩薩にもなれば鬼にもなる』風呂釜の中で父が話した俄に信じがたい事象を勝は今、身をもって知ったのだった。

 すっかり日が落ち、薄暗くなった頃、勝は居間と土間に明かりを灯した。風呂の準備をするため、台所へ向かうと、まな板の上にはきざみかけ野菜と和包丁がそのまま並び置かれてあった。

 勝は徐に和包丁に手を伸ばし、包帯の上から軽く柄を持った。もしも、これを隠し持っていたならば……勝はあまりにも恐ろしい想像に和包丁を急いでまな板の上に戻した。 

「それはやめて……」 

 桜が後ろに立っていた。桜も包丁を持った勝と同じことを考えたのだろう。

「起きて平気か」

「うん、泣いたら少し楽になった……」

 勝は食器棚から湯飲みを取り出すと、水を入れてとそれを桜に差し出した。「ありがと」桜は湯飲みを受け取ると、一口飲んだ。

「無理すんなよ」 

 水面を揺らす滴。勝はそう言って、桜の涙を包帯の捲かれていない方の手で拭ってやった。何度も何度も……

「私、気が付いたら筒串君の家の前にいたの。どうしていいかわからなくて……とにかく逃げたかった……」

 湯飲みを受け取った勝は咲恵がするように桜の頭に手をやって、

「言ったろ?無理すんなって。もう我慢すんなよ」 

 ありったけの愛情を込めてそう言った。

「……うん。ありがとう……」

 桜は声を震わせてそう言うと、勝の胸に額を預けしばらくの間泣き続けたのだった。


      ○ 



 月が高くなった頃、咲恵は「ただいま」と静かに帰って来た。

 ふぅ、と息をつく咲恵。

「今晩、桜ちゃんは家に泊まることになったわ」

  緊張の糸が切れたように板間に腰を降ろした咲恵はそう言ってから「お水頂戴」と深い溜息をついた。

 その後、咲恵がこしらえた握り飯を夕餉とし、風呂に入ることもなく、長い一日がようやく終わるかに思えた……

 咲恵の提案で離れにて川の字で寝ることになった。

 しかし、夢に見たのか思い出したのか……真夜中になって再び泣き出した桜。勝は朝方まですすり泣くその声に到頭眠る事ができなかったのである。

 陽が高く登り切り、勝は玄関の戸が閉まる音で目を覚ました。目を擦りながら、ガラス戸から門柱を覗くと、丁度、見知らぬ男と桜が出て行く所であった。

 勝は目を見張って立ち上がると急いで土間へと向かった。

「追い掛けちゃいけません」

 土間に飛び降りた勝は、見送った咲恵に制されてやっと立ち止まった。

「なんでだよ」

「桜ちゃんのお父様がお迎えに来られたの」

 すれ違い様に言う。

「でもっ!」

「桜ちゃんのお父様、今朝まで留守にしていたそうよ。顛末をお話したら、それは驚いてらしたから、大丈夫」

 草履を脱いで、土間に上がった咲恵は振り返らずにそう話し、「早く、朝餉たべちゃってよね。片付けちゃうわよぉ」と続けた。

 勝は憮然と丸机の上に置かれた握り飯にかぶりついた…………桜が大人しく従う限りは、恐らく父親で間違いはないのだろう。

 しかし、だからと言って腑に落ちない。例え桜の父親が傍らに鎮座しようとも、桜は忌まわしきも不逞の輩と同じ飯を食べ、同じ空気を吸わねばならないのである。泣き明かした桜の心情を機微するなれば、力ずくでもに引き留めるべきなのだ。

 うん、と大きく頷く勝。

「勝君は家に居てよぉ。桜ちゃんの事は、お母さんが意地でも何とかするから」

 我が子の単純な思考を読み解いてか、咲恵は台所の片付けをしながらそう言った。

 午後から神社で野球の練習に勤しんだ勝は夕方を前に帰宅した。「今日のおかず何?」と靴を脱ぎ散らかして居間へ上がった勝は、ちゃぶ台の上に茶封筒を見つけた。宛名も記入されていなければ切手さえも貼られていない。

「あら、丁度良いところに帰って来てくれたわ。お母さんこれから、桜ちゃんの所に行ってくるから、お留守番よろしくね」

 そう言いつつ離れから現れた咲恵は、白装束を着込み、帯には昨日と同様に懐刀をさしていた。

 勝は鷹揚と構える母の異様な姿に思わず「うわ……」と呟いてしまった。

「勝君、これ打ってくれるかしら」

 そう言って咲恵が手渡したのは、火打ち石である。父が出張の時など、送り出す咲恵が打っていたのを勝は何度か見た事がある。

「なんで……?」 

 身構えからして理解に苦しんだ。

 行ってきます、と昨日見た凛然と決意を宿した眼で咲恵は言う。

「気をつけて」 

 母に吉報を託し勝は火打ち石を二度、打ち鳴らした。景気よく舞った火の粉は白の背中に映え、そして母を送り出した。

 咲恵が出掛けてから、勝は内心がそわそわと騒ぎ落ち着けず、テレビを付けても見る気になれず、結局は柱時計の音を聞きながらちゃぶ台の前に正座をして、咲恵の帰りを待っていたに終始したのであった。

 「ただいま」と母が帰って来たのは、ちゃぶ台の前に座してしばらくしてからであった。「ふぅ」と板間に腰かけ、蒼白い声を出して、肩を何度か叩いた。

 いつもにも増して下がったなで肩と小さい背中、勝は「お帰り」と素っ気なく言うと労いの言葉を掛けるよりも、母の肩に手を置いて久方ぶりに親孝行をした。

「気持ち良いわ。ありがと」

 肉薄な肩はさして凝っているような感触はなかった。それでも、咲恵の緊張の糸は十分にほぐされた様子であった……

「明日、桜ちゃんのお父様が家にいらっしゃることになったからね。桜ちゃんのことを話す良い機会だわ」

 ありがと、と草履を脱いだ咲恵は勝の肩に手を置いた。

 「お夕飯の準備急がなくちゃね」と言い残した咲恵は帯を解きながら、離れへ歩いて行ってしまう。

 勝は詳しい話しを聞きたかった。

 だが、咲恵が自分から話さないかぎりは、大凡勝が聞く必要がなないのだろう。と勝は自己完結させそれ以上、母に問いかける事はしなかったのである。

 それ以前に、穏やかでのんびりとした母の姿に、勝は好転の事実を見出したのやも知れない。鼻息混じりに台所に立つ姿とて、眺めるに日溜まりのように温かい。母は本分を通し、花も実もある話しをして来たに違いあるまい。  

 勝は母の機微を察するに妙に安心できたのであった。

 翌朝の正午過ぎ、石切坂親子が筒串家を訪問することになっていた。ゆえに、昼食とて普段よりも簡素かつ早く済ませ、咲恵は掃除に茶菓子を買いにと嬉しそうに、走り回っていた。

 勝もそれなりの緊張はしていた。硝子越しに後ろ姿は見たが、やはり初対面なのである。昼食の後すぐさま制服に着替えさせられた勝は「失礼のないようにお行儀良くするんですよ」と母に釘を刺されてしまった。柱時計がその時刻を刻む頃、母は鏡台の前に立って髪に櫛を入れ紅をさし、念入りにめかし込んでいた。

 それこそ、居間に座り込む勝が呆れる程ほどである。

「御免下さい」

 玄関の戸が開き、低い声が響いた。

「はい」

 咲恵は「おいで」とすれ違いように勝に言い、板間へ向かう。

「お忙しい昼過ぎにお邪魔致します」

 土間には紺色の礼服を着た男性が立っていた。その傍らには桜の姿もある。

 桜の父はがっしりとした筋肉質の体躯に柳眉と大きな瞳、桜そっくりな目元であった。

「ほら、勝君。ご挨拶なさい」

腰を折って出迎える咲恵が立ち尽くす勝に向かって言う。

「筒串 勝です」

 母に促され、勝は慌てて会釈をした。

「石切坂 良介です。君が勝君か。桜からよく話しを聞いているよ」

 口元を綻ばせた良介はそう言って、勝に向かい軽く会釈を返した。

「お忙しい最中、お呼び立てして恐縮ですわ」

 咲恵はそう言いながら「どうぞ」と良介を招き入れた。

「お世話になっていながら、手土産の一つも用意できませんで、面目ありません」

いえいえ、と咲恵は微笑み混じりに言った。

「桜、外で待ってなさい」

 土間に残った桜に良介がそう言うと、

 桜は「はい」と頷いて、外へ出て行ってしまった。

 あらあら、口元に手をやって言う咲恵。

「勝君も外で待っててくれる?」

「わかった」 

 勝とて言われるまでもなく、そうする心持ちであった。

 桜を追って外へ出た勝は、迷わずに国道に出る。すると、国道の向こう側にある小さな浜辺へ向かう桜の後ろ姿を見つけた。

「よっ」

 波打ち際から十分距離を取った場所に膝を抱えて佇む桜に勝は声を掛けた。

「筒串君、来てくれたんだ」

 勝を見上げる桜の表情は温もりを感じる微笑みであった。隣に腰を降ろした勝はしばらく無言で桜の見る水平線を眺めた。

「おばさまとっても勇ましかったの、私、憧れちゃった」

 唐突に桜が口を開いた。

 昨日、公演の打ち上げをしていた舞台へ堂々と白装束の咲恵が現れた。

 縁起が悪い、と親方をはじめ盃を持つ一同から「帰れっ!」「どこの性悪女だ!」と恫喝やら蔑視の声を一斉に受けた咲恵は…………徐に座して姿勢を正すと、懐刀を膝元へ置き、

『わたくしは、筒串 咲恵と申す者。この装束は命を掛けても使命を全うせんが為の心意気です。それを女子と罵るとは何ごとですか!』

 腹に力を入れ凛と通った声を轟かせ、鬼神の如く剣幕で一喝したのであった。

 頬を赤らめた、男衆はその一声にて圧倒され、その場に黙り込んでしまった。

「命を懸ける身の上、私の婦徳と度胸に免じて願いを聞き入れて頂きます。この一座に石切坂 桜さんのお父上が居られるはず。私は訳あって、お話に参じました。この場に居られるなら良し、居られないのならば、どなたか取り次いで下さいまし』 

 すでに、その場は咲恵に鯨飲と飲み込まれ、誰一人野次を飛ばすものすら居なかった。

 桜は興奮気味にその一部始終を公民館から見ていたとも語った。

「それ本当かよ……」

 勝は母のもう一つの顔見た気がして、背筋に冷たいものが走った。

 普段は茶目っ気に笑いかける母なのである。そんな女性が 豪放磊落にも屈強な男どもを前に怯む事無く堂々と立ち回り、ついには飲み込んでしまうとは……俄に信じがたい……

「本当よ。親方さんも、〝大した女傑〟だって褒めていたもの」

 桜は自分の事のように『快哉だった』と満面の笑みを浮かべた。

波間に弄ばれる海藻を見つめながら、勝は母の背伸びに痛く感謝の意をささげたくなった。それは勝の為とは言わず、咲恵の一本気が起こした行動であるのは火を見るより明かでる。それでも、勝は頼もしき母親に感謝の気持ちが溢れたのだ。

  各々思うところがあり、言葉少なく佇んで居た。

「私、筒串君が羨ましい。綺麗でたくましい素敵なお母さんが居て……」

「褒め過ぎだ」

 勝は背中がむず痒くなってしまった。

「そんな事ないよ。少しの間でも一緒に居られた……嬉しいなぁ」

 桜は空を仰いだでそう言った……

「俺は飽き飽きしてるけどな」

 勝はそう言って砂浜の上に寝転んだ。「ひどい物言いだね」桜はくすりと笑った。

「そう言えば昨日、森田さんが謝りに来たの」

「森田が?!」

 勝は跳ね起きて、驚きようを表した。

「机も制服も、自分達がしたって……何でもするから許してって」

っで?、と顔を寄せる勝。

「だから私……」

 桜は拳を作ると、顔を寄せた勝の鼻面にちょんと突いてみせた。

 ええっ、勝は思わず体を仰け反らせて言った。

「意外とやるんだな……」

 正直に想像はできなかった。だから、

 嘘っ、と舌を少し出して戯けて見せる桜を見て、勝は溜息と共に胸をなで下ろした。

「冗談きつすぎ」

 再び寝転んで言う勝。

 ……すると、

「桜」

 道路から良介が桜を呼ぶ低い声が聞こえた。

 桜がスカートを叩いて、駆けて行く。勝もそれに習ってすぐさま後を追った。

「これから父さん、お前の側に居てやれない時間が多くなるのは、桜も知ってるな?」

 桜の肩に手を置いて言う良介。

 桜はこくっと頷いた。

「また同じ事が起こるかも知れない。本当は父さんがお前を守らなければならないんだが、恥を忍んで春休みの間だけ、筒串さんの所で寝泊まりさせて頂けるよう、父さんお願いしたから」 

 いつの間にか勝の後ろには咲恵が立って居た。咲恵は嬉しそうな面持ちでそれを見つめ、勝の両肩に手を置いて佇んだ。

 桜は父の話を聞き終えると、咲恵の瞳を見つめ、そしてきらきらと輝かせた。

「桜ちゃん、遠慮しなくて良いのよ。私もそうしてもらえるようにお願い申し上げたんだから」

 片眼を閉じて、そう言う咲恵の手は、武者震いとばかりに小刻みに震えている。

 宜しくお願いします。良介はそう言って深々と頭を下げた。

「粗相のないようにするんだよ」

 桜の頭に手をやった良介は優しくそう言ってから、今度は勝の元へ歩み寄り、

「桜は女の子だが、仲良くしてやってくれ」

 と勝の眼に向かって重圧なる言葉を放った。

 まるで何かに釘を刺すように……

 それでは、と今一度咲恵に会釈をした良介は、最後に桜の顔を一目見て、公民館へ帰って行った。

「ふんっ」

 良介を見送りながら、咲恵は腕を組んで鼻を鳴らした。

「どうしたんだよ急に」

えびす顔の咲恵が一変、頬を膨らませ仏頂面になっていた。

「父が失礼なことを言いましたか?」

 手を胸の所へやって、申し訳なさそうに聞く桜。

「二人とも聞いて!桜さんのお父様ったら、私が極道者だと思ってらっしゃったんですって!だから一度、桜ちゃんを連れて帰ったって……!もうっ、失礼失しゃうわっ。こんな佳麗で可憐な極道者がどこにいますか!」

 顔を紅潮させて熱弁を振るう咲恵……

 勝は鬼気迫る彼岸花と無体な白装束、その出立ちを思い返すと無理もないと良介に同情して、

「ちがいねーや」

 と桜の方を向いた。

「そう言えば、昨日〝極道者か役者か……〟ってお父さん唸ってた……」   

 桜もそう呟いて勝を見る。

 二人は視線が合った途端、腹を押さえて大笑いは始めた。笑い涙が止まらない。これまで我慢して心配して、こびり付いた憂鬱を根刮ぎ吹き飛ばすように……

「なんで笑うのよぉ」

 口をアヒルの様に尖らせた咲恵は「私も混ぜなさいと!」と両手を広げて大笑いをする二人委を追い掛けた。

 逃げる勝と桜、それを追い掛ける咲恵。

   それはいつか見た鬼ごっこの様子であり、入り日が近くなった陽に照らされた3つの影は、それはもう狂喜乱舞を全身で表しているようであった。


      ○


 残照の頃、桜を迎えた筒串家の夕餉はいつになく賑やかであり、目前に並んだ唐揚げや巻き寿司に稲荷鮨。ラムネや蜜柑ジュースはまるで、誕生日の様相を呈し、「おぉ」「うわぁ」とちゃぶ台の前に座った二人を圧倒するのであった。

 腕に縒りをかけた咲恵本人は眼前に広がる風景に欣快であると、歌いださん勢いで料理を机に並べ、自身が座するや、

「はいっ、今日から少しの間、桜ちゃんは〝筒串 桜〟です。だから桜ちゃんは私の事を〝お母さん〟と呼ぶこと!勝君もお母さんって呼んでね」

 当たり前だと、舐り箸で勝は呟いた。

 半ば意味不明も織り交ぜながら、それでもやはり咲恵は嬉しそうであった。

 その日の夜、珍しくも離れには布団が川の字で並んで敷かれた。上機嫌の咲恵が勝の湯浴みの間に布団を敷いてしまったのである。

「何してんだ!」

 との抗議にも、

「今晩は三人で並んで寝ます!いえ、これからは川の字で寝ます」

 と断言し、台所で皿を拭いていた桜が皿を持ったまま顔を桃色に染めて駆けて来ると、

「大丈夫よ。勝君と桜ちゃんの間にお母さんが寝ますからねぇ」

 恥じらいを窺わせる桜に頬刷りしながら「かわいいっ」と続けた……咲恵の独断と偏見にて、果たして勝と桜は布団を一つ挟んだ両側で眠ることとなったのである。

 障子を閉めた室内は硝子窓から差し込む月明かりのみを光源とし、薄明のごとくようやく天井を見ることが出来た。

「ねぇ起きてる?」

 しばしの沈黙の後、桜が勝に話しかけた。

「眠れるかよ」

 腕を枕に天井を見ていた勝はそう言って寝返りを打った。咲恵の枕を挟んで桜の顔が見える。

「景ちゃんみたいに私も〝勝ちゃん〟って呼んでもいい?」

「またなんで」 

 勝は上体を起こして、桜に言う。

 布団に潜るように顔だけを出している桜は、

「景ちゃんみたいに呼んでみたいなって。私、転校ばっかりしてるから、そんな風に呼べる友達出来たことないの」

 と恥ずかしそうに言った。

「別に良いけど……」 

 やったぁ。と桜も体を起こした。

寝間着の襟を直した、桜は姿勢を正して「短い間ですがお願いします」と手を添えて深々と頭を下げた。

「ばかっ、俺にそんなことすんなよな」

 勝はふて腐れる様に布団を蹴飛ばして寝転んだ。

「早く寝なさいよぉ」

 居間で縫い物をしている咲恵の声が障子から漏れ聞こえる。勝も桜も慌てて、布団に潜り込み、蓑虫の様に頭だけを出した。

「勝ちゃん」

「何だ」

「呼んだだけ」

 掛け布団で笑いを殺す桜。何が楽しいのやらと勝は眉を顰めた。

「私のことも桜って呼んでね」

 それを聞いた、勝は幾ばくか躊躇した後、

「それじゃあ、桜。これから〝さよなら〟って言うのやめようぜ」

 と言葉を返した。

「挨拶だよ?」

「それはわかってる、だけど……その……なんか寂しいだろ」

 男児たるが『寂しい』などと、勝は恥じ入るように顔を赤くした。誰が見ている訳でもあるまいに、何と殊勝な心懸けだろうか。

「そう言えば……今まで考えたこともなかった。でも言われてみれば、もう会えないみたいだよね。本当……何だか寂しい」

 桜は少し考えてから囁く様に声を落としてそう言った。

「それじゃ、かわりの挨拶はなんて言うの?」

「んー、〝またな〟とか〝明日な〟とか……?」 

 言い出しっぺの勝。考えてみれば代用する挨拶を用意していなかった。一郎や幸太と交わすものを並べてみたが……しっくり来ない。

「そうだっ、それじゃくっつけて〝また明日〟って言うのはどう?」

 思わず声が大きくなってしまった、桜が慌てて口に手をやった。

 ごめん、と続ける桜……

 障子の外に聞き耳を立て、咲恵に気取られていないか様子を窺う二人。少しの間があり、それでも咲恵の咆哮が轟かない限りは……と安心したその時だった……障子を透かす居間の灯りが突如消えたかと思うと、大きな足音が離れへ向かって、近づいてくるではないか、桜と勝は互いの顔を見合わせ、慌てて布団の中へ潜り込むと顔さえも隠した。

 ……そして障子が派手に開けられた。

ふんっ、闖入者が鼻をならした。

「何を楽しそうにお話してるの!お母さんも混ぜなさい!」

 拍子抜けする勝だったが、寝ている体を貫く勝にせよ桜にせよ、布団から顔を出すに出せない。

 時に子ども以上に子どもの母は「これでも狸寝入りしてられるかしらぁ」と無邪気かつ悪戯に言うと、桜の布団を引っ剥がし、脇腹をこそばし始めた。

「おばさま、やめてください」

 のたうち回る桜の笑い声が聞こえて来る「ほぉら、起きてるじゃなーい」意地悪な姉のように、咲恵はさらに桜をこそばし続けた。

「ごめんな……きゃっ、もう……ちょっと……」

 楽しそうな声に勝は少し顔を出して見た。

「やっと顔を出したわねぇ」

 咲恵は桜をこそばしながら、眼をぎらりと光らせて言った。嫌な予感が勝を駆け抜け、『早く逃げろ!』と勝の本能が叫んだ……しかし、時すでに遅し……

 にひっひぃ。咲恵は両手の指を怪しく動かしながら、勝に迫って来たのである。

 布団を蹴り上げ逃げようとした勝。

 しかし、すんでの所で咲恵が勝の背中へ馬乗りになった。

「逃がさないわよ」

 そして、咲恵の手は勝の脇腹へ……

 やぁめぇろぉっ。必死に藻掻く勝。足をじたばたさせ、腕を振り上げてはその妨害を心見る。

「おばさま大胆……」

 涙を拭った桜は、はだけた着物をそのままに眼にやった手の平の指の合間から覗き見て呟いた。

「ほら桜ちゃん何見てるの?ほら、手押さえて!」

 えっ、桜は露骨に頬を赤くしていたが……

「勝ちゃんごめんね」

 と着物をなおして勝の元へ駆けて来た。

「さっ桜っ!この裏切り者ぉ!」

 頬を赤らめながら、どこか楽しげな表情を浮かべる桜。

「やぁめぇてぇ、ください!」

 その夜、筒串家からはいつまでも勝の断末魔の叫び声が木霊していたのだった。


 

 




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