濡れ狐と狸

畑々 端子

第一話 石切坂 桜

緑ヶ丘中学校一年三組に転入生が来たのは、折しも、春一番が吹き去った後であった。 礼服のような紺色の上着と、白のカッターシャツに黒のズボン、薄化粧の頬には申しわけ程度にチークが塗られてあり、前髪は左揃え、後ろ髪は一つに束ねている。

 そんな出で立ちで教壇の上に立った橘先生は、その朝、満面の笑みを携えていた。

 最近結婚したばかりの若い教諭の左手薬指には、銀色の結婚指輪が光っている。

「今日はみなさんに、素敵なお知らせがあります」

 燦然と白い歯を見せた橘先生は、出席簿を教卓の上に置くと、廊下側のドアに向かって小さく手招きをした。

 すると、廊下から見慣れないセーラ服を身に纏った女子生徒が、ノート一冊と鉛筆一本を小脇に抱えて教室に入って来たのである。

 白を基調とした上着は、胸部中央で蝶々結びの赤いリボンを境に水色であり、引き締まった袖口もまた水色。そして、スカートも同色であったが、その丈は緑ヶ丘中学校指定のスカートよりも幾分短く、膝上が少しばかり露わとなっていた。

「今日からみなさんと一緒に勉強することになった。石切坂 桜さんです」

 橘先生は白チョークで大きく転入生の名前を板書し、文字を追うようにして名前を読み上げた。

 石切坂 桜は、雪の様に肌が白く、整った顔の輪郭には柳眉に大きな瞳、小さな鼻翼とおちょぼ口が丁度良く収められており、黒く切り揃えられた前髪と背中に及ぶ長髪は、アイロンをあてたように真っ直ぐと伸びていた。

スカートから伸びる小股が切れ上がった足と細く繊細な指は、まさに容姿端麗を絵に描いたようである。

「石切坂さんは、お父さんのお仕事の都合で埼玉から転校して来たのよね?それじゃ石切坂さん。自己紹介をお願い」

 背中を押すように促す先生。

 教室内は水を打った様な静けさとなり、女子も男子も一様に物珍しい転入生を食い入る様に見つめていた。


「私、友達なんていりません。だから仲良くしないで下さい」


 氏名をも名乗らず教卓の傍らに立ち尽くす女子生徒は、大きな瞳で教室内を一直線に見つめ精悍【せいかん】と温度のない声でそう断言したのだった。

 津波が押し寄せたように教室は一瞬で喧騒に包まれ、誰もが耳を疑い首を右往左往させている。

「……石切坂さん……?えっと……」

 取り分け狼狽したのは誰であろう、橘先生だった。

 橘先生は、潮騒のごとくざわめく室内を粛正することなく、渦中の転入生に最後列窓側の席に行くように指示を出すと、目頭を押さえながら黒板を消しにかかった。

 石切坂 桜は鬱蒼とする森の中を恬然と歩く狩人みたく指定された座席まで歩いた。彼女が通った後は、細波に動揺した同級生が逆止弁よろしく前列から順に振り返る首が通路を遮ったのである。

「色々わからないこともあると思うから、みんなちゃんと教えてあげてね」

 出席簿を開いて言う橘先生はやはり苦笑を浮かべていた。

 

       ○


 誰しも、その隣の座席を望んだであろう。幸か不幸か、不躾【ぶしつけ】な転入生の隣に座して居たのは筒串 勝であった。

 坊主頭と額には絆創膏、黒い詰め襟学生服はそれぞれ肘と膝部分に異色の布が継ぎ当てられ、太めの眉となで肩目、少し上向いた鼻面は世辞にも容姿が良いとは言い難い風体である。

 羨望の眼差しを幾つかその身に感じながら勝とて、転入生には興味があった。加えてそれが女子生徒であり、美人とくれば瞳を輝かせて声の一つも掛けてみたかった。

 しかし、決然たる自己紹介の後、隣に腰を降ろした転入生は勝に一瞥もくべず、窓の外に視線を落としたのである。

 面を向ける華奢な背中はまるで『話しかけるな』と言わんばかりで、勝は一抹の後悔と共に地団駄を踏むしかなかった。

 第一声からして同級生との友好を拒絶した石切坂 桜の噂は、たちまち学年中の知るところとなり、昼休みともなれば、無口な日本人形を一目見ようと押しかける生徒達で、一年三組は急ごしらえの見せ物小屋とあいなった。

 一方では『変人』と罵られ、もう一方では『マドンナ』と熱い視線を送られる。そんな相対する二極化の外野は石切坂 桜、本人を置き去りにして、未曾有の盛り上がりを見せた。だが、それは無口で無愛想な転入生が、近日には饒舌【じょうぜつ】となり愛想良く自分達の元へ寄り添って来るであろう。と言う、断固たる想定があったがゆえの事象でしかなかったのである。

 熱が下がりはじめたのは石切坂 桜が転入して一週間後。朝。石切坂 桜が自分の机を見下ろす仕草から始まった。勝が徐に覗いて見ると、その机には下手くそな落書きが幾つもされてあったのである。

 転入して来て一週間、宣言どおり石切坂 桜は同級生と協調を図ることはなく、恒常として口を一文字に閉じたまま机を離れようとはしなかった。

 麗しい少女は台風の目であり、周りを取り囲む水蒸気体の希望、予定、期待を尽く無視したのである。

 業を煮やした夢想家たちはこともあろうに、失望感と苛立ちを隔靴掻痒【かっかそうよう】であると口々に叫び、やがてはそれを『裏切り』へと昇華させ無手勝流な被害妄想を抱いては、隠忍自重な少女へ責任を転嫁するのであった。好戦的な男子とは異なり、女子たちは群れをなし陰険にも、あること無いことを陰口で並べている様子。

 勝は隣の席にてこれを面白く思わなかった。

 しかし、矢面に立たされても泣き言一つ漏らさない隣人を助ける気にはならなかったのである。

 石切坂 桜の住所は不明であったが、勝と同じ方向へつま先を向け、帰路を行くことはここ最近度々見かけた後ろ姿でわかっていた。山肌を浸食するように造られた住宅街の中央に聳える緑ヶ丘中学校から、海に向かって伸びる下り坂は、歩道の一車線道路であり、循環バスしか通ることもないと言うのに舗装されているのであった。

 勝の先を歩く彼女はとても歩みが速く、軽い鞄を携え腕を肩越しにやりながら、のんびりと歩く勝との距離は見る見る間に広がって行く。これもまたここ最近では珍しいことでもない。

 水平線に沈む落日を正面に見据え、海沿いの国道まで下り、墓場へ続く空き地を過ぎた辺りから少し行った所にある『森田病院』に隣接する小道を入った所に勝の家はあった。

 勝の背丈を軽く越える門柱には門がついておらず、入ってすぐ左側には小さな家庭菜園と物置小屋。その反対側に入り口である引き戸がある。

「ただいま」

 引き戸を力一杯に開けて、中に入るとひやりとした土間が広がっている。

 父方の住処であった、この家の大黒柱には樹齢百年からなる檜を用い、敷き詰められた本畳みと黒々と屋根に艶めく日本瓦はまさに日本家屋を代表する趣があった。

「あら、お帰り。今日は遅かったのねぇ」 

 そう言って台所の境にかかる暖簾を持ち上げて、土間に顔を出したのは勝の母親である筒串 咲恵である。

 目尻の下がった目と鼻筋の通った小顔。慎ましくも薄い唇、四肢に加え首も細く、若人の憧れるスタイルの持ち主であった。若々しい黒髪は襟首から下に達しない長さで切り揃えられ、左右に内側にカーブしており、襟足をしっかり残しつつ後ろ髪は後頭部まで刈り上げると言う、この辺りでは見慣れないハイカラな髪型をしていた。性格も髪型に負けず劣らず、少女のような茶目っ気と甘美な菓子をこよなく愛する婦女である。

 ただ一片の曇があるとするならば、家事に手を抜かぬ良妻である咲恵の指先は所々ひび割れ、または鮫肌と荒れていることであろう。

 日々のほとんどを着物で過ごす咲恵は、割烹着を着込んでいることが多かった。

 だが、仮に洋服に身を包み、踵の高い靴を履こうものなら、『母』から『姉』へと呼称を変えたところで、誰が疑うだろうか。素朴ではあったが、咲恵はそれだけの臈【ろう】たけた女性であった。

「そうでもないだろ」

 鞄を乱暴に板の間に放り投げてから、勝は靴を乱暴に脱ぎ散らかした。

「もお、お行が悪い子」

アヒル口で勝の振る舞いを咎める咲恵は、勝を追う様に台所へ顔を引っ込めた。

「竹下さんから、大福頂いたんだけど食べる?」

「もちろん食べる」

 早速、読みかけの月刊漫画誌を取りに仏間へ向かった勝は、弾む咲恵の声に呼応して月刊誌を携えたまま、居間に駆けつけた。

「手を洗ってらっしゃいな。それからでないと、食べちゃ駄目ですからね」 

 居間の中央に出された漆塗りのちゃぶ台の上には、大福を覗く竹皮の包みが置いてあった。

「子どもじゃあるまし。年寄りは説教臭くてかなわん」

 悪態をついた勝は渋々立ち上がると、傍らにある擦りガラスをはめ込んだ引き戸を開け、脱衣所兼洗面所にあるコンクリート剥き出しの洗面台へ向かい、手の平を湿らせてからちゃぶ台の前へ舞い戻って胡座をかいた。

「はい、お茶」

 封を切ったばかりの煎茶を急須に入れ、お茶を入れる咲恵。

 まだ春を控えた肌寒い時分である。溢れんばかりに注がれた湯飲みからは湯気が立ちのぼり、その後に渋くとも奥行きのある茶葉の香りが勝の鼻腔にひろがった。

「うまそっ」

「ちょっと待った」 

 竹皮を広げようしたところで咲恵が勝を制した。

「何だよ」

 蛇の生殺しとはこれいかに。勝は迷惑千万とばかりに母親の顔に抗議の視線をぶつけた。

「ほらほら、茶柱茶柱。見てぇ」

 嬉しそうに、自分の湯飲みを指す咲恵。

 無邪気に口元を綻ばせる母に、勝は仕方なく身を乗り出し、湯飲みをのぞき込んだ。

 しかし、そこには茶柱はおろか、茶葉の欠片すら見当たらなかったのである。

 おい、と言う勝。

「老眼かよ」

 そう呟きながら勝が怪訝な表情を浮かべた……その刹那であった、勝の脳天に衝撃が迸ったのである。電撃が走った様な痛みの後にじんわりと熱く余韻が残る。打撃の後、頭皮をしこたま擦られたようでる。

「痛ってっ何しやがる!」

 涙をためてもう一度頭を上げると、間髪入れず今度は両頬を引き延ばすように強く抓られた。

「いでででででっ」

 残して来た膝から下だけをじたばたとさせて痛みの緩和に努める勝。

「だれが老人ですって?そんなことを言う口はこの口ですか。それに母さん、まだ老眼じゃないわ」

 目をしばたかせた勝の眼前には相変わらず微笑みを浮かべる母の顔があった……どうやら逆鱗に触れたしまった様子である。目が笑っていない。

 サボテンの棘のようにこそばゆく、ちくちくと肌を刺激する母の手から逃れた勝は、頬を押さえて畳みの上を転がり悶えた。

「お茶が冷えますよ」 

 涼しそうに言うとちゃぶ台の向こうでは咲恵が安穏と煎茶をすすっている。

 着物の袖が肘辺りまで後退して露わとなる腕。透き通るように白く鹿の足の様に細い。その腕の何処にあのような怪力を隠しているのだろうかと、勝は思わず首を捻ってしまった。

「そうそう、どさ回りが来てるんですってね。来月から公演が始まるらしいわ」

 大福の皮を前歯で持って千切れるまで引き延ばし、切れたそれを舌で捲くようにして口に運んだ咲恵が思い出したように言った。

「どさ回りって、剣客浪漫みたいな時代劇するやつだろ」

「うーん。間違ってないけど、ちょっと違うわねぇ」 

「あんなのよりテレビの方が面白いだろ」

 大福片手に、漫画を読みはじめる勝。

「ひょうたん島とかやらないものねぇ。でも、母さんが子どもの頃は、よくおじいちゃ

んと一緒に行ったもんよ」

 そう言って咲恵は煎茶を一口含んだ。

「っで感想は?」

 勝は首の角度は変えず、上目遣いのみを送った。

 顎に指をやって天井を見上げるようにして遠い記憶を巡らす咲恵だったが、

「うーん。あまり覚えてないわね」 

 結局思い出には行き当たらなかった様子である。

「はあ」

「別にお芝居が見たかったわけじゃないもの。ついて行くと、型抜きとか飴玉とかラムネなんかも買ってもらえるのよ。行かない手はないでしょ」

 涎を垂らすのではと心配になるくらい、咲恵は大福を頬張ったかと思うと、その手を顎にやって恍惚【こうこつ】と目を閉じて過去の感慨に浸っていた。

 そんな母親は、台所から差し込む光の加減で、ビールのポスターやなんかでポージングをするモデルのように見えたのだから摩訶不思議である。

「うんうん。テレビもなかった。アイスケーキアイスキャンデーもなかった。うんうん」

 勝は大袈裟に頷きながら、母親を小馬鹿にした物言いで再度派手に頷いた。

「すぐバカにして。ケーキぐらいありましたっ!」

 幼い子どものように頬を膨らませて激昂を表した母は、

「ああっ、俺の!」

 最後の大福を猛禽類のごとく素早い動作で横合いから奪い取ると、大口を開けてそれを押し込んでしまった。

 閑話を終えた親子は、夕食の準備にテレビにとそれぞれが勤しんだ。

 子ども向けの番組の放映には少々早い時分。勝はダイヤルをカチャカチャと忙しなく動かしては眉を顰めている。一方、咲恵は母親の本文とばかりに、まな板を包丁で打ち玄関口の土間に火鉢を持ち出して豆炭に火を起こしていた。

「あらやだ、もうこんな時間。勝君、お豆腐買って来てちょうだい」

 下駄箱の上にある置き時計を見て、咲恵が勝を呼んだ。

「勉強してるから、無理」

 テレビを諦めて、月刊誌を読み返し始めた勝は、軽くあしらう様にそう言い返し、ページをすすめた。

「そうねぇ。明日、漢字の試験があるんですものね」

 口元に手を添えて、声を響かせて咲恵が言う。すると、ガラス戸が軋む乾いた音がしたかと思うと、勝が血相を変えて板間まで飛んで来た。

「なんで知ってんだ」

 信じられないと言った物言いである。

「景ちゃんから聞いたのよ。大福持って来てくれた時にね」

「バカ景」

 勝は黒髪が腰元まである幼なじみの顔を思い浮かべて坊主頭を掻きむしった。

「はいお財布。絹ごし一丁お願いね」

 咲恵は予め用意しておいた両手持ちの中型鍋と、割烹着のポケットから勝の手の平に収まるがま口財布を取り出して、勝に渡したのであった。

「ちえっ」

 勝は不承不承ながら、鍋と財布を受け取って乱暴に足を靴に押し込むと、鍋を頭に被って駆けだした。病院に隣接する小道を出ると、国道を挟んだ対面はすでに海であり、最近コンクリートで整備された小さな港になっている。勝はほのかな磯の香りを全身に浴びながら国道を駆けて行く。すると丁度空き地の前辺りに複数の人影が見えた。

 すでに慣れたものと、軽快な足取りで空き地に躍り出る勝。空き地ではすでに豆腐を買い終えた主婦の一団が井戸端会議を開催し、毎度毎度、飽きもせず夫の不満などを吐露している。その奥にいる豆腐屋は、後輪がやけに太い自転車の傍らで呑気にもキセルを吹かしていた。

「おっちゃん、絹一丁おくれ」

「おっ、筒串とこの坊主じゃねぇか。使いか?ほれ、最後の絹一丁!駄賃弾んでもらえ」

 豆を潰して煮詰めた様な青臭さが染みついた前掛けで手を拭いながら、景気のよいおっちゃんがにかっと笑う。するとのぞく欠けた前歯がなんとも粋であり、一本欠けた前歯と日に焼けた顔、そして使い古した麦わら帽子は年中変わらないお決まりの格好である。

 勝は向日葵の刺繍が施された、がま口財布から小銭を選んで代金を支払い、墓場の前だと言うのに雑談に花を咲かせる集団を横目に早々と帰路についた。今晩の味噌汁に豆腐が入ることは確定であろう。

「あっ」 

 空き地を出た辺りで、勝は石切坂 桜とすれ違った。

 白いブラウスと淡い萌葱色のスカートをはためかせて、勝のすぐ前を駆け抜けて行く。

遅れてやって来た石鹸の香りが優しく鼻腔を擽くすぐった。どうやら、彼女も豆腐を買いに来たらしい。手には勝の物よりも一回り小さい鍋が握られてあったからである。

 振り返って、豆腐屋に掛け合う転入生の背中を一目見る。微風に靡く後ろ髪と華奢な背中は、勝にとっては見慣れた光景である。不機嫌な表情を見ることが多い勝だったが、やはり石切坂 桜は可愛い。同級生の誰ともまだ口を聞いたところ見たことがない勝は、可憐な乙女の声を知らなかった。自己紹介をした時の声は乙女の本当の声ではないと信じていたのだ。かのような冷淡で無生気な声のはずがない。隣の席で日毎想像を巡らすに、きっと容姿に引けを取らない愛らしい声に相違ないだろうと疑いもしなかった。

何度か気に掛けて振り返っていると、やがて一っ走りの距離に少女の姿を見つけた。覇気がなく、濡れた洗濯物のようにだらんとした腕の先には鍋が虚しく揺れている。

 勝は下腹のところで抱える鍋の水面下で磯巾着のようにゆっくと揺れる喉越しの良さそうな豆腐を見つめた……そして、病院の角で石切坂 桜を待ち伏せすることにしのである。

「なあ」

 声の届く範囲で勝が敢然【かんぜん】と桜に声を掛けた。

 少女は俯いたまま、やはり勝を無視して角を曲がろうとする。

「なあってばっ」

 勝は桜の行く手を遮った。石切坂 桜はやっと顔上げ『どけ』と言わんばかりに勝を睨み付けた。

 それは蛇が蛙に睨まれた面持ちであった。前髪が大きな瞳の上辺を隠し、平素よりも堅く閉じられた唇はまるで二枚貝のようである。

 勝とて、氷柱のように鋭利な視線による『恐れ』は初めてだった。鬼の形相こそ見たことはなかったが、雪女のごとく冷酷な眼差しはまさに生ける妖怪である。

 勝は思わず息を飲んだが、

「これお前にやる」

 そう言って、手に持っていた鍋を石切坂 桜の足下に勢いよく置き、勝は少女の顔を見ることもなく病院の方向へ駆け出したのである。足下に舞い上がる塵と勢いを助走に、鍋からこぼれた水が靴にかかって気持ち悪かったが、この際気にしている事象ではない。

 家まで数歩の角から闇雲に走って走った。暮れて行く陽、家と家の間を縫うように通っている小道は薄暗く、時折頼りない外灯が見当たって、後は民家から漏れる灯りを頼る他なかった。

 勝は背の低い青木の梢【こずえ】に身を隠し、目を凝らして病院の角を見やった。少女の姿がなければ全力疾走で帰るつもりだったのである。外灯が照らし出す少年の影は滑るようにして、闇の中へと消えていく。角に到達するまで、心臓の鼓動は速度を増す焼き玉エンジンであった。スパイ映画の主人公には向かないと歯を食いしばりながら、背中を病院の駐車場の鉄格子につけて、長く伸びた影は小道にそっとのぞき込んだ。

 そこに少女の姿はなく、加えて勝が残した鍋も見当たらなかった。その両方に勝は胸をなで下ろし、小道に唯一漏れる家の灯りに向かって利き足を踏み出した。

「遅かったのね、どこへ油売りに行ってたの?心配したわよ」

 丁度、咲恵が七輪を片す所に出くわした。

「お豆腐は?あら、お鍋は?」

 手ぶらで帰って来た息子を見て母は怪訝そうに柳眉を寄せた。

「……海に落とした……」

 子どもの浅知恵などその程度である。気の利いた戯れ言の一つも思いつかなかった。

「お財布も一緒に落としたの?」

 取っ手を握って持ち上げていた七輪を土間に置いて、咲恵は両手を腰に据えた。

「財布はある」

 勝は、無断で財布の中身を使い込んだと勘違いされては不本意であると、洗い立ての犬のように首をぶんぶんと左右に振って、ズボンのポケットに忍ばさせた、がま口を急いで差し出した。

「ならよし」 

 母はそれ以上取り留めることもなく財布を受け取ると、再び七輪を持ち上げて台所へ歩いて行ってしまった。

 腑に落ちないのは、むしろ勝の方である。皺を寄せて叱責し、豆腐と鍋の消息を問いつめる母の虚像は少年の頭でも安易に想像できたからである。

「さぁ、夕餉にしましょう」

 飯をついだお櫃を抱えて居間に運ぶ途中で咲恵が声を掛けた。腹に怒りを据えているのやもと、詮索した勝だったが、声色からしてそれはなさそうである。勝はそれ以上、母の思考を深追いすることなく、空腹のみに従って居間へ向かった。ちゃぶ台の上には小鰺の丸焼きと大根おろし、南京の煮物と油揚げが浮いたみそ汁。それぞれが皿や椀に盛られ湯気を立てていた。豆腐は彩りに欠けるみそ汁の具材になるはずだったのだろう。

 気が利かないながらも、ふとそう思ってしまった勝は、どことなく居心地が悪くなってしまった。

「はい、ご飯。今日はたくさん炊いたから、どんどんおかわりしてね」

 咲恵は茶碗に炊きたての銀しゃりを八分目まで盛って、勝の前に置く。南京の甘い香りと小鰺の香ばしい匂い、加えてみそ汁に至っては、今すぐ飯を飛び込ませたい。

 しかし、勝は心苦しかったのだ。

「豆腐、ごめん」

 胡座を正座に正して勝は母親に謝罪した。

 母がそれを求めていたわけでもなければ、それを嗅ぐわす態度も見受けられない。それでも、この歯がゆさが勝に口を開かせたのである。

「謝るのなら、お豆腐を作ったお豆腐屋さんと、代金を稼いでくれたお父さんに謝りなさい。母さんは、勝君が無事に帰って来てくれただけで嬉しいわ」

 神妙にする勝に咲恵は優しい笑みでそう語りかけた。狐につままれたような、どこか温かいような。今まさに勝を取り囲んで居た悪臭気が、潮と共に引いて行くように拭い去られたのであった。

「鍋は夏になったら、取りに行ってちょうだいね」

 付け加えて言う母、どうやら冗談ではなく本気の物言いである。


        ○


 翌朝の天気は晴れだった。

 昨日、夏の話題を持ち出した母とて、赤く色づいた指先に湯気のごとく白い息を吐きかけている。朝はとかく凍てつくのである。

日の出と共に伸びる陽の帯は、すでに勝の枕元を捉え、起床の時刻を時計でなくとも目覚ました。その内に木霊するまな板を打つ音と芳しい味噌の香りは、空腹の時分に自ずと勝を居間へと誘うのである。

「おはよう勝君、今日は早いのね。すぐ朝餉の用意するから、先に顔洗っといで」  

 そう言いながら咲恵は味噌汁の味見をしている。

 勝はちゃぶ台の上に伏せて並べられてある食器を一瞥してから、手の甲で目を擦り擦り引き戸を開けた。

 板張りの床は足先から冷える。勝は両踵にできるだけ重心をおいて、洗面台へ向かった。瓦の代わりに天井にならんだガラスは、まるで天窓の様に洗面する物の背中に新しい日光を燦々と注いでいる。背中の記憶。夏の直射には汗を滲ませ、冬の朝はとかく幸せな心地にさせてくれるのである。屋根を除いて床から壁に至るまで隙間だらけのこの部屋は母の話しでは、かつてこの場所には鯉が泳ぐ池があり、長い物干し竿が掛けられてあったそうだ。しかし、それを勝の父である筒串 勝太郎が自らの手で『ある理由』によってこの部屋を増築したのだった。

 勝が生まれるずっと前の話しである。

 母曰く、「お手洗へ行く度に、外に出るのも煩わしいし、夜は池に落ちそうだったもの」とのこと。

 その真意やいかに…… 

 顔面に張り付くように額を濡らした水を左側すぐ、手の届く所に掛けられた手拭いで拭き取る。柱に打ち付けられた五寸釘にそれを戻すと、場所によって軋む床を踏み分けて居間へと戻った。

「うん、男前。お待たせお待たせ、朝餉にしましょう」  

 ちゃぶ台の前には分厚い座布団が置かれてあった。黒染め絹の生地に金や銀色の光沢ある糸でもって、大輪の菊が縫い込まれている。勝はこの座布団を見知っていた。仏事の際、仏壇の前に出される特別な座布団なのである。

「この座布団って、坊さんが座るやつだろ」

 胡座をかいても妙に座高が高くなった勝が言う。

「母さんお寝坊さんしちゃったのよ。だから炭も熾せなかったし、それにストーブの油も切れてるの忘れちゃってて。今日農協に買いに行って来るわ。汚さないようにしてね」

 テレビに寄り添うに置かれた白い縦長のストーブは、一昨年前に買ったばかりの品である。一番冷える早朝だけストーブで暖を取り、夕暮れを過ぎると火鉢を使うのである。

「そう言えば、今月は父さんの手紙遅いな」

「今月はお給金日がいつもより遅いから。そうだ勝君」

 湯気を讃えるお米が山盛られた茶碗を勝に渡しながら、咲恵の表情が朝顔の様にぱぁっと閃いた。

「今月は、勝太郎さんにいつもより多く仕送りしてってお願いしてあるから、二人でデパートに行って、美味しいものでも食べましょう」

 勝は、父が遠く単身赴任する前、何度か行ったデパートを鮮明に覚えていた。見上げるほど大きな建物とその頂から伸びる段幕とバルーン。店内とて見る物全てが垢抜けており、最上階の食堂で食べたオムライスは頬が落ちるくらい美味であった。

「洋服買えばいいだろ。母さん前から欲しいって言ってたし……」

 嬉しそうに言う母とは裏腹に勝の返答は冷淡である。

「んー。それも捨てがたいわねぇ」

 しかし咲恵はあっけらかんと答えた。

 目刺二尾と昆布と椎茸の佃煮、そしてネギだけの味噌汁、朝餉の献立は別段代わり映えしない。

 スズメの鳴き声がよく通る居間での食事は、終始粛々と済まされた。それは、夢から覚めきっていない勝と、恍惚と想像を巡らす咲恵との温度差を表していた。

「はい、制服。アイロンかけといたから」

 箸を置いた勝に母は傍らから折り畳まれた制服を出した。詰め襟の上には大きな手拭いの捲かれた、唐津物の湯たんぽが乗せてあった。金属の湯たんぽに比べて唐津物は温かい。ゆえににやはり特別な時に出す一品のはずである。

「割れても知らねえよ」

 母の気遣いで温められた制服は袖滑りも良くほんのり柔らかかった。

「気を付ければ大丈夫よ」

 こまねく動作で『大袈裟ねぇ』と言う咲恵の膝の上には、金属製の湯たんぽが見受けられた。

「寄り道しないで早く帰って来るんですよ」

 台所の片付けを後回しに、土間から庭にかけて竹箒で掃除を始めた咲恵が、靴に足を押し込む勝に声を掛けた。

「今日掃除当番だから。行ってきます」

 欠伸をしながらそう答えた勝は、外に出た所で思いっきり背伸びをしながら、そう答えた。思わず身震いしたくなる澄んだ空気と雲一つない青空。それは、爽快であり体が軽くなるようであった。

「行ってらっしゃい」

 勝は母の声を背で聞きながら鞄を脇に挟むと、門柱から駆け出して行った。

 吐く息は白く、さながら汽車である。挨拶に出てくる当番の教諭よりも早く下駄箱へ駆け込んだ勝は、静まりかえった空間で唯一の騒音となった。

 やけに足音の反響する廊下を通り教室へ向かうと、無人であろう前提に拍車をかけて、引き戸を開けた。

 しかし、勝は思わず顔を顰しかめたのである。

 今日に限らずこの時分、教室では閑古鳥が咆哮しているはずなのだ。だが、教室にはすでに先客がいた。

 ばつの悪い表情のまま勝は閑古鳥を押し黙らせた張本人の隣の座席へ向かう。

「よう」  

「……」

 今日も口一文字を押し通すつもりだろうか。 

 勝の隣には石切坂 桜が鎮座しており、桜は声を掛けた勝に一瞬だけその表情を向けたのだが、その表情に勝は思わず仰け反ってしまった。上歯の食い込んだ下唇は今にも鮮血を吹き出しそうに赤く、瞳に宿した憤怒の色は、凍てつく季節をも灼熱の劫火にて飲み込もう勢いだった。

 視線が落とされた。

 勝が再び石切坂 桜の表情を窺おうと徐に顔を寄せると、彼女の机に刻まれた『憤慨』の根源を見つけてしまったのである。机の中央部分に大きく明快に深々と彫り込まれたに二文字。それは卑猥であり、女子ならば誰しもが激昂を色濃くする言葉であった。

 『ブス』

 言葉による暴力で傷つく乙女心は計り知れない。勝はその言葉を幼なじみである竹下 景に一度だけ使ったことがあった。 

 その後、母に『ブスって言った勝君の方がよっぽど不細工に見えるわよ』そう言われたことが心の傷となりそれ以来口走ったことは一度としてない。

 勝は摩訶不思議な心境であった。その言葉が暴力的かつ低俗な暴言であることは認識していた。だが、石切坂 桜は誰もが羨む端正な顔立ちなのである。大凡『ブス』とは縁遠いはずなのだ。

 とは言え、本人がそれを素直に受け止め、そして激怒している。考えあぐねた結果。勝は悪質な戯れ言が刻まれた机を持ち上げた。幸いまだ教科書は入っておらず、見た目より随分と重い木製の机はなんとか勝の力でも持ち上がった。

 思わず立ち上がって驚嘆の表情を浮かべていた石切坂 桜であったが、

「それどうするの」

 やがて、頭上に机を構える勝に駆け寄ってそう言った。

 振り向いたすぐ前に立っていた同級生は可愛かった。勝は夢心地に口をあんぐりと開けて、しばし佇んで居たが、少女と同列の最前列から三列目の机の前にそれを降ろすと、廊下を気にしてから、大急ぎで机を入れ替えたのだった。

「そんなこと頼んでない」

 両手を胸の所で握った乙女は、おろおろとしながら交換した机を担いで戻る勝と共に後ずさった。

「お前はその……可愛いだろ。ブスはブスに座らせとけばいいんだ」

 真っ平らな机を置いてから、朝飯前と手を摺り合わせるように叩きながら勝は言った。

 困った表情を浮かべる黒髪の乙女に激昂の色はなかった。しかし、今度は勝が焼けた鉄のように顔を紅潮させてしまったのである。

「ありがと」  

 短くそう言った石切坂 桜の顔を勝は瞼の裏に焼き付けたかった。今すぐに焼き付けたかった。だが、そもそも面と向かうことが出来なかった……

 勝から放った沈黙は、隣人を物言わぬ日本人形に仕立て上げ、待ちわびていた会話をも大海の藻屑としてしまった。

 顔の火照りが収まらずにいた勝だったが『目的』は果たさなければならない。勝は国語の教科書を取り出すと、裏表紙に程近いページを開き、そのページに整列した漢字を机に写し始めた。

 やはり気になる。

 鉛筆を動かしつつ流し目で隣を見やると、おかしなことに彼女は椅子に横向きに腰掛け、勝の手元を覗き込むようにして凝視していたのである。

「テストの答え見せてあげようか」

 首を傾け、勝の顔を見上げて桜が言った。

 黒く艶を宿した前髪が傾き横顔の長髪は顎に掛かっており、あるいは耳を露わとして枝垂れている。前歯を垣間見せた口元は多少綻んで、少々上向いた眉は優しい印象を与えた。何よりその仕草が堪らなく愛らしかったのである。

 勝は鼻息を荒くして、今にも机に触れてしまいそうなほど、額を近づけると高まる鼓動を必死に押さえた。首を捻った石切坂 桜だったが、廊下に木霊する喧騒に気が付くと慌てて座り直し、いつも通りの物言わぬ二枚貝となってしまった。

 陽が高くなるにつれて賑わいを増す教室。そこへ小判鮫を従えて現れたのは、森田 明美であった。

 赤みがかった顔に団子鼻、余った贅肉が目元を押し上げ、あるいは顎骨に綿菓子の様にこびり付き首が首として見えず、終始丸々と太った体は、制服を毎年新調しなければ追いつかない様子である。

「ああっ!」 

 その巨体が朝一番に醜い鳴き声を上げたのは、自席に深々と刻まれた悪意の描写を目にした瞬間であった。

 両親が共に医者であり、わがままを絵に描いた成長を遂げた明美は、とかく自尊心が高く高慢である。ゆえに気に入らなければキィキィと無様に騒ぎ立て、誰かに当たり散らすのだ。悪が世に栄えぬように、己が大将と言わんばかりの明美に対し、周囲の反応は冷ややかにして冷淡であり、取り分け勝を含めた男子は密かに『森ブタ』と呼称して罵っていた。

 明美の声を耳にして、閑話に花を咲かせていた同級生たちは、一同にその口を閉じて声の主を見やった。宿主に駆けつけた容姿の似通った小判鮫達が、明美同様の驚嘆の表情を並べる。

 『また始まる』暗雲が立ち込めるように、同級生たちは眉を顰めた。しかし、珍しいことに、これ以上の咆哮は轟かなかったのである。水面下の張本人である勝とて、それは想定外だった。『森ブタ』が騒ぎ立てて叫く姿が容易に目に浮かんだからである。気になった勝が上目遣いで明美に目線をくべると、その盛り上がった頬肉を引きつらせてこちらを睨み据えていた。思わず視線を机に戻した勝だったが、恐いもの見たさが先立って、思い切って目線を合わせるべく頭をもたげてみた。すると、憤慨を目の色に宿した小さな瞳は、今にも体当たりを敢行するであろう気迫に満ちているではないか、そして気付いたのである。幸いにもその矛先は勝に向けられてはいないことに……

 だが、敵対心を露わとして穴があくほど睨み据えられていたのは、不幸にも石切坂 桜だったのである。


        ○


 大地震の前触れに黒髪の乙女は俯いたままであった。

 海神の加護を得て凪いだ教室内に、一時限目を知らせるチャイムが鳴り響いた。それと同時に、見慣れた『礼服』を着込んだ橘先生が藁半紙を大層抱えて入って来る。無論、それが好ましくない物であることは、みな一様に理解している。数日前から、宣言されていたからであることは、もはや言うまでもあるまい。

 だからこそ教卓を前にする生徒達の顔色も千差万別であった。

 『漢字試験』が開始されてから勝は、表情を歪めて苦悶の一方行だった。設問を進むにつれ、首を傾けたり、眉を寄せてみたり、大凡解答に結びつくであろう、溺れる者が必死に掴む虎の巻。机に記された一変の細工に目を凝らすが、回答欄を埋めるどころか、ものの見事に的を外していたのである。加えて、石切坂 桜に気を取られて筆を走らせた箇所は、ミミズ這いであり、自分で書いておきながら解読すら困難だった。

 お手上げとばかりに、鉛筆を鼻の下に挟み、遊ぶ両手を後頭部へ回した勝。そこへ、飛んで来た消しゴムの欠片が机の上で跳ね踊った。

 勝が横目で悪戯主を見やると、石切坂 桜が机の端から大幅に答案用紙を垂らし、解答を見よとばかりに繊細かつ意図的な筆圧にて濃くはっきりとした文字が見えた。勝は雲間に差し込んだ光明見たように喜んで鉛筆を手に取った。これを写せば、咲恵にも堂々と答案を見せることができるだろう。うまく行けば駄賃すら手に入るやもしれない。

 利害に関係して悪魔がいると言うなれば、今まさに勝は心を売り渡そうとしていたのだ。なんと醜い手段だろう。

 人に潜む蝕まれた内情たるや、明瞭たる冷遇において自分自芯を歪め、踏み入れてはならない悦楽の境地へ落ちるはいとも容易い。しからば、生涯消えぬであろう後悔と汚点を背負うは易く、歩くは難し。

 答案に黒鉛を付けた勝……

 その時であった。一時の道楽に奈落へと突き進ませる自分を、せせら笑う一片が胸の内に現れたのは……なんと辱める事だろうか。内に潜む道化は、苦笑に満ちた表情のまま、平然と暗黙へ歩みを進める勝を押し止めたのである。

 勝は思わず逆上に唇を振るわせ、握っていた鉛筆の切っ先に渾身の力を投じて、藁半紙に押しつけた。

 すると、黒鉛の先は乾いた小さな音と共に、幾らかの粉カスと共だって答案用紙の上に散った。 結果的に解答欄は散々たる有様となってしまった。しかし、それを教卓へ差し出した勝の面持ちは晴れ晴れとしていたのである。

 いかなる局面においても最強にして最大の敵は内に秘めたる己自身なのだ。


       ○


 甘い卵焼きを頬張った昼休みも呆気なく過去となり、昼寝とばかりに突っ伏した午後の授業もまた燕の如く。

 勝が次に目を開けた時には、すでに橘先生が教壇に立っていた。

 本日も、無事に終わった。

「筒串君、おはよう」 

 背伸びをした勝に、橘先生が通る声で言う。

 すると、教室中にどっと笑い声が吹き出し、それに圧倒されて勝は身を縮こませた。無愛想な隣人でさえ口元を押さえていたのである。

 清掃の時間。橘先生が去った後、我先にと教室を飛び出す同級生に、羨望の眼差しを向ける数名は、勝を含めて本日の掃除当番である。

「森ブタの机見たか?」 

 箒を携えてベランダで怠けていた勝に、柳 幸太(やなぎ こうた)が声を掛けた。

「さあ」

 白々らしく、しらばくれる勝。

「『ブス』だぜ。誰がやったか知らねえけど、俺そいつと友達になりてぇ」

 虎刈りの頭を箒の柄でゴシゴシやりながら幸太が愉快に言った。小さな目と年中垂れっぱなしの青っぱな。背丈は勝とほぼ同格である。

 勝も思わず楽しくなって、事の真相を打ち明けようかと思った。

 しかし、その矢先、

「渡り廊下ん所で森ブタらが話してるの聞いたんだけどよ。あれ石切坂がやったらしい、勝はどう思うよ」 

 勝は言葉を飲み込んだ。大地震の前触れにはナマズが暴れると言うが、形相甚だしい今朝の森田 明美は。すでに火口を焼け爛れさせる富士だったのかも知れない。 

「あほ。石切坂がそんなくだんないことするはず無いだろ」

 熱を宿し、顔を突き出して言う勝。

「何熱くなってんだ。もしかしてお前……石切坂の事好いてんのか?えぇ?そうなんか?」

 勝は顔を紅潮させた。今ここにシャベルがあったなら、すぐにでも穴を掘って飛び込みたい。

「ちがうわい……」 

 勝は俯いて、やっとそう言った。

 にかにかと鬼の首を取ったように悪戯な笑みを浮かべる幸太は片方の鼻翼を指で押さえると景気よく鼻をすすった。

「ちょっと!怠けてないで手伝ってよっ!」

 防戦一方の戦局を打開したのは誰であろう、銀縁眼鏡が特徴である咲傘 晴海(さきがさ はるみ)であった。大きな瞳に小柄な背丈。後ろ髪で結ったお下げ髪は腰の近くまである。雑巾を振り回しやって来る晴海に、幸太は小さい目を丸々として、華奢な体を勝の後ろに隠した。

「机運んでよ!男子の仕事でしょ!今日ピアノのお稽古があるから急いでるの!」

 所詮は他人の都合である。つっぱねてしまえば困るのは晴海であろう。しかし、今にも雑巾を投擲とうてきして見せようとする晴海に抗うのは、蛇足でしかない。

 疾風の如く、前屈みになって教室へ逃げる勝と幸太。勝は素直に清掃に従じることにした。いずれにせよ、清掃が終わらなければ勝とて下校ができないのである。

 だが、幸太はすれ違いざまに晴海の下げ髪を引っ張り、それに激怒した晴海が天誅と雑巾を振りかざす女武者となって幸太を追い掛けて行った。今頃は幸太は、執念を共だって迫り来る銀縁眼鏡から、必死で逃げ回っていることだろう。その二人の影が見え隠れする渡り廊下を挟んだ反対側の校舎は、新築のコンクリート壁であった。

 殺伐と冷たく灰色の肌をむき出す校舎。勝も進級に伴って、近々この木造校舎二階から新校舎二階へ移動しなければならない。

 上級生の兄妹を持つ生徒の話によれば、教室の壁と床には、寄せ木細工の様な板が並べられ、天井は剥き出しのコンクリートから電燈がぶら下がっているのだと言う。勝はそんな新築校舎が息苦しく思えて仕方なかった。

 例え心中穏やかでなくとも、粛々と作業を行えば教室の清掃など、さも時間は掛からないのだ。

「あんた明日一人で掃除しなよ」

 晴海に首根っこを捕まれ、まるで捕獲された家出猫のように頭を垂れ、頭上には雑巾を飾った幸太が帰った来た頃には、『掃除』と称される作業は終わりを告げていた。

「先生に言うから」

 と教室を出て行った晴海を、

「それは駄目だって」幸太はむち打たれた競走馬のように追い掛けて行くのであった。

 勝は安穏とした面持ちでそれを横目に見ると、さっさと帰路についた。閑散とした下駄箱を出ると、日差しは随分と暖かい。しかし、桃の節句を目前に控えて盆地の嵯峨か、寒梅さえもまだ五分咲きである。

 週末は釣りに行こう。藪から棒にそう決めた勝は、校門の所まで歩みを進め、ようやく痛ましくも踏みつけていた靴の踵を直すことにした。

「あんたが、机入れ替えたんでしょ!あんたの机だってわかってるんだからね!」

「なんとか言いなさいよ」

「森田さんに謝りなさい!じゃないと酷いんだから!」

 声色が三つ。どうやら放課後を持て余す女子生徒達が校門の外でもめているのだろう。

 無論、勝は介入するつもりは皆無だったのである。しかし、門のレールを跨いだ所で勝が目にした光景は、一目で浅ましくも許し難かった。

 森田 明美とその取り巻きが、石切坂 桜を囲むようして詰問していたのである。大地震はすでに海中深くでその牙を剥き、今頃になって津波が押し寄せて来たのである。

「私のお父様は偉いの!あんたなんかすぐに転校だってさせられるんだから!」

 虎の威を借る豚は、腹を突き出して桜を一喝した。問いつめられる少女は、鞄を胸の所で抱えたまま、堅く口を閉ざして頑なに明美を睨みつけていた。

 勘違いは良くも悪くも人生を彩るのである。勝は、沸き上がる憤りを我慢できなくなっていた。多人数で囲み、責め立てる不逞ふていの輩は、傲然ごうぜんと見下した物言いを止めようとしない。その言動、その情景、全てが堪に触った。

「俺が入れ替えたんだ。文句あるか」

 勝は凛乎として、明美の目の前に立ちはだかった。

「はあ?なんであんたが狐をかばうわけ?」

「ひっこんでなさい!」

「そうよそうよ!」

 一言に対して頭数だけの応酬。

 しかし、そんな事ことは勝に何の効力も示さなかった。

「それに、何でお前が石切坂の机だってわかんだ。お前がやったのか!どうなんだ!それにな、『ブス』はブスが使えばいいんだ」

 暴力が効力するは力を込めた手足による外傷よりも、その深層に響く罵詈雑言をもって最大に威力を発揮するのである。取り分け、自尊心の強い明美にとって、その言葉は腑が煮えくり返る侮辱の他になかった。

 わなわなと頭の先から足の先まで痙攣させる森田 明美。やっと瞳が窺える目に溢れんばかりに涙を堰き止めて、首をぶんぶんと降った。

 滴が四方に飛び散った。

 明美の腰元達はそんな明美を見ると、思わず後ずさった。今にも逃げ出したい様子である。

「うるさいうるさいっ!!」 

 顔面をぐしゃぐしゃにして、明美は衝動的に勝へ向かって通学鞄を振り上げた。勝は石頭でそれを受け止めてもよかった。だが、勝は次の瞬間に頭上へ振り下ろされるだろう凶器を、どうするか思案した末、頭に貰うのは咲恵と教諭の拳だけでよいと結論付けたのだった。断末魔の高音域で何かを叫き散らし、鞄を振り下ろす明美の両肩を、勝は少々の力を加えて押した。

 勝からすれば最低限の防衛行動であり、最悪でも蹌踉めく程度だと思慮したのだが。

「きゃっ!」

 森田 明美は、呆気ない声を出したかと思うと、その巨体が仇となって派手にすっ転んでしまったのである。転んだ拍子に、腰下を覆う制服が捲れ上がり、あられもない白い恥じらいが露呈してしまった。その刹那、もちろん勝も目線を逸らした。だが、追随して視界の端に映るそれを遮るためにやがて目を閉じた。

「パンツ早くしまえって……俺だって見たくないんだから……」

 嗚咽に似た衝動を抑えながら勝は明快に言った。

 例外無く森田 明美も乙女なのである。好意の有無に関係なく、異性である勝に見られてしまった羞恥心は、明美を純然たる乙女に立ち返らせた。

「いやあぁぁ!!」

 全力にて立ち上がった乙女は、両手で顔面を隠しながら勝の通学路とは真逆の方向へ駆け出した。

「森田さんっ」

「待ってぇ!」

 明美が残した荷物を抱え、後を追った二つの影は今更ながら勝に睨み目をくべた。

 森田の走り去る背中を見送って、視線を石切坂 桜に戻すと、桜は驚いた表情を浮かべて勝を見ている。大きく見開いた瞳と同調した眉、そして物言いたげな上品な口。

「咲恵おばさんに言っちゃおうかなあ。ブスって言ったこと」

 本来であるなら、黒髪の乙女と言葉を交わすはずであった。しかし、似非時の氏神として現れたのは勝と幼なじみである竹下 景だったのである。校門の影から姿を現した景は腰元まで伸びた髪を一つ括りにして、前髪は不自然と中央で分けている。背丈は桜と並ぶ程度であり、凛とした瞳と小さな鼻面、形の整った口元は、桜と負けず劣らずな端整な顔つきだったが、夏の日差しを堅実に浴びた額は健康的と表すに相応しい。

 景子は面白がるように裸眼を半分閉じて、勝に顔を寄せた。

「やな奴」

 悪態を吐く勝。

 まるで兄妹のようにしがらみのない二人を正面に、石切坂 桜は目だけを動かして兄妹を交互に見つめていた。

「勝ちゃん帰ろ」

 立ち据える噂の転入生を無視するように、幼なじみは勝の袖を引っ張った。

「おっおい……」

 勝は名残惜しと言わんばかりに可憐な乙女を見ていた。景と連れだって下校するのは大凡一年ぶりである。幼少の面影を残す幼なじみは、不機嫌な様子で黙りこくったまま歩みは早く、勝はその後塵を拝す形となっていた。

「景。何か怒ってんのか」

「別に」 

言動とは裏腹に声の調子は淡泊な単色画である。

「やっぱ、怒ってんじゃんか」  

 勝は訝しく思い、怪訝な表情のまま景の前に踊り出ると、面と向かって声を張り上げた。半開きの目元と力の入っていない口もと。景は勝が思っていたほど冷淡な表情ではなかった。言うなれば呆れ顔である。

「勝ちゃんさ、石切坂さんのこと好きなの?」

 景はそう言うと、まるで障害物でも避けるように勝の脇をすれ違った。

 振り返る勝。

「どう言う意味だよ」

 道に生える雑草を避けながら、景の隣に追いついて勝が聞き返した。

「噂になってんのよ、勝ちゃんと石切坂さん」

「へぇ」

 勝にとっては如何様にも喜ばしいことである。

「『へぇー』じゃないわよ。あの子がなんて呼ばれてるか知ってるの?狐よ狐」

 石切坂 桜が水面下では『狐』と呼称されている事実を勝はこの時初めて耳にしたのである。

「あの子ってば、二組の男子から告白されたのに、それでも何も言わなかったんですって」

「ほんとか?それ……!」  

 勝は背筋に冷たい物が走るのを感じた。桜を好いていたのは勝だけではなかった事実。さらには、勝よりも先に告白して玉砕した同級生がいる事実。いずれにせよ、そんな軟派な奴がいたとは遺憾とせざる得ない。

「なのに、なぜか石切坂さんと勝ちゃんが仲良くしてるって噂が立って、気になってた矢先、勝ちゃんたら正義の味方してるんだもん。呆れたわ」 

 溜息混じりに首を振る景。脳天気で周囲を気にしない幼なじみにやきもきしたことはこれまでにも数え切れない程あった。どれほど心配したことだろう。しかし、勝はそれに一度でも気が付いてくれたことはなかった。一方、勝は小さく拳を握った。どうせならその噂を町中に吹聴して回りたいと言わんばかりの表情である。

「痛って! 何すんだ!」 

 景の心勝知らず。

 舞い上がる勝の後頭部に景の鞄がめり込んだ。勝は痛みに悶え、後頭部を摩りながら何度か飛び上がって目をしばたかせた。

「正義の味方で悪いかよ!俺は弱いもんいじめが嫌いなんだ、一対一なら何もしなかったさ」

 後頭部を押さえながら言う勝。

 景は額に手をやって、再び大きな溜息をついた。

 日が長くなった晩春。海を目前に捉え、二人は海沿いの国道にさしかかった。最近操業を開始したばかりの、造船所へ向かうトラックが路面に黒鉛を吹き付けながら、大きな車体を揺らして通り過ぎて行く。お陰で茶色い道は穴ぼこだらけである。

「とにかく、あの子に優しくするのやめなよ……勝ちゃんは誰にでも優しくし過ぎるんだから」

 言葉が語尾に近づくにつれ、景は顔を俯け声帯の振動を緩やかにした。

「やだねっ。狐だろうが狸だろうが、俺には関係ない。言いたい奴には言わせとけばいいんだ」  

「あのね」

「言っとくが景。お前が石切坂のこと狐なんて呼んだら。一生口聞かないからな」

 真剣な眼差しで景に指さして言った勝。

 景は面白くなかった。勝のこんなに真剣な表情を見たことがなかったからである。幼い頃からいつも一緒に居て、共にたくさん笑って、思いっきり泣いた。いじめられれば勝が必ず助けてくれて、時には慰めてあげた。景は勝との仲に自信があった。しかし、この瞬間にその紡いだ全てが崩壊してしまったように感じられたのだ。

 中学入学を境に勝と距離をおくことにした。学校ではできるだけ顔を合わさないようにしていたし話をした記憶すらない。それこそ、勝と自分との間には断固たる縁が、堅牢なる架け橋が短い空白などものともせず時を選ばすあの頃に回帰できると確信していたからである。

 景は一抹の不安に胸を痛めた。今傍らにいる勝は、景に馴染みない姿だったからである。

「好きにすれば良いでしょ。もう知らない!」

 景は駆け出した。勝が追い掛けて来るかもしれない。しかし、それでは困る。景子の目頭は熱く、水ではない温かい滴が溢れていたのだから……

「何だあいつ」

 幸いなことに勝はその場に佇み、遠ざかって行く幼なじみの背中を見つめるにとどまっていた。

 秋空と乙女心はこれいかに。

 勝からすれば景の話しは脈略のない夢想家の弁である。なぜ可憐たる石切坂 桜を避けねばならないのか。そして忌まわしきも狐と呼ばれているのか。その是非で勝と周囲とに軋轢が生まれる言うのならば、勝には存分に善戦しうるだろう。勝は何人たりと踏み入った形跡の無い『石切坂 桜の声』へすでに踏み行ったのである。景の言動を訝しむことなく、勝は今朝の出来事を回想し、にんまりと足取りを弾ませて家路を歩んだ。

 しからば、次に訪れるのは少々の試練である。

「母さんっ、おいっ」

 勝は、借金取りのごとく家の引き戸を何度も叩いた。それこそ、等間隔で収められてある磨りガラスが今にも割れそうなくらいに。

   しかし、壁に直接接合する施錠は、想像以上に頑丈であり、勝の力では容易に破壊する事はままならなかった。家人である勝を拒絶するとは、聞き分けの無い施錠である。

「このぽんこつ」

 勝は戸を思い切り蹴り上げたい衝動をなんとか堪え、外回りで鍵の開いている戸はないかと探し始めた。

 泥棒に向けて戸締まられた家は、非力たる少年にとって、まるで堅牢な砦の様相であり、唯一侵入を許したのは、納屋と、今では使用されていない便所のみ。諦めた勝は、縁側に上がって簾すだれを捲った。火が消えたようにひっそりとした離れ座敷が窺える。立ちはだかるは、正方形の木枠にガラスが収まり、やっと不届き物を防ぐ体を成している軟弱な戸。

 勝はなおのこと表情を歪めた。

 一見して届きそうで、その実状は遥か遠い。このジレンマを一体どこに当たり散らしてやろうか。と、時が経つにつれ轟々と煮えくり返る腑と相談せざる得ない。

「筒串君」

 控えめであったが鶯の様な声が耳に囁いた。

 その時勝は、縁側に堂々と胡座をかき、本結びの様に組んだ腕でもって、白菜や薬味ネギが寂しく生えている畑をどうにかしてやろうと悪巧みの最中であった。

「石切坂……」

 スカートから下は制服のままであったが、上半身は純白のブラウスとその上には、親指程の木製ボタンが縦に三つ並んだ青色のカーディガンを纏った石切坂 桜が立って居た。

 思わず勝は靴も脱がずに縁側に立ち上がってしまった。

「お鍋、返しに来たの」

 桜の手には見覚えのある両手持ちの鍋が握られてあった。勝は門柱の外に立つ桜の元へ、無言で駆け寄った。

「別に鍋なんかいらねえのに」

 桜を正面に見据え、勝は鼻の先から耳の先まで、高熱病の如く熱を帯び、まるで全身の血液が煮えたぎっているようになった。

「そんなの駄目だよ。それからありがとう」  

「豆腐ぐらい、いつでも譲ってやるよ」

 勝はそう言うと桜の手から鍋を強引に引き取った。

「お豆腐のこともありがとうだけど、今朝と放課後のこと……嬉しかった」

「ああ、森ブタなんか相手にすんなよ、意地悪いやつなんだ」

「森……ブタ?」と言って桜は少し困った顔になった。

「あいつブタみたいに丸々と肥えてるだろ。だから森ブタ」

 そう言いつつ、勝は鼻面を指で押し上げ、ブタの鳴き声を真似をして見せた。

「筒串君って面白い」

 桜は腹を両手で押さえ、含み笑いをしていたが、やがて前屈みに声を出して笑った。その光景を目の前にして、勝はいささか不思議な面持ちであった。言うまでもなく石切坂 桜のそんな姿は新鮮であり、最上の悦喜であったが……勝としてはそれほど己の芸が愉快であるとは思わなかったのである。

「そんなに笑うなよ。恥ずかしいだろ」

「ごめんね、でも本当に面白かったの」

「それから、これお豆腐の代金」

 続けてそう言った桜は、スカートのポケットを探り、小銭を取り出すとそれを手の平に乗せて差し出した。

「いるかよ。そんなもん」

 勝はあっけらかんとした表情でそう言い返した。

「それはやだ。私、お金が無くてお豆腐買えなかったわけじゃないもの」

 桜は凛とした声で言うと、身を乗り出して勝に歩み寄った。雪の様に白い素顔が目前に迫ると、勝は海老反りに体を仰け反らせ、慌てて一歩後ずさった。

「受け取ってくれるまで、私、帰らないからね」

 さらに腕を伸ばす桜。

「わかったよ。受け取ればいいんだろ、受け取れば」 

 勝はたいそう大きな音を立てて生唾を飲み込むと、蝶を捕まえるようにゆっくり桜の手の平へ指を向かわせた。

 小銭の感触だけならば慣れたものである。しかし、勝の指先は火花が迸った様に感覚が研ぎ澄まされ、柔らかく温かい感触に、今一度生唾を飲み込んだのである。

 反射的に腕を引っ込めた勝、

「やっぱいらねぇよ」

 勝は手の平を蕾の様に堅く握って少女に言った。

「受け取ってくれなきゃ、私帰れない」

 一目散に土間へ逃げ込み、後を母に任せればそれで済む。

 しかし、頼りの母どころか、閉め出されている勝は、一点張りを胸に佇む石切坂 桜と正面から向き合うしかなかったのである。

「俺だって……」

 例え道理が正しくとも、一度譲った物の代金を受け取るなど、勝に芽生えた義侠心がそれを善しとしせず、両者はしばし沈黙を貫き、互いの瞳に宿した思いを決して譲ろうとはしなかった。

「何処行くの」

 根負けした勝は徐に歩き始めた。慌てて少女もその後を追う。先を歩く勝を石切坂 桜が追う形となって病院の前を通り過ぎ、朽ちて腐りかけた粗末な木製の塀で囲まれた公園をも過ぎ、土地を惜しむ様に家々が立ち並ぶ小道へ入った。人がやっとすれ違える程度の道は、陽光が所々遮られ、落日がありながらすでに宵の口である。迷路を思わせる小道の角を何度か曲がり、直線の道へ出た時、視界がぱっと開けた。右手には離れを残し焼け落ちた家と、続きの空き地。左手には婦人会が会合でよく使用する『松浦道場』がある。それを抜けると、川沿いの車道に突き当たり、右斜め前方には珍しいコンクリート製の橋が架かっており、人も自動車も往来できた。

 そこに至るまでに、何度となく石切坂 桜は勝に声を掛けたが、とうとう勝からの返事はなかった。

 橋を渡りきると、道路沿、向かって左片側に商店が複数軒を連ねており、食料品から金物まで、大凡の生活雑貨品がこの通りで手に入った。道路を挟んで反対側には、目印となりうる樅(もみ)の巨木がそそり立ち、それを境に広場が続き、さらに足を進めると極々最近立て替えられたばかりである農協が灰色の素肌を茜色に化粧して佇んでいるのだ。

 勝は、屋上に立てば海まで一望できる農協の隣、幾らか距離をおいた場所にある駄菓子屋『富士ストア』へ向かった。

 勝の父が生まれる前からすでに商いをしていた店の貫禄は樅をも凌駕し、大黒柱の傾きに合わせて屋台骨が瞭然(りょうぜん)と傾いており、店先の戸を始め、便所のドアさえも閉められない有様であった。例え外見が今にも倒れそうであっても、店先から店内に至るまで、ぎっしり並べられた菓子入りのビンや缶。加えて店内に麻ひもで吊り下げられた長方形のくじ引きなど、時代が変わろうとも子ども達にとって駄菓子屋は揺るぎない夢の島なのである。

「銭かせよ」 

 駄菓子屋の前で立ち止まった勝は、振り返り様に手を出して石切坂 桜にそう言った。

「うん……」

 少女は、何かを言いたげな口元を閉じ、勝に言われるまま小銭を手渡した。

「絶対待ってろ」

 勝は小銭を握り締めると、それだけを言い残して駄菓子屋の敷居を跨いだ。取り残された乙女は夕日を浴びた店内を覗き込んで、視線でもって勝の姿を追った。

「おい、あれって狐だろ?」

 後ろからそんな声が聞こえた。思わず呼吸を止めた少女は、肩を狭めて身構えた。

「へぇ、揚げ買いに駄菓子屋か」

「そんな銭ありません」 

 冷やかす声色は三つ。

 乙女は自身が『狐』と呼称され罵られていることを知っていた。

 石切坂 桜に好意を抱き、軟派にも想いを伝えた男子がいた。しかし、こともあろうにその男子を好いていた女子が、嫉妬心にかられ石切坂 桜に対して『拐かし狐』と叫んだことから、少女は狐と呼ばれるようになってしまったのである。そんな不条理な屈辱に少女はあえて耐えることを選択し、ただ苦汁を飲み続けていたのである。

「こいつ喋れないんだろ」

「そりゃ狐だかんな」 

「違いねっ」

 恐る恐る振り返ると、詰め襟のボタンを全て外し、シャツを露わとした緑ヶ丘中学校の生徒が三人連れだって、にたにたと気色の悪い笑みを自分の元へ向かって来るではないか。硬派を坊主とするならば三人は髪を無造作に生やした軟派である。体躯は勝と大差なく、名札から同学年であることも窺い知れた。しかし、濁った瞳はすでにやくざ者の片鱗さえ垣間見せている。

 頭の先から足の先まで舐めるように見つめた三つの影はやがて、少女に迫った。

「おい何か言って見ろよ」

「そうじゃそうじゃ」

「言えってよお」

 やくざ者の一人が後ずさった桜のカーディガンを掴んだ。

「……」

 怯えた瞳を向けながら桜は、渾身の力を込め、その手を振り解こうと叩いた。

「こいつ」

 手の平に微かな痺れを残して、男子生徒の手は果たしてカーディガンから離れず、油を注がれた、ならず者の腕は衝動的にそれを引っ張り上げた。恐怖に目を閉じる瞬間、少女には聞こえてしまった、悲鳴にも似た毛糸が軋む音、そして、飛んで行くボタン。

少女は思わず、カーディガンを守るように両腕を胸の前で交差させて座り込んだ。

「おい、やり過ぎだろ」

「わざとじゃねえよ」

 やくざ者の片鱗は片時の断末魔と座り込んだ少女の幼気な姿に、後悔の色を漂わせ、次第にそれを濃くしていった。

  少女は駆け出した。

 肩に触れた衝撃は少女の身に反動として十分な苦痛を与えたが、それは承知の上であった。震える足で駆ける少女は何度も躓【つまず】いた。しかし、それでも全力で走り続けた。ただ走った。まるで心体が剥がれたように、不規則な呼吸は喉に荒く、外呼吸との調子を狂わせた器官が、疲労を格段に促進させる。それでも、恐怖が背中を強く押すのである。振り返ることすら拒絶する怯えた心は、その身に来襲するであろう悪魔の姿を脳裏に焼き付けて一向に消えようとはしなかった。眩暈にも似た脱力感に少女は、到頭、公園の塀に体重をあずけてしまった。額にはおびただしい水滴が浮かび、それが首筋を伝ってブラウスを湿らせた。

「石切坂、待てって……」

 半目を開け、声の主を確認した少女は安堵感から肺に溜めていたものを全て吐き出した。『狐』と呼ばれなかっただけで、安心できたのである。

「お前どうしたんだ……待ってろって……言ったのに……」

 追いついた勝も呼吸を荒くしていた。

「……ごめん……」 

荒い息を落ち着かせようと、肩で呼吸を繰り返す少女。

「石切坂……って……足早いんだな」

 走り去る少女を追って駆け出した勝。無論、勝は足の速さには自信があった。徒競走では負けたことがないくらいである。だが、石切坂 桜はまるで猫から逃げる鼠のごとく異様な加速を見せ、勝ですらじりじりと距離を詰めるのがやっとだったのだ。

「ボタン……どうしたんだ……?」

 勝は気が付いた。青色の中にあった焦げ茶色が一つ足りない。

「あれ……ほんとだ……転んだ時に……取れちゃったかな……」

「転んだ……?怪我してないか」 

「うん……大丈夫……」

 首を捻った勝だったが、視線を逸らした少女の瞳が『聞かないで』と嘆願しているように見えて、それ以上問う事ができなかった。勝は、ようやく携えて来てしまった、サイダーの入った瓶口にある、無地で銀色に光る王冠を見つめて頭を掻いた。通常ならば駄菓子屋で開封してもらい、その場で飲み干すのだ。しかし、今回に限って瓶を未開封のまま駄菓子屋を離れてしまった。男気には意中の乙女に飲ませてやりたかった……揺れる少年心。季節柄瓶は程良く冷えている。

 王冠を開けると同時にビンの中から零れ出でる爽快な音。これを口の中に入れようものなら、一番に広がる芳醇な甘味と喉で爆竹の如くはじける炭酸の刺激が堪らない。白く気泡を踊らせる様は、麦酒を連想させ、子どもにして大人の面持ちを味わえる背徳の喜びが何とも言えない醍醐味を与えるのである。その欲求に耐える事の難しきは、菓子を目の前にして垂涎と佇むに同義語なのである。

 勝は王冠をくわえると、顎の骨を軋ませて口金を剥ぎ取ろうと奮闘を始めた。瓶口を包み込む口金の端は想像以上に鋭利であり、舌で援護しようものなら流血は免れまい。内外に関係無く、皮膚と言う皮膚を王冠から遠ざけ、齧歯【げっし】類のごとく、上下の前歯を駆使して王冠を次第に歪めて行く。

 石切坂 桜はそんな無謀な男子の姿を捉え、この瞬間勝の口の中に溢れているだろう痛みを共有すべく眉を顰めた。

 物理の法則とは一度動き出した物体への運力量は容易くなるのである。変形を始めた王冠は、勝の首と角度を揃え、やがて、内気圧の解放を持ってその役務を終えた。

 しかし、上下運動を糧に、躍動する時を虎視眈々と狙っていた気泡どもは、口金の均衡が破れるや透明をたちまち白く濁らせ、ロケット噴射のごとく唸りを上げたのである。

 無言で足踏みをしながら、激しく喉の辺りを叩く勝。喉で大砲が乱発されたような痛みに顔を歪めながら、勝は蓄積する気泡どもを胃袋へ無理矢理押し込んでようやくことなきを得た。

「死ぬかと思った……」

 ぐっしょりと濡れた首元と瓶を握った手、そして袖。それにもまして、勝を驚愕させたのは瓶の残量であった。半分に減った魔法の水。実にその片割れが一瞬にして泡と消えてしまったのであるからして落胆の色を見せるは必定であろう。

 しかし、それを見ていた桜はまさに抱腹絶倒であった。時折涙を拭い腹を押さえ、声を殺して大笑いしていた。

「笑うことないだろ」

 小童のような失態を演じた自分を情け無く思う一方、勝は一片の慰めを黒髪の乙女にに求めていたのである。

「鼻から……出てる」

 勝の顔に指を指して言う少女は、目に涙を一杯にためていた。勝は石切坂 桜に背を向けると、急ぎそれを袖で拭い、腹いせとばかりにサイダーを一口喉に流し込んだ。想像とは別の深い味わいが口の中に広がった。悲劇の後は加えて美味に感じるのである。

「ほら、半分もないけど、これお前の分」

 勝はビンを乙女に突き出し憮然【ぶぜん】として言った。

「えっ、いい。私はいらない」

 驚いた表情で、石切坂 桜は勝の申し出を断った。

 しかし、そう言うわけに行かない。勝は豆腐の代金で購入したこのサイダーを、石切坂 桜に持たせるつもりでいた。結果としては、誘惑に衝動負けをきし、最悪に見舞われてしまったわけだが……

 最低二人で分けることで小さくも男気を曲げることなく、帳尻をあわせようと目論んだのである。

「だめだ。これはお前の分!」

 抑揚激しく責め立てる勝。

「本当にいらないの、筒串君にあげる」

 石切坂 桜は両手をぶんぶんと振りながら、戦々恐々と頬にほんのりチークをのせて言った。接吻ではない。しかし心許さぬ男子が口付けたものを、女子がいとも簡単に口を付けるなど、乙女心にも羞恥心が先立つ。間接的であっても接吻を考えると、少女は必死にならざる得ないのである。

「あらあら、勝君じゃないのぉ」

 小道から咲恵がひょっこり姿を表した。

 腕には、古い着物を解体してこしらえた手提げ袋が掛けられており、膨らんだ袋からは長葱が顔を出していた。藍染め付けに、朱を讃える櫻の花弁が美しい生地は手提げ袋には勿体ない。

「丁度良かった。荷物持ってくれない?お砂糖買ったから重くって」 

 裾を正してから、勝に向かってぺたぺたと草履を鳴らし荷物を差し出す咲恵。春を思わせる淡い萌葱色の着物は、どこか勇み足の息吹を感じさせる。

「しょうがねえな」

 諦めた様に勝はそう言って、荷物を片手で受け取った。

「あらあらあらぁ、こちらの可愛らしいお嬢さんはどちら様かしら。まあっ、勝君の知り合い?是非是非お母さんに紹介しなさいなぁ」

 ぱぁっと咲いた笑顔に両手を添えて、咲恵は桜に顔を近づけた。

 花弁を舞わせる咲恵は勝を一瞥してから、桜にぞっこんの様子で前屈みに桜の瞳を見つめている。

「し、失礼します。ごめんなさい」

 咲恵に見初められたかのように顔を紅潮させた少女は、そう言って再び駆け出してしまった。

「あっ桜っ」 

 延ばした手には足枷のごとくくずしりと重い手提げ袋。黒髪の乙女の姿は次第に小さくなり、仕舞いには生垣に遮られて見えなくなってしまった。

「桜ちゃんって言うのねぇ」

「母さんが余計なことするから」

「あら、お母さんのせいじゃないわ。勝君が飲みくさしなんてあげようとするからよ」

「はあ?」

 首を捻った勝は、母に向き直って悪態をついた。

「乙女心は複雑なのよねぇ。勝君にはまだまだわからないかなぁ」

 咲恵はそう言いながら、勝の手元から瓶を掠め取ると、もう片方の手を腰にやって、一息に飲み干した。

「ああっ俺の……じゃないけど、何すんだっ」

 取り返そうと腕を伸ばす前に、魔法の水は咲恵の喉に吸い込まれてしまった。

「何これ。炭酸抜けて、ただの砂糖水じゃない」

 口をぱくぱくさせ、さも心待ちにしていた快感を裏切られた悔いを表して咲恵が呟いた。

 虚勢を張った狭義心は所詮、安易な誘惑に滅び、結局、勝に残ったのはべたべたと肌や上着にこびり付いた砂糖水と虚しさだけであった。

 


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