第三話 甘える勇気

日を追うごとに温かくなってゆく。神社の桜もすでに五分咲きであり、蕗の薹は終わり、つくしが我先にと競って畦道一面に伸びている。そんな春を肌身で感じられる時節。例外なく、勝は自堕落に睡眠を貪っていた。

 行ってきます。桜の声が聞こえた。

 しかし、春休みの昨今学校に行くわけでもなく、桜は何処へ行こうというのだ。勝は夢うつつと、寝返りを打った。

 やがて、ご飯の炊ける芳しい香りが鼻腔を擽り、そろそろ朝餉だろうと、起き出すか否か思慮したものの、味噌汁の匂いがするまで寝転がっていようと、再び寝返りを打つ。

 次に朧気な意識が戻った頃にはしっかり味噌汁の香りもしていたし、「ただいま」と桜が帰って来た所であった。

 と言うことは、先程聞いた『行ってきます』は空耳ではなかったのかと、どうでも良いことを考えた勝。

「桜ちゃん勝君、起こして来て頂戴、呼んで起きなかったら蹴飛ばしてもいいからねぇ」

 なんと言う母親であろうか。

「勝ちゃん起きて、朝ご飯だよ」

 畳みを踏みつける振動と足音が近づき、やがて勝の枕元で止まった。

「はいよぉ」 

 その実態は狸寝入り。寝ているように見えて、すでに覚醒していたのである……その体でそう言いつつ目を開けた勝。

「うわっ!」

 勝の瞳の写った今日最初の風景は、赤い林檎のアップリケの施された白い生地であった。

「どうかしたの?」 


 首を傾げる桜……

「桜もアップリケパンツ履いてんのかよ」

 愚行以外に考えられない発言であった。

「えっ!」

 桜は慌ててスカートを押さえると、顔を見る見る赤くして口元をきゅっと閉めて、座り込んでしまった。

「あ」 

 寝起きとは言え今更ながら、災いを呼び込む己が口の悪さに後悔したが、それはもはや後の祭りなのである。

 桜は俯いてわなわなと震えていたが、やがて、両手で顔を隠して居間へ駆けて行ってしまった。景であったなら、なんだかんだと叫んだ挙げ句、枕辺りで殴り掛かって来たことだろう。恥じらうのみとはなんとも可愛らしい乙女だろうか。

 しかし、それは勝の安易な油断であり、台所には……転じて居間には景以上に厄介な女性がいたのである。

「勝君っ!」

 咲恵の咆哮が聞こえるや否や、勝は縁側に難を逃れるべく、慌てて、戸を開けた。

 だが、もう一歩と言うところで、咲恵の手がしっかりと勝の襟首を捉えたのである。

「そこに座りなさい」

 項垂れて正座する勝。寝起きとは言えこんなにも咲恵が俊足であろうとは、正直に侮って居た。

「こそこそ女の子のパンツを覗くなんて卑怯です。男の子がすることではありません!」

 力無く顔を上げた勝は、普段と出で立ちの異なる咲恵を見た。

 白のブラウスの上には艶ある葡萄酒赤のワンピース。胸元は布を縫い縮めて寄せた細長い折り目が施されており、その上に同色のリボンが装飾してあった。

 余所行きの一着、咲恵の唯一の洋服である。どうりで俊足なのだと勝は再び項垂れた。

「男の子なら、堂々とスカートを捲りなさい!」

 はぁ?、と勝は間抜けな声を出した。

 咲恵の言葉に耳を傾けていた桜も、駆け寄って信じられないと言う顔をしていた。

「勝太郎さんには私も随分スカート捲りされたものだわぁ」

 母は頬を桃色に染め、その頬に片手を添えて視線を空へ泳がせた。

「わかった勝君!」

 真面目な表情に戻って勝に問う咲恵。

 桜は訳がわからず口を開け当惑したままである。そんな桜がいる手前、勝は頷く事さえ躊躇したが……

「返事は?」

 との母の一声に、

「……はい……」

 と言ってしまった。

「それじゃあ、朝餉にしましょ」

 それだけ言うとさっさと居間へ戻っていく母。

 残された二人は気まずいことこの上なく、取り立てて勝には居心地の悪ささえ感じ、許しを請う意味で桜を見上げた。

 しかし、桜は何を勘違いしたのか、数歩後ずさったかと思うと、徐に両手をスカートに当て、明らかに防御体勢を取ったのである。

 そんな……。と勝は両手を畳みについて大きな溜息をついたのだった。


      ○


 柱時計を見やると、皮肉にも春休み以前とまったく同じ時刻を長身と短針が指し示していたのである。春休み時間を適応するべきであると、勝は箸を持ったままぼぉーっとしていた。

「勝君ゆっくりと急いで食べてね」

 どことなく落ち着かない咲恵は、朝餉もそこそこに洗濯物やら台所の片付けに取り掛かっている。

「勝ちゃん、このお皿さげるよ」

 それを言えば桜とて同様である。服装こそ平日と代わり映えしないものの、やはり、落ち着きが見当たらない。

「勝君お布団は自分で畳んでね」 

 早々と掃除を始める咲恵。

 まだ食べてる!、と茶碗を持って立ち上がると、言うと「急いでるの」と逆に怒られた……

「今日はどうしたんだ?」

 興ざめだと、おかわりを諦めた勝が桜の元へ食器を持って行く途中言うと。

「勝ちゃん忘れたの?今日はデパートにっデパートに!行くんだよ!」

 握った御玉杓子を振るわせて、興奮気味に桜は話した。

「あーそうだったっけな……」

 勝は「忘れてた」と箸で頭を掻いた……

 思い起こせば数日前である。

 咲恵が待ちに待った勝太郎からの手紙が届いたのである。その封筒には母に宛られた便箋と生活費とが同封されてあり、咲恵は生活費と分明し、先んじて夫から送られた文を何度も読み返しては、それを抱き締めるのであった。

 次に、同封された生活費は仏壇にあげられ、勝と共に『お疲れ様でございました』と遠方にて汗を流す父に感謝とその労をねぎらうのが習慣である。

 そして最後に……

「ほらほら勝君見て見て」

 と文の最後を読ませるのであった。今回は『毎夜、優麗たる月を見上げては咲恵さんのことを愛おしく想い出しております』と記されてあった。

 父は毎月、言葉を変え手紙の最後に咲恵への想いを認めて送ってよこす。「私ってば、愛されてるのねぇ」とのろけて見せる咲恵はこの恋文をなによりも心待ちにしているのである。

 通過儀礼ともとれる儀式が終わった後、かねてからデパートへ行くと明言していた母は早速明日デパートに行こうと張り切った。

 しかし、そこで勝が「俺いかねぇよ」と咲恵の出鼻をくじいたのである。

「桜ちゃんと景とちゃんも誘って四人で行きましょうよ」

「俺は行かないし、景は明日部活だろ。桜と二人で行って来いよ」 

 勝はさらりと言ってのける。

「お買い物してお昼は食堂で食べて、またお買い物っするのよ?お昼はふわふわのオムライスなのよ?」 

 母は勝の顔を覗き込んで誘惑するように言う。

「とにかく俺は行かないし、景は部活!」

 オムライスと聞いて、勝は小揺らぎしたものの、天秤の片側にオムライスを乗せたところで果たして結果は代わらなかったのである。

「あらそっ。景ちゃんは残念ね。それじゃ桜ちゃんと行って来ます」 

 聞き分けのない勝に、咲恵はふんっと首を振って当て付けがましくそう言った。

 折しもその時、桜は衣類やらの荷物を取りに帰っており、この話しを聞いたのはその日の夕餉の時であった。

「おばさま、勝ちゃんが行かないのに本当に私が行ってもい良いんですか……」

 喜びを通り越し、当惑した様子で恐る恐る聞き返した桜の表情だけは忘れない。

「良いのよ。勝ちゃんの分まで贅沢しちゃいましょう」 

 だが、次の日は大雨であり、外出どころではなかった、次の日は町内で不幸があり、葬儀の手伝いに咲恵が行ったので、出掛けられなかった。

 結局、その後も野暮用や小用が重なったりと、蛇の生殺しのような日々が続いたのであった。


      ○

     

 そして、天気晴朗、小用事無しの本日を迎え我慢した日々がそうさせるのかデパートへ出掛けることを心待ちにしていた婦女二人は朝一番から着替えを済ませ、出発の鐘を鳴らしたくて仕方がなかったのである。

「勝君、お昼は冷蔵庫におにぎり入れてあるから、それを食べてね、夕方には帰りますから」

 履き慣れない革靴の踵に指を入れ、なんとか足を入れようと苦戦する咲恵。

「おばさまバスが来ました!」

 先に外へ出ていた、桜が伝令のように駆けて来る。

「まぁ大変。おかしいわねぇ、去年履いた時は入ったのにぃ」

「太ったんじゃね」 

 意地悪く笑って勝が言った。

「せっかくお土産買って帰ろうと思ったのに、残念だわ」

 全体重を掛け無理矢理靴に足を押し込んだ咲恵は「入った」と小さく呟くと、玄関の戸を開けたまま首を門柱と土間とを往き来させていた桜に「お待たせ」と言いながら慌ただしく家を出発したのであった。

「行ってらっしゃい」

 板間に立ち尽くす勝は開けっ放しの戸から、すでに誰もいない外へ向けてぼそっとそう言った。

 

     ◇


「危ない所だったわ」 

 間一髪間にあった咲恵と桜は、中央付近の二人掛け座席に腰を掛けた。

 桜はバスには乗り慣れていた。一座の移動はもっぱらバスなのである。

 窓の外には、陽を浴びきらきらと金色に光る波が眩しく、それを取り巻く千の波の蒼を一層引き立てていた。

 隣町へ向かうバスはやがて海沿いの国道をはずれ、桜が歩く緑ヶ丘中学校への坂道を登り始める。校門の前を通り過ぎ、住宅地を抜け勾配のきつい山道へと入って行く。見渡しの良い檸檬畑を過ぎると本格的に山である。道路に小さな落石や湧き水が垂れ流されており、枯れ枝や落ち葉とて雨ざらしである。そんな道……ガードレールの無い道路の端は切り立った崖であり、窓に額を密着させてその様子を窺う桜はだんだんと不安になって来た。

「桜ちゃんは、乗り物酔い大丈夫?」

 早めに言ってね。と咲恵はポーチから紙袋を覗かせた。

「一度も酔ったことはないですけど……今回は酔うかも……です」

 窓の外を気にして桜は言った。

「大丈夫よっ、一年に二回くらいしか落ちたりしないから」

 桜の肩をぽんぽんと叩きながら咲恵が楽観して言ったが……

「紙袋持っときます」 

 と桜はもう窓の外を見ようとしなかった。

 淡黄色のショールを折り畳み膝の上に置いた咲恵は、ひび割れた指先を気にして指同士を摺り合わせていた。

 桜はその光景を目に、自身の指先を見やる。なんと綺麗なことだろう、色こそ薄いもののふっくらと艶のある指。今一度、視線を咲恵移し、桜は恥ずかしさのあまり指先を隠すように軽く拳をつくった。

「おばさまは働き者なんですね」

 どうして?、と咲恵は首を捻ってから、

「ああ、この手ね……ありがとうって言いたいところだけど……桜ちゃん、これは〝老い〟なのよ。勝君が小さい頃は、おねしょ布団とか一日中洗濯しても、ぷっくりしてて艶々だったもの。やっぱり指先から順に来るのねぇ、年は取りたくないわ」

 涙を拭う仕草をしながら、そう語った咲恵。

 それが果たして謙遜であるのか真意なのか、それを桜は知るよしもなかった。しかし、若輩ながら同じ女性として尊敬せずにはいられなかったのである。

「やっぱりおばさまは素晴らしいです」

 そう呟いた桜に咲恵は「ありがと」と肩を抱いて、頭を擦り付けるのであった。

 幾つかのバス停を過ぎてもまだ、隣町は見えてすら来ない。窓の外にも鬱蒼と茂る森林があり、崖に沿った道はすでに終わっている。とは言え、桜は少々バスに飽きてしまった。代わり映えしない風景の連続に、悪路なのだろうひっきりなしに揺れる車体。

 後部座席から酸味のある嫌な匂いさえしてくる始末である、乗り物酔いをしたことがない桜でさえ、その自信はもはや皆無となっていた。

「桜ちゃん、窓開けてくれる?」

 顔色を青くする表情を浮かべる桜に咲恵が言う。

「はい」 

 桜が窓を持ち上げるようにして開けると、途端に流れ込む新鮮で爽やかであり、若干冷たい空気が桜の髪の毛を大袈裟に靡かせた。

「はい、桜ちゃん番」

 清々しい風を肺一杯に吸い込んで席に腰を戻した桜に咲恵が微笑みかけた。手元には白い毛糸が指に掛けてあった。

「私、あやとりはじめてめてです」

 桜は笑顔を咲かせて、どうして掛け替えたものか、「うーん」と何度も首を傾げるのであった。


     ◇◇

  

 そろそろ、デパートに到着しただろうか。

 勝は寝転んでテレビを見ならそんなことを考えていた。柱時計を見やると、大凡早すぎるだろうと腹時計具合と比べて頭を垂れた。

 時刻は朝と言うには遅く昼と言うには早い。そんな中途半端な時刻を勝は心の底から持て余し、早く夕方にならないものかと苛ついた。そして腹が減った。

 テレビを消し、台所へ向かう。ガス釜の向かい側にある食器棚の横には箪笥の様な図体と板目外装の冷蔵庫がある。レバーを握り、ドアを開けるとブリキ張りの内装に自分の顔が歪んで映り、不気味であった。魚の切り身と卵、その間に、本日の昼飯だろう握り飯の包まれた竹皮が見当たった。

 まぁいいや。勝は握り飯を取ってドアを閉める。上部の長方形のドアを開けると、小さな氷が二粒残っていた。去年の年末に氷を入れたきりなのである、致し方あるまい。

 勝はちゃぶ台の上に包みを置くと、思い切り背伸びをした。  

「ごめんくださぁい」

 聞き慣れた声である。

「景、部活はどうしたんだよ」

 板間へ歩いて行くと背中と胸元に『竹下』と縫い込まれた布を縫いつけられた練習着姿の景が戸を開けて立っていた。

「それがさぁ、監督が盲腸とかで病院行っちゃって、部活午前中のランニングだけで終わっちゃったのよぉ」

 練習になりゃしないわ。と景は続けて呆れて言った。

「盲腸?ってなんだ」

 部活の話しはともかく、聞き慣れない『盲腸』と言う言葉が気になった。

「うーん。食当たりかなんかじゃないかな?監督、牡蠣好きだし」

 指で額を突きながら、答える景。

「あーあれ下痢酷いって父さんが言ってぜ。トイレで夜明かししたって……」

 うそぉ、と眉を顰める景。

「私、牡蠣食べるのやめようかな……」

 トイレで夜明かしなど、考えただけで末恐ろしい。

「そういや、なんか用か」

「別に、えっと勝ちゃん…………じゃなくっておばさんの顔見に来たの」 

 途中から取り繕う様に早口で景が言った。

「母さん出掛けてていないぜ、夕方には帰ると思うけど」

 頭を掻きながら言う勝。

「じゃあ、勝ちゃん一人なんだ」

「おう」

「もしかして暇?」

「うん」

 やったっ、景は呟いた。

「ふーん。じゃあ、私の練習付き合ってよ、一人じゃ練習になんないし」 

 確信を持って景は言うと勝の返事を待った。

 景は勝が野球を好きであることを知っているのである。最近何かと石切坂 桜を気遣う勝。部活も忙しくおまけに教室が異なるため、顔を合わせる機会がめっきり減ってしまった昨今。しかし、『野球』と言う共通部位を景は有しているのである、華奢な体つきの桜には到底踏み入れられない領域だろうと自信すらあったのである。

「いいぜ、空き地か?」

 勝は二つ返事でこれを快諾した。暇なのである、たとえ『ソフトボール』でも野球に近ければそれで面白い。

「あー空き地は無理ね、先客が居たもの。神社にしましょ」

 道具取って来る!、と景は勝の返事を待たずに駆けだしてしまった。 


     ◇◇


 わぁ、と桜は眼前に広がる世界に目を丸めた。

 バスを降りると、そこはまるで別世界のようであった。老若男女問わず眼が回りそうなほど人々が往来し、道路には自動車に路面電車、馬車なども平然と闊歩している。通りの両側には所狭しと看板を掲げた商店が並び、呼び込みの声とてちょっとした騒音である。

「次は電車よ」

 左右を確認の後、頃合いを見計らい咲恵は桜の手を握って路面に飛び出すと、脇目も振らずに、路面電車乗り場である道路よりも階段数段分高く作られた安全帯へ向かった。

 咽せる黒鉛を巻き上げて傍らを通り過ぎるトラックや桜の後ろに並んだ、風体の悪い中年男の視線に桜は唐突に不安にかられ咲恵の背に体を密着させた。

 町の中心部であるこの場所は、桜の見て来た町並みの全てを凌駕していた。近代的な煉瓦作りの建物に、四角いコンクリート製の電信柱。空を見上げれば空に線を引いた様に張り巡らされた架線。

 それはいつしか、華やかなる都市に憧れた少女の期待を裏切り、次第に不安の色を濃くしていったのである。

「冷えた?」

「いえ、寒くないです」   

 俯いた桜を気遣った咲恵は、「あらあらこんなに冷えて」と桜を自分の前へ並ぶように促した。

 背中の恐怖を取り除かれた桜は幾分落ち着いた面持となり、前方に並ぶ女性の帯が色彩鮮やかである、と咲恵を見上げて目で指した。

 そうね、と微笑んで言う咲恵。

 そんな間があって、路面電車が『チンチン』と軽快にベルをならし、駅へ滑り込んで来たのである。

 バスを小さくした様な形の電車は乗降口が前方と後方に二箇所、合わせると四箇所あり、引き戸の様にレバーを持ってドアが開かれると、板張りの車内が桜を待っていた。

 それほど混雑していない車内には、通路中央にポールが天井から床まで伸び、座席は赤生地で統一されており、座り心地はふかふかのぽかぽか、まるで毛糸の上に座している心地であった。

 桜は触り心地の良い座席を撫でたり押したり車内を見回したりと、初めての路面電車を満喫した。

 一駅区間はいささか物足りない感のみを残し、桜は後ろ髪を引かれつつ電車を降りることになった。目前に屹立【きつりつ】と佇む建物はコンクリート造りの三階建て。中学校校舎よりは一回り小さかったが、桜は「おっきい」と声をあげるのであった。

 見上げる先には数台の円形ゴンドラがゆっくりと回転しており、更にその上空には横断幕を携えた赤色と緑色の大きな広告気球が堂々と浮遊している。

 桜はその様に一人圧倒されっぱなしであった。

「久しぶりだわぁ」

 高級感を漂わせる金淵の硝子ドアを開けながら咲恵は呟いた。

 店内には老若男女問わず、皆一様に余所行きに身を包み。特に紳士淑女の出で立ちはまさに、この場所が特別な場所であることを物語っていた。

 咲恵を見ればモダンであった。しかし、ここでは咲恵ですらも埋もれてしまうほどモダンに溢れているではないか……

 すれ違う人々は洋服が当たり前であり、磨き上げられた白いタイルにショーウィンドー、ショーケースには照明を浴びて輝く宝石の数々。天井には一面、細部に至るまで精密に描かれた鮮やかな花々が燦然と花を咲かせている。

 桜は時代錯誤の大海原に取り残された板切れのように、きょろきょろと落ち着きなくただ翻弄されていたのである。

 目前の幅広な階段さえ、手すりは金色であり、桜の足下には銀色で『Ⅰ』とタイルに刻まれてあった。

「まずはお洋服を見に行きましょう」 

 入り口から見て右側に並んだ緑色の引き戸の様な場所には取っ手はなかった。

 しかし、多くの人々がこの前で一様に緑色の上部にある半円形の文字盤を見上げているのだ。文字盤にはローマ数字でⅠ~Ⅲが刻まれ、長針の様な先端が鋭利となった物がせわしなく往復を続けている。

 待つこと数分。『チンッ』とトースターのような音と共に緑色の引き戸がアコーディオンの式に壁への中へ収まり、『一階、宝石売り場でございます』耳触りの良い声が聞こえた。『お降りのお客様優先でお願い致します』奥行きのある部屋から数人の人間が降りると、桜は咲恵の手をギュッと握り、咲恵に従ってその部屋の中へ足を踏み入れた。

『ドアが閉まります』声の主の女性は鮮やかなオレンジ色のアンサンブルスーツに身を包み、ショートヘアーに服と同色のつばが狭く浅い帽子をちょこんとのせている洋装である。『次は二階お洋服売り場でございます』女性の手元には円形のボタンが幾つかあり、必要に応じてオレンジ色に光っている。

 地震かと思う縦揺れたかと思えば、体が真上から押さえられる様な感覚の後、気持ちの悪いふんわりとした感覚が桜を襲い、そして再び地震の様に部屋の中揺れた。

『二階お洋服売り場でございます。三階へお向かいのお客様は、お降りのお客様の為、通路をお開け下さいますようお願いしたします』

 姿勢よく立ち、軽くお辞儀をした女性。

「さぁ、着いたわ」

 桜が部屋から出ると、再び緑色の引き戸が閉まった。

「あっあれ……?」 

 桜はその場で首を捻った。その場所は先程いた場所とまるで装いが異なっていたのである。あの部屋に入り出て来ただけだと言うのに、瞬時にしてまったく異なる場所へ来てしまったのである。

「桜ちゃんエレベーター初めてだったのね」

 先行する咲恵は困惑する桜にそう言いながら、小さく手招きをした。

 桜が咲恵の元へ行き、幅広い階段から、見下ろして見ると、どうだろう、先程桜が立っていた場所にあった銀色の『Ⅰ』が見当たるではないか……

「私……えっと、えれーべー?初めてです」 

 不思議、と呟いた桜は微笑む咲恵に、助けを仰いだ。

「今乗ったのがエレベーターよ。これに乗れば階段を使わなくても、上に階にも下の階にも移動することができるの。凄いでしょ?私も初めて乗った時は地震が来たと思って、勝太郎さんの腕にしがみついたものだわ」

 頬を覆う様に両手を額へやり、うっとりとなって話す咲恵……

 勝太郎さん?って……、桜はますます疑問符を頭上に並べるのであった。


     ◇◇

 

 金属バットにグローブとボール。野球道具一式を持ち出した景は空き地の前で勝と合流して、連れだって歩き始めた。

「ええっ!デパート行ったの!」

 グローブを抱えて歩く景が絶句した。

 何で言ってくんなのよぉ。と続けて肩を落とす景。

「お前、春休みずっと部活って言ってから」 

 新品に近い金属バットを肩にもたせながら勝が言った。

 そうだけど、と景はばつが悪そうに口を尖らせる。

「言葉のあやよ……」

 悔し紛れに言い直す景であった。

 っで、っと今度は低い声で言う景。

「なんで桜が一緒に行ってるわけ」

「桜、春休み中、俺ん家に泊まることになったんだ」

 勝がさらりとそこまで言うと、

「ちょっ!ちょっと今なんて言った?桜が勝ちゃん家に泊まるって?しかも春休み中?それに〝桜〟ってなんで呼び捨てなのよ!」

 色々と引っ掛かった景は、勝の言葉を遮って逆に物申した。

「俺に言われても困る、母さんと桜の父さんが決めたんだから」

 むぅ、と恨めしそうに上目遣いで言う景。

「なんで呼び捨てなのよ」

「はぁ?別にそんなのどうだって良いだろ」

「良くないっ!つい最近まで〝石切坂〟って呼んでたじゃないよ」

 食い下がる景。

「お前のことだって〝景〟って呼んでんだろ。それと同じだよ」 

「友達ってこと?」

 顔を勝に近づけて言う景。無駄に目に力が込められている。

 あぁそうだ、と勝はしつこい景に半ば投げやりに言った。

「そっかぁ、友達かぁ。そうだよねぇ」

 景はなぜか嬉しそうにはにかむと、鼻歌混じりにスキップをして「早くぅ、勝ちゃん」と手招きをした。

 勝はそんな景を訝しげに見つめ、ただ首を傾げた。驚愕したかと思えば、激昂し、しつこく食い下がった後は、鼻歌でスキップである。

「なんでそんな顔すんのよ」 

 情緒不安定を絵に描いた幼なじみは身勝手な理由をつけると、勝に向かって落ちていた木の枝を投げたが、もとより当てる算段は無かったのだろう。枝は勝を大きくそれ、側溝の中へ飛び込んで行った。

 昼時も相俟って神社からは家に帰る子ども達の姿しか見当たらず、鳥居を潜ると静寂の境内があった。

「そういやお昼だったのねぇ。しまったぁ、焼き芋食べてくればよかったぁ」

 思い出したように景はそう言うと、下腹を押さえて「お腹すいた」と低い声を出した。

 ほら、と言った勝。

「これ食えよ」

 竹皮にの包みを差し出して勝が言う。

「おにぎりっ!でもこれ勝ちゃんのでしょ……?」

 空腹の勢いに負け、握り飯を受け取った景。しかし、間をおいてから罪悪感を滲ませた。

「お前は、学校で走って来たんだろ。俺は家で寝てただけだし、腹なんか減ってねぇよ」 と素振りを始める勝。

「じゃあ、一緒に食べようよ」

 景は勝の手を取って階段まで引っ張った。

 手水舎を背中に勝と景は並んで座ると、包みを解いて三つ並んだ握り飯を間に広げる。

鳥居から望む海は凪いだ蒼。この場所から見る海は二人にとっては慣れ親しんだ風景でもあった。

「懐かしいね。ちっさい時はお弁当持って二人でよく来たよね」

 俵形に握られたおにぎりを一口ほおばって、景がしみじみと言った。

「探検に行くって言って、毎回神社に来てたもんな」

そうそう、っと景は勝に相づちを打つ。

「でも、蛇が出て来た時は本気で吃驚したわよね」 

「あぁ、お前帽子忘れて逃げてやんのな」

 勝は景の顔を指さして悪戯に笑う。

 勝ちゃんが悪いんでしょ。と景は言いながら、握り飯を口の中へ放り込んだ。

 勝の家まで逃げ帰ってから、麦わら帽子が無い事に気が付いた景は土間で座り込んで泣いてしまった。その帽子はねだりにねだって前日にようかく買って貰えた麦わら帽子だったのである。 

 夕暮れを背に、泣きじゃくる景の手を握って薄暗い神社の中を探した出来事を勝は今でも鮮明に覚えていた。幼い日の大冒険譚なのである。

「勝ちゃんご飯粒ついてるよ」

 感傷に浸っていた勝。景が不意に勝の口元に指をやってご飯粒を掠め取った。

「なっ何すんだっ」

「ご飯粒ついてたんだもん」 

 景は指についた飯粒を勝に「ほら」と見せ、それを自分の口へと運んだ。

「ありがと……残りはお前んだからな」

 中央に残った一個の握り飯。 

 景は勝の言葉を受けて、最後の握りを手に取った。

「はんぶんこ」

 景は俵握りを中央で割ると半分を勝に差し出した。

「わぁ、塩昆布だよ。見て見て」

 大好物の塩昆布の登場に興奮気味に言う景。大口を開けてひと思いに食べてしまった。

 渋々握り飯を受け取った勝は「ほんとだ」と景を見習って、豪快に口の中に押し込んだ。

 さすがに喉が詰まり掛けた勝は手水舎へ行き水を飲んでこれを回避する。

「いっぺんに食べるもんじゃないわね」

 勝に続いて景もやって来ると、柄杓に水を汲むとそれを一気に飲み飲み干して、

「よぉしっ!お腹も膨れたし、練習始めましょう!」

  背伸びと共に気合いの雄叫びを発したのだった。


     ◇◇    


 モダンなフォルムの服を全身に纏ったマネキンにトルソーの並ぶ売り場を見て回る二人。桜は乙女なのである、美しくも精錬された洋服に囲まれて目を輝かさないわけがない。気に入った服を見つけるや自分が袖を通した様子を想像して、微笑むなりしている。それをするならば、洋服の傍らに展示された帽子やバッグなどの小物さえも手に取りたい衝動にかられるのである。

「これなんて良いわねぇ」 

 そう言って咲恵が足を止めたのは純白のロングワンピースの前であった。照明に光沢を放つそれは、シンプルな作りであるが、まるでウエディングドレスのようであった。

「おばさまには似合うと思います」 

 凹凸のはっきりしたスレンダーな咲恵であるなれば十分に着こなすだろうとと桜は思った。

 そして、自分もいつかこの様な洋服に袖を通してみたいと切望した。

まぁ、と呟いた咲恵。

「うーん、でもシルクにはちょっと手が出ないわね」

 苦笑して桜にそう言った。

 さすがはデパートである、成人は言うまでもなく、子どもに至ってもみな一様に垢抜けた洋服を身に纏っている。

 それに比べて自分の身なりと言ったら…………姿見に映る自分の姿に桜は思わず肩を落としてしまった。

「うん、これにしましょう」

 桜の傍らでは咲恵が、洋服を決めた様子であった。店員を呼んだ咲恵はマネキンの来ていた服を指して「これを頂きます」と言った。

 洋服を店員に任せ、

「桜ちゃんはどれが良い?」

 と桜に微笑み掛ける。

「そんな私のはいいです」

 両手と顔をぶんぶんと振って言う桜。

 あらあら、と咲恵は困った表情作って言う。

「違うわ。買ってはあげられないけれど……。夢を見るの、桜ちゃんだってこんなお洋服が着てみたいとか、こんなお帽子被ってみたいとか、あるでしょ?」

 咲恵は当惑した表情のまま、そう話した。

「はいっ、私、夢は見てます!」

 咲恵に購入意思が無いことを知って、桜は、ぱぁっと笑顔を咲かせた。

 えっと、とハンガーに釣られた洋服を捲る様にして言う。

「少し大きめにしておいた方が長く着れるわよ。これから桜ちゃんも色々と大きくなるから」

 含んだ物言いをする咲恵……意味を汲んでか桜は「おばさまぁ」と頬を紅潮させた。

 桜は弾ませて洋服の雲海を縦横無尽に見て回った。どうせ夢なのである、それならば何を気にすることなく掲げる理想を描きたい。

 桜は鮮やかな洋服を手にとっては自身に重ねて姿見の前に立って見る。

「これいいな」

「そーねぇ。桜ちゃん肌が白いから色が強いのは勿体ないわねぇ」

 頬に手をやって真剣な眼差しで見る咲恵は桜の妥協点を簡単に翻した。

 しかし、そう言われて見れば桜の白に対して服の色が浮いて見える、大袈裟に言えば水と油のごとくである。その後も、桜が『良い』と思う物は咲恵の物言いが着いた……ロングスカートにチュニック、ブラウスにフレアースカート……

 大凡、桜の趣向に見合った物は見終わってしまった。

「お買い物って疲れるんですね」

 心地よい疲労感に包まれ始めた桜。

 そうよっ!、と咲恵は胸を張って言った。

「数多くの中から、自分に一番似合う物を見つけるのは体力がいるのよ」

 はいっ。とそれに呼応した桜。

 そんな時、桜の視線の先に映った洋服が一瞬輝いた気がした……

 桜がそこへ向かうと、ドレス調のワンピースを着たマネキンが立って居た。

 純白の生地にギャザーで絞ってふくらませたパフスリーブと袖は手首で絞られ下腕部分は空気が入っている様にふっくらとしている。腰回りには淡い桃色のリボンが巻かれ、その左側には大きな蝶々結びがワンポイントとなっている、リボンから下はプリーツ仕様のスカートとなっていた。

「あらまぁ、桜ちゃんにぴったし、きっと可愛いわぁ」

 桜は手を胸の前で手を組んで見上げて居た。

 おばさま……?傍らに居たはずの咲恵の姿が見当たらない……

「こっちよぉ」

 前方から聞こえる咲恵の声……

 桜が声を頼りに歩いて行くと、売り場が替わり咲恵の姿は帽子売り場にあった。ショーケースが目立ち、その中にはバラやマーガレットを象ったブローチや、コサージュが収められてあった。

 その中に、カチューシャのみを収めたショーケースがあり、細身のモダン型が多くを占める中に幅の広いレトロ型のカチューシャが見当たった。幅の広い形に全体を彩る緋色が飾らない上品さを漂わせていた。

「桜ちゃんこれどう思う?」

 咲恵は服に合わせつばが広く頭を収める部分の浅い帽子を被りポーズを決めた。

 似合いますけど……。と桜は言うと、同色の帽子を取って咲恵に手渡した。桜の選んだ帽子は広いつばの半分をわざと持ち上げ、マーガレットを象ったコサージュでそれが止められている。

「桜ちゃんって趣味が良いわね、びっくりしちゃった」

 これにしましょっ、と咲恵は嬉しそうに姿見の前でポーズを取っていた。

「次は桜ちゃんの〝夢〟の時間ね」

「私、もう決めてあるんです!このヘアバンドが可愛いなって」

 咲恵の裾を引っ張りショーケースの中を指さす桜。

 本当ねぇ、咲恵も控えめの色と丁寧な作りに感嘆の声をあげた。

「ついでだもの、他には何かない?」

 えっと、と言いながら桜は、目星い物は無いかと店内ぐるりと見回して見た。

「おばさま、あの人形の所にある傘が素敵だと思います」 

 桜が指さした先には鮮やかな紅色のアンブレラがマネキンの腕に掛けてあった。

「やっぱり桜ちゃんは趣味が良いわね」

 と咲恵は桜の頭を撫でながら言った。

「もしっ」

 咲恵は店員を呼ぶ。すると、

「ご用でしょうか」

 ディスプレーの装飾をしていた女性従業員が歩み寄るとお辞儀の後にそう言った。

「こちらのお帽子とそのケースの中にあるレトロカチューシャと、あの腕に掛けてある紅色の西洋傘を頂きます」

 咲恵が手慣れた仕草で商品を述べる。

 ありがとうございます。従業員はそう言うと今一度お辞儀の後、ショーケースからカチューシャを出し、マネキンから傘を取って来ると改めて、

「こちらのお品でようございますでしょうか?」

 と言った。

 はい、と端的に答えた咲恵。

 「それではこちらへ」と奥のカウンターへ案内される。カウンターの上には桜が初めて見るレジスターを備え付けられてあり、店員がボタンを押すと算盤を弾かずとも自動で演算されるらしく、果たして桜の目前で算盤を抜いた不思議なやりとりが行われたのである。

「着替えて帰りたいのだけれど、よろしいです?」

 デパートのマークが印字された紙袋へ商品を納めようとして居た店員に、咲恵が尽かさず聞いた。

「さようでございますか、でしたら、奥の試着室をお使い下さいませ」

 とカウンターより更に奥にある部屋を促して笑顔で答える従業員。

 行きましょ、と桜の手を引いて歩く咲恵。

 桜は何が起こっているのか把握できないでいた。自分は夢を見ていたはずである、なのに咲恵は自分が望んだ物を買ってしまったではないか……

「おばさま……」

 試着室へ入ると、桜が憧れた純白のドレス調ワンピースがハンガーに掛けられてあった。

「桜ちゃーん。し・ちゃ・く・よっ」

 隣で着替えている咲恵の声はどこか楽しそうである。

 桜は戸惑った。袖を通してみたい……そう思う強い気持ちの反面。袖を通してしまったならば、本当に購入することになるのではないだろうかと……

 ただでさえ、咲恵は自分に良くしてくれている。これ以上迷惑を掛けることはしたくない。

 桜は葛藤の渦中。ボタンの一つ取れたカーディガンを脱げずにいたのである……

「開けても良い?」

 弾んだ咲恵の声。

 桜はどうして良いかわからなくなった末、なぜかハンガーに掛けられて服を腕に抱いてしまった。

「開けるわよ?良い?」

 恐る恐るドアを開けた咲恵は、まず顔だけを部屋に入れた。

「あら?どうしたの、サイズが合わなかった?」

咲恵はそう言いながらドアを開けてると部屋に入り桜の前に立った。

 咲恵はすでに着替えていたのである。純白のロングワンピースである。パフスリーブ にスカートはプリーツ仕立て。腰元には同色のリボンその服は、まさに桜が選んだ洋服を彷彿とさせるデザインだったのである。唯一の相違があるとすればさりげなく裾からのぞくプリーツシフォンである。

「サテンってすっごく、肌触りいいのよぉ」  咲恵は自分の着込んだ洋服を撫でながらそう言った。

「これ本当に着ても大丈夫なんですか?」

「桜ちゃんとお揃いで、嬉しいなって思ってたのにな」 

 咲恵はスカートの端を摘んでひらひらと弄びながら上目遣いで言う。

「桜ちゃん、私のお願い。聞いてくれるでしょ?」

最後に咲恵は笑顔でそう言うと、再びドアを閉めた。

 そう言われてしまえば、桜は咲恵の気持ちも無碍には出来ない。葛藤に終止符を打てぬまま、桜は着替えるにせざる得なかった…………

「まぁ、似合ってるわ桜ちゃんっ!綺麗。私の若い頃にそっくりだわ」

 桜が緊張の面持ちでドアを開けると、咲恵がそう言いながら桜に思い切り抱きついた。おばさま、痛い。と言いながらも桜は少し嬉しかった。

 その後、咲恵はカチューシャを桜の頭に添えると、「履いてみて」と赤い靴を足下に置いた。

 前方は丸く、甲部分にリボンが装飾されてある。見るからに可愛らしい靴であった。

桜は言われるままに靴に足を入れる。

「指先痛い?」

「痛くないです」

 よかった、と咲恵は言い。桜の髪の毛を直したりスカートを摘んでみたりと身だしなみを整え、立ち上がると自身も姿見を見ながら帽子を直したりと、身だしなみを整えた。

「さぁ次は食堂に行きましょう!」 

 服に合わせた長絹のレースで編んだ手袋をした手で、桜の手をとった。

「えっでも……」 

 桜は罪悪感に苛まれ、とても顔を上げて歩くことが出来なかった…………


      ○


 主立ったフロアは展示スペースとして使用されている最上階。そんな中にあって一際賑わいを見せるのは『洋風食堂』である。

 アンティーク調の座席が並ぶ店内は、モダンを愛する紳士叔女から着物姿の家族連れまで、一見すれば大衆食堂の様相である。清潔感のある白と黒の給仕着のウェイトレスと燕尾服に身を包んだ支配人は雰囲気からしてそれを遠く退けていた。

 着替えを済ませた咲恵は桜を伴ってエレベーターにて最上階へ上がると食堂へ入り、席案内に窓側を所望した。

 比較的新しい窓ガラスは、大凡桜の身長を越える広さを誇り、地上三階からは町並はおろか海までもが望めた。

  湯気立つカップを口元へ運びながら、風景を満喫する咲恵。桜はテーブルクロスに視線を落としたまま、オレンジジュースの入ったグラスにストローすらへ挿せずにいた。

「おばさま……こんなのいけません」

 桜は小声で言った。

「ん?」

 薫り高い珈琲を受け皿へ置く咲恵。

「私、本当に欲しかったわけじゃ……」

 言い切れば全て嘘になる。葛藤の論決を見ぬまま、強引な咲恵に着せられた言い訳は十二分に肯定できよう。しかし、着替えた後すれ違い様に見た姿見に映る自分の姿は、まさに垢抜けた令嬢そのものであった。乙女心にそれは喜ばしく、場違いな見窄らしい過去から脱皮し羽ばたいた揚羽蝶がごとくである。

 そう言ったものの、やはり結論を先伸ばした葛藤は漏れなくやって来る。

「桜ちゃん。ダイヤモンドって知ってる?」 

 咲恵は唐突にを立ててそう言った。

 金剛石ですか?、と桜が首を傾げると。「その通り」小さく拍手をした。

「あれだけ美しい宝石もね。元々は薄汚い石ころだそうよ。それを磨いて磨いて、ようやく輝き出すの」

「石ころ……ですか……」 

 金剛石を見たことのない桜はダイヤモンドと呼称される宝石の輝きの替わりにビー玉を無闇に浮かべ、石ころは鮮明に描く事ことができた。

「そう、だから桜ちゃんも女の子として自分を磨かなければ行けないの。まずは外見。次に内面。磨きやすい方から磨いて行った方が確実だものね」

 身を乗り出してそう豪語する咲恵。

 桜は相づちを打ったが、実際にはそれが意図するところは理解できないでいた。

「例えば……」

 咲恵は隠すように入り口付近を指で示した。

 桜が目をくべると、そこでは頭の先から足先まで煌びやかに飾り立てた淑女が燕尾服の男に何やら文句をつけている真っ直中であった。

 表情には烏の足が目立ち、紅を差した口をも大きく開く姿は蝦蟇そのものである。

 桜は無言で、眉を顰めた。

 侃々諤々【かんかんがくがく】と張ろうとも、その光景は傲岸不遜【ごうかんふそん】の極みである。荒げた蝦蟇声を聞かずにすむだけまだましであると、桜は咲恵のに向かい小さく首を振って見せた。

「そう言う事。外見を研いても、中身を研かなければ駄目と言うことね。でも反対も駄目なのよっ。内側が美しくても外見も研かなければいけないの」

  カップの口を指でなぞりながらそう付け加える咲恵。

 しかし、桜は外見を研く必要を見出せない。内面の美しさの有無はきっと相手へ繋がるのである。勝は決して格好の良い男の子ではない。だが、その内面にははっきりと魅力を感じるのである。桜とて景とて思うところは相異あるまい。

 腑に落ちない桜であったが……

「女性の嗜みよ。でも桜ちゃんにはちょっと早いかな。急がなくても良いから、お手本に出来る大人を見つけて、少しずつ学んで行くと良いわ」

  刻意にして老婆心。咲恵はそう言い終わると、優しく桜に微笑みかけたのだった。

本能とは時に遺憾として強欲であり、本来あるべきはず思慮深さえも滅法に足蹴にするのである。

 目前に並べられた、雲の様にふわふわと溶けたチョコレートみたいにとろとろの装いを被せた黄色、そこにスプーンを差し込めば甘酸っぱい香りと共に顔を出すチキンライス。初見にて、そして食すその料理は上品で鮮やか、それでいて中身までしっかりと味が染み渡っていた。

 咲恵の語った理想像を安易に比喩するのであれば、『外見の美と内面の美』を兼ね備えたこの『オムライス』であろうと、桜は目を見開いて何度も頷いた。

 咲恵はそこの浅い丸皿に盛られた『びーふしちゅう』と言う聞き慣れない、料理を口へ運んでいる。皿の上にごろごろと転がっている、牛肉とニンジンを見る限り、ライスカレーを連想せざる得ない。

 しかし、ルーの色を見るや、それは紫と茶を混ぜ、それを焦がした煎じ薬の趣である。そんな奇天烈な料理を一口頂くことにしたのは、醜くきから香る芳醇で旨味の凝縮されたとかく唾液をそそる好奇ゆえである。 

「おばさま、大変ですっ。ほっぺが落ちそうです」

 咲恵から進められるままにスプーンを口に運んだ桜は絶賛して喉を鳴らして飲み込んだ。口の中で広がる濃厚な牛肉と果物類の混合。溶けてゆく牛肉。しかし、不思議と後味はあっさりとしており、飲み込んだ直後から喉が『今一度この悦楽を!』と賛美するのである。

「私も初めて食べたのだけど。美味しすぎて吃驚よね」

 頬に手をやりながら咲恵も悦に入った表情である。

 世の中にはこんなに美味な料理があるのだ。と桜はオムライスを口へ運ぶ傍ら、時折「桜ちゃん、あーんっ」と咲恵が差し出す『びーふしちゅう』においても存分に舌鼓を打ったのであった。


    ◇◇


 その頃、神社の境内では腹ごしらえを終えた勝と景子が白熱したノックを繰り広げていた。

「勝ちゃんってばっ!手加減しないでって言ってんでしょ!。練習になんない!」 

 勝へ返球して、景が吠えた。

 うるせぇっ。と勝は噛み締める様に言って全力で金属バットを振り抜く。

 芯で捉えられた白球は見た目にも、楕円形に変形し、景の手前で砂利に触れ小石を跳ね上げながらイレギュラーして、弾道を変える。

 景はそれにグローブを伸ばさず、体で止めに行く。

「うっ……」

 もう何球目だろうか……景は胸に当たって前に落ちた白球を、送球体勢で拾うと、素早く勝へ返球するのである。

 片目を閉じて、痛みを堪える景。仮に軟球であり直撃でないにしても、それを体に受ければそれ相応の打撲になりうる。

「こいやあ!」

 小刻みに肩で呼吸を始めた景は、グローブを拳で叩き気合いの雄叫びを上げる。

「怪我してもしらねぇぞっ!」

 勝とて、本気でバットを振り続けてきた。

 始めた頃は景の手前に落ちるよう、慎重にスイングしていた。

 しかし、「そんなんじゃ練習になんないっ!勝ちゃん男のくせにこんなぼてぼてしか打てないの?!」と景に心の底から罵られて、勝の眼に炎が宿ったのである。

 投げる分には自信はなかったが、打つ方ならばソフトボール部員である景であっても決して遅れは取るまいと自負していたからである。

 勝の放つ打球は疾風のごとく直線を描くかと思えば微かに軌道を変える……ゆえに砂利に触れた瞬間いずれの方向へ進路を取るのか予想出来ない。

 それに対し景は、常套手段とばかりに跳ね上がった白球を己の身を持って殺すのだ。

グローブで取った球の全ては、取り損ね後方へ転がったものだけ…………

「今日も風呂入ってけよなっ!」

 足下へ転がって来た返球を拾い上げると、間髪入れず渾身の力で白球に命を吹き込む。

 正直に言えば、勝も疲れてきていた。腰はきりきりと痛み。握力とてバットを支えるのでさえ辛い始末である。もっと言えば、今まさに張り裂けんばかりに膨らんだ肉刺が

打つたびに伝わる振動でひどく痛んだ。

 しかし、それは景とて同じことなのである。

 下腹に当たって落ちた軟球を拾うと、体全体を使ってやっと勝の足下へ転がす。

 双方共に疲労困憊なのであった。

 ここで、景が根を上げれば勝にとっては喜ばしい限りである。限界の言葉がちらつき始めた勝はそれすら望んでいたのかもしれなかった……

 すでに意地の境地。男である自分が景よりも先に弱音を吐くことなどどうして出来ようか。安い気概と笑われ痩せ我慢と罵られようとも、ここだけは譲るわけにはいかない。

一本気とは一点でも折れてしまえば将棋倒しのごとく連鎖して崩壊して行くのである。

時としてそれは妥協と言う言葉で比喩される。だが、勝の辞書のそのような言葉は存在しないのだ。

「まだまだっ!」 

 吠える景……しかし、息も荒く、下腹を押さえたままようやく立っている様子である。

「景…………行くぞっ!」

 休憩しよう……。そう言いかけた言葉を勝は飲み込んだ。

 勝がボールを拾い上げ、宙に解放する。そして、ゆっくりと落下するボールを睨み付けながら、それに向かってバットを振る。白球がバットから弾かれるのは刹那。唯一手元に残る振動だけがそれを教えてくれる……

 勝は振動の後、手の平に走った刃物で切り裂かれる様な激痛に思わずバットを落としてしまった。

 くそっ、血が滲む手の平を見て勝は舌を打った。

 不甲斐無さ過ぎる……一斉に潰れた肉刺に震える己の手見て、勝は痛々しく思いつつも、一片の情けなさを感じたのである。

「景……?おいっ、大丈夫か?!」

 バット拾い上げる前に返球が遅い事に気が付いた勝は、景へ視線を向けた……すると、額を抑えてうずくまる幼なじみの姿があるではないか。勝は景のもとへ駆け寄った。

「大丈夫。顔に当たっただけだから」

 目元を押さえる景子。

「立てるか?」 

 勝は「うん」と言った景の肩に手を添えて、神社の階段へ座らせた。

「お前ハンカチ持ってないか」 

 持ってる、と言う景はポケットからハンカチを取り出すと、勝に手渡した。

 勝はハンカチを受け取ると、手水舎へ向かいハンカチに冷水をしっかりと染みこませると握るようにして絞り、景のもとへ持ち帰った。

「ありがと……」

 勝から渡された濡れハンカチを目元へ当ててると景は「下手こいちゃった」と悪戯に笑って見せるのだった。

「ったく、心配させんなよな。目に当たったと思ったぜ」

「ごめん。髪の毛のゴムが急に切れてさ、目の前に被さるもんだから見失っちゃった」 

 言われてみれば下げ髪が解け、腰元近くまで伸びた髪が無造作に広がっていた。

「切っちまえよ。邪魔だろ」 

「それは酷いよ。だって……」

 景は急に声のトーンを下げた。

「だってなんだよ」

「それは……」

 景は指で地面に『の』の字を書きながら言葉を詰まらせる。

はぁ?、と勝は言ってから、

「〝の〟?」

 と首を傾げた。

「違うけど……もういいよ。さっ練習再開しましょ」

 景は立ち上がろうとした。

「俺は別にかまわないけど……今日はこんくらいで良いんじゃないのか」

 勝は景が望むだけ付き合ってやる心構えが出来ている。

 しかし、ボールの当たった目元は腫れ瞳が半分隠れているのだ。そんな状況でこれ以上の練習続行を中止する決断は医者でなくとも下せる。

「駄目、私は練習しなきゃ駄目なの。私は大丈夫だから……」

 泥だらけの練習着と歪んだ表情。満身創痍を絵に描いた様な幼なじみは、それでも瞳に闘志を宿してそう言った。

「景、なんか隠してんだろ?」

 座れよ。っと立ち上がった景を勝が制す。

「別に……隠してなんか……」

 景は瞳を泳がしてそう強がった。

 素直な幼なじみは幼少の頃より嘘が大変下手であった。嘘をついたり隠し事をしていると、決まって眼を泳がすのである。

 勝は知っていた景が負けず嫌いで頑固者であることを……ソフトボール部に入部したのも元々は勝が野球の仲間に入れてくれなかったことが悔しくて、『勝よりも上手くなってやる!』と意気込んだのが切っ掛けであったのだ。

 だから、一所懸命に打ち込んで努力も惜しまない。景はそんな性格の持ち主なのである……

 しかし、今回は違う。景子の瞳に宿る闘志は『高見を目指す意思』ではなく、溺れる者が盲目のまま藻掻くような、匹夫の勇に通じるそんな『窮地』が見えたのである。

「言ってみろよ」

  景は再び勝の隣に腰を降ろすと無言で俯いた。

 うん、と景は小さく言う。

「春休みの終わりに、春期新人戦の選考試合があるんだけど……私、どうしてもその試合で背番号貰わないと駄目なの……」  

「そんなに凄いのか新人戦って?」

 地方大会だよ、と景は首を大袈裟に振って答えた。

「お父ちゃんがね……スパイク送ってくれたの……これで誰よりも早く走れるって……私が背番号貰えないのは足が遅いからだって……」

 グローブを抱き締めそう言う景の声は震えていた……

「スパイクって……!」

 勝は目を見張って言った。

 景はグローブに始まり、バットにボールと男子が垂涎する道具を有している。これは全て景の父が買い与えた物であるは言うまでもない。

 しかし、スパイクまでとなると、すでにグローブすら手元に無い勝からは遠くかけ離れた次元の話しである。

「他の子はグローブだって持ってないのに、背番号もらってるんだよ。私なんて、グローブもバットもボールだって持ってる……なのに、ずっと球拾い……このままじゃきっとスパイク履いたって何も変わらない……お父ちゃん新人戦は見に行くからって。だからっ!私背番号貰わなきゃ……お父ちゃんに悪くて……こんなによくしてくれてるお父ちゃんに、私がグランドに立ってる姿を見てほしい……」

 景は涙を零してそう語った。

 落ちた滴は地面の色を濃くし、景の嗚咽と共に地中へ染みこんで行く。そんな告白を聞いた勝は安易に慰める事をしなかった。


『道具は無くとも努力でそれを越えられる』


 道具を持たぬ勝が、信じ続けて来た父の言葉。どんなに道具を揃えようとも、最後にものを言うのは己の技量。もとい、努力した結晶なのである。ゆえに、勝とてグローブを強請ろうと思わなかった。

 景とて同じである、大勢の部員の中で試合の舞台に出られるの人数はその内の一握り。

みなその舞台を目指して日々精進し鍛錬に明け暮れる。それを前に道具の有無など大した問題ではないのだ。

「私に才能があれば……」

 景はハンカチで涙を拭うとそう呟いた。

「景っ。とことん練習付き合ってやる。いつでも相手してやる。だから、そんなもんに逃げんなっ!」

 勝は激昂の様相でそう言うと、立ち上がったバットのもとへと歩き出した。

「でもっ……」

 今度は景が勝を止めようとしたが……

「うっせぇ!早く構えろっ!」

勝が檄を飛ばした。

 才能。勝の一番嫌いな言葉の一つである。天から賦与された能力。『そんなもんは糞くらえだっ!』勝は胸の内で怒鳴りちらした。

 そんなのは諦める為の口実ではなかろうか。才能がないから努力するのか……否、例え才能があろうとも努力しなければ高見を望むことなどままならない。結末として努力こそが己の才能へと導く道しるべであり、断固とした自信へと導いてくれるのである。

 勝は景の一心不乱に練習へ取り組む姿を度々目にしているのだ。果然としない結果を恐れ愚行にも『才能』の有無と言う結論に走るのならば、血反吐をはくまで歯を食いしばれば良い。

 それで結果に結びつかぬのであれば、新たな境地も見えてくるであろう。半ば勝に恫喝されたように砂利の上を駆けた景子は何も言わず勝に返球した。

 勝は一人で燃え上がっていた。バットを握っただけで激痛が走る手にさらに力を入れ、バットを振るう。

 その様はまさに一球入魂であった。


     ◇◇


 桜の入魂は散々紆余曲折した挙げ句に、自身を見失ったモノローグのようであった。

 屋上遊園地の片隅のベンチにて、 寥々【りょうりょう】と憔悴の姿で項垂れる桜。結局自分は何をしたかったのだろうか。自問自答すれど、帰結をも見ることなく、また交差することのないベクトルは空虚な飛行機雲を引いて桜の中を飛び回っている。

 こんなつもりではなかった。洋服とて食事とて、素直に喜ぶ事を放擲【ほうてき】した覚えは微塵もない。しかし、素直に喜べない心中は未だに堅牢にも健在なのであった。

 咲恵が会計の間に食堂の外へ出た桜は、喧騒を避ける様に壁へ背をもたせた。 軽佻浮薄にもしっかり、好奇なる贅沢を堪能してしまったのだ、唯一無二の本能にたがを外された後悔の念と罪悪感は咲恵を見る度に堀を深くする様子であった。

 タイルに反射する朧気な自身の姿には別人に変貌している。足下に窺える赤い靴はやはり可愛らしかった……『モダンを着た少女』……さながら題するならそれであろうと桜は思った。そして、また後悔するのである。素直に喜びを表したい己とそれを否とする自分……アンビバレント的熟慮は辛うじて均衡を保っていたが、時にはこうして前者が抜き身でて来るのである。

 その間に大勢の人間が往来した。中でも『茶太夫婦人会』なる三角フラグを持ったガイドを先頭に膨よかなご婦人方ご一行が通り過ぎた時は、その中に迷い込んだなら、きっと洗濯機の中で揉みくちゃにされた挙げ句溺れてしまうだろうと息を飲んだ。婦人会の面々が食堂に吸い込まれた後、食堂の中を見るとそこに咲恵の姿はなかった。

 桜は瞬時に困惑の奈落へ突き落とされてしまう。夢見転がしならまだしも床に入っていない限りそれは皆無なのである。目を凝らして堂内を見回すもその姿はついになく、

桜は血の気を引かせた表情で駆け出した。

 もし桜が登山家であったのなら、はぐれた場所から動かぬ原則を鉄則として食堂の前でひたすら佇んでいたことだろう。

 しかし、そのようを夢想家にも考えるは阿呆の極みでなのである。

 右も左もわからぬ巨大な箱の中、頼りとする咲恵を見失ってしまった桜の面持ちはかくも激しく、絶海の孤島に一人取り残されるがごとく……

 桜は走った。階段を何度も往復した。迷路のように広い店内を隈無く探し歩いた。もし、桜がエレベーターを利用していたならば、容易に再開を果たしていたやもしれない。

 しかし、要領のわからぬ乗り物に乗る余裕など残渣を飲みほすと同様に簡要なことではない。

 迷宮を彷徨い歩いたテセウスみたく桜は徒労感を纏い階段を上った。運良く咲恵が見つけてくれることを切望していたのである。何段目かの階段登り終えると、そこは屋上へ通ずる、硝子のドアであった。

 薄くも重いドアの先には青い空が見える、白い雲が見える、陽光が差している。桜は自然と屋上の遊園地へ足を踏み入れた。

 アイスケーキやビン飲料を並べる売店にブランコや滑り台。中央には楕円形に敷かれたレールの上を原寸にはほど遠い可愛らしい蒸気機関車が一丁前に黒鉛を上げ、客車に跨った子ども達を引っ張って走行している。

 その奥には巨大な水車形の骨組みにつるした円形のゴンドラがゆっくりと回転している乗り物が見えた。

 親子連れで賑わうここには大輪の笑顔が溢れている。

 桜は呻吟【しんぎん】の面持ちでふらふらと浮いた足取りにて、売店に隣接するベンチへ腰を落ち着けた。 忸怩【じくじ】と明滅。心身相関にも桜は急に冷え込む肩口に両手を肩へ回し、行楽日和を背に受けて震えていた。

 学校でも同じことがあった。登校すれば机に下品な彫りものをされていたし、狐などと不名誉な呼称もされた。制服がバケツに入っていた時などはすぐさま泣き出したかった。

 しかし、そんな時いつだって、少年が隣にいてくれたのである。狸と呼称されようともいつも側で助けてくれた。

 だが、今はいない……

「勝ちゃん……」

 桜は薄汚れた地面を見つめて呟いた。

 幾分傾いただろうか、桜の目線に影が迫った。その影はどんどんと大きくなり、やがて、見覚えのなる白い靴と裾から覗くさり気ないプリーツシフォン……

 桜は藁にも縋る思いで顔をもたげた……

「見つかって良かった」

 そこには両手にアイスケーキを持った咲恵の姿があった。

「おばさま」

 と反射的にすがりつく桜。

 あらあら、と咲恵は言いながらベンチへ座った。

「ごめんなさいね。私が探しに動いたのがいけなかったわ」

 桜の頭に優しく言う咲恵。

 桜は、咲恵に顔を埋めて首を振った。

 ただ咲恵の体温を感じているだけで良かった。当然を失った不運と不幸は当然にのみ払拭されるのである。 

「ごめんさい……おばさまに迷惑かけてばかり……お洋服だって……」

 落ち着いた桜は背中に回した手を解いて、咲恵に向き直って言った。

 はいこれ、と咲恵は悄然とした桜にアイスケーキを渡した。

「桜ちゃん。もうそんなこと言わないで。私は桜ちゃんのお母さん気取りなんだから」

咲恵はそう言いながら桜の膝元へハンカチを轢いた。

 はっとした表情で咲恵を見つめた桜。そこには驚嘆と感嘆の色を浮かべたが……

「でも……」 

 と、再び俯いてしまった。

「桜ちゃんは、ちょっぴり大人なのね。でもそんなに早く大人にならないでほしいわ。だって、こうやって頭を撫でてあげられるのは子どもの時だけだもの」 

 俯いた桜の頭を優しく撫でる咲恵。桜はそれを邪魔すまいとゆっくりと上目遣いに咲恵を見上げた。

「桜ちゃんが大人になったら、私はもうお洋服を買ってあげられなくなるし、いい人だってできるもの。一緒にお買い物だって行けなくなると思うの」

 しっかり咲恵を見上げた桜は顔を赤面させ、口を鯉の様にぱくぱくさせて何やら抗議している様子であった。

 しかし、咲恵はむしろそれを楽しむかのように。

「大人になればそれで良い。でも桜ちゃんにはまだ子どもでいてほしいし、もっともっと甘えてほしいの……うんと甘えて、いっぱいわがままを言ってもらえる事が私にとってはこの上ない喜びなんだから」

 瞳を潤ます桜、素直に嬉しかった。こんなに深遠から暖まる言葉を掛けてもらった事は生涯はじめてであり、今すぐにでも飛びついて甘えたい衝動すら沸き立たせた……

 しかし、それを頑なに引き留めたのは、結論を見出せずにいる。不断な自分であった。咲恵の言葉は嬉しい、だが、これ以上の大恩を受けるわけにはいかない。

 桜は心底甘え下手だったのである……

 もしも……。アイスケーキを一口囓った咲恵が呟いた。

「桜ちゃんが恩返しをしたいと思ったら、大人になった時、桜ちゃんの子どもでもいい。妹みたいに思える子でも良い。そんな子が出来たら、自分がしてもらったことをしてあげて、そうすればしてもらった子は桜ちゃんと同じ幸せを感じられるはずだから……だから、今は大人からいっぱい幸せを貰って、大人になったらいっぱい幸せをあげてね」

 陽に照らされた横顔は広大な海を思わせた。弱々しいなで肩の胸はとても大きく見え、その笑顔は何よりも優しいと思った。春の陽気に包まれたように全身が芯から火照り、時折吹き抜ける微風が気持ちよかった……

 はじめて食べるアイス。清涼感と所狭しと口に広がる甘味……

「美味しい?」

 と聞かれれば、

「甘くって冷たくってとっても美味しいです」

 と答えるしかすべはない。

 名残惜しそうに、アイスケーキの棒を見つめていた桜は、意を決して「あれに乗ってみたいです」と観覧車を指さした。

「もう、仕方ないわねぇ」 

 咲恵は遠慮がちにそう言った桜に、大袈裟に悦喜を表し、わざとそう言うと「乗りましょう乗りましょう!」と桜の手を引いて観覧車へと向かったのだった。

 間近で見るゴンドラは、想像以上に大きかった。桜であるならば四人は乗り込める。

「お足下お気をつけ下さいませ」

  ドアが開いたゴンドラがゆっくりとやって来る。数歩のステップを上がった所に立った二人は、亀足で通り過ぎようとするゴンドラにそっと足を踏み入れた。

 わぁ、桜が感動の声をあげた。

 眼前には広がるのは食堂から見た風景よりも高い景色である。大凡の一帯では最高峰だろう。お陰で人が米粒に見えたり車や路面電車さえもミニチュアに見える、眼下さえ圧巻であったが、桜は足を竦まさせずにはいられなかった。

「今日は本当にありがとうございました」

 桜は慇懃無礼を覚悟の上で感謝の意を伝えた。

「お礼を言うのは私の方よ。私ね女の子が生まれたら、一緒にお買い物したりお料理したり、あやとりしたり……それが夢だったの。だから、今日は全部叶って私は嬉しくてしかたないのよ」

 咲恵は両手を頬に当てると子どものようにいやいやといじらしく首を左右に揺らした。

「桜ちゃんお願い。お母さんと呼んでとは言わないわ。でも春休みの間だけ、私の子どもでいて欲しい」

 愛おしい瞳で桜を見つめる咲恵の懐柔。包み隠さない想いとは、かくも人の心を振るわせる唯一にして絶対の振動なのである。

 無論、桜は咲恵の純粋な気持ちに心打たれ、錠を下ろし一線を画していた錠前を解錠したのは極々自然な流れであった。

「私のお母さん、私が生まれてすぐに亡くなってしまって……お母さんのことは全然覚えてません……でも……公園の前でおばさまを一目見た時、こんな綺麗な人がお母さんだったらいいなって思ったんです!お世話になってみて、お料理もお裁縫もみんな上手くて……お父さんにも私からお願いしたんです。おばさまが〝家においでなさい〟って言ってくれたって……嘘をついて……ごめんなさい、でも私……」

 そこまで言うと桜は言葉を詰まらせてしまった……弁明に並べたはずの言葉……しかし、その言葉は桜が伝えたかった想いの半分も言い表せなかった。

 良いのよ、と咲恵は言いながら桜の顔を優しく両手で包み込んだ。

「よく話してくれました。お母様のことはお父様からお聞きしていたけど、その後は初耳。そんな風に想ってくれていたのね、嬉しいわ」

 そして、

「うんと甘えてね」

 と咲恵は続けて言うのであった。

 桜は気持ちが晴れ渡った様な壮快感を胸一杯に感じた。これ以上自己欺瞞をする必要も葛藤さえも無用な長物となり果てたのである。

  観覧車を降りると咲恵が「さぁ、勝ちゃんと景ちゃんにお土産買って帰りましょ」と桜に微笑みかける。

 桜は「私が選びます!」と張り切って咲恵の手を取ると駆け出した「桜ちゃんってば、お土産は逃げませんよぉ」と引っ張られる咲恵が弾んだ声で言った。

 二人の間に初めて絆が芽生えた瞬間でもあった……


     ◇◇


「今日はもう十分よ勝ちゃん」 

 重力に身を預け階段に座った景。

 勢いに任せバットを振り回した勝は勝に至っては階段に仰向けになって寝転んでいる。

 背番号は一日して成らず。

「だな……」 

 興奮冷めやらぬ勝はまだまだ気概だけは『バットを握れ!』と騒がしく吠え立てている。

 だが、肉刺が潰れ微風にも触れば痛みが走る手はそれを是としなかったのである。ジレンマと言えばそれに相違なかった。

「あぁあっ。こんなに汚れちゃった……我ながら汚いと思うわ……」

 飛び込んで白球を追った勲章とも言うべきだろう。景の練習着の白は塵や腐葉土で至るところが泥だらけになっていた。

 髪の毛とてそれは同じである。

「がんばった証拠だろ。笑う奴は俺がぶん殴ってやる」

 人の一生懸命な姿をあざ笑う者は唾棄すべき不埒者である。

「そうかなぁ。私はやっぱり泥だらけは嫌だな。綺麗なお洋服とか靴とか履きたいもん」

 山へ帰る烏の群れを見上げて景が言った。

 乙女心には煌びやかな装いに麗しい出で立ちでもって、周囲の目線を釘付けにしてみたいものである。

 景は不意に桜を思い浮かべて「はぁ」と溜息をついた。

「桜が言ってたぞ……一生懸命してる姿は輝いてるって」

「へぇ、桜がね」

 まんざらでもないと言った表情で「ふーん」と続ける景。

「俺も……そう思う……」

 勝は視線を海へ移して小声でそう言った。

「ありがと……嬉し。でも、一生懸命やったって試合で良いところ見せないと駄目なのよねぇ」

「運も実力の内か……」

「まぁねぇ。認めたくないけど」

 天啓に縋りたくなるのは人として生まれた嵯峨だろうか、暗中を模索するくらいであるならば、後光の導きに縋り晴れぬ胸中に区切りをつけたい。

「今日はもう帰ろうよ。おばさんたち帰ってるかもしれないし」

 夕凪のごとく静かな境内にあって、景は早めの引き上げを提案した。

「まだ明るいし、練習やろうぜ」 

 勝は景からの思わぬ発言に驚きがてら、上体を起こした。

「でも、勝ちゃんの手。もうやめといた方が良いって」

 痛々しい勝ちゃんの手の平を見やった景は眉を顰めて言う。

「こんくらいで泣き言いうかって」

 ぺっ、とつばを吐きかける勝。刹那的に表情を歪める限りはバットを握るどころではあるまい。

「明日も付き合ってほしいんだけど……」

「部活あんだろ」

「監督が盲腸だから、どうなるかわかんないし。今日みたいに午前中で終わったら、自主練したいもん」

 勝は短絡的にも血気に逸った行動を反省せざるを得なかった。

 背番号は一日にして成らず。

 潰した肉刺も一日にして治らず。

「今日はこれくらいにしといてやる……」

 先見に気疲れを露呈させた勝は、大層肩を落として負けん気だけをなんとか口走らせた。

 激情家たるは涵養【もくろみ】を目論見とせよ。ひりひりと刺す様に痛む手と重りを巻かれた腰の感覚。とても今日明日と連日練習を行える仕様ではない。

 帰ることにした二人。神社を出ると夕凪の去った海岸線は海から吹き上げる風が汗ばんだ体から大いに温度を奪っていった。

 お下げの解けた咲景は何年ぶりか腰元まである烏の濡れ羽色の髪を風に弄ばせていた。後ろ姿からすれば、到底幼なじみに見えぬ魅力を醸しているのである。

「悪い、バットに血ついた」 

 バットの握りに巻かれた白い布についた、赤い染みを爪で掻きながら勝が言う。

 まき直すから良いよ、と言う景。

「それより、手、大丈夫?こんなになるまでがんばってくれなくても良かったのに。帰ったら消毒するね」

 痛々しい勝の利き手を見やった景は申し訳なさそうに言った。

「こんなんつばつけときゃ治るだろ」

 バットを携えた手を庇いつつも、やせ我慢は男気の醍醐味なのである。譲るわけにはいかない。

「それに俺はバット振るくらいしかできねぇし、約束したろ。俺の出来ることなら協力するって」

 照れて言いにくそうに頬を掻く勝。

そんな勝の姿と言葉が景には嬉しかった。一時は愚行にも己から遠ざかり、距離を置いてなお、幼なじみの縁は切れないと信じていた。

 しかし、それ後悔したのは石切坂 桜に憧れる勝の姿を見た時。勝の眼中にいない自分に焦って、なんとか昔同様に並んで歩きたいと切望していたが、どうやらそれは景の勘違いであったようである。勝は昔と変わらず自分を見てくれている。

「勝ちゃん大好きっ!」

 景はそう言いながら、勝の背中へ抱きついた。

 そう、こうして勝の背中を抱き締めるのは二度目……遠い昔、境内に忘れた麦わら帽子を勝が必死で探し出してくれた時以来……

 背格好はずっと大きくなった。しかし、鼻腔を擽るのはあの時と同じ汗くささ……次の瞬間には『破廉恥よっ!』照れ隠しにも飛び退いた景。

「お前なにやってんだ?」

 呆れた顔で振り返る勝。

 これもまたあの時と同じであった。


     ◇◇


 桜は鼓動を早くして、公民館の門柱を潜った。

 『お父様に桜ちゃんの可愛い姿を披露しちゃいましょう』と帰りの路面電車の中で言い出した咲恵の提案により、海沿い経由のバスに乗車し、公民館前のバス停で降りた二人である。

 公演の終わった公民館は寒々としつつも、明日の準備に余念なきに裏方は忙しなく四肢を動かしている。汗臭い中に涼しくも清らかな白の出で立ちの二人がそこを通れば誰しもが振り返った。まさしく麗人と称すに相違ない。

「お父さんっ!」 

 濡らした手拭いで顔を拭いていた良介に向かって桜が駆け出す。

「……?桜かい?見間違えたなぁ。お母さんの若い頃にそっくりだ」

 良介は華やぐ娘の姿に感歎の声をあげ、わざわざズボンで手を擦ってから桜の頭を撫でた。

 桜はそれこそ、遠足から帰って来た無邪気な子どものように、デパートの顛末を眼を輝かせ父に話して聞かせた。それを見守る咲恵は、越えることを望むとも決して越えられない隔てた一線を見たようで苦笑するに終始してしまった。

「どうも、ご挨拶がおくれまして……どこの麗人が来られたのかと思いました」

 桜を傍らに会釈をする良介。

 うふふっ。と咲恵は口元へ手を添えて上品に笑いをこぼすと、

「まぁ、お上手ですこと」

 と謙遜して会釈を返した。

「おかまいも出来ませんで恐縮です。ご婦人をお待たせする非礼を押して、お願い致します、少々お待ち下さい」

 恭【うやうや】しくお伺いを立てる父に、

「どうぞおかまいなく」

 と咲恵は笑顔をつくった。

 公民館へ消えて行く父の姿をきょとんとした表情で見送る桜。

「桜ちゃんのお父様は、紳士でらっしゃるのね」 

 不意に咲恵が桜にそう言った。

 中退ですけど。と前置いてから、

「大學で勉強していましたから」

 と咲恵を見上げて桜が嬉しそうに言った。

「そうだ、桜ちゃん。その傘公民館へ置いてきちゃいなさいな」

「はい、そうします」 

 赤い傘を大切そうに抱き締めると桜は大きく頷いて、公民館へ走って行った。

 それとすれ違う形で、良介が再び咲恵のもとへ歩み寄ったのは、偶然でもなければ情緒纏綿【じょうちょてきめん】な咲恵の意図したところなのである。

「桜をあずかって頂いてる上にあんな高価な物を……十分にはお渡し出来ませんが、これだけでも受け取ってくださいませんか……」

 疲れた茶封筒を差し出して言う良介。 

「一度お断り致しました物を受け取る訳にはいきませんわ。それに、今日は私が桜ちゃんを連れて行ったんですよ。桜ちゃんは良い子です。とてもとても利口で強い子です。遠慮を知っているし、自分を差し置いても我慢する子です」

 ここ数日、桜と共に寝食を共にした咲恵の感じたところであった。年頃で言うなれば、子どもから脱皮する準備を始める頃だろう。ゆえに咲恵は桜がくるおしく愛おしいのであった。

「でもそれでは可哀想すぎますでしょ?子どもの時にしかわがままも言えなければ、自分の好き勝手も言えない。だから私は、桜ちゃんが家に居る間は、うんと甘やかすつもりです」

 咲恵は口元を綻ばせつつも目元を引き締め凛して言い切った。牽制する意図はない。ただ、御為ごかしではなく本気であると良介に伝えたかったのである。

 すみません……、と言葉を詰まらせた良介。

「私が不甲斐ないばかりにあの子には苦労をかけてしまって……」

 目頭を押さて言う良介は大きな溜息をついた。咲恵の言葉が身に染みた、薄々は感じていたのである。桜が無理をして気丈に振る舞い、健気にも多くを我慢していたことを……それも、それを気に止める余裕もなく、まだ子どもである桜に甘えて来てしまった……珍しくも桜がたっての希望と、筒串家への下宿を申し出た時、些細ながら親心に叶えてやりたいと思った。

 そのために恥を忍ぶことなど、桜が耐えて来た日々を考えれば容易いと思ったのだ。

「ありがとうございます。なんと御礼を言えばいいか言葉が見当たりません」

「いえいえ、頭を上げてくださいまし。お礼を申し上げたいの私の方ですわ」 

 と言いますと……良介は頭を上げ首を傾げて言った。

「見ず知らずの家に、それも、男の子の居るところに大切な桜ちゃんを預ける覚悟をして下って、本当にありがとうございました。随分と恥も耐えしのがれたのでしょう。桜ちゃんのことを承知したあの日、心中をお察しいたしまして、大変心が痛みました」

 今度は咲恵が深々と頭を下げ、良介を讃えそして感謝の意を伝えた。

「桜は人を見る目があるのかも知れません。あなたのような立派なご婦人を見つけてくるのですから」

 咲恵の人柄に酷く打たれた良介は舌を巻いて、今一度会釈をした。

「まぁ、嬉しいですわ。でも、桜ちゃんが心から尊敬しているのはお父様なのですよ」

「いえ、そんな……」 

 言われた良介は首筋を掻きながら照れを隠した。

「これは、桜ちゃんの将来の為に、残しておいてあげて下さい。年頃になると女の子は色々と物いりですから」

 咲恵は、良介が携えている封筒に視線を落としてから、そっとそう言った。

「わかりました……」

 良介はそう言ってから封筒をズボンのポケットへ押し込み、

「桜のこと、どうぞよろしくお願いします」

  と頭を下げようとするのだった……

 しかし、「大丈夫ですか?!」それを咲恵は途中で制した。

「お父さんどうかしたの?」

 丁度、桜が駆けよって来た。

「少し立ち眩んだだけよ」

 咲恵と父の間に立って父を心配そうに見上げている桜に咲恵が言う。

「お父さん。ちゃんと食べて眠ってるの?すぐに無理するから……本当に大丈夫?」

「ああ。ちょっとな、父さんは大丈夫だ」 

 良介は桜越しに咲恵を見やると、視線に感謝を宿した。咲恵はその意を汲み取ると、目を閉じて軽く頷いた。

「またお越し下さいませね」

「ええ、公演の合間に必ず寄せてもらいます。桜、ちゃんと筒串さんの言うことを聞くんだよ」

 良介は桜の頭を再び撫でた。

「はい」

 桜はそう言うと深々と頷き、後ろ髪を引かれる様に何度も首だけを振り向かせて良介の姿を見ていた。

 落日が民家を挟んだ遥か遠くで燃えている。夕風に髪を靡かせて歩く桜は少しも寂しくはなかった。父のことは気がかりではあったが、父であるならば自分がいなくとも大丈夫であると、信頼できたのだ。

「優しいお父様ね」 

「はいっ!」 

 桜は嬉しそうに笑顔を覗かせた。

 うふふっ、と微笑む咲恵。

 やがて農協が見えて来ると今までの道程が嘘の様に商店街は夕飯の買い物で賑わって居た。

 桜はなんだか嬉しくなった。自分とはかかわりのない賑わいだったが、人の楽しそうに話す様子を見ているだけで、その臨場感だけで自然と口元が綻んでくるのである。古今東西、『笑い声』とは人を根本的に惹き付ける魅力があるのである。神話に言うかの天照大神でさえもこの笑い声に引かれ、岩戸を開けたほどなのだ。

 桜はしきりに農協の隣を気にするようになった。樅の巨木を通り過ぎると見える富士ストア、いつしか桜はスカートを握り締めていた……

 それに気が付き、桜の意をすでに察した咲恵は、今回はわざと気が付かない振りをした。

「おばさま……私……サイダーが飲みたい……」

 上目遣いにて恐る恐るやっとそう言った桜。

 桜がはじめて心から咲恵に甘えられた瞬間であった。

「あらあら、そうねぇ。喉乾いちゃったわね。じゃあお母さんの分も買って来てくれるかしら」

 赤ん坊が初めて立った時の母親の顔をして咲恵は桜に小銭を手渡すと「行って来ます!」と小銭を握り締め、桜は一目散に駄菓子屋へ向けて走って行くのだった。

 今にも倒壊してしまいそうな店には夕暮れらしく、幼い子ども達の姿はなく、親子連れ。あるいは桜と同じ様な年頃な子どもであった。

 幸いにして、桜の見たことのある顔はなかった。

 しかし、出で立ちからして、周囲の視線は羨望の眼差しや桜が照れてしまう言葉が囁かれていた。桜は顔を赤くさせながら、店の中に入ると店番をしている老婆にサイダーを二本頼んだ。、老婆は桜を見て「めんこい子じゃねぇ」と言うと手慣れた様子でビンを片手に二本持ち、所々錆び年忌の入った栓抜きで壮快に王冠を店内に飛ばしてくれた。

 細かな気泡が立つサイダーを両手に持った桜は、いち早く咲恵と共に並んで飲みたいと、足取りを踊らせ店先へ出た。

 だが、桜の目前にはいつぞや、カーディガンのボタンを取られた三人組が立っているではないか。

 最悪の鉢合わせに桜は高揚した気分に冷や水をかけざるえなかった……

しかし、不思議なことに、三人組は一様に桜をみて頬を淡い桃色に染め、桜を頭の先から足の先まで何度も往復させている。

 桜は三人を避ける様に駆け出すと、金物屋の前でお喋りをしている咲恵のもとへ走った。こぼれた幾らかのサイダーが手にかかったがそんなことは気にもならない。

「おい、今の濡れ狐だよな……」

「ああ……確か石切坂って言うんだぜ」

「可愛い……」

 鉢合わせた少女は、確か濡れ狐と呼称され学校では在ることないことを吹聴されている転入生である。三人はそれを確認するように一言ずつ言葉を並べた。

「なぁ、お前あいつのボタン持ってたよな、」 

「ああ」

「そいつは良かった…」

 華奢な体躯に陰気な風を纏っていたはずの石切坂 桜。しかし、自分達の目の前に現れたの見るも鮮やか、モダンを身に纏った愛らしい女の子だったのである。これをどうして濡れ狐と蔑んでしまったのだろうか……三人は内心猛烈に後悔していた。このままではねんごろなど妄想にも言語道断なのだ。

「あれ俺にくれよ」

「いや俺にくれよ」

「絶対やだ」

 三人は並んで口をぽっかりと開けたまま間抜けな顔つきで、商店街を通り過ぎて行く可憐な少女の姿を視線で追った。

 今更ながらご機嫌を取るならば、謝罪し可能性を見出すには唯一の鍵は『カーディガンのボタン』だけであると三者共通の熟慮に辿りついたのだ。

 咲恵と共に民家の影へ姿を消して行く桜……見とれる三者。刹那に一度だけ、桜がこちらを向いた。表情すらよく見えなかったが、

「「「可愛い……」」」

 今すぐ万年床で悶々と四百四病外、妙薬難しの恋煩いにたちまちかかってしまった三人は素っ頓狂な声を揃えてあげたのだった。


     ◇


「なぁ景」

「なに?」 

 空き地の前で勝が突然、景に話し掛けた。

「俺なんかお前に酷いことしたか?」

 はい?、と景は首を捻った。

「去年ずっと俺避けてたろ」

「そっ、そんなことないよ」 

 狼狽して言う景。

 勝は気が付いていた。景は嬉しくもあり、言い訳に四苦八苦である。そもそも、それは景の本心ではなかった。ただ、そう言うものなのだと母の言葉を過大解釈してしまったがゆえの愚行なのであった。

「お前嘘下手だよなぁ。まあ、言いたくないなら別にいいけど」

 勝は手を頭の後ろに回すと、空を見上げて投げやりに言う。

 景は俯いて考えた。言うべきか言わざるべきか……せっかく幼なじみに戻ることができたのである。ここで刺激を与えて、この関係が歪んでしまうのは景の恐れるところ……しかし、だからと言って、一本気の勝のことである黙っておくのは、しこりをいつまでも残すことは明白。

「お母さんがね……勝ちゃんも男の子だから……あなたも女の子の自覚持ちなさいよって……だから……」

  純粋なる乙女の心にはそれが男女の契りと聞こえたのだ。勝は景にとって幼なじみであり、一番身近な男の子でもあった。だが、それだけなのである、並んで歩いたとて、それは逢瀬でも密会でもない。だから母の助言は景に勝を男性として見る眼を開いてしまい、純情たる乙女である景は勝といるだけで『異性』を意識してしまうようになってしまった。ゆえに距離を置いたのだ。それが自分の過剰反応であると気が付くのに一年も要してしまった。

 本当のところを言えば、石切坂 桜が転校して来たことが大きかった……勝を取られてしまう……そんな気がした……

「はぁ?なんだそれ?別に結婚するわけでもねぇのに」

 勝は呆れた後、アヒル口で恥じらう景の横で大いに笑った。それこそなんの憚りもなく。

「もぅ笑いすぎ。私は真剣に悩んだんだから」

 事実である。

 結果的に、勝と会えない寂しさを紛らわすため、部活動に励んだその結果が道具を買って貰えたと言うのが皮肉な話しである。

 腹いてぇ、と勝。

「昔から考えすぎなんだよ、景は」

「勝ちゃんが考え無さすぎるのよ」 

 瞼を半分おろして呆れて言う景。

 こうして、再び勝と並んで歩けるようになったは、やっと自分の気持ちに向き合えるようになったからかもしれない。景はにこにこと笑顔を浮かべる勝の横顔を見つめながらそう思った。

「なぁ、あれ見てみろよ」

 勝の笑いが突如止み、急に景の方を向いた。

 わっ、と目があった景は慌てて視線を地面に移した。

「きゅ、急にこっち見ないでよ」

 仏頂面でそう言いながら景は前方に視線を上げる。

 病院の前を全身を純白に染めた優麗な女性が二人何やら楽しそうに喋りながら、歩いて来るではないか、明らかにこの辺りでは見かけないモダンで垢抜けた出で立ち。それを見事に着こなすつば広の帽子をかぶる淑女にも驚いた。

 ただ、手に携えたビンだけが庶民風を吹かせており、どこか不釣り合いである。

「鼻の下伸ばして、情けないな。桜に言ってやろ」

 赤いヘアバンドをした乙女に釘付けとなった勝。微かに頬を赤らめる勝に景は哀憐の眼差しを向けて溜息混じりに言った。

「おっ怒るぞ、景っ」

 狼狽の極みを見せ、慌てて景に檄を飛ばす勝。見苦しいことこの上ない。

 はたして麗人は立ち止まる二人のもとへ向かって歩いて来るではないか、しかし、

「あらあら、勝君と景ちゃんじゃないのぉ」

 とどこかで聞いたことのある声でそう言ったのだった。

「「へっ」」

 調子を見事に重ねた勝と景……

「丁度良い所であったわねぇ。そうだ、このサイダー景ちゃんにあげましょ。おばさん一口飲んじゃったけど、気にしないでね」

 唖然と硬直する景に淑女はそう言うと、自身の携えていたビンを景に手渡した。

 ありがとうございます、と反射的に言った景。

「さっ!桜じゃない!何よ何よ!そのものすっごく可愛らしいお洋服!良いな羨ましいなぁ」

 咲恵の隣で二人を眺めて居た少女が桜であると気が付くや、景は猛獣の如ごとく駆け寄って桜の出で立ちにいちいち、感歎の声をあげはじめた。

「勝君、お母さんどう?」

 残った勝を悩殺すべく母が佳人の格好をつける。一方は腰へ一方は首の後ろへ……渚を飾る鮮麗であることには変わりなかろう。父がこの場にいたのであれば一目を憚らず、抱き締めにかかるやもしれない。

 だが……

「ああ、うん……」

 勝はそんな母は眼中になく、泥だらけ練習着女にあちこち触られ放題の少女に視線を注ぎ続けている。

「勝君ってばっ!」

 心ない返事に納得しない咲恵は大人げなくも勝の頭に拳骨をくれた。

 痛っ。と勝は目から火花を散らした。

「なにすんだ!」

 頭を押さえてしゃがみ込む勝。  

 咲恵は、知らん顔で佇んでいる。

「スカート捲るぞ」 

 目元でひらひらと靡く咲恵のスカートの裾を恨めしく見つめて、苦々しくも鬼気迫る勢いで破廉恥な言動を呻く勝。

「あらぁ、勝君ってば大胆ねぇ」

 咲恵は目を大きくして驚いた振りをすると、大袈裟にかつ愉快にそう言うと、軽快なステップでもって勝の視線から身を外した。

 すると、真正面に見えるのは桜と景の姿である。

 あの……、勝は言わずもがな凍りついた。

 目の前に佇む乙女二人はそれぞれに口元を引き攣らせ、勝を見据えているではないか、桜に至っては両手でスカートを押さえる仕草をしているではないか。

「ちっ違う!」

「破廉恥よっ!」「勝ちゃんのばかっ」

 勝の弁解虚しく……そもそも釈明すらできないまま、乙女達は二人して小道へと駆けて行ってしまった。

「もう勝君たら」 

「母さんのせいだろ!」

 目元を痙攣させて、母に詰め寄る勝。

「せっかく女の子がお洒落しているのよ。それを褒めない男の子がどこにいますか」

 勝の額を人差し指で突きながら咲恵は眉を顰めた。

「そんなん言えるか」

 恥ずかしいこのうえない。男子たるは黙して語らずこそ美学なのだ。

「男の子は一本気と女の子への愛情が大切なの。時には矢面に立って勇猛に戦い、時には硝子扱うように優しく慎重にかつ大胆に立ち回る!勝太郎さんなんて、会う度にお母さんを褒めてくれたものよ。夜なんて、窓から入って来たりして。それはもう大胆だったわぁ」

 途中からただの思い出話と化した母の教授。

「のろけ話かよ……」

 頬を赤らめる母に勝は心底呆れて、溜息のかわりにそう言った。

 なによぉ、と機嫌を悪くして言う咲恵。

「でも桜ちゃん、勝君に褒めて欲しかったと思うわよ。どんな言葉でも良いの、褒められて喜ばない女の子なんていないんだから、ほらお母さんで練習してみなさいな」

 真面目な顔つきで述べた母は、スカートの裾を翼の様に広げ、顔を右斜めに傾けると、片目を瞑って何かを待っていた。

「俺、風呂沸かすから」

 とにかく褒めれば良い。勝はそう解釈し何度か頷いた末に、そうあっさりと言って、咲恵の隣を通り抜けようとした……

「いってぇなぁ!もうっ!」

 再び咲恵の拳が勝の頭上に炸裂したのは言うまでもあるまい。

「勝君ったら、何もわかってないのね。今晩は勝君だけご飯抜きですからね」

 両肘を張って勝を追い抜いて行った母の捨て台詞であった……

 これを横暴と言わずしてなんという。


      ○


 着替えを済ませた景が来てからと言うもの、三人娘達は離れを閉めきってきゃいきゃいと黄色い声をあげながら、楽しそうに何かをしている様子であった。

 無論、勝は桜花の園への闖入を許されるはずもなく。悲しくも孤独にて救急箱を前に包帯と格闘していたのである。

 しっかりきついめに巻いた包帯。勝はすぐに風呂上がり処置すれば良かったと後悔することになった。風呂釜へ水張りをしていると、せっかく巻いた包帯がずぶ濡れになってしまったのである。竈へ火を入れ、乾かそうと悪あがきをしてみても乾くはずもなく、結局包帯を解いて、物干し竿へ掛けておいた。

 燃え上がる竈の中を見つめながら、勝はぼぉっとしていた。ぼぉっと選手権なるものがあれば、優勝できる自信があった。

 母はともかくとして、麗しきも桜の姿を思い浮かべていたのである。着た切り雀みたくブラウスにスカート、そしてカーディガン。ほぼ毎日同じ服装でいる桜。素朴な美は堅牢なる地味を鋭利に突き破り、可憐な魅力を滲み出している。

 しかし、そんな桜が可憐な洋服を着ていたのである。それは想像を絶する領域なのである。高天原や桃源郷と言っても過言ではない。実際に勝には桜が輝いて見えたのだから……

 消毒薬にて痛みがぶり返した手の平を見ながら、景との練習を後悔しないながら、デパートへ行けばよかったなと思うのだった。

 人酔いさえしなければ……順応能力のない自分を責めるしかあるまい……

「勝君。お風呂入っても良い?」

 桜と共に食堂で食べるオムライス!そして輝かしき念願のグローブ!最後に乗るであろう観覧車!妄想に胸を熱くしていた勝に、横から咲恵の声が入って来た。

「入れると思う」

 火を入れてどれくらい経ったのか?ぼぉっとすることに夢中でそんなことはすでに忘却の彼方である。

 さてもオナゴとは傍若無人かな。気楽にも宴会のごとき騒ぎ楽しみ悦楽の限りを味わったあげく、一番に風呂を所望するとは。憤りか呆れか……しかしこれも男子たる『女子への愛情』の一端なのである。得心尽くかつ辛抱強く、苦薬とて見事飲み干してこそ男なのだ。

  江戸川放流口程度の寛大さを胸に、勝は薪を数本竈へ放り込んだ。

はたして風呂場に響くドアの開閉音。それはあまりにも多かった。まさか、と思いつつも勝はそんなはずはないと自身に眉を顰めた。

「まだ少しぬるいみたいだから、先に体すっちゃいましょう」

「私、おばさまの背中流すっ!」

「景ちゃんずるい」

「あらあら、幸せだわ」 

 三娘のお湯浴みである。

 己の勘も満更ではないと、勝は頭を掻いた……

 少年よ!と行者が勝の足下へ推参し言う。

『常世の楽園とはまさに、目前にてこれに立ち会えるは男子たる幸福の極みぞ!』

 ボロボロの和傘を差したまま高らかに言う行者は、恍惚と風呂場から漏れ出でる音を耳にその情景の連想に耽っている様子であった。

 またこいつか。と勝は溜息をついた。過去には勝を桃色の誘惑へと導き、最近では勝を奮起させた。奇妙奇天烈な奴である。

『恋せよ少年。そして誠の愛を見つけるのだ』

 囁く様に言う行者。

「なんのこっちゃい」

 勝はとりあえず項垂れた。

『男子が女子に惹かれるは、悠久の定め。そこに優麗にて艶容たるを見初めたのなら

迷う事はなど笑止!果敢に攻め向かい潔く玉砕してこそ戦人の道と見たり』

 何が言いたい。勝はまるで聞き耳を持たなかった。この場にて行者の官能的背徳的誘いはなかった。

 母の悪戯か企てか陰謀か策略か、勝は桜に嫌われかけている。考えてもみて欲しい、母曰く桜は勝に褒めてほしかったらしい、なれば、勝は褒めないばかりか卑猥にも『スカート捲り』を敢行しようとした阿呆なのである。

 百年の恋人であれ、平手の一つと心中して果てねばならないだろう。

 この上、風呂などを覗こうなら、拭い去るに困難な軋轢を深々と刻み、不埒者の烙印を一生背負わねばならなくなるは必定である。

『少年、それは愛故なのだよ。愛おしいと思うほどに狂おしく指で撫でたくなる。愛とは飴と鞭!純情と欲情とは表裏一体である!』

 もはや支離滅裂である。聖人君子なれば、錬金術のごとく、拡大にして過小な物事をこじつけ、何やら理解の域に達するのかもしれない。しかし、勝にそれを望むのは無粋と言うものである。

「丁度良いお湯加減よ」 

 風呂に入るのだろう、窓の隙間から湯気が漏れている。

 勝は竈から焼けた銅の様な薪を取り出すとわざわざ、足下へそれを置いた。

 行者は勝よりも勘が良かった。『ふはははっ。私を出し抜こうなどと、百年早いぞっ。次は鳥もちでも用いることだな』とすでに勝の踵付近まで退避しいていたのである。 

 次は鳥もちを仕掛けようと勝は心に決めた。

「景ちゃんって髪の毛長いのに綺麗だね」 

 髪の毛がもっとも長い景だけが、最後まで洗い終えた髪の毛を絞っていた。

「まぁねぇ。勝ちゃんがね、長い方が可愛いって言ってくれたから、その日からずっと伸ばしてるの」

 桜の髪の毛を見て景は小さな優越に浸った。体躯は凹凸とて均衡、容姿はやや劣勢気味であるが、髪の長さでは圧倒的勝利である。

「ここまでなるのに五年かかったもん」

 失笑顔でそう言う景。

「景ちゃん、風邪ひいちゃうから、早く湯船においでなさいな」

 乙女の陰湿な抗争を予見した先輩が仲裁に入るべく咲恵が話しの腰を折った。

 今入ります、と言いながら景は髪を束ねると、それをうなじのあたりで結んだ。

「実はね。私も昔は景ちゃんみたいに長かったのよ」 

 少し赤い顔で見る桜と、きょとんとした表情の景が顔を並べる前で咲恵はそう話した。

「でもなんで短く切ったんですか?」

 髪は女の命である。ゆえに髪を切ると言うことがいかに重大であるか。毎日のように髪に気を遣いそれなりに手入れをしている乙女二人には、とても興味があった。

「勝太郎さんがね……勝君のお父さん。が短い姿も見てみたいって言ってくれたから、思い切って切っちゃった」

 半ば拍子抜けの二人は、顔を見合わせた。

 まさに鶴の一声で命と黙される髪を切ってしまうとは……破天荒であろう……

「それだけ……」

「えぇ、それだけ。だって、見て頂く殿方は一人だけで良いの。だから、その殿方が望む様にしただけ。愛のなせるわざよね」

 更に顔を赤くさせる桜と少し赤みが差してきた景は、目を見開いたまま生唾を飲み込んだ。

「愛って愛って……すごいんですねぇ」

 桜が壊れた人形の様に首を傾け、目の色を失って呟いた……

 へぇ、と勝は相づちを打った。その話しははじめて聞くからである。

『愛とは信愛、愛とは深愛、愛とは深淵……』

 歌舞伎役者の様な言い回しでしゃべり出す行者。

 さて、どうしてやろうかと勝はまたも戯れ言を吐き始めた行者を苦々しく見下ろした。

『たとえ乳が垂れ背が曲がろうとも、共に寄り添い果て行く!息子よ!これが愛なのだ! 凋落【ちょうらく】をも互いに笑い!契りを結んだ身の上は墓までもっ!これをもって夫婦道と称するのだ!』

拳を高々と掲げ渾身の力を込めて言い切る行者。淫猥たるその言動からして大凡真面目な語りなのだろう。

 是と非があろうとも、魂を振るわせる叫びとは存在するのであった。決意ともとれる行者の言葉は勝の胸を少し熱くした。

「おばさま、みたいになれるかなぁ」

 景の声である。

「大丈夫っ。景ちゃんも、桜ちゃんも、しっかり成長しているもの、もう少ししたら色々ともっと大きくなって女性らしい体になるわ」

 ええっ、素っ頓狂な景の声が聞こえた。意図せぬ言葉に当惑した様子だ。

「おばさま大胆」

 ふやけたような桜の声がそれに続く。

 勝には刺激の強い猥談は壁越しに少年の頬を桃色に染めるに十分であった。

『時に少年。乳はいいぞ。尻よりも乳にこそ浪漫がある』

 結局、行者の本質的根本は何一つ変化していなかった。

 勝は確信した。これは父ではない、勝の知る父は紳士であり卑猥な言葉を嫌い、そして母にはさり気ない愛情を見せる。そんな男なのでる。こんな心の汚れきった醜悪で汚物の様な人物ではない。

 勝は家へ戻ろうと立ち上がった。

『おぉ、それでこそ男子である!いざ行かん!眼福の世っ!桃……のわっ……』

 勢いづく行者を踏みつぶしてやった。煩悩を剥き出しに風呂場の中へ全身全霊を傾けた阿呆の結末である。その易々さと言えば鳥もちを使うまでもなかったと勝は不埒者の成れの果てを鼻で笑ってやった。


      ○


「はい、これでよしっ」 

 夕餉を前に風呂に入った勝は、景に肉刺の治療をしてもらった。また自分で包帯を巻こうとしたところを、景が気づいたのである。

  ちゃぶ台には着々と四人分の食事が揃えられて行く。咲恵は一人忙しく台所と居間を往復している。

 本来ならば、そこに桜の姿があるはず……

 しかし、顔を茹でたこよろしく、団扇片手に桜はちゃぶ台の横でのびていた。寝間着の着物を着て装いこそ涼しげであったが……

「のぼせるまで我慢するからよ」

 救急箱を閉めてから景が言う。

 景の話しでは、気を失う寸前、湯船の中へ滑るようにして沈んで行ったとのこと。 

「だって、おばさまともっと一緒に湯船にいたかったんだもん」 

 ようやく上体を起こして言う桜。

 のぼせるなど烏の行水を評される勝には、俄に信じられない話しである。

「まぁ、嬉しいわぁ。桜ちゃん、明日から毎日一緒に入りましょうね」 

 お櫃を抱えた咲恵が喜んであられた。

「さぁ頂きましょう」

 茶碗にご飯をついで各々の前に湯気を立てる白米が揃ったところで、咲恵がそう言った。

 合掌の後『いただきます』と三人が唱えると、咲恵は「よろしゅうおあがり」と言葉を添える。

 焼き魚に箸をつけた勝はふっと思い出した。行者は不埒者であり父ではない……しかし、母は確かに『夜なんて、窓から入って来たりして……』と言った。今となっては笑い話ですまされるだろう。しかし、女性の部屋へ泥棒みたく侵入するなど、最上級の不届き者ではなかろうか……

「なぁ、母さん、父さんってどういう男だったんだ?」

 魚の身をほぐしたところで勝が咲恵に問い掛けた。

 そうねぇ……。指を顎のところへやって思い返す咲恵。

 桜と景も箸を止めて咲恵に視線を向けている。

「優しいすけべかしら」

 勝を始め桜にせよ景にせよ、一瞬で凍り付く。景に至っては思わず箸を落としてしまった……

「やっぱりか……」

 勝は項垂れた……父の本性たるは行者に見た軽佻浮薄であり淫猥なるその姿であるのか……

「でも硬派な紳士だったわ。部屋に泊めてもらった時なんて、一夜を外で明かしてれたのですもの」

「部屋に……」

「泊まったんですか……」

 乙女二人はそこに食い付いた。

「それすけべじゃないだろ」

 すけべと紳士は相対する領域の住人である。硬派であるなら尚更、己の欲情に素直に振る舞うは軟派が大前提なのである。

「お礼のかわりに部屋の掃除をしてあげたら、桃色本が沢山あったもの」

 それをすけべと言われてしまえば、世の男どもは全て例外なくスケベである。

乙女の軽蔑の眼差しを一心に受けたのはなぜか勝であった、「俺は持ってねぇ」と言うも……虚しく……

「でも、とても優しい殿方でした。お付き合いをしている時は一度だって手を繋いでくれなかったし、口づけだってしなかったわ。やっと手を繋いでくれたのは結納が終わってから。接吻は一緒になってからだったもの……」

 夢見る乙女は顔を紅潮させて話しに聞き入っていた。殿方との接吻。それは乙女にとっては未知の響きであり、それだけで小っ恥ずかしい。 

「寂しくなかったんですか?」

 桜が恐る恐る言った。「手ぐらいは……」と続けた。

「そうねぇ、私も手ぐらいならと思ったことはあったけれど、それよりも、私のことを大切に思ってくれているのだと気がつけたから、寂しくなかったわ」

 そう咲恵が言い終えると、余韻を醸すように場が水を打った様に静寂に包まれた。立ち上る湯気の音さえも聞こえてきそうである。

「でも桃色本持ってたんだろ」 

 雰囲気を乱暴にぶち壊したのは勝であった。うっとりと余韻に浸っていた乙女達は一斉に勝に非難の視線をぶつける。

「そんな物は男の嗜みよ。心に決めた殿方ならば、それぐらいを許せないのは乙女の恥です」

 咲恵は目を閉じて重々しく威厳を込めてそう言い切った。そんな婦女にぱちぱちと疎らな拍手が送られる。

 勝は不思議な面持ちであった。母の話では『硬派のすけべ』であり、時として『紳士で阿呆』なのだ。それでは母のいぬ間では『すけべで阿呆』の組み合わせも有効と言うことになるではないか……

 勝は箸で頭を掻いた。

「そうだ、桜ちゃんっ」 

 思い出した様に咲恵が桜に目配せをする。

桜も驚いた表情の後に大きく頷くと、食事中であるにもかかわらず、離れへと行ってしまった。

 残された景は首をかしげ、勝は腕を組んで唸りながら父の正体について考察を巡らしていた。

桜が携えて来たのは、何を隠そうデパートの紙袋であった。

 含み笑いで登場した桜は、「はい、勝ちゃんの」と勝に野球帽を手渡し「これは景ちゃん」と兎を象った髪留めを差し出した。

「かっけぇ!」「わぁ可愛い」と勝と景は思わぬお土産に感歎の声をあげるのだった。

「桜っちゃんが選んでくれたのよぉ」  

 咲恵は自分の事の様に莞爾【かんじ】として笑った。

「桜ありがとう」

 景は素直に瞳を輝かせる一方……

 勝はどこか腑に落ちない面相となった。無論、野球帽は格好が良く一目で気に入った事は言うまでもない。

 しかし、本来自分の手元にあるべき物は帽子ではないはすなのだ。

「グローブは?」

「買ってないわ」

「買ってくれるっていったろ!?」

咲恵に迫る勝。

「あらぁ、お母さんに〝お洋服買え〟っ言ってくれたのは勝君じゃない。お母さん孝行息子を持って嬉しいなって思ったのよぉ」

 むぅ、とそう言えばそんな事も口走ってしまったかも、と勝は一度身を引いた。

「とにかく買ってくれよな」

 ここで引き下がれば、念願が遥か彼方へ遠のいてしまう。勝は何がなんでも食い下がった。

「そうだ」

「買ってくれんのか?」 

「勝君も出しなさいな」

「何を……?」

 勝はきょとんと咲恵を見つめた。

 咲恵はさりげなさを装っていたが、明らかに全砲門を開いた超弩級艦のごとく勝利を確信している様子であった。

 思わず身構えた勝、拳骨が来るか平手が来るか……いかなる攻勢に耐えうる気概だけは放擲せず、立ち向かう所存である。

「通知簿」

 勝は戦慄した……忘却していた春休み唯一の懸案事項を……春休み前日より何やかんやの大忙しで頭の片隅にも残っていなかった、パンドラの箱、エニグマ。

 戦人は敵を打ち破るべく突撃をしかけてから気が付いた……敵は本気であると。そして己の得物が孫の手であることを……鈍く光る砲口に睨まれた上はどうして矛を交える狂人となり得るだろうか……

「……無くした」

 無論、尻尾を巻いて逃げながら遠吠えるしかないのである。勝は虚勢を張る間もなく、身をすっかり縮ませてしまったのであった。

 助け部ねとばかりに乙女へ視線を泳がすと、一人は殊勝な面持ちで味噌汁に視線を落とし、もう一人は髪留めを色々と傾け見て、悦楽のど真ん中で小躍りを続けている。

 悲しきかな援軍は望めそうにない……

 勝は強行突破とばかりに、配分された夕餉を口の中へ掻き込むと、咲恵の言葉を遮り、

「ごちそうさまっ!」

 と脱兎するほかになかった。


      ○


 食後座布団を囲んで展開された天下三分の計。勝はまわり将棋で万年銀と言う運の見放されつぷりを露呈させると、次なる花札では初心者である桜に完膚無きまでに叩かれ、景が帰った後、最後の決戦と意気込んだ本将棋で桜と対峙するも、女傑、一丈青に見る無人の野を行くが如く飛車戦法に面白おかしく陣中をすっかり蹂躙され、加えて勝自身の自滅も手伝って、王将の終末はまさに四面楚歌。ここまで華麗に四面を囲まれると、苦言のひとつもでやしないと勝は放心状態で盤上を見下ろしていた。

 ここで桜が両手放しで喜ぼうものなら、ふて寝もできると言うものである。

 しかし、桜はまわり将棋でも花札でも勝利の歓喜を上げなかった。小さくは笑ったものの何か心苦しさを抱えている様子であった。

「私おばさまのお手伝いに行ってくるね」

 桜は勝の投了待たず、さっさと台所へ行ってしまった。

 なんとも後味が悪い。ふて腐れようにも桜に見せつけてやらねば、ただ寂しくも拗ねている小人である。

 とりあえず、諸々を片づけた勝は、布団を敷くことにした。本来ならば、一組敷けばそれで事足りるのだが、ここ数日は三組が並ぶのが通例となっている。

 後は母に任せればそれで支障はあるまい。とは言えそう言い切ってしまうのも心情が欠ける。

 勝は秘密裏に布団を三組敷くと、母と桜をほおって一人だけ布団に潜り込んだ。

 想像以上に疲れていたようである。勝は布団に入るなり、仄かに温かいふわふわとした感覚が全身を包み、眠りの神がいるのであれば、それが瞼を力ずくで閉めた上に錠までかけたのである。

 どれくらいの時間が経っただろうか。

「勝ちゃん起きてる?」

 おいてけ堀から囁かれる様な、細い声で勝は瞼をこじ開けた。外もまだ暗く、居間から明かりも漏れている。隣に咲恵の姿がない限りは小一時間程度と言ったところだろうか。

「なんだ」

 寝返りを打つと、母の布団の上に桜が正座していた。

「何してんだよ?」

 目を擦りながら上体を起こす勝。

「ごめんなさい」

 明かりを背中から受けた桜の表情は暗く、不気味なれども不思議な雰囲気であった。     どうした?、と勝は呟いた。

「なんで謝るんだ」

「私がお洋服なんて買って貰わなかったら、勝ちゃんグローブ買ってもらえてた。だから私のせいなの……」 

 桜はそう言うと俯いてしまう。

「あー桜のせいじゃないって、母さんに服かえって言ったの俺だし……」

 勝は頭を掻く。事実なのであるからして仕方がない。

「服だけじゃないの。カチューシャも靴も傘も……食堂でお食事したし、観覧車にも乗った……私が行かなければ、きっとグローブ買えた……」

 そう言うと桜は袖で額を擦った……

 泣くなよ……、狼狽の片鱗を見せつつ勝は余計なことを言わなければよかったと自分の心持ちの小ささを呪った。

「グローブがあれば勝ちゃん仲間はずれにされないで、野球できるじゃない」

 もはや桜の涙は止められない。

「桜が貸してくれるから良いんだって」

 一様被害者の体であった勝。いつしか立場は逆転、勝が加害にて桜を泣かせてしまった絵に見えなくもない。正直に勝は現在さほどグローブを欲しいとは思わなかった。グローブを持っていれば仲間には入れてもらえるかもしれない。

 しかし、勝の大暴騰癖は遺憾なく健在であり、そんな勝が試合に出られるはずもない。結局は球拾いに落ち着くのである。ならば、グローブはなくとも桜を相手に腕を磨いた方が賢明であろう。

『道具は無くとも努力でそれを越えられる』のである。

「お金は持ってないけど、私に出来ることならなんでもするから……」

 勝の気持ちろは裏腹に桜は責任を感じ全てを背負い込むつもりである。桜を責めるなどと、男子として人として唾棄すべきである。問答無用で責め立てるのであれば母親である!

 通知簿の乱平定の暁には、一番槍で持って攻める所存。

 しかし、それを口に出すには及ばす、どうすれば興奮して泣きじゃくる桜を宥められるだろうか……とそればかりを熟慮していた。

 泣き疲れるまで待つは一見して得策のようで実は愚策である。

「お土産嬉しかったし……」

 取り繕う様に言った一言。

 桜は、はっと顔を上げた。相変わらず頬には涙が伝っていたが……

 うぅ、と勝は唸った。

 小っ恥ずかしいかったのだが……

「あの洋服も似合ってたし……な」

 最上級の勝的褒め言葉である。

 えっ……、と呟いた桜。

 女心と秋空はなんとやら、今鳴いたカラスがもう笑ったように、桜は涙を止めると口元を微かに綻ばせたのである。

「カチューシャどうだった……?」 

 咲恵の言う『褒められて喜ばない女子はいない』これまさに。単純明快に嬉しそうな桜は控えめにはにかむと指と指を付き合わせている。

「多分似合ってたと思う」

 カーチューシャとは?勝にはその単語が意味する物がわからなかった。

「多分ってなに?!」

 手をついて身を乗り出した桜、凹凸の少ない胸元こそはだけなかったが、じりじりと迫り来る桜の顔に勝は狼狽し、

「もういいってばぁ!」

 と大声を上げてしまった……

 驚いた桜は着物を直す仕草をして、咲恵の布団の上に鎮座し直し、勝は柱を背に胸をなで下ろした。

 しかし、安息とは花火の如く刹那である。

「勝君っ!なに大声出してるのっ」

 障子を両手で勢いよく開いた咲恵に閻魔大王の姿を見た勝は、『地獄は現世にある』とこの後自身に降りかかる最悪を予見して合掌をした。

「桜ちゃん泣かしてっ!なにしてんのっ!」

『少年よ雪冤し身の潔白を明らかにせねばならぬ!』行者が叫んだ気もしたが、咲恵は問答無用と渾身の拳骨を勝の頭に雷のごとく落とし「勝君は言葉が悪いから、ごめんね桜ちゃん」と桜の肩を抱いたのであった。

「納得いかねぇ……」

 ぬれぎぬである。あくまで勝は被害者なのだ。

「早く寝なさいっ」

 勝は鉄の帳を投げられたように、戦々恐々と布団を大袈裟に被った。

 桜は申し訳なさそうに勝を何度か見ていたが、勝の悪事を持って災難に見舞われたのは桜であると思い込んだ咲恵は桜に喋らせる暇を与えず、布団を被せてしまう。

 あくまでも被害者は勝なのである。


      ○


 久方ぶりに頭痛にも似てじんじんと熱を帯びる頭頂を我慢しながらふて寝した。再び閻魔大王が居間に戻った後、桜の声が投げ掛けられたが勝はそれに背を向けて答えた。その夜はそれか目を開けることはなかった。

 それはカラスの啼かぬ間のこと。

 珍しく夢見が良かった勝は、浅い眠りを謳歌していた。

 奇想天外なその夢を筆舌するにはあまりある、各々読者諸賢の想像力にお任せしたい。

 夢とはこうあるべきであると、悦に入った勝の口元は綻んでいた。

『少年よ目覚めよ!今をもって目覚めぬは男の恥ぞ!』

 行者の声が頭の中に木霊する。

 不逞の総代である行者と愉快痛快の希少たる夢。いずれの誘いを受けるんかと問われれば択一する必要さえも皆無でああろう。

 無論、勝は行者を無視し、堪能すべき益夢に満場の一致を見た。

 しかし、その後間髪入れず、勝の頬に中に温かく柔らかい何かが触れたのである。埃にしてはっきりとした感触であり、それはまるで綿菓子の様であった。朧気ながら鼻腔に広がるすがすがしい石鹸の香りとて埃にあらず。

 行者を受け入れるは愚なれど、不可解な事象を確認するは万物の本能なのである。最悪、早起きの家蜘蛛であったならば、即座に飛び起きて天誅を加えねばならぬ。

 勝は朦朧と薄目を開けた。滲んだ視界には覆い被さる影がある、蜘蛛であったなら今まさに勝は食われようとしているはずだ。

 だが、影には微かに輪郭があったように見えた。

 それが何であるかは露ほども考えつかなかった。青白い光が窓から差し込み、影がやがて小さくなる。どうやら眠りを妨げる害虫の類ではないようであった。

『少年よ。千載一遇の時を逃したのだぞ……』

 溜息混じりに言う行者。

 幻聴か勝は『行ってきますっ』そんな桜の声を耳にした後、再び益夢再びと瞼を閉じてしまった。

 愉快な夢を所望するは万人の望にて、『良見夢』なるいかがわしい薬まで、夜の闇で暗躍するのであろう。

 富と権力を得た亢竜とて切望するは不老不死にあらず。現実主義者の昨今、始皇帝のように蓬莱へ仙薬を取りに行く者もいなければ徐福なる方術士に財産を託す阿呆もいないのである。

 全ては現世での悦楽を追求するのみ。

「勝ちゃん朝ご飯」 

 いつも通り桜に起こされた勝は生気なく上体を起こした。

 まず、枕が頭もとにあることを確認する……どうやら枕がえしに蝕まれてはいない様子である。

 思いだしてもおぞましい……なぜ、かような良夢がいかの変遷と宙返りを繰り返せばこのような悪夢に取って変わるのだろう……

 空腹には堪らない朝食の香りに吸い寄せられる様に勝は居間へ向かう。そこには夢から覚めた様にブラウスとスカートの桜が先に座って居た。

 同じ目覚めであれば、桜を見ている方がずっと心地よい。

「勝君も桜ちゃんを見習ってもう少し早く起きなさいね」 

 茶碗にご飯をよそいながら、咲恵が呆れ顔で言った。

 厳かにして粛々と朝餉の時間が過ぎて行く。別段会話がないわけではない。ただ眠気を拭いきれない勝が参加できないだけで、咲恵と桜は何やら楽しそうに会話をしている。

「勝君。そろそろ薪拾いに行って来て頂戴。今月は農協に薪を頼まなかったのよ」 「はいはい」

 風呂番である勝とて今月は薪の補給がないことを訝しんではいた。「返事はいっかい」と続ける咲恵を無視して、勝は『また山登りかと』しみじみと味噌汁を味わった。

 朝餉の後、背伸びを勝は継ぎ当ての施されたズボンに着替えると、納屋の中にある背負い子を出し、土間まで背負って戻った。

「桜も行くのか?」 

 板間に水筒をたすき掛けにした桜が立って居た。

 見たことがない桃色のカーディガンを着ている。デパートで買ったのだろうと勝は別段気にも止めなかった。

「二人とも、気をつけて行って来てね」

 土間に並んだ二人を板間で見送った咲恵が言う。

「行ってきますっ」

嬉しそうな桜とは対象的に勝は無言で戸に手を掛けた。 

「ねぇ、神ノ峰って遠いの?」

「そんなにかかんねぇよ。走って登れるしな」

 向かうは神ノ峰は。神社の境内から続く登山道を登る。古から続く民間信仰の対象である神ノ峰の山頂付近には社が建てられ、初日の出を御山で拝みそのまま山頂の社で初詣済ませるのがこの辺りでは恒例なのである。

「勝ちゃん」

「なんだ」 

「呼んだだけ」

 残念そうに桜が言う。

 桜はなぜかとても嬉しそうであった。勝は無言で首だけをひねると、背負い子を背負い直した。

 そのまま、無言のまま選果場の前を過ぎ、鳥居が見えて着た頃になって、

「このカーディガンおばさまが編んでくれたの」

 と桜が吐露した。「へぇ」と勝は言うに止まった。

 連日夜なべ仕事で何をしているのかと気にはなっていたが、まさか桜のカーディガンを編んでいようと思いもよらなかった。

「私、お母さん居ないから。手編み初めてなの。おばさまに編み方習うつもりなんだぁ」

 言葉にせずとも、桜が喜びと感服の様子は表情と醸す雰囲気を見れが窺い知ることなど雑作もない。

「母さん、編み物上手いからなぁ。俺もセーターとか腹巻きとか編んでもらった」

「羨ましいな」

 そこにある幸福や幸せなどとは気が付かぬがゆえに幸せであり幸福の体を成すのである。実際に勝は未だに母の手編みの品々を取り留めて有り難いと思った事はない。

 そうか?。と勝は登山道へと足を進める。

 裸の広葉樹が多くを占める森はこの時期とても明るいのでああった。石畳にそって、所々くねった山道を一気に登って行く。中腹からは直線の道となるがその分勾配がきつくなって行く。

 枝の間を縫って大海原が見えた。視線をひけば木々の枝には黄緑色の新芽が着実に育っている。肌寒い今日とて、春はすぐ側へやって来ているのである。

「見てっ、櫻が咲いてる」

 カーディガンを脱いで腕に掛けた後続の桜が指を差した。

 殺風景な山肌の中に唯一の暖色が鮮やかに賑わいを醸し出していた。早咲きの櫻はその優美の花弁をこれ見よがしに見せつけ、さぞ優越なことだろう。

「山頂に行けばもっと見られるぜ」

 井中の蛙ほど、嘆かわしいものはない。

 そそり立つ様に階段を上りきれば、視界が急に開ける。社務所の様な小さな小屋があり、その隣には社があった。社の前方階段にして数段降りた所に鉄骨で作られた展望台があった。

「わぁ、良い眺め」  

 展望台が見えるや一番に駆けだした桜は胸元まである手すりに手をかけて、目の前に広がる絶景に感動の声をあげた。

 眼前には、無名の山が屹立と聳えている。その山の中腹、丁度この展望台と同じ高さの山肌の一角に、桃色の絨毯が敷かれているかの様に山櫻が早咲きしていた。

「伐採した後に櫻植えたんだって」

 勝は枯葉がのった木製のベンチに背負い子を置くと、桜の隣へ立った。

「そうなんだ」 

 世の中にはなんと粋な人がいるのだろうと桜は思った。少し汗ばみ、呼吸も荒々しくなった。今では汗が冷えて肌寒い。

 しかし、これだけの眼福を味わうことができるのであれば、そんな些細なことは気にならなかった。

「薪拾いに行って来る」

 勝はそう言うと、社の前を通り過ぎて、山道よりも道幅の広い道へ歩いて行った。「私も」っとそれに桜が続く。

 道を進んで行くとやがて小さな小屋に行き着いた。道もこの小屋で途切れている。どうやら、この小屋へ向かうのが目的であった様子である。

 勝は「足下気をつけろよ」と言うと枯葉に覆われた地面を歩き小屋の裏側へ向かった。小屋の裏側に出て見ると、どうだろう、枯れ柴の束が山のように積まれているではないか。

 桜は……、と考えた勝は、

「一束でいい」

 と束を一つ桜の足下へ置いた。

「うん」

 両手にそれぞれ柴の束を持った勝は来た道を帰る、桜は柴を抱えてそれに続いた。

「ねぇ、あれ勝ちゃんが全部集めたの?」 

 展望台へ戻った勝は、背負い子に柴を積むと、それを背負い子に巻いてあった針金で固定している。

 いいや。と平然と言う勝。

「じゃあ泥棒なんじゃ……」

「別に気にしなくて良いんだ。どうせ、秋になればみんなで手分けして集めるんだから」

 俺は去年三束分は集めたからな。と腕を組んで言う勝。

「でも……やっぱり、いけないよ」

 と苦言を呈す桜であった。

「売ってる奴だっているんだ。自分で集めた分取るぐらい悪いもんか」

 さも当然と勝はそう言うと展望台から降ろされた梯子を降りて行った。

 桜が欄干に手をやって下を覗くと、勝の姿がない。

「勝ちゃんっ?」

「危ないから下がってろよ」 

 そんな声が聞こえたかと思えば、次の瞬間には斧で割られた薪が展望台へ向かい飛んで来た。「きゃっ」と思わず頭を抱えてしゃがみ込む桜。

 勝が意地悪でもしているかのように、ある薪は桜の足下へ落ち、ある薪は手すりを打って再び下へ落ちて行った。

 たかが薪されど薪である。乾いた着地音と共に跳ねる薪であったが、体に当たれば相応に怪我するであろう。その上は下手に動くわけにも行かず、桜は動くに動けなかった。

 どれくらいが展望台の床に散らばっただろう。桜が顔を上げると、丁度、勝が顔を出した時だった。

「勝ちゃん危ないよ」

 頬をおたふくみたく膨らませて怒る桜。

 一方の勝は頬を紅潮させて、頭を掻いている。

「もうっ!勝ちゃんのすけべっ!」

 桜はスカートを気にしながら急いで立ち上がると、足下に落ちていた薪を拾い上げ上投げで勝に向けて投げた。

  ちょっ、と勝は顔面蒼白で間抜けな声を出した。

「見てないってっ!見えそうだっただけだっ!」

 火に油を注ぐ弁明の後急いで顔を引っ込めた勝。

 薪が放物線を描いて吸い込まれるように勝の頭上へ落ちて行ったのはその刹那であった……

 大層尻餅をついてしまった勝は、腰をさすりながら、ベンチ座ると「ごめんね。大丈夫……?」と言いながら桜が入れてくれたお茶をすすった。

「大丈夫。あの……その、本当に見てないからな」

 今更ながらと思ったが、見ていない以上、そこは白黒をはっきりとしておかなければ後味が更に悪くなる。

 断言して勝が見たのは桜の膝と太股の一部だけなのである。

「うん……わかった……」

 まさか勝が梯子から落ちるとは想像もしなかった桜は、殊勝にも薪を拾い集め献身的に薪を縛るのを手伝った。

 怪我の功名とはこれ以下に。尻餅をついたお陰で、完全に盗品である薪を桜に言及されずに済んだのである。

 後先考えずいつも通り、展望台下に保管されてある夏祭り用の薪をくすねた勝。後に桜に追求されれば、役者でもあるまいし気の利いた言い訳は疎か、咲恵に露呈することさえ必死であった。されど、終わりよければ全てよし。

 こうして平穏無事に茶などすすって居られるのである、今後の憂いがあるわけがない。「なに?」 

 茶をすすりながら、桜を見つめていた勝に桜が首を傾げた。

「なんで頭飾りしてんのかなって」

 カーディガンよりも色の濃いカチューシャを桜は身に着けていた。気が付いていなかったと言えば嘘になる。

 ただ、今頃になって気になったのである。

「昨日、勝ちゃんが似合ってるって言ってくれたから……多分だけど……」

「あー」

 そんなことも言ったかと勝は頬を掻いた。

「本当は、せっかくお出掛けするんだから昨日、買って頂いたお洋服と靴で来たかったんだけど……汚れちゃうから、これだけにしたの」

 桜は頭を傾けて、新品のヘアバンドに優しく触れた。黒髪に映える赤。その明暗比は絶妙な見栄えを醸している。

 一目で桜がそれを気に入っているのだとわかった。

「桜、似合ってるぞ」

  勝は桜の瞳にそう訴えた。

 もはや何も考えるまい。事実である前にそう言わぬは男にあらず。

「そんな面と向かって言われると、恥ずかしいな……」

 桜は勝から顔を背けると、絡ませた指をもじもじとさせながら徐に立ち上がり、欄干まで足を進めた。

「今から少し独り言、言うね……」

 背を向けたままそう言った桜は、視線を空へ移した。

「私ね。勝ちゃんが桃色本持ってても気にしない」

「ばか、持ってねぇって」

 桜の背中に向かい、濡れ衣である!と勝。

「独り言っ!」

「ああ……」

 それは不公平ではなかろうかと勝は、茶の入った水筒の蓋をベンチの上へ置いた。

「私、多分もうそろそろ転校しちゃう……でもね、初めて、離れたくないって思ったよ。この町からも勝ちゃんやおばさま、景ちゃんとも……」

 それを言うと桜は俯いた。

「それも独り言か……」

「……うん……」

出来ることならその日まで目を背け続けたかった……すでに桜が近々転校する事は橘先生から聞き、知りおいている。

 だが、勝はその事実から逃げるしかできなかったのである。『出会いがあれば別れもある』そんな慰めで胸の内を鞣すなど、得心を欺瞞するための詭弁でしかないのである。だからと言って何をどうするも、何もできずにいる勝は急激にもどかしさに苛まれてしまった。

「じゃあ俺も独り言うからな……桜が転校すること知ってた……橘先生が教えてくれた。それから……短い間だけど、桜と仲良くしてやってくれって……」

 桜は驚愕の表情を浮かべ振り返った……宙を舞った髪が遅れて肩に落ち着く。

「でも俺はそんなんで仲良くしてるわけじゃないからな」

「そんなのわかってるよ」

 桜は当惑した様子ながら、勝の言葉だけは全身で受け入れた。勝がそんなに器用でないことぐらいわかっている……

「独り言だって」

「ごめん……なさい……」

 出しゃばって失敗したウエイトレスのように、桜は再び視線を床に落とした。勝の表情を窺おうと、上目遣いにて何度か視線を合わせたが、その度に桜は視線を逸らすのだった。

「俺、桜が転校するって聞いた時、どうしたら良いかわからなくなった。だけど、後悔はしたくないんだ……」

 後悔だけはしたくない。ただ、それだけが言えた。本気でそれは思っていたのだ。桜と共に愉快に笑ってさえいれば、残酷な懸案さえも忘れられる……今までのように……これからも……

「勝ちゃん……」

 桜もどうして良いかわからず、拳を膝の上に置いて勝の隣に腰を降ろした。

 勝とて桜とて互いに言葉を掛けられずに佇む他になかった。それだけ考えたくなかったのである。

 その瞬間を頭に思い浮かべるだけで胸が締め付けられ、 虚心にも切なさだけ溢れんばかりに感情を混乱させるのである。

 現実とはさも酷なことか。

 それから二人はしばらく押し黙ったままであった。いつしかお茶の湯気さえも霞と消えてしまった。

 そんな頃、救世主たる人物が気まぐれにも姿を現したのである。

「二人してなにしてんの?」

 眉間に縦皺をつくって景が言う。

 密会……?。と言及すると。

「ちっちがうわいっ!薪拾いだっ!」

 背負い子に積まれた柴や槇を指さして言う勝。

「薪拾いねぇ。じゃあなんで桜はたかが〝薪拾い〟にお洒落してるわけ?」

 乙女ゆえに桜の格好には気になるのである。薪拾いなど汚れ仕事であるにもかかわらず、明るい色の上着にカチューシャまで……景からすれば疑いどころ満載なのであった。

「勝ちゃんが喜んでくれるかなって……」

 水筒を弄びながら、背中越しに言う桜。

出し抜かれたわ……。っと景は勝達の後方にあるベンチへ乱暴に座り込むと、

「部活さえなきゃ……」

 溜息と共にそう吐露して項垂れた。

「まぁ、一緒に住んでんだもんねぇ。悔しいけど」 

 続けて諦めた様に景は言うと、靴の紐を解き始めた。

 景の言動に顔を見合わせる勝と桜。

 新しい靴の紐は馴染んでおらず、解くのさえ困難な様子であり、その様子を見ていた勝は、少し考えてから、

「景。それって……」

 景が脱いだ靴に顔を寄せて勝が呟いた。

「にひぃ。スパイクよっ!」

 「「おぉ」」っと勝と桜二人して、新品のスパイクに視線を釘付けた。

「部活終わって家に帰ったら届いてたのよぉ。だからっ自主トレもかねて、スパイク履いて山登りしてみたってわけ」 

 鼻高々と景は淡々と語る。嬉しくて自慢したい気持ちがありありと前面に出ていた。

「すっげぇなぁ」

 野球道具憧れる勝にとって、スパイクはまさに憧れのまた憧れである。野球部を除き、友人とて所詮はグローブ止まりであり、スパイクなどと言う至宝を足に空き地を駆ける姿はない。

「触ってもいいか?」 

「別に、そんな大層なもんじゃないわよ」 

 素足をばたばたとさせながら、「大袈裟よ」と微笑む景。

「これで踏まれたら痛そう」 

 勝が手に取ったスパイクの裏を見て桜が表情を歪ませた。靴裏には銀色に光るの歯が何本か並んでいる。

桜の発言に思わず、足を踏まれた想像をしてしまった勝は、

「ほんとうだな……」

 と桜の方を向いて声を詰まらせる勝だった……

「それにしても、今日は部活早いんだな。いつも一日やってんのに」

「そうなのよぉ。監督が入院しちゃってさぁ。毎日午前中だけ走り込んで終わりなのよねぇ」

 頭を抱える格好をして「練習になりゃしない」と続けた。

「腹痛でか?」

「うーん、盲腸……って……腹痛だと思うけどさぁ」

 腕を組んで首を左右に振る景。『盲腸』とは未だ勝と景の認識は『腹痛』の域を脱して居なかったのである。

「盲腸って……お腹切らないといけないから、腹痛じゃなくて、大変な病気だと思うけど……」

 うーん。と考える景と勝の横から桜がそう静かに言った。

「うっそぉ……」「それほんとか……」

 『お腹を切る』その言葉に幻滅した二人は声を揃えた。

「本当。お父さんが昔、盲腸で手術したって。お腹に傷もあったもの」

 むぅ、と景は自分の腹を押さえて声を漏らした。

 はたして想像出来るはずがない。腹を切開せねば治らぬ病などと……あわよくばそのような悪病に関わりない一生を切望する二人であったが、それは誰とて同じであろうと思いなおした。

  景の『脱 球拾い!背番号獲得試合』のことや、試合が終わった後三人で遊ぼうと朗らかな陽気に似合った会話で盛り上がった三人は、水筒の中身が空になったところで下山することにした。

 先頭を勝が歩き、続いて景。桜がしんがりとなった。背中に重りを背負った勝は自然と足取りが速くなり、途中何度か振り返りながら、登って来た山道を下った。

 その内、休憩を求める桜の声が聞こえ、二度ほど休憩をとった。しかし、求めた本人である桜は随分と涼しい表情でおり、むしろ座り込む景を心配している様子であった。

 事態が動いたのは丁度神社の境内まで来た時であった。

「勝ちゃんたち先に帰ってて、私少し休んでいくから」

 と額に脂汗を浮かべて景が階段へたり込んだのである。

大丈夫……?、と傍らへ腰を降ろす桜。

「景ちゃん足が痛いんじゃないの?途中から歩き方おかしかったし……」

「景。靴脱いでみろ」 

「もう、大袈裟ねぇ。大丈夫だって」

 気丈に振る舞うも額にへばりついた前髪からして、大丈夫ではない。

「勝ちゃんいいってば」

 勝は背負い子を階段へ立て掛けると、嫌がる景を尻目に靴ひもを解き、強引にスパイクを脱がせた。

 痛っ。その瞬間に顔を歪める景。

「お前な」

勝は景の足を見ると、呆れて溜息をついた。

 景の踵には大きく皮が剥がれ出血していたからである。俗に言う靴擦れであった。

「よく我慢できたね。すごいよ景ちゃん……」

両踵に痛々しく除く肌色以外の色に桜はポケットからハンカチを取り出すと、出血の多い右踵へ優しく巻いてやった。

「ありがと桜」

 気にしないで、と桜。

「ったくよ」

 その隣では悪態をつきながら、勝が背負い子に固定してあった針金を解いて柴やら薪やらの束を乱暴に砂利の上に転がしていた。

「ほら、乗れよ家で手当してやるから」

  軽くなった背負い子を背負った勝は、そう言うと景の前にしゃがみ込んだ。

「いいよ、少し休んだら歩けるし、第一恥ずかしいし」

 両手を顔前でぶんぶんと振って拒否する景。

 しかし……

「明日練習できなくなったらどうすんだ。父ちゃんに良いとこみせんだろ。だったら恥ずかしいとか言ってんな。さっさと帰って薬塗って治せ」

 勝は景の言葉など意に介さず本気であった。

愚昧なことをしたものだ。勝の言葉が突き刺さった景は「うん」と背負い子に乗ることにした。自分の為にスパイクまで買ってくれた父や朝早くから夜遅くまで働いてくれている母に報いる為にもなんとしても背番号を手に入れる。そう志を固めたはずだった。しかし、一時の感情に流され、目標を一瞬でも見失ってしまった……なんと情けないことだろうか……

 勝の言うとおり、恥ずかしいなどとそんな戯れ言を吐いている場合ではない。勝とて掲げる目的と行動の矛盾にさぞ腹を立てただろうと、景は項垂れて溜息をついた。

「お前頑張り過ぎなんだよ」

 しかし、次に景にかけられた言葉は意外であった。

「えっ」

「足が痛いなら痛いって言えよな。別に俺たちは急いでるわけでもないんだから。それに、練習だって、一人でしないで俺達にも手伝わせろよ。俺達、友達だろ」

 勝の表情は窺い知る術はなかったが、きっと顔を赤らめているだろうと景は嬉しくなった。

「景ちゃんよかったねっ。私も練習手伝うから」

 そんな景を覗き込むようにして言った桜。

わぁっ、景は視線に突如現れた桜にたいそう気の抜けた間抜けな顔を見られただろうと、景は背負い子の上で手足をじたばたとさせた。

「暴れんな、ただでさえ重いんだから」

「女の子に向かって重いなんて失礼でしょ」

 むくれた景は勝の頭を何度も叩いた。

「いってぇなっ。重いもんは重いんだっての。でか尻っ!だから足が遅いんだろ」

 叩かれた腹いせにと少々言葉に毒を織り交ぜた勝。

勝は忘れていたのだ、背負い子で身動きが取れないの景の他にもう一人乙女がたことに……

「勝ちゃん言い過ぎっ!景ちゃん可哀想」

 横に並んだ桜は、強い口調で勝に顔を近づけた。

 桜は怒った顔とてこれいかに……またひとつ桜の魅力を発見した勝は景への暴言など、すでにどうでもよかった。

「反省してないでしょ!」

 面持ち良く桜の顔を見る勝に桜は更に怒り、手に持っているスパイクを振りかざしたのだった。

 えっ!、みるみる勝の顔から血の気がひいて行く……振りかざされたスパイクには陽の光を浴びて鈍く光る鉄の歯。『踏まれたら痛そう』そう言った桜の言葉が鮮明に脳裏を過ぎる……そして、思った……『殴られた方が痛いに決まっている』と……

「ちょっ、ちょっと待った桜っ!。それは死ぬって!」

 駆け出す勝。 

「問答無用っ!」

 追い掛ける桜。

「勝ちゃん、落ちるって吐くってっ!」

 赤べこの様に首を忙しなくと揺らしながら景が絶叫する。

「桜に言えよっ」

「駄目よ景ちゃん。同じ女の子として許せないもの!」

 桜はどうしてもスパイクで一撃天誅を加えなければ気が済まない様子。

「だぁーかぁーらぁー。私は乗り物酔いするのよぉおおっ!」 

景をそっちのけて怒りの砲口を勝へ向ける桜はもはや赤色に狂う闘牛である。逃げる勝とて、剣を忘れて闘技場の舞台へ立ってしまったマタドールよろしく永遠と逃げ続けは必定なのである。

 果たして景の運命やいかに。


      ○


 翌日の昼過ぎ、有言実行と桜と勝はグローブとボールを持って階段で佇んでいた。すでに軽くキャッチボールを終えての小休止である。 

「お待たせ」  

 景がかちかちと靴を鳴らしながら、境内へ入って来た。

「へぇ、桜グローブ二つも持ってるんだ」 

 勝と桜が携えるグローブを見て、景が感心する。

「これお父さんのなの」

 と桜。

「さっさと始めようぜ」

 久しぶりに出来る野球に勝は肩をぶんぶんと回し、意気込みを見せつけた。

 肩慣らしと、三角形に広がった三人は時計回りにキャッチボールを始めた。

 その記念すべき第一球目は勝の手の中に。勝は大きく振りかぶるとグローブを構える

桜へ向けて、全身の力を込めてボールを放った。

 その瞬間に桜は手を頭にやり、グローブを頭に被せるようにして、階段の方へ逃げた。

 カタパルトから放たれた石のように放物線を描いて飛んで行く白球は、例の如く床板とドブ板を華麗に踏み抜き、ものの見事に角燈に命中した。

 無惨に地面に落ちた角燈は波線を四散させ、それは目も当てられない状態となってしまった……

「あーあぁ」

 一球目からの大暴投である「勝ちゃんのノーコン忘れたわ……」と出鼻をくじかれた景は、肩を落とした。

 そもそも桜は戦力外の予定であり、頼みの綱であった勝もこの有様。こんな調子で満足な練習ができるはずがない。精々ノックが関の山である。

 桜は迅速に角燈へ駆け寄ると。目立つ残骸を勝に習って熊笹の中へ放り投げた。

 うわぁ、と桜の暗黒面を見たようで景は思わず声を出してしまった。

「桜も結構……わるよね」

「見つかんなきゃ大丈夫だって」

「そう言う問題じゃなくってさ」

「勝ちゃん、力んじゃだめっ」

 桜はボールを拾い上げてから、唇を尖らせて言った。

「わりぃ」

 勝は土産でもらった野球帽を取ってそう返事した。

「桜も力まなくていいわよぉ」

 景はほいほいっと、桜の山ボールを予測し幾分前進してグローブを構えた。

 それを見た桜は、すでに温まっている左肩を何回か回すと、最速投法の構えに入った。

 大きく振りかぶり、スカートゆえにやや低めに上げた左膝。

 景は『まさか』と心中で思ったが、所詮はこけおどしだろうと、判断を誤ってしまった。後ろに捻り上げられる肘は肩よりも高く、なんと理想的なフォームだろうと景は思ってしまった……

 一瞬の躊躇……

『出来るはずがない』部活動にも従事していない桜が『出来るはずがない』。むしろ『できてたまるか』と毎日練習に明け暮れる景は思っていた。

 だが、桜の手から放たれた白球は流星のごとくに一線を描き、気が付いた時には景の目の前に迫っていた。

「わっ」 

 景は何とかグローブに収めたものの、反応が遅れた分無理な体勢で捕球した為に尻餅をついてしまった。

 信じられないと言った表情で桜を見た景。

 桜はまるで挑発するかのように、グローブに右手拳を数回叩き付けて見せた。

 明らかなる宣戦布告である。

 景は目元を痙攣させると、「景ほら早く投げろよ」と言う勝を完全に無視し、距離を取ると、ボールを右手で握り締め桜に突き出して見せた。

 それは偏執的衝動にも似ている。ソフトボール部に所属汗を流しての鍛錬を重ねる景にとって、自負すべき誇りがそれを見逃すわけにはいかなかったのである。球技部に身を置く上は負けられぬ戦いなのある。 そして、桜と同じ最速投法にてお返しとばかりに渾身の力で投げ返したのであった。

 そんな応酬が勝そっちのけで何度かあったが、互いに一歩も譲らず結局勝敗は決するに至らなかった。

 当然、勝は面白いはずがない。力を押さえて投げればグローブにめがけることができるのである。初っ端からだい暴投を披露したことに桜と景が怒っているのかとも思ってみたが、両者の闘争心を勘ぐりただ、自分がのけ者にされているのだと悟った。

「なぁ、ノックしようぜ」

 呼吸を荒げる、二人を尻目にバットを手に素振りを始めた勝が提案した。

 丁度頃合いだろうと、桜は景の後ろへ駆けて行き。ようやく、勝が練習へ参加することができたのである。まだ潰れた肉刺が痛んだが、包帯をしっかり巻いている限りは悪化することはないだろう。

 勝は両手につばを吐きかけて、気合いを入れると前回同様、終始全力でバットを振り抜いた。

 途中景の髪ゴムが切れ、一時中止を挟んでから、ノックが続けられその次は景のたっての希望で、本番さながらの対戦形式の練習をすることとなった。バッター勿論景であり、ピッチャーは桜が務め。残るキャッチャーを勝が担当した。

 三者三様、額に汗し、衣服を泥まみれになるまで練習に打ち込む。

 夕日が顔を出し始める頃、桜と勝は階段に腰かけ腕立て伏せやら走り込みなど、自主トレーニング行程をこなす景を見ていた。

「景ちゃん毎日こんなに練習してるんだね」

 私もうくたくた。っと桜が続けて言った。

「俺は腹が減った」

 腹の虫を鳴かせて勝が階段に背をもたせる

 私も、と桜もお腹を押さえて言った。

「今日の晩飯なんだろうな、椎茸の煮物はやめてほしい」

「勝ちゃん、椎茸嫌いなの?私大好きなんだけどな」

 肉が食いたい……。呟く勝であった。


       ○


 直向きな努力こそ明日への栄光へと繋がるのである。先人は言った『努力の道は全て栄光へ通ず』と。

 後悔をせぬように後腐れのなきように、三人は連日境内にて爛柯【らんか】として鍛錬に勤しんだ。

 しかし、練習を重ねども景の不安は杳として晴れなかった。練習にも量にも限界があり、果たして己の技量向上に役立っているのか?毎朝起きては母が用意してくれたささやかな朝食を一人で食べながら景は物思いに耽るのである。

 しかし、練習着に着替えるなり先見で憂うのは凡愚の所行であると、不安を散らす為に一心不乱にグランドで走り込みをするのであった。残った疲労感だけが、充実感が唯一景の後ろ向きな心胆を和らげてくれた。

 夕焼けが沈む頃、景は決まって勝の家で風呂に入り夕餉を共にしてから家に帰る。家のドアを開けると夢から覚めたような気持ちになった。『お帰り』と言ってくれる人のいない家の中は不気味なほど静謐であり、電気をつけたとて明るくしたとて、それは何ひとつ変わらなかった。

 景は決まって家中の電気をつけてから、居間で母の帰りを一人待つのである。

 勝の家には咲恵がいて桜がいて。一時であってもととも温かくて賑やかで……ゆえに景は照らす電球にの光が冷たく感じるのであった。

 

      ○


 その日、庭の畑への野菜の種まきでいつもより遅めに境内へ到着した勝と桜は、丁度良い頃合いに景がやって来るだろうと、キャッチボールを始めていた。

 連日の投げ込みで桜の投球には今ひとつ力がなかった。

 だが、コントロールには磨きがかかっている。それを言うなれば勝とて、同じである。

 全力投球に後一歩まで迫っているのだ。とは言え、肉刺が治らぬうちにバットを振るのである、いかに包帯を巻こうとも握力の限り白球を握ることはできなかった。

 それはさておいて、景はそれでも現れなかった。本来ならばキャッチボールを終えてノックをしている頃合いだろう。

 主役を欠く二人は、どうしようもなく汗ばんだところで休憩することにした。

「景ちゃん遅いね」

「居残り練習でもしてんのかもな」

 上着を脱いでシャツ一枚となった勝が言う。

「もう勝ちゃん」

 顔を背けて言う桜はカーディガンを脱ぐに止まった。

 しばしの沈黙、風の音と潮騒が静寂を良しとしなかった。別段話題もない。確かに勝は気がかりなことはあった。

 だが、それは口に出すのは避けたかったのでる。真相心理において桜の機微を知るのは恐れ多く、そして、熟論を交わすのさえ自虐的なのである。いかに激論を交わそうとも得心など得られようはずもなく、仮に残酷な真実へ辿りつこう物なら即座に愚昧蒙昧との奈落へ飛び込む覚悟であった。ただでさえ常日頃は烏兎匆々【うとそうそう】と春休みとてすでに折り返しているのである。あまつさえその時は刻一刻と確実に堅実に迫り来ている。ことさら怯えはしなかったが、考えると自分の無力を改めて突き付けられたようでやりきれない気持ちになるのだ。

「ねぇ」

 桜に心中を見透かされたようで勝は思わず顔を上げた。

「なんだ」

「漢字の試験、どうして見なかったの?」

 そんなこともあったなと勝は、ほっと胸をなで下ろした。

 『ブス事件』の日に行われた漢字試験はさぞかし担当教諭は採点が楽だったろうと、勝は思った。なにせ、適当に書き殴った象形文字とお粗末な自作漢字がぽつぽつと枯れ木も山の賑わいと回答欄に並び、後は虚しくも空欄なのである。未だ母に見せていない惨憺たる通知簿に荷担したことは明白であろう。

「そんな卑怯なことができるか」

 とは言え、己の内に潜むいじましい道化に怯まず、内発的自爆を持って己の誇と尊厳を守り通した点では、ささやかな自己満足なのであった。

「机に書くのも卑怯だと思うけどな」

 桜は唇を尖らせて言った。その横顔は繊細微妙な乙女心に憂いを配合した趣のある横顔であった。阿呆男は油断している、百度の戦いに敗れてなお、一度の決戦に勝利した男はまさに隙だらけであり、今晩にでも常備菌などに日和見感染してしかるべきである。

「あれは自分で書くからいいんだ」

 ぶざまな言い訳である。

「やっぱり、ずるっこだよ」

「じゃあ、なんで桜は、俺に答案見せようとしたんだよ。見る方もずるっこなら見せる方もずるっこだろ」 

 踊る阿呆も見る阿呆も同じ阿呆に変わりない。あながち逸脱していない主張である。

 しかし、いかに不正を肯定しようと足掻いた所で土石流を遡上しようと藻掻くに等しく、所詮、不正と言う黒にどれだけ色彩にを加えようと黒は黒なのである。

「朝のこともあったし、机に書いてて先生に見つかったらそれまでだもの、答案を見るだけなら、跡も残らないし」

「でもさ……俺の答案と桜の答案が間違ってるところが一緒だったら、ばれるんじゃないのか?」

 素朴な疑問である。

 あっ、と桜は間の抜けた声を出したが、

「私、満点だったもん!」

 取り繕う様に桜は言ってから頬を膨らませ「ちゃんと勉強してるもん」と続けた。

「キャッチボールしようぜ」

 ささくれだった心を静めるべく、勝は大きなあくびと共に立ち上がった。

 うん?、涙を擦りながら鳥居をくぐって来た人影を見つけた。

 その少女は肩につくか否か微妙な長さの髪の毛を後ろでひとつに束ね、中央で分け、まるで背を向け合った円月刀の様に反った前髪は頬にかかっている。野球部を思わせる練習着にバットとグローブを携え、胸元には『竹下』と名字が縫い込まれていた。

「景っ!髪どうしたんだ!」「景ちゃんっ!」

 勝と桜は遅れてあらわれた景のもとへ駆け寄った。

 見事に腰元まであった黒髪は姿を消していた。

「誰かにやられたのか」

「いや、そう言うんじゃなくって……ね……」

「ガスで焦がしちゃった?ちりちりって……」 

 言及はともかくとして、桜も切実な眼差しで景の心中を察していた。 

「その、私も気合いを入れたのよ」

「「気合い?」」

 桜と勝は声を重ねて互いの顔をみ見合わせた。

「みんな頑張ってくれてるのに、なんか私だけ気合いが足りないなぁって、ほら、練習中も髪の毛が解けてたでしょ。試合中は結ぶ時間待ってくれないもん」

「あぁ……」 

 景の言う事は勝や桜が思い描いた原因よりも、よっぽど論理であった。

「だからねっ。誰にやられたわけでも、ガスでちりちりになったわけでもないの」

「ならいいけど……」 

 得心はいったが、妙な歯切れの悪さを勝は感じた。

「さぁっ!練習しましょう!今日は髪を切ってもらってたから、遅くなっちゃったしね」

 身装こそ練習着であったが、髪型が変われば少女の印象が変貌しないわけがないのである。新鮮な景の姿に勝は違和感を感じずにはいられない。どうしても、景の髪へ視線が行ってしまう、とても集中などできようはずがなかった。

 桜とて勝同様に、浅薄な理由で景が数年越しに蓄えた髪の毛をひと思いに切ってしまうだろうかと、友愛にも景の心胆へ迫ろうと熟慮をかさねるもこれには遠く。かと言って、これ以上の言及は勝との不文律であった。

「よしっ!」

 砂利に触れて軌道を変えたボールを景が横っ飛びでグローブに収め、勝ち鬨をあげた。友人二人が見守る中景は、快哉であると会心の笑みを浮かべていた。

 杞人憂天であろうかと、練習に打ち込んでいく間に勝と桜も考えない様にした。家に帰った後、咲恵を交えて話しをすればやがて明らかになるだろうと思ったのである。 

 さすがに持久戦ともなれば、日々鍛錬のかくありきが差となってありありと鮮明に出てくる。連日の練習に桜と勝の体にも疲れが溜まってきているのだ。

 痛みもなければ倦怠感もない。しかし、明確に調子が悪いのである。勝は空振りをする回数が増え、桜も明らかに投球の冴えが失われている。

 ゆえに今日は実践練習の際、ノックのごとくほぼ全球桜の頭上を越えて行った。それらと比較するなら、景の持久力たるや断然ぬきんでていると言えよう。

 それこそ日々鍛錬の賜なのである。

「景……?」

 二人して階段で休憩し、景の走り込みを眺めていたのだが、突如景が砂利の上に倒れ込んだ、仰向けになって何かを必死に我慢している様子である。

 勝が疑問符を浮かべてのんびりとしている傍ら、その光景を見ていた桜は無言で立ち上がると、景の元へ駆けよっていた。

「勝ちゃんはつま先押してっ!」 

 桜は後から駆けつけた勝にそう言うと、景の膝を両手を乗せ体重をかけて膝を伸ばしていた。

 おう、勝は言われたまま、つま先を押すべくスパイクの裏に手の平をあてた。丁度鉄の歯が手に食い込む形となったのは、この際諦める他あるまい。

「これでいいか」

「うん」

 桜の表情は真剣そのものである。

「ありがと、楽になった」

 ふぅ、と行息をついた景は、桜に肩を借りて階段まで行くと、全身の力が抜けたように崩れ落ちた。

「助かったぁ」

 ふくら脛をさすりながら景が言う。

「捻ったのか?」

 どうやら違うであろうと、見当はついていたが……

「痙攣よ。前にも部活中にあったの、その時は監督に伸ばしてもらったんだけどね。まさか桜が知ってるとは思わなかった」

「ありがとね。桜」と続ける景。

 頷く桜。勝は今ひとつ要領を得ていなかった。

「景ちゃん疲れが溜まってるんだよ」

 かもねぇ、と景は項垂れた。

「なんか損した気分」

 桜の助けを得て、重傷化を免れた景。しかしまだ走り込みは道半ばであり、最後まで練習をやりきれなかった後悔の念は否めなかった。

 しばらく石段に腰を置いて、足をさすっていた景は、眼前でキャッチボールを行う勝と桜の姿を見ながら何度となく溜息をついた。

 だが、不幸の後には必ずちょっとした幸福が訪れるものである。それを人生の妙味と思索するは阿呆か夢想家の類であったが、景にとっては無論そんなことはどうでも良い。

 結果として幸福が訪れたのだ。

「ほら景、おぶってやるよ」

 今一度記す。景は桜による的確かつ早期の処置によって、重度化は免れたのである。

 しからば帰路を歩む程度であればなんら支障はない。

「歩けるから大丈夫よ」

 と言いつつ……

「いいから」

 と言う勝の言葉待ってみる乙女心。

 景は桜の顔を見やると、桜も微笑みを浮かべて頷き「靴は私が持つね」と言うのだった。

 じゃあ。と景は勝の背に身を任せる事とした。

「服汚しちゃったね」 

 勝の背中についた泥を気にして言う景。

「別に良いよ、洗うの俺じゃねーし」

 後で咲恵に謝っておこうと思う景であった。

 思い出とはかくも過去を彩る。幼少のみぎり、膝を擦り剥いた景は今回同様、勝の背におぶられて家に帰った。あの時はただ泣いていた記憶が朧気ながら残っているだけである。より鮮明と言えば、最近、背負子でおぶられて帰ったことであろうが。

 ただ、とても安心できたことだけは忘れず、肌身に残っていた。いささか恥じらいが先立も、やはり、幼少の記憶は偽りではなかったと景は、背中に額をもたせた。

 勝の背中こんなにが大きく頼もしくなっていたなど、気が付きもしなかった……

「明日俺たち釣りに行くけど、景も来るか?」

 そうだ、と勝が思いついたように言った。

「行こっかなぁ。明日部活休みなのよねぇ」

 景は満更でもない。っと背番号争奪戦前、最後の休日であることを明かした。

「おっ、そんじゃ行こうぜっ」

「景ちゃん行こうよっ!」

 思わせ振りは時として大罪となる。

「休みは本当だけど、ごめん。練習しなきゃ……」

 冗談でも口走ってしまったことを景は深く反省するのであった。

「んだよぉ。嘘つき景」

「嘘じゃないもん。行くって言ってないでしょー」 

 景は握り拳をつくって勝の頭に近づけ殴る真似をして見せた。

 傍らを歩く、桜はそれを見て含み笑いをした。桜が笑うので景は楽しくなって、それを何度となく繰り返していたのだが……

「そうだっ」

 っと不意に勝が頭を上げ時は、不可抗力であると景は全力で弁明したかった。

 いってぇっ!。勝が唸ち声をあげた。

 景の拳に勝が頭を打ち付ける形で交差したのである。

 うそ……、景はぽつんとそう言うに止まった。

 予期せぬ出来事に咄嗟に気の利いた言葉など出てこようはずもない。景は拳に残る感触を無視して「わざとじゃない、わざとじゃないのよっ!」っと堰を切って釈明を試みる。それと同時に、勝がさすれない代わりに景が勝の頭を一心にさすった。

「ったく、暴れんなっ。ただでさえ重いんだから」

 憮然として言う勝。

 言葉に幾ばくかの棘があるのは致し方ないと景は納得した。むしろ喧嘩にならなかっただけで良しするべきであろう。

 しかし……

「勝ちゃん女の子のそんな言い方ないと思う」

 意外な所に飛び火してしまった様子である。

まぁまぁ、と景。

「いや、桜、私気にしてないから」

 言われた張本人を飛び越した火種は、桜の顔に皺をこしらえていた。景は嫌な予感がした。先日も同じ様な経験をしたからである……既視感すらある。

「本当に重いんだぜ、景少し肥えたか?」

 悪戯な笑みを浮かべながら、戯れと勝が言う。

「ちょっと傷つくなぁそれ」

 これに対して景もささやかな反論を試みるも、心ここにあらず、景は密かに劫火を宿す桜の動向が気になってしかたなかった。

「勝ちゃん!酷いよっ、毎日運動してる景ちゃん太るわけないでしょ!」

 ついに噴火してしまった。

「だから桜……」

「景ちゃんは黙っててっ!勝ちゃんが悪いんだから!」

 景の言葉を遮って桜は勝の前に踊り出た。

「桜なに怒ってるんだ?」

 首を傾げる勝。

「景ちゃんに謝って」

「何で」

 唇をきゅと結んだ桜は徐に右手に持っていた、スパイクを振りかざした。

「あの……桜……それ死ぬって……」

 先日の再来……顔から血の気が引いて行く勝の背では景が再び今後待ち受けているであろう厄難を予見し、顔面を蒼白とした。

 夕陽に照らされて、鈍く光る鉄の歯は猛獣牙の如く、それを手に持って殴りかかろうなら、明確な凶器以外のなに物でもない。

 桜の横をすり抜けるよにして駆け抜ける勝。

荒波にもまれる笹舟のごとく景の首が縦横無尽と振れる。

「勝ちゃん私乗り物酔いするんだって」

 景はすでに胸の辺りに産声をあげつつある、嘔吐感に一抹の不安を抱えて抗議してみるも、「桜に言えって」背に腹は替えられまい。勝は景をおぶったまま風のように走る。後ろには鬼婆のごとくに凶器を振りかざした桜が追随するのである。

 背負子よりも随分と揺れは酷い。景は無我夢中で勝の首にすがりついたが……

「もぉーっ。私吐いちゃうってばぁああっ!」

 勝が走り続けるかぎり、景が救われることはないのである。

 追う者と追われる者。依然として構図を変えない二つの影。海岸線に景の切実な叫び声が永遠と木霊していた。


      ○


 夕餉を前に順番に風呂に入った景と勝はさっぱりした様子でテレビ観賞に勤しんでいた。ブラウン管には、白熱した野球の試合が投影されている。

 一球一球に声をあげる勝に比べると、景は随分と控えめである。

「やっぱ後悔してるんだろ」

 毛先を指で弄びながらもやはり物寂しげであった。

「ちょっとね。首の後ろもなんか寒いし」

 乙女が黒髪を切り落としたのである。哀愁のひとつ零してこそ道理である。

「俺は短い方が好きだな。うっとおしくなくて良い」 

 うんうん、と頷く勝。

「嘘つき。長い方が似合ってるって行ったくせに」

 口先をアヒルの様にして言う景。

「んなこと言ったか?」

「言ったわよ。でもありがと」

  嬉しい、っと景はラクガキの様な笑顔を見せるのだった。

 ちゃぶ台には着々と夕餉の準備が進められていた。今晩の献立は菜の花の胡麻和えと、大根の味噌汁に鯖のみそ煮である。

「景ちゃん明日お休みなんですってね。勝君達と魚釣りに行ってらっしゃいな」

 白飯を詰めた櫃を抱えて来た咲恵が正座しながら景に話しかけた。

「でも練習しないと、試合も近いですから」

「だからこそ、しっかり休憩と気分転換をしなきゃあ。最近、景ちゃんが部活動ばっかりで、相手してくれないって、勝君も寂しがってるのよぉ」

 景はすぐさま勝の顔を見やった。

「ばかっ、んなこといつ言った!」

 顔を赤面させて言う勝。

 そんな勝を見て景は溜息を一つ落とした。

「でも……やっぱり……」

 と景は指を絡ませながら視線を俯けた。

「じゃあ、ちょっと昔話」

 と咲恵が言うと、景と勝に向き直って話し始めた。

「私が景ちゃんくらいの時のお話」

 咲恵の両親はそれぞれに忙しい身であり、咲恵に対しては暇を見つけては無類の愛情を注ぐ反面、学校行事に姿を現すことはなかった。

 子どもながらに両親の多忙ぶりを心得ていた咲恵は、決して文句を言うことはなかった。しかし、友人などは両親に晴れ舞台を見てもらえるのである。子供心に内心羨ましかったことは言うまでもない。

 そんな日々において、好日が訪れる。なんと体育大会に両親が揃って観覧に来ると言うのである。無論、咲恵の喜びようたるは盆と正月が一度にやって来たそのほかになかった。

 咲恵は両親の前で有終の美を飾るべく。走って飛んでと練習に余念がなかった。

 一日とて無駄にはすまいと、休日も早朝から走りに出、昼は学校のグランドに通った。ただ、雨の日はどうしようもなく、練習の出来ない憂鬱と不安を胸に窓の外を眺めるのであった。

 大会が迫るにつれ一日、一時間、練習が減れば減るだけどうしようもなく不安を抱くようになり、誰かに抜かれてしまうのではないかと払拭できない思いは、咲恵を雨の降りしきるグランドへと向かわせたのである。

「それで、一等取れたんですか?」

 景は身を乗り出して咲恵に尋ねた。

 まさに今自分自身が置かれている立場、心境と酷似しているではないかと、事の結末に興味を抱いたのである。

「それがね。体育大会当日の朝に熱を出してしまって、お休みしてしまったの。無理をして練習したのがいけなかったのねぇ。お昼頃には高熱になって歩くことも出来ないくらいに……両親には心配をかけてしまって、後悔したけれど後の祭り」

 その切なさを口元を綻ばせて語った咲恵。しかし、その眼には未だ後悔の念を物語っていた。

 えぇ……。と景は顔色を青ざめて、ゆっくりと姿勢を戻した。

「だから、景ちゃん。休める時にはしっかり体を休めなさい」

 岐路に立たされている。そう悟った景は悩んだ。咲恵の話を聞く限り休んだ方が良いに決まっている。だが、自分が軽佻浮薄に釣り糸を垂れている間に、対抗者達は一心不乱に鍛錬に励んでいるかもしれないのだ。

  咲恵はそれ以上何も言わなかったが、景の機微に触れ窺い知る様子であった。

「そういや、景と遊ぶの久しぶりだよな。去年は家にも来なかったもんな」    

 少女の葛藤の狭間。勝はふっと思い出した様に呟いた。

 だって、と景は言いかけて途中でやめた。

 勝は男子であり景は女子なのである。今更は大袈裟に考え過ぎたと思うばかりであったが……一年前は恍惚の境地、と真剣に考えていたのである。

「明日、釣りに行く。しっかりと休みます」 

 忙中閑あり。玉響【たまゆら】の気散じには丁度良いだろう。とは言え、不安などは一向にに晴れやしなかった。

 しかし、勝の言うとおり景は幼なじみと遊ぶのは一年ぶりなのだ。

「でもなんで釣りなの?」 

「私が勝ちゃんにお願いしたの」

 と桜が髪の毛を拭きながら居間へ入って来た。

「お父さんも釣りしないから、私もやったことなくて」

 ちゃぶ台の上、櫻の花弁が描かれた茶わんの伏せられた前に桜は腰を降ろすと、なんだか楽しそうにそう話すのである。

「お弁当持って楽しんでらっしゃいな」

 桜が揃ったところで、咲恵はそう言ってから「さぁ夕餉にしましょっ」とお櫃を開けると、炊きたての白米から仄かに甘い香りが広がった。


      ○


 別段、釣りに行くことなど勝からすればなんら珍しくない。暇を持て余すようならば毎日と行くぐらいなのである。

 ゆえに明日、釣りに行くからと言って意気込むこともなかった。

 しかし、終始夕餉の席で興奮気味に明日の魚釣りについて語る桜を見ていると、老婆心にも道具の手入れをやら仕掛けの準備やらをしなければと勘違いな使命感に苛まれるのである。

「竿って長いんだね」

 土間を望む板間で作業をしていると寝屋の手伝いを終えた桜が興味津々と駆け寄って来た。

「結構重いから、桜のはこの短めのやつな」 

 手入れを終えた竿を桜に手渡すと、「おぉ」と目を丸くして桜は言った。積極的に釣り具に触れる桜、はじめて目にする仕掛けには特に興味がある様子であった。

「ねぇ餌は?」  

 空のバケツを覗いて桜が言う。

「明日、取りに行く。穴場しってんだ」

「私も手伝うね」

 と意気込む桜だったが……

「気持ち悪がってたあの虫だぜ?」

 あっさりと言う勝。

「うにょうにょ……手袋すれば……うぅ……」

 桜は目を閉じて顔色を悪くした。

「桜ちゃんはお弁当手伝ってねぇ」

 助け船とちゃぶ台を拭いていた咲恵がそう言った。

「そうしろって、一人で大丈夫だし」

「うん……ごめんね」

 申し訳なさそうに言う桜であった。

 緩やかに過ぎていた時間。カーディガンを編み上げた咲恵は、戸締まりを確認すると、桜や勝と同時刻に寝屋へ入った。

 勝はすでに布団に入り、蹌踉【そうろう】と心地よい睡魔に身を任せようとしていた。一方の桜は、枕元に座り床に入る前に櫛で髪の毛をときほぐしていた。

 そんな二人を順番に見てから、咲恵は自分の布団の上に正座して見せた。

 げっ。と勝は蛙の鳴き声のような声をあげ、威厳を放つ母の前に飛び起きると姿勢を正した。それを見た桜も慌てて勝の隣へ駆け寄ると姿勢を正し座する。

 二人は生唾を飲んで咲恵の言葉を待った。

 蛇が出るか鬼が出るか……

「景ちゃんの髪はお母さんが切りました。大切な試合が近いことも聞きました。泣いていなかったけれど、胸の中で泣く声を聞きました。景ちゃんは髪を切って、女の命である髪の毛を切って、覚悟を見せてくれました。お母さんは今日から試合が終わるまで、精一杯景ちゃんを応援すると決めました!」

 二人を前に咲恵は轟々と燃える火炎を瞳に宿しそう宣言した。

 ぱちぱちと桜から拍手が起こる。

 なにかと思えば……、勝は溜息混じりに呟いた。

「でも俺達、もう景の練習に付き合ってるしな」

 勝は桜の横顔にそう言った。 

「うん」

  と桜。

「ただ、景ちゃんの覚悟を知って欲しかっただけ、勝君と桜ちゃんはいつも通り練習がんばってね。そうそう、帰りに少しでも良いから薪を持って帰ってくれるかしら、今年の冬は暖かかったから豆炭も残っているし、それでお風呂の心配はないわね」

 咲恵は天井にへ視線をやると、指折り数えて言った。

「もう寝てもいいか」

 よもや隠していた通知簿が見つかってしまったのか……心中穏やかでなかった勝。

 しかし、蓋を開けてみれば何のことはない。一度は凛々と吹き飛んだ眠気も、拍子抜けと共に再び沸々と込み上げてきたのである。

「もう一つっ!」

 低い声で迫力をまして言う咲恵。

 今度こそ来るのかっ!勝は思わず眠気にかまけず、身構えた……なんとか逃げおうせる手立てはないものか……

「桜ちゃんっ!」

 桜っ?。勝は間抜けな声を出して桜に首を向ける。

「へっ」

 桜とて予期せ事態に恐慌状態である。

「今晩、お母さんは桜ちゃんと一緒に寝ます!」

 ここに咲恵は高らかに宣言した。

「えっ、あっ、はいっ」

 見る見る微笑みを浮かべた桜は、「勝ちゃんおやすみ」と言い残し足取り軽く自分の枕を取りに行ってしまった。

 咲恵をみやると、してやったりと言わんばかりの満面の笑みであった……

「勘弁しててくれよな」

 勝はそう言いながらぽてっと布団に倒れ込んだ。

 我が母ながら心臓に悪い。


      ○


 花冷えの朝。勝は鼻につく焦げ臭い匂いで目を覚ました。ねむた眼を擦りながら背伸びをする。窓から差し込む陽は弱く、畳みの上にできる日溜まりも見当たらない。

 外を見ると薄い雲が空一面、ベールの様に広がっていた。『釣り日和だ』と勝は、欠伸をしながら居間へと向かった。

「おはよう勝君」 

 居間には寝癖をそのままに、寝間着姿の母が苦笑を浮かべてちゃぶ台の前に座している。その対面には、割烹着を着た桜が俯いて座っていた。

 おはようさん。と呟くように言う勝。

 朝一番から異様な雰囲気の漂う中ちゃぶ台の上へ目をやると、真っ黒な魚のような物と、踏みつけたみたいにぐしゃぐしゃになった卵焼きが並べてあった。

 細い目をして腰を降ろした勝は文句を言う前に、起きていない頭で熟考することにした。母がこのような失態の場面に出会したことはない。それに、寝間着で食事の支度をするほど無頓着でもない。

 と言うことは…………そう言うことである。

 勝は悄然とした桜の姿を見て納得した。

「さぁ頂きましょう。今朝は桜ちゃんがつくってくれたのよぉ。お母さんお寝坊さんしちゃって」

 湯気の立つ味噌汁が配られ、いつも通り朝餉が始まった。

 この黒い物体は残すとしても、辛うじて卵焼きと味噌汁で飯が食えるだろう。勝は安直に考え、味噌汁を一口含んだ。

 それは茶色をした水であった……味が薄く、具材もない……

「うーん。もう少しお味噌を入れた方が良かったわねぇ」

「おばさま、ごめんなさい」

 桜は恥ずかしいやら申し訳ないやらで、立ち上がって深々と頭を下げた。

 丈の合っていない割烹着は桜の初々しさも手伝って、不似合いであった。世に言う『嫁姑戦争』を見ている幻想を抱くのは、多少なりとも桜との願望を持つ勝が悪いのである。

「どうして謝るの?ちょっと失敗しちゃっただけじゃないの」 

 そう言いながら、咲恵は真っ黒焦げの何かを口へ運んだ。唇を煤で黒くしながら「少し焼き過ぎかしらと」と微笑みを絶やさないのである。

 勝はその姿に眉を顰めた。さすがに、これを食えと強要されたなら、文句の一つでも言わねばなるまいと思っていたからである。

「おばさま無理しないで下さい……叱ってくれてかまいません」

 桜は立ち据えたまま神妙な面持ちでいる。

 お座りなさいな。と言いながら咲恵は桜の元へ歩み寄ると、両肩を押さえるようにして桜を座らせ、その傍らに自分も腰を落ち着かせた。

「どうして桜ちゃんを叱らなければいけないのかしら?桜ちゃんは私と勝君のために早起きして、一生懸命つくってくれたのでしょう?見た目はちょっと悪いけれど、とても愛情が籠もった美味しいお料理よ」

 咲恵は桜の髪の毛を梳きながらさらに優しい微笑みをなげかけた。

  前髪にはじめり、髪の毛が弓の様に弧を描いた寝癖のままでは、説得力に欠けると勝は思いつつ、朝起きれば朝食が用意されている当たり前の『日常』に疑問を持ったのである。

 当たり前、とはまことに厄介なものである。特別でない以上は、気にも止めなくなってしまうからだ。母が言うように、桜は母よりも早く起き出して朝餉の料理に勤しんのだろう。

 今回それが『失敗』だったがゆえに、特別なものとなった。

 だが、桜が咲恵同様にいつも通りの朝餉を用意していたとしたならば……きっと勝はなんとも思わずただ食べただろう。取り留めもない日常。しかし、その中には誰かが誰かの為に無比の愛情を注いでいる。それに気がつかず日々を過ごせるとは何と幸せなことだろうか、当たり前に洗濯された服を着て、当たり前に太陽の匂いがする布団に横になって、毎食温かい料理が食べられて……

 それに感謝ひとつせず無頓着にも毎日を過ごせるはなんと幸福なことか。

 勝はそれに気がついた瞬間、母に対して無比の感謝を噛み締めると共に、申し訳ない気持ちで一杯になった。

「失敗は成功の母です。少しずつ上手くなっていけばいいのよ」

「おばさま、私にお料理教えて下さい」  

 桜は小さく頷くと、そう言って咲恵を見上げた。

「喜んで」

 己が失態に反省し肩を落とす桜に咲恵は決して、言及し咎めることはしなかった。それが逆効果であることを周知していたからだろう。

「いただきます!」

 勝は見るも無惨な食材に視線を落とし、口元を引きつらせながらも気合いの合掌と共に、怒濤の如く並べられた料理を口の中へ押し込んだ。

 誰がなんと言おうと美味には遠く及ばず、魚だろう黒い塊を押し込んだ時にはしゃししゃりと砂を噛んでいるありさまであった。無論、これを体が良しとするはずも無く飲み込んだそばから嗚咽の拒絶行動の嵐である。これには味噌汁で流し込むしか手立てはない。

 それでも勝は着実に完食へ近づいて行ったのである。

 その光景に咲恵と桜も目を見張っていた。


 愛情は最良にして絶妙な隠し味。

 そして、空腹は最強にして劇的な調味料。

 この二つが揃いし時、この世の塵ひとつとして食えぬ物は皆無なのである。


      ○


「雨降りそうだねぇ」

 桟橋に荷物を降ろしたところで桜が不安げに呟いた。

「雨降りそうな方が釣り日和なんだぜ」

 さっそくと竿を振り出しながら勝が言う。

「そうなんだ。てっきり晴れの方が良いんだと思ってた」

 ほい。と勝は桜に竿を差し出した。

「ありがと、でも、どうやれば良いの?」

 魚釣り初心者である桜は、誰か手本になる人はいないかと他の釣り人を捜すが……偶然今日は、桜たちだけの様子であった。

「桜ぁっ、こっちおいでよ」

 竿を持参した景が自動車が十分通れる連絡橋を挟んだ向こう側から、手を振っている。

「景ちゃんに教えてもらうねっ」

 と桜は片手にバケツを持つと、慎重に景の元へ歩いて行ってしまった。

 大型フェリーの就航と相俟って板張りの粗末な造りから、鉄板を敷き詰めた頑丈な造りへと変貌を遂げた桟橋はまだ新しい。

 干潮から満潮へ変遷の途中であり、今日は潮の加減も丁度良い。このかぎりは桜にも釣果が訪れることだろう。しかし、それが勝にとって不利益に働くことを誰が想像できようか。

 勝が釣り糸を垂らした頃、さっそく桜が小さなカサゴを釣り上げて持って来た。

「見て見て、ぐぐってきたよっ!」

 嬉しそうにはしゃぐ桜であったが、どうやら魚を釣り針から外すことが出来ない様子であった。

「これじゃ食べるとこねぇな」

 勝が魚を外して餌をつけてやっていると、「そうなの?」と残念そうに桜が言った。

 それからも桜は入れ食い状態で次から次へ小物をつり上げては勝の元へ持って来るのである。別段、勝は嫌がる素振りを見せることはなかった……がっ、桜は爆釣であるにもかかわらず、自分の竿にはぴくりとも当たりが来ないのは理不尽な話しであろう。

 とは言え、これほど楽しそうに興じる乙女の姿を見るに勝とて、その手伝いをすることはやぶさかではなかった。

「勝ちゃん餌つけて」

 景がやって来た。右手を気にしているからには、魚を触ったらしい。

「自分でつけれるだろ」

「私、そのうにょうにょ無理。うにょうにょのくせに噛むのよ、信じらんない!」

 んだよぉ、と悪態をついてから、バケツにうごめく餌をつけてやった。

「ありがと」

 っと景は桜とは真反対の方向へ駆けて行った。どうやら場所を変える様子である。

 ようやく勝が竿を上げると、餌だけが無くなっていた……

 ちくしょう。勝はきれいさっぱり餌だけ奪われた針を苦々しく見ると餌をつけ直し、再び海中へ放り込んだ。

「勝ちゃん大変っ!」

 その刹那、桜が大きな声をあげた。

 勝が見やると、桜の竿が大きくしなっているではないか……「あぁ」と嫌な予感を胸に勝はとりあえず、桜の元へ駆け寄った。

 どうしたの、と景も駆けつけて来た。

「これは大物だよっ!」

 一生懸命竿を上げようと奮闘する桜。

「見てないで手伝ってよ」

 傍らでそれを見つめる勝と景に桜が言う。勝は困った顔をして頭を掻き、景に至っては笑いを堪えるのに必死の様子であった。

「あはっ、そりゃ上がらないわよ〝地球〟釣ってるんだもんっ」

 景がついに堪えられなくなり、そう言って笑い出した。「えっ?」と言う首をかしげる桜。

「岩かなんかに引っ掛けたんだよ」

 『大物』と信じて奮闘する桜には言いにくかったのだが、これ以上はさすがに酷と言うものである。

「そんなぁ」

 桜は途端に肩を落とすと、竿を握る腕をだらんと垂らした。「よくあることだから」とさっさと、糸を切って勝は新しい仕掛けを取りに帰った。

 かたや、勝には「ごめんね」と言った桜。こなた、いつまでたっても腹を抱えて笑う景に振り向くと、両手を腰へやり「景ちゃん笑い過ぎっ!」頬を膨らませて怒りを露わとし、景は「ごめんっ、でもねっ……止まんなくってっ」と涙を拭っていた。

「あんまり深く沈めるなよ」 

 と勝が戻って来た。

「あれ?これさっきのと違うよ」

 一本の針だけだった仕掛け。しかし、今度のには一本の糸に等間隔で針が幾つもついており、先端には底に重りのついた金属製の籠がついていた。

「それサビキの仕掛けでしょ」

「サビキって?」

「気にすんなって、針が多い分いっぱい釣れるから」 

 「なんかすぐに引っ掛けちゃいそう」と桜は恐る恐る海中へ仕掛けを落とした。

「へっぴり腰っ、なんでぇ」

 慎重になるあまり、桜は腰を引いた体勢で海中に視線を落としていた。

「景ちゃん笑い過ぎっ!」

 苦笑を浮かべる勝の顔を見てから赤い顔をして言う桜。

 勝は姿に幼少の自分を見ているようで懐かしかった。そう言えば、父も幼い勝と景をつれて来た時は終始、針外しや餌つけに追われ、片時も釣りを楽しむ暇などなかっただろう。と勝は回想の風景を思い浮かべた。

 真剣に竿先を睨み付ける桜を見てから、自分の場所へ戻った勝は竿を上げて見た。

 やはり、針だけを残し餌だけがきれいに食われていた…… 

「なんでだ……」

 勝はそう言って項垂れた。

 昼前になって雲行きが怪しくなり、水面の騒がしくなって来た。そろそろ本当に雨が降ってきそうである。

 桜も景に習って少しずつ自分で針をはずすようになり、勝の仕事は格段に減った。しかし、未だ勝には釣果がないのである。この桟橋では今までに数え切れないほど、釣り糸を垂らして来たと言うのに、なぜ……少し離れた隣の場所でずっと釣り続ける桜は、「やったぁ」と黄色い声をあげながら、ちょくちょく魚を釣り上げていると言うのに。

魚釣りの神様がいるとすれば絶対に不公平である。 

「そろそろ帰る?雨降りそうだけど」

 景が「餌つけて」とやって来たついでにそう言った。

「降ってからでいいだろ」

 恍惚と魚釣りに興じる桜を見て、勝は景に言った。

勝とて、魚釣りの先輩として、大物の一匹でも釣り上げて格好の良いところを乙女に見せつけたい意地もある。

「ねぇねぇ見て」

 桜がバケツを持って嬉しそうに駆けて来た。

 バケツの底には拳よりも少し大きいフグが腹をぱんぱんに膨らませて押し合いへし合いをしている。

「この魚面白いねぇ」

 膨らんだ腹突きながら桜が言う。

「フグばっかりね……」

「これあのフグ?フグ高い魚だよ?」

 一度だけ満員御礼の夜に食べたことがあるフグ。身がかたくそれほど美味しいと思わなかった桜であったが、父から高級魚であると言われ、驚いたのを鮮明に覚えている。

 そんな高級魚を釣り上げるなど、桜は咲恵の喜ぶ顔が頭に浮かび、ますます嬉しくなってしまった。

「大きくなったらね。こんな小さいの食べる人いないし、毒あるし、子どものくせに歯が丈夫で針とか噛み切るから厄介者よね」

 呆れた表情で景が一息にそう言いきった。もう少し砂糖菓子に包むことはできないのかと、勝は首筋を掻いた。

 餌の無駄ね、と意地悪く言う景。

「そんなぁ」

 桜の落胆振りたるや、勝が海神であったなら思わず大物の一匹でも桜の竿にあてがってやりたかった。

 ぐすんっ、と泣きそうな顔をしてとぼとぼ、と戻って行く桜。

「はじめてなんだ、もう少し優しく言えよな」 

バケツをひっくり返して、フグを逃がす勝。

 だって。と景は前置き、

「悪気はなかったわよ……」

 と唇を尖らせた。

 一方、桜はめげずに、海面に眼光を光らせている。まるで、得物を探して円を描く鳶のごとくである。

 気まぐれな海神は、本当に気まぐれに勝の竿に得物を食い付かせた。今日初の得物に心なしか期待を抱いた勝だったが……

「フグ……」

 どうやら、桜が釣ったフグを竿の近くに逃がしたのがいけなかったのだろう。

「勝ちゃんっ!」 

 項垂れる勝の少し離れた隣で、またしても桜が大きな声をあげた。

「また地球釣ったの?」 

 と景の声が聞こえた。なるほど、『地球』に引っ掛けた時を彷彿とさせる竿の撓り具合である。

 しかし、今回はどうやら様子が違った……

 なんと竿先が感電したかのように小刻みに震えているではないか。

「桜、そのままだぞっ」

 勝はフグを海に放り投げると、桜の元へ駆け寄った。

「勝ちゃん代わってよ」

「桜の獲物だろ、大丈夫だって」

「えっ、本当に魚なのっ!」

 笑う準備をしていた景も血相を変えて駆け寄る。

 折しも、この時節には冷たい雨が水面を叩き、魚影が確認出来なくなってしまった。

「ゆっくり、巻けよ」 

 早く糸巻きで釣り糸を巻取ろうと焦る桜を勝が制した。

「はいっ、網」 

 竹の先に針金と毛糸で拵えた、頼りない網を景が勝に渡す。「もう少しだ」と勝は網を魚を驚かせない様にゆっくりと海中へ差し込むと、

「今だっ!思いっきり上げろっ!」

 っと吠えた。

 桜は額にへばりついた前髪を気にせず、尻餅をつく勢いで竿を持ち上げた。勝はそれに合わせて、魚を捕らえた網を渾身の力で振り上げる。

 軟弱な網は鉄板の上に魚を落とす前に、針金が曲がり毛糸が破れ無惨にもただの竹の棒となってしまった。

 しかし、不気味な黒金の肌をした大魚は二匹とも鉄板の上に健在であった。  

「クログチじゃないっ!しかも二匹っ!桜すごいよっ!」

「なんで虫でクログチが釣れるんだよ……」 

 口の周りが黒いそれは、石鯛の老成した姿である。

 確かに天気の良い日などは桟橋から望む海底に魚影が見えることがあった。しかし、クログチは小蟹や海老を餌としなければ釣れない魚であり、勝とて沙蚕で食った試しがなかった。

「大きな魚が見えたから、引っ掛けられないかなって」

 ようやく額についた前髪を掻き上げて桜が言った。

「「引っ掛け釣りっ!」」

 景と勝は顔を見合わせて笑った。跳ね回るクログチを見ると、いずれも口にも針が刺さっておらず、それぞれ腹と背に引っ掛かっていたのである。

 食わないことを熟知している勝と景は、はなっから相手にしておらず、引っ掛け釣りなどと効率の悪く加えて技巧な戦法など眼中になかった。

 魚釣りを知らない初心者である桜だからこその奇抜な発想である。

「やったな桜っ!これだったら母さんも大喜びだっ!」

「二匹もあったら、お腹一杯ご飯食べられわ」

「みんなで食べようよ」 

 得意満面な桜を筆頭に景も勝とて、まるで自分が釣り上げたかのように嬉しくなり、喜色満面と三人で大声を出して大笑いした。

 雨脚は強さを増し、冷たい粒が体中を打ち付けた。

 しかし、三人の体は芯からほっこりと温かく、冷たさなど感じなかったのである。


      ○


 嵐のごとく激しくなった雨の中、三人は必死に走って家へ帰った。少々の余裕とて見せたいところであったが、何分一寸先さえも暗幕が降りたような豪雨なのである。興奮さめやらぬ桜とて、首筋にへばりいついた髪の毛を気にせずただ走った。

 「あらあら、三人ともびしょ濡れじやないの」と咲恵が立ち据えるだけで土間に水溜まりができる三人を出迎えると、急いで手拭いを持って来てくれた。

「おばさま、これ見てっ!」

 手拭いを持って来た咲恵に、髪の毛から水滴を滴らせた桜がバケツの中身を見せる。

「あらぁ。クログチじゃないの。これ桜ちゃんが釣ったの?」

 手拭いを置いて、バケツの中を見やると咲恵は驚きの表情とともに、桜にそう聞き返した。

「はいっ!」

 桜は会心の笑顔を浮かべた。

「二匹とも桜が一本釣りしたんだよね」 

 そう言う景もなぜか嬉しそうだった。

「お風呂沸かしてあるから、先に入っちゃいなさいな。せっかくだから魚拓をとりましょう」

 『今晩は腕に縒りをかけるわね』と咲恵は腕まくりをして見せるのだった。

 勝が風呂から上がって来るとちゃぶ台の上には、魚拓が置いてあった。腕まくりをした桜と景が勝とすれ違いで洗面所へ駆けて行く。

 なかなか立派なものだと、勝は釣りの先輩として頷いた。

 持って行った弁当を家の中で食べ、後は夕餉まで離れにおいて将棋や坊主捲りなどに興じて、のんびりゆったりと休息の日を過ごしていた。

 寝転んで、ぼぉっと天井を見上げていた勝は、喉が乾いたと台所へ向かった。

 居間では母が繕い物をしている最中であり、それは勝のシャツであった。練習中に破けてしまったのだろう。しかし勝自身は気が付いていなかった。

 いつもの鼻歌。母の好きなカノンを歌いながら針を動かす母の姿。

 勝は今朝の感情を思いだした、これが『日常』なのである。勝は知らぬ間に修繕された服を着る。母は修繕のことを勝に口に出して言うこともなければ、見返りを求めることなど決して有り得ない。

 だが、それを傲慢にも当然と吐き捨てるなど、たとえ息子であろうとも人として唾棄すべき所行である。そのような不逞の輩は忸怩してしかるべきであろう。こうして毎日、文句一つ言わず自分のために愛情を注いでくれる母。勝はなんだか泣きたくなって来た。

 母であるがゆにえ……

「肩もんでやるよ」

 勝は静かに母の後ろに立つと、細い肩に手を置いた。

「あら。お母さん嬉しいわ」

 母はそう言って繕い物の手を休めた。

 母の肩は勝の手の平に容易く治まった。柔らかい肩は凝っているのかわからなかったが、婦徳を重んじ、ある時は勝を諭し、ある時は正義へ導く。そんな強い女性のものには到底思えなかった。

 感謝の言葉は言えなかった。言いわけなどと忌々しい。口に出せなかった、その事実を恥とするのみである。いつの日か必ず、母に感謝を述べようと勝は心胆に据え。情けない自分に対し溢れるものを押さえきれなくなる寸前まで母の後ろに立ち続け。やがてトイレへ駆け込んだ。

 母親の愛情こそ深淵よりも深く、海よりも広い唯一無比の愛なのである。そして、その愛情を気にとめることもなく、ただ成長する幼子は幸福なのである。幸いにして勝はそのいずれをも無限と与えられ。誓わずにはいられまい、誠をもって身お修め、万事正義漢たれ!と。

 咲恵は宣言通り、腕に縒りをかけ一匹は刺身に一匹は塩焼きにして、ちゃぶ台の上へ並べた中央を飾る、今晩の主役は四人で食べるには心許なかった。

 だが、確実に食卓を彩ったことはもはや言うまでもないだろう。

「んで勝ちゃんは何匹釣ったの?」

 と夕餉がはじまってすぐ、景から痛い一言が飛んで来た……

「坊主だよ、悪いか」

 本当はフグを一匹釣り上げた。しかし、たかがフグ一匹、それも桜が釣り上げ逃がした魚などとどうして胸を張って言えようか。もちろん口が裂けても言えようはずがない。

 ならば、恥を忍んで『坊主』であると、矜持【きょうじ】として断言した方が気持ちが良い。

「でも勝ちゃん、私と景ちゃんの餌つけとかずっとしてくれてたから、釣りをしてる暇なかったと思うよ」

  ああ、なんと良目なのだろうか、勝はしみじみと目を閉じて何度も頷いていた。

 その後、「今日はありがと。とっても楽しかった。勝ちゃんのおかげっ」と桜が人知れず勝に賛辞を贈ったのである。

 勝がこれによって救われた妙味は筆舌するに余りあるだろう。

 夜まで降り続いた雨は夜明け方を前に姿を消し。新しい朝を迎えた時には何ごともなかったようにすっきりと青空が広がっていた。

 景にとっての正念場が待ち受けていたのである。

 背番号争奪試合が目前と迫り、しっかりと休養した景は朝から、張り切っていた。スパイクとグローブをそれぞれ片手に携えてグランドへ急ぐ景。

「おばさんっ、おはようございますっ!」 

 病院の前を駆けていると、咲恵の姿があった。

「おはよう。良いお天気になったわねぇ。はい、これお弁当。勝君達もお弁当持って神社で待ってるから学校から直接行ってあげてね」

 そう言って、縮緬の風呂敷を景に差し出した。

「えっ、良いんですか?」

「いいの。私も景ちゃんを応援しているのだもの」

 朝からこんな優しい笑顔に出会えるなんて、と景の心はまして弾んだ。

「ありがとうございますっ!」

 躍動する景の鼓動は、もう何を恐れるものかと蛮勇のごとく勇んでいた。早く練習をしたくてうずうずしてくるのである。

 無敵の笑みを浮かべ景は風呂敷を高々と掲げ「行ってきまーすっ」と咲恵に大きな声を出した。

 景が一層、練習に励んだことは言うまでもなく。また、一日しっかり休養を取ったことによって、疲労で誤魔化す不安さえも払拭していた。その様は飛ぶ鳥を落とすなど眼中になく、天啓さえも覆さんばかりであった。

 天命とは人事を尽くして待つものなのである。


      ○


 試合当日の朝である。

「勝ちゃん早くっ、試合始まっちゃってるよ」

 久方ぶり、制服姿の桜が着替えにまごつく勝を土間から捲し立てた。

「わかってるって」

「だから昨日言ったじゃない。今日は早起きしようねって」

「別に制服でなくてもいいだろぉ」 

「ダメだよ。制服でなきゃ学校入れないもの」

 誰がそれを監督するのか?と苦言を呈したい勝である。

 それはそれとして、染みついた生活習慣たるや是正に悠久を消耗してことならず。そんなに器用ではないのである。

「勝君。自転車出しておいたからね」

 咲恵が、手の平を払いながら、土間に入って来た。

「行ってきますっ!」

 素足で土間へ飛び降りた勝は靴に足をねじ込むと、桜を共だって家を飛び出して行った。

「気をつけるんですよ」

 ドアから咲恵が声をかける「おばさま行ってきます」と声をすれども姿は見えず。

「桜乗れ」 

 勝は自転車に跨るとペダルに足をかけ、桜に荷台に乗るように促した。「こうで良いの?」と桜は自信なく、横向きに腰を据えた。

「しっかりつかまってろよ」 

 そう言うと勝はペダルに体重を掛けて自転車を発進させた。やがて腰掛けに腰を据えると桜は勝のベルトを掴んだ。

 本日は天気晴朗、海岸から吹き上げる風さえもどこか温かく、黒髪を靡かせるそよ風

とて、春の便りであった。神社の前を過ぎると見えてくる、櫻並木。枯れ木も賑わいと殺風景であったのがまるで悪夢であったかのように桃色の花が咲き乱れ、文字通り百花繚乱の様相である。

 文明の力とは人知を凌駕して本領と言える。瞬く間に学校へ最初にして最後の難関に到達した。桜の髪が背にもたれ、今までの爽快感は泡と消えてしまった。勝は終始立ってこぐに徹し、その速度は蟻である。

「降りようか?」

桜が勝の背中に言う。

「なんのこれしきぃいいっ」

 歯を食いしばって勝はこれを無視した。

 やがて傾く車体。坂の途中、足をついてみれば、なんとのどかなことだろう。はらはらと落ちる桃色の花弁と、時折鶯の鳴き声などが聞こえてくる。

「だから降りるって言ったのに」

 荷台から降りた桜が、ひぃひぃと息を荒げる勝の元へ歩み寄る。

「今日は……いける気がしたんだ……」

 自転車のハンドルに顔を埋めて勝。

 そんな勝を見て、桜は「ふぅ」と息をつき、豪華に彩る櫻を見上げた。

 情緒溢れる情景の中、グランドからは乾いた金属音が聞こえる。

「走ろう」

「うん」

 どうやら試合はすでに始まっている様子であった。

 門の手前に自転車を放り出し、グランドへ急ぐ二人。勝の思った通り服装を監督する教諭の姿など見あたらず、これならば別段、普段着で来ても差し障りはなかっただろうと思った。

 二人はグランドへ降りる階段まで来て足を止めた。正しくは勝が足を止めたのである。

 どうしたの?、と言う桜に、

「景の、父さんとおばさんが居る」

 と呟いた。

 桜は勝の肩越しに、グランドを見下ろして見た。すると、腕組みをした屈強な男性と

黒髪を結いあげた女性が遠眼にてソフトボール部の試合を観覧していた。女性は時折、拍手と手を叩き、男性に向かって笑顔を投げ掛け、男性は終始笑顔で、何度も頷いていた。見ているだけで和やかな雰囲気である。

「桜、あっち行こうぜ」

 勝は、職員室前の道を通り、迂回してグランドに出た。景の両親と勝たちの間には緑地帯とも言うべき植木の場所が設けられてあり、観察池に、柿から樫まで主に広葉樹がひしめくように植えられている。大凡、夫婦から勝と桜の姿が見える事はないだろう。

「景ちゃんのご両親と仲悪いの?」

 芝生の上に腰を降ろした勝に桜が問い掛けた。

「そう言うんじゃなくって……景の父さん船に乗るから家にいないことの方が多いんだ、だから……その、俺たちが邪魔するのも……な」 

「そうなんだ……勝ちゃん偉い」

 勝の心意気に感心して桜が呟いた。

 いくらかの距離を置いて、眼前で展開される試合は、実戦形式ながらも得点の有無は関係ないらしく、黒板に得点の記載はされていなかった。

「そうだっ、はいっ。勝ちゃん好きなの取っていいよ」

 桜は思いだした様に、スカートのポケットから小さな紙袋を取り出すと、勝に差し出した。

「ん?」 

 覗き込むと、紙袋の中にはぎっしりと飴玉が入っているではないか。「本当に良いのか?」と言いつつ、勝は赤い飴玉を取り出して口へ放りこんだ。とたんに広がる大袈裟な甘味。勝は唾液を絞り出すように飴を舌で転がした。

「ラジオ体操の皆勤賞でもらったの」

 桜の手には『合格』の印が並んだ手の平ほどの厚紙が見当たる。

 あぁ、と勝は声を漏らした。

 そう言えば、夏期休暇に限らず春期休暇においても自治会主催、早朝のラジオ体操は敢行されていたのである。とりわけ朝に至っては無頓着かつ自堕落に睡眠を貪っていた勝はすっかり忘れてしまっていた。 

 勝が夢にうつつをぬかしている間、桜はせっせと朝早く起きて公園へ体操をしに出掛けいたのである。勝が幾度か、夜明けにもかかわらず桜が出掛けて行く姿を見た気がしたのは、夢にあらず。

 努力の賜とは甘美であり、美味なのである。

 人知及ばずして天命を欲する。これぞ、順序の王道っと言えよう。『竹下』と背中に大きく書かれた練習着は内野手であり、その日一番の輝きを放っていた。守っては土に触れ天の邪鬼にも弾道を帰る白球に食らいつき、または弾丸と飛び来る打球さえも飛び込んでグローブの中へ押し込んだ。

 言うなれば堅牢鉄壁。まさに難攻不落の城塞都市トレドの様相であった。

 バットを振っては、千手観音のごとくいかなる投球にも食らいつきやがて、投手が隙を見せたところで一気にこれを叩く。いずれも長打にならなかったが、野手の間を抜ければそれで御の字である。

「景ちゃん大活躍だね」 

 鼻高々と桜が言った。

「当たり前だろ」

 そう言う勝とて、景の活躍が嬉しくて仕方がない。

 三人して白球を追い掛けた日々はまさに今日この日のために。歯を食いしばって立ち上がり続けた成果、苦悩に涙を拭った結果、そして髪を短くした気合い。心・技・体、一体となって鍛錬に明け暮れた日々は決して虚言ではない。ゆえに傍観者である勝と桜にも揺るぎない安心感と自信があった。

 何より、景の黒い瞳に表情に溢れんばかりに醸される気迫がそれを裏付けていたのである。紅白戦は、勝が見る限り、景の属する白組が勝利を飾り、試合終了と同時に仲間と抱き合う景の姿を見る限り、実力を余すところなく出しきった様子である。

「帰ろうぜ」

 昼時分を前に試合が終了し、監督を中心に円陣に集合した部員を見て勝は桜にそう告げた。

「えっ、まだ、背番号がまだだよ?」

 当然の疑問と勝を見上げる桜。

 まぁな、と勝は円陣を見て呟くに止まる。

 天か地か、幸か不幸か。やがて結果はいや成果はおのずとわかってしまう。勝はここに来て結末を見るのが少し恐くなってしまった。できる限りの努力でもって叶わずすれば、どうすればいい……人事を尽くした自信の反面、濃縮された奈落の不安が大きな口を開けたのである。

「いいから帰ろうぜ」

「駄目。最後まで見届けるの、三人一緒にがんばって来たんだもん。笑うのも三人、泣くのも三人だよ」

 桜の黒い瞳は言葉以上に訴えるものがあった。

 勝は桜に制され、一度は上げた腰を再び芝の上へ落ち着けた。

 遠のきにも円陣にすくう張り詰めた空気がひしひしと伝うようであった。自然と勝にせよ桜にせよ手に汗を握ってしまう。やがて、静寂の中も粛々と円陣に動きが見えた。ついにその時が来たのである。

 生唾を飲む勝と桜。このぶんでいけば景の緊張たるや理解するに及ばない。しかし、直向きな努力は必ず報われる。神に頼もうが仏に頼もうが報われるものは報われるのだ。

 背中に『竹下』と書かれた練習着は監督の前まで歩むと、何かを受け取った。それが何でなるかはもはや語る必要もあるまい。勝とて桜とて、黙して語らずただ微笑みを浮かべて互いの顔を見合うに止まった。

 授与式にも似た式典の時間の後、グランド整備を経て。景は荷物も持たず、両親のもとへ駆けて行く。両手に掲げる正方形の布きれには『8』とアラビア数字がしるされてあった。

「すえひろがりっ!」

 桜は急に立ち上がるとそう言って、勝に満面の笑顔を向けた。

「ああ、すえひろがりっ」

 勝も立ち上がると、樫の幹から顔だけを出し、会心の笑みを浮かべながら父親と母親に頭を撫でてもらっている景の姿を見つめた。自然と目尻が下がり口元は綻ぶ。

 笑う時も三人一緒。


      ○


 景に姿を見せぬまま、帰路についた二人は、自転車に乗らず海岸線を歩いていた。校門で「景ちゃんやったね」「おう」と言葉を交わしのを最後に桜はずっと勝と顔を合わせようとしなかった。今でさえ、桜は海を見つめたままである。

  不意に桜が歩みを止めた。勝も足を止めると、桜の横顔をみやった。その表情は無表情のようでとても意味深長なものであった。瞳に映る青と蒼、海と空とが混じる境界、桜は吹き上げる微風に髪の毛を靡かせながらずっと海を見つめていた……

 何を言えばいいだろうか、勝は考えあぐねてた。景は念願の背番号を手に入れ、その喜びを三人でわかち合った。桜も笑顔だったはず……勝ははっきりと覚えている、桜が見せた満面の笑みを……

「勝ちゃん先に帰ってて。私、ちょっと寄り道していくから」 

 優しくそう言った桜は、一人浜辺へ降りて行ってしまった。

 どうしてだろうか、勝は桜をおいて帰る気になれなかった。寂しそうな背中は、いつもより遠く小さく見えたのである。ついてくるなと言われようとも、ついて行かないわけにはいかない。それだけ勝にも石切坂 桜と言う少女がわかってきたのだ。

 勝は自転車を寝かせると、桜の後を追って磯を降りて行った。

 渚で佇む桜。

 靴の先が波に触れるも意に介せず桜はただ凪いだ海を見つめているだけであった。勝は、何を言うでもなく桜の隣に佇んで大海を望んでいた。

「明日はなにする?」

 勝は桜に話しかけた。 

「明日は……何がしたいんだろ……」

 桜は、はにかんで俯いた。やっと、波打ち際に気がつき後ずさった……

「桜……」

 砂浜に落ちる滴。それは桜の涙であった。「あれ……感動しちゃったかな……」桜ははにかんだ表情を勝に向け泣き続けていた。

「私、一座に帰る。もう勝ちゃんにも景ちゃんにも会わない」

 少女は両手を胸で強く握って、そう言い切った。強い意志は感じられない、だた、孤高に孤独にあろうとしている。 斟酌【しんしゃく】して勝は憤った。

「そんなの俺も許さないし、母さんだって許さないぞ」

 勝は桜の正面に立って、桜を睨み付けた。

「……」 

 桜は勝の眼を見られず視線を逸らすしかできない……桜は痛いほど知っている。ゆえに、勝や景、咲恵との離別さえも厭わない。

 しかし、それを勝は良しとするつもりは毛頭なかった。

 石切坂 桜は容姿端麗であり、加えて素直で良目である。一人の人間として、女子としても、勝よりは大人かもしれない。だからこそ、勝から近づかねばならない場所がある、何がなんでもこじ開けねばならぬ扉がある。

 桜の胸の内を知ったかぶりをするつもりはない。だが、桜の機微に一人近い勝にはそれだけが理解できた。できるなら勝自身がそれを言い出したかった。

「俺で無理なら、母さんに話せよな。もう一人で抱え込むのやめろよ。そっちの方が俺はいやだ」

 いまさら狷介【けんかい】など、勝にはあって無きがごとく……

「こんな楽しい日々が毎日続けば……」

 震える声で話し始める桜。拭ろうとも、大粒の涙が勢いをますばかりであった。

「毎日が楽しすぎるよ……私、笑わなかった日はなかったもの……本当は顔をしかめて、みんなから嫌われて、誰の思い出にも残らないようにって……なのに……」

 桜は赤い目で勝の顔に初めて目を合わした。

「なのにっ。勝ちゃんは優しくて、景ちゃんは面白くて……おばさまは、お母さんみたいで……私ずっとここに居たいのっ。もうどこにも行きたくない………………だけど、離ればなれになっちゃう……苦しいよ、勝ちゃん……離れたくないよ……」

 ついに桜は膝を折り力無くしゃがみ込んでしまった。

 あと数日で春休みは終わる。明ければ桜は転校してしまうだろう。勝は小さくうずくまる桜の姿を見て、唇を噛んだ。橘先生から告げられたあの日から、いつか必ずやって来る結末にやるせない、どうしていいかわからない。いっそ狂乱した方が楽になれるやもと、心痛しながらも騙し騙し、今日まで桜と共に過ごして来た。無垢な笑みが絶えない桜を見ていれさえいれば、きっと何とかなると無理矢理思い込んで来た。

 母ならば忠言にて、この気持ちを収めてくれるかと、相談しようかとも思索した。だが、熟慮を重ねれば重ねるほど、自身でそれは不可能であると断固とした結論を出した。

「まだ泣くの早いだろ。俺は後悔したくない。桜が転校するその時まで遊んで遊んで遊びたおすって決めた。今決めたっ!だから、母さんが許しても俺は一座帰るのは許さねぇかんな、明日も明後日も明々後日も、一緒に居るんだ!」

 勝は感情の高ぶりを押さえられず、とにかく叫んだ。もはや何を口走っているのかさえもわからない。だた、腹の底に据えかねた言葉を吐き出した。一字一句残したくはなかったのである。

 そして、鼻を思い切りすすってから、目からこぼれない様に高い空を見上げた。

「勝ちゃん……本当……」

 小さく桜の声が聞こえる。

「おうっ!」

 返事をした拍子に、ついに額を一線に伝う真心……勝はバネの仕掛けの様に海水を両手に捕まえると大袈裟にそれお顔に打ち付けた、何度も何度も、シャツはぐっしょりと濡れ、ずぼんにさえ海水がかかることは関係なかった。

「明日より……今、お風呂入りたいかも」

 勝が桜を見やると、勝の水飛沫を浴びて頭から足下にかけて、ずぶ濡れになっていた。

「ごめん……」

「これも思い出」

 額にはりついた前髪をそのままに桜はにこやかに微笑んだかと思うと、

「濡れ狐と狸だね」

 と、ラクガキのような笑顔を浮かべるのであった。

「自分で言うなよ」

 勝は桜に手を差し伸べながら、はにかんでそう言った。

 はじめて、桜を真正面から受け止めることができた。母でもなく景でもない男である勝が。

 

      ○


 カーディガンを着てこなかった桜はしきりに胸元を気にしていた。言わずもがな勝はその理由が容易にわかっていたのである。

 勝は自転車の上に丸めて置いた、制服の上着を桜に黙って羽織らせた、濡れている以上は防寒具としては役に立たないだろう。しかし、乙女の恥じらいくらいは取り除いてやれる。元々、起因するは勝の行いなのであるからして、寒さに震えるくらいは折り込み済みである。

 暗黙の了解として、自転車に乗ることはしなかった。風呂上がりの火照った体ならいざしらず、無尽蔵に体温を奪い続ける濡れ着に追い打ちを掛けるがごとく自転車にて颯爽とかつ爽快に風を切るなど、もはや自虐行為であろう。せめてもの助けは日差しが湯たんぽみたく暖かかったことであるが、それとて、焼け石に水。寒いものは寒かった。桜の唇から赤みが引き始めた頃、二人は丁度空き地の前へ差し掛かった。

 随分前から耳障りにも興味をそそる、喧噪が漏れ聞こえていたのだが、勝はこれをあえて無視する心づもりであった。このシカトに込められた憂鬱やら業腹といった主だって負心であったが、本来は随伴する桜に余計な気をつかわせまいと思ったのであった。

 しからば、人生一寸先は闇、好機悪機共に予見できず、いつだって唐突にあらわれるのである。知らぬ存ぜぬを押し通して、通り過ぎようとしていた勝の押す自転車の前輪に白球が当たったのである。

 空き地へ一瞥をくべると、同級生達は上級生でも見ているかのように静止画となった。

今だ狐狸は健在か、さてどいつにボール投げつけてやろうかと勝は算段していたのだが、誰一人として、桜を、そして勝を侮蔑する者はいなかった。

 身構えた勝であったが、雰囲気は至極曖昧。勝の後ろに隠れた桜、きっとそれに視線をくべているのだろうと勝は直感した。呆然と口を開けて見る者もいれば、仲間同士小突きあって照れ隠しをする阿呆。これはいかなる心境の変化だろうか。

 何ゆえ……と眉を顰めた所で「ボール取ってくれぇ」とダイヤモンドの中央で一郎が両手を大きく広げて言った。

 勝はやむなし、とボールを拾い上げると、大きく振りかぶった。途端に表情を歪める阿呆ども、勝の全力投球の方向音痴、無頓着な様をいやと言うほど思い知らされているからである。一方の勝は硝子を割って上等と成り行きに任せ、全身全霊を込めてボールは放った。

 弾道は矢の如し。桜の投球に目を見張らされたあの日、まさに桜が放った一球に相違ない弾道は一直線に一郎の胸元へ吸い込まれて行った。投げ終えた勝も驚いたが、ボールをグラブに収めた一郎も驚いたらしく、捕球してなお、グラブの中を確認する始末であった。

 なんと気分の良いことだろうか、勝は鼻高々と空き地を通り過ぎた。奇跡、偶然、下手な鉄砲も……いずれも賛美ではなかろうか……勝自身も驚愕を隠せないでいるのだ。射当てるがごとくの投球は快感そのものである。自分も狙う場所へ全力で投げられたことなど生まれてこの方はじめての経験。これも一重に練習の成果であろうと、勝は一人感触の残る右手を見つめながら深く頷いた。

 だが、

「勝ちゃん、格好よかったよ」

 桜の笑みと、この一言以上にまさる賞賛は海底二万里を潜水したとて見つかるまい。

「実力だぜ」

 勝は照れ隠しにと大袈裟に右腕を天に向かって高々を掲げた。

 思わぬ遭遇であったが、好転に煮え切らぬ桜と勝の間にようやっと和やかな雰囲気が二人を包み込んだのであった。

 病院の角を曲がると、丁度、竹下親子が筒串家から出てくるところであった。見送りに出ていた咲恵が一番に気が付き、「あらあら、勝君たちの方が遅かったのねぇ」と言った。

「おうっ勝っ、景子が世話になったな。いっそ一生世話してやってくれてもいいぞ」

 がははっと豪快に笑う景の父、剛蔵。年中捻り鉢巻きを巻いた生粋の船乗りであり、腕っ節と胸板の厚さは数多の航海を耐え抜いて来た海の男の証拠である

「お父ちゃんやめてよぉ」

 砂に混じって顔を赤らめた景は父に縋るように抗議した。

「あなたが、桜ちゃん?景からよく聞いているわ」

 その傍らで口元に手をやって控えめに微笑む景の母は紗【さえ】は、やや疲れた目元をしているが清楚であり、控えめな性格は活発的な咲恵と相対する。趣と風情を醸す和服美人である。その紗が豪快な笑い声に思わず体を震わせた桜に声をかけた。

「はじめまして、石切坂 桜です」

 かしこまって会釈をする桜。その際ずり落ちそうになった上着をなんとか掴み止めた。「お久しぶりです、おじさん」 

 ようやく勝の番である。

「おうおう、生意気な口がきけるようになりやがって、この色男めぇ」

 剛蔵は、勝の頭をグローブのような手でくしゃくしゃにしながら言った。物言いは豪快でいて性格は陰日向がない、とても気持ちのよい男である。

「あーもうっ。お父ちゃんもお母ちゃんも先に帰っててぇ!」

 何を恥ずかしがっているのか、景は両親を後ろへ押しやる動作を見せ、紗は「はいはい」と素直に後れ毛を翻したが、剛蔵は「おっ、相撲か!」などと、久々の娘とのじゃれ合いを楽しんでいる様子であった。

 紗の助けも借りて、ようやく剛蔵が背を向けた後、景は「ふぅ」と額を拭う真似をして勝と桜に向き直り、

「二人とも本当にありがとうございましたっ!」

 と頭を下げた。

「矢が降るからやめろって」「景ちゃん頭あげてよ」反応は別々ながらも、両者ともに改まった感謝の意にこそばゆい様子であった。

「じゃーんっ」

 景は顔を上げると共に、背番号を両手に持って桜と勝へ突きだした。会心の笑みは忘れない。

「すえひろがり、だよなっ?」

 勝が桜に向かって言うと、

「うんっ、すえひろがりっ!」

 はぁ?と景はくびを傾げた。

「まぁ、景ちゃんまたゆっくりおいでなさいな。桜ちゃん早くお風呂入らないといけないみたいだから」

 含み笑いの勝と桜の元へ咲恵が徐に歩み寄ると、桜の両肩に手を置いて景に優しく微笑みかけた。

「くしゅっ」

 笑い声の合間に小さくくしゃみの桜。喜びとは裏腹に体は冷え切ったままなのである。

「えっと、それじゃ、明日にでも顔出すね」

 そう勝に言った景は咲恵に今一度会釈をしてから、駆けて行った。景は両親に追いつくやわざわざ真ん中へ割り込むと父と母の腕に自分の腕を絡ませた。

 夕日に照らされる親子三人の背中。小さい子どものように父よ母よと首をふる景。それは背番号を手に入れた喜びではない。父が居て母が居る。ただそれだけで景にとっては無情の喜びなのである。

 それを見送る三人とて、胸の奥が温かくなるのを感じるたのである。

「くしゅっんっ」

 桜は大きなくしゃみをして身震いをした。日が暮れ海岸から吹き込む風は穏やかであったが冷たかった。

 咲恵は桜の肩をさすりながら「さぁ、桜ちゃん。まず着替えましょうか」と声を掛け、これに桜もこっくりと頷いた。

「痛ってっ!」

 そして咲恵は勝とすれ違い様、脳天に一撃を見舞った。頭を抱える勝、反論の一つ文句の一つも言ってやりたかったが、結果的に桜の服を濡らしたのは自分であることを思い出すと喉元まで出かかった罵詈雑言とて飲み込まざる得ない。

 胃でうまく消化されさえすれば蒸し返すことはないだろう。


     ○


 夕餉を経て、かたや寝間着に着替えた桜と、風呂竈で服を乾かした勝。咲恵の寝間着を身に纏い、少々長い袖やらを時折捲りながら試合の様子を熱を込めて語る姿たるや、今すぐにでも抱き締めてやりたいほど愛らしかったが、腕が引きちぎれてもその様な不埒な行為に打って出るなどできようはずがない。

 「もう、勝君。土間で叩いてきなさいよぉ」ズボンに浮いた塩を机の下で弾いていると、桜の眼を見ながら話しに耳を傾ける母から、思わぬ好返球に刺されてしまった。「へいへい」と土間へ行く勝。もはやふて腐れることもしなかった。最近はこのようなことは日常茶飯事。桜が尊まれ、決まって勝が貧乏くじを引くのである。

 もはや笑える境地である。開き直ってしまえば、万事問題はあるまい。それに、桜は貧乏くじを引いた勝に必ず、癒しの手を差し伸べてくれる。傷ついてはその直後には元通り治るのだ。自然の循環摂理が絶妙に噛み合うように、その妙味たるや筆舌する域にあらず。

「これあげる」 

 待ってましたと桜が板間に姿を現した。余裕のある浴衣は裾が床に触れそうである。ズボンを叩く勝に桜は、小さな紙袋を差し出した。

「桜のだろ」 

 桜の努力を横取りするようでこれは心苦しい。

 しかし、「見て」と言った桜の両頬は瘤ができたようにぽっこりと膨らんだ。どうやら飴玉を放り込んでいる様子である。

 ありがと。と言いながら、勝は桜から紙袋を受け取ると、その手で口へ傾けた。甘い粉と共に飴玉がごろんごろんと口の中へ転がり落ちる。芳醇な甘さは喉までも甘美な世界を醸した。

「二人とも、ちゃんと歯磨きしてから寝るんですよ」

 痛い釘を刺す咲恵。

「はーい」

 と咲恵に答えてから、桜は悪戯な笑みを浮かべると、勝に向かって舌を出して見せた。

「赤っ」

 と勝が言うと「メロンも舐めてるんだけどなぁ」と桜は不満そうに呟く、次に勝が舌を出して見せると、「緑色っ。ちょっと気持ち悪いかも」と桜が眉を顰めて言った。

「気持ち悪いって言うなよな」

「あっ、ごめん」

 勝は板間へ上がると。紙袋を握りつぶしてゴミ箱へ放り投げようとした。

 その時を同じくして台所から咲恵が現れ、

「ねぇねぇお母さんは何色?」  

 そう言って咲恵は無邪気に舌を出して二人に見せた。

「黒……?」「うわぁ……黒だ……」

 墨を塗った様に真っ黒になった咲恵の舌を見て、勝と桜が後ずさった。何の味を食べればこのように黒くなるのだろうか……顔に出して気持ち悪がる二人を前に咲恵は何を思ったのは満面な笑みを浮かべ「お母さん実は……妖怪だったのよ……妖怪 顔舐めっ!」っと言うとこともあろうに黒い舌を出し、桜と勝を追いかけ始めた。

「美味しそうな桜ちゃんから舐めてあげましょう」

 両腕を広げ、まずはきゃきゃ言いながら逃げる桜に照準をあわせた咲恵。

 土間に飛び降りた勝は離れ座敷へ駆けて行く桜と妖怪を見送ると『顔舐め』より『鬼婆』だろうと頭を掻いた。後、桜を見捨てて風呂に入ろうと居間へ向かった。

 その刹那!

「捕まえたっ!」

 と仏間から飛び出して来た咲恵が勝の体を包み込む様に両腕をまわす。

「げっ、離れにいたんじゃないのかよ」

 絶句する勝。

「ふっふっふっ。妖怪は神出鬼没なのよぉ」

 と咲恵は不敵な笑みを浮かべると勝を捕縛した余韻を楽しむ様に顔を近づける……咲恵は茶目っ気において町内に右に出る者は居ないだろう。父はその茶目っ気が愛らしいと賛美していたが……

「やめっ、やめろぉおおっ!」

 咲恵は逃れようと必死に足掻く勝の頬に唇を押し当てると、その後「男前になったわねぇ」と言いながら顔を擦り付けたのである。

 波に揉みくちゃにされた海藻のように、畳みに座り込む勝。咲恵は上機嫌で鼻歌など歌いながら台所へ歩いて行く。生きた心地がしなかったと、勝が顔を上げる。その先に勝に先んじて襲われた桜が四つん這いになって仏間の襖の隙間から様子を窺っていた。

「勝ちゃん」

 桜が小声で勝を呼び、小さく手招きをした。

 勝は母が背を向けていることを確認してから、そっと四つん這いになり仏間へ移動する。

「おばさまは?」

 乱れた浴衣をなおしながら桜が言う。

「台所に行ったぜ」

「びっくり。おばさまったら押し倒してくるんですもの、勝ちゃんは?」

「思い出したくない……」

 思い出しただけで鳥肌ものである。再び襖の隙間から様子を窺う桜は「あれ、おばさまいない……」と勝の顔を見やった。「そんなわけあるか」と勝は桜の頭の上に首をやって台所を覗いた。

 なるほど母の姿は台所になかった。しかし、勝にはどうでもよくなってしまった。桜の髪の毛からさり気なく甘い香りが鼻腔を擽り、それが鼓動を捲し立てたのである。

「覗いてる悪い子はだれかしらぁーっ」

 一瞬で薄暗い仏間に居間の灯りが広がった。そこに仁王立つ影は誰であろう。妖怪『顔舐め』であった。

「いつの間にっ」

 神出鬼没とはこれいかに。

「さぁて……」

 天の邪鬼のような笑みを携えて桜と勝を交互に見る咲恵。舌なめずりまでする演出の懲りようである。

  ひぃぃ。とか弱い声をあげて先に桜が脱兎の如く逃げ出した。

「さぁ、桜ちゃーん!泣いても叫んでも助けは来ないわよぉー」

 桜が兎ならば咲恵はそれを追う猟犬であろう。大凡勘違いされそうな危険は言動を吐きながら追い掛けて行く咲恵。少ししてきゃいきゃいと楽しそうな黄色い声が聞こえて来たかぎりは、どうやら桜は妖怪の魔の手中に落ちてしまったようである。

「くわばら、くわばら」

 勝は咲恵の気が変わらないうちに韋駄天走りで洗面所へ行くと、さっさと服を脱ぎ散らかして風呂場へ避難した。


      ○


 翌朝、勝は誰より黎明よりも早く目を覚ました。上体を起こして見たものの、それ以上、布団から身を曝す気にはならない。次の瞬間には再び布団にくるまるからである。

 朔の日か月明かりに見放された部屋はかぎりなく薄暗かった。おぼろげながら見回すと、隣に寝ている母の姿は無く。そのまた隣の寝息を立てるはずの桜の姿すらない。

 そもそも、布団すら敷かれていないのである。

 ぼぉっと勝が見つめ続けていると、不意に障子が開き、仏間を通り越して、居間が見通せた。月の出ていない夜だと言うのに、フクロウのごとき夜目の利きように勝は幾ばくか得をした気になった。

 微笑ましい風景を眼福と枕に頭を押しつけた勝は、枕が湿っていることに気が付いた。

鼻水だろうか、と我のながら気色が悪いと思った。しかし、よく考えてみれば、目覚める前、とても後味が悪い夢を見ていたのを思い出す。寝静まった後から、すすり泣く声が聞こえて来るのである。

「そういえば……」

 と勝は呟いた。桜が家に下宿する前、そんな出来事があった。しかしそれは春休み前の話しであって、勝の記憶が正しければ今朝は終演間近の春休み中である。この春休み間に桜は母とデパートへ行き、二人して神ノ峰へ登り、景の為に境内で練習に勤しみ、気散じの釣りでは初心者である桜が大物を二匹同時に釣り上げると言う芸当を見せ、そして汗と決意と努力の末、景が背番号を獲得した。布団に横たわる勝にこれらを証明する物証は持ち合わせていなかったが、鮮明な記憶はいまだ健在である。

 だが、これらの記憶が仮に夢であったなら……思慮深くしてみれば、果たして男子の住まう家に、親心としてあどけない乙女である桜を預けるだろうか?現実として、桜は母と居間で身を寄せて眠っている。勝の記憶ではこの離れで川の字で横たわっていたはずである。訝しいことこの上ない。

  それは景とて同じ、勝の頭の中では景はスパイクを買ってもらった。ソフトボール部に所属しているとは言え部活動ごときに、スパイクまで買い与えるだろうか。それに、練習を重ねたとて、たかだか一週間と数日程度で背番号を手中に収めるだけ技量が高まるものか。  

 もしや、桜と一つ屋根の下で暮らしたこの春期休暇は己の妄想と願望の産物であり、現実味を漂わすため、わざわざ神社の境内で汗や擦過傷をつくりして苦労したのではあるまいか……だとすると、なんと空しいことだろう。現実と願望と妄想が混同して描かれた夢中の世界、思えば甘美であった。心ゆくまで甘美であった。

 しかし心底では気がついたのである。甘美な世界が脆く儚い邯鄲【かんたん】の夢であったと……そして、残渣のごとく微量に残った理性が、夢に居場所を求めんとする己に哀憐涙を流させ、それが枕を濡らしたのだろう。

 新規蒔き直しと、勝はこれから毎日をいかにして過ごそうかと考えを巡らせた。とりあえずは桜と共にラジオ体操に赴き、軽く言葉を交わす朝から始めよう。そして、デパートにもついて行こうと決意を固めた。

 しかし、枕が冷たかった。

 勝が忌々しいと、枕をひっくり返すために、今一度上体を起こしてみると、隣には主不在の敷き布団があり、その主はそのまた隣、桜が寝息をたてる傍らで寝息をたてているではないか、意図してかあるいは寝相が悪いのか、それは定かではなかった。だが、疑いなく前者であるらしかった。

 常住坐臥として、咲恵は桜と共にあろうとするのである。 掌中の珠と慈しみ、可愛がる姿はまさに母娘であり、実子である勝から見てもその信愛ぶりには脱帽であった。

 手の平を見やると、癒えきっていない肉刺が痛々しくある。

 どうやら、都合の良い夢に夢を重ねた挙げ句、寝惚けていたらしい……これではラジオ体操もデパートも過ぎたるを嘆くしかない。結局、後悔先にたたずと勝は大きな溜息と共にふて寝するのであった。

 一日の始まりにしてそんな有り様である。ふて寝にも浅い睡眠を貪らずして晴れるものか。勝は普段通り、桜が起こしに来るまで熟睡の体を保つことにした。欺瞞な目覚めにせよ、意中の人に起こされれば気分は幾分か良いだろう。

 しかし、本日は様子が少し違ったのである。

 腹時計からして、朝餉の時刻だろうと腹の虫が告げたが、一向に桜は起こしに来なかった。

「うぅ」

 勝は暴れ狂う腹の虫にしびれを切らせて起きることにした。微かに漂う米の炊ける匂いからして朝餉の準備は着々と進んでいる様子である。

 夢騒がしに機嫌を損ね、さらに空腹で拍車がかかった勝はお門違いにも母に八つ当たろうと思い立ったのだ。

 はい?、思わず勝は声を出してしまった。

「いつの間に……」

 立ち上がってみると、無人であった敷き布団の上に寝間着姿の桜が横たわっていたのだ。掛け布団を蹴飛ばして転がってきたのだろうか。来た桜は、寒いのだろう四肢を折り曲げ、丸まるようにして寝息をたてている。

 無防備であり一糸まとわぬ素顔をこれすなわち寝顔と言う。子犬でも赤子でも寝顔が最も愛らしく可愛らしいというもの。それを大前提とするなら桜の寝顔が愛らしく、可愛らしくないはずがない。髪に触れた唇は薄紅色であり雪の様な桜の肌に良く映え、思わず触れたくなる頬などはきっと柔らかいに違いない。髪から覗く耳とて可愛らしい。

 とにかく、はじめて目にする桜の表情に勝は至福の光を見たのである。

 遅起きは寝顔の得。勝は微笑ましい面持ちで自分の布団を桜にそっとかぶせると、軽い足取りで居間へと向かったのだった。

 やがて桜が目を擦りながら起きて来たのは、辛うじて朝餉が準備し終わった頃である。

 「お寝坊しちゃった」と小さくあくびをした桜は勝の隣へ腰を降ろすと、「布団ありがと」っと勝の耳元で囁いた。どうやら桜自身、どうして咲恵の布団で寝ていたのかわからない様子であった。

 

      ○


 目紛るしいほどここ最近は色々と立て込んでいた。思えばだからこそ、結末の憂鬱にとらわれることなく、光陰矢の如しと今日を迎えられたのだろう。さして予定のない本日は、祭りの後の寂しさに酷似した切なさが漂っていた。

 咲恵の日課である掃除や洗濯と言った家事を桜は自ら望んで手伝いをし、それが終われば裁縫や編み物を習っていた。これでは自分が借りて来た猫かあるいは、母娘の団欒を邪魔しにした来た、ぬらりひょんである。勝はついに午前中は何をするでもなく、ただ桜と母の明るい語らいを眺めていただけであった。

 昼餉の直前、「これ見てっ。私が編んだんだよっ」と桜が得意になって勝に午前中の成果を見せる。黄色い毛糸を絡めた編み針を交差させたところに、手の平ほどの毛糸が編まれてあった。

 昼が過ぎても、午前中の繰り返し。勝は、ただ桜と母のやりとりを、触れるでも加わるでもなく、見つめているだけであった。片付けが終わると乙女は着物の着付けを婦女に教わるため、離れへぱたぱたと歩いて行き、それに続いて咲恵が着物やら帯やらを両手に抱えて続く。そして、男子禁制と暗黙の了解のもと障子が閉められてしまった。

 どうにも暇である。土間と仏間の間にある畳みが一列に並べられた六畳間に寝転がる勝。

  桜がこの家にいるのは明日の一日のみ。

 勝はふっと景の事を思いだした。母の話であったが、景は春休みが明けるまで部活動が休みなのだと言う。暇である。景の家にでも行って見ようかと天井を見上げてみた。

 しかし、勝は上体を起こすことはなかったのである。一年のほとんどを船で過ごす景の父。その父との家族団欒を邪魔するのは至極なる邪魔者である。たとえ暇を持て余し、心がささくれだったとしても、ぬらりひょんの拝役は断固として断りたい。

 せめて明日は。桜がこの家にいる最後の日である明日だけは、なんとか景も巻き込んで三人で……この際、母を巻き込んで四人で何か思い出を作ることができたなら……老婆心に考えを巡らしてみるも、はたして良案は浮かばず。穏やかな気候と土間から漂ってくる、絶妙な冷気とが相俟って勝の瞼を漬け物石のように重くするのであった。

 肩口が冷えて勝は目を覚ました。陽が陰り冷気が陽気よりまさったのだろう。

 起きると、離れの障子が開いていることに気が付いた。離れを覗いてみると桜の姿も母の姿も、着物さえも見あたらなかった。次に居間へ行ってみた。台所だろうと思ったが、ちゃぶ台の上に『買い物に行って来ます』と置き手紙が置かれてあった。

 買い物か……と呟く勝。

 徐に置き手紙を裏返してみると、その紙は桜の父が働く一座のビラであった。

「どうすっかな」

 勝は頭を掻いて考えた後、ビラをちゃぶ台に戻すと土間へ飛び降りた。そして、下駄の鼻緒に足を押し込むと、かん高い音を響かせながら外へ飛び出した。どれくらい前に出掛けたのかは無論不明であった。だが、商店街であれば走ればなんとか間に合う。

 それだけ勝は暇だったのである。

「あらあら、勝君」

 角を曲がった所で咲恵が驚いた表情で勝を見て言った。

「勝ちゃんもお買い物行く?」

 そう言ったのは咲恵の前を歩いていた桜である。「荷物持ちがいるだろ」と勝は二人から視線をそらしてぶっきらぼうに答えた。

「まぁっ。それじゃ、お米買っちゃいましょう」

 顎に指をあてて言う咲恵は、運んでもらう手間が省けたとばかりに喜んだ。何を話すでもなく、三人は並んで商店街まで歩いた。取り立てて桜が軽快にかつ快哉と大きく手を降って歩いているのが勝には気になった。笑顔を見ている分には勝とて気分がよい。

 商店街は今日最初にして最後の賑わいを見せており、買い物籠を携えた婦人が買い物に勤しんだり、井戸端会議に興じていたりしている。農協横の『富士ストア』とて、一番のかき入れ時である。

 商店街に入ると、咲恵は水を得た魚とばかりに、それは買い物をした。なぜか油揚げを買い込み、珍しく分厚く切り分けられた豚肉と大瓶の桃のジュースをも買い。サイダーを一ケース注文して、買い物籠が溢れんばかりに野菜を購入した。宣言通り米も買い、勝はそれを両手に抱える。いつもはこんなに買い込まないだろうと、燦然と買い物を続ける咲恵を訝しむ勝。

 桜は風呂敷に包まれた大瓶を大事そうに抱きかかえ、咲恵の傍らで目を輝かせている。

 まさに親子であると勝は再三再四思った。仮に桜が実子であったとするならば、桜は果たして自分とっては妹であろうかそれとも姉であろうか……勝は目を細めて物思いに耽った。

 端正な性格からは姉であり、時折見せる幼い表情からすれば妹である。兄と慕われるも悪くはないが、それでは張り合いに欠ける。かと言って、弟に成り下がってとやかく言われるのも気が進まない。

 勝は開眼して桜の横顔を見やった。やはり可憐である、優美である。そして可愛らしかった。見つめれば見つめるほど香り華やぐ蓮華草である。

 咲恵とて実母であることを度外視すれば、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。物腰が柔らかく端麗であり妙齢の娘であるのだ、赤い信女であるならば言い寄る男とて星の数であろう。

 だが、やはり咲恵は母親なのである。母にときめきを覚えるなど夢にも見たことがない。ゆえに勝が桜に対して心躍らせるのは桜が勝にとって野に咲く花であるからであり、これが家にあれば、色めき立つ感情とて湧き立つまい。

 手に取るな、やはり野に置け蓮華草。

 勝は思索の末、うんうんと何度も頷くと桜の隣へ歩み寄ったのだった。

 秒読みの最終日。番狂わせの昨日をよそに今朝は「勝ちゃん、朝だよ」と桜に起こされて勝は目覚めた。これぞ真の新しい一日の始まりに相応しい。

 寝惚け顔で居間へ向かうと、桜の他にもう一人顔なじみが腰を降ろしていた。

「なんで景」

 目を擦るが、それは紛れもなく景の姿であった。

「私で悪かったわね」

 と苦々しく舌を出す景。

 よく見れば、その傍らにはこんもりとした風呂敷包みが置かれてある。

「今日泊まるのか?」

 幼少の頃から、景が泊まりに来る時、必ず風呂敷に包んだ『お泊まり用具』を持って来るのである。

「お母さんが声をかけたのよ」

 湯気立つ鍋を持って咲恵が台所から現れた。匂いからして味噌汁だろう。

 景を交えての朝餉はいつもに増して、朝一番からして盛り上がった。痛快無比であれば食も進むのである。はじめて桜がご飯のおかわりをし、勝と景がそれに続いた。

 実質、春休み最後の日を賑やかに過ごそうと咲恵が思いついた『お泊まり会』は上々の滑り出しを見せたのであった。朝餉の後、手伝いを申し出る桜と景に後片づけを断った咲恵はちゃぶ台の上に弁当を並べると、両腕を腰にやって三人の前に仁王立ち「今日は一日思いっきり遊んで来なさい!」と満面の笑みで一喝し三人をさっそく家から追い出したのであった。

 咲恵の言葉に意気込んだ三人だったが、かねてからの予定があるわけでもなく。何をしようかと半ば途方に暮れた。

「鬼ごっこでもするか?」と的を射ぬ提案をした勝に「三人でやっても面白くないよ」と桜が真面目に意見した後すぐに、

「うちに来る?」

 っと景が思い出したように言った。

「いいのか?おやっさん居るんだろ」

 勝なりの気をつかってみた。「せっかくのお休みなんだし、うるさくしたら迷惑かも」と桜。

 そんなぁ、と景は遠慮する二人に向かってけらけらと笑って見せた。

「勝ちゃんらしくないわよぉ。それにおとうちゃん、女の子が多い方が良いって、いつも言ってるし、勝ちゃんが来れば、〝酒の相手が来た〟って喜ぶと思うわ」

 はたしてこれは冗談と謙りを混合させた景なりの言い回しなのだろうか。あの剛胆な父を想像すれば、本当にそれくらいのことは軽く言ってのけるやもしれない。

 「がはははっ!」と高笑いをしながら左手で桜の頭を撫でに右手で勝に酒を勧める剛蔵。容易に想像ができてしまった勝は顔を青くする。桜をみやると、想像してしまったのか桜は口を小刻みに振るわしていた。

「大丈夫よ、お母さんいるからぁ」 

「そう言う問題かかよ」

 即答する勝。何度として足を踏み入れたことのある幼なじみの家が鬼ヶ島に思えてきてしまった勝であった。

 犬と猿とキジはどうしたものかと阿呆なことを考えながら勝は先行する景と桜の後ろを歩いていた。

 実を言うと剛蔵はそのような鬼ではない。体躯や時折、尾籠【びろう】な言動からして歌舞伎者に似つかわしい外見であるが、妻である紗と子である景をとにかく大切にする男であり、酒を浴びるほど飲もうが酩酊したことがなく、ひとたび腹が減れば鯨飲馬食。そのさまには蟒蛇【うわばみ】でさえ舌を巻くだろう。よく寝よく働く景の父はまさしく豪快であった。そのくせ、見ていて気持ちが良いほど嬉々としてよく笑うのである。

 紳士と呼ぶには少々がさつであるが、そんな性格が幸いしてか剛蔵の顔の広さは人並み外れていた。

 前を歩く二人は景の母である紗の話題で盛り上がっていた。優しい目元と剛蔵と相反する華奢な姿。一見して病弱に見えるが、実のところ今まで風邪以外に病気をしたことの無いと言う堅牢な健康者であった。加えて、あやとりとお手玉がとても達者であり、勝も幼い頃教えてもらった記憶がある。

 商店街の入り口付近まで来て、三人は野球道具を携えた一団とぶつかった。桜は急いで景の反対側へ移動し、勝は表情を険しくしていつでも飛びかかれるようにと拳を握った。多勢に無勢ではあるが、孤軍奮闘してみせる覚悟である。

 しかし、一団は三人に取り立てて関心を抱く気配もなく、のんびりと閑話に花を咲かせている、さすがにちらほらと珍しいものを見る目で桜の表情を窺っている者もいたが、不思議だったのは視線に甘ったさが含まれていたことである。

 気色が悪いと、勝は眉を顰めた。

「勝っ」

 一団とすれ違った直後、後ろから勝を呼び止める声が聞こえた。勝だけともなく景と桜も同時に振り向いた。

 声の無視は幸太であった。はにかんだ笑みを浮かべた幸太は何かを誤魔化すように頭を掻きながら「今から試合やるんだけど、勝も来ないか」と話した。

「俺?」  

 勝は自分の顔に指さして疑問符を浮かべた。

「ほら、この前ボール拾ってくれたろ。勝があんな球投げられるなんて知らなかったぜ」

「ピッチャーやってくれよ」

 と幸太に続いて一郎も申し訳なさそうに苦笑を浮かべながらそう言った。

「いや……でも……」

 勝は葛藤に喘いだ、大暴投で有名だった自分がよもや投手を任される機会をえるなどと、誰が予想できてだろう。

 どうして今日なのだ!勝は桜を振り返ると唇を噛んだ。どうして昨日ではなく今日なのだ。昨日など一日寝ていたに等しく、なんのしがらみもなく野球に興じることができたと言うのに。よりにもよって春休み最後のこの日なのだ。勝は内心で揺れる天秤を蹴り飛ばして、鬩ぎ合う甘美な世界と心躍る躍動の板挟みに煩悶となってしまった。

「勝ちゃん行ってきたらいいじゃない」

 と景は半笑いで言い、

「私は景ちゃんと遊んでるから。グローブは下駄箱の中にあるからね」

 桜は後ろ手に微笑んでそう言った。

 勝は乙女二人の後押しに一抹の寂しさを覚えたものの「おう」と答え一郎と幸太と共に空き地へ足を進めた。

 なんと有意義な時間であっただろう。勝は泥だらけの裾で顔についた汗と砂を拭った。

ついに投手として出番することはなかったが、グローブを左手にボールを追うだけで十分に悦喜であった。快哉と叫びたい気持ちは胸の中に、勝は一郎や幸太と肩を組んで互いの健闘を讃え合った。

「じゃあなっ!」 

「おうっ!」

 汚れた顔に笑顔を浮かべて勝は角を曲がろうとした。一端駆けに風呂に入りたいと汗臭いシャツと砂埃で汚れたズボンを指で摘んでみた。

「あら勝ちゃん」

 門柱から景と桜が姿を現した。

「どっか行くのか?」

 確かに夕餉には早いが、この時間からして再び遊びにいくとは思えない。

 これ、と景が言った。

 差し出した、日捲りの裏には『まだ帰ってきちゃいけません』と毛筆で書かれてあった。

「玄関の戸に貼ってあったの」

 と桜。

 咲恵は何を企んでいるのだろうか。勝と桜と景は、その真意を確かめるべく、台所の窓まで屈んで行くと、そっと窓から台所の中を覗いた。

 丁度、野菜を持った咲恵が窓の前を通り過ぎたのである。慌てて顔を下げる三人、心なしか手に汗をかいている勝。その隣では桜が自分の手で口を塞いでいた。景は壁に背中を貼り付けている。

 何をしているのだろう。勝は隠れた自分が阿呆らしくなった。悪事をはたらいているわけでもあるまいに……例え見つかったところで何を言われる筋合いなどありはしないのだ。

 勝は体たらく大胆不敵に覗いてやろうと一人顔を上げようとしたが……

「もしも、窓の外に勝君たちがいたらぁ…………妖怪顔舐めがすぐにでも裏木戸から駆けだして来たりしてぇ。まぁ恐い。独り言独り言ぉ」

 まな板を打つ音と共に、咲恵の確信的な『独り言』が勝を思いとどまらせた。景は「顔舐め?」と首を傾げるに止まったが、勝と桜は顔色を悪くして、ここは大人しく撤退すべきであると、以心伝心にて戦略的撤退を選択したのである。

 時に退くも戦略なのだ。

 息を殺し、忍者のごとく足音を立てずに門柱付近まで来た時、後方で木材が軋む不気味で嫌な音が聞こえた。

 思わず顔を見合わせる勝と桜。二人は知っていた、その音は裏木戸が開いた時にのみ発すると言うことを……

 勝と桜は無言で駆けだした。それはもう走った。「どうしたのよっ」と後方から景の声が聞こえたがそんなことはお構いなく走った。

 公園まで走ってようやく振り向いて見るとそこには誰の姿もない。はたして妖怪は勝たちを追い掛けるを諦めたのか、ただ悪戯な笑みを浮かべ、からかっただけなのか。真相はいかに……

 勝が病院の角を睨み付けている間に乙女二人は、対面して腰掛ける箱形ブランコに座ると桜が景に『妖怪 顔舐め』について説明していた。

はははっ、と笑った景。

「おばさんらしいわね」

 そう続けて言う景に対して、桜は「笑い死ぬかと思ったんだから」と真面目に言うと唇を尖らせた。

「ちぇーっ。母さんにからかわれた」

 勝は我が母親ながらと苦々しく言いながらブランコの乗り口に足を掛ける。座席スペースはいずれも二人掛け。一方には景、もう一方には桜……男心に意識せずとも、自分にくべられる乙女の視線に気が付いてしまったかぎりは、いずれの隣に座るべきだろうか……黒髪を切って幼い印象に様変わりした幼なじみ。はたまた見つめるその黒い瞳にすら魅力を感じずにはいられない意中の乙女か……まさに様相は大岡裁き。

 勝としては、どちらに腰かけようともかまわなかった。むしろ、汚れた衣服と肌にこびり付いた汗臭さを考慮すると、桜と景双方の隣に座ることすら気が引けた。

「鬼ごっこでも……するか?」 

 苦し紛れの誤魔化しであった……「「しないっ」」変なところでは息の合う二人である。

「服汚れても俺知らねぇからな」

 勝は桜の対面、景の隣に腰を降ろした。勝が加わった分、桜側が少し押し上げられた。

「もー、勝ちゃん汗臭い」頬に桃色を宿し照れ隠しに景が鼻を摘んでそう言う。一方の桜は苦笑しているだけだった。

「景だっていつも、汗まみれのくせによく言うぜ」

「そんなことないわよ」

 景ならば、少々の汗臭さは慣れているだろう。勝なりに考えたのである。

「そうだっ、勝ちゃん聞いてよぉ。お父ちゃんたら桜が娘だったらよかったとか言うのよ。お前が男だったら嫁に来てもらえたのに、とかも」

 仏頂面で言う景は、どこか楽しげな雰囲気を醸しだしている。「そりゃ桜の方が器量よしだもんな」景をからかう口調で言ってのける勝。「なにをぉ!」っと景は勝に掴みかかった。

 それはそれは微笑ましい情景であった。

「ずっとこんな毎日が続けばいいのになぁ」

 景と勝が暴れ、揺れるブランコ。桜が二人に向かってそう微風のように言った。

「えっ」

 立ち上がって拳を振り上げていた景がそう言って動きを止める。「どういうこと?」と座席に座り直して続けた。隣の勝は俯いて何も語ろうとせず、桜は優しくも寂しい笑顔を浮かべている。

「私もう少ししたら、また転校するの」 

「ええっ!」

景は驚愕して立ち上がると、海に木霊するほど大声をあげた。

「勝ちゃん知ってんの」

「ああ、ずっと前からな」

 ふて腐れて言う勝。

「なんで、教えてくんないのよ、それなら、桜と勝ちゃんに練習付き合ってもらわなかったし、もっともっと時間つくったのに!なんか私、バカみたいじゃない……」

 景は勝の頭に向かって激しく言うと、大きな瞳を潤ませた。桜の限られた時間を自分のために無駄にしてしまった。その上、自分のことで精一杯であり、友達を気にする余裕もなかった……知らなかったと言いわけすれば全ては許されると思ったが、そんな自分は嫌いなのである。

 なにより、自分だけが知らなかったことが切なかった……

「景すぐ泣くだろ……」

 目元を拭う景を見上げて言う勝。「うるさい」と景は強がった。

「景ちゃん泣かないで。一緒に練習したのも楽しかったもの、全部良い思いで。それに、明日、明後日って話しじゃないから。詳しいことは決まってないの……お父さん達が遠くまで行ってビラ配りとかして、お客さんの入りも良いから延長公演するだろうって言ってたし」

 精一杯に取り繕う桜。『……公演の合間に必ず寄せてもらいます……』そう言った良介は結局、筒串家に顔を出さなかった。裏方を役務とする父……しかし、小さな一座である、時として役者として舞台に立つこともあれば大道具、小道具問わず修繕とてしなければならない。これまで父の背中を見てきた桜にはその忙しさを知っていた。ゆえに、良介が来られないのも仕方がない。とあきらめもついた。

「そうか、公演が長引けば、その分桜も長く居られるのか……」

 勝は茜雲を見上げて、意味深な呟きを浮かべた。

「うん。そうだけど……?」

 自分に投げ掛けられた言葉か否か定かではなかったが、半信半疑ながらも桜は調子を合わせた。

「よしっ!俺たちもビラまくぞ!」

 書き置きに使われたビラを思いだしながら、勝は力強く景と桜に言った。

「どこに?」

 短絡的と怪訝な表情をする景。

「隣町に決まってんだろ!」

 勝の家にビラがあるかぎりはこの辺りはすでにまき終わっているだろう。ならば、隣町である。人通りもあり家々にまかずとも、街を行き交う人々に渡せばそれだけで効果絶大だろう。

 なるほど。と景は頷いた。

「でも、バス代なんかないわよ」

 頓挫とばかりに景がポケットをまさぐってそう首を振った。

「自転車!」

 勝は凛とした黒い瞳で頼もしく景を見下ろす。

 桜は終始黙ってその様子を見ていたが、生き生きとした勝の姿を見ていると、豆腐をくれたあの時、校門で助けてくれた時。他者のために一生懸命になってくれる勝を思いだした様に胸の奥がほのかに熱くなるのだった。

 決行は始業式と定めた。

 「ありがと、私のために」と恐縮して言う桜に「私たち友達じゃない!」と言いながら桜の隣へ移動した景は桜の肩に手を回した。

 夕暮れ。海にとどかんと伸びる三つの影。そろそろ頃合いだろうと、腹時計に身を任せた勝は家に帰ることを提案し、桜と景もこれを了承してブランコを降りた。

「私たちも二年生ね。あー私先輩になるんだぁ」

 実感がないと、景は手を頭に後ろに回して空を見上げた。

「後輩に背番号とられたりしてな」

 けけけっと天の邪鬼のような笑いを浮かべる勝。

 それに対して景が「ふふふっ」と小悪魔のような笑い声を立ててから、

「望むところよっ!格の違いを見せつけてやるわっ!」

 っと鼻息を荒くした。

「今度は勝ちゃんや桜と同じ組になれたらいいなぁ。ねぇー桜」

「うん……でも、私、もう学校いかないかも……新学期になってもすぐ転校しちゃうだろうし」

 病院の入り口の前で立ち止まり俯く桜。

「なーに言ってんのよ。そうならないために!ビラ配りにいくんでしょうがっ」

 景がやけくそに気味に言いながら桜の肩に手を置いた。

「三人で学校行こうぜ、なっ」

 たまには景も良いことを言う。と勝は台詞を取られたような複雑な心境であった。

「景ちゃん……勝ちゃん……ありがと」

 顔を上げた桜は嬉しさのあまりついに目にいっぱい涙を溜めていた。今にもこぼれそうな涙を拭う桜。「なんで泣くかなぁ」と眉を下げた景とてもらい泣きである。

 乙女の純粋なる滴。そこに加われないのは男子ゆえである。乙女三人であれば三人抱き合ってわんわんと声をあげて泣いたことだろう。

「三人ともぉ。ご飯ですよぉ」 

 間の善し悪しは別として、咲恵が角から姿をあらわした。手に持った玉しゃくじを高々と掲げて「おーい」と声を掛けている。

「今日の晩ご飯なんだろうね」

「さぁな、見当がつかん」

「きっと美味しいものだよっ」

 涙を拭った桜は明るくそう言うと「ただいまぁ」と駆け出すと、そのまま咲恵に抱きついた。

「ああっ、桜ずるーい!」 

 景も慌てて駆け出す。

 眼前には婦女と乙女の微笑ましき交わりがある。嬉しそうな母や桜の表情から察するに、両者共にこのような家族を望んでいたに違いなかろう。だからと言って卑屈になることも拗ねる気など勝にはさらさらない。

 乙女の笑う顔を見ていて悪い気などしないのだ。

 門柱を跨ぐと途端に芳しくも香ばしい匂いが勝の空腹を一層かりたてた。

「ライスカレーだ!」

 と景は目を輝かせ「おばさま本当?私初めて食べる!」と桜は咲恵の腕に縋った。

 間違いあるまい。勝は確信していた。若干刺激を予感させる匂いはまさしくライスカレーそれなのだ。と言うことはご馳走が期待できると言うことである。ライスカレーの日は決まってなにか祝い事の日であり、少なくとも咲恵が得意とする絶品お稲荷は食卓に並ぶだろうと勝は身震いをしてから汚い袖で口元を拭った。

「勝君は先にお風呂ね、水は張ってあるから」

 居間にはすでにライスカレーを筆頭にお稲荷さんに豚カツ、ゼリーに大瓶の桃ジュースにサイダーの瓶が並べてあるではないか。「なんで」と抗議してみると「汗臭いでしょ」「せめて着替えた方がいいと思うよ」婦女の意見は一致をみて勝の抗議などどこ吹く風……蛇の生殺しとはまさに……

 勝はちゃぶ台の前に座り込みたい衝動を必死で堪えると、涙をのんで風呂場へ急行した。「ちょっと勝君、沸かしてから入りなさい!」時すでに遅し、咲恵が慌てて風呂場へ向かうと、勝は水風呂の中で震えていた。

「そんなに待てるか!冷めちまう」

 勝は母にドアを閉めさせると、真冬の滝行のように冷水を浴びて体を洗った。

 一方、勝と咲恵を待つ桜と景とて、蛇の生殺しである。食前方丈と贅沢品が並んだちゃぶ台の前に腰を降ろして止め処なく湧き出でる生唾を何度も飲み込んでいる。「私、お腹と背中がくっつくかも」と景が漏らすと「私はもうくっついた」と桜は黄金色のライスカレーを穴が開くほど見つめて呟いた。

 その内「なっなんで母さんがいるんだよ」と脱衣所から勝の慌てる声が聞こえ「下着と服を持ってきてあげたんでしょ」と咲恵の声がした。 

「もう少しだけ待ってねぇ」 

 板間から出てきた咲恵は二人にそう言うと、カレー鍋を台所から居間へ持ってやって来て「いっぱい作ったから沢山食べてね」と言うのだった。無言で何度も頷く桜と景、「あらあら、桜ちゃんったら。よだれがでてるわよ」

 はっとなって桜が慌てて口元を手で隠した。

「私、ライスカレーはじめて食べるんです……だから、わくわくしちゃって」

 そう言った桜は頬を赤くして恥じらって口をすぼめた。

まぁ、と咲恵は手の平を合わせて言った。

「それはよかったわぁ。ちらし寿司にしようかと思ったんだけど、思い切ってライスカレーにしてみたの」

「まだ食ってないよなっ!」 

 仕切戸が勢いよく開き、勝がそう大声を出した。「まだ誰も食べてませんよ」と咲恵が言うと、勝は小躍りしながら自分の場所へ向かうと大袈裟に腰を畳みに叩き付けた。

 贅沢を極めたまさに酒池肉林。

「いただきますっ」

 宴の始まりである。

 桃ジュースを飲んでライスカレーを頬張り、それをサイダーでそれを流し込み、喉が焼けるような炭酸の刺激で悶絶びゃくじし、起きあがってお稲荷さんで落ち着く。胃袋で混ざる前に口の中で混ぜるのである、それは味覚を度外視した壮舌な味であった。

 しかし、食が進むにつれて満たされる至福はなにものにも代え難い。

 桜と景はむしろ勝の食べっぷりに呆れていた方だったが、控えることなく満足するまでたくさん食べ、そして飲んだ。

 食べ盛りの三人を前にちゃぶ台の上の皿は瞬く間に片づけられ、カレーもお櫃の米もそれに追随してきれいさっぱりなくなってしまった。

 そんな風景を嬉しそうに見ている咲恵は、美味しそうに食べる姿を、喜色満面と書いた顔を眺めていることが幸福と、少々行儀が悪くとも微笑みを絶やさなかった。

「みんなやっぱり食べ盛りね。あっと言う間になくなっちゃったわ」

「美味しかったです」 

 と桜が水を飲んでから言った。「食べ過ぎちゃったぁ」と景。勝に至っては「うう、吐きそう……」と膨れた腹をさすりながら畳みの上に大の字になっていた。

 後かたづけの手伝いを申し出た二人だったが、咲恵が片付けを一手に引き受けると断言され、やむなく桜と景は満腹の腹をさすりながら離れへ行き、景の母から教わった綾取りやおはじきをして遊ぶことにした。勝はその隣で相変わらず「うぅ、苦しい……」と唸りながらごろごろと転がっている。

 宵の口を過ぎ、台所から食器を洗う音が消えてから少しの間を経て「三人共いらっしゃーい」と居間から咲恵の声が聞こえた。『なんだろう?』と顔を見合わせた乙女二人は景を先頭に居間へ向かい。勝は幾分、楽になった腹を抱えてのっそりと居間へ向かった。

 居間には夕餉が終わったいうのにちゃぶ台が出され、その上に朱色の敷物が敷くかれてあった。さらに敷物の上に大蛤の二枚貝の片側が四角形で伏せ置かれており、内側につれ象られる四角形は小さくなっている。

 丁寧に磨き上げられた黄白色の殻表は鏡のように覗き込む勝たちの顔をうつしていた。

「さぁさぁ、座った座った」

 そう言う咲恵の傍らには六角形の黒光りする漆塗り仕上げの箱が置かれてあった。

「これは〝貝覆い〟と言って、ずっと昔からある遊びなのよ」

 咲恵は箱から貝をさらに出すと、四人分に分けて、一人一人に渡して回った。貝の内側には金や銀色などを用い、風光明媚な日本の四季が描かれており、貝によってはミミズが這った様な文字が書かれている。

「これ屋根裏にあったのか?」

 勝でもこれが高価な一品であると一目見てわかるほど、精錬されていた。

「これは、お母さんのお嫁入り道具なの。この家に来てからはじめて開けるんだけどね」

 大きな桐箪笥や用途不明の大皿などは聞いたことがあったが、この『嫁入り道具』は初耳であり初見である。

「簡単に言うと手に持ってる貝に、机の上にある貝を合わせる遊び、二枚貝は一枚として同じ形はないのよ。不思議よねぇ」

「それって、トランプの札合わせと同じですか?」

 桜が手を上げて咲恵に聞く。「そうそう、遊び方は札合わせと同じね。トランプか貝かの違い」と桜の問いに「うんうん」と咲恵が頷いた。

 蛤は同一の貝しか二枚があわない。つもるところ『貝覆い』とはその性質を利用した

和製札合わせなのである。

 「あとは遊びながらねぇ」とじゃんけんでもって順番を決めて貝覆いが開始された。要領をつかまぬ三人は恐る恐る貝を捲っては、自分の手に持った貝の絵柄を確認しいてゆく。桜と景は負けるまいと、真剣な眼差しで捲られる貝の絵柄と場所を記憶していたが、勝は集中力を伴う遊びは不得意でありもっぱら適当に捲っていた。

 しかし、適当に撃った鉄砲とて偶然を経て獲物に命中することがあるのだ。

「おっ、やりぃ」

 皮肉にも一番最初に貝を合わせたのは、ぞんざいに貝をひっくり返していただけの勝であった……それには乙女二人は唇を尖らせ、眉を顰めた。

「あらあら、一番最初に貝を合わせると好きな人と良縁で結ばれるそうだから、勝君よっかわねぇ」

 途端に顔色が悪くなる乙女。「一番になっても同じだから桜ちゃんも景ちゃんもがんばって」と咲恵が軽く言うと、血色を取り戻し腕まくりをして身を乗り出した。

 そんな都合の良い話しがあるものか?と勝は思ったものの、願わくばと最初に合った姫の絵柄を見つめて人知れず想いを込めるのであった。

 下手な鉄砲はやはり下手なのである。その後は俄然やる気の闘志を轟々を燃やした桜と景の一騎打ちとなり、すでに勝などは眼中にさえなかった。これが微笑みを浮かべ悠々とした中で興じていたならば錦上に花を添える風情はまさに乙女の園。眼福の極みであろう。

 しかし、現実とはかくありき……緊迫し張り詰めた空気の中、乙女二人が火花を散らすのである、そしてそれに油を注ぐのは誰であろう母、咲恵。地味にかつ堅実に涼しい顔で貝を合わせて行く。さながら二虎競食を眺める狼のようである。様相はすでに三つどもえ、終盤に至るやすっかり勝は蚊帳の外であり、順番すら飛ばされる始末……それでも勝は文句も言えず、ただ一組の大蛤を丁寧に手の中に隠し、固唾を呑んで勝負の行方を見守っていた。

「私の勝ちねぇ」

 咲恵がばんざいをする……大人げないの一言に尽きる。「やーん。私ったらもう勝太郎さんがいるのにぃ」と唇を噛んで露骨に悔しがる桜と景にわざと煽り言葉を履きかけるところからして咲恵も負けず嫌いなのだろう。

 競って傷つけあう二虎を藪に隠れて舌なめずりをしていた狼がまんまとかみ殺した構図。これを二虎競食の計と称す。

 「もう一回っ」「お願いしますっ」と咲恵の意中にはまった二人はおのずと再戦を申し込んだ。「何回でも相手になるわよぉ」と嬉しそうに言う咲恵はやはり確信犯なのだろう。

 白熱した勝負をその後三度行うこと、またしても一度咲恵が勝利し、後は桜と景が辛勝ながら『良縁』を手に入れた。勝は戦線を離脱して傍観に徹していたが、勝が初戦で合わせた姫の絵柄の貝を三戦ともに桜が合わせたことに無言の歓喜を感じるのだった。

 満腹の腹が眠気を誘う舟歌を独唱するころ、貝覆いを片づけた乙女と婦女はまだまだ宵の口と離れへ姿見やら浴衣や振り袖やらを持ち込んで障子を閉めた。

 天の岩戸へ友人を引き連れて隠れた天照大神のごとく、黄色い声のもれる離れ座敷は痛快無比。この様子では当分太陽は拝めそうにない。

 勝君。と言って咲恵が一人離れから姿を現した。肩に帯をかけた母は仏間に明かりを灯すと「ちゃんと褒めてあげてね」と勝に耳打つと離れへ帰って行った。

「なんのこっちゃい」  

 と胸元を掻きながら勝は大きなあくびをした。

 程なくして、「見て見てぇ」と景がやって来た。季節はずれにも浴衣を身に纏っていっるではないか。胸元に赤い金魚の柄が入り全体には水感じさせる水色の筆書きに笹などが描かれている。祭り時ならば目に涼が栄えて趣があるだろう。しかし、いまだ肌寒い昨今ではそれも蛇足である。

「浴衣って早くないか?」

 むぅ、と景が言う。

「いいの、これ可愛いんだもん」

 まぁな、と勝。

「今年の夏にまたそれ着ろよ。夏祭り行こうぜ」

 花のかんばせ。幼なじみの新しい一面を見た気がした。髪の毛を短くした印象の変貌はともかくとして、浴衣は乙女を彩るのである。

「うんっ!」

 と声を弾ませて帰って行く景。今年の夏祭りの楽しみが一つ増えた。

 景が離れへ戻って行った後、勝は生唾を飲み、腹が舟歌を奏でる小舟をひっくり返してこれを黙らせ、高鳴る鼓動をひた隠し次なる乙女の参上を心待ちにした。その思いたるや一日千秋。

 勝は目を閉じた。障子が開き、足袋が畳みを擦る音が近づいて来る。手に汗握るこの緊張感、意中の乙女はいかなる変貌を遂げているだろう。目前に迫るその際は歯に衣着せぬ物言いで望むだろう。勝には決まって褒め言葉しか出て来ないと確信があった。

 頃合いである。足音は目の前まで迫った。時は満ち足り!勝は目を思い切り見開く、はたして乙女はどのように彩られたるや。

「ちょっと通してね」

 母がいた……それも一言口にすると、さっさとすれ違い後方の着物箪笥を開けて何やら探し物をしている。

 乙女ではない。まして娘でもない。その落胆たるや、勝は気が抜けると蛸の様に骨抜きにとなって畳みに顎をもたせ、これ以上なく項垂れた。一日千秋の思いで母を待っていたわけではないのだ。

「おばさま、まだですかぁ」 

 離れからは桜の声が聞こえて来る。どうやらまだ準備が整っていないらしい。咲恵は化粧道具や帯などを抱えると「もうちょっと待っててね」と勝に言い残して足を速めた。

「桜だけずるーい」と景の声が聞こえ「景ちゃんもしてあげるから」と咲恵の声。察するに桜は景以上に手間がかかっているらしい。

 しかし、その時はいずれやってくるのである。「これでよしっ。うん可愛い」との声が聞こえた時、勝は思わず姿勢を端正に仏間の向こうへ熱い視線を注いだ。

 障子が開く。眩しく光る離れの電球を逆光に舞台上へあがるトップスターのごとく桜が現れた。

「どうかな」

 恥ずかしそうに両手を絡めながら言う桜。

「さくら」

 と勝は一言、呟くしかできなかった。

「なに?」

 桜は桃色の頬のまま勝の顔から視線からはずして言う。

「あぁ、いや、櫻だなって……」

 桜は浴衣ではなかった。桃色の生地に櫻の花弁を思わせる濃淡。青色の帯は川のごとく、花弁が落ちれば情緒漂う花筏。桜と櫻、季節柄と相俟って華麗な出で立ちには頭を提げるしかもはや術はあるまい。

  だが、それ以上に勝の心を鷲掴みにしたのは、長髪を結い上げて簪で止め、小さな唇に紅を刺した玲瓏たるその容姿であった。表すに明眸皓歯。

 急に大人びた桜にはあどけなさを少々残しつつも、それがゆえ桜本来の麗質さが際立った。その美をひた隠し孵化の後、両翼を堂々と広げた揚羽蝶のように。

 髪型を変えただけで、これほど印象が変化するのかと勝は美辞も麗句も嘆美さえも超越して度肝を抜かれてしまった。

「桜ちゃん、戻って来てぇ」

 と咲恵の声が聞こえる。桜は褒め言葉の一つ言くれない勝の顔をみやると、怒ったような寂しいような、複雑な表情を携えて離れへ帰って行ってしまった。

 不覚である。ぞんざいな鍛錬の末、不足がゆえに苦杯をなめることになってしまった。

とは言え、極寒の台地あろうともいとも容易く春にかえてしまう、桜の鮮麗なことと言ったら……勝は思い出すと顔を紅潮させ、陶酔境に浸るのであった。

 緊張の糸が切れてしまえば、自力で船をひっくり返した船頭が再び舟歌を口ずさみ始める。どうして転覆させなかったのだろうと後悔するも遅し。相変わらず障子の向こう側では何やら愉快な声が聞こえてくるのだが、所詮、勝にとってすれば交わることのない弦である。あくびと背伸びを繰り返しなんとか覚醒の体を保っていた。

 横になろうかテレビでもつけようかと考え始めた頃になって、再度障子が開き、ぞろそろと三人が出てきた。今度は先程とは一線画した豪華絢爛な振り袖三姉妹である。

桜と景ならまだしも、ちゃっかり咲恵までも着替えている。色とりどりの濃淡鮮やかに金糸銀糸の椀飯振る舞い。『和装贅沢ここに極まれり』と評すに相違なかろう。

「お母さんも着替えちゃった」

 と着付け役が咲恵が着物を着た桜と景に感化された旨を語った。

 紅をさした景は鞠遊びに興じる日本人形ようであり、大人びて見える桜とは一風かわっていた。

 ぬぅ、と勝は口もとをぎゅっと引き締めた。眠気からだろうか、景と桜、加えて咲恵。本当に三人姉妹に見えてしまう。摩訶不思議と言わざるを得ない。姉妹の手前で勝は言葉を選んだ、この現状にしっくりこっくりくる言葉はただ一つ。

「七五三みたいだな」 

 語彙通りで言うなれば咲恵、桜、景である。我ながらうまく言い表したものであると「はははっ」と勝は笑って見せた。

  乙女心は杳としてしれず……

 せせら笑う勝を前には、力を込めて堅く目を閉じ目元を振るわせた三人姉妹の姿があり、大ひんしゅくを全力でかってしまった事実に勝が気が付くのはそう遠くない未来であった。


      ○


 着替えを済ませた三人に鬼気迫る般若の形相でさんざん追い回され、土間へ追い込まれた勝は必死に謝り倒した。それでも咲恵に鉄拳をもらったのは言うまでもなく、取り分け桜に許してもらったのは寝屋の準備が整った後であった。

 離れに四枚の布団が整然と敷かれた。所狭しと並べられた布団の上に飛び込んだ勝は海水浴のごとく布団の上で手足をばたつかせ、背筋を正した布団を見るも無惨な姿へ変貌させ、寝間着に着替えて入って来た桜と景に激しく怒られた。

 仏間側から景、桜と布団を選び、咲恵を挟んだ隣の定位置が勝となった。

 乙女たちは煌びやかな和装に袖を通した興奮冷めやらぬと、すでに船を漕ぎ始めた勝とは対照的に含み笑いが止まらない様子である。

「まぁ、二人とも夜更かしさんなんて悪い子ねぇ」

 明かりを落として離れへやって来た咲恵は、今だ眠る気配のない二人を見下ろしてそう言った。

「楽しくって眠れないんです」「私も」

 と桜と景は布団から顔だけを出して咲恵を見上げた。すると「私も全然眠くないわぁ」

と咲恵は桜と景の間に両腕を広げて倒れ込んだ。きゃいきゃいと口々に悲鳴に似た歓喜の声をあげる二人。

「それじゃあ、昔話してあげましょう」

 と咲恵は乙女の間に入り込むと、両手をそれぞれの頭の下を通して腕枕をした。

「どんな昔話なんですか?」

「うー、私が結婚してこの家に来てすぐのお話」

 これには勝の耳とて興味をそそられた。

 てっきり説話のたぐいかと思っていたのだが……

「あれは、結婚してこの家に引っ越してから、一ヶ月くらいだったかなぁ、洗面所の板間はね。もともと無くって、お手洗いにもお風呂にも一度外に出なければいけなかったの」

 話し始める咲恵。そこまでは勝も聞き及んでおり、きっとその先も同様であろう。

「丁度、洗面台がある場所には池があったの。大きな鯉が泳いでいて、小さな池だったけれど庭園みたいに石の橋はがかかってあってね。池の隣には物干しがあって、日当たりが良くって夏なんて朝干しておくとお昼前に乾いてしまうくらい」

 背中を向けて話しを聞く勝。そこまで詳しくは知らなかった……

「夜とか恐くなかったんですか?」

 お手洗いとか……。と景が恐る恐る聞くと、桜もうんうんと頷いた。

「それはもう恐かったわ。夜中なんてわざわざ勝太郎さんを起こして、ついて来てもらってたもの。夏場は虫も多くて、手の平くらいの大きな蜘蛛が天井からぶら下がってた時は、思わず勝太郎さんに抱きついてしまったもの」

 惚気話かよ、と勝は胸の中で毒づいた。

 そんな勝とは対照的に景と桜は想像でもしたのだろう。顔を顰めるか、あるいは咲恵の脇に顔を埋めていた。

「夏の暑い日だった。私はいつも通り昼餉の準備をする前に洗濯物を取り込んでいたの、そしたら、どこから来たのか見慣れない男が突然駆けて来て、私に抱きついたの……」

 勝は驚いて、半身を起こして母を見やった。桜と景は驚きのあまり凍り付いている。

 咲恵は勝に優しく微笑んだ。その表情はまるで勝に『大丈夫』と語りかけるようであった。勝は静かに枕に頭をもたせると、天井を見つめて続きを聞くことにした。

「とても力が強くて、私ではどうしようもなくて……精々大きな声を出すくらい。でも、口を塞がれてしまって、ついには押し倒されて……」

 勝は思い出していた。その日、桜が襲われた日のことを……熱いものが体の芯から込み上げてくる。眠気などはすでに消し飛び、勝の呼吸は次第に荒くなってゆく。

 それは桜とて同じである。咲恵の袖を握り締める景の反対側では桜が咲恵に抱きついて小さく震えていた。咲恵は桜の頭を優しく撫でて話しを続ける。

「でもね、その時。勝太郎さんが飛び出して来て助けてくれたのよ」

 山もなく谷もない口調で言う咲恵、景は『ふぅ』と息を吐き握り締めていた手を解き桜も埋めていた顔を腕の上に戻した。

 だが、勝だけは焼けた鉄のごとくなかなか怒りを静めることができなかった。

「勝太郎さんは私に恐い思いをさせてしまったって、何度も何度も頭を下げてくれて。そして、二度と同じ事が起こらないように。板間を増築する事になったの。ご近所さんにも大勢手伝ってもらったけれど、勝太郎さんはお仕事がお休みの日は朝から夜まで、お仕事の日も家に帰るなり、わざわざ外に明かりを焚いてな作業をやめなかった……」

 言葉を切る咲恵。何か余韻を味わっているような間である。

「私が少し休んでくれるようにお願いしても〝咲恵さんのためなら命掛けです〟って言ってくれた。私はこの人に愛されてるなぁって思って。この人と一緒になって良かったって思ったの」

 照れ隠しなのか、咲恵はそれを言い切ると、両腕で桜と景の顔を自分の頬のところへ持ってゆき、頬ずりをした。

 結局、惚気話しかと勝は無駄に怒りを煮えたぎらせたことを後悔した。怒りを燃やすと腹が減るのである。

「そんなこったろうと思った」

 溜息混じりに言う勝。

 しかし、「素敵……」「私も……そんな人がいいな」と乙女二人は咲恵の話にうっとりと瞳を綻ばせていた。惚気話に浪漫を見出すとは、やはり乙女心は理解に不可能である。

「んで、母さん襲った奴は誰だったんだよ」

 界隈の人間であったならば気分が悪いことこの上ない。知らぬ方が良いやもしれなかったが、やはり気になるものは仕方がない。

「後で、それが公演に来ていた旅興行の役者だってわかったのだけれど、その時にはもう居なくなっていたわ」

「うわぁ」 

 と景が唸るように声を出した。仮にも一座関係者として桜としては多少なりも心苦しいだろうと思ったからである。

「おばさま、それなのに私のために足を運んでくれたんですか……」

 桜とて心苦しくはあったが、それ以上に同じ境遇にあった女子として咲恵の心境が痛いほどわかった。「そんなことがあってから、お芝居とか苦手になってしまったのは確かよ……でも、桜ちゃんのためだもの、ちょっと恐かったけどねぇ」と気丈に振る舞う咲恵であった。

 だから……、と勝は呟いた。

 だから母は虎穴に入るがごとく、己の内に潜む恐怖心を殺し、武者がごとき仰々しくも懐刀を帯に、胸には鮮血がごとく彼岸花を宿して、己が戦地へ赴いたのであろう。

 母の偉大なるいこと、その悠然たる勇敢な気概。いずれおいても勝の及ぶところにあらず……その強き母の姿に非力たる勝は自分自身が情けなくなってしまった。

 咲恵の昔話は見事、乙女の興奮を冷やしたのである。乙女たちとて咲恵の昔話に思うところがあったのだろう。いずれにせよ寝屋に沈黙をもたらしたことだけは確かであった。

 しかし、勝は憤怒し呆れ、そして落胆した心中はまさに混沌。頭中に数多の思いが交錯し、それはいつしかうねる黒き渦となり、静寂の中にあっても眠ることなど容易ではなかった。 

 そんな頃合い……

「おばさん」

 不意に景が口を開いた。

「なぁに、景ちゃん?」

「ずっとお湯もらって、お弁当もご飯まで食べさせてもらって……本当にありがとうございました」

 景は殊勝な声色で咲恵に感謝の言葉を述べる。

「私も、長い間家においてもらって、デパートにまで連れて行ってもらって……お洋服も買ってもらって……本当にありがとうございました」

 桜は起きあがると正座して頭を下げた。慌てて景も桜に習って正座し姿勢を正す。

風邪をひくわ、と咲恵は言ってから、

「もう、景ちゃんも桜ちゃんも。そんなのは言いっこなしよ。景ちゃんも桜ちゃんも私の可愛い可愛い子どもなんですから。そんな風に言われちゃうとお母さん逆に困ってしまうわ」

 と続け、桜と景に布団に入るように促した。

 咲恵の言葉を受け互いの顔を見合った二人は促されるまま、再び布団に入った。すると、咲恵は桜と景の頭を撫でながら、

「あのね桜ちゃん、景ちゃん。人に甘えるには優しさがいるのよ。それに、人に甘えることはとても勇気がいることなの。だから、桜ちゃんも景ちゃんもそう、二人ともうんと私に甘えてくれたから、私はずっと幸せでした。感謝の言葉を言うのは私の方よ。二人ともありがとうね」

 そう胸の内を話した。

 恐らく咲恵の言葉に嘘はない。しかし、それを素直に受け取ってしまうのは傲慢であろう。だが、だからと言ってこれ以上謙っては、咲恵の行為を無駄にするばかりか慇懃【いんぎん】無礼な態度となってしまう。

 二人は咲恵の海容なる優しさに触れて涙が出んばかりに嬉しかった。しかし、それを言葉に出すことはなく、二人共に黙って咲恵の胸に縋ってその意を表すでのあった。

「なんだか目が冴えちゃったわねぇ」 

 いつまでも桜と景の頭を撫でて続ける咲恵は呟くようにそう言うと……

「おばさんっ」

 こともあろうに、景の脇腹をこそばし始めた。

 途端に発せられる黄色い笑い声。それは部屋覆っていた重い空気を払拭にするに十分なものであった。

 母らしいと勝は微笑みを携え乙女の布団へ寝返りを打つと、桜が首だけを勝の方へむけていた。何を物言う表情ではなかった。ただ桜も微笑んでいたのである。以心伝心を願うならこの瞬間。しかし、勝にはその手の能力は備わっておらず……「次は桜ちゃんよぉ」と桜の襲いかかった咲恵によって桜の顔は見えなくなってしまった。

 その後、『林檎アップリケ同盟』にて咲恵に反撃を開始した二人。咲恵も乙女のように涙を浮かべて大笑いし、どさくさに紛れて桜や景に頬ずりをしていた。

 春休み最後の夜にしてやはり勝を蚊帳の外に婦女と乙女だけが愉快痛快とその夜は深まってゆくのであった。


      ○


 翌朝、桜は迎えに来た良介と共に筒串家を去って行った。何度も礼を述べる良介の傍らで、天井や下駄箱、台所への入り口にかかった暖簾。桜は全てを瞳に焼き付けるように家の中を見回していた。無論、その中にある勝と景、咲恵の姿とてしっかりと焼き付けたことだろう。

 勝は柄にもなくこれが夢であって欲しいと願った。殊勝顔で桜を見つめる勝。邯鄲の夢。あの夢は……願望が夢となったのかも知れない。具現化しうる過去へ戻りたかったのだ。いつかやってくる別れが恐かったのかもしれない。夢であって夢でないことを切望したのである。

「また明日ね」 

 と桜が言った。

「明日迎えに行くわねっ」

 と景が答える。

 勝はすぐに答えることができなかった…………それでも「勝ちゃん?」と首を傾げる桜に勝はやっと「おうっ!」と答えてみせた。

 戸が閉まる。そこに桜の姿はもうない。「さぁ洗濯物干さなくちゃあ」「お手伝いします」と板間へ向かう二人。

 勝は誰一人いなくなってしまった土間に視線を落としただ立ち据えていた。

 胸の内に大きな穴があいてしまったような……悲しいのか寂しいのか、それすらわからなかった…………ただ静かに一切を受け入れるしかなかった……
































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