その4 ゴミ捨て場にあったもの

 現代人の大多数の例にもれず、A男もまた雇われの身であり、毎日世界を呪いながら出勤していた。入社して五年。これといって決定的ないやなことがあったわけではない。だが、小さないやなことの積み重ねが、少しずつではあるが、夜中の歯ぎしりのように彼の神経を確実に磨滅させていた。とにかく現代はみんながピリピリしながら生きているようだ。もっと気楽に適当に生きたらいいのに。みんながそうしてくれたら、おれだって他人の仕事に対してそういう態度でいるつもりだ。そう彼は思うのだが、小さなミスひとつ許されない雰囲気を感じる。苦しくて逃げ出したいが、その勇気もない。いや、そもそも逃げ出すとどうなるかを検討してさえいないのだ。結局、決められたレールの上を走るのは楽である。ただひとつ願うのは、このレールが早めに決壊してしまうことだけだ。

 その日も遅く帰宅の途についていた。仕事の不手際を同僚に責められ、不愉快で胃がムカムカしていた。そんな日は、世のなかのすべてが自分を攻撃してくるように感じる。もうこのまま逃げ出してしまおうか……。明日自分が出勤しなかったら会社はどうなるだろう。そんなふうに妄想をふくらませると少しはウキウキもするのだが、実際には彼ひとりいなくなったところで、会社はまた新たな人員を雇って、また誰のためにもならない苦行を続けるだけだろう。機械の歯車どころじゃない、ハムスターの回し車だ。なんの生産性もない。

 夜道は暗かった。寿命の切れかかった街灯が時折明滅している。A男は家路を急いだ。

 ある場所を通りかかって、ふと立ち止まる。これといってなにかが意識にのぼったわけではない。誰にでも、視界に誰かの視線を感じてふり返った経験があるだろう。それを感じたのだ。

 見ると、道路わきのゴミ捨て場になにかが置いてあるのだった。ゴミ捨て場は、カラス被害対策で金網製の大きなかごになっている。暗闇のなか、その金網のあいだから、ほんのり白く光るものが見えた。

 大きさは鶏くらいである。蛍光灯かとも思ったが、輪状ではない。A男は疲れてもいたし、日常に辟易もしていた。意外とそういう状態にある者のほうが、異変に対する好奇心を持ちがちなのかもしれない。白昼だったら一瞥もしないような家庭廃棄物を、彼は歩み寄って確かめることにした。

 近づいていく。

 それは女だった。俗に言う白装束を着た、うつむいて膝を抱えている状態の。

「わっ!」

 A男はのけぞり、金網から離れた。心臓が激しく打ちはじめる。長い黒髪が背中まで伸びて、ところどころざんばらになって白いうなじを見せている。女は微動だにしない。

 唾を呑みこみ、おそるおそる顔をもう一度近づける。

「あのー……」

 しぼり出した声は暗闇に消えていった。とはいえ、声をかけたことは確実だ。なのに女の体は髪一筋も動かない。

 A男の心臓はいよいよ早鐘を打ち、呼吸は荒くなった。やはり死体なのだろうか。今にも卒倒しそうだ。死体など、祖父の葬儀できれいに棺に入っていたのを見て以来、まったく見ていない。しかしあれはあくまで整えられたよそゆき用の死体だ。これはちがう。偶発的に出くわしたナマの死体。ましてや、深夜のゴミ捨て場で見ようなどとは考えもしなかった。

 いいや、まだ死体と決まったわけじゃない。いじめとか虐待とかで閉じこめられているのかもしれない。もしかするとセックスプレイの一環かもしれない。そういったたぐいの嗜好を持つ人たちがいても、こんなただれた世のなかでは不思議でもなんでもない。

 A男はとくべつに優しい人間ではない。かといって、人非人でもない。たぶん昼間だったら女を無視して通りすぎただろう。だが、こんな疲れ果てた深夜では、異変に自ら接近したくもなろうというものだ。

「大丈夫ですか?」

 そんなようなことを何度か話しかけてみたが、やはり反応はなかった。よくよく目を凝らすと、背中が上下しておらず、呼吸をしている気配がない。死体と考えるほかなかった。

 そこで彼は金網の扉をこじあけることにした。死体に触れるのは心底怖かった。もしかすると、突然起きあがって襲いかかってくるかもしれない。ホラー映画でもあるまいし、ばかばかしいが、変に映像が浮かびあがってきて落ち着かなくさせた。そうしているうちに扉があいた。

 近くで見ると、その女の死体は、極端に小柄だった。老婆か、それとも子供なのだろうか。そっと手を差し伸べてみる。さっと背中に触れて、すぐに引っ込める。死体が起きあがる気配はない。そこでもう一度一瞬だけ触れてみた。やはり何事もなし。もう一度、今度はもう少し長く触れてみた。ものすごく冷たかった。それに硬い。手を引っ込める。そうして考えてみるに、やはり生きているものではないようなのだった。

 もう警察に任せたほうがいいのじゃないか。そう考えるけれども、どうしても実行に移そうという気にならなかった。たとえば、いまこれから通報して警察に確認してもらう。きっとA男も事情聴取かなにかで警察署に連れていかれるだろう。何時間拘束されるかはわからないが、ひょっとすると朝までかかるかもしれない。そうなれば明日の朝、合法的に出勤はできなくなる。それはなかなか魅力的だが、どうにも気が進まないのも事実だった。

 要するに、通報してしまえば、死体は警察のものとなり、事件は他人の管理下に置かれることになる。それが気に入らない。一方で、通報しなければ、この夜の異変を、自分ひとりで満喫することができるのだ。死体を満喫とはおかしいかもしれない。A男自身も死体愛好の趣味があるわけでもないし、死体を発見したことに対して愉快な気分でいるわけでもない。ただ、非日常的な体験は、彼の疲れきった心を奇妙な形で癒していたのだ。

 それで彼は、決して死体との逢瀬を楽しみたかったのではないにも関わらず、もう少し詳しくを確かめてみることにしたのだ。

 指先でそっと押す。するとあっけなく横に倒れた。

 真っ白い顔があらわになる。長い髪のすきまから、紙かナイフで横に切った傷跡のような横一筋の目が垣間見える。赤い小さな唇。髪が床に乱れて流れる様子が不気味だ。眉をしかめながら見ていたA男だったが、ふとあることに気がつく。

「あれ?」

 少し金網に近づいて見てみる。それからさらにもう少し。ついには金網のなかに首を差しこんで、まじまじと見る。

「人形?」

 大きさにしてだいたい標準的な人体の二分の一くらいのそれは、白装束を着せられた人形だ。それで奇妙なほどに小柄だったのだ。なめらかな質感の肌。セルロイドというやつかもしれない。その肌に、塗料でぞんざいに目鼻口が書かれている。髪だけはしかし、異様なほど黒々として艶がかっていた。これはひょっとすると人毛なのかもしれない。

「悪趣味だな」

 誰が、なぜ、こんなことを。深夜のゴミ捨て場に白装束を着た人形を捨てるなんて、セックスプレイ以上に異常なやつではあるまいか。

 A男は、ハッと気づいてかごから飛びのいた。もしかするとどこかに盗撮用カメラなどがあって、反応の様子を撮られているのでは……。あわてて電柱や塀のうえなどを探したが、それらしいものは見つからなかった。

 息をつき、乱暴に金網を閉じる。深夜の道路に金属音がこだまする。

 悪趣味もいいところである。一気に夢から覚めたような心地になる。どの道、人形がゴミ捨て場にあったところでただのゴミだ。これ以上A男の踏み入る余地はない。

 彼は立ち去ろうとした。が、現代人の唾棄すべき習性だが、スマートフォンに記録しておくことを思いついた。

 カバンから機体を取り出し、カシャリとやる。存外に大きな音が響いて、自分で驚いてしまった。いまだに、死体と対面していると思いこんでいたときの恐怖が覚めきっていないのかもしれない。自分で自分に苦笑する。

 確認のために画面に目をやり撮った写真を確認していると、奇妙なことに気がついた。さっき直接目で見ていたときは暗闇のなかだったからわからなかったのだ。いま、明るい人工的な画面で見て、恐ろしいことに気づいてしまった。

 全身の毛が総毛立つ。機体を持つ手が、制御できないほど震えだす。

「これ……やっぱり人間じゃないか」

 A男はスマートフォンを取り落とした。足もとで音を立てて割れる。

 女の額の髪が、さらりと流れる。つるりとした皮膚に直接描かれた横一筋の目。

 A男はゴミ捨て場に背を向け、わき目もふらずに走りだした。

 力の限りアパートまで走り続けようと思うが、つい一瞬ふり返ってしまう。女の体は、ゴミ捨て場から半分出ていた。A男は絶叫した。全身からほとばしる魂の叫びだった。

 そのままアパートに逃げ帰り、ドアを力いっぱい閉めた。

 気がつくと朝だった。玄関で眠ってしまったらしい。変な寝方をしたので体じゅうが痛いし、喉はいがらっぽかった。その日は会社を休んだ。

 それからしばらく経ったが、いまだにあの女がなんだったのかはわからない。逃げながらふり返ったとき、もとあった場所から体が移動していたので生きていたのかもしれないと思うが、そうであったなら呼吸をしてなかったことの説明がつかない。しかし正体を見極めようとは思わない。ただ二度とあのゴミ捨て場の近くは通らなかった。

 会社はいよいよばかばかしくなったので、やめることはしないで、直接文句を同僚に言うようになった。居心地は悪くなったが、どうでもいい。ところで最近、彼はゴミ捨て場に入ってみようかなと思うことがある。そのうち実行に移すかもしれない。

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