その3 見知らぬ靴

 A子さんの同僚から聞いた話。


 その夜、A子がひとり暮らしのアパートに帰ると、ドアの前に一足の靴が並べて置いてあった。なんの変哲もない女性もののベージュのパンプス。それが部屋のドア前のコンクリートの床に、爪先をこちらに向けて置いてある。

「……?」

 傷も汚れもなくてまだ新しそうなパンプスだ。ヒールの高さは五センチくらい。本体と同じベージュのバックルがあしらわれた、シンプルなデザイン。まるで誰かが履いてきて、ここで脱いで、そのまま忘れて帰ってしまったかのような、親しみやすい雰囲気を漂わせている。中敷きをのぞいてみると、A子のサイズと同じだ。ただ、ひとつだけはっきり言えるのは自分の靴ではないことだ。彼女も女性の端くれとして靴を何足もそろえているが、自分のワードロープを忘れることはない。だから、なぜそれがそこにあるのか全然見当もつかなかった。

 ほかの部屋の人が間違えて置いていったのかもしれない。たとえば、恋人の忘れ物をドアの前に置いておく約束をしたとか。そう考えて、その靴をドアから三十センチほどわきに寄せ、自分のものではないことを主張させてみた。カツン、と小気味よい音がコンクリート敷きの廊下に響きわたる。A子はそのままドアをあけて部屋に帰った。

 翌朝、A子は出勤するために玄関ドアをあけた。

「あれっ?」

 ドアの前に靴がある。危うく踏みつけそうになって、廊下によろけ出た。昨夜よせたはずのパンプスだ。それが昨日見つけたときと同じように、ドアの正面に移動されていた。

 困ったなあ。私のじゃないのに。

 彼女はそう思ったが、誰が置いていったかわからない以上どうすることもできない。それで、昨夜よりももっとドアから遠いところに離して置いておくことにした。持ち主が気づいてくれればいいのだが。そうしていつもどおり会社へ向かい、気乗りのしない仕事をした。

 ところが、夜に帰宅すると、靴はまたドア前に置かれていたのだ。ベージュのシンプルなパンプスは、物言わずひっそりたたずんでいる。A子はなんとなく胸騒ぎがした。移動されているということは、少なくとも三回は彼女の部屋の前に見知らぬ人物が訪れているということだ。さらに、彼女が昨日想像したように、恋人などの知りあいの忘れ物を置きに来ているのだとしたら、なぜその人物は相手に電話連絡をしないのだろう。

「きみのとこのドアの前に置いておいたよ」

「えーっ、なかったよ」

「じゃあほかの部屋と間違えたんだ!」

 そうやって確認したらすぐ気づくことなのに!

 A子個人の家とわかって、誰かがいたずらしているのではないか――そんな妙な憶測が浮かぶ。そうだとしたら、変ないたずらだ。肉体的にも心理的にもなんのダメージもない。ただ少しうっとうしいというだけ。

 A子は首をふって想像をふり払った。もう一度靴をドアのわきに寄せる。明日もなくなっていなかったら、持ち主には悪いけれど処分してしまおう。

 翌朝は少し早く起きてしまった。おそるおそるドアをあけると、靴は再びドアの正面。誰かが真夜中に自分の部屋の前に来ていることは確実だ。ゾッとして、靴をごみ袋に突っこみ、そのままアパートのダスターに捨てて出社した。

 午前中、少しすっきりした気分で会社のデスクで仕事していると、同僚の女性が話しかけてきた。

「A子さん、最近変なことないですか?」

 A子は横目で彼女を見やる。遠慮したい相手だった。なんとなく近寄りがたいキャラクターとでもいうのだろうか、話していて面白い相手ではなくて会社の人たちから遠巻きにされている女性だ。仕事を頼むにしても、選択肢としては一番最後というタイプ。彼女自身もそれは気づいているだろうに、なぜA子に話しかけてくるのか、少し不思議だった。

 しかし大人として無視するわけにもいかず、A子は答えた。

「変なことってなんですか。私はありませんよ」

 靴のことを話したい相手ではない。適当にあしらって仕事に戻ろうとすると、同僚はA子の袖をつかまえて強引に話を続けた。

「私には最近あるんです、変なこと」

 なぜ彼女の悩みを聞かなければならないのだろうか。それも勤務時間に。そう思ったけれど、大勢の手前無碍にふり払うこともできず、A子はしぶしぶ話題に乗った。とはいえ、もし本当にふり払ったとしても、ほかの同僚たちは理解を示してくれただろうが。

「私のアパートの前に靴が置いてあるんです」

 A子は息を呑んだ。その瞬間、同僚が舌なめずりをした気がして、あわてて見直す。気のせいだったかもしれない。

「私のじゃないんですよ。だから誰かが間違えて置いてったのかなって、よせるんですけど、何度よせてもまた元に戻ってるんです」

 気づくと、周囲は静まりかえっていた。驚いて見まわすと、みんな仕事を続けてはいるものの、固唾を呑んで彼女らの会話に聞き入っているらしいのだ。

 同僚の猫なで声が聞こえる。「ね~え、A子さん。A子さんにはこんなことありませんかあ?」

 A子は急いで彼女の手をふり払って、その場を逃げ出した。たちまちオフィスには元のざわめきが戻る。あの同僚はクスクス笑っている。


 いやな目に遭ったその日、アパートに帰ると、ドアの前に新品のベージュのパンプスが置いてあった。

 A子は悲鳴をあげた。

 なぜ? どうして? 今朝捨てたはずなのに? これは間違えて置いていったものじゃない。明らかに誰かが意思を持ってしていることだ。そう考えると、素朴な作りのその靴が、突然悪意の塊のように見えてきた。

 彼女はそれをつかみあげて走り出し、アパートのダスターに放りこんだ。息をあげながら蓋をしめる。だがこんなことをしても無意味かもしれない。どうせ明日の朝には戻ってくるのだ。

 眠れない夜を過ごしても、朝はまた来る。ドアをあけるのが恐ろしくて、でもあけないわけにはいかず、何度もためらったのち、ついにあけた。ドアの前には靴。発狂しそうになりながらつかみあげ、またそれを捨てた。

 会社に着くと、少し騒然としていた。手近な人をつかまえて聞いてみると、社員がひとり行方不明になったのだという。その人は、A子も顔見知りのベテラン男性だった。おとといから家に帰っていないらしい。家族が警察に捜索願を出したが、いまのところ心当たりは全滅だという。最悪の事態もささやかれるなか、彼が担っていたプロジェクトを誰がどう引き継ぐのかということで社内は混乱していたのだ。

「ねえみなさん、ねえみなさん……」

 みんなが話しあっている周囲であの同僚女性が物欲しそうにうろついているが、誰も相手にしてないようだった。

 昼ごろになると、妙な噂がささやかれはじめた。いなくなった社員の家の玄関の前に、ここ数日見知らぬ靴が置かれるようになっていたというのだ。それを聞いて、A子は昼食のスプーンを取り落しそうになった。一緒にランチを食べていた友人女性のひとりは、その話題が出たとたん、真っ青な表情になった。残りのひとりが話を続ける。

「奥さんが会社の人に聞きまわってるみたいだよ。一週間くらい前から置かれるようになったんだって。男物の革靴だったらしいんだけど、最初は誰かが間違えて置いてったのかなと思ったみたい。でも誰も取りに来ないから捨てたの。だけどね、捨てても捨てても帰ってくるんだって」

 A子の体験とまったく同じだ。彼女は質問を発したが、つい震え声になってしまう。「その靴はどうなったの?」

「わかんない。いまはないんじゃないかな」

「ないって、消えたってこと? 彼と一緒に」

「そうかも。ねえA子、昨日例の彼女と靴の話してなかった?」

 妙な表情をして尋ねられたので、A子は適当にはぐらかした。

 噂は、その日のうちに社内中を駆け巡ったようだった。

 翌日、ランチのとき青ざめた顔をしていた友人が消えた。朝アパートを出て、そのままどこかへ消えたようだ。痕跡はなし。

 また翌日、社員がひとり消えた。

 その翌日、社員がひとり消えた。

 そのあいだずっと、A子の部屋の前には靴が置かれ続けていた。何度捨てても戻ってくる。まるでA子に履かれるのを待っているみたいに。

 一度など、靴を捨ててから一晩中部屋の前に立っていたことがある。怪しい人影はなかった。朝になって安心して部屋に戻って、ふと確認のためにドアをあけると、靴が現れていたことさえあった。そのかん三秒。

 もはやドアをあけたくなかった。靴から逃れられない。靴を見たくないあまり出社恐怖に陥った。

 ついにA子は朝ドアをあけることができなくなった。昨夜ももちろん靴は捨てた。だが、ドアをあけたら目の前にあることはわかりきっている。誰かが彼女に悪意を持っている。悪意が彼女の部屋の周りをうろついている。このまま靴から逃れられなければ、みんなのように自分も行方不明になってしまうのかもしれない。恐ろしくてベッドの中でふとんをかぶり、ずっと震え続けていた。

 十時ごろ、スマートホンが鳴動した。着信相手は会社だった。無断欠勤したのだから当たり前だ。彼女はのろのろと電話に出た。

「はい……」

「A子さん。どうして会社に来ないんですか?」

 相手はあの同僚女性だった。なぜ彼女がかけてくる。大して親しくもないのに。A子は怒りで叫びだしてしまいそうだった。電話の向こう側で彼女が息をもらした音がする。

「ひょっとして靴のせいですか?」

「なんで知ってんのよ!」

 声をあげたとたん、気づいてしまった。同僚は電話口で笑いをこらえている。

「丑の刻参りって知ってます? 顔を赤く塗りたくって、死に装束を着て、頭にかぶった鉄輪の上にろうそくを突き立てて、呪いたい相手に見立てた藁人形に五寸釘を打ち込む。考えてみれば、こっそりやる呪いにしてはとんでもなく派手な格好ですよね。そんな格好で、人形を神社の御神木に打つんです。そんなことしたら目立つに決まってるのにね。だから遅かれ早かれ、呪いたい相手は自分が誰かに呪われてるってことを知っちゃうんですよ。しかも昔は村社会だから、周囲に筒抜け。苦悩のあまり死んじゃうこともあるらしいですよ。

 こういうのは、プラシーボ効果で説明できると言われてるんです。誰かに呪われてるって知るのはつらいですよね。まあそれだけなんですけど」

 A子はベッドに座ったままた、髪をふり乱し目をみひらきながら聞いていた。同僚に対する憎しみが爆発的にこみあげた。

「あたしが呪われてるって言いたいの? でもおあいにくさま! あんたが教えてくれたおかげで、手の内が見えたから! 要するに実際にはなんの効果もない、ただのいたずらってことよね!」

 そのままスマートホンの電源を切った。ハアッハアッと肩で息をする。

 まだ頭が混乱している。だが、馬鹿な同僚がペラペラしゃべってくれたおかげで、ここ最近自分に起こっていたことの意味がわかった。なんにも怖がることなんかじゃない。置かれた靴になにか意味があるんじゃないかなんて、ただのプラシーボ効果、思いこみ。気を強く持ってさえいれば、心配することなんてなにもない。行方不明になった同僚たちはそれに気づかないで自滅したんだ。

 A子はケラケラと笑い、乱れた髪を手で直しながら玄関へ向かった。靴があるからなんだって言うのだ。

 ドアをあける。まばゆい朝日に顔を照らされる。ベージュのパンプスがあった。思いこみを取り去ってみると、初めて見つけたときのように親しみやすいデザインに見えた。

 A子の好みどおり、サイズどおりの靴。靴は履かれるのを待っている。そうしてふたりで出かけたいと思っているのかもしれない。それが靴の本分だから。

 捨てることもないか、と彼女は思った。なんのことはない、ただの靴なのだからもらってしまおう。

 A子は履いて出た靴を脱ぎ捨てて、すっかりおなじみになったベージュのパンプスに爪先をすべりこませた。そうしたら、素晴らしく足にフィットした。靴も待ち焦がれていたのではないかという気がした。

 突然理解した。

 いなくなった同僚たちは、暗黒の闇へと消え去ったのではない。彼ら自身の靴と一緒に、希望に満ちた冒険へ旅立ったのだ。なぜなら、この靴を履けばどこまでも行けるような気がするのだ。これは本当にA子にぴったりの素晴らしい靴だった。

 A子は軽やかに一歩を踏み出した。地の果てまでも行けそうな気がする。

 背後でドアが閉じた。

 どこかはわからない。でもいまここじゃない、どこかへ。この靴となら一緒に行ける。コンクリートの床が、今日は銀色にキラキラと光り輝いている。空気は森のように澄みきって、淡い虹色だ。

 ステップを踏みながら、A子は歩きはじめた。

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