第14話 首なし城奇譚

■■プロローグ


 その古城には伝説があった。

 首のない女の幽霊が、夜な夜な歩き回るのだという。

 三百年前、その城で首を刎ねられた姫君が、我が身を嘆いて泣くのだという。


 ……そういうお話、信じますか?


■■1


「ダメなの、今日は絶対にダメー!」

 館に大声が響き渡る。声の主である小鳥がブンブンブブンと首を振った。強固な拒否の構えである。

「なんでだよ? お前、こういうの好きだろうが」

 よもや、断られるとは思わなかったらしいダグラスが、苦虫を噛みつぶしたような顔をした。その手で細長い紙切れがぴらぴら揺れる。映画のプレミアム試写会のチケットである。


「なんじゃ、小鳥ちゃん、今日は用事でもあったんかの?」

 試写会のチケットを届けてくれたセント伯爵が、しわの深い顔をチェス盤から小鳥に移してそう訊ねた。老人はダグラスの余りにも情けないデート作戦失敗談(作者注:第13話)を聞きつけて、今日のチケットを手配してくれたものらしかった。「デートくらいバシッと一発決めて来んかい、この大馬鹿タレ!」という有り難い親心かと思われる。ちなみに、老人に詳細をチクったのは朱里だった。こちらも尊い友情の発露から……なのだかどうだかは多少疑問の残るところだ。


「いえ、あのぅー。用事は特にナイんですけどー」

 小鳥がもじもじと言葉を濁す。

「僕らに遠慮してるなら、気にすることないよ、小鳥ちゃん」

 チェスの駒を一つ前に進めて白野が言う。セント老人との対戦中で、超上級者である老人を相手に果敢な攻めの手を打っていた。白野に手ほどきをした朱里が守りのチェスに徹するのとは対照的な打ち方で、

「やっぱりチェスは奥が深いのぅ、普段見えないものが見えおるわい。面白いったらありゃせんのぅ」とは、先だって老人が漏らした言葉である。

「ね、朱里、イイよね?」

「ええ。折角の伯爵のご厚意です。特別に有給休暇をあげますから行っていらっしゃい、小鳥さん」

 老人と少年の対局を横目で見ながら朱里も言う。手にある小冊子を捲りながら、何ヶ所かに線を引いている。細々とした数字の並ぶ小冊子。どうやら列車の時刻表らしかった。

「ほら、みんなもああ言ってるじゃないか。どうしてダメなんだよ、小鳥ー」

 ダグラスがチケットをびらびら振る。


「だってぇ……今日は北西に行ったらダメなんだもん」

「へ? ホク……?」

 口を尖らせた小鳥の台詞に、ダグラスが間抜けた声を出す。

「だからぁ、ギル・グレイが、今日は北西は悪い方角だって言ってるのっっ!」

 そのギルなんたらってのは何なんですかぁ?

 ダグラスが救いを求める幼子もかくや、という哀れ極まりない表情で、この館の敏腕執事に助け船を求めた。


 ギル・グレイとは、最近頭角を現してきた占い師である。よく当ると評判で、そのエキゾチックな甘いマスクとも相まって若い女性層を中心に人気急上昇中だと言う。

「グレイ氏本人は、占い師でなく霊能者だという肩書きの方を重んじているようですが、世間一般では占いで名が売れていますね。雑誌数誌に署名入りの占星術コーナーを持っています。特集雑誌も出ているようです」

 請われた朱里がすらすらと説明する。「お前、詳しいな」と言われて、「そりゃあね」と肩を竦める。

「最近の小鳥さんの話題はそればかりですから。否応なしに詳しくもなろうというものです」

 刑事はこのところずっと帰りが遅かったですから。それでご存知なかったんですよ。小鳥さんのギル・グレイかぶれは凄まじいものがありますよ。

「ほら、小鳥さんの愛読雑誌がそこに置いてあるでしょう。それに顔写真も載ってます」

 と、目線で示す。おおお、あるある山ほどある。

「……つまり、ナニか?」

 言われた雑誌を捲りながら、ダグラスが呻く。その肩がわなわなと震え出した。

「北西なんたらっつーのはだ、この優男の占いなのか? 小鳥、お前はそんなくだらん理由でもって俺とのデートを断るって言うのかーっっ!!!」

 見つけ出したギル・グレイの特集ページ。大写しで掲載されたにっこり顔の顔写真を小鳥の眼前に突きつける。確かに甘いマスクだが、ダグラスの刑事としての眼力で見るなら、これは絶対にペテン師面だ。まず口元に品がない。目つきにも小狡い光がある。ロクなもんじゃあ有り得ない。

「きゃあ、乱暴に扱わないでよ。グレイ様のお顔に折り目がついたらどうすんの!」

 電光石火の早業で小鳥が雑誌を奪い返す。

 あああー、グレイ『様』ときた。いかん、こいつは目がマジだ。マジで小鳥がかぶれてやがる。


「おーい、小鳥ぃ。占いってのはイイコトだけ信じてれば、それでイイんじゃないのかぁぁー」

 ダグラスが一般的な正論を吐く。

「ええ、そうね。今日のラッキー方位は南東なの」

「だがな、小鳥、よく考えろ。映画館は北西なんだ」

「だから行けないって言ってるんでしょ!」

 ごめんなさい、伯爵様。折角のチケットなんですけど、ギル・グレイの占いはもう絶対の絶対なんです。明日だったら大丈夫だったんですけど。ホントのホントにこの映画ものすごーく観たいんですけど。でもダメなんです。許してください。今日北西に行ったなら悪いことが起こっちゃうんです。本っ当にごめんなさい。

 深々と頭を下げる小鳥に、老人は目を丸くしている。咄嗟に言葉が出ないようだ。そういえば、セント老人が小鳥のこの『思いこんだら百億年目のごとき猪突猛進、一直線っぷり』を間近に見るのは初めてだったかもしれない。高齢者にはさぞショックも大きかろう。血圧は大丈夫だろうか。


「解決案がありますよ、小鳥さん」

 助け船を出したのは言わずと知れた朱里である。

「最初に東の方角にあるショッピングセンターに寄って、そこで昼食でも取って、それから改めて映画館に向かえば良いんです。方位が修正されますよ。帰りはまっすぐ帰ってくれば、この館はラッキーな南東方向にもなるでしょう」

「ああ、そっかー。朱里さんってば頭イイー」

 小鳥が手を打って感心する。ダグラスも感謝の意を示した。

「執事、お前ってイイ奴だなぁ」

 いえいえ、と片手を振って謙遜する。その手を胸ポケットに入れると、澄ました顔で一枚の紙片を取り出した。

「で。折角ショッピングセンターにいらっしゃるのですから、このメモにある買い物をどうぞよろしくお願いします」

 謙遜どころか、随分とちゃっかりしていたりするのである。

 渡されたメモを見て、小鳥が困った声を出す。

「こんなにいっぱい?」

「特に問題はないでしょう? 荷物係もつくことですし」

「誰が荷物係だっっ! てめぇ、自分で車出せ、車!」

「尤もですが、私もこれで忙しいんですよ。何せ明後日には出発ですし」

 朱里が膝に載せていた時刻表を持ち上げてみせる。


「ん、なんじゃ? 何処ぞ遠出でもするんかの?」

「うん。絵の依頼があったんだ。それでしばらくそこに行く。三百年の歴史を持つ古いお城なんだって」

 老人の問いに白野が応えた。


■■2


 女の身支度は時間が掛かる。

「小鳥、急げよー」

 さっさと、支度を済ませたダグラスが腕時計とにらめっこしている。

「そうですよー、小鳥さん。買い物だってあるんですからー」

 朱里もいっしょに階上に向かって声を掛ける。

 こいつ、マジに俺たちを使い走りさせる気でいやがる。人のデートをなんだと心得ているのか、不届き者め。だがしかし、こいつの妙案がなかったら今日のデートは実現しなかった筈で、つまりこいつは恩人で。うぅーむ、この世は複雑だ。


「それにしたって、ごねる理由が占いたぁ恐れ入った。おい、執事。グレイって野郎の占いはそんなによく当るのか?」

「そうですねぇ……」

「当るに決まってるでしょっっ!」

 階段を駆け下りてきた小鳥が言う。水色のワンピースに着替えている。口唇に塗られたピンク色がいつもより心持ち濃く感じる。

「この間の『ニアミス注意』っていう日には、お買い物の途中で電信柱にぶつかってタンコブ作っちゃったし、その前の『身の回りの丸い物を大切にしましょう』っていう日には、わたしお皿を割っちゃったんだからね」

 まさに百発百中よ! グレイ様は凄いのよ。そう高らかに宣言する。

「……その程度の予言なら、俺にだって出来るぞ、おい」

 小鳥がタンコブを作るのは、そう珍しいことではないし、皿を割るのもしょっちゅうだ。第一、『ニアミス』だの『丸い物』だのという定義自体が漠然としている。後で一日を振り返ってこじつけするなら、何某かのことは範疇に引っかかることだろう。


「あ、ハンカチも水色にしなくっちゃ」

 ぱっと翻ったスカートが慌ただしく自室に駆け戻っていく。本日のグレイ氏お薦め・ハッピーカラーは水色とみた。百発百中、間違いない。

「どうして、ああも突っ走るかなぁ。あいつのあの思いこみの深さって、なんとか矯正出来んのか?」

 思わずデカいため息が出る。そういう一途でとことん前向きな無鉄砲さに魅力を感じたのではあったが、何事も限度ってもんがあると思う。だがしかし、小鳥の猪突猛進ぶりに限度があるとするならば、それは小鳥とは呼べない女の子になるワケで。うぅーむ、男心も複雑だ。


「まぁ、よろしいんじゃないですか。『信じる者は救われる』と申しますし」

 微妙なる男心を察してか、朱里がそんなことを言う。

「お前、随分肯定的だな」

「幸福の痰壺とか開運黄金便座とか売りつけられて来るタイプよりはマシでしょう」

「……それが、聞くからに怪しげな『幸福の絵』とやらを法外な値で売りさばいてる奴の言っていいことだと思うのか?」

「アハハハハ」

 さもおかしげな笑い声が響く。

「坊や、そこで他人事みたいにカラカラ笑ってんじゃねー!」

 一括された少年がぺろりと舌を覗かせた。


「でもね、小鳥ちゃんのお陰で僕、自分の星座を覚えたよ。僕は水瓶座なんだって。……そうだったよね、小鳥ちゃん?」

「そうでーす。白野様のイメージにぴったりな、澄んだお水をたたえた水瓶座でーす」

 再び階段を駆け下りてきた小鳥が応える。

「ちなみに俺は獅子座だぞ」

「わしゃ、牡牛座じゃ」

 なんとなく、それぞれに自分の星座を明かし合う。

「朱里は自分の星座知ってる? 乙女座なんだよ」

「そうなんですか?」

「まぁーた、お前ら主従は浮世離れしやがって。なんで自分の星座も知らないんだよ」

「……興味ないじゃないですか」

 生きていくのに必要な必須知識とは思えません。

 そんな負け惜しみをほざく長身男に、白野が爆弾発言をした。

「でね、小鳥ちゃんも朱里といっしょの乙女座なんだよ。お揃いだね」

 それに。朱里が周囲が驚くほどの動揺を示した。ガックリと肩を落とす。

 確か、十二星座占いでは性格付けも大まかに取り決められているのではなかったか? 小鳥と十把一絡げに共通項で括られるのは、流石に勘弁願いたい。全人格を否定された心地がする。

「……まぁ、たった十二の枠ですからね。そういう偶然もありますよね。たかが星座占い如きで私の今後の人生が閉ざされるものでもないですよね」

「ちょっと、朱里さん。それって一体どういう意味?」

 小鳥がまなじりをつり上げる。


「おい、小鳥。その問答は後にしろ」

 ダグラスが腕時計の文字盤を指先で小突く。ほらほらタイムリミットだ。

「さもないと、俺は真っ直ぐに北西に進路を取るからな」

 昔の映画のタイトルのような脅し文句を吐いている。

「ダメー、それは絶対にダメー」

 二人がごちゃごちゃ言い合いながらバタバタと連れだって出掛けていく。ブロロンと車が急発進した。その音の消えゆく方角から察するに、律儀にひとまず東へと向かって行ったらしかった。


 栗色の巻き毛頭がコクンと大きく右に振られる。「あーあ」と声が出た。

「負けちゃった」

 白野が自分のキングの駒を指先でコツンと弾いて転ばせる。投了だ。

「じゃが、前よりも一段と上達しとるぞ、白野クン」

「うん、ダグラス刑事が棋譜の本を貸してくれたんだ。それでちょっと勉強してみた」

 老人に誉められて、はにかむように微笑んでみせる。それでも、コツン、コツンと自分の黒い色の駒を幾つも指先で倒していくのは、それなりに負けた悔しさの表現かもしれない。


「お二人とも、昼食に致しましょう」

 良いタイミングで朱里が声を掛けてくる。キッシュパイとサンドイッチ。それにサラダとスープを足した昼食である。三人で揃ってテーブルを囲む。


「ところでな、さっき言っておった依頼主の古城じゃが」

 老人が話をかなり前に巻き戻した。

「それは『首なし城』のことではないかのぉ?」

「首なし?」

 意味深な名称に、主従が食事の手を止める。

「S地方の湖畔に佇む古城じゃろ? 三百年の歴史があって、個人の所有と言ったら、まずそこじゃわなぁ」


 その古城には伝説があった。

 隣国から嫁いで来た姫君が一人。その婚礼は外交上の理由というただそれだけの意味だったので、王様は姫君を愛さなかった。誰も姫君を愛さなかった。姫君はいつも独りぼっち。

 やがて、姫君に謀反の疑いが掛けられる。王様は必死に無実を訴える姫君の首を刎ねてしまう。

 それ以降、その城には、首のない姫君の幽霊が夜な夜な現れるようになったのだという……。


「それで、『首なし城』と呼ばれるようになったんじゃ」

「ふぅん」

「それは存じませんでした」

「まぁ、城と言うてもそんな大層なもんじゃない。田舎領主のちんまいもんじゃ」

 知らなくとも無理はない。じゃが、オカルトマニアの間ではそれなりに有名な話じゃぞ。

 伯爵がちょっと得意そうににんまりとしたのは、白野がいかにも尊敬したように、「伯爵はホントに物知りだねぇ」と言ったからだ。確かに何にでもとことん詳しい老人であった。年の功と権力と金の力と更に更に長年培った人脈も加えて、古今東西ありとあらゆることに首を突っ込んでいると言っていい。しかし、流石にオカルト領域にまでその旺盛な知識欲の食指を伸ばしていたとは知らなかった。恐れ入る怪老人である。


「なんでもな、その姫さん、『カエシテー、カエシテー』と毎夜すすり泣くんじゃそうな」

「それは何とも恨みがましい」

「ものすごーくコワイねぇ」

 主従が顔を見合わせる。

「確か、数年前に何処ぞの資産家が買い取ったと聞いたように思うが。なんでも大したひねくれ者の人間嫌いらしいぞい」

「奥方を描いてくれとのご依頼でした」

 その奥様がご病気で、遠出はご無理とのことでしたので、私どもから出向いて行くということに。まぁ、しごく普通の依頼主に見えましたが。

「うん。お化けからの依頼じゃなかったよ。男の人だったし、首もちゃんとついてたし」

 その少年の台詞に老人が笑う。

「流石にわしも幽霊が依頼に来たとは思わんが」

 じゃが、里の者も寄りつかない幽霊城をわざわざ買い取って住むような、そんな変わり者の依頼主じゃ。そのことだけは覚えておいで。

「うん、分かった」

「お気遣い有り難う存じます」

 朱里が丁寧に頭を下げる。


 昼食後、伯爵邸から迎えの車がやって来て、セント老人は帰っていった。

 朱里は食事の後片付けをしている。それに「手伝おうか?」と言ってみたが、やんわりと断られてしまった。白野は所在なげにダイニングテーブルで頬杖をついている。目についた食卓塩のガラス瓶を指で弾いて転ばせたら、背中にも目があるらしい男が「コラッ」と叱った。声は笑いを含んでいる。

「それでは、この鍋を拭いて棚に戻して頂けますか?」

「うん」

 白野が勇んで立ち上がる。


「それにしても」

 と、カチャカチャ食器を片しつつ、朱里が口を開く。

「幽霊城からの招待というのは、なかなか珍しいですね」

「首なしお化けって、そんなのホントに居るのかな?」

「さてねぇ。どうでしょう」

 曖昧な笑みを浮かべる。

「僕ね、恨みのある幽霊って滅多に居ないんじゃないかと思うんだよね」

 少年が鍋を拭きながらそんな主観を述べてくる。

 だって、いかにも呪い殺されてよさそうな独裁者だの通り魔だのって、案外悠長にのうのうとこの世を謳歌してたりするんだし。

「人を恨んだり憎んだりするのって、ものすごーくエネルギーがいるじゃない。肉体もないのにそんなにエネルギーを使ったら、そりゃあくたびれて自然消滅しちゃうよね」

「なかなか興味深い説ですね」

「そういうのってさ、信じる人には見えるんだよね。信じない人には見えないんだよ」

「そうなのかもしれません」

 この画廊とて、ある意味似たようなものだな、と朱里は思う。敢えて口には出さなかったが。


 ここの棚でいいの? と鍋の仕舞い場所を訊かれて頷いて、ふとある事を思いつく。

「……あ、シマッタ」

「なぁに、朱里?」

「いえ、刑事達に頼んだ買い物メモに十字架と書いておけばよかったなと思いまして」

 白野が一瞬きょとんとした。それでもすぐにその意味を察する。

「魔除けに?」

「はい」

「首がないなら、目も見えないんじゃないかなぁ。十字架翳して怖がってくれたりするのかなぁ?」

「どうですかね?」

「朱里、コワイんだ。行くの止める?」

 くるっとした子供のような瞳で見上げてくる少年に、長身の男はひょいと肩を竦めてみせる。

「メンドウ事が起きそうな気配で、多少気分が重いんです。ですが、白野様は俄然興味を惹かれてしまったご様子ですから、私もお供させて頂きますよ」

 洗い物の済んだ手をタオルで拭いながら、男がそう覚悟を告げる。

「朱里って僕に甘いよね」

 白野がにっこり笑ってそう言うのに、「全くです」と同意した。


■■3


 S地方。その外れにある小さな駅に列車が到着したのは、定刻通り午後三時を少し回った時刻だった。

 朱里は腕時計の文字盤を確認し、それからホームでキョロキョロしている小太りの婦人に歩み寄って声を掛ける。

「失礼ですが、シムズ家の方ではありませんか?」

 年の頃は五十代半ばというところだろうか。白髪交じりの髪の毛をそれでもきれいに結い上げた女性は、太めの指を口元に当て、「あらまぁ、びっくり」という顔をした。なんとなく田舎宿の女将さんといった雰囲気の女性である。頬に浮かんだ片えくぼがまたなんとも牧歌的だ。


「まぁ、じゃああんたさん方が? まぁまぁ、失礼いたしました。旦那様から画家さんだと伺っておりましたんで、まさかこんなお若い方々だとは思いませんで」

 そう、丁寧に頭を下げてくる。言葉のイントネーションから推して、きっと地元出身の女性だろう。

「私、シムズ様のとこで女中頭をしてますグレースです。お迎えに上がりました。さあさあどうぞ、こちらです」

 カンバス等かさばる絵の道具や荷物は既に別便で配送済みだったので、数週間の滞在予定にも関わらず、一行の手荷物は極少量だ。

 案内されて車に乗り込み、車中で簡単な自己紹介をする。小鳥が名前を告げたとき、グレースは「まぁ、可愛らしいお名前だことぉ」と言ってくれ、小鳥は初対面のこの人がなんだかとても好きになった。旅の疲れを吹き飛ばしてくれるような、柔らかで飾らない笑顔をする人だと思う。


「旦那様はお人嫌いで、お客様を招かれるのはとっても珍しいことなんですよ。私、田舎もんですから特別なことは何も出来ませんけども、ご滞在中は精一杯おもてなしをさせて頂きますね」

 どうやら、雇い主と違って人好きらしいグレースは、滅多にない客人の来訪にとても張り切っているようだ。助手席に座った朱里が礼を言う。

「どうも有り難うございます。白野様の絵が描き上がるまで、しばらくご厄介になります」

「なんでも、肖像画をお描きにいらしたんだとか」

 私、この土地で生まれて、ずっとここに住んでるんですよ。絵なんて本物は教会のマリア様か、集会所に時々貼られる地域の子供達の絵しか見たことありません。旦那様は都会からいらした方だから、やっぱりハイカラなことなさるんですねぇ。

 上手にハンドルを捌きながら、グレースがにこにことそんな話をしてくる。

「あんたさん方の【幸福画廊】は、幸せを運ぶ絵を描いて下さるんだそうで」

「はい。白野様の絵はすっごくステキなんですよ」

「まぁまぁ、それは楽しみだことぉ」

 小鳥の返事にグレースが微笑む。

「ホントにねぇ、よろしくお願いしますねぇ」

 本当にお幸せになって欲しいんですよ、旦那様には。

 グレースのその言葉には真摯な心が篭もっていた。


「あら、なんだろか? 玄関前に人だかりが」

 グレースが不審そうにそう呟いた。

 駅から小高い丘を登り、ちょうど城の門をくぐった所だった。なるほど、セント伯爵が言ったとおり、城らしい外観は備えているが、造りとしては小規模だ。田舎領主の古城である。それでも、眼下には小さな湖を従え、石壁にツタを這わせた姿にはそれ相応の趣がある。

 その古城の大きな扉の前辺りで三人の男が押し問答しているように見える。それを囲むように数人の女性たちもいる。服装からこの城の女中だろうと思われた。男の一人は、顔をこちらに向けているので判別しやすい。この城の主、シムズ氏である。

「来客は珍しいとのことでしたが、今日は私どもの他にも客人があったのですか?」

「いいえ、そういうお話は聞いていませんですけども……。少し待ってていただけますか? ちよっと見て来ますから」

 車を止めて、グレースが小走りに走っていく。



 白野が後部シートから前の座席に座る男の肩をトントンとつつく。振り返って耳を貸す風にするのに、面白そうにこう言った。

「……ね、朱里の予言が当ったね」

「私が予言なんてしましたか?」

「ほら、何か起こりそうだって言ってたでしょ? アレ」

「……」

 黙ったままだということは、つまり、朱里もとうに気づいていたのだろう。

「僕、シムズさんと言い合いしてる男の人の片方って知ってるよ。最近何度も見てるもの。ついさっきも、列車の中で小鳥ちゃんと吊り広告に載ってた顔を見たばっかりだったよね?」

 小鳥がまじまじと目を凝らす。言われてみればものすごーく見知った顔であるような……。


「あーっっ!!! あの人ってもしかしたらもしかして、まさかギル・グレイ様!?」

 朱里が恨めしそうな目で白野を見たのと、小鳥が叫んだのはほぼ同時だった。


 どうも、話は一向に進展していないようだ。ポツネンと何時までも車中に居るのもなんなので、とにかく外に出てみる。小鳥はこの場にギル・グレイの実物が存在するということが今一つ信じられないようだ。しきりに自分のほっぺただの耳たぶだのを抓ったり引っ張ったりしてみている。

 白野がウーンと伸びをして、目の前に建つ城を見上げた。朱里も首をコキコキッと回している。

「……別に、見た目普通だね」

「そうですね。幽霊城には見えませんね」

 二人してそんな感想を述べ合う。驚いたのは小鳥である。

「え、え、え? 幽霊城ってそれどういうコト?」

 そう言えば、車中に漏れ聞こえてきたギル・グレイ達の言い合いの声にはユーレイがなんとか、お祓いがどうとかと聞こえていたようなないような。


「あれ? 小鳥ちゃんに言ってなかったっけ、そう言えば」

「そう言えば、忘れてましたねぇ」

 主従二人が、のんびりと返す。

「なんでも、この城には首なし幽霊が出るんだそうです。噂によると」

 朱里がセント老人から聞いた話を手短に説明する。小鳥の顔が青ざめた。

「そんな『首なし城』だなんて。わたし、そんなの聞いてない!」

 お化けとか幽霊とかそういう怖いものって大っ嫌い。ヒドイ、そんなトコにわたしを騙して連れてくるんだなんてぇぇー。

「騙すだなんて人聞きの悪い。すっかり言いそびれたんですよ」

 なにせ、あの日の小鳥さんは映画がいかにステキだったかと、にも関わらず一番良いシーンでダグラス刑事がいびきを掻いて寝ていたという話を帰って来るなりまくし立てて、その後は毎度の如く『天の岩戸』してたでしょう。

「……うう」

 そう言われると言葉もない。第一、シムズ氏からの依頼を受けた時、当初は白野と朱里の二人で行くと言っていたのを、「湖畔の古城にお泊まりなんてステキ。精一杯大人しくしていますからわたしも連れて行ってくださーい」とお願いしたのは小鳥自身だ。文句を付けるのは筋違いである。でもでも、『首なし城』なんて話を先に聞いていたら、絶対に来たりしなかった。


「ですが、そのお陰で小鳥さんの憧れのギル・グレイ氏本人にこうして会えたわけですから。感謝されてもいいくらいだと思いますけどねぇ」

 朱里が言う。そうなのだ。どうも漏れ聞こえる話に聞き耳を立ててみるに、ギル・グレイはこの『首なし城』の幽霊を退治しにやって来たらしいのだった。


 グレースが車を降りて近づいてくる一行に気づいた。

「まぁ、すみません。すっかりお待たせしてしまって」

 シムズ氏も謝ってくる。

「折角お越し頂いた所を申し訳ない。この男達が突然押しかけて来たと思ったら、詰まらぬ言いがかりを付けてくるものだから」

 シムズ氏は六十前後の体格の良い人物である。その目には頑固そうな強い光を讃えているが、セント伯爵やグレースがそうと語っていたように人間嫌いの性格にありがちな礼を欠く人柄とは見えなかった。物腰も教養人らしく穏やかである。同じ人嫌いではあっても、ヘンクツ者ではなく、静寂を好むタイプの人なんじゃないかなぁと小鳥は思う。


「言いがかりとは何ですか!」

 シムズ氏の言葉に男が喰って掛かった。占い師のグレイではない。その横に立つもう一人の男の方だ。

「僕らはこの『首なし城』の三百年有余も続く呪いを祓って差し上げようと善意からやって来たのですよ。そりゃあこんな片田舎の町では知らなくても無理はないが、僕の友人はね、かの有名な……」

「ギル・グレイさんですよね、占い師の」

 止せばいいのに、つい、小鳥が口を差し挟んでしまう。

「おや、君らも彼を知っているのか?」

 シムズ氏が驚いた顔をする。

「はあ、知っていると言いますか、当家のメイドがその方の熱烈なるファンでして」

 朱里が仕方なさそうに説明する。

「本物なのかね?」

「最近、雑誌でよく目にする人物ではあります」


「ほらぁ、旦那様。こちらのお客さんも本物だって言ってなさるじゃないですかぁ」

「お願いですから、グレイさんにお祓い頼んでくださいまし」

「もう、あたしら怖くってこれ以上このお城にお勤め出来ないですよぉ」

 グレース以外の女中たちが、こぞってシムズ氏に訴える。


「僕はこちらのお嬢さん方からの投書を頂いてここに来ました。一般に占い師と呼ばれていますが、僕の本職は霊媒師なんです」

 今まで黙っていたグレイが口を開いた。深みのある美声である。

「聞けば、この城には『首なし城』の異名があり、その伝説の通り、夜な夜な不可思議な霊象が起こっているのだとか。どうでしょう、僕に除霊させては頂けませんか? 迷える霊魂を導き、呪われた魂を解き放つことこそ僕のような特別な能力を持った者に科せられた使命なのです。僕にお任せ頂けるなら、必ずやこの城に纏わる謎を解き、暗雲を追い払い、皆さんの不安の種を一掃して差し上げます。……ああ、勿論、代金を頂こうなどとは微塵たりとも考えてもおりませんから、その辺りはご心配なく」

 長い台詞を一気に語ったグレイを小鳥はカッコイイと思った。迷える霊魂を救うとか呪われた魂を解き放つとか、ヒロイズムに満ちててすっごくステキ。

 そう思ったのは、何も小鳥だけでなく、その場にいたシムズ家の若い女中たちも全員同じだったらしい。うっとりした顔でグレイを見ている。顔の善し悪しは重要だ。


「お願いです、旦那様、グレイさんにお頼みして除霊して貰ってくださいー」

「毎晩、シクシク女の泣き声がするんですよぉー」

「首のないお化けが歩くのをあたし、この目で見たんですぅー」

「ああ、分かった、分かった。除霊でもお祓いでもなんでも勝手にやってくれ! グレース、この件は君に任せたぞ」

 シムズ氏が女中たちに詰め寄られて、とうとう悪霊払いを承諾した。


■■4


 妻の姿を絵にして欲しい。

 それが今回の依頼である。


 シムズ氏に案内されて、奥方の部屋を訪ねる。彼女は窓際のロッキングチェアーに腰掛けていた。足には温かそうな膝掛けを掛けていて、どこか物憂げな表情をしている。

 窓から差し込むカーテン越しの柔らかな光がゆらりと揺れて、白野は一つ二つ瞬きをした。

 ロッキングチェアーの丁度正面に当る位置。壁に取り付けられた鏡に、光が反射したのだ。大きな楕円形の鏡である。まるで絵を入れる額縁のような凝った意匠の金飾りがその周囲を縁取っている。鏡には奥方の上半身と、その後方に立つ白野自身の姿も映っている。


「妻のメラニーだ」

「初めまして」

 紹介されて頭を下げる。奥方は黙したままである。

「私の最愛の妻なんだ。彼女の姿を描き止めて欲しい。……引き受けて貰えるだろうか?」

 シムズ氏が伺うように白野を見る。それにコクンと頷いた。

「うん、いいよ」

「写真などではダメなのだよ。そうして誰にも秘密にしていて欲しいのだ。それは分かってくれるだろうね?」

 もう一度頷く。

「うんと血色よく描いてやってくれ。今にも踊り出しそうなくらいに」

「うん。健康そうに描くよ」

「幸せそうに微笑ませてやってもくれるかい?」

「分かった」

 白野は氏の頼みに一つ一つ頷いている。



「それじゃあ、ちょっと描いてみるね」

「今からかい? 移動で疲れているだろうから、ゆっくり明日からでもと思っていたが」

「ううん、平気。今日はラフ画だけだし。それに僕はここに絵を描きに来たんだし」

 そこで白野が振り返ったので、壁際に控えていた朱里は既に用意していたペンとスケッチブックを少年に渡す。「こちらの椅子をお借りしても?」と当主の承諾を得て、白野に椅子を用意する。

 しばらくして、すっかり少年が絵の世界に没頭してしまったのを確かめて、シムズ氏に向かって一礼すると部屋を出た。


 グレースに教えられていた城の中の一室に朱里は入る。この城に滞在中はここが彼の私室だった。ぐるりと室内を一瞥する。ベット、ライティングデスク、クローゼットに小さな応接セット。造りは古いが悪くない部屋である。両隣を白野と小鳥がそれぞれ使うことになっている。


 先に届いていた荷物から、白野の私物と画材道具を選び出して彼の部屋に運び込む。それらをそれぞれ所定の位置に収納し終えてからその後、自分の分の荷出しに掛かった。まぁ大概は本である。それにタバコと携帯灰皿。

 片付けを終えると、その一箱と灰皿を持って、朱里はバルコニーに出た。この季節だと日暮れから夜への移行は早い。東の空には既に青い月が見え、湖の上に白い光の道筋を一本くっきりと引いていた。

 それを眺めつつ、一服。

 静かだった。湖の水が波立つ音が僅かに聞こえる。

 ホォーホォーと夜行性の鳥が鳴き、ざわざわと森が蠢いた。いつの間にか月には薄雲がかかり、影と闇の際が判然としなくなっている。

 ふぅーと深く紫煙を吐いた。


「……やっぱり来るんじゃなかったー、とか、今思っちゃってる?」

 その声と同時に、黒い何かが隣のバルコニーからこちらに向かって飛び込んできた。手摺りから手摺りへ、そしてスタンと床に着地し、「ニャオーウ」と鳴いた。黒猫である。

「ゴメン、びっくりした? そのコ、ここの奥さんが可愛がってるネコなんだって。僕について来ちゃったんだ」

 「ニィィー」と足下に擦り寄ってくるネコの金目を見下ろしつつ、朱里は大仰なため息をつく。

 幽霊城に黒猫とは、舞台効果が出来すぎだ。

「脅かさないで下さい。心臓が止まるかと思いましたよ、白野様」

 そう主に文句を言う。

「ウソばっかり。僕がバルコニーに出たのなんて、とっくに気づいてたクセに」

 手摺りに頬杖をついた格好の白野が微笑う。つられて朱里もクスリと笑んだ。


「もう、スケッチはお終いですか?」

「うん。初回だし今日はここまで。おなかも空いてきちゃったし」

「そうですね。そろそろ夕食の頃合いですが、どうなっているんでしょう」

 互いの部屋のバルコニー越しに取り留めもない会話を交わす。

「そう言えば、小鳥ちゃんは?」

「退屈だし、一人で部屋にいるのは怖いから、グレースさんの手伝いをすると言っていましたが。……階下ですかね?」

「あの占い師さん。あ、違った。霊媒師さんだっけ。あの人達もどうしたんだろうね?」

「興味を持たないでくださいよ。私は関わりませんからね」

 この城での滞在は、日々の雑事からも掃除や調理からも解放される折角のオフ期間である。朱里としては、ここはとにかくのんびりとたまの休暇を楽しみたいのだ。心の底からゆったりと本の世界に耽溺したい。


「ムリだと思うなー、勘だけど」

 白野が不吉な事を言う。彼の予言こそ当るのだ。今日までの彼との日々がそれを証明して余りある。心底無念そうに顔をしかめてみせた男に、白野が思案顔になる。

「でも……、うん。朱里はのんびりしててイイよ」

「はい?」

「たまには僕も、朱里を甘やかさなくっちゃ」

「……」

 面食らう。男の見開かれた目が、やがてゆっくりと細められる。

「いいんですか? 私は休むと言ったらとことんまで休みますよ」

「いいよ。たまーに、だからね」

 恐れ入ります、と礼を言うと、どういたしまして、と返された。

 足下でネコが「ミャオーウ」と鳴いた。


「なんでも、こちらの奥方はこの城に移り住んで来て以来、ずっと原因不明の長患いで伏せっているそうじゃないか。それこそ悪霊の祟りに相違ないと僕は思うね!」

 男が熱弁を振るっている。この男はグレイの友人でマネージメントをしているロイスというのだそうだ。


 結局、手伝いを申し出たものの、「そんなお客様なんだから」、「どうぞのんびりしていてね」と放られて、小鳥はギル・グレイ、ロイスの二人組と客間で同席するハメになっていた。グレイはともかく、このロイスと言う男、なんとなく高飛車であんまり好感の持てるタイプとは思えなかったが、それでも幽霊城に一人で居る怖さを思えばマシである。廊下も部屋も天井が高い所為かどこも薄暗くて気味が悪い。首を落とされた姫君がケタケタケタ……と嗤いながら、今にも目の前を横切りそうな心地がする。


「ところで、君はシムズ氏のどういうお知り合いですかな?」

 そうロイスが訊いてきた。

「え、えーっとわたしはですね、あのそのぉ」

 返事に困る。どういうお知り合いと言われても、氏が画廊に訪れた時、メイドとしてお茶を運んだという、ただそれだけの関係だ。

「わたしは白野様にくっついて来たんですけどぉ」

「白野君というのは、あの巻き毛の少年かい?」

 今度はグレイが訊ねてくる。

「そうです。白野様は画家なんです。それで長身の黒髪の人が朱里さんっていって執事で、わたしはメイドをしています」

「画家? あの子どもが?」

 小馬鹿にしたようなロイスの物言いにカチンと来た。

「なにか、おかしいですか? 白野様は立派な画家です。幸福の絵をお描きになるんです」

「幸福の絵? ……ちょっと待って。それはあの【幸福画廊】のことかい?」

 グレイが興味を惹かれたらしい。急に身を乗り出してきた。

「幸福画廊? ああ、僕も聞いたことがあるな。法外な値でイカレた絵を売りつけるとかいうインチキ画廊の話だろ? そうか、見るからに胡散臭い奴らだとは思ったが」


 途端、小鳥の脳内で赤いやかんがピーッと天井まで湯気を噴いた。目をつり上げて抗議する。

「失礼ね、白野様はインチキなんかしないわよ!」

「あの少年にオカルトめいた神秘の能力があるとは、とても思えないなぁ。第一、このグレイのようなオーラが感じられないよ」

 芝居がかった仕草でロイスが肩を竦めてみせる。この男、グレイさんのマネージャーじゃなかったら、ギッタンギッタンにのしてやる所だ。

「やめろよ、ロイス。そうか、あの少年がねぇ。噂を聞いて一度は会ってみたいと思っていたんだよ、僕は」

「よせよせ、グレイ。所詮、偽物と本物では格が違うというものさ」

 アンタなんかにナニが分かるって言うのよ。


「白野様は未来だって分かるんだから。人の心が分かるんだから。幽霊だって成仏させたことくらいあるんだから!」

 厳密に言えば生き霊だったが、それがどうした、大した違いがあるもんか。

「ほー、じゃああの少年は霊視をしたり、未来予知したりするワケだ。その上、悪霊調伏もやる強力な霊能者だというんだね?」

「そ、そうよ」

「じゃあ、『二大霊能者の対決』というワケだな。こりゃ面白い」

 このロイスという男、いちいち嫌味な奴である。そして小鳥はというと、なんとなく怒りに任せてとんでもないことを口走ってしまったような、そんな戦慄に一人戦いていたりするのであった。


 妙な雲行きになってきた。

 小鳥の回収に階下に降りてきた主従が耳にしたのは、「失礼ね、白野様はインチキなんかしないわよ!」の辺りからである。まぁ、それで大体の事情は解る。それにしても、何が『二大霊能者の対決』だ。


 白野が朱里の腕をツンツンとつつく。ひそひそ声で言ってきた。

「へぇー、僕って霊能者だったんだ」

 知らなかったよ。朱里は知ってた?

 そういう事を真顔で訊いてくる辺りが、この少年のコワイ所だ。

「ちょっと違うと思いますが。まぁ、この雲行きですとその様なものに祭り上げられてしまったようですねぇ」

 律儀に答える朱里もまた朱里である。もうどうとでもなれ! といった捨て鉢気分とも取れる。



「……やぁ、ちょうど君たちの話をしていたところだよ」

 グレイが二人を見つけて、手招きする。なかなか目聡い男である。流石は霊能者、と言うべきか。

「【幸福画廊】の噂は聞いているよ。感激だなぁ、こんな所で出会えるなんて。是非とも逸話を訊きたいものだ」

「お客様のプライバシーですから」

 友好的な雰囲気のグレイを前に、朱里の返答はにべもない。

「ふん、どうせインチキ画家に決まってる。それで話せないのさ」

「白野様に何てこと言うのよ!」

「小鳥さん」

 ロイスにいちいち食って掛かる小鳥を朱里が制する。そうしてひと言こう言った。

「信じるも信じないも依頼主次第、と言う点では、そちらも同様かと存じますが」

 それに、「まったくだね」とグレイが笑う。

「ロイス、君も言い過ぎだよ。お嬢さんが泣きべそかいているじゃないか」

「な、泣いてなんかないです」

 ただ、もの凄く悔しくて、歯がゆくて、じれったくってならないだけだ。

 白野様も朱里さんも、こんな酷いこと言われちゃってもゼンゼン気にしてないんだ。すっと笑って流しちゃうんだ。……それが正しいんだって分かってる。わたしにだって分かってる。【幸福画廊】の不思議も、白野様の絵の素晴らしさも、信じてくれる人にだけ分かって貰えたらそれでいいんだ。そうなんだ。

 でも、でも。自分の大切にしてるものを踏みにじられるのはやっぱり悔しい!


「……小鳥ちゃんを泣かさないでよ」

 唐突に。白野がポツっとそう言った。

「どうして貴方はそんなにケンカ腰なのかな? そうやって、僕とその人に『対決』っていうのをさせてみたいようだけど、それでもってどうするの?」

 白野の蒼い透明な瞳に見つめられて、ロイスが一瞬鼻白んだ。が、すぐに平静を取り戻す。

「ほう、いっぱしの口を利くじゃないか」

 じゃあ、君にこの城の謎が解けるって言うのか?

 死霊を追い払えると言うのか?

 言いつのる男に、白野はほんの少し眉根を寄せる。

「……ホントに首なしお化けなんて、この城に居ると思ってるの?」

 それに、グレイが吹き出した。

「君は摩訶不思議と噂される【幸福画廊】の主でありながら、かなりな現実主義者らしいね」

 よし、それじゃあこうしよう。降霊会を開こう。僕がこの城の迷える魂を呼び出して交信を行う。そうしてさまよえる姫君を呼び出す。そうすれば君にも信じて貰えるだろう。

「そうしたら、改めて僕と対決してくれるね?」

 グレイが挑むような目で白野を見る。


「僕はここに、ただ絵を描きに来ただけなんだけど……」

 白野が軽く小首を傾げた。

「でも、いいよ。ホントにお化けが出るならね」



「皆さん、夕食が出来ましたから、どうぞおいで下さいましな」

 グレースがエプロンで濡れた手を拭き拭き、パタパタ走って呼びに来た。


■■5


 ギル・グレイの弁によると、降霊会の準備にはそれなりの日数を必要とするものらしい。

 夕食の席で、シムズ氏の承諾を得ていたが、それは女中たちの不安を諫めるための仕方なしの手段であって、シムズ氏当人は幽霊話など微塵も信じてない風だった。


 夜半。小鳥はベットの中で考える。

 白野様もこの城に悪霊なんて居ないと言っていた。本当にそうなのかしら? ここの女中さんたちに話を聞いて回ったのだが、みんな「絶対に居る!」と言う。シクシクと泣く声や、彷徨する首のない幽霊を見たと言う。寝静まっているはずの城内でヒタヒタと忍び歩く足音が聞こえるという。


「ねぇ、朱里さんも首なし幽霊なんて居ないって思ってる?」

 さっき、そう訊ねたら、彼はいつもの澄まし顔で、

「そうですね。私は白野様の一派ですから」

 なんて言ってた。わたしだって、幸福画廊の一員なんだから、白野様を信じるべきだよね、……うん。幽霊なんてここには居ない。


 カタン、と窓の外で音がして、小鳥はヒッと身を竦める。

 こ、怖くない、怖くないもん。風の音、風の音。


「よく眠れなかったようですね」

 室内に差し込んでいる朝の光みたいに清々しい顔をして、朱里が小鳥にそう言った。

 いかにも「案の定」という声なので、小鳥はちょっとムッとする。

 結局、空が白み始める時間まで、ベットの中で震えてた、などとは口が裂けても言いたくない。まぁ、真っ赤な目とぼーっとした表情の両方が、多くを物語ってしまっているワケだが。


「お紅茶のお代わりはいかがですかぁ?」

「お願いします」

 グレースが朱里にお茶を注いでいる。それをいかにも「当然」という風で受け流して、男は分厚い本のページをめくる。


「白野様は?」

「絵をお描きですよ、勿論」

 小鳥さんもお茶を頂いたらどうです? と訊いてくる。それにプルルっと首を振る。

「グレイさん達は?」

「存じません」

 そこらに見あたらないのなら、降霊会とやらに使う道具でも調達に出たのではないですかね。準備に時間が掛かると言われていたようですし。

 本のページがまためくられる。

 ……なんだか、いつもの朱里さんとちょっと違わなくない?

「朱里さんってば、そんなトコでのんびり本なんか読んでていいの? 降霊会とか幽霊とか、イロイロ心配じゃないの?」


「私は、今回は関わらない予定です」

「へ?」

「思わぬ休暇を頂いたんです。のんびりさせて貰います」

 本から視線を放さぬまま、言葉通りのんびりと熱い紅茶を啜っている。

「ナニよ、それって。知ったことじゃないってこと!?」

「語弊のある言い方ですが、まぁ、そうですね」

 信じらんない!

 二大霊能者対決は? 首なしお化けのお祓いは? 一体全体どうなるの?


「心配には及びません。白野様が勝ちますよ」

「どういう根拠で?」

「そうですね。この城が館から見て南東の位置にあるから、ということにでもしておきましょうか」

 それに、ここから見える湖の色は、綺麗な水色ですしね。

 朱里がまた本のページを一枚繰った。もう、本から顔を上げなかった。


 その夜、ダグラスから思わぬ電話があった。

 取り次いでくれたグレースに礼を言って、受話器を取ると、『おー、元気かぁー』といつもの陽気な声が聞こえた。『幽霊にびびって泣いてないかぁー』とも言っている。どうやら、セント伯爵に『首なし城』の話を聞いたらしい。

 なんだか、じわーんときた。勢い込んで話し出す。


 ここ数日の顛末を報告すると、ダグラスが電話の向こうで馬鹿笑いした。

「笑い事じゃないわよ」

『わはは……イイじゃないか。どだい、あの執事は働き過ぎだ』

 それは認めるけれども。でもだからって、何でよりにもよって今休むのよ? と思うのだ。

『それにしても、執事に骨休めさせようなんて、坊やも粋な計らいをするじゃないか。小鳥のことも庇ってくれたんだろ? 召使い思いの良い主人だ。お前、良いところに勤めたな』

「……」

 もう一度、胸の中で今の言葉を反復する。

 うん。わたしの職場は世界一ステキで、世界一不思議で、そして世界一の画廊だ。

『でな、そういう職場に勤める者は、主人に尽すもんだぞ。敏腕執事が休暇中なら、そりゃあ尚のことだろ?』

「うん、そうよね。わたし、頑張る」

『おう、ガンバレ』

 応援してくれる男の言葉が温かい。


 ところでな、とダグラスが言う。その前に、コホンゲホンと咳払いが入った。

「なぁに?」

『……ギルなんたらは、あー……、なんだ、やっぱその、イイ男だったか?』

 ぷぅーっと吹き出す。刑事ったらもう、何を言うかと思ったら。

『笑ってないで答えろよ』

「そう」

『……』

「でもなかった」

『あ?』

「刑事の方がずっといい男だなーって思った!」



 ガッチャン! と、そのまま受話器が勢いよく叩きつけられた音がして、ダグラスは思わず耳を背けた。プープープーと通話の途切れた音が聞こえる。小鳥が恥ずかし紛れに電話回線をぶち切ったらしい。

「ケケ……」

 などと、薄気味悪い声で笑って、ダグラスは誰も見る者も居ないのに赤らんでもいない頬を強く擦ってみたりする。逆に擦りすぎて赤くなっていることには気づいていない。

「ウケケ……」

 ダグラスがもう一度笑った。声はともかく顔つきはかなり幸せそうだった。


■■6


 すっごくおかしな話を聞いた。

 この家の奥様という人を、女中さん達は一度も見たことがないらしい。食事も身の回りの世話も、一切をグレースとシムズ氏の二人でやっているという。それに、若い女の子達はグレースを怖がっているようだ。穏和そうな人だけど、女中頭としての彼女はそれなりに厳しい人なのだろうか?


「でね、朱里さん。でね、でね」

「ちょっと待った。小鳥さん、先に私の質問に答えて下さい」

「なによ?」

 別に、貴女が何を調べて回ろうとそれは一向に構いませんが。

 と、前置きをして朱里が言う。

「どうして、それを逐一私に報告して来るんですか?」

「だあってぇ」

 折角仕入れた情報も、聞き手がなければ寂しいではないか。白野はずっとシムズ氏の奥方の所で絵を描いているし、ダグラスは居ないし。そうなればもう朱里しか相手が居ない。ブチブチとゴネて、タコ唇になる小鳥である。話したくて話したくて口がうずうず、むずむずする。

「……分かりました、拝聴しますよ」

 根負けしたらしい朱里が読みかけの本を閉じて立ち上がる。

「折角景色の良い場所を訪れているんですから、ちょっとそこらを散策でもしましょうか」

 そう誘ってきた。

 余りこの城でおおっぴらに語っていい話題でもないようですし。


 廊下を歩いていたら、女中さんの一人と鉢合わせした。女の子が「ヒャッ」と叫んで、抱えていたお盆を落としてしまう。床に当った銀の盆の反響音は、クアーンクアーンと甲高く廊下の果てまで木霊していった。余り耳馴染みの良い音だとは言い難い。

 古城ゆえ、この建物は全体的に窓が小さめで日中でも薄暗い。朱里のトレードマークとも言える黒服姿はどうも女の子には判別しにくかったようだった。


「失礼。大丈夫でしたか?」

 朱里がトレイを拾って渡す。割れ物を載せていなかったのは幸いだった。

「は、はい」

 ごめんなさい。そういう声に震えが混じっていたのを小鳥は聞き逃さなかった。

「……みんな、怖がっているんだわ」

 去っていく女の子の後ろ姿を目で追いつつ、小鳥はそう結論づける。唐突に曲がり角で長身ノッポの黒服男と出くわせば、そりゃあ幾らかは驚くだろうが、それにしたってあのビックリぶりは普通じゃない。

「やっぱり、このお城にはなんか居るんじゃないかしら?」

 だから、みんな怯えるんじゃない?

 そう朱里に問うてみる。


「では、どうして彼女たちはわざわざ幽霊城に勤める気になったのでしょう?」

 湖への道を下っていきながら、朱里が言う。

「え?」

「言葉遣いからして、この城の女中さん達は全員地元の人でしょう」

 だとすれば、この『首なし城』の伝説はみんな勤める前から当然承知していたはずです。

「小鳥さんなら如何です? 『首なし城』に就職しますか?」

「えー?」

 それは。どうだろう?

「他にお仕事口が見つからないとか、お給料が高いとか。そういうことなら一応考えてはみるけど」

 でも、本当に『出る』なら、絶対にイヤだ。


「彼女たちも、多分そんな風だったんですよ」

 途中から小道に入って、更に下っていくと、いつしか湖の畔に出た。しばらく波打ち際を歩いて、手頃な倒木を見つける。二人してそれに腰を下ろす。

「きっと、『首なし城』の伝説は面白半分の語り草で、地元の人は暇つぶしにそういう噂を立てはしても、誰一人として本気で信じているワケではなかったんです」

 だからこそ、女の子たちは幽霊城への就職も決めた。

「こういう寒村では就職口も多くはないでしょうし、シムズ氏は都会からの移住者です。給金もここらの相場より高かったであろうことは想像に難くないですね」

「……じゃあ、どうしてか今になって、急にみんなで伝説を信じるようになった、って。そういうコト?」

 だとしたら、みんなが俄然幽霊を信じる気になっちゃったその『きっかけ』って一体ナニ?

「さて、なんでしょう?」

 朱里がそこでにっこりと笑った。なんだか、ノータリンの生徒に問題を解くヒントを小出ししてる先生みたいだ。ちょっとムカツクかも、と小鳥は思った。


 結局、その後の朱里さんはなんのヒントもくれなかった。

 ケチんぼ! と思うけど。思うだけじゃなく言ってもみたけど、全く相手にして貰えない。「休暇中の人間をこき使わないように」の一点張りだ。朱里さんは徹底的に休むつもりでいるらしい。


 湖の散策から戻ったら、城の窓から白野が見えた。小鳥が手を振ると、それに気づいた少年も軽く手を振り返してくる。それから、何か指で宙を指すような仕草をして、自分のポケットを上から軽く押さえてみせる。そうして、にこっと笑った……ように見える。

「部屋に戻ってちょっと待ってて、だそうです。何か頂き物がポケットの中にあるようですね。お菓子でしょうか?」

 いっしょに窓を見上げていた朱里が言う。

 あんな簡単なジェスチャーで通じるなんて、ツーカーな人達は便利である。



「今日はここまででイイかな?」

 白野は窓辺から離れると、描きかけの絵に覆いを掛けた。

「ああ、構わないよ」

 シムズ氏が言う。

「妻も一日中ポーズを取っているのは疲れるだろうしね」

 それに、「ふふ」と笑ったら、シムズ氏も笑い返してきた。

「こんな依頼を引き受けてくれて有り難う。きっと断られるものだと思っていたよ」

「どうして?」

「それは……そうだろう」

 シムズ氏がロッキングチェアーに腰掛けた奥方を抱き上げる。カクンと首がシムズ氏を向いて、彼を見つめた。その表情は動かない。

「狂っていると思われても、我ながら仕方ないと、それくらいの常識は私にだってあるからね」

「僕は、望まれれば描くよ」

 例えそれがどんなものでも。それが依頼主の幸せなら。


 奥方をベットに移す途中で落ちてしまった膝掛けを、少年の手が拾い上げた。折りたたんでシムズ氏に渡す。

「そうだよ。これが私の幸せだ。メラニーと共にいる時が私には一番落ち着くんだ」

 シムズ氏が妻の頬をそっと撫でる。

「絵の完成が待ち遠しいね。まだ見てはいけないのだったね?」

「うん。きちんと仕上がってから見て欲しい」

「分かった。依頼の時の条件だからね。完成まで見ないというのは」

 本当に仕上がりが楽しみだよ。君もそうだろう、なぁメラニー?

 シムズ氏は優しく妻に話しかける。


 部屋で待っていると、白野がしばらくして戻ってきた。

 備え付けの道具で、ちょうどお茶を煎れたところである。白野がポケットの中からクッキーの包みを取り出した。

「シムズさんに貰ったんだ。小鳥ちゃん、山分けしよう」

 辛党の執事は、最初から勘定外である。

「夕食前ですから、食べ過ぎないで下さい」

 三枚ずつ山分けされたクッキーの封を切る二人に、朱里がそう注意する。休暇中を連呼する割に過保護癖が抜けてない。


「絵の進み具合は如何ですか?」

「順調だよ」

 金色系を沢山使うって思ってなかったから、持ってきた絵の具で足りるかどうかちょっと心配したけど。それもなんとかなりそうだし。

 クッキーを囓りつつそう答える。

「あのぉ、白野様は、ここの奥様の絵をお描きになっていらっしゃるんですよね?」

 同じく、クッキーを食べながら小鳥が訊いた。

「うん、そう」

「あのですね、白野様。その奥様って……」

 戸口で何かを引っ掻くような音がした。

「ちょっと待って」と小鳥に断って白野が扉を開けに行くと、床に居たのは先だっての黒猫である。「ミャオーン」と鳴いて、するりと部屋の中に入ってくる。

「あれ、お前また僕について来ちゃったの?」

「懐かれたようですね」

 朱里が言って微笑んだ。どうやら、白野は黒いものに執着される質らしい。


 新品の絵の具筆を取りだして、それをネコにじゃれつかせて遊んでいる白野を眺めつつ、小鳥はずっと考えている。

 そう。その奥様という人が気になるのだ。

 湖の畔で朱里さんが言っていたこと。みんなが急に幽霊伝説を信じるようになったというその『きっかけ』とは何か?

 幽霊騒ぎ以外で、この城の奇妙な点といったら、それはやっぱりシムズさんの奥様だろうと小鳥は思う。

 小鳥が訊いて回ったところ、この家の奥様という人を、女中さん達は一度も見たことがないという。食事も身の回りの世話も、一切をグレースとシムズ氏の二人でやっているらしい。ずっと病で伏せっているということだが、その割にはお医者様も来たことがない。

 もしかして、人間嫌いだと言うのは、シムズさんじゃなくて奥様の方じゃないのかしらん?

 でも、幾ら人間嫌いの奥様だと言っても、住み込みで働いている女中さん達が見たこともない、声すら聞いたことがないというのは、やはり異常だ。その異常さが……なんていうのかな? もやもやして気持ち悪い。


「朱里さんは、奥様とお会いしてるのよね。どんな方?」

「私は部屋には入りましたが、白野様の雑用をしていただけですからね」

 特になんとも。まぁ、【幸福画廊】のお客様らしいといえばらしい、ですかね。

 なんだか、妙に歯切れが悪い。

「朱里さん、なにか隠してるでしょ?」

「白野様が依頼をお引き受けになった以上、私には守秘義務があります」

「ケチんぼ」

「さっきも言われましたね」

 埒が明かない。いいもん、白野様に訊いちゃうもん。


 ふいに、ネコが小鳥の膝に飛び乗ってきた。

「わっ。 もぅー、びっくりしたぁ」

 そう言いつつ、ネコのアゴを撫でてやる。しばらくゴロゴロと喉を鳴らしていたネコは、急にピクンと耳をそばだてると、小鳥の膝から飛び降りた。そうして天井の隅の方をじーっと見ている。

「ん? ネコちゃんったらナニ見てるのかな? ネズミでもいるのかな?」

 直立不動のままじっと天井の一角を見つめて動かないネコに、小鳥もその付近を見つめてみる。特別目に留まるようなものはない。


「ナニもいないみたいだけど……」

 そう思って、振り返った先で、小鳥は白野少年がネコと同じくじっと天井の端を見つめていることに気がついた。ギクリとする。黒猫の金目と白野の蒼い目。どちらも一点を見据えたままで動かない。

「し、朱里さんにもなにか見えるの?」

「いえ、私には特別なにも」

「そ、そうよね、そうよね。なんにもそこにナイわよね!」

 ほっと胸を撫で下ろす。幽霊が見えるとか、そんなね、そんなことありえないわよね。なんだか急に室内の明かりまで暗くなった気がしちゃうケド、そーんな筈はナイわよね。

 しかし、白野もネコも相変わらず、壁の一点を見つめている。

 やがて、白野と黒猫が同時にピクリと動いた。二つの視線がゆっくりと横滑りに動いて行く。

「ヒィィー! やっぱ、なんかいるよぉ。二人揃ってなんか見てるぅーっっ」

 正確には一人と一匹が見ているのだが、そういう細かいことを詮索したところで無意味だろう。


「白野様、止めませんか。それは私でもコワイです」

 歩み寄った朱里が、白野の肩を軽く揺する。ハッとしたように男を見た。蒼い目の焦点が戻る。そしてコシコシと目を擦る。

「……あ、ゴメン。つい目が行っちゃって」

 ナニに目が行っちゃったんですかぁ? などとは、小鳥にはとても聞けない。怖ろし過ぎる。

「ちなみに、白野様。今のはどういう霊象をご覧になったんでしょう?」

 だから、朱里さんもストレートに訊かないでってばっっ。

「んー」

 問われた白野が小首を傾げる。

「こういうのを言葉で説明するのって難しいんだよね。まどろっこしいし。……あ、そうだ。絵に描いてみせようか?」

「イヤですー、描かないで下さいーっっ」

 そんなダイレクトなものっっ。

 小鳥が泣き声になる。

「もう、イイです。一人の方がずっとマシです。わたし一人で謎解きします。二人とも帰って下さい。わたしの部屋から出て行ってー!」



 バタンと部屋から放り出された。勿論、ネコもいっしょにである。白野がネコを抱き上げてクスクス笑う。

「あーあ、追い出されちゃった」

「白野様。話を逸らすにしても、あのやり方は感心しません」

「朱里だって、のってきたクセに」

「楽しかったですね」

 すこぶる性格の悪い主従である。少年の腕の中で黒猫がクワーッとアクビをする。


「楽しいって言えば、明日が降霊会だって。ギル・グレイがそう言ってた」

「降霊会が楽しみなんですか?」

「うん」

「……」

 ここら辺のノリは例え以心伝心の執事にもついては行けない感覚だ。

「で。先程は何をご覧になったんです?」

「ふふっ」

 白野がネコを朱里に渡した。

「このコに教えて貰うといいよ」

 朱里の手に移ったネコが「ニャウー」と鳴いた。流石にネコ語は分からない。


■■7


 明かりを落とした室内。大きな丸いテーブルを囲んで、みんながその場に着席している。

 それぞれの前にはローソクを灯した燭台がある。ギル・グレイの前には燭台の代わりに水晶球と香炉が置かれ、妖しげとも神秘的ともとれる強い香りが漂っている。


「それでは降霊会を始めます。精神を集中しますので、お静かに」

 グレイが両眼を閉じて集中する。なにか口中でブツブツと呪文めいた言葉を唱える。

 やがて、グレイの頭がゆらーりゆらーりと振れ始めた。トランス状態になったらしい。

 ローソクの火が風もないのにゆらりと揺れた。水晶玉がぼぅーっと青みがかった光を放ち始めると、女中の一人が「あわわ……」と言った。それを「シー」と誰かが制する。


『……ワタクシヲ呼ブノハ誰デスカ?』

 水晶玉から発する光で、青みを帯びたグレイから、声が漏れた。彼の口から発せられたとは思えない高いトーンの声である。

「伝説の姫君が、ギル・グレイに乗り移りました」

 ロイスが厳かにそう宣言する。


「姫君にお尋ねします。貴女は何をお望みですか?」

『……ノゾミ?』

「この世に迷っているからには、何か未練があるのでしょう? 貴女は高名なる霊媒師ギル・グレイに何を望みますか?」

『……カエシテー』

『……カーエシテー』

『……カーエーシーテー』

 不意に、テーブルがガタガタと音を立てて揺れ始めた。ローソクの炎が一瞬大きな炎を吹き上げて、一斉に消える。室内が真っ暗闇になる。女性達の悲鳴。椅子の倒れる音。


 天井の照明がパッと点いた。ロイスがスイッチを押したのだ。

「大丈夫か、グレイ?」

「……ああ、なんて強い霊なんだ。逃げられてしまった」

 グレイはゼイゼイと肩で息をしている。


「馬鹿馬鹿しい。茶番だ。この世に幽霊など居るものか!」

 シムズ氏が怒りに声を震わせる。仕方なくこの場に付き合ったが、流石に腹に据えかねたようだ。

「そうですよ。『首なし城』の伝説なんて迷信です。みんなをこんなに怖がらせてあなた達、いったいどうしようっていうんです?」

 グレースも大きな声を出す。

 女中達はみなお互いに肩を抱き合って震えていた。中には泣いている女の子もいる。


 小鳥もハッと我に返れば、朱里にへばりついていた。

「小鳥さん、そろそろ放して下さい。私はダグラス刑事に殴られたくありません」

 そう言われて、ババッと飛び離れる。みんな青い顔をしてるのに、自分だけ真っ赤になってしまった。


「今の霊現象を見て、まだそんなことを仰っておられるのですかな? ギル・グレイの神秘の力は本物ですよ」

「くだらない。今まで我慢していたが、もう限界だ。さっさと帰ってくれたまえ!」

「待って下さい!」

 女中の一人がギル・グレイに縋り付いた。

「お姫様の霊とか、そんなの違いますよね? ホントのことを言って下さい。……このお城にいるのはシムズ奥様の幽霊ですよね?」

「まぁ、なにを言うの?」

 グレースの声を遮って、他の女中達も堰を切ったように騒ぎ出す。

「そうよ。奥様よ!」

「奥様が死んでるんだわ!」

「旦那様もグレースも隠してるけど、それを恨んで奥様が化けて出てるのよ!」

「寝取られた旦那さんをカエセーと叫んでるんだわ」

 娘達がわーっと泣き出す。

 想像外の女中達の反応に、グレイとロイスは狐に摘まれたような顔をしている。

「お、お前達、何を馬鹿げたことを言っているんだ?」

 シムズ氏がよろめいて、テーブルに手を着いた。


「だって、おかしいじゃないですか。あたし達、奥様に一度も会ったことないんですよ」

「声すら聞いたことないんだもの」

 女の子達が言いつのる。

「グレースが奥様にって運んでいく食事のトレイ、いつも全然手つかずなの、あたし達知ってますからね! ネコのエサにされてるの、全部知ってますからね!」

「いつだったか、こっそり奥様のお部屋を覗こうとした時、旦那様に見つかって……。旦那様ったら凄い剣幕であたしのコト怒鳴ったのよ。あたしあの時、旦那様に殺されるかと思ったわ!」

 娘達の口々の訴えを、シムズ氏は青い顔をして聞いている。

「……つまり、お前達は私とグレースが共謀して妻を殺した挙げ句、それをひた隠しにしていると。そう疑っていたわけなのか?」

「だって、そうとしか思えないじゃないですか!」

「人殺しぃー!」

「違うのよ、あなた達。あの奥様はね、奥様は……」

 グレースがおろおろと、それでもそれを言葉にすることを躊躇する。


 不意に。シムズ氏が嗤い始めた。狂気めいたその声に、その場の者が凍り付く。

「これは……傑作だ。私に妻が殺せるわけがないじゃないか」

 ……だって、彼女は元々生きてはいないんだから。

「私の妻は、人形なんだよ」

 シムズ氏の告白に、皆が言葉を失い、それと取って代わったように今度はグレースが激しくわなないて泣き始めた。


 女中達はグレースを除いた全員が、結局城を出て行ってしまった。

「仕方ないですね。あそこまでこじれてしまったら」

「そうだな」

 シムズ氏とグレースが話している。

 流石に殺人者の疑いをかけられたとあっては、雇用関係の継続は難しい。

「元を正せば私が愚かだったんだ。人形を妻にしているなどと人に知られたくないばかりに、余計な嘘を積み重ねて、怖ろしい誤解を招いてしまった」

 君にもいらぬ気苦労をかけてしまった。すまない。

「旦那様……そんな謝らないでくださいまし」

 グレースがおろおろしている。


 『きっかけ』だ、と小鳥は思う。

 シムズさんは人間嫌いが高じて、とうとう人形を妻にしてしまった。

 でも、やっぱり、人形を奥さんにするのは、ハタから見れば不自然だし、どんなに完璧に隠そうとしても。いや、完璧を装えば装うほどにボロが出る。

 それが、女の子達を怯えさせた。一旦疑いだしたらもう止まらない。彼女たちは奥様が殺害されたのだと思い込む。挙げ句、今まで普通に見えていたものまでも何もかもか疑われてきて、その全てが怖くなったんだ。この城には奥様の幽霊が出るのだと、そう信じた。そういう意味ではこの城は元々舞台装置が揃っていたんだ。いかにもな伝説の素地がある。昼なお薄暗い古城、森のざわめき。湖を渡る風の音。


「『幽霊の正体見たり枯れ尾花』、か」

 小鳥は小さく唱えてみる。

「幽霊なんて、このお城のどこにもいやしなかったのね」


「バカを言うな。この城に幽霊は居るぞっっ!」

「そうだ。首のない姫君の悪霊が巣くっているのだ。僕には見える!」

「……あなた達、まだ居たの?」

 げっそりする。ギル・グレイとロイスが十字架を抱えてウロウロしている。降霊会直後のあれだけの騒動にもメゲることなく、まだこの場に居残っていたなんて、どういう神経の図太さだろう。その執念深さの方が幽霊や怨霊よりもよっぽどコワイ。

「君たち凡人には感じないだけだ! この城には三百年からの悪霊の怨念が篭もっている。首なし姫の血の叫びが君たちには聞こえないのか?」

 言ってろ、バカ。

 伝説の首なし姫がもしも今この場に出てきても、「ああ、ちょうどイイところに出てくれたわね。肩揉んでくれる?」くらい、わたし言ってやるからね。

 もう一切グレイ達は相手にするまい、と思った小鳥の耳に、信じがたい言葉が飛び込んできた。


「あ。でも、『カエシテ』っていう声はホントだよ」

「……へ? 白野様、今なんて?」

「僕にも聞こえる」

「そうか! 君にも聞こえるか。やはり君にも神秘の力があるんだな!」

 白野の言葉に、俄然ギル・グレイの声が大きくなった。

「そうとも。この城の幽霊は存在する。なくした首を求めて彷徨っているのだ!」

「それは違うよ」

 白野がまた口を開いた。それに霊媒師が食って掛かる。

「何が違うというんだ!?」

「だって、あの女性、首あるじゃない」

 爆弾発言である。シーンと室内が静まりかえった。

「し、白野様、やっぱり見えてるんですかー!?」

 だって、だって、幽霊なんて居ないって、そう仰ったじゃないですかー!

 もうイッタイ何を信じたらいいのか。

「あ……ああ、そっか。……えーっと」

 蒼い瞳が泳ぐ。みんなの視線が突き刺さって、白野は弱り顔になる。

「あのね、あと三日待ってよ。そうしたら絵が描き上がるから」

「絵がなんだと言うんだ? そうやって時間稼ぎする気か? どうせデタラメを並べてグレイを侮辱してるんだろう」

 ロイスがまたもや突っかかる。

「僕は画家だからね、絵が完成しないとお話にならないんだ」

 グレイさんが降霊会を開いたように、僕はみんなに絵を見せる。お互いの仕事のやり方でしょ? それに口出しするのはフェアーじゃないと思うんだけど。

「貴方との決着は、それまで待ってくれない?」

 グレイが白野を見据えた。何かその表情に特別な色を感じるのは、同じ特別な力を持つ者同士の親近感からだろうか。

「分かった。あと三日だな。……待つ」

「ありがと」

 と、白野が笑った。


 白野はグレイ達との約束を果たすべく、絵の世界に没頭している。小鳥は働き手が激減して大変そうなグレースの手伝いをしていたが、今現在は暇そうだ。ちょうど通りかかった黒猫を捕まえて、抱きしめたりくすぐったりして遊んでいる。ネコは迷惑顔である。


「ねぇ、朱里さん。この『首なし城』に出る幽霊は、本当は首があるの?」

「白野様はそう仰っていましたね」

 向かい合わせのソファーから朱里が応じた。相変わらずその目線は本の活字を追っていて、彼の休暇は継続中だ。そう言えば降霊会にも同席はしていたが、敢えて自ら手や口を差し挟む気はなさそうに見えた。

 そっけないなぁ、執事モードじゃない朱里さんって。

 と、小鳥は思う。最低限の会話しかしてくれないし、思いっきり無愛想だし、ろくろく薄笑いさえ浮かべてくれない。この人のコレは人間嫌いっていうよりも、ヘンクツなんではないかしらん?

「じゃあ、『カエシテー』ってナニをなの?」

「……」

 むぅー、ヒドイ。無視された。


 今まで、幽霊は首を返してって言ってるんだと思ってた。でも、それは『首なし姫』だという大前提があったからで、ちゃんと首があるのなら返して欲しい物はきっと別にあるんだろう。うーん、なんだろ? 宝物?

 『カエシテ』を返却の意味での『返して』と思うからマズいのかしら。例えばよ、鳥の雛を孵化させるって意味の『孵して』だったら……。

 プルルっと首を振る。幽霊が「この鶉の卵を孵してー」とかなんとか言ってたら、それじゃあギャグだ。

 じゃあ、帰還の意味での『帰して』だったら? うん。「生まれ故郷に帰して欲しい」って願ってるとか。これならいける。しっくり来る。でも、お姫様の生まれ故郷って何処なのよ? あーん、もう。絶対的に情報が少なすぎると思うなぁ。三百年掛けて「カエシテー」一つしか言わないなんて、幽霊ってもの凄く不親切。


「小鳥さん、何か一生懸命考えを巡らせているようですが。それ無駄ですよ、お止めなさい」

 朱里がそう言って、本を閉じた。どうやらまた一冊読み終えたらしい。彼の荷物には大量の本が入っていて、あんなにどうするのかしらと思っていたが、もしかして全部読み切る気かしら? もしかしなくてもその気らしく、朱里の手は既に次なる本を開いている。

「元々、幽霊だの怨霊だのというのは、私達一般人の関われるレベルの話ではないんですから」

 言いながらページをめくる。

「朱里さんってば、もしかして一般人のつもりなの?」

 それって図々しくないかなぁ。

「心外ですね。私ほど凡庸な人間がそう滅多に居るものですか」

「本気の本気でそう思ってる?」

「勿論ですとも」

 やっぱり絶対普通じゃない、と小鳥は結論を下した。


■■8


「ホントウに人形なのね……」

 奥方の私室でロッキングチェアーに腰掛けているのは、シムズ氏の言うとおり、等身大の人形だった。かなり精巧なもので、ちょっと目には本物の人間に見える。先日も見せて貰ったが、改めてみるとその出来映えに驚かされる。

 それが人間そのものみたいに、髪をきれいに整えて、膝には寒くないように膝掛けまで巻きつけて、そこに端然と座っているのは、小鳥にはなんだかとてもうら悲しいことに思えた。

「メラニー、とうとう絵が完成したそうだよ。一緒に見せて貰おうね」

 と、シムズ氏が優しく語りかけているのも無性に哀しい。

 壁に取り付けられた大きな楕円形の鏡にはメラニーの顔が映っていて、それはとても綺麗な顔立ちで、人間そっくりなんだけど、それ故に平坦で無機質だった。のっぺらぼう、という言葉が浮かぶ。


 その場には当主のシムズ氏、人形妻・メラニーの他に、グレース、ギル・グレイ、ロイス。そうして幸福画廊の三人が居る。


「じゃあ、覆いを取るね」

 白野がそう言って、無造作に絵のカバーを引いた。

「おお……」 と、シムズ氏の口から声が漏れる。

 依頼通り、『シムズ氏の奥方』の肖像である。顔立ちや特徴は確かに人形のものだが、その印象はまるで異なる。人形に命が宿った。そんな感じだ。顔色は艶やかで健康そうな生気がある。目の奥に理知的な光があり、思慮深く貞淑な人妻然とした品格があった。そうして、自分を見つめる者たちに優しく微笑みかけている。今にも、絵の中からシムズ氏に向かって、「あなた……」と声を発しそうに見える。

「素晴らしい。私の期待した以上の出来映えだよ。ああ、呼吸すら聞こえるようじゃないか」

 シムズ氏が感激を隠せないように絵に数歩歩み寄る。

「だが、白野くん。これは? ……何故、この絵は鏡の中なんだい?」

 振り返って、白野を見る。

 そう。奇妙なことに絵の中のメラニーは、楕円形の金の縁取りで囲まれているのだ。彼女は絵の中、そして更に鏡の奥から微笑んでいる。それはこの部屋の壁に掛けられた鏡と瓜二つのものだ。


「あのね、グレイさんも言ってたけど、『カエシテー』って声の話」

 ね? 聞こえるんだよね、グレイさん。

 そう急に話を振られて、グレイが慌てたように頷く。

「ああ、聞こえるとも。確かに聞こえる」

「首なし姫と、絵の中の鏡と、何か関わりがあると言う気か?」

 グレイの横からロイスも訊ねる。

「えーっと、つまり……」

 白野がちょっと目線を上に漂わせながら、言葉を探している。口で多くを伝えるというのは、どうもこの少年には不得手なのだ。小首を右に傾げたり、次は左にしたりしながら、やがてこう解説した。

「『カエシテー』って彷徨っていたのは、この人形の心なんだよ」

 白野の手がメラニーの座るロッキングチェアーに触れ、それがゆっくりと揺れ始める。


 人形はいつもこの部屋で決まった椅子に腰掛ける。その時、自らの姿が壁に掛かった大鏡に映り込む。

 人形は旦那様に人間として愛されている。人間のメラニーとして愛されている。旦那様と居るとメラニーは自分が本当に人になったと思えてくる。

 でも、鏡に映る自分の姿はやっぱりいつだって人形で……。それがメラニーには辛い。切なくて溜らない。


 ダカラ、オ願イ。ワタクシニ、ソノ鏡ヲ見セナイデ。ワタクシノ姿ヲ映サナイデ。

 ソノ鏡ヲ、裏ニカエシテ!


 キィー、キィーとロッキングチェアーが揺れている。

 そこに腰掛けた人形。決して物言わぬお人形。

 それでも、人に成りたいと、そう願ったお人形……。

「この人形の言うように、ただこの鏡を『裏返す』だけじゃあ味気ないから、この絵を鏡の代わりにこの場所に掛けてあげたらどうかと思ったんだ」

 白野が言う。

「これなら、鏡に映る自分が人間だと思えるでしょう?」


 ギル・グレイが戦慄いた。

「じゃあ、君はこの人形が意志を持ったって言うのか? この人形が『カエシテ』くれと言ったのか? 首を求めて彷徨う古城の幽霊は居ないのか!?」

 僕の霊感が間違っていたと言うのか? そんな、そんな馬鹿なことがあるものか。僕の力は絶対だ。

「幽霊は信じるのに、意志を持った人形の存在は信じ難いと仰るのですか? それは片手落ちでしょう。髪の伸びる人形だってよく聞く話ではありませんか」

 その辺りは、そちらの方が余程お詳しいのでしょうが。

 ずっと我関せずの態度を崩さなかった朱里がそう言った。嫌味の一つも言ってやりたい程度には、彼もグレイらを快く思っていなかったと見える。


「花だって愛情を掛けられればそれに応えて綺麗に咲くよ。物に心がないなんて、人が決めていいことじゃない」

 そうじゃない?

 白野のその問いかけに反論する者は居なかった。


 ギル・グレイとロイスの二人は、結局負けを認めて帰って行った。白野のように確かな真実は掴めなかったが、『カエシテー』の声が聞こえる辺り、グレイも本人の信じるとおり、神秘の能力が皆無というワケではないのかもしれない。それともやっぱり単なる八百長だったのだろうか?

 幾ら考えてみたところで、小鳥には見えも聞こえもしないのだから、確かめようもないのだが。


 それでも、白野の描いた絵とその時語られた内容は、依頼主であるシムズ氏を大いに満足させたようで、シムズ氏は人形の手を取って、頬をすり寄せつつ、何事かずっと語りかけている。

 壁には鏡に代わって白野の絵が掲げられ、その中からはメラニーが優しく微笑みかけている。


「……」

 なんなんだろう、このモヤモヤ。

 小鳥は、自分の気分がちっとも晴れていないことに気づいている。

 白野様がギル・グレイとの霊能力対決に勝って、素晴らしい絵が完成して、それにシムズさんは大満足で、しかも、首なし城の幽霊だってそんなものは居ないんだってことがはっきり分かって。

 そう。大団円なんだ。

 それなのに。全然ちっとも嬉しくない。逆にモヤモヤが溜まっていく。


「小鳥さん、部屋に戻りましょう」

 朱里がそう促した。

「う、ん……」

 そうよね。もう【幸福画廊】の役目は終わった。わたし達は荷造りをして、明日にはこのお城を離れるだろう。

「グレースさんも……」

 部屋を出るとき、そう誘ったが、グレースは小鳥の言葉が聞こえなかったようだった。ずっと、部屋の隅から、シムズ氏と人形のことを見つめている。

「小鳥さん」

 朱里が再度小鳥を呼んだ。小鳥は部屋の扉を閉めた。


 部屋に戻ると、朱里がお茶を煎れ始めた。

 白野はベットにのって、コロンと横になる。ここは朱里の部屋で、当然ベットも彼のものだが、まぁ気にしてもしょうがない。


「ねぇ、朱里。霊能者ってどうやったらなれるんだろ?」

 何か資格とか。そういうの要るの?

 白野が枕をおなかの辺りに横抱きにして、訊いてきた。どうやら、ギル・グレイとの出会いで、その手のものへの興味が湧いてきたようだ。

「多少ハッタリがきいて、自らを霊能者と名乗る度胸があるのなら、誰もがその日から霊能者でしょうね」

 ポットにお湯を注ぎつつ、朱里が応じる。

「ふーん。じゃあ、僕も名乗ってみようかなぁ」

 その方がいろいろ潰しが効きそうだし、小鳥ちゃんにも喜ばれそうだし、と白野はまんざらでもない様子だ。さて、どこまで本気の台詞なのか?

「あまりお薦めできません」

 曖昧な笑みを浮かべて朱里が言う。

「どうして? 僕ってハッタリきかない?」

 ひょいっとベットの上で起き上がった白野に紅茶のカップを渡して、「そうでなく」と朱里が笑みを深くする。

「ああいうのは、俗物でないといけませんからね。……要は向き不向きの問題です」


 彼らはちょうど居合わせた【幸福画廊】の知名度を利用して、自分たちの名を売ろうなどと企む不届き千万な俗物である。

 そういう者がこの世とあの世の橋渡し役だと言うのなら、さぞかし彷徨える魂たちは浮かばれまい。ふて腐れてさっさと成仏してしまいたくもなるだろう。……なるほど。そう考えれば、白野の言うように幽霊などというものはそうそう滅多には居なさそうだ。


「小鳥さんもお茶をどうぞ」

 湯気の立つカップが渡される。それを受け取る小鳥の顔は、シムズ氏の部屋を出たときと同じく、やっぱり仏頂面である。

「どうにも釈然としない、という顔ですね」

「だあってぇ」

 タコ唇でぶちぶち言う。

「あんなのって健全じゃない!」

 血も通わない無機物の人形を偏愛するなんて。そりゃ個人の好きずきではあるけれど、やっぱりそういうの良くないと思う。例え、それが幽霊みたく意志を持っちゃった人形でも。ううん、だったら尚更だ。シムズさんの現実世界との接点が危うくなってしまうと思う。


「健全だろうとなかろうと、シムズ氏は【幸福画廊】の絵を求められましたし、私どもはそのご依頼を受けました。そうして絵は完成しました。氏にとって、あれが幸せなのですよ」

 例え、周囲の理解を得られようと得られまいと。その人の幸せは、その人自身にしか計れません。

「でもね、でもね、やっぱりね」

「人形の方が歳も取らない、皿も割らない、文句も言わない、妙な占いにもハマらない」

「……」

 シムズ氏が妻として愛するのに、何故人形を選んだか? 今上げた類のことを考えられたかどうかは知りませんが、発端はどうでもいいことです。

「それと同じく、結果もやはりどうでもいい。小鳥さんが口を挟むべきことではありません」


 ぶちぶちぶち。拗ねてしまう。そんなにたたみ掛けなくったって。第一、わたしのことそんな風にあげつらわなくったってイイじゃない。朱里さんは黙っていたら無愛想だし、口を開けばイジワルだ。


「まぁ、ですが。大丈夫ですよ、小鳥さん」

 朱里が薄く微笑んだ。

「……へ?」

「まだこれで終りでもないでしょう」

 そうして、自分の分の紅茶を口に運ぶ。

 白野も同じく紅茶を啜りつつ、「ふふっ」と笑った。

「シムズさんは人間と同等にあの人形を愛してるし、人形の声だと思えば、『カエシテー』なんて声が聞こえるって言われてもちっとも怖くないだろうし、これが一番良い解決法だろうと思ったんだよ。……少なくとも、今はね」

 そんな謎めいたことを言う。

「それって、どういうことですか?」

 まだ、なにか続きがあるの?

「絵も人形も幽霊だって、結局みんな同じだからね。時が止まってる。動かない。限界があるんだよ。……動かすのは何時だって、人間なんだ」


 白野がそう言い終わらぬうちに、大きな物音が響いてきた。


■■9


 ガッターン、と物の倒れる音がした。

 続いて破壊音。そして叫び。


「な、なに? 今の音?」

 小鳥が慌てて立ち上がる。

「人形が壊された音でしょう」

「……僕の絵も破られたんじゃないかなぁ」

 折角、頑張って仕上げたのにね。そう言って、少し心残り気な顔をするのに、あれは良い絵でした、と執事の慰めが入る。


 白野も朱里も、当然分かり切ったこととしてツーカーで語っているが、小鳥には全く意味が不明である。

 すっごいクヤシイ。ってか、あの音なによ?

 一体ナニが起こってるの?


「行って来るといいよ、小鳥ちゃん」

「そうですね。別に危険な事もないでしょうし」

「僕、破られた絵って見たくないから行かないけど」

「私も休暇継続中につき、付き合いません」

 なによ、もう。二人とも訳知り顔で憎らしい。それでも、気になって堪らずに駆け出していく自分自身が恨めしい。ああ悔しいけど、好奇心に勝てないよぉー。


 小鳥が廊下をバタバタと駆けていった後、開いたままの扉を閉めに、朱里が椅子から立ち上がった。黒猫がニィーと鳴いて廊下をトコトコ寄ってくる。「おや、また遊びに来ましたね」と抱き上げると、黒服に黒猫が紛れこんだ。男の長い髪の毛に興味を惹かれたのか、小さな爪を伸ばして束ねられた髪をたぐろうとする。「アイタタ」と声が出た。


 白野はベットサイドにカップを置くと、またコテンと横になった。ふわぁーっと大きなアクビをする。

「……くたびれた。ちょっと寝る」

 そう言った直後には、もう寝息を立てている。

「あ、シマッタ。油断した」

 寝床を取られてしまった朱里が、ネコと格闘しつつ振り向いて、無念そうに呟いた。


 小鳥が人形の部屋に到着したとき、まず耳に届いたのは、

「やめろ、やめなさい、グレース!」

 という叫び。シムズ氏の声である。


 グレースは薪割り用の斧を振り上げて、人形をその座ったロッキングチェアーごと何度も切りつけているのだった。壁に掛けられた白野の絵にも既に凶器は振るわれたらしく、ずたずたに引き裂かれて、一部は折れ曲がって、床の隅に落ちている。

 小鳥はぽかーんと口を開けてその様を見た。止めようにも、白髪頭を振り乱して高みから何度も斧を打ち付けるグレースの姿は鬼気迫るものがあって、とてもじゃないが近づけない。それはシムズ氏も同様らしく、ただ固まったように女中頭の凶行を見つめているだけだ。

 メラニーと呼ばれていた人形の胴に深い亀裂が入り、次の一撃で片腕が吹っ飛ぶ。椅子の上で前屈みに二つ折りになった人形の首筋に更に鉄の刃がめり込んだ。人形の首がゴトリと落ちる。ごろんごろんと転がって、ベットの足にぶつかって止まった。頬に大きなひびの入った人形の首がうつろな目で宙を見ている。


「……ほら、旦那様。こんなのただの人形ですよ。血も出ないし、叫びもしません。ただのデク人形ですよぉー」

 グレースが荒い息を弾ませて言った。振り乱した髪もそのままに、べそべそと泣き始める。

 小鳥は最初、グレースの気が狂ったか、それとも悪霊にでも乗り移られたのかと疑ったが、もう今のグレースは普段通りのただの小太りなおばさんに戻っていて。……いや、もっと若い娘さんのようにさえ見える。そんなか弱い泣きじゃくり方だ。

「いけませんよぉー、旦那様。こんなこと、もうダメですよぉー」

 こういうのは、幸福って言わんです。人形だけでなくこんな絵まであったら、旦那様ホントにおかしくなってしまわれます。旦那様、ご病気になってしまいます。

「ナニが人形の声が聞こえるですか。ナニが『カエシテー』ですか。旦那様はあの人達の口車に乗るんですか? どうして騙されてなさるのが分からないんです?」

 こんなものが『幸福の絵』なんかであるもんですか。人形は人形です。口なんか利きません。歩きません。しゃべりません。旦那様への愛なんか語りません。毎晩人知れず泣いていたのは私です。返してって泣いたんです。私の大切な旦那様を返してって。人らしい暮らしに戻ってって。昔の旦那様を返してって、毎晩泣いていたのはこのグレースです。旦那様のことを一番考えて、旦那様のお幸せを一番願って、いつだって旦那様のことをお慕いしてますのは、このグレースなんですよぉー。


 おおぅ、おおぅ、とグレースが泣く。斧を床にガランと落とすと、そのまま自分もへたり込んで号泣し始めた。

「そ、そうだったのか。すまない。すまなかった、グレース」

 シムズ氏がグレースの体を抱きしめて。


 窓の外は青冷めた月夜。湖を湿った風が渡り、森の影は黒くざわざわと蠢いて、見る者を不安な心地にさせる。

 お城の壁には斧の刃跡。床には壊れた人形と、その首がゴロリと転がって、それは息を飲むほどに怖ろしい光景ではあるけれど……。

 でも、それでも。

 小鳥の唇から言葉が零れた。

「そうか。『首なし城』の物語は、こうしてハッピーエンドで終わるんだ」


 胸の内がほんのりとぬくみを帯びて、心が膨らむ。

 【幸福画廊】の絵は、やっぱり人を幸せにする。例え破られてしまっても、その輝きは決して変わることはない。


「……それにしても今回は」

 と朱里が言う。帰りの汽車を待つホームに主従は立っている。小鳥は小さなおみやげ屋さんを見つけて、その中に飛び込んでいったので、今この場には居ない。

「首なし幽霊が出なくて幸いでした」

 白野が大いに興味を持って、この城の史実を調べてくれとか、伝承を集めてくれだとか言い出すのではないかとヒヤヒヤしていた。『首なし城』の伝説が全くのデマであったことを一番喜んでいるのは、実は彼なのかもしれない。

 白野が安堵の色を隠さない男を見上げる。その眉がほんの少しだけ寄せられた。


「あのね、朱里。僕のこと誤解してない?」

「誤解とは?」

「もしも、このお城に本物の首なし幽霊が『カエシテー』って出るのなら、僕だって速攻、逃げ帰っちゃうよ」

「おや、そうなんですか?」

 白野様は、首なしお化けを怖がるように思えませんが。

 と言うか、首があろうとなかろうと大して気にはしないだろう。「美人だね。捜し物なら手伝おうか?」くらいのお愛想はいかにもお茶の子で言いそうである。

 朱里がからかい口調で、そう想像してみせると、

「えー。だって、考えてもみてよ」

 かなり憤慨したように言う。

「幽霊さんが三百年探し回っても、まだ見つけ出せないモノなんだよ。そんなの、僕にだって見つけられるワケないじゃない!」

 そんな無理難題言われても、困っちゃうよ。幽霊に見つけられないものなんて、もうこの世にないんだよ。もしくは元からなかったんだ。

「そんな不毛なことに付き合うの、僕、やだよ」


 朱里の目が唖然、という感じで見張られる。

「それは……確かに道理です」

 深々と頷いた。

 速攻、逃げるべきですね。


■■エピローグ


 いにしえの城から戻ってくれば、朱里の休暇も終了である。

 彼はすっかり万能執事の顔に戻って、てきぱきと立ち働いている。戻った早々、台所に積み上げられたレトルト食品の残骸を始末したり、居間のテーブルに放置されたエロ雑誌だのビールの空き缶だのを廃棄した。勿論、その元凶たるダグラスの尻に一発蹴りを入れることにも、手を抜いたりはしなかった。

 小鳥は山積みされた洗濯物の山に絶叫し、エロ雑誌に般若のような顔で怒り、ダグラスに向かって最寄り駅で買ってきた木彫りのキーホルダーの包みを投げつけた。鳥の絵が彫られたキーホルダーは土地の老人達が作っているものだそうで、小鳥は出発時間ぎりぎりまで悩みに悩んだ挙げ句、それを二つ買ったのだ。そのうちの一つは既に小鳥のお財布にぶら下げてある。



 翌日は、昨夜から降り続いていた雨が止んだので、買い出しに行くことにした。

 しばらく館を空けていた所為で買う物が多いので、朱里と小鳥の二人で出る。


 二人が用意をしていると、ソファーに座って雑誌を読んでいた白野が声を掛けてきた。

「二人とも、傘を持っていくといいよ」

「へ?」

 と、小鳥が言う。思わず空を見上げてしまう。

「もう、雨は上がったのに?」

 西の空を眺めても、そっちはすっかり青空で、今後お天気が崩れそうにはとても見えない。天気予報でも「午後からは晴れ」って言ってたし。


「小鳥さん」

 空を見上げている小鳥に、朱里が傘を渡してきた。彼も自分の傘を持っている。

「白野様がああいうことを仰る時は、大人しく従う方が無難です。経験上」

 経験上。……なかなか重みのある言葉である。


 もう、晴れてるのに、傘持ってるのって、なんだか間抜け。

 買い物を終えた帰り道、小鳥はもう一度空を見上げて、心の中でゴチてみる。やっぱり空は青空で、傘の出番はありそうにない。荷物がけっこうかさばるので、邪魔だなぁと思ってしまう。


 街路樹の下で子どもが一人泣いていた。

「どうしたの、ボク?」

 と小鳥が近寄る。子どもが無言で指差す先を見てみると、赤い風船が木の枝の高みに引っかかっている。そういえば、商店街で小さな子たちに配ってたっけ。

「うーん。取ってあげたいけど、幾ら朱里さんでもあの高さはムリよね」

 つま先だって梢を見上げる。背高ノッポの朱里にでも手の届きそうな高さではない。

「取れますよ。傘の柄に輪っかを引っかければいいです」

 すぐに機転が利く辺り、そこはやっぱり朱里である。

「あ、わたしがやる。そっか。傘が役に立ったわね。やっぱり白野様ってすっごーい」

 小鳥は荷物を地面に置くと、傘を手に木の下へ行く。

「そうですね。……おや? じゃあ、どうして二人分……? 小鳥さん、ちょっと待っ……」

 待った、と言おうとした。


「ふぎゃっ!」

 逆手に持った傘を振るった途端、街路樹の葉から大量の水滴が降り注いできた。雨の雫がまだたっぷりと枝々に残っていたのである。晴天下の超局地的などしゃぶり。小鳥はずぶ濡れになってしまった。それでも風船を逃がさなかったことだけはアッパレと誉めるべきであろう。

「あーん、びしょ濡れ。……あー、朱里さんってばズルい。自分だけぇ!」

 泣きべそ顔で振り返った小鳥は、長身の男に非難がましくその指先を突きつける。

 朱里は自分の傘を使って、ちゃっかり雫の散布から難を逃れていたのである。


「ですから、待てと言ったのに」

 傘が二本分必要な理由を思い至った時にはもう手遅れで、この子を傘に入れてやるのでギリギリ手一杯だったんですよ。私を睨むのは逆恨みというものです。

 差し出されたハンカチで頭だの顔だのを拭う。男の子がぴょこんと頭を下げて、赤い風船といっしょに駆けていくのを見送りながら、小鳥が訊ねる。

「ねぇ、朱里さん」

「はい」

「白野様って、なんでも見えてるのかしらね?」

「分かりません」

 どれだけ考えてみたところで、その答えは多分でないと思います。


 館に戻ると、小鳥は荷物の片付けもそこそこに、白野の元に報告に行く。

「白野様、傘、役に立ちました。でも、出来れば次からはもう少し詳しく未来予想してくださいね」

 どうぞよろしくお願いします。

 ぴょこん、と頭を下げる。

「え、なんのこと?」

 白野が見ていた雑誌から顔を上げた。訝しんだ声を出す。小首が深く傾げられた。

「今日の占いにラッキーアイテムは傘だって書いてあったから、言ってみたんだけど。……二人とも星座いっしょでしょ?」

 小鳥の愛読誌である女性向けの雑誌を示す。暇つぶしにずっと読んでいたらしい。


「え? え? アレって雑誌の占いだったの? じゃあ、傘のお話は……」

 小鳥がジタバタあわあわしていて、白野はそれを見てきょとんとしている。買ってきた荷物を棚に収めている朱里は、一人クスリと含み笑う。

 まぁとにかく、信じる者は救われたのだ。終わりよければ全て良し。世は全て事も無し。


「……さて、そろそろお茶に致しましょうか?」

 朱里の手が、紅茶の缶に伸ばされた。

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