第13話 だらしのない男

■■プロローグ


 一人の男が死んだのさ。とってもだらしのない男

 お墓に入れてやろうにも、どこにも指が見あたらぬ

 頭はごろりとベッドの下に、手足はバラバラ部屋中に

 散らかしっぱなし、出しっぱなし


 ――マザーグースより


■■1


 その日。ダグラス刑事の態度はどうにも挙動不審だった。

 まず、普段と身なりが違う。何時になくピシッと締められたネクタイ。シワも、食べこぼしの染みも付いていないクリーニングしたてのスーツ。くせっ毛なのか寝癖なのか判別の尽きかねるボサボサな頭はきちんと櫛で撫でつけられ、その顎からはトレードマークとも言うべき無精髭が消えていた。


 キョロキョロと周囲を伺いながら廊下を歩き、大きな屋敷に特有の、幅広で弧を描くように伸びる階段をコソコソと降りると、そのまま誰にも見つからないように、そぉーっと玄関まで忍び歩く。

「あれ、刑事?」

「わっ!」

 突然、声が響いた。この館【幸福画廊】の年若き主・白野の声だ。変声期の存在を忘れ去っているかような澄んだ声音は、茫洋としているにも関わらず屋敷内によく通る。バッチリ決めた服装に似合わぬへっぴり腰で忍び歩いていたダグラスの身体が一メートルばかり飛び上がった。

「今日は随分おめかしなんだね。どこ行くの?」

 階段の踊り場。優美な飾りの入った手摺りの上に顎を乗っける格好で、白野少年は階下に向かって問いかける。それにダグラスが必死の形相でジェスチャーを送る。人差し指を口に宛て、声ならぬ声で、

「シー、シー!」


「……?」

 白野の小首が右に傾いだ。もう一度、逆の側にもひねられる。ぽわんと栗色の巻き毛が揺れた。蒼い瞳が瞬かれる。

「シーってナニが? どうしたの?」

「だから坊や。シーってば、シー!」

「おや、刑事。これはこれは。馬子にも衣装という奴ですね」

 主人に遅れて、執事の朱里も少年の後ろから影のように湧いて出てきた。黒い服に黒い長髪。まるで白野の背後霊さながらであるが、それを否定する者は恐らくこの屋敷には居ないだろう。

「あ、分かった。小鳥ちゃんとデートだ!」

 白野が得意げにそう推理する。一段と大きな声が屋敷の中に響き渡った。



「はぁい。何かご用ですかぁ、白野様」

 その声を聞きつけたのだろう。パタパタと軽い足音が近づいてくる気配がする。この館の残る最後の住人であり、紅一点でもあるメイドの小鳥だ。

 それに。ダグラスが大いに狼狽した。あたふたと扉を開けると逃げるように館を出て行く。

「じゃ、じゃあ俺行ってくるわ。今日の帰りは遅くなるぞ!」


 そして。

 バッターンと扉が閉められた。


「……???」

 白野の小首が傾げられた。先程よりもかなり深い。そこに小鳥がやって来た。玄関の扉と階段上の二人の双方を交互に見比べつつ訊いてくる。

「あら? 今出て行ったのってダグラス刑事……でしたよね?」

「うん、そう」

「限りなく低レベルな男前度が急上昇していて見違えましたが、あれは確かに彼でしたね」

 白野は至極あっさりと、朱里は手酷い感想付きでもって肯定する。


「ダグラス刑事、今日は非番じゃなかったっけ? すっごくおめかししてたからデートだって僕思ったんだけど……」

 白野が独り言のように呟く。ついで、思いだしたようにきょとんとした顔で小鳥を見た。小鳥の格好は普段通りのエプロン姿だ。とても外出の予定のある服装には見えない。

「……あれ? でも、じゃあどうして小鳥ちゃんを置いてくのかな? 小鳥ちゃんは行かないの?」

 不思議そうに問いかける白野に罪の意識はない。しかし、これは明らかに問題発言と言えるだろう。暗にダグラスが小鳥以外の誰かとデートに出かけたに違いない、と。そう言っているようなものではないか。


 小鳥の右の頬がピクンとこわばった。

「ど、どうしてわたしがダグラス刑事とデートしなくちゃならないんですか! そんな約束なんかしてないし、第一、わたしと刑事はそういう仲じゃあないですもん」

 わたわたと腕を振り回して機関銃みたいにしゃべりまくる。

「わたしはメンクイなんです。白野様の方がダグラス刑事なんかよりずーっとずぅーっとステキだわ。もう、それなのに白野様ったらヘンな冗談おっしゃってぇ~~~」


 話す内に小鳥の顔が、だんだん真っ赤に変わっていく。その色と突き出された口唇の形状から、朱里はユデダコを連想した。美味そうだなと思う。近々マリネでも作りますかね。頭の中でレシピ集を捲る。ホワイトアスパラガスのピザと一緒に。ついでに生ハムも沿えよう。白ワインが合いそうだ。


「だから。ダグラス刑事がお洒落しようと、どこに誰と出掛けようとわたしには……」

「先程の刑事の様子は、明らかに挙動不審でした」

 まだ何事かわめいている小鳥を軽く手で制して朱里が言う。

「気になるようでしたら、追いかけてみては? 多分まだ間に合いますよ」

 途端、小鳥がぷぅーっと頬を膨らませた。タコが一気にフグになった。眉尻を釣り上げて宣言する。

「わたしには関係ありませんっっ!!!」

 そして。

 バッターンと、今度は居間の扉が勢いよく閉められる。

 静寂。



「……」

 しばしの間を置いて、階段上の主従二人がコソコソと話し出す。

「あーあ、小鳥ちゃん怒っちゃった」

「当たり前です。白野様、先程のようなおっしゃりようは小鳥さんに失礼ですよ」

 白野がずっと顎を載せていた手摺りから顔を上げた。長身の執事を見上げる。

「えー、僕が悪いの? 朱里の方こそ、イジワル言ってたんじゃない」

「おや、そうでしたかね?」

 空とぼける。

「……でも。ダグラス刑事ってば、あーんなにお洒落して一体どこに行ったんだろう?」

「さてねぇ?」

 二人は揃って首をひねった。


 それから約一時間後の洒落たホテルのレストラン。


 白いクロスの掛けられたテーブルを囲んで二組の男女がにこやかに挨拶を交わしている。

「まあ、懐かしいわ。元気そうね、アネット」

「あなたこそ、ちっとも変わらないのね。ケィティ」

 どうやら、女同士は昔なじみのようだ。「本当に何年ぶりかしら」と手を取り合って再会の喜びを分かち合う。


「電話でお話したわよね。私の夫よ、スティーブン」

 ケィティと呼ばれた女が隣りに立つ男を紹介する。その左手の薬指には誇らしげな結婚指輪が光っている。

「……それで、そちらがあなたの言ってた……」

「ええ、そうなの」

 アネットが、自分の横に立つ男の腕を取り、ぐいっと傍に引き寄せた。親密な様子で腕と腕とを絡ませる。


「紹介するわ。私の婚約者のダグラスさん。州警察の刑事なの」

 そう言って、女はにこやかに微笑んだ。ダグラスが「初めまして」と挨拶をした。


■■2


 更に一週間後。ダウンタウン。

 パトカーがアパートメント横に何台も横付けされていた。建物の入り口周辺には物見高い連中の作った人だかりが出来ていて、それを制服警官と張られたビニールテープが制している。


 ざわりとどよめきが立った。特に目立った動きのなかった建物内部から、多人数の足音が聞こえてきたのだ。警察と同様、車で現場に乗り付けていた新聞記者やカメラマン達が一斉に身を乗り出してくる。警官が「下がって、下がって」と怒鳴った。


 階段を下りてきたのは、白衣を着た男達とそれに運び出されるタンカだった。タンカに載せられた人物は足先から頭に至るまでをすっぽりと白い布で覆われていて、既に死亡していることを示している。その後ろから背広姿の男達。多分、私服警官だろう。

 ――と。タンカを抱えた一人が、アパート入り口の上がり石でタタラを踏んだ。反動でタンカが傾ぐ。遺体に掛けられていた白布が片方に大きくずり下がった。

 先程よりもずっと大きなどよめきが上がる。はだけた布地の下から男のものらしい二の腕が覗いたのだ。血の気を失った青白い腕。既に無機物と化した物体……。


 その手の先には指がなかった。

 五指の全てが赤黒く不気味な切断面を晒して、短く切り取られているのだった。

 タンカ目指して一斉にフラッシュが焚かれようとしたその瞬間。

「よせよ、趣味悪ぃなぁー」

 閃光と遺体の間に入って、死者に対する冒涜行為を一人の男が遮った。ダグラスだ。連続するフラッシュの光に眩しそうに眉を顰めながら、さっさと白布を元通りに直す。早く運べとタンカを促す。


 先日、ホテルのレストランに居た時とはうって変わって、締めているというよりは下げているといった風情のネクタイ姿。それに相応しい無精髭面も元通りで、いつもの風采の上がらぬ冴えない男にすっかり逆戻りしてしまっている。風邪でもひいているものか、一つ大きなくしゃみをした。


 救急車が遺体を搬送していく。これから司法解剖が行われるのだ。遺体の身元は捜査陣にとって有り難いことに既に判明していた。顔を見れば誰もが知る有名人物であったので。まだ州警察からの公式発表など出た筈もないが、蛇の道は蛇。マスコミはとっくにその人物の名前を掴んでいるらしかった。こんなうらぶれた場所で発見された変死体に沢山の報道陣がひしめいているその訳は、それ以外に考えられない。


「こりゃあ、大変な事件になりましたね。ダグラス先輩」

 鼻水をぐずずーと啜りながら救急車両を見送る男に、新米刑事のミシガンが顔を紅潮させて寄ってくる。

「ああ、そうだな。……ミッジ、ちり紙持ってねぇか?」

「さっき渡したので全部ですよ。もう、緊迫感ナイなぁ。大きなヤマってなんかワクワクして来ませんか?」

 あ、モチロン不謹慎は承知ですけども、とミシガンが慌てて付け加える。


 確かに。被害者の経歴からして、デカいヤマになりそうな気配だとダグラスも思う。新米のミシガンが気色ばむのは職務熱心の現われであり、それを咎めるつもりなどさらさらナイ。普段ならダグラスとて大いに奮起する類の事件だ。

 だが、ダグラスは今、大きな事件など抱えたくない事情があった。


「とにかく、さっさと解決せんとな。俺は次の週末は是が非でも休みが欲しいんだ」

 そんなダグラスの独り言を耳ざとく聞き取って、ミシガン刑事がニンマリと訳知り顔で笑った。

「あ、知ってますよ、先輩デートなんでしょ?」

「な、なんで分かるんだ?」

 ダグラスが驚いた顔をする。この男がホテルから女連れで出てきた所を目撃したという極秘情報は、知り合いの巡査から仕入れたものである。非モテ男に春が来たと州警のもっぱらの噂になっているのだ。知らぬは本人ばかりである。

 ただちょっと解せないのは巡査の目撃証言通り、無精髭を剃り落としてこざっぱりとなっていた男の顔が即座に元に戻ったことだが……まあ、ダグラスと付き合うくらいだから、外見を気にしない女性なのだろうと、そういうことで納まっている。『男は見てくれじゃない、中身だ』という言葉は彼の為にあるようなものだ。


「そりゃあ愛する先輩のことですから、もう何でも」

 へっへっへ。揉み手をするミシガンに「お前、その冗談は笑えねぇぞ」と、薄気味悪そうにダグラスが言った。


 被害者の名はウィリアム・ジェファーソンという。この街の市長として誰もが知る人物であり、末は大統領確実と目される政界の大物である。まだ政治家としては若手と言える四十五才。公私ともにクリーンなイメージが他の政治家に比べ抜きん出ていて、有権者の支持は年齢・階級・男女の層を問わず厚い。顔立ちも品格の漂う好紳士である。名家に生まれ、その血筋を最高級の教育で磨き、傍目からも順風満帆に今日の地位を築き上げた。ダグラスのような無精髭などおそらく一度も生やしたことのない、そんな人生であったろう。


 そんな男が、こんな路地裏のアパートメントの一室で変わり果てた姿となって発見された。

 第一発見者は、アパートと契約している掃除婦の中年女である。いつも通り決まった曜日の決まった時間に部屋の掃除にやって来て、床の上に転がった遺体を発見した。


「合い鍵はアパート全室分を預かっているんですよ。お留守中のお宅でもちゃんと掃除出来ますようにね。いつもは鍵の掛かっているコンスタンスさんのお宅に、今日は鍵が掛かっていなかったもんで、ヘンだと思ったんでございます。部屋に入りましたら、まあ案の定こんな……」

 でっぷりと太った胴体に染みの付いたエプロンを巻き付けた掃除婦は、そう言ってダグラスを上目遣いに見つめた。


「わたし、びっくりこいて、持ってたバケツの水をひっくり返してしまったんですが、……あんのぅー、刑事さん。わたしは罪になるんでしょうか? 死人の足をびしょ濡れにした罪で留置場に入れられますかぁ?」

「あー、いや。それは、うーん」

 ダグラスが鼻の頭をコリコリと掻く。遺体発見現場は極力現状保存が原則だが、そりゃあ目の前に死骸が転がっていれば誰だって驚く。水溜まりの出来た床と一部重なって描かれている死体の位置を示す白線を眺めつつ、苦笑いしながらこう言った。

「とにかく。出来るだけ水溜まりの出来る前の状況を思いだして話して貰えるかな? おばちゃん。……雑巾水を引っかけられたホトケさんには俺から謝っておいてやるからさ」


 掃除婦は、思っていたよりもかなり詳細に自分の見たことを話してくれた。

 床の上の遺体には最初シーツが掛けられていたという。人の形に盛り上がったそれの両手先の部分には赤黒い血の染みが出来ていた。直感的に死んでいる、と感じたそうだ。

 そして、当然のようにシーツの下にあるのは女性の身体だと思った。その部屋の借り主であるマーガレット・コンスタンスの死体だと。こわごわ布を捲ってみたら、意に反して男の顔が出てきたので、「うっひゃー」と叫んだ。バケツの水をひっくり返した。


「考えてみれば、布の下におっぱいの膨らみが全然なかったですもんねぇ。男だと気づいて良さそうなもんですよ。でも、コンスタンスさんはお一人暮らしだと聞いていたもんで、わたしゃてっきり」

 シーツは部屋の隅に置かれた作りつけのベットから取り外したものらしい。ベットの上はぐちゃぐちゃで、ずり下がった毛布の間からは黒いレースのストッキングだのガーターベルトだのが垂れ下がっている。夜会パーティに淑女が付けていくような絹の手袋も片方見えた。幅広のツバの付いた洒落た帽子はベットの下に落ちている。布製の薔薇の花飾りのついた女物だ。遺体の頭部を表す床の白線の位置から数歩分の距離にある。


 床には他に女物の衣服も散乱している。ボタンの幾つかが取れて、袖口や裾が伸びている。ベットサイドのローテーブルの上には宝石箱。蓋が開けっ放しのその中は高価そうな貴金属類が入ったままで、故に物取りの犯行とは思えない。


「そのコンスタンスってのは、どんな人だい?」

 ダグラスが尋ねる。死体の見つかった部屋の借り主なのだから、当然州警はこの女を捜している。が、未だに連絡はついていない。被疑者逃亡の怖れもあるので、このまま見つからないようなら、重要参考人に切り替えて指名手配されることになるだろう。


「わたしゃ、直接お会いしたことはナイんですよ。多分、ココとは別にちゃんとしたご自宅がある方なんじゃないですかねぇ。こちらにはせいぜい月に数度しかお帰りになっていなかったようですよ」

「ああ、確かにそんな感じだな」

 部屋の中は、生活感というものが希薄だった。クローゼットに収められた衣服はどれも高級なものだったが、極端に数が少ない。簡易キッチンにあるのは、コップにグラス。コーヒーメーカー。後は果物ナイフくらいだ。冷蔵庫の中は氷しかない。



 女だとばかり思っていた死体が男だったので驚いたが、掃除婦が何よりも肝を冷やしたのはその両手の先だ。それは乾いた血のこびり付いた切断面に肉と骨を晒していた。おばちゃんは腰を抜かし、這いつくばって部屋の外に逃げ出したのだと言う。スカートとエプロンをバケツ水で濡らしつつ。


「なんだ、それでスカートの裾が湿ってるのか。おばちゃん、風邪引かないでくれよ」

 季節は晩秋。特に今日は曇り空で、朝から例年に比べて冷え込んでいる。

「わたしゃ普段から水仕事ばかりで慣れてるから平気だけども。刑事さんこそ風邪ひいてなさるんじゃないですかぁ?」

 時折鼻を啜り上げるダグラスに、掃除婦がエプロンのポケットから出したティッシュを分けてくれた。

「おお、すげぇ助かる。カミさま、ちり紙さま」

 大仰に拝みながら受け取った。

「いや、風邪じゃないんだ。さっき、鑑識さんの傍で指紋採取用の粉をしこたま吸い込んじまってよ。……ヘーックシュ」

「そりゃ、難儀だったねぇ」

「まったくだぜ。フェ~~~ックシュン」

 顔なじみの鑑識が、後ろで苦笑いを浮かべている。



「ダグラス先輩」

 ミシガン刑事が呼びに来た。

「ジェファーソン市長の息子と秘書が来たそうです」

 ダグラスが頷く。

「ああ、分かった。……で。これはおばちゃんが驚いた弾みでひっくり返したワケじゃあないんだよな?」

 ベットと反対側の壁際には大きな鏡のついたドレッサーがあった。その上には化粧品が並んでいたが、まるで誰かに払いのけられでもしたように全てがなぎ倒されていたのである。床にも幾つかが落ちていて、更にその内の幾つかの瓶は割れて中身が溢れている。化粧品の香料の匂いがプンプンする。おばちゃんがブンブンと首を振った。

「いいえぇ。わたしが躓いたのは自分のバケツだけですよ」

「そうか。どうもありがとうよ」


 ダグラスは掃除婦に礼を言って、そこで質問を切り上げた。


■■3


「おーい、もうこっち触ってもOKか?」

「どうぞ。写真撮影も済んでます」

 ダグラスは鑑識陣に了解を取ると、ドレッサーの前に屈み込んだ。台の上にも床にも沢山の瓶や容器が倒れている。床で割れている瓶の破片の飛び散りようから推して、不注意で倒した、というレベルではない。力任せに思いっきり払い落とした感じだ。



 遺体の初見をしてくれた医師の話を思い出す。

「口唇と前歯に少量の口紅が付着。それから、アゴの辺りに付いているこの粉は……パウダーかな?」

 医師が遺体のアゴの匂いをクンクン嗅ぐ。

「パウダー?」

「女性用のおしろいだ。ほら、そこのドレッサーに色々並んでいるじゃないか。そんな奴さ。女とイイコトしている時に付いたんだろうな。まぁ、ちゃんと分析してみなければ、断定はできないがね」

 女の部屋で男が下着姿で死んでいたとなれば、まあ、それなりの仲だったんだろうと思うのが自然だ。下着の着方は不自然で、市長本人ではなく、誰かが無理矢理着せつけた、という感じだった。裸だった死者にせめてもの身繕いをさせたのか? 遺体がシーツで覆われていた事でも、死者への礼儀や情を感じる。……その反面、残酷にも指は切り取られている訳なのだが。

「死因の推測はつきますか?」

「うーん、指の傷以外に目立った外傷はないねぇ。絞殺という訳でもなし」

 首回りにはあざ一つない。

「指の傷が死因って可能性は?」

「そりゃあ無理だな。出血量が少なすぎる。それに、これも解剖してみなければ分からないが、指は死んだ後に切り取られたんだと思うねぇ。死因は……外傷がない以上、毒物かな?」


「切り取った凶器は何ですかね?」

「アレじゃないか? さっき、鑑識がルミノール反応が出たと言っとった」

 医師がキッチンの流しに置かれたナイフを指差す。綺麗に洗浄されていて指紋は出なかったそうだよ、あしからず。そう付け足されて苦笑いした。

「へぇー、あんなもんで指をねぇ」

 ちょっとばかり感心する。さっき見た果物ナイフだ。もっとゴツイ刃物を使ったものだとばかり思っていた。

「固い敷き板――この場合だと床のようだが――の上で、ナイフを直角に押し当て、体重を掛けてブツリとやる。関節の間の骨の隙間を狙えば案外簡単なものだよ。女の力でだって可能だ」

 医師の説明通り、流れ出た血溜まりで見えにくいが、床には刃物の傷跡が無数に残っている。医師は右の手と左の手の傷口をそれぞれじっくりと見比べる。指は全て第一関節から先が消失している。

「右の手の小指から始めてるね。薬指、中指……順番に行ったんだろう。最初はひどく手こずったようだが、段々慣れてきている。ほら、左手なんかみんな関節の隙間を狙って切断してるよ。巧いもんだ」

「……」

死んだ男の傍らに座り込み、その指を一本一本切り落としていく女。ダグラスはそんな情景を想像する。  初めはおっかなびっくりで、それでも段々コツを掴んでブツリブツリと切り落とす。確かに指なんざ細っこい。クリスマス・ターキーをぶった切るより全然楽だな。

 ターキーの連想から、指十本をウィンナみたいにフライパンの上で転がす女の姿が頭に浮かんだ。げんなりする。幾ら何でもそりゃあるまい。猟奇を通り越してホラーだ。


 キッチンにフライパンが見あたらなくて良かったぜ、などと思いつつ、ダグラスは床から化粧瓶の破片の一つを拾い上げる。ホラーではなくもっと常識的な想像をしてみる。


 ――イイ仲だった男と女が口論になった。どちらかが怒りにまかせて化粧瓶をなぎ倒す。女は男に毒物を飲ませて殺害。その後、男の指を切る。

 ……いや、こうか?

 ――女は男に毒物を飲ませて殺害。その時、苦し紛れに男はドレッサーの上の化粧瓶を押し倒す。男は死んで、女はその指を切る。

 ……どちらでもアリそうな話だが、さて、指を切ったのは何のためだ?



「それにしても、随分色んな種類の化粧品があるもんだなぁ。こんなに沢山塗りたくるなんざ、顔が一つで足りるのかね?」

「女の化粧台ってのは、みんなそんなもんですよ」

 ダグラスの軽口に、鑑識係りの一人が答える。

「化粧道具の数があればあるだけ、キレイになれると思ってるんですから。ウチの女房の化粧台なんか、そのまま店が開けそうにしてますよ」

 ダグラス刑事も結婚したら、奥さんから化粧品代の為にタバコを止めてと言われるんですぜ。絶対です。

「へー、そんなもんかね」

「そんなもんです」

 その場にいる既婚男達が、全員頷いてニヤニヤした。

「覚悟しといたがイイですよ」


 あー、分かった。覚悟するわー。そんな言葉を返しつつ、割れた化粧瓶を一つ一つ手にとって見る。化粧水、乳液、口紅――これは流石に割れていない――、リムーバと書かれた瓶は真っ二つだ。その下にもう一つ化粧水。こちらは「保湿美容液」と書いてある。

「どれもこれも洒落たデザインの瓶ばかりだな」

「そりゃ、刑事。女は『夢』を買うんですからね」

「夢?」

「これをつけたらキレイになれるって夢ですよ。そりゃあ容器だってキレイじゃなくちゃあ夢を見れない」

「なるほどねぇ」

 一つだけ、色も地味で小洒落てもいない容器があった。取り上げてみる。底が割れていて中身は空だが、瓶に貼ってあるラベルは読める。小さな活字でタイプされた文字。ダグラスでも分かる。心臓病の薬だ。服用量次第ではおそらく毒にも……。


「鑑識さん、ちょっと!」

 ダグラスが呼んだ。


 アパートの管理人が好意で空き室を開放してくれた。そこに待たせてあるという被害者の息子と秘書の所に向かいながら、ミシガン刑事が報告をくれる。

「室内から女の写真の類は出て来ないようです。アパートの住人もせいぜい会釈程度の挨拶しか交わしたことがないそうで、声すら聞いたことがないって言ってます」

「そうか」

 調べたところ、アパートの賃貸契約時に書かれたマーガレット・コンスタンスの戸籍も名前もデタラメだった。重要参考人として指名手配されるのは時間の問題だが、偽名で顔写真もないとなると、かなり困ったことになる。



「そうですねぇ。品の良いご婦人ですよ。歳は三十代後半ってとこで」

「やぁねぇ、アンタ。ありゃとっくに四十は過ぎてるわよぉ」

 この証言は、管理人夫妻のものである。

「ブロンドの髪で化粧が濃くってね、たまに見かけても伏し目がちにそそくさと通り過ぎて行くんですよ。陰気でワケありっぽい感じがプンプンしてましたね。着てる物も高級そうだったし、誰か偉いさんの囲われ者だって。そのうちメンドウを起こすって……ねぇ、アタシの言った通りだったでしょ? アンタ」

 ああいうのを置くと、アパートの評判が落ちるって先々から言ってたってのにさ。まったくもう。

 奥方はネチネチと亭主に向かって愚痴をこぼす。

「だって、きちんと家賃は払ってくれていたしよ、空き部屋があるよりはマシだってオマエも納得してたじゃないか」

「まぁ、アタシが悪いんだって言うの?」

「まぁまぁ……」

 夫婦ゲンカに発展しそうな二人を止める。

 驚いたことに、この夫婦もマーガレット・コンスタンスと直接話をしたことはないらしい。

「不動産屋からの紹介で、そのまま契約しちまったからね。最近は干渉を嫌う店子さんも多いんで、余程問題を起こさない限りはこっちも放っておくんですよ」



 人間関係の希薄な世の中だからなぁ。

 ダグラスは心中深いため息をつく。隣りに誰が住んでいて、どんな生活をしているかなんて、みんなどうでも良いことなのだ。……但し。

 扉を薄く開けて、ダグラス達の様子を覗いているアパートの住人達を廊下を歩きつつ眺める。

 こういうゴシップ誌が喜びそうな事件が起きた時だけは話が別みたいだが。

 ヤな世の中だなー、と思う。好奇の視線が背中に痛い。……あー、ホントに背中痛いわ。くしゃみのし過ぎかもなぁ。ハークショイ。



「それから、先輩。女の指紋がですね、どうも出てこないらしいです」

 くしゃみと共に飛んでくるダグラスの鼻しぶきから飛んで逃げつつ、ミシガンが言う。

「あ? 出ないって一つもか?」

 思わず鼻をかもうとしていた手を止めてしまう。

「はあ。殺された市長の指紋と掃除婦の指紋は沢山見つかったそうですけど」

「家中の指紋を拭いて回ったってぇのか? 女は週に数日とはいえ、あそこに住んでたんだろうが!」

「いえ、えーっと、鑑識さんの話によるとですね」

 ミシガンはパラパラと手帖を捲る。

 女はいつも手袋を着用していたのではないか、ということらしい。指紋を残らず拭いて回ったのなら、市長と掃除婦の指紋だけ残っている筈がないのだ。そんな選別が出来るわけがない。

 ダグラスは「うぅーん」と呻る。

 ベットの端に垂れ下がっていた絹の手袋を思い出す。


 余程用心深い女だったのか? つまり殺人はかなり以前から周到に計画されたものだったのか? それとも何かそれとは別の、手袋を脱げない特別な理由でもあったのだろうか? どちらにしろ、指先に拘る女だな……とダグラスは思う。死んだ男の指先も残らず全て持ち去った。

 そう。切断されたジェファーソン氏の指先は、未だ発見されていないのだった。


「ひぃぃ~~~!」

 突然悲鳴が聞こえてきて、ダグラスとミシガンは顔を見合わせた。急いで廊下を曲がると、先程証言をしてくれた掃除婦が尻餅をつくように倒れていて、それにのし掛かっている若い男の姿がある。

「お前か! お前が僕の父さんを汚したのか。よくも、よくも、あの人にバケツ水なんか……よくも!」

 そう言って、掃除婦の襟首を掴んで締め上げる。

「止めて下さい、ギルバート様!」

 年配の眼鏡を掛けた男が、ギルバートと呼ばれた青年を止めているが、興奮した彼は止まらない。おばちゃんの服のボタンがはじけ飛んだ。


「おい、止めろ!」

 慌ててダグラス達も止めに入った。掃除婦の身体から青年を引き剥がす。

 騒ぎを聞きつけて他の警官もやって来た。真っ青な顔で震えているおばちゃんが、警官達の手でその場から連れ出されていく。後にはダグラスとミシガン。そして、ハアハアと荒い息を吐く青年と眼鏡の男が残される。


「……申し訳ありません。突然のお父上の訃報にギルバートは動転しておられるのです。先程の女性には、後ほど幾重にもお詫びを……」

 少し場が落ち着いたところで、眼鏡の男が名刺を差し出してきた。

「わたくし、市長の第一秘書を致しておりますベイクと申します。こちらはご子息のギルバート様です」

 ダグラスはそれを受け取りつつ、男達の顔を伺う。先に遺体の確認をして来たということで、秘書の顔はひどく緊張し、憔悴し、青ざめて見えた。市長の息子だという青年は、激昂が少し冷めたのか、放心したようにぼぅっとしている。秘書に促されて、ようやく自分のしでかした暴力に気づいたらしく青ざめた。狼狽した様子でオドオドと「すみませんでした」と謝ってくる。


 本来は虫も殺せぬほど大人しい温厚な男が、何かのきっかけで興奮し、我を忘れて暴れ出す。そういう例は時折見かける。このギルバートもそういうタイプの人間だろうか? それとも、秘書の言葉通り、肉親の突然の死に動揺しているだけだろうか? 実際問題、肉親の遺体に汚れた水を掛けられたと言われて、喜ぶ人間は少ないだろう。死者への冒涜と取る場合もあるだろう。それにしたって、掃除婦のおばちゃんには、ちょっと気の毒な気はするが。


 ベイクはいかにも秘書といった感じの、如才なげな男である。細い作りの眼鏡の下の目は鋭い。ジェファーソン市長とは学生時代からの親友であり、最も信頼の置ける片腕でもあったらしい。

 息子は目尻を真っ赤にしている。遺体置き場から同道してきた警官の話によると、父親の死に顔を見た時から、ひと言も声を発せず、ただボロボロと涙をこぼしているばかりだと言う。事前に仕入れた情報によると、歳は十九。一浪したものの現在は父親の母校である有名私立大学の法科に在籍している。


 ベイクが眼鏡の位置を直しつつ、話し始めた。

「市長には一昨日からずっと連絡が取れませず、わたくしどもも心配していた矢先でした。これは本当に現実なんでしょうか? 怖ろしいことです。まさか市長がこんな……」

「一昨日から行方不明だったのかい?」

 ダグラスがミシガンに目配せする。ミシガンは手帖を開いてメモを取る。

「行方不明と言いますか……、一昨日は公休日でしたので、当然わたくしもオフでして。昨日、市長が会議の時間になってもお見えにならないので、ご自宅にお電話を差し上げました。それで、一昨日から家にお戻りでないと初めて知ったような訳で」

「ちょくちょく雲隠れする市長さんだったのか?」

「いいえ、そのような。市長は時間には厳しい方で。わたくしが知る限り、市長が遅刻なさったのはただ一度。三年前に奥様がお亡くなりになった日の朝、それもたった五分だけです」

 ギルバートが「くっ……」と喉を詰まらせる。両手の拳を握りしめて、身体を震わせている。歳の割には小柄で脆弱な体格だった。市長も大柄な方ではなかったので遺伝だろう。自分の台詞に感極まったのか、ベイクも目尻に浮かんだ涙を拭う。


 ダグラスは以前観たジェファーソン市長のテレビ演説の姿を思い出す。若干神経質そうな線の細さはあったが、温かみのある笑顔を終始絶やさず、これからの政治活動に向けての熱い思いを語っていた。ダグラスは政治に人並み程度の関心しか持たないが、それでもあの人物が既にこの世に居ないのはひどく惜しいことだと思えた。しかも、その死はどこの誰とも付かぬ女のアパートでの不名誉な死だ。下着姿で、しかも指まで全て切り落とされて。近親者にとって、無念の想いは強かろう。


「警察に捜索願を出さなかったのは何故なんです? 一昨日をさっぴいても昨日は丸々一日市長の行方が知れなかったんでしょう。異常事態だとは思わなかったんですか?」

 ミシガンが口を挟んだ。

「……それは。わたくしどもは政治家ですから。何事にも慎重を期します。それに、別の心配を……」

「別?」

「はぁ。もしや、市長は誘拐されたのではないかと、わたしどもはそう考えましたのです。それで、警察への連絡は差し控えておりました」

「ああ、成る程な」

 有力政治家ともなれば当然反対派も存在する。強硬手段に出るような過激な輩もいるのだろう。現状では、遺体の発見された部屋の借り主であるマーガレット・コンスタンスとの『痴情の縺れ』説が濃厚かと思われたが、政治的側面も視野に入れて捜査を進めるべきだろう。いや、いっそこの説の方がしっくり来る事件かもしれない。市長の遺体には指以外に目立った外傷は見あたらなかったのだ。痴情の縺れの果て、というには不可解な点が多すぎる。


 特に、現在市長が通そうとしている税制案は、低所得者層には有利だがその逆には不利なもので、市庁舎や事務所には嫌がらせの電話もたびたびかかっていたという。中には脅迫まがいの過激な内容のものもあったらしい。

「録音テープに全て収めてありますので、後でお渡し致します」

 秘書が言う。ダグラスは「そりゃ助かる」と答えた。息子の方に向き直る。ダグラスに真っ直ぐ見据えられて、おどおどした目をギョロつかせる。


「ええっと、親父さん……ジェファーソン市長に、最近変わった様子はなかったかい? 例えば、何かに悩んでいたとか、誰かに脅されて怯えているようだったとか」

「父は、何物にも屈するような人ではありません!」

 ギルバートが突然声を荒げた。今までずっと「だんまり」だった分、ちょっと驚く。

「とても意志の強い、立派な人でした。どんな困難にも堂々と立ち向かう男らしい人でした。……本当に、素晴らしい人だったんです」

 さっきの騒動といい、感情の起伏の激しいタイプらしい。


「……ギルバート様」

 秘書が、ギルバートの肩に手を掛ける。

「刑事さん、わたくしどもは昨晩からずっと、一睡もせず市長の身を案じておりました。その挙げ句がこのような最悪の結果で。これからの公務のこともあります。マスコミ関係の対策も講じなくてはなりません。勿論捜査には協力を惜しみませんが……今日の所はもうご勘弁頂けませんでしょうか?」

 ダグラスが少し考えて、頷いた。

「ああ、分かった」

 戸口に向かう二人に向けて、言葉を繋げる。

「……俺は次の選挙から、投票用紙に書く名前に悩むことになるよ。残念だ」

「有り難うございます、刑事さん」

 ベイクは薄く微笑んで会釈すると、ギルバートと共に帰っていった。


■■4


 館の玄関チャイムの音が鳴った。少しだけ時間を空けて、二度、三度、四度、五度……。

 朱里が応対に出向いてみると、極彩色の固まりが扉の開くのを待ちかねたように飛び込んで来た。

「ちょっと、新聞見た? ダグラスちゃん、今タイヘンなんじゃない? 最近ここに帰ってきてるぅ?」

 ヒョウ柄のジャケットに紫色のパンタロン。足下はどこでこんなの売っているんだ? と訊いてみたくなるような巨大サイズのハイヒール。足のサイズに相応しくデカい体躯の頂点にはピンクの可愛らしいニット帽を被った頭がちょこんと付いている。

 メッシュ入りで脱色された前髪の間から覗く両眼とその下の鼻、口、そして顎。それらはどれをとってもしっかり男のものだったが、全てに入念な化粧が施されている。耳元には大振りのイヤリングが揺れていた。


「いいえ。多分、ずっと州警に泊まり込まれているのではないでしょうか?」

 朱里が応じる。白野が階段の踊り場から顔を覗かせた。にこにこと挨拶をする。

「あ、ビビアンちゃんだ。こんにちは」

「こんにちは、白野ちゃん。ご機嫌いかがぁ?」


 突然降って湧いたこの『ビビアンちゃん』は以前、とある事件の折りにダグラスが助けたオカマである。その時に画廊の住人達とも知り合いになり、こうして時々顔を見せにやって来るのだ。出で立ちはスゴイが、本人は自分自身を『純情可憐で人畜無害な純粋培養オカマ』だと公言して憚らない。その言葉を裏付けるように真っ青に塗られたアイシャドーの下の小さな目は、これが意外なほど「つぶら」で可愛い。リスのような瞳である。そう言えば、多少出っ歯でもあった。


「コワイ事件が起きたものねぇ。指がぜーんぶ切り落とされていたんですってよ。あたし、あの市長さんのファンだったのに。ショックだわぁ」

 朱里が案内するまでもなく、ズカズカと勝手に居間の方に歩いていく。画廊に来る途中の駅で、売られている全種類の新聞とゴシップ誌を買ってきたわ、と背負っていたリュックの中身をドサドサとテーブルの上にぶちまけた。テーブルに載りきれず、冊子の幾つかが滑り落ちる。よくもこれだけ買い漁ったものだ。というか、よくも担いで来れたものだ。白野が目を丸くしている。


「興味深い事件だわ。ねぇ、みんなで推理ゴッコしましょうよ。ダグラスちゃんの応援しましょ」

 ビビアンがにっこりと微笑んだ。


 ジェファーソン市長のセンセーショナルな死の報道から、既に数日が経過している。


  『猟奇殺人!? ウィリアム・ジェファーソン市長惨殺!』

  『痴情の縺れか? アパートから消えた謎の女!』

  『スクープ! 税制法案反対派からの脅迫電話。その録音テープを入手!』

  『切断された指、未だ発見出来ず!』

  『市長、謎の空白の一日!』

 報道初日、このような内容だった新聞各紙の見出しは、翌日行われた州警察の公式発表を受け、更に色めき立つことになる。


  『市長の死亡原因は、心臓発作!?』

  『病死か? それとも他殺か?』

 なんと、市長の死は他殺とは断定されなかったのである。市長は心臓に疾患があり、ずっと投薬治療を行っていた。心臓発作が起きた時、市長は直ちに服用するべき液剤を飲まなかった(or 飲めなかった?)し、適切な医療処置を受けるべく救急車も呼ばなかった(or 呼べなかった?)と推測されるのである。

 手当の遅れが命取りとなり、市長は死に至ったのだ。その時、謎の女マーガレット・コンスタンスが傍に居たか、それとも市長が一人きりだったのかも分からない。生体反応から、指の切断は死亡直後から数時間以内と推定されたが、例えそれを加味しても、確かなことは、市長が心臓発作の末病死した後、何者かが彼の指を切断し持ち去ったと言うこと。ただそれだけなのである。


 マスコミはこぞって記事を書き立てる。

  『深まる謎。何故、市長の指は切断されたのか?』

  『謎の美女マーガレット・コンスタンスの行方、杳として知れず!』

  『焦りを見せる捜査陣営!』


 朱里がそんなゴシップ誌の一つ拾い上げて、パラパラと捲る。

「推理ゴッコと仰いますが、私どもに推察出来る程度のことは、州警が全て調べ上げているのでは?」

 一般に公開していない情報も、当然ながらありますでしょうし。こういう記事の中にはいい加減なでっちあげだって多々含まれるでしょう。清濁ごちゃまぜの情報からの安易な推論は危険です。

「……ああ。これなど、その典型ですね」

  『マーガレット・コンスタンスは呪術師! 市長に掛けられた呪いの呪文!』

 朱里はそう題された記事の一部を読み上げる。ご丁寧にも紙面にはオカルトチックなイラスト付きだ。

「なんとまぁ、この記事によると、切断された指は黒魔術に使う魔法陣の上に並べられたんだそうですよ。

 『……そして、血文字で描かれた魔法陣のカーラチャクラ上に十指全てが並べられた時、ウィリアム・ジェファーソン氏の心臓は断末魔の叫びを上げつつ、遂に停止したのである』

 バカバカし過ぎです。指は死後に切断された、というのが州警からの公式発表ですのに。市長は二度死んだんですかね?」

 皮肉気に口の端を釣り上げる。


「じゃあ、執事ちゃんはどう思うの? 指が切り取られた理由について?」

「さて? 謎ですね」

 素っ気ない返答に、ビビアンがブーイングする。

「ナニよぉー。アナタ謎解きがお得意だって小鳥ちゃんから訊いてるんだからぁ」

 丁度、お茶を運んできた小鳥に向かって、ビビアンが同意を求める。

「ねぇ、小鳥ちゃん。そうなのよねぇ。執事ちゃんの趣味は炊事と推理と酔狂なのよねー」

 白野がプッと吹き出した。

「あははは、それ面白い」

「……白野様」

 手を叩いて喜ぶ主に、朱里は困った顔になる。

「イイじゃない。実を言うと僕も興味あったんだ、この事件。だって、まるで……」

 白野の言葉を遮るように玄関チャイムの音が鳴った。間を空けず二度、三度、四度、五度……。

 今度は誰だ? 全員で顔を見合わせる。


 扉を開けると、そこに居たのはミシガン刑事に支えられてようやく立っているという状態のダグラスだった。

「ダグラス刑事、どうしたんです!?」

「す、すいません。手を貸して下さい。この人重いっ……」

 小柄なミシガンが助けを求める。朱里が肩を貸してダグラスを支えた。ダグラスの名前を聞きつけて居間から飛んできたビビアンも反対側から肩を貸す。


「先輩ってば、ずっと指紋採取用のアルミニウムパウダーを吸い込んだ所為だ、鼻炎だって頑固に言い張ってたんですけど、幾ら何でも様子がおかしいんで、無理矢理熱を計ってみたら、なんと四十度だったんですよ!」

 お医者さんに診て貰いました。インフルエンザだそうです。注射と点滴済みです。これ薬です。

 ミシガンがまだハアハア言いながら、処方された薬の袋を差し出してくる。手の空いている白野がそれを受け取った。

「それじゃあ、僕は失礼します。先輩、どうぞお大事に」

 そのまま、出て行こうとするミシガンをダグラスが止める。


「……待てこら、ミッジ。俺を州警に返せ、戻せー」

 俺は事件を解決するんだー。

 そいで、デートをするんだー。

 熱で掠れ気味の声が世迷い言をほざき立てる。そんなダグラスの身体が朱里の指示で引きずられて行った。

 心配そうな顔つきで――そのクセ何故かみんなとは少し離れた場所に立って――その様子を見ていた小鳥の顔が、ダグラスの言葉にピクリと引きつる。ミシガン刑事が苦笑いを浮かべた。

「とにかく、ずっとあの調子でしてね。今週末は小鳥さんとデートなんだから、市長事件にさっさとケリを付けてやるって」

「……わたし、聞いてない」

「え?」

「デートの約束なんかしてないもの」

 地の底を這うような小鳥の声に、ミシガンが慌てた。

「え……だって、この前正装したダグラス先輩と一緒にホテルから出てきたっていう噂の女性は、小鳥さんじゃあ……」

 ピクピクピクピク。

「ホ、テ、ルゥ?」

 小鳥の顔が奇妙に歪んだ。空虚に凍り付いた微笑みがコワイ。室温が一気に絶対零度に凍り付いた。

「え、え、えぇぇえぇ~~~? ち、ちょっと待った。今のナシ。今のゼンゼン全てナシですっっ!」

 そう言えば、デートに行くとは聞いたものの、その相手が誰なのかははっきり聞いていなかった。その事に今さらのように思い至ったミシガンである。だってそんな。小鳥以外の誰だと言うんだ? 狼狽えてしまう。アワワワワ。


 そこに、ダグラスをひとまず居間のソファーに転がし終えた朱里が足早に戻ってきた。無責任にもそのまま逃亡を図ろうとするミシガンを呼び止める。

「ミシガン刑事、貴方もひどくお疲れのようです。目の下にクマができています。ミートパイがありますから召し上がっていらして下さい。……小鳥さん、スープといっしょに温めて」

 朱里に言われて、小鳥が無言のままキッチンへ小走りに消えていく。

「僕、毛布を取ってくるね」

 白野が、自分のどデカい失態をどうして良いか分からずに固まっているミシガン刑事の横をするりと抜けて、トコトコ階段を登っていった。


 朱里にほぼ半強制的に促されて、ミシガン刑事が居間にいる。テーブルの上の雑誌や新聞紙はサイドボードの上に除けられた。今はミートパイとスープが代わりに湯気を立てている。

「刑事は何か食べられますか? リゾットでも作りましょうか?」

 ソファーの上で何重にも毛布を巻いて、氷枕を額にのせたダグラスに訊ねる。返事はない。朱里が顔を覗き込む。

「……沈没してますね」

「注射が効いてきたんじゃないでしょうか?」

 ミシガンが言う。

「仕方ない。しばらくこのまま寝かせておいて、起きたら二階に運びましょう」

 朱里がため息をついた。ベットには頑として行かないと言い張った為、こんな有様になっているが、はっきり言って邪魔である。


 朱里に勧められて、ミシガンがミートパイに手を伸ばす。モソモソ食べながら、小鳥に言った。

「あ、あのですね、小鳥さん。さっきのは何かの間違いですから」

「わたし、別にどうでもいいし」

「……いや、あのですねぇ」

「どうでもいい事なら、仏頂面になる理由もないでしょう。小鳥さんもこっちに来て、ミートパイでもお食べなさい」

 朱里に言われて、口唇をへの字に曲げたまま、小鳥が空いた席に座る。

「ちょっと、なんなの? この険悪なムード」

 ビビアンが細く剃り整えられた眉を顰めた。


 ソファーの上で伸びているダグラスを気遣って、自然、会話はひそひそ声になる。

「いや、だから僕が直接見たわけじゃあないんです。そういう噂話を聞いたってだけで」

「刑事はその噂話の通り、彼らしからぬおめかしをして何処かへ出掛けていきました。……とすれば、ホテルの一件も本当でしょう」

 その日、ダグラスは遅い時刻に帰ってきて、更に翌日からしばらくはセント伯爵邸で寝泊まりをしていた。ダグラスの養い親とも言うべきセント老人がインフルエンザで倒れたとの報を受けたからである。ダグラスの看病で老人の方は既に全快しているらしいが、多分その時ウィルスを拾ってきたものと思われる。


 その後は市長事件が起こり、ずっと州警に泊まり込みになっていた。ダグラスがこの館に戻ってくるのは久しぶりのことだったのだ。よって、ダグラスめかし込みの理由は未だ誰にも解けぬ謎のままなだったのである。

 ダグラスがずっと小鳥に想いを寄せていたことは、現在ここに居るメンツには周知の事実だったので、みな驚きを隠せない。


「まっ、じゃあ、ダグラスちゃんったらフタマタ……?」

「それ程器用な男とも思えませんが」

「そうですよ。先輩に限ってそんなことは」

「小鳥ちゃんが冷たくしすぎるからじゃない? 彼ってイイ男よ。油断してると誰かに取られちゃうわよ。ってゆーか、いらないならあたしが貰ちゃうんだから」


 ビビアンが小鳥に向き直る。

「ダグラスちゃんの魅力はね、裏表のない所よ。いーい? 偏見や色眼鏡を持たない人間なんて滅多に居ないの。希少価値なの」

 その奇抜なファッションゆえ、色々と受難を強いられているらしいビビアンが、そう切々と訴える。実のところ、以前ビビアンが巻き込まれた事件というのも、その外見に起因していたのだ。故に、見てくれのみに囚われず自分を助けてくれたダグラスに、ビビアンは心酔しているのである。


「見なさいよ。このハンサムさんなんか、あたしが二メートル圏内に入るとね、あからさまに後ずさって行くのよぉ。失礼にもホドがあるわ」

 ビシッと指を突きつけられて吠えたてられても、朱里は涼しい顔である。

「すみません。人見知りするタイプなんです」

「まぁ、ヌケヌケと。憎ったらしいわぁ」

 キーッとビビアンが歯噛みした。

「ほら見なさい。顔ばっかり良くってもダメよ、男はやっぱりハートよぉ~」

 と小鳥を諭す。


「朱里さんはともかく、白野様はそんなイジワルしないもの」

 小鳥が故意か無意識か、微妙に話の筋をすり替えた。縋るように白野を見る。

「ねぇ、白野様。そうですよね?」

「うん」

 問われた白野がコクリと頷く。一人悪者にされている朱里こそ良い面の皮だが、気にするどころか面白がっている風なので、まぁどうでも良いのだろう。


「……ああ、そうねぇ。白野ちゃんはイイコよねぇ」

 言いながら、ビビアンが白野の顔を両手の中に挟みこむ。顔と顔がくっつきそうな至近距離からじっと覗き込まれても、少年は全く動じる気配がない。しばらく『オカマと美少年・見つめ合いの図』が続いたが、そのうち白野がふんわりと微笑った。

 ビビアンがバッと顔を逸らした。火照った自分の頬に手を当てつつ、ふと湧き起こった疑念を口にする。

「……でも、このコってもしかして、どんな人にでもこうなんじゃない?」

 なんだか、殺人犯にだってユーレイにだって、にこにこ笑いかけてそう。

 それはそれで、偏見や色眼鏡とは別の次元の問題があるようにも思える。

 疑惑の眼差しを向けられても、白野はやっぱりにこにこしている。ビビアンは早々に白旗を揚げた。

「このコ、執事ちゃんとは別の意味で、ちょっと苦手なタイプかもだわ」


「えーっと、なんだっけ? だから、とにかくね、ダグラスちゃんはイイ男だって話なのよ。このままだと他の女に取られちゃうわよ。それでもいいの?」

 小鳥がチラリとソファーで眠るダグラスを見た。

「……だって、ダグラス刑事なんて口が悪いし、むさ苦しいし、わたしのコトすぐからかうし」

 ぶつぶつ呟く小鳥の顔がだんだん下を向いていく。

「幾ら言っても、靴下をランドリーボックスに入れてくれないし、そこら辺に脱ぎ捨ててるし」

「ちょっと待ってよ」

「デリカシーないし、部屋にエッチな雑誌だって隠してるしぃ」

「あのねぇー」

 それこそ痴話ゲンカレベルの、犬も喰わない話ではないか。

 ビビアンがイラついた声を出しかけた時、横合いから白野がポツリと訊いた。

「小鳥ちゃん、泣いてるの?」


 小鳥が驚いたように顔を上げた。その目がみるみるうちに潤んでいき、そしてポトリと一粒。大きな雫が溢れて落ちた。

「白野様もデリカシーないです。キライです!」

 捨て台詞を残して、小鳥が部屋を出て行ってしまう。玄関の閉まる音がした。



 しばしの間を置いて、主従二人がコソコソと話し出す。

「あーあ、また小鳥ちゃん怒らせちゃった」

「当たり前です。白野様、先程のようなおっしゃりようは小鳥さんに気の毒ですよ」

 白野が口を尖らせる。

「えー、今度も僕が悪いの? ダグラス刑事が悪いんじゃない?」

「ああ、そうでした。この男こそ元凶ですよね」


 朱里が見、白野が見、ビビアンが見、そしてミシガンも見る。その場の全員の視線が諸悪の根元に注がれた。ヒューヒューと苦しげな呼吸音で眠っている男が突然、

「う~、デートしてぇ~~~」

 と一声呻った。


「……ダグラス先輩は、一体ナニを考えているんでしょうか?」

「さて? 謎ですねぇ」

 ミシガン刑事の問いかけに、朱里が首を横に振った。困ったものだ、と言いたげに。


■■5


「『謎』っていえば、市長事件はどうなってるの? ミッジちゃん」

 ポンと手を叩いて、ビビアンが訊ねる。彼女は元々その用でここに来たのだ。

 頭に血が上ると、毎度脱兎の如く走り出す小鳥には、みんなもう慣れっこなので、そっちの方は気にしない。カッと熱されやすい分、冷めるとカラッとしているのも小鳥の特徴である。長所か短所かと問われれば、まぁ長所なのだろうと思われる。裏表のない性格と言えば、小鳥こそまさしくそうだった。


「そう言えば、白野様も先程何かを言いかけていらっしゃいましたね」

 朱里に質問を振られて、白野がきょとんとする。

「ん? 僕……?」

「はい。この事件に興味があると。まるで……? その後は?」

「ああ、そうか。あのね『僕も興味あったんだ、この事件。だって、まるでマザーグースの唄みたいなんだもの』……そう言おうとしてたんだよ」

「マザーグースってあの童謡の?」

 ビビアンが訊く。

「うん。ね、朱里。似てるよね? あの『だらしのない男』にさ」


   一人の男が死んだのさ。とってもだらしのない男

   お墓に入れてやろうにも、どこにも指が見あたらぬ

   頭はごろりとベッドの下に、手足はバラバラ部屋中に

   散らかしっぱなし、出しっぱなし



 白野に請われて、暗記力に長ける朱里が詩を暗唱する。ミシガン刑事がマメマメしくそれをメモに取った。取りながら、

「薄気味悪い歌詞ですねぇ」

 と、感想を漏らす。

 三行目の歌詞の「頭」をベット脇に落ちていた帽子に。「手足」をストッキングや手袋などの散乱していた衣類に置き換えるとすれば、他の行は今度の市長事件そのままだ。


「それじゃあ、この事件はマザーグースになぞらえた猟奇殺人だってコトぉ?」

「ううん、ただ似ているなって思っただけだよ。第一、亡くなった市長さんは『だらしない』と形容するにはとっても不向きな人みたいだし」

 白野がそう弁解する。


 ジェファーソン市長の葬儀は、検死解剖その他でずっと延び延びになっていたが、明日にも遺体は遺族の元に渡されることになっており、その翌日、つまり明後日には荼毘に付される予定である。葬儀には多くの関係者や彼の死を惜しむ市民の列が後を絶たないだろうと予測される。


「そうなんですよ。普通、事件で亡くなった被害者の人となりについて聞き込み捜査をするとですね、誰にだってある程度は悪い噂っていうのが出てきて当たり前なんです。それなのに、ジェファーソン市長の場合は、とにかくみんなして『素晴らしい人だった』ばっかりなんです。驚きます」

 ミシガン刑事が言う。

「『だらしない』どころか、聖人君子みたいな人なんです。汚職、脱税、セクハラ、一切無し。曇り一点ありません。叩けば埃が出るのが政治家だと僕は思っていたんですが、考えを改めさせられました」


「あら? 汚点が一つだけあるじゃない。ほら、今回の『愛人疑惑』」

 その愛人に殺された、というのが大方の見方なのだから、これは大した重大汚点だ。ビビアンがその点を指摘する。ミシガンが頭を掻いた。

「うーん、でもですね、市長の奥さんは既に三年も前に病死していて、市長は現在独身でした。ですから『愛人疑惑』と言っても、世間の風評はそれほど悪い方には向いていないんですよ。どっちかというと『とんだ悪女に捕まったものだ。気の毒に』って感じで」


 朱里が、ビビアンの持ってきた新聞や雑誌をめくっている。

「そうですね。興味本位で猟奇殺人として扱っている記事よりも、好意的な内容の記事の方が多い。……市長が亡くなる前一週間分のスケジュールが載っています。精力的に分刻みで市政に取り組まれていたようですね」

 他も環境問題の某に尽力を尽しただの、栄誉ある某賞を受けただの、数多くの美談ばかりが目に飛び込んでくる。大したものだった。非の打ち所のない人物である。

「本当に完璧な人格者ですね。……こういう人は心身の疲労も溜まりそうだ。隠れ家のアパートメントで過ごす秘めやかな時間が、故ジェファーソン氏のささやかなの憩いの一時であったことは想像に難くない……」

「その挙げ句、殺されちゃうなんて気の毒ねぇ」

 ビビアンがため息をついた。


「……殺された、とは断定されてねぇぞ。市長は心臓発作で死んだんだ」

 毛布の固まりが声を出した。

「間違えるな」

 ダグラスが言いながら顔を上げた。目を覚ましたようだ。部屋の照明に眩しそうに目をショボショボさせる。頭痛がひどいらしいクセに、よっこらせと上体を起こした。


「刑事。大人しくベットで寝ていたらどうです?」

「バカったれ。なんか横でごちゃごちゃ事件の話しやがって、寝てられるかってんだ。しかも、重要なトコが思いっきり間違ってやがるしよ」

 ミッジ、ちゃんと否定しろよ。お前も訳ワカメになってやがるだろ? 市長が殺されたとは決まってねぇ!

 そう、後輩を叱りつける。


「そうですね。そこを踏み違えると、この『だらしのない男』事件の全てを見誤ってしまいかねませんね」

「あ? だらしのない男?」

 ミシガンが先程教わったマザーグースの歌詞についての説明を復唱する。ダグラスがいらだたしげにバリバリと頭を掻いた。

「う~え~~~。ヤなもん見つけて来やがって。お前らこれ以上この事件、複雑にして楽しいンかぁ~、あぁ~ん?」

 心底うんざりしているらしいダグラスに、朱里が苦笑する。

「指は未だに見あたりませんか?」

「指も女も見あたらねぇよ。謎解きピースはバラバラだ。散らかしっぱなしで出しっぱなしだ!」

 詩のまんまである。あームカつく。


 とにかく、マーガレット・コンスタンスという偽名を使った女の情報が少しでも欲しいところだった。州警は市長の愛人候補として一人の女に目星を付けた。

 グレース・オルドベリー夫人。社交界きってのブロンド美女として名高い。

 その昔、市長の奥方候補に挙がっていた女性である。結局、市長の妻にはなり損ね、オルドベリーという男と結婚した訳だが、市長夫人の死後はまた、しつこく市長に言い寄っていたらしい。


「なるほどね。夫ある身の女性なら、愛人と密会する時は充分すぎるくらい用心をするでしょうからね」

 謎の女の逮捕は、もう間近と言うわけね。

 ビビアンが感心したように頷く。説明しながらダグラスが笑った。

「いやぁ、ところがよ。そうでもないんだな、これが」



 過日。ダグラスとミシガンははオルドベリー邸に出向いた。グレース夫人は、にこやかに二人を出迎えた。

「……つまり。刑事さんはわたくしが市長を殺した『謎の女』だと仰るんですのね? まあ、それは光栄ですこと」

「光栄、ですか?」

 いつものようにメモを用意したミシガンが、虚をつかれたような声を出す。

「それはそうでしょう。だって、ウィリアムを殺した女性は随分と情熱的な方のようですし」

 情熱家と呼ばれるのは、わたくしにとって最高の褒め言葉ですわ。そう言ってグレース夫人は美しい色に塗られた口唇の両端を上げて、嫣然と笑った。


「貴女が謎の女を『情熱家』と呼ぶ理由を教えて頂けますかね?」

 ダグラスが訊いた。

「だって、ウィリアムの指を切り取って持っていってしまったんでしょう、その方。愛しい男の身体の一部を形見に持ち去るなんて、鬼気迫る究極の愛情表現ではございません?」

 なるほど、と思う。面白い物の見方をする女だ。聖者ヨカナーンの生首を盆に載せたサロメにも共感出来るタイプである。


「そりゃあ、市長はあの通りの素晴らしい方で、ぜひ、再婚相手に選んで欲しいと思ってましたわ。それが叶うものならわたくし、今の夫とは即座に別れてよろしくてよ」

 もしも別れてくれないなら、オルドベリーなんか殺してもいいわ。

 そんな怖ろしい宣言をして、ホホ…と笑う。殺しても惜しくないご亭主は、商談のため、現在海外出張中だということであった。この美しい妻をこれだけゴージャスに着飾らせる費用を稼ぐために日々働いているのだろうに……気の毒である。

「殺人予告をされると、警察としては逮捕しなくてはならんのですがね」

「あらコワイ。あくまでも仮定のお話ですわよ。ね、ちょっとした冗談」

 にんまりと嗤う。その笑いの方が余程コワイ。


「でも、残念ながらウィリアムはわたくしを相手にしてはくれなかったの。ウィリアムは昔から、大人しやかで平凡で欠伸が出るくらい退屈な女が好みなのよ。困ったことに」

 暗に、故・市長夫人を揶揄するような事を言う。


「第一ね、わたくしがもしも彼の愛人になれていたんだとしたら、わたくしは日陰の身になんて甘んじていませんよ。すぐさま、自分でマスコミにでも何でも勝利宣言をして既成事実を作って結婚するわ。当然でしょう」

 良い男は女を引き立てる最高のアクセサリーよ。でも、借り物のアクセサリーなんかイミテーションにも劣るわ。自分のものにしてこそ価値がある。そうでしょう?


「強烈ねぇ」

 グレース・オルドベリー夫人の話を聞いて、そうビビアンが感想を漏らす。

「ええ。強烈で、激しくて、怖い女性に見えました。僕はオルドベリー夫人が謎の女だと思ったんですが、アパートの管理人夫妻に写真で確認して貰ったところ、全然違うと言われてしまって」

 ミシガン刑事が残念そうな顔をする。管理人夫妻は「マーガレット・コンスタンスは、こんなにすごい美女じゃない」と語ったらしい。


「オルドベリー夫人は違うよなー」

 さも当然だと言わんばかりのダグラスに、ミシガンが訊ねる。

「先輩は管理人夫妻の証言を聞く前からそう言ってましたよね。何でです?」

「何でってお前、あのおっかない美女は相当頭が切れるぜ」

「そうですね。謎の女は失礼ながら賢明な女性とは言い難い」

 ダグラスの言葉に朱里が同意した。


「ええー、指紋を残さなかったり、煙のようにかき消えたりしてるのよ。悪賢い女じゃないの?」

「それは単なる結果論です」

 ビビアンの疑問を朱里があっさり否定する。

「厳密に言えば、どれ一つとして確定している事実ではないですが、話がややこしくなるので、幾つかの仮定を踏まえて考えてみましょうか」

 仮定1:マーガレット・コンスタンスは市長の愛人である。

 仮定2:マーガレット・コンスタンスは心臓発作を起こした市長を見殺しにした。

「この場合、愛人関係にありながらそれを見殺しにしている。とても矛盾しています」


 次の仮定。最初の二つにもう一つ足してみましょう。

 仮定3:マーガレット・コンスタンスに突発的に市長を殺したい衝動が起こった。

「それだと、室内に一切の指紋がない訳が分かりませんね」

 計画的でない犯行なら、事前に指紋がつかないように気を配る理由がない。

 ミシガンが首を捻った。

「ええ。ですから、市長の死とは全く無関係な理由で、マーガレット・コンスタンスの指紋は部屋に残らなかったんです。矛盾しているように感じますが、そう考える方が論理的です」


「ちょっと待って。最初から市長を殺害するつもりで愛人になったのかも知れないわ。そういう仮定も成り立つわよね」

「アパートメントが借りられたのは、二年以上も前なんだ。そんなに長い間、女は起こるかどうかも分からない市長の心臓発作に賭けて待ち続けてたって言うのか? 無理だろ、そりゃ」

 ビビアンが出した仮定の矛盾をダグラスが即座に指摘した。


「市長が心臓発作を起こした時に、マーガレットは居なかった。市長が死んでから部屋に現れた……これならどうですか?」

 ミシガンが思いついた仮説を述べる。

「その場合、やっぱり指紋がない理由が分かんないし、お医者さんや警察も呼ばないのはヒドイよね。しかも、何でだか指まで持って行っちゃってるし」

 ずっと黙ってみんなの話を聞いていた白野がそう口を挟んだ。


「ほらね。全てに置いて意味不明で曖昧模糊。全般的に行き当たりばったり。突発的で衝動的。マーガレット・コンスタンスはとても利口な女性とは呼べませんよ」

 朱里が最後にそう結論づけた。


 ダグラスは腕組みをして考えている。

 そうだ。マーガレット・コンスタンスという女の実像が、どうにも見えてこない。これが、この事件の最大の問題点だった。


 生活感のないアパートメント。普段、女は別の場所で別の名前で生活していた。その通りだろう。だが、そうだとしたら、これ程までに用意周到に自分の存在を隠す理由は何なんだ? ジェファーソン市長は既に妻を亡くして独身だ。愛人関係を隠さなければならない理由は女の側にあると見ていい。とすれば、女は市長並みかそれ以上の有名人だということになる。それなのに、管理人夫妻を始め、誰一人として女の正体を知らないのは何故なのか?


 つまり、マーガレット・コンスタンスは誰もが知っているはずなのに誰も知らず、存在しているはずなのに存在していないことになる。

 まさしく謎の女、というか、幻の女だ……!


 頭がグルグル回る。唄が聞こえた。マザーグースの『だらしのない男』のメロディ。



   一人の男が死んだのさ。とってもだらしのない男

   お墓に入れてやろうにも、どこにも指が見あたらぬ

   頭はごろりとベッドの下に、手足はバラバラ部屋中に

   散らかしっぱなし、出しっぱなし


■■6


「……刑事、ダグラス刑事? 大丈夫ですか?」

 肩を揺すられた。呆けかけていた意識が戻る。

「ん、あぁ……」

「何か少しでも腹に入れて、それから薬を飲んで下さい」

 朱里がそう言って、キッチンに消えた。再びソファーに寝転がったダグラスの頭からずれてしまった氷枕の位置をビビアンが直してくれる。冷たさが心地よい。


「それにしても、市長さんの指はどうして切り取られなくちゃならなかったのかしらねぇ?」

「それも謎なんです」

 ビビアンとミシガンが話をしている。

「月並みだけど、高価な指輪を市長さんがしていて、それを指から抜き取るためっていうのはどう?」

 キツくて、どうしても抜けなくってやむをえず……っていう奴よ。

「指が切断されていたのは第一関節からなんです。指のほんの先っちょですよ。それに十本とも切る必要はないですし」

「そうねぇ。市長さんが全部の指に指輪をしていたっていうのは、流石にヘンよねぇ」

「あと、高価かどうかは知りませんが、市長の左手の薬指には指輪が嵌ったままでしたよ。残念ながら」

 手帖を確認して、ミシガンが付け加える。

「まぁ、残念……っていうか、それおかしくない?」

「え?」

「左手の薬指ってことは、亡くなった奥様との結婚指輪じゃないの?」

「そう、だと思います」

「愛人と逢い引きするのに、指輪ねぇ。デリカシーがないわぁー」

 なるほど、女性心理という奴ですね、とまたもやミシガンがペンを動かす。なかなかのメモ魔である。


「指先にホクロとか傷とか、何か身体的特徴があったっていう説はどう? 死体の身元を隠すのに有効よ」

「肝心の市長の顔が無傷のままですよー、ビビアンさん」

「あ、そーか」

 頭隠して尻隠さず。


「じゃあ、手堅くダイイング・メッセージ!」

「推理小説の読み過ぎです。っていうか、市長は自分で指を切ったんですかぁ?」

 ダイイング・メッセージってそういう意味になりますよ。

「市長の指紋が欲しかった!」

「指十本全部ですかぁ?」

 一体全体何のために?

「じゃあじゃあ、マーガレット・コンスタンスは宗教かぶれの女だったのよ。若しくは指フェチ。そういうマニア」

「それじゃあ、ゴシップ誌ですよ」

 なんだか、掛け合い漫才じみてきた。


「そう言えば、政治関係の反対勢力が誘拐したって説もあったんだったわね」

「はぁ、州警の調べでは、どれも該当しませんでしたけど」

「分かったわ。市長は何か重大な秘密を聞き出そうとした悪の組織に誘拐されて、怖ろしい拷問を受けたのよ。生爪を剥がされるとか、爪と肉との間に針を刺しこまれるとか。その拷問の痕を隠すために……」

 うわわわわ。あたしったら更にすごい事を思いついたわよ、ミッジちゃん! ビビアンが自分のひらめきを自画自賛する。

「市長はその怖ろしい拷問のせいで心臓発作を起こした可能性だってあるんじゃない?」

 どう、どう、どう? この推理!

「おお、素晴らしいです。ビビアンさん!」

 二人が興奮して、手をがっしり握り合う。


「……阿呆! スパイ映画かよ?」

 黙って聞いていたダグラスが、ぼそりとその素晴らしきひらめきを否定した。

 白野はその間中、ずっとクスクス笑っていた。


 朱里がリゾットを作り終えて戻ってきた。湯気の立つそれをダグラスに手渡しながら口を開く。

「確かに、マーガレット・コンスタンスにはどうしても市長の指を――しかも十指全てを――持ち去らねばならない理由があった筈ですね。それもこの事件の大きな謎です」

 十本の指を切り落とすには、それなりの労力と時間と、なによりもそれを遂行する為の確固たる信念や執念が要る。例え死体であろうとも、人の指を切り落とすという行為は、そう生半可な気持ちや覚悟で出来るものではない。……少なくとも、常人には。


「そうね。あたしだったら、とてもじゃないけど出来ないわぁ」

「僕も出来そうにないですよ」

 自分の指を試す眇めつ眺めながら、今まで議論をぶつけ合っていた二人が言う。

 指を切り取る絶対的に強固な意志。どうしても指を持ち去らなければならなかった理由。そんなもの、思いつける筈もない。


「ダグラス先輩、どう思いますか?」

 ミシガンが訊いてくる。リゾットのスプーンを口に運びながら、ダグラスが言った。

「理由は、そりゃ『愛』……って奴だろ?」


「あ、愛ですか!?」

「愛ー!? アイってあのLOVEな愛?」

「二人で連呼すんなよ。恥ずいじゃねぇか」

 仏頂面でダグラスがゴチる。

「オルドベリー夫人が言ってただろ? 愛しい男の身体の一部を持ち去るなんて、究極の愛情表現だ、ってよ」

「それは、普通じゃないわよぉ。異常な愛でしょう?」

「愛って奴はそもそもが異常な心理状態だろ? 思考回路のトチ狂いだと俺は思うぞ。この世に愛憎の縺れから起きた事件なんて、それこそ星の数ほどあるわい」

 ダグラスが余りにもあっさりとそんなことを言うので、ついなんとなく、納得してしまいそうになる。


 そうか。愛の仕業なのか。

 えぇ? ホントウにぃ?


「僕、その説に反対」

 突然ひょいっと片手を上げて、白野がダグラスの説に異議を唱えた。

「おや、どうしてですか、白野様?」

 朱里が面白そうに訊ねる。ダグラスもリゾットを腹に詰め込む作業の手を止めて、白野を見る。


「だって、美意識がなさすぎだもの」

「なぁに? 美?」

「指を切り取った理由が愛情だとしたら、その人は『大切な宝物』として指を持ち去った事になるよね?」

 その愛が市長という人間に向けられたものであれ、単に指という物体に向けられたものであれ。違う?

「そうなります」

 考えながら、ゆっくりと自分の考えを言葉にまとめる白野に、みんなの視線が注がれる。


「確かに、指先っていうのはね、人間の身体の中でもとても綺麗なパーツだと思う」

 だから、そういう嗜好の人が居たとしてもちっとも不思議じゃないんだけど……。

 語尾を鈍らせる。んー、と深く首を傾げる。ダグラスが先を促した。

「けど、なんだ?」

「死体からは指の先端だけがバラバラに切り取られていたんでしょう?」

「ああ、第一関節から先っちょだ」

 ダグラスが自分の爪の先よりもちょっと下辺りを示してみせる。

「ソコがねー、納得いかないんだよねー」

 むぅーっと口を尖らせる。眉と眉の間に縦じわを寄せる。


「指先がキレイなのはさ、指のごく一部だけじゃなく……」

 口で説明するよりも手っ取り早いと思ったのだろう。

 いつも傍らに置いている愛用のスケッチブックを広げると、白野は絵を描き始めた。

「……こんな風に指先から手の甲までの動線の流れや、五指のそれぞれが描くポーズの変化があってこそ成り立つものだと思うんだ」

 最初、指先一つだけがポツネンと描かれていた画面に、その先。指先から手首までつながる曲線が描き足されていく。

「あぁ、ホントね。こっちの方が絵としてもしっくりくるわね。キレイな手」

 指先だけだと、まるで芋虫かなにかのようだった絵に、どんどん線が書き足されていくことで、それは自然、命を帯びる。そこに美がある。

「もっと欲を言えば、僕なら肘までの流れが欲しい」

 白野が自分の服の袖をまくる。手首までしか見えていなかった手が肘まで露わになった。『美』と『動』を同一として考えるなら、曲線の流れは長く引き延ばされるほど美しさを増す。ビビアンがうんうんと頷いた。


「好きな人の指を宝物として持ち去りたいなら、わざわざ切り刻んで醜くしてしまうなんてナンセンスだと思うな」

 白野がパタンとスケッチブックを閉じた。


「もちろん、欠落の美っていうのもあるんだけどね」

 白野が指を折って、幾つかの例を挙げる。

「例えば、トルソ(※手・足・頭部を欠くかあるいは省略した胴体だけの彫像)とか。ミロのビーナスも両腕がないからこそ美しいって言われてるし、ニケの像だって首がない。でも、幾ら何でも指先だけっていうのはさ、愛好者とは思えないんだ」


 朱里がクスクス笑った。

「なるほど。『愛好者』という表現は面白いですね。確かに十本も持っていくのは、マニアとかフェチとかそういう形容で呼びたくなります。……愛好者が美意識をなくしたらお終いですよ。それは愛好者とは呼べなくなる。よって、私も白野様の意見に一票」

 そう言うと、先程の白野を真似て、ひょいっと片手を挙げてみせる。


「それに――これは私見ですが――愛好目的で指を切るならば、男のものより女性の指の方が相応しいと思いますね。繊細で白くて細くて美しい」

「あら? 男の人の手だってキレイだと思うわよ。女の人の手より骨が目立つけど、その分しっかりした力強さがあるわよぅ」

 自分だって男の手を持っているクセに、ビビアンはその場の男達の手を順番に見比べていく。

 白野の指は少女のようにほっそりしていて美しいが、いかんせん、中指の先にしっかり出来上がったペンだこがその調和を損ねている。

 ダグラスはちょっと指が短い。

「ってか、ダグラスちゃん。爪を噛むクセがあるんでしょう? 爪の形がガッタガタ」

「うっせい!」

 そして、最後に朱里の手にビビアンの視線が注がれる。

「うん。執事ちゃんの手、とってもキレイだと思うわぁ。指が長くて骨格がはっきりしてて……うふふぅー」

 意味深に舐めるような目で見られて、朱里が薄気味悪げに自分の手を引っ込める。

「……お願いですから、切り取ったりしないで下さいよ」


「僕の手なんか元から眼中にナイんですねぇ、ビビアンさん」

 仲間はずれにされたミシガン刑事が恨めしそうにそう言った。


「ビビアンちゃんの指もキレイだよ。それネイルアートっていうんでしょ?」

 白野が言う。ビビアンの指先には小さなお花模様が咲いている。

「もっと近くで見ても良い?」

「もっちろん」

 『絵』と名の付くものならば何にでも興味のあるらしい白野が、差し出されたビビアンの指先を手にとって眺める。ピンクに塗られた爪の色を下地に、白や濃いピンクの花びらが放射線状に描かれている。細い筆使いで丹念に。

「上手だね。これって、ビビアンちゃんが自分でやったの?」

「そうよぉ。女のオシャレは指先からですものね。今度、白野ちゃんにもやったげましょうか?」

「うん」

 コクンと頷く。

 それに、「おいおい」 とダグラスが言った。

「坊やがそんなオシャレしてどーすんだ。どうせなら小鳥にやってやれよ。……ん? そういや小鳥が居ないな。どこ行ってんだ?」

 訊きながら「うー」と呻る。執事、しゃべってたら喉が渇いた。水くれ、水。


「……あらやだ。今頃小鳥ちゃんのコト気にし始めたわよ。この薄情男」

「あ? 誰が薄情だって? 何の話だぁ?」

 ビビアンの険のある口調に、ダグラスが怪訝な顔をした。

 朱里が冷蔵庫から飲料水の瓶を持って戻ってきた。ダグラスに渡す。ゴクゴクと喉を鳴らしている男を斜に眺めつつ言ってやった。

「刑事の浮気の話です。小鳥さんにバレたんですよ」


 ブッホー!!! っと水を吹き出すかと思ったが、既に飲み干した後だった。有能な執事はその辺のタイミングもきちんと踏まえていたらしい。

「オ、俺の浮気だぁ~? そりゃ一体なんの冗談だ~~~!!!」


「ダグラス刑事のおめかし」

 白野が言った。

「別の女とホテルで密会」

 ビビアンが言った。

「すみません、先輩。僕が口を滑らせました」

 ミシガンが両手を合わせて謝った。

「ちなみに。小鳥さんは現在、悲嘆にくれつつ出奔中です」

 何でしたら、気付けにもう一杯水をお持ちしましょうか? と、朱里が言った。


■■7


 さて、一方。悲嘆にくれつつ出奔した小鳥はというと。

 例によって例の如く、直情思考の自分に対して自己嫌悪に陥っていた。


「飛び出すんなら飛び出すで、せめて上着とお財布くらい用意してから飛び出すべきよねぇ、わたしってば」

 なんで、後先顧みず、ひた走っちゃうのかしら? 我がことながら大いに疑問だ。

 腹が立って、そのままダダーッと突っ走って、気が付いたら寒空の下、ポツネンと立っていた。でも、飛び出した手前、すぐに屋敷に戻る事も出来ない。一件の喫茶店が目に留まった。エプロンのポケットの中を探る。なんとかコーヒー一杯分くらいの金額はある。小鳥はエプロンを外して喫茶店に入った。



 運ばれて来たコーヒーカップに砂糖とクリームを入れる。スプーンでクルクルかき混ぜたら、茶色い液体の中でクリームが渦巻き模様を描いた。

「……」

 まるで、わたしの心の中みたいだなぁと思う。胸の奥にぐるぐる回る混沌がある。いろんな感情が入り交じっている。ムカつくとか、くやしいとか、かなしいとか、バカみたいとか、どうしたらいいのか分かんないとか。


 ダグラス刑事のことが特別キライというわけではない。

 ダグラス刑事のことが特別好きだというわけでもない。

 そう思っていた。ついさっきまで。

「……でも、じゃあどうしてわたしったら、さっきあんなに悲しかったのかなぁ?」


 以前、白野様がお仕事で女の人のヌードを描いた時(※作者注:第8話「裸婦スケッチ」)。あのモヤモヤっとしたイヤ~な感じに似てると思う。ちょっと違うかなと思う。


「ダグラス刑事、女の人とホテルにいたんだって……」

 小さく口に出して呟いてみたら、胸の奥の方がツキンと痛んだ。

「それがどうしたのよ。どうでもイイもん!」

 そう言ってみたら、もっともっと悲しくなった。

 誰かに慰めて欲しかった。慰めてくれそうな人を考えてみた。そうしたら、ダグラス刑事の顔が浮かんだ。

「バカぁ、アンタが出て来てどうすんのよぉー」

 文句を垂れる。

 わたしはどうしたらイイのよぉー。


 たったコーヒー一杯で、そうそう喫茶店に居座るワケにも行かない。それに経験上、家を出ている時間が長くなればなるほど帰りにくくなることも知っている。

「……」

 小鳥は屋敷への家路を辿る。だって、帰る場所はそこしかないし、そこ以外に行きたくもない。

 門の見える場所まで来ると、誰か見知らぬ女の人が門の前をウロウロしていた。【幸福画廊】のお客様かな? と思う。今日の予約はなかったはずだが、もちろん飛び込みの人もいる。


「あの、何かご用ですか?」

 小鳥の掛けた声に振り返った顔は、勝ち気そうな吊り目がちの美人だ。

「こちらに、ダグラスって刑事さんいるかしら?」

 州警に行ったら、こちらの住所を教えられたんだけど、随分大きなお屋敷だから聞き間違えたかなーって思って。

「はい、いますけど……」

 ちょっと警戒する。えっと、もしかしたらこの女性って……。


「あー! もしかして貴女が小鳥さん?」

 そーでしょ。絶対そうよね。やっだー、ダグラスの言ってたまんまな娘ー!!!

 バンバンバンと肩を叩かれる。痛い。ちょっと何なの、この人?


「あ、ゴメンね。いつもあいつの話に出てくるから、初めてあった気がしなくって。私アネットっていうの。ダグラスとは孤児院仲間で腐れ縁なのよ。ヨロシクね」

「は、はい。小鳥といいます。こちらこそよろしく」

 つい、相手のペースに巻き込まれてしまう。

「約束したチケットを届けに来たんだけどね、州警に行ったら、あいつインフルエンザでぶっ倒れて早退したって言うじゃない。しょうがないから、こっちに回ったんだけど……わーい、小鳥さんの本物が見れて嬉しい」

「あ、はい。わたしもお会い出来て嬉しいです」

 ……って、嬉しいのか? わたし??? 小鳥は自問自答する。


 アネットは、かなりマイペースな女性のようだ。戸惑っている小鳥を置き去りに、どんどん話を進めていく。

「この間は悪かったわ。折角のお休みなのにダグラスのこと借りちゃって。でも、お陰様で助かりました。なんとかメンツが保てました。小鳥さん、どうも有り難う」

 深々と頭を下げられる。

「え、えぇっと?」

 全然話が見えて来ない。困ってしまう。

「あ、コレねチケット。どうぞお二人で楽しんできて」

 ハンドバックから取り出された封筒が小鳥の手にホイッと渡される。

「……えっと、コレなんですか?」

 訊いてみる。

「え? だからチケットよ」

「いえ、だから、何の?」

「ちょっと待って。貴女が行きたいって言ったんじゃないの? J××のライブ。ダグラスが何とかならないかって言うから、私……」

「あ!」


 思いだした。小鳥はそのライブコンサートに行きたくて。でも、チケットの予約ががどうしても取れなくて。悔しくって自室の中でクッション投げて暴れたのだ。

 でも、それ、随分前のことなのに。

「あんなヘタクソバンドが観たいのかー?」 って、刑事ってば、憎たらしいこと言ってたのに。

 それなのに……ずっと覚えていてくれたんだ。チケット探してくれたんだ。


「あの……もしかしたら、ゼンゼン訊いてないの? ダグラスから」

 アネットが小鳥の顔を覗き込んでくる。結構背の高い人だ。

「はい」

「じゃあ、もしかして、取引のこともゼンゼン?」

「取引?」

 小鳥が、思わず聞き返した。


「……それで、その幼なじみの女性の頼みで、臨時の婚約者役を引き受けたって言うんですか?」

「ま、まあそうだ」

 ダグラスがぎこちなく頷く。ソファーの上で居心地悪げに尻をもぞもぞさせた。朱里、白野、ビビアン、ミシガンの計八つの目がそんな男に注がれている。


 ダグラスは、小鳥が行きたがっていたライブチケットを都合して貰おうと女友達に頼みに行った。そうしたら、逆にお願いされてしまったのだそうだ。

「頼むから、自分の恋人として、友人達と会ってくれ」 と。


 何でも、学生時代から宿命のライバルだった娘が、結婚することになったのだという。その娘は長らく音信不通だったクセして、急に電話を掛けてきて、「独身時代最後の思い出に、ぜひ貴女と会いたいわ~」などと猫撫で声で言ったのだという。


「ムッカつくと思わない? 私が親のコネで就職先決めたあの子よりちょっとイイ会社に就職したらさ、ペッとつむじ曲げて、ウンともスンとも連絡も寄越さなくなったクセに、結婚が決まった途端にコレよ!」

 そんなにオトコ捕まえたのが誇らしいんか~!?

 永久就職がエライんか~!?

 『Sホテルのレストランで会いましょうよ。あそこお食事が美味しいから。あ、でもSホテルってエスコートの男性同伴でないといけないんだったわ。どーしましょー』

 なんて抜かしたのよ、あのクソ女~~~!!!


 説明するうちに怒りが再燃してしまったのか、興奮したアネットがダグラスの首を絞めてくる。

「ぐ、ぐえ……。は、放せ、アネット」

「あ、ゴメン。ねぇ、ムカつくでしょ? ぶっ殺すとか思うでしょ? 私にオトコが居ないと思ってバカにしてんのよ。根性歪んでると思わない?」

 だから、言ってやったのだそうだ。

 『あーら、ご心配なく。私もフィアンセを連れて行きますから。ホホホ……』



「……その女性はバカですか?」

 朱里が辛辣な感想を述べる。

「そんな狂言芝居に応じる、刑事も刑事です」

「だ、だってよ、一生の頼みだって言うし、そうしたらライブチケット取ってやるって言うから」

「そんなメンドウをしなくてもセント伯爵に頼めば、何とかなったんじゃないんですか?」

 セント老人は、大して色々な方面に顔が利く。そのコネを使う方がマシだろう。

「いやだ、爺いは俺をからかうに決まってる。第一、切符三枚取って、くっついて来たらどうすんだ?」

 保護者どころか出歯亀同伴デートになってしまうじゃないか。

「……まぁ、その可能性は否定しませんが」

 好々爺然としたセント老人の顔を思い浮かべつつ、朱里が言う。

「それに、さ」

 ダグラスがちょっと顔を曇らせた。

「アネットは前に結婚が破談になってんだよ。相手側の親族から猛反対されたんだ。……孤児院育ちだってことで」

 そんなことに意地はってどうする? とは思うけどさ、やっぱりどうしても譲れないプライドってのは誰にだってあるじゃないか。他人から見たら、バカみたいな愚かなことでも、どうしてもこれだけは守りたいって一線がさ。人間ってそんなもんだろ?

「……」

 朱里が何か言いかけて、そして黙った。



 あれ? という顔で、白野が代わって口を開く。

「でもさ、じゃあ、どうして刑事はあの日、あんなにコソコソしてたの?」

 そうだった。最初から、ちゃんと説明してくれていれば、小鳥だって出奔せずにすんだのだ。


「だってよぉ、あんな服装、恥ずいじゃねぇか。誰にも見られたくなかったんだよ」

「え? きちんとスーツ着て、ネクタイ締めて、髪に櫛を入れて、髭を剃ってた……だけだったよね?」

 白野が、あの日のダグラスを思い浮かべながら、指折り数えて確認する。

「あんな七五三みたいな格好、俺じゃない!」

 俺の美意識が許さねぇ。


 お前のそのプライドは間違ってるっっ!

 その場の全員がそう思った。


 玄関の方で音がした。

「あ、小鳥ちゃんが帰って来た」

 自発的に帰ってきたとはいえ、何せ小鳥のことだから、玄関から自室に直行し、そのまま籠城の構えかと思いきや、予想に反して自ら居間までやって来た。

 そして、ダグラスの顔をじっと見つめる。上目遣いで、いとも恨めしげな目に見える。


「こ、こ、こここここ小鳥、あのだな……」

 ダグラスがハゲシク狼狽する。一体ナニを何処から話せば誤解が解けるのだろう? 誰か俺を助けてくれ!


 口を開いたのは小鳥だった。

「今、そこでアネットさんに会ったの。話聞いた」

「……あ?」

「それで、チケットも受け取ったから」

 あ、アネットさんは時間がないからって帰っちゃった。今度また遊びに来て下さいって言っといた。

 そんな事を口早に説明しながら、小鳥がチケットの入った封筒をダグラスに手渡す。ダグラスは予想外の急展開に思考が追いついていないらしく、呆けた顔でそのまま封筒を受け取った。

 ああ、チケットが突き返された。ダグラスのデート作戦は不発のまま終わるのか!?


「あのね」

 小鳥が、ほんのちょっと息を詰めた。ひとことひとこと、ゆっくりと言う。

「じ、事件が解決したら、ちゃんとダグラス刑事の手から渡して欲しいの」

「小鳥……」

 ねぇ、どうか。悪ふざけとかしないで。照れないで。きちんとデートを申し込んで。そうしたら……わたしもきちんと考えるから。きっと、ちゃんと考えるから。

 ダグラスが、ブンブンと首を大きく縦に振って答える。

「わ、分かった。……任せろ、うん」



 沈黙が流れた。

 突然、ビビアンが拍手を鳴らす。

「よ、良かったわ。良かったわ。ダグラスちゃんの春だわ」

 ビビアンの目尻には感動の涙が光っている。その場の雰囲気に流されやすいタイプらしい。

 その逆に、滅多なことに動じるタイプではない朱里が、場をまとめてこう言った。

「では、まずは風邪を治すのが先決ですね。さっさとベットに直行なさい」

 事件解決どころか、ライブにも行けなくなりますよ。


 その可能性に思い至って、ダグラスが慌てて立ち上がった。


「結局、市長事件の推理ゴッコは尻切れトンボになっちゃったわね。まぁ、楽しかったからイイけど」

 ダグラスちゃんのシアワセな顔も見れたしね。ウッフッフ、とビビアンが笑う。

 ミシガン刑事とビビアンは、帰り支度をして玄関口にいる。


「ダグラス先輩の言っていた愛情説もお流れになりましたしね。……本当に、指が切られた理由って何なんでしょうか?」

「それを捜査するのが、州警さんのお役目でしょ?」

 自分よりも頭二つ分小さい小柄なミシガンの鼻の頭を、ビビアンのピンク色の爪先がピンと弾いた。

「ガンバってねン」


 見送りに出ていた朱里が、そのビビアンの指先を見る。ちょっと考えるそぶりをした。

「お手数ですが、ミシガン刑事」

 外に出ようとした青年を呼び止める。

「アパートメントで心臓の薬瓶以外に割れて使い物にならなかった化粧品のリストを見せて下さい。それと……被害者の体毛についての情報が欲しいのですが」

「え、体毛ですか?」

「はい。解剖調書には記載されているはずですが、出来れば後でご連絡を頂けますか?」

 それに、ミシガンがにっこり笑う。

「いえ。ダグラス先輩にもさっき、同じ事を訊かれたんで。そこの電話をお借りして署の方に問い合わせましたから、すぐお答え出来ますよ。……えーっと」

 胸ポケットから取り出したメモ帳を、ミシガンが捲り始める。それを、朱里が止めた。

「ああ、いえ。ダグラス刑事が既にご存知なら、私が敢えて知る必要はないんです。多分、脱毛されていたんでしょう」

「その通りですけど。それで何か分かるんですか?」

 胸毛とか腹毛のもじゃもじゃしてるのって、女性のウケが悪いですもんね。やっぱり、謎の女も、そういうのが嫌いな女性だったんでしょうか? それって、もしかして事件の重大なヒントですか? 女の正体を突き止める……。

「そう……多分」

 朱里は曖昧に笑った。そうして、二人を送り出す。


 夜半。

 働き者の執事が、ダグラスの部屋の戸をノックした。

「失礼。氷枕とパジャマの交換に来ました」

「おう、悪いな」

「いえ、以前お世話になりましたからね」

 自分が風邪を拗らせた時の事を思い起こしつつ、そう返す。この刑事には色々と世話を掛けている。こっちも存分に掛けられているが。


 寝汗を吸ったパジャマを着替えるのに手を貸しながら、朱里が言う。

「やっぱり、愛なんでしょうね」

「……あ?」

「市長の指が切り落とされた理由です」

「ああ、それな」

 こんな夜中に、クソ真面目なツラして突然「愛」とか語るなよ。こっちは半裸だっつーのに、何事かと思ったぜ。「貞操の危機」って言葉が脳裏を横切ったじゃないか。ああ、コワかった、と冷や汗を拭う真似をする。

「そういう冗談は、刑事の顔だけにしておきませんか」

「顔だけどころか、全身全霊を掛けて俺は嫌だぞ。……お前、昼間は愛情説を否定しとったじゃないか」

 坊やの説に一票投じたんじゃなかったのか。

「ええ。まぁそうなんですが、他に理由がないですから」


 サイドテーブルに置かれていた体温計を取り上げる。

「この事件は奇妙すぎる。奇抜で不可思議で謎だらけです。あさはかで、滑稽で、単純で。それでいて複雑。しかも何処かもの哀しい」

 水銀柱を振って下げて、着替えを終えたダグラスに渡した。

「よく似ているものが、この世の中にたった一つだけあります。『愛』ですよ」

「お前が言うとキザだなー、歯が浮きそうだぜ」

 朱里が苦笑いを浮かべた。

「私もちょっと気恥ずかしいんですがね。……でも、そうとしか考えられない」


 体温計を口に銜えたモゴモゴ声が応じる。

「ま、愛にもいろいろあるからなぁ」

「そうですね」

 二人して沈黙すると、置き時計のコチコチ時を刻む音が妙に大きく聞こえた。ああ、夜なんだなぁとダグラスは思う。捜査に追われて州警でザコ寝まがいに仮眠を取る、そんな夜とは大違いだ。夜は静かな方が良い。


 全く、嫌な事件だった。

 さっさとケリをつけねぇとな。


■■8


 暗闇。

 コツコツ……と、低い靴音が響く。

 扉が開いて、廊下から流れた細い光の筋が床を這った。そっと人影が部屋の中に入り込む。


 その人影が前を見据えた。

 室内には既に祭壇が整えられ、その中央の棺にはジェファーソン市長の亡骸が防腐目的のドライアイスと共に納められている。

 今日の午後、やっと州警察から遺族の元に返されてきた遺体は、明日の告別式の後、速やかに荼毘に付される予定である。

 人影が動いた。

 自分の足音に気遣いつつも、足早に祭壇の傍に駆け寄り、そして棺の蓋を持ち上げた。蓋を脇に置くと、上着のポケットの中から何か小さな袋を取り出した。そのまましばらく瞑目する。やがて、その袋を棺の中にそっと納めた。


「……やっぱり、アンタだったんだな」

 低く、声が響いた。ビクリと人影が立ちすくむ。柱の影から現れたダグラスの姿を認めると、慌てて一度は納めたはずの袋を取り出した。それを後ろ手に隠す。

「アンタだろうとは思ったが、正直、確信はなかったよ。……だが、指を持ち去った人間は、今夜必ずここに来ると思ってた」

 愛情から切り取った指ならば、その愛故に、必ず返しに来るだろうと。市長の哀れな亡骸を、不完全なまま荼毘に付させたりはしないだろうと。


 ダグラスが歩み寄る。人影が踵を返して逃げようとした。ダグラスが声を荒げる。

「折角返しに来た指を、あんたはまた持ち去るのか? ちゃんと親父さんに返してやれ! 例え、赤い指先でも!」

 人影――ギルバート・ジェファーソン――が、ダグラスの言葉に腰を砕かれたかのように、ヘタヘタとその場に座り込んだ。袋を握りしめたまま、嗚咽を漏らし始める。

 ダグラスは腰を屈めて、ギルバートの手からその袋を取り上げた。多分、ネックレスか、そんな貴金属類を納める為のものだろう、紫色のビロードの袋。綺麗な飾り紐で絞られたそれを開ける。中を見た。


 ゴロリと出てきた物は、指だ。第一関節から切り取られた十本の指。その爪には全て、真っ赤なマニキュアが塗られている事を確認する。この為に指は落とされたのだ。

「市長には、大きな秘密があったんだな。人に決して知られたくない趣味――『女装癖』が」


「……そうです」

 観念したように、ギルバート・ジェファーソンが語り始める。


「時々、父の身体から脂粉の香りがすることに気づいたのは、ほんの半年ほど前です」

 ギルバートは、最初、父親に誰か愛人が出来たのだと思った。

 女が居るのは構わない。既に母が死んで三年も経つ。自分はもう子どもではないし、父親のこれからの政治家としての人生を思えば、然るべき女性との再婚も当然考えるべきだった。父の激務を影から支えてくれる伴侶の存在が必要だ。何かの折りに付け、父の側近達がそれとなく再婚を父に促していたのも知っている。

 父・ウィリアム・ジェファーソンは、息子の目から見ても、最近は少しばかり神経が参っているように見えていた。きっと働き過ぎなのだ。理想が高くありすぎるのだ。再婚し、心の安寧を求めるのは良いことだ。


 でも、母親の形見の宝石箱から幾つかの宝石がなくなっている事に気が付いて、腹が立った。母が大切にしていたものだ。やはり、他の女性に身につけて欲しくはなかった。それで、父親の後を付けてみた。父親に女性の存在を尋ねても、そんな人は居ないとはぐらかされるばかりだったから。せめて、愛人がどんな女性なのかを知りたかった。息子として。


 あの日。

 父親は真っ暗なアパートメントの一室に消えた。入ってすぐに明かりが点いた。女は部屋の中に居ないようだった。女が来るのを待とうと思い、しばらく通りの影から父親の居る部屋の窓を伺いながら時間を潰した。……寒かった。手袋をしてきて良かったと思った。上着の襟を立てて風よけにした。

 でも、幾ら待っても女は来ない。このまま帰るのも今さらで、意を決して階段を登り、アパートメントの扉を叩いた。

 出てきたのが留守だとばかり思っていた女で、驚いた。次の瞬間、血が凍った。ブロンドの髪をし、長いつけまつげを付け、真っ赤なルージュを口唇に厚く引いたその女が、自分の尊敬して止まない父親の顔をしていたからだ。



「ギルバート……」

「……と、父さん?」

 レースの幾重にも入ったドレス。巻き毛のカツラ。網タイツ。

 思わず、と言った風情で、口元に宛てられた父親の指先には真っ赤なマニキュアが塗られていた。

 カッとなった。頭の随まで血が上った。父親を押しのけるようにして室内に入る。壁際のドレッサーには、かつて死んだ母が揃えていたよりもずっと沢山の数の化粧瓶。

「父さん、あんた何やってんだよ。何やってんだよ! 気でも違ったのかよ!」

 力任せに、ドレッサーの上の化粧瓶達を払い倒した。

 ガシャガシャガシャーンとガラスが割れる。ぷーんと香料のキツイ匂いが辺り一面に充満する。

「待ってくれ、止めてくれ、ギルバート。仕方がないんだ。わたしはこういう人間なんだ」

 こうして、自分でない者になっていると、安らぐんだよ。幸せなんだよ。落ち着くんだよ。


「みっともないんだよ! なんて格好だよ! 何か言えよ、弁解しろよ!」

「許してくれ。分かってくれ。わたしがわたしである為に、これはどうしても必要な儀式なんだよ」

 女の格好をした父親に掴みかかる。ガクガクと肩を揺すってやった。ぶん殴ってやろうかと思った。どうしていいか分からなかった。多分自分は泣いていた。


 その時。突然、父親が胸を掻きむしって倒れたのだ。

 持病の心臓発作を起こしたのだった。


「と、父さん、父さん!」

 床に這いつくばって苦しむ女装姿の父親に縋り付く。

「薬、薬はどこだよ? 飲まなきゃ……」

 父親が苦しい息の下から、指を指し示した。ドレッサー。たったさっき、瓶をなぎ払った場所。床の上に散乱した色とりどりの瓶の中に、ギルバートの知っている薬瓶が割れていた。……何て事だ。


「そ、そうだ。救急車!」

 薬はとても使えない。すぐに医者を呼ばなければ。

 ギルバートは室内の電話機に飛びついた。受話器を取って、番号をプッシュする。

「や、止めろ。ギルバート」

 医者を呼ぶな。……呼ばないでくれ。こんな姿のまま、わたしをさらし者にしないでくれ。

「……頼む」

 真っ青な顔の父親が、そう言った。血走った目で。紅く塗られた口唇で。



「ぼ、僕は、電話を止めて、父の服を脱がせにかかりました。そうです。父の言う通りです。女の格好をした父を誰にだって見せるわけにはいきません。父の名誉が、これまでの父の努力が、全て地に落ちてしまう」

 カツラを外し、服を引き破るように剥がし――その下から現れたレースの下着姿にぶわっと涙が溢れ出した。

 醜いよ、父さん。醜悪だ。

「ギルバート、許してくれ……」

父もまた泣いていた。  ああ、父さんは狂っているんだ。

 そうして、自分も狂った。狂気のように父親の身体から、醜悪な全てを引きはがす。ハイヒールも、ストッキングも、イヤリングも。

 父親の顔に塗られた化粧もゴシゴシ擦って落とした。途中で気が付いて、クレンジングクリームを使った。容器がプラスチックだったのでこれは割れずに残っていた。


 ゼイゼイ息を切らせながら、父親を見た。もう、大丈夫だった。父は男の姿に戻った。ああ、これでやっと医者を呼べる。安堵と共にギルバートは、ある事実に気が付いた。


 父が、息をしていない……。


 何処か街の教会から、時を知らせる鐘の音が鳴っているのが聞こえた。

 この部屋のドアを叩いてから、随分時間が経っていた。何時の間にそんなに時が流れたんだ? 素っ裸で床に転がっている父親の身体が青白く、既に冷たい。


 呆然とした。

「父さん?」 と呼んでみた。

 肩を揺さぶってみた。動かない。

 電話機に飛びついた。救急ダイヤルを回すギルバートの指が、再び凍り付いたように止まってしまう。

 父の指。もう全てを剥がし終えたと安心していた父の十本の指の先に、まだ女の刻印が残っている。


 除光液の瓶は、心臓の薬と同様、割れてしまって粉々だった。

 ギルバートは虚ろな目で、室内を見回す。父を救わなければならなかった。狂気から。このままでは必ず訪れるだろう最悪な未来、世間の与えるであろう恥辱から。キッチンのナイフが目に入った。

 ……ああ、そうだ。どうあっても、この赤い印だけは父から取り去らなくてはならない。こんなものが父に付いているなんて耐えられない。


 ゴリッと空虚な音を立てて、指が落ちた。

 全ての指を落とし、女装が露見しそうなブロンドのカツラと一緒に抱えて、ギルバートはアパートメントを逃げ出した。運が良かった。誰にも見咎められる事もなく、アパートメントを抜け出すことが出来たのだから。本当に運が良い。きっと、神様が父のこれまでの功績を讃えて、父の名誉を守って下さったんだと思う。

 そうだ。僕は父さんの名誉を守り抜いた。それ以外、僕に出来ることがあっただろうか? 本当はもっと最善の策があったのかもしれないけれど……でも、そんな事、今となってはもう分からない。



「そうだよ。僕は父さんの秘密だけは、どんなことをしても、絶対に守ってやりたかったんだ。でないと、でなければ。……父さんは何のために死んだのか、分からないじゃないか!」

 床の上に這いつくばったギルバートが、そう叫んで号泣する。


 ダグラスはそんなギルバートを哀れむように見、そして赤い爪先の入った布袋の口紐をキュッと絞った。元通りきちんと結わえ直す。

 愛故に、この指先は切り取られた。プライドとコンプレックスの狭間で一人の哀れな男が死んだ。

 例え、それが歪んだ愛でも。アブ・ノーマルでも。どんなに愚かしいプライドであっても。

 どうしても守り抜きたい一線。そんなものがきっと、人それぞれの胸にある。誰に理解して貰えなくても、誰の胸にだってある。そんな不確かなものに縋りつつ、人は生きていくんだろう。


 ダグラスは床に片膝を着くとギルバートの手の平を上に向ける。その上にビロード袋を載せてやった。

「これはあんたの親父さんのものだ。親父さんに、返してやれ」

 ギルバートが涙に濡れた目で、ダグラスを見上げた。


「やっぱり、お一人でしたか」

 暗に、「やはり逮捕しなかったんですね」 と言っている。建物の外で待っていた朱里が、出てきたダグラスの姿を認めて笑みを浮かべた。



 自分の推理が正しいかどうかを確かめるため、市長の遺体が返された今夜、ダグラスはどうしても市長の遺体の傍に居る必要があった。一日じっくり休んだので、体調の方は上々だ。

 州警との連絡は取ることなしに、単独で行動しようとしていたダグラスが、こっそりと館を出て、車の所まで行くと、そこには既に怖ろしく勘の良い執事が先回りして待っていた。

「まだ本調子じゃないでしょう。車の運転は無理ですよ」

 あーあ、と降参のポーズを取りつつ、助手席に回る。一人で行くつもりだったが、仕方がない。

「お前も、どっかの誰かさんと同じで千里眼だろ? もしかして」

「まさか。凡庸な男ですよ、私など」

 そんな、たわいない会話でここまで来て――そして、ようやく真実に至った。



 来た時と同じ人数のまま、帰路につく。ハンドルを握る朱里が言う。

「アパートメントから、謎の女・マーガレット・コンスタンスの指紋が出なかったのも当然ですね。初めからそんな女性は存在していなかったのですから」

「存在してたさ。……あの赤く塗られた指がそうだ」

 あの十枚の爪先は、とても哀しい女の具現だ。

「マザーグースの詩のままに、『だらしのない男』が居ただけ、とも思えますがね」

「お前、そりゃホトケさんに酷すぎねぇか?」

「そうでしょうか。折角突き止めた真相を、自ら隠蔽してどうします? 貴方は警察官でしょう?」

 そう来ると思ったぜ、とダグラスが苦笑う。


「あの息子に親父さんの指を返す気がないようなら、とっ捕まえる気でいたんだが、な」

「嘘を仰い。あの十本の指だけが唯一の物的証拠だったんですよ? 指が返却されないならば、そもそも立件の仕様がない。……息子の犯行とその動機に気づいた時から、世間に真相を明かす気など、貴方には全くなかった筈です」

 朱里が手厳しくやりこめる。

「適切に医者を呼ばず、みすみす父親を死に至らしめた罪。死体を損壊した罪。放置した罪。……未成年ですし、情状酌量の余地もありますが、やはり、彼は逮捕されるべきなのでは?」


 赤信号で車を停めた。前を次々と横切っていく車のヘッドライトが帯を引く。

「それに」

 朱里は更に言葉を繋ぐ。

「ギルバートは父親の恥ではなく、自分に降りかかる恥をこそ隠したかっただけかも知れない」

 ダグラスが、眠たげに目を擦る。助手席のシートで伸びをした。

「……じゃあ、お前なら自分の恥を隠すためだけに、肉親の指を切り取れるか? せいぜいマスコミだの周りが騒ぐのは数ヶ月。人が覚えているのも数年だ」

 一本一本、ブツリブツリと切り落とすんだぜ? それを十回繰り返すんだぜ? そう生半可な覚悟で出来る事じゃねぇよ。


 青信号に変わった。車がまた走り出す。

「あの息子は、唯一の物的証拠である指を父親に返した。自分の罪が暴かれる危険も顧みず。……それで充分じゃねぇか。俺はそれで満足だ」

 ニカリ、と笑ったダグラスの心に迷いはないようだ。こういう男だから、万年ヒラ刑事の呼び名に甘んじるハメになる。それで損をする場面も多々あるだろうに、全く……。

「仕方ない。刑事らしい結末ですかね」

 朱里が肩を竦めて妥協した。


 夜が明ければ、市長の葬儀がしめやかに執り行われ、そして遺体は荼毘に付される。この事件の真相と共に。真っ赤に塗られた指先と共に。市長の名誉は保たれる。――謎の女・マーガレット・コンスタンスが何者なのかが世に知らされることは、決してあるまい。


■■エピローグ


 うおっほん。

 ダグラスが一つ咳払いした。


 礼儀正しく、紳士の如く、小鳥に向かってライブチケットを恭しく差し出す。

「いろいろあって、渡すのが遅くなったが、明日一緒に観に行こう」

 小鳥が頬を染めながら、チケットを受け取る。封筒を開けて中を改めた。二枚のチケットだ。観たかったJ××のライブチケット。嬉しい。

「ありがとう。ダグラス刑事」

 このチケットを持って、明日は刑事とデートに行く。

 ナニを着ていこう? 花柄のワンピースかな? それとも、チェック地のアンサンブルが良いかしら? それとも? それとも……? ああ、バックはどれを持っていこう。


 チケットに印字された数字が目に入った。あれ? と思う。もう一度目を凝らしてよーく見る。

「……」

 上気していた気持ちが一転。急速に下降していくのが分かった。

 小鳥の微妙な変化を察したらしいダグラスが不審げに訊いた。

「どうかしたか?」

「ねぇ、刑事」

「あ?」

「……このチケットの日付、今日なんだけど」

「あぁ?」

 ちなみに、正確には『今日だった』だ。何しろ既に夜である。


 隠れるつもりもないらしく、柱の影からかなり堂々と出歯亀していた主従二人に、ダグラスが慌てふためいて確認する。

「お、おい! 今日は土曜だよな?」

「ううん、今日は日曜日だよ」

 白野がのほほんと答えた。どうやら、ダグラスは事件の忙しさにかまけて、曜日を失念していたらしい。

「……何とも刑事らしいオチをカマしてくれますねぇ」

 本当に、周囲の期待を裏切らない人だ。

 朱里が、そうとどめを刺した。どういう期待をしていたと言うんだ? それを問いただす気力など今のダグラスにはあるわけがない。

 そして。重い沈黙がおちる。


 小鳥が不意に片手を挙げて宣言した。

「わたし、寝ます!」

 ダグラスの手に無用の長物と化したチケットを押しつけると、そのままスタスタと階段を上がって去っていく。もう、ダグラスを振り返ろうともしない。引き止めようにも何も言葉が見つからない。

「えーっと、僕も寝ちゃおっと」

 白野も階段を上がっていく。

 そして、取り残されたダグラスは石像のように固まったまま動かない。


「ちょっと、刑事? ……ダグラス刑事?」

 何時まで経っても彫像の如く、ただ立ちつくしたままの男の顔の前で、手をヒラヒラさせてみる。ダメだ。完璧に意識が飛んでいる。朱里が固まったままの男の背中を一発叩いて活を入れた。


「だらしないですよ。しゃきっとなさい!」

またこれも、ダグラス刑事らしい結末である。

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