第48話  第六巻 決意の徒 共謀

 早朝、森岡洋介は子院の本堂で瞑想をしていた。彼は出生の秘密を知った翌日から手紙に同封されていた写真を、組んだ両手の中に入れて瞑想に挑んでいた。

 森岡にはある期待があった。

 瞑想は、天真宗においても修行法の一つなので、神村の所作を垣間見ていた森岡も修行方法自体は知っていた。しかし、何せ見様見真似の付け焼刃である。そうそう簡単に無我の境地に入れるはずもなく、三回目のこの日も諦め掛けていた。

 その矢先のことだった。

 森岡の背に、

「洋介」

 と女性の声が掛かった。

 振り返ると、小柄な女性が微笑んでいた。

「お母さん」

 森岡は思わず呟いた。

 実に若々しい姿だった。

 森岡を三度まで救った生霊に比べれば年を重ねた面相だが、還暦間近とは到底思えない、三十歳代の若々しさといっても過言ではない。

「どうして、お母さんがここに……」

 栄観尼はふっと笑みを零す。

「当院の御住職様が連絡を下さいました」

「そうでしたか」

「私が母だと知りましたか」

「こちらに参りまして、ようやく」

「真実を知っても私を母だと言ってくれるのですか」

「もちろんです。私が貴女から生まれたのは変えようもない事実です」

「ですが、生まれてすぐに貴方を捨てました」

「そのような些末なこと、今となってはどうでもよいことです」

 森岡の顔には優しい笑みを浮かんでいる。

 栄観尼が森岡に近付いて傍らに座った。

 すかさず森岡が母の手を取った。

「何もかも知りました。お母さんこそ辛かったのではないですか」

「それが私の宿命ですからね」

 森岡の労りの言葉に、母は悟りの表情で答えた。

「それより、自分を助けてくれた生霊が母だと知って私を待っていたのですか」

「他に頼る術がないものですから」

 正直に苦悩を漏らした森岡は、生母とはいえ、初対面でこうまで素直になれる自分自身に驚いていた。

「ずいぶんと悩んでいるようですね」

「唯一無二の師を失いました」

「知っていますよ。神村上人ですね」

「はい」

 森岡には、なぜ知っているのかというような疑問すら浮かんでこない。

「まだ、お若いのに痛ましいことですが……」

 と哀悼の念を示した後、がらりと口調が変わった。

「貴方、神村上人から何を学んできたのかしら」

「え?」

「貴方の無様な様子が、偉大な神村上人の名を貶めているということに気づかないの」

 神村ほどの高僧から薫陶を受けた者にしては情けない姿だと叱責した。

 だが、森岡には反論する気力さえない。

「しかし、生きる目的を見失ってしまいました」

「そうですか」

 嘆息した栄観尼の形相が変わった。

「しっかりしなさい!」

 と一喝した。

「神村上人の無念を晴らすことなく、尻尾を巻いて逃げる気なのですか」

――無念? 無縁ではなかったのか……。

 森岡は、最後の面談の際、神村が去り際に言おうとしてた言葉ではないかと思い当った。

「いま無念とおっしゃいましたか」

「上人は、天寿を全うされたとお思いですか」

「な、なんですと! それはどういう意味ですか」

「ご自分で篤とお考えなさい」

――先生は誰かに殺されたのか?

 森岡の胸中を思わぬ疑念が席巻する。

「まさか瑞真寺が手を下したと」

「何もわかっていませんね」

 栄観尼は呆れ顔になった。

「いやしくも、瑞真寺は天真宗宗祖家所縁の寺院です。当代はいろいろ問題のある人物ですが、人殺しまでは致しませんよ」

「たしかに、失言でした」

 森岡は生母に同調した。彼自身も心の奥底では、栄覚門主の宗門に対する良心を信じていた。

「では、いったい誰が」

「門主への助力を隠れ蓑にして神村上人の命を縮めた奸物がいます」

「それは誰ですか」

 森岡は重ねて訊いたが、

「それが貴方の神村上人への供養です」

 と、栄観尼は首を横に振った。

――供養? 私にその奸物を見つけ出し、鉄槌を加えよということか……。

 森岡は、身体中の血液が滾るのを感じていた。皮肉なことに、向後の生きる目的ができたと思った。

「それより、新しい命が芽吹いていますよ」

「それはいったい何のこと……」

 そう訊ねようして、森岡は、はたと気づいた。

――新しい命……。まさか茜が妊娠?

「……」

 栄観尼は黙って微笑んだ。 

 喜色を隠しきれない森岡は、その後三十分ほど実母と話を弾ませ、再会を約束した後、住職に辞去の挨拶をして飛ぶように大阪へと帰った。

 

 森岡が岡山の最上稲荷から大阪に戻った直後だった。

 静岡の天真宗総本山・瑞真寺当代門主の栄覚は意外な人物の訪いを受けていた。

 執事長の葛城からその名を聞いたとき、あまりのことに、一瞬耳を疑ったほどであった。

 執事の案内で貫主室に入ってきたのは、小柄だが他を圧倒する存在感のある女性だった。

「これはこれは、叔母様」

 栄覚は下座に移り、平伏した。

 瑞真寺の前貫主栄興の実妹・栄観尼が訪ねて来たのである。栄覚にとっては叔母に当たる。

 実年齢は六十歳に近いはずだが、顔や僧衣の袖から垣間見える腕の色艶、肌の張りからすれば三十代といっても過言ではない。

 江戸時代、和歌山にある熊野神社の霊験を知らしめるため、全国を渡り歩いた熊野比丘尼(くまのびくに)の中には、少女のような老尼僧がいたと伝わっているが、まさに栄観尼は加齢を忘れたかのように瑞々しい肢体をしていた。

 栄観尼は、天真宗が建立した尼寺である真龍寺の一門主に過ぎなかったが、その法力によって今や天真宗のみならず、日本の全尼寺と親交を深めていた。

 言わば宗派を超えた尼寺の総本山的な位置を占めるに至っているのである。

 叔母とはいえ、栄覚に一層慇懃な振る舞いをさせる理由の一つがその威光である。

「何やらご活躍のようで」

 栄観尼が微笑を浮かべた。

 ごくり、と栄覚は生唾を飲み込んだ。息を吞むほどの壮絶な美しさである。江戸時代で言えば、美姫三千人とも言われた大奥においてさえ、将軍の寵愛を独占したであろうほどの輝きであった。

 また傾国の美女、つまりその存在が国を傾けてしまうほどの美女というのは、叔母のような女性のことを言うのだろうと栄覚は思った。

「活躍と申されますと」

「惚けてはいけないわ。私の耳に入らないことは何もないのよ」

「い、いや恍けるなどとんでもないことです」

 栄覚は蛇に睨まれた蛙のように萎縮した。栄覚ほどの高僧がこうまで怯える理由は、叔母という姻戚関係や尼僧としての総帥的な立場いるというだけではなかった。

 栄観尼は生まれながら異能を持ち合わせていた。心眼というべきか、予知能力というべきか、ともかく相手の心理を読み当て、未来を見通す神通力を備えていた。

 その能力はそれこそ荒行を重ねた高僧の法力の比ではなく、だからこそ栄観尼の父栄端は、もし彼女が男子であったならば、宗祖栄真大聖人にも匹敵する宗教人になったであろうと悔しがった。

「貴方、神村上人がお亡くなりになって邪魔者がいなくなったと安堵しているわね」

「いえ、決してそのような」

 と言い掛けて、栄覚は留まった。

「正直に言えばそうです」

 心眼のある叔母に嘘は吐けなかった。嘘を吐けば、どのような報復を受けるとも限らないのだ。

 父栄興から、栄観尼はその気になれば呪詛にも長けていると聞いていた。

 呪詛とは、神仏や悪霊に祈願して相手に災いが及ぶようにすることである。

 したがって一切衆生の救済が目的である仏教に呪術の法はない。わずかに仏教より早く伝播していた道教の中にその法があったが、やがて道教の禁止に伴い、その道術の要素を取り入れて生まれた日本独自の陰陽道の中に受け継がれることになる。

 簡単な例を挙げれば、たとえば年配者の中には、子供の頃に親から『夜に口笛を吹くと蛇、または鬼が出る』と忠告された記憶が残っているのではないだろうか。迷信と言えばそれまでであるが、実はこの口笛こそが呪術の方法なのである。

 口をつぼめて息を吹く、または声を出すことを『嘯(うそ)』と言い、文献には口笛を吹くことを『嘯(うそぶ)く』ともある。嘘言は、古くは『オソ』言い、その原義は『神または精霊ないし霊魂に関する前代人の経験』に求められるとして、口笛は『神または精霊もしくは霊魂を呼ぶ印』とある。

 このことから、この嘯に長けることによって悪霊を巧みに操り、特定の人間に災いを及ぼすことができるのである。

 だが栄観尼は、天真宗それも宗祖の実弟の血を受け継ぐ紛れもない仏教徒である。その彼女が異端ともいう呪術の法を会得するはずがない。おそらく彼女の霊力は、相手の精神の中に入り込み、錯乱させる力を有しているのであろう。

「ですが、貴方の野望は難しいわよ」

「何のことでしょうか」

 栄覚は必死に惚けた。

「私にわからないと思いですか」

 その咎めるような口調に、

「も、申し訳ございません」

 栄覚は観念したように詫びると、気力を振り絞った。

「久田帝玄や総務清堂はすでに老齢、神村さえいなくなれば、私の行く手を拒む者はおりません」

 ほほほ、と栄観尼が笑った。とうてい還暦間近とは思えない妖艶さだが、その視線は心臓を狙いすました剣先のように鋭かった。

「一人お忘れのようね」

「だ、誰のことをおっしゃっているのか」

 栄覚は、親に叱られる子供のように眼を逸らした。

「私に嘘は通じないと、まだわからないのかしら」

 顔を戻すと栄観尼が睨み付けていた。

 栄覚は思わず身震いした。

「しかし、あの者は宗教人ですらありません」

「その宗教人でもない森岡洋介がすでに貴方の命運を握っていることにも気づいていないとは、愚かにも程が有りますよ」

 なっ、と栄覚が力んだ。

「叔母様は私を愚弄するためにおいでになられたのですか」

 と不満を露にした。

「反対です。貴方を助けに来たのです」

「助けに、ですと」

「はい」

「叔母様にも見えないことがあるのですね」

 栄観尼のすまし顔に、栄覚は少し溜飲を下げたような気分になった。

「枕木山のことでしたら、すでに森岡とは手打ちをしております」

 栄観尼は、はあ、と嘆息した。

「甘いわね。あの男が、そう簡単に攻撃材料を手放すはずがないでしょう」

「他に何か握っているとでも」

 栄覚は探るように訊いた。

 森岡にとっての最優先命題は、神村の本妙寺貫主就任だったはずである。したがって、そのためには枕木山の秘事という、唯一最大のカードを切ったのだと栄覚は思っていた。

 だが、栄観尼の言葉には信憑性が滲んでいる。

「貴方は、日本仏教秘仏秘宝展に出展するため、偽の御本尊を創作させ、開帳するそうね」

 ――な、なぜそれを。

 知っているのかと言おうとして、栄覚は押し黙った。やはり栄観尼は何もかもお見通しなのである。

「今度ばかりは見逃して下さいませんか」

「私が見逃しても、見逃してくれない者がいますよ」

 栄覚の面から血の気が失せた。誰を指しているのかわかったのである。

「……森岡洋介ですか」

「彼が手ぐすねして待っているところへ、開帳でもしようものなら、それこそ飛んで火に居る夏の虫、ってところかしら」

 栄覚は思わず顔を歪めた。

「と申されましても、いまさら拒否すれば、宗務院からどのような咎めを受けるとも限りません」

「貴方の野望に支障、いや支障どころではなく命運を断たれますね」

「前門の虎、後門の狼です」

 と、栄覚は力なく項垂れた。

「だから、私があれほど、父上と兄に進言したものを……」

「叔母様は祖父と父に? 何と」

「お二人がご健在の間に、御本尊問題を解決されますように、と」

「叔母様は、当寺の秘事を御存知だったのですか」

「当たり前です。厨子の前に立っても、何の霊気も感じなかったのですからねえ」

「さ、さすがです」

 栄覚は弱々しい声で呻いた。

「後顧に憂いを残しますよ、とあれほど申し上げたのに……」

「それは私のことでしょうか」

「貴方の幼い頃を知っていますからね」

 将来、邪念を抱くのを懸念していたと栄寛尼は言った。

「……」

 栄覚には返す言葉が見つからなかった。

 しばらく間があって、その彼の耳に思いも寄らぬ言葉が届いた。

「森岡洋介に頭を下げなさい」

「何を言われるのですか」

 栄覚は怒ったように言った。

「あの男は私を目の敵にしているのですよ」

「あの子に私の名を告げなさい」

「あの子?」

 栄覚は言葉尻を捉えた。

 一転、栄観尼の表情が観音菩薩のように柔和になった。

「森岡洋介は私の息子です」

「ひぇ」

 と小さく悲鳴を上げたきり、栄覚の全身が固まった。何か悪い夢でも見ているかのように両眼が激しく泳いだ。

 暫し放心していた栄覚だったが、気を取り直すように訊いた。

「お、叔母様は結婚されたことがないはずでは」

「結婚しなくても子供は産めることよ」

「未婚の母……。相手は、相手はいったいどこの誰ですか」

「あら貴方、あの子の生家をご存知ないの」

「知っておりますよ。島根の灘屋とかいう網元でしょう」

 栄覚は捨て台詞のように言った。畏くも栄観尼は、宗粗栄真大聖人の末弟栄相の血を引く末裔である。いかに分限者とはいえ、所詮は網元、つまり漁師に過ぎない男の子を孕るとは思えなかった。灘屋は、ただ森岡洋介を養育したに過ぎないのだろうと栄覚は思ったのである。

 だが、栄観尼は身動ぎもせず見詰めている。

「ですが、叔母様は成人されてほどなく真龍寺に入られたはずですし、第一私は赤児の姿を一度も見ておりません」

「それはそうでしょう。私自身も碌に自分が生んだ赤児を抱いてはいないのですから」

「そ、そのような」

 栄覚にはわけがわからない。

「赤子は生まれてすぐに灘屋に引き取られました」

「叔母様はそれをお許しなったのですか」

「最初の約束でしたからね」

 栄観尼は事もなさげに言った。

「では、叔母様は何のために子供をお産みになったのですか」

 栄覚の疑問はもっともである。

「さあさあ、なぜかしらね」

 栄観尼はまるで他人事のように答えた。

「相手の男性に愛情があったとも思えません」

 栄覚は苛立ちを隠さず言った。

「貴方のような凡僧にはとうていわからない仏界の真理ですよ」

 これ以上ない侮辱の言葉だった。仮にも栄覚は、荒行を六度満行した高僧であり、何より亜流ではあるが、彼もまた紛れもなく宗祖栄真大聖人の血脈者なのだ。

 だが、栄覚はこの屈辱に甘んじなければならなかった。目の前の肉親に怒りを覚えながらも軽率な反論は控えなければならなかった。それほど、栄観尼の霊力は恐ろしいものだったのである。

「しかし、叔母様、いかに森岡が、いや洋介君がその気になっても、総務清堂が納得するはずがありません。いえ、日本仏教会事務局が承服しないでしょう」

「まだわからないとは、それでも私の甥ですか」

「……」

 栄覚は栄観尼の詰るような言葉の意味がわからない。

「そもそも、その事務局に出展要請をさせるよう仕向けたのはあの子なのですよ」

 栄観尼は子供を諭すように言った。

「な、なんと言われます」

 栄覚の頭の中は混乱を極めていた。瑞真寺の秘中の秘事を嗅ぎ付けていることもさることながら、どうして森岡が日本仏教会事務局に圧力を掛けることができたのか、そのことである。

「清堂上人もあの子の言には耳を傾けるはずです」

「総務がそう簡単に私の野望を砕く材料を手放すとは思えませんが」

「では、試してみたらいかが」

 栄観尼は自信に溢れた顔をしている。 

「条件は」

「さあ、それはあの子次第でしょう」

「……」

「命まで取るとは言わないでしょう。野望を一時封印し、修行に邁進しなさい」

「それは……」

 栄覚は首を横に振った。

「二度と野心を抱けぬほど完膚なきまでに叩きのめされるのを望みますか」

 極めて冷徹な声だった。

 だがその裏に、しばらく臥薪嘗胆せよ、との含みがあると察した栄覚は、悔しさに唇を噛みしめながらも、

「わかりました」

 と頭を下げた。

「それで良いことよ」

 満足げに言った栄観尼の言葉があらたまった。

「さて、この際ですから全てを打ち明けておきましょう」

「あらたまって、何でしょうか」

「あの子は私の血と共に霊力も受け継いでいます」

「まさか、そのような」

 栄覚は断末魔のような声を上げた。

「幼い頃、悲劇によって封印されてしまい長い間眠っていましたが、先頃ようやく目覚めたようです」

「……」

 もはや栄覚は、崩れ落ちそうになるその身を留めておくのが精一杯だった。

 打ち拉がれる栄覚に、栄観尼は無慈悲な追い討ちを掛けた。

「いずれ密教奥義も伝承されることでしょう」

 だが栄覚は、むしろその言葉に気力を得た。

「ば、馬鹿な。奥義は神村上人の死によって途絶えたはず」

 その声には侮りの色が滲んでいた。

「……」

 栄観尼は何も答えなかった。

 栄覚は重ねて否定した。

「高野山の堀部真快大阿闍梨は、秘蔵弟子である三枝善快僧に伝承を望まれましたが、その前に神村上人が亡くなったはずです」

「やはりその程度ですか」

 栄観尼は憐れむように言った。

「神村上人の前の伝承者は誰ですか」

「そこまで馬鹿にしないで下さい。我が父栄興……」

 と言い掛けて、再び栄覚の面からサァーと血の気が引いた。

「お、叔母様が」

「神村上人の行く末を案じて兄に頼みました」

 栄観尼は今日のあることをすべて見通していたのだと言った。

「いつの間に」

 それでも栄覚は疑わしげな眼で栄観尼を見た。密教奥義伝承灌頂は通常であれば数年掛かる難業の儀式である。栄覚は、父栄興が荒行と神村に伝授した一年足らずの他に、瑞真寺を長期間離れた記憶がなかった。

「私を誰だとお思いか」

 その言葉に十年前、父栄興が初心に戻っての修行研鑽のため、半年余り全国を托鉢して歩く、と高尾山を下りたことを思い出した。

「僅か半年で」

 と言い掛けて、栄覚は首を振った。

「いや叔母様ならば……」

 栄覚の面に初秋の夕日が物憂げに映し出されていた。

 栄覚は残る気力を振り絞った。

「叔母様の能力は認めましょう。しかしながら、洋介君はすでに三十八歳、直ちに宗門に帰依したとしても、経を諳んじるようになるだけでも何年掛かりますか」

 と当然の疑問を呈した。

「貴方は何も……」

 栄観尼が言い掛けたのを栄覚が押し止めた。

「叔母様のおっしゃりたいことはわかります。叔母様の血を受け継いでいるのですから類い稀な能力の持ち主でしょう。いや、叔母様を持ち出さなくても、私自身が苦杯を嘗めさせられましたからよく存じて居ります。しかしながら、こと仏門においては些か事情が異なるかと思います」

「なるほど、もっともな意見だと思います」

 栄観尼は肯いたが、

「ですが、あの子は宗門に帰依していないとはいえ、すでに一通りの経は諳んじることができますよ」  

「まさか……」

 栄覚は疑念の眼差しを向けた。

「神村上人の書生時代には、教義の手ほどきは受けていないと聞き及んでいます」

 森岡は大学の四年間、神村の自坊経王寺で書生修行をしたが、それは思想、哲学に限られていた。

「書生時代ではありません。あの子は生まれたときから、子守唄代わりに祖母のウメさんの読経を聞いていたのです」

「その程度で……」

 栄覚は侮るように言った。

 いいえ、と栄観尼は首を横に振った。

「ウメさんは大変に信心深いお方でね、晩年には仏教の主だった経典に目を通されていたそうな。あの子は生まれたときからその読経を毎朝夕、傍らで聞いていたのですよ。それに私自身もお腹の中に居た十月十日、時間さえがあれば聞かせていましたから、脳に刻み込まれているでしょう」

 うう……、と栄覚が呻く。

「門前の小僧、習わぬ経を読む、ということですか」

「第一、あの子には……」

「叔母様の血が流れている」

 栄覚が言葉の続きを奪った。

「その気になれば、そこいらの生臭坊主どもより真面な読経を上げられるでしょうね」

「読経のことはわかりました。ですが、密教奥義伝承者ともなれば、天真宗においては、最低でも七度の荒行を満行しなくては……」

 栄覚は必至に抗弁した。

 だが栄観尼は、あははは……、と一笑に付した。

「一定回数の荒行を満行しなくても密教奥義は伝承されることよ」

「……」

 何を言っているのだと、きょとんとする栄覚に、

「事実、この私も荒行は二度しかしていません」

「しかし、叔母様は特別……」

 今度は、栄覚が言い終える前に栄観尼が言葉を重ねた。

「貴方は、何か根本的な勘違いをされていませんか」

「はあ?」

「荒行は、あくまでも仏道の真理に近づくため、あるいは悟りの境地に達するための一つの手段に過ぎないのですよ」

「では、叔母様の血を引いている洋介君も荒行を重ねる必要ないと……」

 栄覚は唇を噛んだ。

 その栄覚に栄観尼は、さらに駄目を押した。 

「最後にもう一つ言っておきましょう」

「このうえ、まだ何かあるのですか」

 栄覚は完全に開き直っていた。そうでもしなければ、発狂しそうなほどに追い込まれていたのである。

「貴方は、まだあの子の父親が灘屋の者であることを信じていないようですね」

「当然でしょう。叔母様が漁師などという身分違いの子をお産みになるはずがございません」

「ならば、灘屋がどこに繋がっているかお教えしましょうか」

「灘屋の繋がり先ですと」

「灘屋は奈良岡家と同じ祖先ですよ」

「えっ、奈良岡? と、ということは、堀部真快大阿闍梨とも血縁ということですか」  

 栄観尼は黙って肯いた。

「まさか、そのような」

「江戸末期、松江藩の国家老奈良岡真広の子が灘屋を継いだのです」

「叔母様はそのことをご存知で灘屋の者と契りを交わされた」

 と言って栄観尼に顔を戻した。

 そうではない、と栄観尼の目が言っていた。

「彼が、森岡洋介がこの世に産まれ出ることを見通してですか」

「あの子の身体には、私、つまりご宗祖様の系譜と奈良岡家の系譜の血が流れています。これがどういうことかおわかりですか」

 栄覚の全身が震えた。

――まさか、叔母様も禁断の野望を……。

 と言おうとして栄覚は口を噤んだ。

「さて、用は済みましたから、私はこれで」

 と席を立った栄観尼を、

「最後に一つだけお聞かせ下さい」

 と、栄覚が押し留めた。

「何かしら」

「もし、この先私と洋介君が再び争うようになったとき、叔母様はどちらに味方されますか」

「瑞真寺の門主にしては愚問ですこと」

 栄観尼は取り合わない素振りをした。

「そこを是非とも」

 栄覚は頭を畳に擦り付けるようにして懇願した。

「息子と甥、どちらの血が濃いのかしら」

 栄覚は絶望に顔を歪めた。

「……なんて、世俗的なことは言わないわ」

 栄観尼がケラケラと口に手を当てて笑った。

「そうしますと」

 幾分血色が戻った栄覚が訊いた。

「能力次第かしら」

「能力、それならば私も」

 と意気込んだ栄覚に、栄観尼が再び冷酷な視線を浴びせた。

「今、言ったでしょう。世俗的なことは言わない、と」

「……」

「地位とか名誉や権力、ましてや経済力ではないことよ」

「では、いったい」

「いかに魂が磨かれているか、観させてもらうわ」

「魂でございますか」

 栄覚は納得のいかない顔をした。

「ところで、魂はどのようにして磨かれとお思いもなられますか」

「それは艱難辛苦に耐えることによってでございましょう」

「貴方はそのような艱難辛苦に遭われましたかな」

「それは」

 と、言葉に詰まった栄覚は、

「洋介君とて同様にございましょう」

「あの子は自らの出生に悩み、苦しみ、精神の病に罹って海に身投げまでしています。さらに身籠った妻を交通事故で失い、そして今また神村上人の死に耐え、また一つ古い魂の殻を脱ごうと必死にもがいています」

 栄覚は、捨て台詞を吐いては立ち去ってゆく栄観尼の後姿を、ただ悄然として見送るしかなかった。


 門主室を出た栄観尼は、廊下の中ほどで立ち止まって振り返り、

――少し、薬が利き過ぎたかしら。

 と呟き、ふふふと笑った。

――早く目覚められよ、御門主。愚かにも、私があの子のために法主の座を望んでいるとお思いになるとは……。このままでは、所詮貴方は天真宗の枠の中でしか生きられなくなるのですよ。

 門主室に残された栄覚は、絶望の淵に立たされている己を初めて自覚した。だが、この栄観尼の訪いによって植え付けられた絶体絶命の絶望感こそが、宗粗栄真大聖人の血脈者として、真に目覚めるきっかけとなるのだが、それはまだ数年後のことである。


 大阪に戻った森岡は、最上稲荷奥の院での生母栄観尼の言葉を思い返していた。

 神村は、誰にどのような方法で命を縮められたのか、ということである。

 だが、雲を掴むような話である。

 榊原壮太郎や伊能剛史に調査を依頼するにしても、ある程度の目星は必要だった。栄覚門主に助力する裏での画策であれば、思い浮かぶのは立国会の勅使河原公彦、菊池龍峰、そして筧克至ということになったが、菊池と筧は神村本人に近付いていない。

 となると、もっとも疑わしいのは勅使河原だった。立国会は天真宗最大の檀信徒会である。勅使河原の命を受けて神村に接触した者がいないとも限らなかった。

 しかし、栄覚門主から一定の距離を置かれている勅使河原が、つまり栄覚門主から依頼を受けていないはずの彼が、葬り去りたいほど神村を敵視する理由に行き着かない。

――もしかして母は、自分を鼓舞するために嘘を吐いたのではないだろうか。だからこそ裏切り者の名を、言わなかったのではなく言えなかった……。

 森岡はそう思い始めていた。

 そのような森岡の元に、栄覚から是非にも会いたい旨の連絡が入った。

 栄観尼の助言に従ったのである。

 森岡は帝都ホテル大阪で会うことにした。一色魁嶺の規律委員会での敗北の後、急遽の面談を受け入れてくれた栄覚への返礼という意味もあった。

 森岡は、栄覚が従兄弟だと知って初めての対面に、何とも表現のしようがない奇妙な心持ちだった。

 栄覚は森岡の前でいきなり膝を折って床に着けた。

「何をされるのですか」

 驚いた森岡は、近寄って腕を取って立ち上がらせようとしたが、

「御本尊の件、御慈悲を頂きたい」

 栄覚はそのまま土下座した。

「どうぞ頭をお上げ下さい。それでは話ができません」

 と、森岡は栄覚をソファーに座らせた。 

「私が知っていると御存知でしたか」

「貴方が日本仏教会の事務局を動かしたことも」

「これは参った」

 と、森岡は頭を掻きながら苦笑いした。

「堅く秘匿していましたが、さすがの情報網をお持ちですね。立国会ですか」

「いいえ」

 栄覚が戸惑いの色を見せた。

「言い難ければ結構ですが」

「栄観尼様に何もかも伺いました」

「母に」

「貴方も栄観尼様が母だと知っておられましたか」

「つい先日ですが、私たちが従兄弟だったとは驚きました」

 森岡は複雑な心境を吐露した。

「考えてみれば、何とも因果な出会いでしたが、私もまさか従兄弟だとは思ってもいませんでした」

 栄覚も同調した。

「御本尊の件、承知しました」

「信用して下さるので」

「母が絡んでいるのです。逆らえば身の破滅です」

 森岡は自嘲交じりの声で言った。

「いかにも」

「御本尊の件は、私の方で対処しますが、その代わり……」

「わかっています。私はしばらくタイかスリランカにでも渡り、修行をやり直そうと思っています」

 栄覚は目を逸らさずに決意を述べた。


 総本山真興寺の総務室に入った景山律堂は、総務清堂の苦り切った顔を目の当たりにして思わずその場に立ち止まった。

「どうかされましたか」

 景山は恐る恐る訊いた。

「千載一遇の好機を逸したようじゃ」

 清堂は吐き出すように言った。

「……」

 景山には見当が付いていたが、口を閉じていた。

「瑞真寺の開帳の件じゃよ」

「何か、ございましたか」

 うむ、と清堂は虚しく首を縦に振った。

「日本仏教秘仏秘宝展の事務局が瑞真寺の出展要請を取り消したのじゃ」

「やはり、そうきましたか」

「やはり? 君は何か知っているのか」

 清堂の語気が自然と強まる。

「森岡さんが、事務局に働き掛けられたのでしょう」

「森岡君が? またどうしてじゃ」

 清堂は訝しげな声で訊いた。

 秘仏秘宝展の事務局に手を回したのは、誰あろう森岡自身である。それを取り消させる理由がわからなかった。

「彼は我々を裏切ったのか」

「御安心下さい。そうではありません」

「どういうことじゃ」

「栄観尼様が仲立ちをされたそうです」

「栄観尼殿だと」

 清堂の声が上ずった。

「御存知でしたか」

「無論じゃ。御幼少の頃から特異な才能の持ち主であられた」

 清堂は敬語を使った。

「と申されますと」

「予知能力などは、まるで未来から見て来たように言い当てられると言われていたが、わしにもその心眼に背筋が凍った経験がある」

 清堂は遠い記憶を辿った。

 彼が立国大学を卒業し、華の坊に戻って間もなくの頃だった。宗務院の宗務次長だった父の代理で瑞真寺を訪れたときのことである。

 庭先に背を向けて佇む幼女がいた。その子が近付いた清堂に気づいて振り向いたときである。

 清堂は、金縛りにあったように身が硬直した。金色の布を纏ったかのように光輝くその姿は、まさしく観世音菩薩そのものだった。

 少女は乾いた声で清堂に訊いた。

「それほどまでになりたいですか」

「……」

 清堂には何のことかわからなかった。

「精進されれば、その望みは叶うでしょう」

 その言葉を聞いて、清堂はようやく己の秘めた野心を見抜かれていることに気づいた。

「貴女様のお名前は……」

 思わず清堂は敬語で名を問うたが、彼女は無表情で踵を返し、庫裡へと戻って行った。

「その幼女が栄端門主の末娘だと知ったのは、華の坊に戻ってからだったが、ともかくこの世に生きるものとは思えなかった」

「それほどまでに」

「あのお方こそ、正真正銘、御宗祖様の生まれ変わりだ。だが、惜しむらくは男であられたらのう」

 清堂に女性差別など全くないが、宗教界の現状からすれば、尼僧の活躍の場は限られていた。

 さて、と清堂が話を戻した。

「栄覚門主が叔母である栄観尼殿に頼るのはわかるが、なぜ森岡君がそれを受けたのだ。まさか彼も栄観尼殿の霊力に感服したというのか」

「いいえ、そうではありません。実は、栄観尼様は森岡さんの生みの母親なのだそうです」

 景山は、森岡から打ち明けられた出生秘話を清堂に告げた。

「なんという奇縁か。あの栄観尼殿が森岡君の御生母とは」

「しかし、森岡さんの能力を考えれば納得できます」

「そうだのう」

 と、得心した清堂であったが、すぐに顔を歪めた。

「となると、栄覚門主の野望を止めることはできなくなったか」

「その件に関しましては、森岡さんから御安心下さるようにとの伝言を申し付かっています」

「安心しろ、とな」

「はい」

 清堂は暫し黙想した。そして、

「こうなった以上は、彼を信じ切るしかないか」

 と呟いた。


 岡山の最上稲荷から帰阪して半月後、森岡は経王寺に於いて執り行われた神村正胤の晋山式に出席した。

 神村正遠には子が無かったため、経王寺は甥の正胤が継いでいた。その正式なお披露目の儀式である。

 正胤は二十八歳。さすがは、天真宗において大金字塔を打ち立てた神村正遠の甥だけあって、すでに百日荒行を三度成満した前途有為な青年僧侶である。

 森岡は、神村の遺言によって経王寺の護山会会長に就任していた。

 先代、つまり神村正遠の代からの会員である榊原壮太郎と福地正勝もそのまま入会していた。

「顔色は良さそうじゃの」

「思ったより元気そうで何よりだ」

 榊原と福地が声を掛けた。

 二人は森岡の元気な姿を見て安堵していた。失踪事件は知らなかったが、神村の死去以来、森岡の憔悴ぶりは目を覆うばかりで、とてものこと話し掛けられなかったのである。

「お二人にはご心配をお掛けしていたようですね。でも、もう大丈夫です」

 明るい声でそう言って森岡はそれよりも……、と辺りを見回した。

「どうかしたかの」

 榊原が訊いた。

「この場所に居るべき人間が見当たりませんね」

 森岡は訝しげに答えた。

 彼はこの儀式に神村沙紀の姿がないことに違和感を覚えていた。沙紀の消息は知らなかったが、彼女は先代の妻である。当然のことながら、後継者の晴れ舞台を祝う義理があった。

 儀式の後の祝宴のとき、森岡はそれとなく正胤に訊ねてみた。

 すると、神村の葬儀以降、全く疎遠になっているという返事が返って来た。そして、あまりに意外な言葉も聞くことになった。

 正胤は、詳細な事情は知らないと前置きしてから、沙紀を雲瑞寺で見掛けたというのである。それも一度ならず三度、四度である。正胤は神村正遠の父の代から続く雲瑞寺との親交を引き継いでいた。したがって、宗務の手伝いで何度も雲瑞寺を訪れていたのだ。

――まさか……。

 谷川東良は神村の朋友であったから、沙紀が向後のことを相談しても不思議ではなかったが、森岡の胸の奥底にある疑念が生まれた。

 それは最上稲荷の奥の院での生母栄観尼が吐いた、

『先生を死に追いやった真の敵がいる』

 という助言と繋がったものだった。

――もしかして、奸物とは谷川東良ではないか。

 この疑念が森岡の胸に纏わり付いて離れなくなった。

 それは、元々彼の潜在意識の中に封印されていたものが、顕在化したものだった。

 自宅に戻った森岡は、本妙寺の件で久々に再会したときからの谷川東良の言動を思い起こしていた。すると、東良が裏切り者だったと想定すれば、その折々に蓄積されていったわだかまりがたちまち雲散霧消していった。


―――谷川東良は、何故疎遠だった神村の前に、突如姿を現したのか。

 てっきり神村を支援することで、己の出世にも繋がると踏んで馳せ参じたと思っていたが、その逆ではなかったか。


―――谷川東良は、坂東明園の詳細な情報を持っていなかった。

 端から情報を掴む努力をしていなかったか、あるいは情報そのものを隠匿していたのではないだろうか。坂東の行動は誰の目にも明らかで、彼が京都のクラブ・ダーリンの片桐瞳に執着していたことなど容易にわかったはずである。


―――法国寺の黒岩上人の勇退を進言するように、総務藤井清堂に働き掛けたのは谷川東良ではなかったか。

 東良は、しきりに情勢を逆転された岐阜県法厳寺の久保上人が泣き付いたと力説していたが、榊原壮太郎の情報で、そうではないことが判明し、真実は不明のままだった。あのとき、違和感を覚えた東良の饒舌さは、疑いの目を逸らすためだったのではないか。 

 本妙寺の貫主に神村が優勢となり、思いを遂げられないと諦めかけたところに、法国寺の黒岩貫主が病に倒れた。谷川東良はこれ幸いとばかりに、総務清堂から黒岩貫主の勇退を持ち掛けるよう藤井清慶に進言し、併せて清慶の法国寺貫主就任のシナリオを吹き込んだと考えられないか。


―――東良は久田帝玄の法国寺の貫主就任に乗り気ではなかった。

 東良が目黒澄福寺の芦名泰山、京都傳法寺の大河内法悦への裏工作に終始消極的だったのは、久田帝玄の覚えが悪いからと思っていたが、そうではなかったのではないか。


 あっ! 森岡の背に悪寒が奔った。

――雲瑞寺、瑞真寺……、瑞……。

 森岡は、ぎゅっと唇を噛み締めた。

――くもみずでら……。読み名が隠れ蓑になっていたのか。

 同じ『瑞』の文字のある、総本山の瑞の坊は瑞真寺と曰くがあった。ということは谷川東良も瑞真寺と縁があるのではないか。

 森岡が谷川東良と知己を得たのは、神村の自坊である経王寺に寄宿していたときである。

 そのとき神村からは、

『くもみずでらの谷川東良上人』

 としか紹介されなかったし、谷川東良から名刺も受け取っていなかった。宗教上の弟子ではなかったから、当然といえば当然である。

 ただ一度だけ、神村に随行して雲瑞寺を訪れたとき、『金光山雲瑞寺』という本堂の扁額を目にしていた。それが頭の片隅に残っていて妙な引っ掛かりを覚えさせていたのだろう。

 森岡の推量は続く。

 事が別格大本山法国寺の貫主選出問題に移ったとき、栄覚門主は東良を籠絡したのではないか。自分を調べ上げていた栄覚である。神村先生の父の代から親交のあった雲瑞寺や谷川東良の身辺も調査したに違いない。そして、本妙寺工作での東良の行動から、彼が神村に含むところがあるのを知った栄覚が巧みに仲間に引き入れた。

 手始めとして、栄覚門主は谷川東良を通じ、藤井清慶を操った。久田帝玄上人を擁立すると見越してのことであろう。御前様が起てば、かねてからの法主の座を巡る総本山と在野寺院の確執を利用できる。御前様と総務清堂と争わせるように仕向けて、両者の力を削ぎ且つ溝を深める。

 秘事である御前様の醜聞を清慶に注進し、マスコミへのリークと規律委員会に掛けるよう知恵を付けたのも、栄覚門主から指示を受けた東良だったに違いない。

 何よりも、御前様が規律委員会に掛けられたとき、永井宗務総長の査問があることを黙っていた。規律委員会の仕組みをあれだけ詳しく述べた東良が、事前に査問が開かれることを知らないはずがない。それを黙秘していたのは、加えて執拗に自重を促したのは、自分の動きを封じるためだったのだろう。

 仕上げとして、神村先生を一敗地に塗れさせ、栄覚門主自身の法主への道を拡げる。

 東良は助力の見返りとして、法国寺執事長の座を藤井清慶に求めたのだろう。彼は大本山や本山の貫主になれる資格を有していない。したがって、同じ執事長止まりなら、法国寺執事長の座はこの上ないものである。何しろ、執事長の最高峰でもあるその座には、並みの本山の貫主よりも、権力と名誉が与えられるのだから……。

 森岡には、谷川東良が栄覚門主の野望に乗じて、神村に歯向かった理由もおぼろげながらわかっていた。生前、神村から沙紀との結婚に至るまでの経緯を詳細に聞いていたからである。


 十三年前、谷川東良はとあるクラブのホステスに一目惚れし、結婚を前提にした交際を望んだが女性は頑なに拒んだ。そして諦めの付かない東良に向かって、自身が在日朝鮮人であることを告白し、『由緒ある名門寺院の嫁には相応しくない、必ずやご両親が反対されるでしょう』と予言した。

 東良の父親はすでに亡くなっていたが、女性の言うとおり、母親と兄の東顕は強硬に反対した。谷川家の自坊雲瑞寺は室町時代から続く名門寺院であり、外国人女性を受け入れるわけにはいかなかったのである。

 これもまた一種の純血思想である。

 東良は兄の東顕から、家門を取るか女性を取るかの決断を迫られ、後ろ髪を引かれる思いで女性と一緒になることを諦めた。

 その後、東良の誘いで北新地の高級クラブ・ピアジェへ出向いた神村は、沙紀と出会い、彼女を見初めることになるのだが、実は沙紀も在日朝鮮人だった。

 神村家は谷川家のような名門家系ではなかったが、やはり谷川家と同じ理由で父の反対にあった。そこで谷川東良の悲恋を知っていた神村は、彼の挫折を教訓に一計を案じた。知人を通じて、沙紀を伊勢神宮の外宮であった上正(かみしょう)家に一旦養女として入れ、そこから神村家に迎えようとしたのである。

 士農工商の身分制度があった江戸時代、武家が町人の娘を嫁に迎えるとき、一 旦別の武家の養女に入ったのを真似たのである。

 神村の父は、それをも反対することはしなかった。

 たしかに、沙紀の美貌は目を見張るものだった。

 男好きする顔立ちのうえに、彼女の仕種や表情の一つ一つは、男を惑わす魔性のような魅力を放っていた。神村はそこに惹かれたのであろうが、養母小夜子の失踪の影響なのか、女性に対して母性と貞操観念を求める森岡洋介には敬遠の対象となった。

 森岡は師の妻とはいえ、沙紀には嫌悪感すら抱き、それが一時経王寺へ足が遠のく原因ともなり、また茜との婚儀のとき、媒酌人として神村夫妻を強く望まなかった理由でもあった。

――もしや……。

 森岡の脳裡で二人の女性が重なった。

――谷川東良が愛した女性というのは沙紀ではないだろうか。ホステスだったということ、在日朝鮮人であることも共通している。先生亡き後、かつての恋慕の情が再燃したと考えれば辻褄が合う。

 森岡は確信に満ちた推量を終えた。


「洋介さん、とても怖い顔をしてどうしたの」

 知らぬ間に、そばに来ていた茜の言葉で森岡は我を取り戻した。

「俺、怖い顔をしていたか」

「はい。とても」

「そういえば、ゴンちゃんがそっちに行ったやろ」

「ええ。私が連れてきた柴犬(ワン)ちゃんなのに、すっかり洋介さんになついて、片時もそばを離れないゴンちゃんが、すごすごと私のところにやって来たので、不思議に思い様子を見に来たの」

 茜は不安げな眼差しを洋介に向けた。

「俺な。今、めっちゃ醜いことを考えていたんや」

「醜いこと」

「ああ、想像しただけで、俺の魂まで腐ってしまいそうな醜いことや。なあ、茜。よく人が怒鳴ったり、悪態をついたりすると、口から毒気が出るって言うけど、考えただけでも全身の毛穴からそういった物質が出るのかもしれんな。せやから、ゴンが俺から離れて行ったんやわ」

 洋介の苦笑いした。

「谷川さんと沙紀さんが出来ているかもしれない」

「え?」

「沙紀さんは、雲瑞寺に通っているらしいのや」

 森岡は、神村と沙紀の馴れ初めと、推量した谷川東良との関係を話した。

「そういうことですか。でも、洋介さんの推量が当たっていたとしても仕方がないんじゃないの。同じ女性として、先生に打ち明けられなかった気持ちはわからなくもないわ」

 茜は同情するように言った。

「いや、それはもうええのや。男女の情愛はそれぞれやから、立ち入られんこともあるやろ。結局、沙紀さんは先生より東良の方を愛していたのかもしれんしな」

「ええ」

「そうやのうて、東良のことを最初から疑ってみたんや。するとな、その折々胸に妙な引っ掛かりをみせていた一つ一つが、見事に腑に落ちるんや」

 茜はまさか、という顔をした。

「谷川さんは、神村先生を裏切っていたというの」

「そうだと考えると辻褄が合うことばっかりや。そう言えば、幸苑の女将にも、東良には心を許すなと忠告されていたなあ」

 森岡は悔しげに言った。

「幸苑の女将さんまでも……。でも、何故?」

「それは、俺にもはっきりとはわからんが、前に菊池が御前様を恫喝していたことを話したやろ。そのときに御前様がおっしゃっていたのやが、菊池は先生に嫉妬していたんや。それとは違うかもしれんが、谷川が先生におもしろくない感情を抱いていてもおかしくないんと違うかな」

 洋介は、そこで一瞬考え込んだ。そして、

「きっとそれは憎悪だな」

 と自身に言い聞かせるように言った。

「谷川さんが神村先生に?」

 茜は首を傾げた。ロンドで見た谷川東良からは想像できなかった。

「せや、憎悪や。あくまでも俺の推測やけどな。何時だったか、ロンドで話に出たことがあったように、先生と東良は、父親同士が兄弟弟子で、しかも寺院も近かったこともあり、本人らも小さいときから交わることが多かったんや」

「そういえば、神村先生が初めてロンドへ来られたときに、そういう話をされたわね」

 茜は、神村と初めて会った夜を思い起こしていた。

「両者を比較すると、寺院としては谷川家の方が遥かに名門やし、父親同士の僧階を比べても東良の父親の方が何階級も上や。せやけど、本人同士はどうやったやろうなあ。先生は、子供の頃から天童と呼ばれるほど才気煥発なお方やで。東良もそれなりに才気があったらしいが、先生に及ぶことはまず有り得ないやろ。

 東良本人は辛かったと思うで、おそらく幼少の頃から、何かにつけ先生と比較されたんと違うかな。それは、総本山の妙顕中学に進学した時に、本来なら縁の深い滝の坊に入るのが順当なのに、先生を避けるかにように他の宿坊に入ったことでもわかる。その後は、言うまでもないやろ。先生は宗門の明治以来の逸材。方や東良は、荒行に入ったのはたった一度きり。僧侶としての位と実績は、天と地ほどの開きができてしまった。

 名門の家系に生まれた宿命で過度の期待を掛けられ、しかも物心の付く頃から、近しいところにいた先生に比較され続ける人生なんて、耐えられんかったんと違うかなあ。いや、己の人生を呪ったとしてもおかしくはない」

 そうか……、と森岡は心の中で呟いた。彼は、書生の頃に感じていた谷川東良の屈託の正体をようやく突き止めたような気がしていた。

「そこから、先生に対する憎しみが生まれたというのね」

「せや。そのうえに女のことや。これが、東良の心を折る決定打になったのと違うかな。『僧侶としてだけではなく、ただの男としても先生に勝てんのか』ってな」

「沙紀さんね」

「そうや。東良は家を捨てられなかったのに、先生は捨てる覚悟を示された」

「そうかなあ。神村先生には失礼だけど、寺格が違うのだから仕方がないと思うわ」

 茜の考えはもっともだった。

 だが森岡は、

「それが違うのや。東顕上人は、東良の覚悟の程を確かめようと思われたんやないかな。厳しい選択を迫られたのもそのためだと思う。東良もその意図を後になって悟った。だから、即座に覚悟を見せられた先生に敗北感を味わったのだと思うよ」

 とやんわりと否定した。

「なるほどね。でも、だからといって、宗教に携わる人にそこまでできるものかしら」

 茜は、未だ納得の行かない顔をしていた。

「茜、それが逆のことも多いんや。御前様が俺にこうおっしゃったことがある。『宗教人やから、しかもなまじ才能があったり、名門の家系に生まれたりした者に限って、嫉妬とか憎悪は増幅される』とな」

「それで、自分が味わった挫折を先生に味合わせたかったというのね」

「そういうことやな。でもな、それはもちろん許せんことやが、人として、気持ちは理解できんこともない。せやけど」

「どうしたの?」

「い、いや、止めとく。これはもっと醜くておぞましいことやし、まだ取りとめもないことやから裏を取らんと話はできん」

 森岡は唇を固く閉じた。

 彼は神村の死に関して、東良と沙紀の二人により重大な疑惑を抱いていたが、それ以上話すことを止めた。


 谷川東良と神村沙紀に不審を抱いた森岡は、かつて神栄会との交渉の際に知己を得た大阪府警の刑事に、関西循環器病院の医師から、神村の病状の推移について情報を得るよう依頼する。

 守秘義務のある医師は、第三者の森岡には黙秘するであろうから、現職刑事に聞き取り調査を依頼したのだった。

 数日後、森岡は刑事から調査結果の報告を受けた。

 それによると、最初の診察は大本山本妙寺の新貫主選出会議を前にして、体調を崩した神村が、念のため人間ドッグに入ったときだったという。そのとき、肝臓癌であることが判明し、医師はとりあえず沙紀にのみ告知したというのだ。診察した医師の話によれば、比較的発見が早かったこともあり、治療に専念さえすれば完治の見込みも少なくなかったという。

 それから半年余後、神村が一人で再来院したとき、本人の希望により告知したという事であった。診察した医師は、当然直ちに治療を受けるよう沙紀に進言したが、その後来院がないので、てっきり他の病院で治療を受けているものとばかり思っていた。

 ところが、半年後本人を再診察してみて、全く治療を受けていないどころか、養生さえもしていないことを知り、自殺行為とも取れるその所業に驚いたということだった。


――先生は御自身が肝臓癌であることを知っておられた。それなのに何故、治療もされず、それどころか飲酒し続けるという自殺行為をなさったのか。

 森岡は頭を悩ませた。あれほど苦労して就いた大本山本妙寺の貫主の座である。たとえ、完治の見込みがないとわかり衝撃を受けたとしても、神村ほどの精神修養をした人間が自らそれを縮めるような自暴自棄に陥るものなのだろうか。

 森岡が知る神村は、断じてそのような心の弱い人間ではなかった。

――肝臓癌の告知の他に、神村を絶望の淵に追い込んだ何かがある。何かが……。

 漠然としていた疑念が徐々に形付けられて行ったとき、森岡はある仮説に辿り着いた。

 神村正遠が生存中のあるときから、谷川東良と沙紀が不倫関係を結んでいたとしたら、という仮説である。

 沙紀は、神村本人が知る前に肝臓癌であることを知っていた。にもかかわらず、治療を進めた形跡が見当たらない。仮に沙紀が東良に相談したとき、二人が共謀して神村の命を縮めんと欲したとしたら……。実におぞましい事であるが、考えられなくもない。

 神村は、功労者である東良を新執事長に抜擢した。神村の後継となる資格のない東良にはとりあえず執事長を務めさせ、本妙寺の後継は先を見てゆっくりと決めようというものだった。

 二人は晋山式に向けて相談する機会が多かったに違いない。東良は、神村が肝臓癌であることを知りながら、素知らぬ顔で会う度に、いや以前にも増して頻繁に神村を酒宴に誘っていたと推察される。

 その時期は、森岡が会社の仕事に没頭していた頃と重なっている。

 しかも谷川東良は、その頃から飲食のツケを回さなくなっている。それも北新地のロンドだけではない、本妙寺での宗務のためにと、わざわざ用意した祇園のクラブ菊乃にも二人は顔を出した形跡がない。きっと、情報が伝わるのを警戒して避けたのだ。

 ああ、そうだったのか……、と森岡の脳裡をもう一つの連想が奔る。

――栄覚門主は、谷川東良から先生の身体の異変をいち早く耳にしていたのだろう。そう考えれば、合議での一色魁嶺の行動も得心がいった。栄覚にとって本妙寺貫主の先生は敵ではない。法国寺貫主の先生も恐れる存在ではない。法主の座を競うときの先生が邪魔だったのだから……。

 森岡は瑞真寺で面会した折の、栄覚門主の泰然自若とした振る舞いを思い出し、十年後にさえ神村が生きていなければ、本妙寺の貫主の座などくれてやるという、敵に塩を送る余裕すら窺わせた彼のやり様に得心した。

 さて病院へ行き、妻の沙紀が半年も前に、自分の病を知っていた事実を知ったとき、彼女の不自然な言動に気が付いた。

――もしや先生は、自分が肝臓癌であると知ったことを隠し、その後の沙紀の言動を探られたのではないか。そして、沙紀と東良との不倫関係も、また東良も全て承知している事実も知ってしまわれた。

 愛妻と朋友――。

 共に信じていた二人に、同時に裏切られたとしたら……。しかも彼らは、共謀して自分の命を縮めようと画策している。そのときの神村の心境はいかばかりであったろうか。いかに神村といえども、現実を虚しく思い、自暴自棄になっても不思議ではない。神村は己が出来得る精一杯の抗議として、就任して僅か四ヶ月にも拘らず、東良を罷免したのであろう。

 最後の面会のとき、去り際に神村が投げ掛けた『無念』という言葉は、早過ぎる死に対してのものではなく、この裏切りに対してのものだったのかもしれない。

 森岡の顔面が沈痛に彩られた。 

 いや、そうではない……、と森岡は考え直した。

――先生は自暴自棄ではなく、ただ流れのままに身を委ねられただけなのかもしれない。先生にとってこの世はあくまでも仮の世。輪廻転生を繰り返し、いずれは天界におわす、栄真大聖人の許へ行くことを願っておられた。そのような先生にすれば、彼らの行動もまた、天命として受け入れられたのではないだろうか。

 森岡はそのように考えたかった。そうでなければ、あまりにも神村の心が痛ましかった。

 森岡は自身の仮説が正しいかどうか、検証することはしなかった。裏付けを取らなくとも確信に満ちていたからであり、何よりも神村が第一義的に求めるものは、決してその様な些末なことではないと考え直したからである。

 その代わりに、怒りを静かに心の奥深く沈めて行った。マントル内で沸々と煮えたぎるマグマのように、欲すればいつでも噴火する準備をして……。いつか必ずや、二人に天誅を加えるとの決意を固めて……。


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