第47話  第六巻 決意の徒 失踪

 神村正遠の葬儀は、故人のたって希望により鎌倉の長厳寺で密葬として行われた。

 宗教上の師の一人、久田帝玄の自坊である。

 だが神村は、天真宗開祖・栄真大聖人の生まれ変わりと評されたほどの人物である。最終的な参列者は僧侶を中心に三百名余を数えた。

 引導師は鎌倉長厳寺の久田帝玄権大僧正が務め、脇導師には目黒大本山澄福寺の芦名泰山権大僧正と八王子大本山興妙寺の立花興淳(こうじゅん)権大僧正が就いた。異例だったのは、在野僧侶の葬儀にも拘わらず総本山現法主・栄薩大僧正の名代として、総務藤井清堂権大僧正が参列しただけでなく、宗務総長の永井大幹権大僧正が脇導師の一人に加わったことである。

 民間人としては、日本経済界のトップリーダーである松尾電気会長・松尾正之助、日本経済連盟会長で京洛セラミック会長の飯盛和彦、日本銀行会会長で東京菱芝銀行会長の瀬尾宗一郎らが参列した。

 さらに異色なところでは、日本右翼の首魁・宗光賢治や他宗派ということで僧衣を脱ぎ、羽織袴を身に纏った日本仏教界の至宝・高野山金剛峰寺の先代座主・堀部真快大阿闍梨が高齢を押して姿を見せていた。

 森岡は、野島他ウィニットの幹部数名を引き連れ、葬儀の準備から加わった。南目と坂根もそれぞれ帰国し、参加していた。

 その際、森岡は時折笑みを浮かべるなど、傍目には衝撃から立ち直っているかのように見えた。

 神村の遺骨は三つに分骨され、一つは葬儀の行われた長厳寺に、もう一つは自坊経王寺に、そして最後の一つは総本山の真興寺に納骨された。荒行を十二度満行し、明治以来の傑物と評された高僧とはいえ、在野の者が真興寺の納骨堂に入るのは極めて異例のことであった。

 鎌倉から戻った森岡は日々の業務を卒なく熟してはいたが、彼を良く知る者たちの目には、どこか覇気が失せているように見えた。蝉の抜け殻というほどではないが、森岡の喪失感は尋常なものではないことが覗えた。

 先妻奈津美と胎児を失ったときのように、泣き叫ぶなり、理不尽に当たり散らすなりして悲しみを外に発散することが無い分だけ、却って森岡の心を蝕んで行っているように思えてならなかった。

 ちょうど、八歳のとき母を、十歳で祖父を、十一歳で父を失った悲しみにじっと耐えていた頃を再現するかのようにである。

 そして、ついに事件は起こった。

 葬儀から三日後、森岡が、

『しばらく一人になりたい』

 という留守番伝言を残し、失踪してしまったのである。


 その日、森岡は普段通りに出社し、寡黙なまでに仕事に精を出していた。

 ところが昼食を済ませた直後だった。

『腹の調子が悪い』

 といってトイレに入ったのだが、十五分経っても戻ってこなかった。不審に思った蒲生がトイレの中を探したが、すでに森岡の姿は無かった。不吉な予感が奔った蒲生は直ちに野島に報告し、手分けして社内外を探し回ったがどこにも姿はなかった。

 ここにきて森岡が失踪したことが明らかになった。

 さっそく野島の命で、森岡が立ち寄りそうな場所に連絡を入れたが、全て空振りに終わった。

 森岡の失踪とその原因となった神村正遠の死は、様々な人々の関心を呼び、不安と懸念の波紋を増幅させていった。

 ウィニットの幹部が集まった会議室には不穏な空気が立ち込めていた。

「蒲生君は何をしていたんや」

 南目が詰った。彼は森岡の状態を見極めてから英国へ向けて出国する予定でいた。

「すみません」

 蒲生はただひたすら詫びた。

「賢一郎もやで」

 南目の矛先は宗光にも及んだ。

「……」

 宗光は黙って頭を下げた。

「南目、蒲生を責めるのは筋が違うぞ。ましてや賢一郎はまだ新参だ」

「しかし副社長、兄貴の心が不安定なのはわかっていたはず。だから、一時も目を離さないようにとお互いが確認していたではないですか」

 蒲生と宗光を庇った野島にも異を唱えた。

 森岡の身を案じた野島らは、決して森岡を一人きりにしないようにしていた。昼間は蒲生と足立と宗光が、夜は茜が戻るまで坂根と南目も加わって森岡から一時も目を離さないようにしていたのである。

 だが警護役の蒲生と宗光は、下痢だと言った森岡の言葉を信用し、一瞬その場を離れる気遣いをしてしまったのだ。

「社長の行動から察すれば、計画的であったことが明白だ。社長がその気になれば誰が欺かれずに済むと思う」

 森岡は人の心を読む天才である。その彼が本気になれば、騙されない者などいないと言った野島の考えは当を得ていたが、それでも南目は納得がいかない表情を崩さなかった。

「輝さん、私も今は責任追及より、善後策を立てるのが先決だと思います」

 坂根もまた野島に同調した。

「とはいうものの、社長が行きそうな場所はすべて連絡したんやろ」

「浜浦はもちろん、総本山をはじめ親交のある全国寺院にも連絡しましたが、立ち寄った形跡はないようです」

 住倉の落胆の声に、坂根が答えた。

「ホテルや旅館はどうや」

 住倉が重ねて訊いた。

「静岡の岡崎家、東京と大阪の帝都ホテル、京都のお茶屋等々一度でも宿泊した場所に問い合わせましたが立ち寄っておられないようです」

「偽名を使っているということはないか」

「住倉専務、向こうが社長の顔を忘れるはずがないでしょう」

 住倉はすでにウイニットの専務取締役から退いていたが、坂根は言わば身内の集まりだったので、そう呼んだ。

「そりゃあ、そうやな。ではいったいどこへ……」

「社長のことだから、俺らの全く知らないところに行かれたのだと思う」

 野島が不安げな顔を覗かせた。

「しかし、副社長。社長が初めての場所に行かれるでしょうか」

「坂根、お前には見当が付くのか」

「そういうわけではありませんが、もし社長が心の傷を癒したいと思っておられるのであれば、まったく知らない土地ということは有り得ないのではないでしょうか」

 坂根の意見はもっともであった。

「しかし……」

 南目が途中で言い澱んだ。

「なんや、南目」

 住倉が怒ったように催促する。

「社長が自殺する気やったら、場所は関係ないんと違いますか」

「……」

 その瞬間、場が凍り付いた。誰もが心の内に抱えていた懸念だったが、口にするのが恐ろしく封印していたのである。

「いや、それはない」

 やや間があって、野島が強い口調で否定した。

「社長は心の弱い人ではないと信じている。心配するなとの書置きは帰って来られる裏返しやと思う」

「じゃあ、社長は何をしておられると……」

 思うのか、と南目が訊いた。

「心の整理や。向後の生きる目的を探しておられるのやと思う」

「それやったらええが」

「万が一、自殺場所を探しておられるのなら、間違いなく生まれ故郷の浜浦か、神村先生との思い出が詰まった経王寺以外には考えられない」

 なるほど、と皆が一斉に肯いた。

「門脇修二さんには内密に重々注意を払ってもらえるよう頼んである」

「私も父に目を配るよう連絡しました」

 野島の言葉に足立統万も付け加えた。

「では警察への届け出はどうしましょうか」

 坂根が訊いた。

「それは止めておこう。これ以上騒ぎを大きくしたくない」

 野島が答え、

「待つしかないのか」

 と、住倉が嘆息した。

「社長が刺されたときを思い出すな」

 南目がぽつりと零した。

 皆が一昨年の冬の凶刃を思い出した。

「生死の境を彷徨っておられたあのときに比べれば、今回はまだましや。社長は必ず戻って来られる。それまで、俺らで会社を守ろう」

 野島が自らにも言い聞かせるように皆を鼓舞した。


 それから三日が経ったが、森岡の消息は杳として知れなかった。

 我が国最大の広域指定暴力団・神戸神王組傘下、神栄会の寺島龍司と峰松重一もまた、森岡の安否を気遣っていた男たちである。

 寺島は神王組組長の座を事実上神栄会の世襲に、峰松は自身がその座にと、それぞれ野心を抱いていたが、そのためにも森岡は必要不可欠な人物だった。

 森岡が失踪したとき、彼の影護衛役を担う神栄会若頭補佐・九頭目弘毅の姿はなかった。一年以上に亘る付き合いの中で、両者には信頼関係が醸成されていた。したがって、森岡が外出するときに限り、九頭目に連絡を入れることになっていたのである。

「森岡はんの所在はわかったか」

「九頭目からは、何も連絡がないとの報告が上がっています」

 峰松が諦め顔で首を横に振った。

「私が迂闊でした。それまで外出時は森岡はんが律儀に連絡してくれてはったから、つい油断してしまいました」

「それほどまでに神村先生を思慕していたとは、誤算だったな」

 寺島も苦い顔で言った。

「まさか、このまま世間からフェードアウトということはありませんか」

 表舞台から退場するのではないか、という懸念を示唆した。

「馬鹿言え、あってはならんことや」

「しかし、戻って来てもブックメーカー事業は大丈夫でしょうか」

 うーん、と寺島は腕組みをした。

「頓挫することはないと思うが、これまでのような過剰な期待はできないやもしれんな」

「では、いっそのこと関与を強めますか」

「それは自殺行為やぞ」

「……」

「未だ蜂矢の親父の信頼は一片たりとも揺らいではおらん」

「はっ」

 峰松は畏まった。

「それにだ、ひょっとしたら罠かもしれんぞ」

「罠?」

「周囲を油断させているとも考えられる」

「まさか、我々を嵌めるというのですか」

 ふふふ……、と寺島は鼻で笑った。

「わしらなんぞ眼中にもないだろうよ」

「では誰を」

「神村先生の政敵だった者たちだ」

「何のためですか」

「神村先生の死には不審な点がある」

「まさか、政敵だった誰かが神村先生を暗殺したと」

 峰松は驚きの声で言った。聖域とされる宗教界で、極道世界紛いの事が罷り通っているというのか。

「暗殺というのは適当でないが、五十七歳はあまりに早過ぎないか」

「お言葉を返すようですが、死因は肝臓癌と聞いています。そうであれば年齢は関係無いかと」

「それはそうだが、たとえ癌だとしても発症してから死までが短過ぎる」

 現代医療の進歩は目覚ましい。完治は無理でも延命ならばやりようがあったはずだ、と寺島は言った。

 それはまさに、常在戦場、つまり常に死と隣り合わせにいる極道者の直感であった。

「……」

 峰松は困惑した。彼もまた極道の中の極道である。およそ殺しの手口に関して、彼に匹敵するほど精通している者はベテラン刑事ぐらいだろう。しかし、神村がいかにして命を縮められたのか見当が付かなかった。

「薬物ですか」

 峰松が弾き出した答えだった。

「それはない。神村先生は瞑想中に亡くなられたと聞いている。それ以前に毒を盛られたとすれば、本人も気づかれたはずだ」

「それはそうでした」

 峰松も浅慮だと気づいた。

「では、どのように」

「そのあたりを燻り出すための失踪だとも考えられないか」

「なるほど」

「あれほどの男だからな、死んだ振りをして相手の出方を見る計略なのかもしれん。俺たちもうっかり強権発動などしてみろ、藪蛇になる可能性がある」

「では」

 峰松が目顔で指示を仰いだ。

「ブックメーカー事業に致命的な支障が出ない限り、しばらく様子を見ることにした方が正解だな」

 峰松は黙って肯いた。


 森岡の故郷浜浦の園方寺では道恵、道仙父子もまた彼の身を案じていた。孫の統万からの報告を受けた足立万吉が、心配のあまり道恵に相談したのである。

 もちろんのこと、この父子にはどうすることもできなかった。

「神村上人の存在は大き過ぎたようですね」

「出会いの経緯が経緯だけにな」

「心の穴は埋まりましょうか」

「難しいのう」

 道恵は嘆息した。

「何といっても五十七歳という急逝だっただけに、総領さんのとっては青天の霹靂じゃっただろうからの」

「自殺ということは」

 道仙が武家社会における殉死を示唆した。森岡の神村に対する敬愛振りを鑑みてのことである。

「それは無いと信じているが、心の回復には時間が掛かるだろうし、元の総領さんに戻ることは難しいかもしれんのう」

「成す術はありませんか」

 しばらく間が空いた。

「なくもないが……」

 道恵の歯切れは悪かった。

「どのような」

「母親に期待するしかないか」

 おお……、と道仙が両手を打った。

「今考えれば、良いタイミングで和解されていたものです」

「道仙や、小夜子さんのことではないぞ」

「えっ、親父さんはたった今、母親だとおっしゃったではないですか」

「小夜子さんは実の母ではないのだ」

「な、なんですと!」

 道仙は目を剥いた。

 跡継ぎに恵まれなかった洋吾郎は、その苦悩を道恵にも相談をしていた。祈願など仏の慈悲に頼ることが始まりだったのだが、ついには他に子供を頼る決意をしたことを告白していたのである。

「洋吾郎さんはの、わしと会う度に、小夜子にはすまぬことをしたと肩を落としておられた。だからの、小夜子さんに不倫の噂があっても、とてものこと責める気にはならないと彼女を擁護されていたのだ」

「なるほど、それで一時、洋吾郎さんと小夜子さんの関係が疑われたのですね」

「わしは真相を知っていたがの、総領さんの出生の秘密の方が大事と堅く口止めされていたのじゃ」

「そうでしたか」

 腑に落ちたように肯いた道仙は、 

「では、本当の母親は誰なのですか」

 と核心を問うた。

 道恵は、むなしく首を横に振った。

「それは誰にもわからないのじゃ」

「そのようなことが」

「岡山最上稲荷の奥の院が深く関わっていたようだが、御先代が亡くなられた今では、生んだ当人一人ということになる」

「しかし、それでは総領さんの今の状況を知らないのでは……」

 そうなのじゃが、と道恵は同調したが、

「わしはの、道仙。実の母親はただ者ではないと思うのじゃ」

「とおっしゃいますと」

「お前には黙っていたが……」

 と、道恵は森岡から聞いたという逸話を話した。

 幼馴染の石飛浩二が海に溺れたとき、助けようとした森岡に見知らぬ女性が声を掛けたこと、十二歳のとき笠井の磯に入水自殺を試みたとき、助けてくれた釣り人が、少し離れたところにいたので人が海に落ちたことはわからなかったが、女性の声で助けを求められたと証言していたことである。

「まさか、そのようなことが」

「その釣り人によると、瞬時女性の姿を見ただけで、次の瞬間には跡形もなく姿が消えていたらしい」

「霊ということですか」

「証言を信じればそういうことになる」

「親父さんは生みの母の生霊だというのですね」

「わからん」

 道恵は首を横に振った。

「だが、生霊であれば今の総領さんを救えるかもしれないと思ったのだ」

「何だか無力感を覚えます」

「いかにも、いかにも」

 二人は力なく吐息を漏らした。


 天真宗総本山・真興寺の総務室では、藤井清堂と腹心の景山律堂が俄かの怪しい雲行きに戸惑っていた。

 日本仏教会主催の秘仏秘宝展開催を前にして、瑞真寺がアリバイ作りのために行う居開帳まで二ヶ月を切っていた。この機会を失えば、栄覚門主の野望を阻止する有効な手段は潰える。

「神村上人を失ったうえに森岡君まで失っては、瑞真寺の野望に歯止めを掛ける者がいなくなってしまう」

「お言葉ですが、我々はすでに御本尊のすり替え計画を把握しております」

「はて、そうかな」

「とおっしゃいますと」

「すり替え計画の証拠は、すべて森岡君が握っているのだぞ。偽物だという証拠を出せと門主が白を切ったらどうなる。肝心の御本尊様は森岡君の手に有るのだぞ。まさか、証拠もなしに事の顛末を突き付けるわけにもいくまい」

「しかし、そうすれば国真寺だけでなく必ずや瑞真寺にも咎めが及びます」

 景山は、肉を切らせて骨を断つまで、と言った。

「それは無理じゃな」

 清堂は首を横に振った。

「門主は何食わぬ顔で、自らは与り知らぬことと歴代貫主の責任に転嫁するだろうな」

「無罪放免になると」

 うむ、と清堂は肯いた。

「では、いっそのこと開帳させてはどうでしょう。その後、森岡さんが戻って来られたのを見計らって本物を突き付ければ、瑞真寺は言い逃れができません」

 景山は意気込んで言ったが、清堂は冷たい眼差しを返した。

「君ともあろう者が、それでは瑞真寺だけでなく、我が天真宗の汚点となるではないか」

 清堂の叱責に景山の顔から血の気が失せた。

「そ、そうでございました」

 明らかに焦りが生んだ失言だった。

「我々は門主を打倒する唯一無二の手段を失うことになるのかのう」

 清堂が宙を仰いだ。

「森岡さんから、すり替え計画の全容を聞き出しておくべきでした」

「いいや、彼は誰にも話さなかったであろうよ」

「森岡さんの側近は知っているのでは……」

 清堂は眉を顰めた。

「今日はどうしたのだ、君らしくもない。森岡君の側近を務める者が彼の指示なしに話すはずがなかろう」

「そうでした」

「あと一ヶ月待って森岡君が戻らなければ、諦めるか見切り発車するか決断せねばなるまいな」

 肩を落とした景山に、清堂は腹を括った物言いをした。


 一方で真言宗の聖地、高野山奥の院でも先の座主堀部真快大阿闍梨と最後の愛弟子である三枝善快が神村の死を悼んでいた。

「我が国仏教界の大いなる損失じゃのう」

 真快は慨嘆した。

「御上は薄々お気づきになっておられたのでは……」

 善快は、だからこそ自分への奥義伝承を急いだのではないかと推察していた。

「身体の異変には気づいていたが、まさかこれほどあっさりと逝ってしまうとは思ってもおらなんだわい」

「上人はお幾つでしたか」

「五十七歳じゃ。わしの晩年の二十年を上人に譲ってもなお早過ぎるわい」

「なんということをおっしゃいますか」

「神村上人の偉大さは、そなたにはわかるまい。やがて拙僧を超えて行くべき傑物であった」

「それほどまでに」

「こうなってしまったからには、善快や、そなた一層精進してくれや」

 はは、と平伏した善快が恐る恐る訊いた。

「密教奥義伝承が途絶えてしまいますが」

「うむ。困ったことになった」

 真快は眉を顰めたが、語調は暗くなかった。

「まさか、御上に願うことはできません」

「この年では自殺行為じゃからの」

 堀部真快は九十歳になっていた。とてもではないが、奥義を伝承する体力など有るはずもなかった。

「伝承できるものならば、命は惜しまぬがな」

「何をおっしゃいますか」

 善快はとんでもないという顔をした。

「善快や。わしは迷っているのだよ」

「まさか、本気で御上が伝承を」

 そうではない、と真快が首を横に振った。

「実は、神村上人の他にもう一人奥義を伝承している者がおる」

「ま、誠ですか」

 うむ、と真快は肯いた。

「栄興上人が伝承していたようだ」

「では、そのお方にお願いすれば良いかと」

「それが、そう簡単には行かぬのじゃよ」

 はて、と善快は首を捻った。

 堀部真快ほどの高僧の手に余る理由というのが思い付かないのである。

 他宗派の僧侶ということであれば、神村もその前任者の栄興も天真宗の僧侶である。密教奥義を唐から持ち帰った空海上人の流れを汲む堀部真快大阿闍梨が誠意をもって依頼すれば、何人たりとも断れるはずがない。

「女人なのじゃよ」

「に、尼僧だとおっしゃいますか」

 善快は腰を抜かさんばかりに驚いた。

 空海上人以来、尼僧が奥義伝承者となった事例は一度もなかった。理由は、高野山は明治三十七年まで、七里四方を女人禁制としていたからである。他宗派とて大差はなかったことから、尼僧が奥義を伝承することなど有り得ないことだった。

 明治時代に女人禁制が解かれたとはいえ、一朝一夕に男尊女卑の偏見が正されるわけもなく、また優れた尼僧が輩出される環境もなかったのである。

 尚、高齢となった空海上人の母が、現在の香川県善通寺市から息子が開いた高野山を一目みようとやって来ても、入山することができなかったため、麓にある高野山一山の庶務を司る寺務所に滞在することになった。その母に一目会いたいと、空海上人は月に九度も二十数キロメートルにも及ぶ参道を下って訪ねたことから、このあたりを『九度山』というようになった。

 そう、この九度山こそ関ヶ原の戦いに敗れた真田昌幸、信繁(のちの幸村)父子が配流された場所でもある。

「尼僧に偏見などないが、とはいえこの御仁は少し勝手が違うのでな」

「どなたか、お聞きしても宜しいでしょうか」

「栄興上人の妹御じゃよ」

「妹……。なぜ、栄興上人はよりによって妹様などに」

伝承したのかと訊いた。

「善快や、わしが戸惑っているのはまさにそこなのだ」

  真快は、栄興の真意を図りかねていた。

「妹御は聞きしに勝る霊力の持ち主だそうじゃが、それだけでは密教奥義を伝承する資格はない。まさか栄興上人が身贔屓したとは思わぬが、一度会ってから決断しても遅くはないと思うが、どうじゃ」

「御心のままに従います」

 善快は畏まって頭を下げた。


 そしてもう一ヶ所、静岡高尾山の瑞真寺でも当代門主の栄覚と執事長の葛城信之が神村の死と森岡の失踪を語っていた。

 表情の冴えない栄覚に葛城が声を掛けた。

「過日、御門主様のおっしゃっていたのはこのことだったのですね」

 葛城は神村の本妙寺晋山式当日、東京センチュリーホテルの一室行われた秘密の会合に栄覚の供で出席していた。

 うむ、と栄覚が神妙に頷く。

「雲からの、連絡があった」

「なるほど、それで神村上人が本妙寺の貫主に就いても脅威ではないとおっしゃったのですね」

 腑に落ちたように言った葛城が栄覚を覗き込むようにした。

「では、何をそのように憂えておられるのですか」

 眼前から神村が去って、後顧の憂いは無くなったはずではと葛城は言った。

「あ奴の出方が気になる」

「あ奴とは……、森岡でしょうか」

「そうだ」

「噂では、傷心のあまり失踪したそうです」

「それが妙に気になるのだ」

「……何か良からぬことでも企んでいると?」

 そうではない、と栄覚は首を横に振った。

「あ奴の心に火が点くことが心配なのだ」

 ああ、と葛城は思い出した顔つきなった。

「あの一同が介した場で、『その後の人生目的次第……』とおっしゃったその後とは神村上人の死だったのですね」

「神村の死に直面し、この世に無常を感じた森岡が仏道に目覚めてもおかしくはない」

「この失踪はそのための布石だと……」

「そうでなければ良いがな」

 栄覚は虚ろな目をして言った。


 渦中の森岡は、周到な失踪計画を立てていたわけではなかった。そうであれば、たとえば茜が風呂に入ったときなど隙を見て外出することは可能であった。彼がそうしなかったのは、彼女が自責の念に苛まれると想像したからである。

 当然、同じ理由で蒲生と宗光の二人を欺くつもりもなかった。下腹部が張っていたのは事実で、お腹を壊したと思っていたが、実際はガスが溜まっていただけだった。

 トイレから出て二人の姿がないとわかったとき、咄嗟に一人になりたいという欲求が沸き起こり、抑え切れなくなった。そこで、非常階段から下の階に行き、そこからエレベーターで一階まで降りたのだった。

 会社はJR新大阪駅前にある。

 ビルを出た森岡は迷うことなく新大阪駅に向かった。だが、切符売り場で足が止まった。何処に行けば良いか、決めかねたのである。

 多宝塔の建設地を求めて神村と共に足を運んだ地が頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かんだ。北から札幌、小樽、仙台、新潟、名古屋、福井、鳥取、島根、高知、福岡、宮崎、鹿児島……。思えば、書生時代からよく一緒に旅をしたものだと、懐かしさに胸が熱くなったが、どの地も心に響かなかった。

 森岡はとりあえず西に向かうことにして、岡山までの新幹線の切符を買った。岡山で伯備線に乗り換えれば、米子あるいは松江に辿り着き、故郷の浜浦に帰るのにも時間が掛からない。

 しばらくの間、園方寺の離れで逼塞しても良いか、とも考えていた。

  岡山駅で新幹線を降り、伯備線への乗り換えのコンコースを歩いているときだった。

  ふと脳裡に神村の、

――当てにはならないが、もしかしたら最上稲荷の奥の院ならば、何か手掛かりになるものが残っているかもしれない。

 という言葉が過った。

 その最上稲荷は近場にある。彼の足は自然とそちらに向いた。

 森岡はまず、最上稲荷の本堂で祈祷を受けた。

 祈祷料は三十万円である。彼は、常に新札で百万円と古札で二百万円を所持している。最上稲荷にとっても個人で三十万円というのは滅多にあるものではなかった。驚いた受付の若い僧侶は、奥から執事長を連れて戻って来た。

 森岡は願目を『ウイニットの事業繁栄』とした。

 ウイニットなるものを問うた執事長に対し、森岡はIT企業だと説明した。これを聞いて、ようやく森岡が気鋭の社長であることを知った執事長は自ら祈祷を行った。

 祈祷を終えた森岡は、タクシーを呼んで奥の院へと向かった。奥の院は龍王山の山頂にあった。

 森岡は奥の院の、とある子院でも祈祷を願った。祈祷料は百万円である。当然、応対に出た若い僧侶は驚愕して住職を呼んできた。

 森岡はしばしの逗留を願い出た。百万円には宿泊料も含まれていたのである。

 住職は十分な応対ができないと恐縮した。立派な宿坊施設は無かったが、むろん信者の五人や十人を宿泊することぐらいはできる。だが、百万円という祈祷料が住職に負い目のような感情を抱かせたのである。

 森岡は本堂で寝泊まりできればこれ以上のことはないと申し添えた。季節は初秋である。通常の夜具で十分間に合った。

 住職は再び驚いた。本堂で寝泊まりするということは、生活時間を寺院の決まりに合わせるということである。寺院によって異なるが、この子院では早朝五時に起床し、清掃の後、朝の勤行となった。

 朝食は七時から八時の間であるから、参詣客はそれまでに起床すれば良いのだが、本堂での寝泊まりとなれば、僧侶たちと同様に五時起床となるのである。

 さらに住職を困惑させたのは、森岡が掃除も手伝い、朝夕の勤行にも加わりたいと申し出たことだ。規模はわからないが、仮にも社長の肩書を持つ人物である。

 森岡が大学の四年間、大阪のとある寺院で書生修行をした経験があることを告げ、初心に帰るための訪山であることを明かすと、住職はようやく得心した。

 住職の案内で本堂に足を踏み入れたときである。森岡を得も言われぬ空気が包み込んだ。

――ああー、懐かしい。

 そう思った瞬間、森岡の脳裡に広い場所で祖母や大勢の人に囲まれている光景が蘇った。

 広い場所とはこの本堂だった。大人も子供もいて、順番に自分を抱き上げては何かを言って笑っている。自分はおそらく二歳か三歳だろう。

――そうか、生まれたとき以外にも俺はここへ来ていたのか。

  森岡は、それこそ魂の故郷にいるような心地になった。


  それから三日目の夕食のときである。

  森岡は住職と食事を共にすることになった。通常は敬虔な信者しかこのような接遇は受けないが、やはり百万円という祈祷料と四年間の書生修行、そして何より宣言通りの生活態度が住職の心に留まったのだと思われた。

「森岡さんの会社は、上場を目前にした前途有望な会社らしいですな」

 住職は赤ら顔で言った。すでに、晩酌としてビールを数缶飲んでいた。

「良くご存知ですね」

「副住職の息子がインターネットというもので調べてくれました」

「インターネットで?」

 森岡は思わず口元を緩めた。

 時代はインターネットが急速な広がりを見せていた頃とはいえ、それは企業や一般個人においては若者が中心だっただけに、もっとも抵抗感があると思われた地方の一寺院が取り入れている事実を知って、寺院ネットワーク事業の成功に確信を抱いたのである。

 住職の態度があらたまった。

「ところで、一つお聞きして宜しいかな」

「何でしょう」

「森岡さんが書生をしていたのはどのような寺院ですかな」

「大阪の経王寺という小さなお寺です」

「また、どうして書生などを」

 森岡は一瞬身構えた。住職の目に特段の思惑はなく、ただ素直な興味を抱いたに過ぎないとわかったが、心の傷に触れたのは事実だった。

「宿世でしょうか」

 宿世とは前世の縁ということである。

「宿世?」

「師は魂の泉が同じだとおっしゃっておられました」

「ほう。魂が同泉のう」

  住職は感心顔で言うと、

「住職のお名前は何と申されるかな」

 と訊いた。

「神村正遠猊下です」

 森岡は天真宗においては、法主、総本山の総務、別格大本山法国寺の貫主の三人しか許されない『猊下』という尊称を用いた。そこに森岡の無念さが現れていた。

「なに、神村正遠……」

 住職の箸が止まった。

「ご存知でしたか」

「他宗とはいえ、神村上人の高名はこの地にも届いています。上人はお元気ですか」

 森岡は何とも悲しげな顔をした。

「先頃お亡くなりになりました」

「お亡くなりに? まさか、まだお若かったはず」

 住職は信じられないという口ぶりで言った。

「五十七歳でした」

 森岡は唇を噛んだ。その溢れ出る無念さに、

「なんとも痛ましいことですな」

 と、住職は同情の声を掛けるのが精一杯だった。

「いずれ総本山の法主の座に着かれるお方でした」

「いかにも、そうでありましたでしょうな」

 他宗の住職が天真宗の詳細な制度を知るはずもなく、ただ森岡を慰めようと賛同したのである。

「先程、宿世と申されましたが、何か曰くでもございますか」

「いえ、取り立ててこれというものはございません。ただ、師との絆の深さにそう言ったまでです」

 森岡は神村との深い縁を胸に仕舞い、

「むしろ、こちらの方が曾祖母の代から御縁がございます」

 と話を逸らすように言った。 

「なんですと、曾祖母様の代から当寺と……? 森岡……」

 と記憶を巡らせた住職の顔つきが一変した。

「もしや、その曾祖母様の名はトラさんとおっしゃるのではありませんか」

「そうです。曾祖母は森岡トラという名です」

「なんと、森岡様とお聞きしても頭に浮かびませんでした。申し訳ない」

 ほろ酔いもどこかに消し飛んだ様子の住職は居住まいを正して詫びた。この奥の院においても、森岡というより灘屋で通っていたのである。

「頭をお上げ下さい。曾祖母は曾祖母、私は私ですから」

「いいえ。当寺はトラさんにはひとかたならぬ御恩を賜っております。ウメさんしかりです。私どもは今でも北の方角に足を向けて寝ることはできません」

「御住職様、大袈裟過ぎます」

 住職は大仰に手を振った。

「とんでもない。トラさんは総社から島根の生家に戻られる際、今の値打に換算すれば一億円という多額の寄進をして下さいました」

 住職はそこで一旦言葉を切ると、失礼……、と言って部屋から出て行った。そして副住職である息子を連れ立って戻って来た。

「お前も聞いていなさい」

 そう言って、住職が話を続けた。

「最上稲荷の歴史はご存知でしょうか」

「詳しくは存じません」

「明治に起こった廃仏毀釈のことは」

「それくらいの事でしたら、歴史の授業で」

 習った、と森岡は言った。

「神道の形を取りましたので、最上稲荷をはじめ子院もなんとか難を逃れましたが、疲弊はすさまじいものだったと祖父から聞いておりました」

 住職の父親が生まれたばかりで、曾祖父が住職、祖父が副住職を務めていた時代だったという。

「恥ずかしながら、当院は托鉢とトラさんの布施で糊口を凌いでいたというのが実情だったそうです。そのうえに多額の寄進です。私たち一家の救いの神ならぬ、救いの仏様と言っても過言ではありません」

 住職が頭を下げると、副住職もそれに倣った。

「どうぞ、もうお止め下さい。先程からお尻がムズムズして落ち着きません」

 森岡は苦笑いをしながら二人に酌をすると、居住まいを正した。

「さて、御住職。実は当寺に訪山しましたのはある理由が有ってのことなのです」

「もしや、出生のことですかな」

 住職は察していたような口ぶりで言った。

「おわかりでしたか」

「いつの日にか、貴方が当寺を訪ねられることがあれば、そういう理由だと思っておりました」

「では何かご存知でしょうか」

 住職はすまなさそうに首を横に振った。

「残念ですが、私は何も知りません。と申しますのも、当時私は京都の本山で修行をしておりましたので、経緯は何も知らされていないのです」

「そうですか」

 森岡は落胆の色を隠せなかった。

「ただ、お役に立つかどうかはわかりませんが、父から手紙を預かっています」

「私宛ですか」

 はい、と住職は肯いた。

「少しお待ち下さい」

 住職は再び応接間を出ると、密封された封書を携えて戻って来た。

「これです」

 住職は、封書を差し出すと、

「臨終の際、父が私を枕元に呼び、将来島根半島の灘屋の森岡洋介さんが訪ねて来られ、御自身の出生の秘密を問われたならば、これを渡すようにと言い付かりました」

 と付言した。

 失礼します、と言って森岡は封を開け、手紙を取り出して読み始めた。

 灘屋の後継問題については、神村から聞いた話と祖母ウメの手紙に記されていた内容と違いはなかったが、記述が実母の身上に及んだとき、森岡の両手が震え始め、つれて蒼白となった。

「どうかされましたか」

 住職は心配げに声を掛けたが、半ば放心状態の森岡の耳には届かなかった。

――ま、まさか、瑞真寺……。

 森岡は心の中で呻いた。

 衝撃の真実だった。なんと、生みの母は栄観尼という瑞真寺の縁者だというのである。

 先々代の瑞真寺門主と古い付き合いのあった当寺の先代住職は、その女性が幼少期より、他と違う能力が備わっていることを聞いていた。彼女が異能に悩み、苦しみ、そして孤独を味わってきたことを知っていた。

 彼女の家族は、まるで腫物を触るかのように見守るしかなかったという。

 その異能とは尋常ならざる霊力であった。彼女は人の心を読み、未来を見通す予知能力の持ち主だったのである。

 子供の頃、邪心のない彼女はその一端を披歴していた。

 だがその度に、周りから奇人、変人扱いをされて仲間外れになり、いじめの対象にもなった。年頃になると、その類まれな美貌から言い寄る男性に事欠かなかったが、交際してもすぐにうまく行かなくなった。失恋という感情が生まれる前に相手が気味悪がって逃げ去るのである。

 相手にして見れば当然だったかもしれない。

 何しろ、会った途端、

『映画よりお芝居にしましょう』

 とか、

『フランス料理より、和食の方が好き』

 などと、つい相手の男性が問う前に答えてしまうのである。彼女に悪気はないのだが、心を丸裸にされる男性にしてみれば溜まったものではない。

 そういう次第で、男性経験どころか真面な恋愛経験すらないまま、平凡な人生は送れないと悟ったその女性は、仏門に帰依する決心をしたのだという。そして、父の紹介で最上稲荷の奥の院に逗留していたのである。

 森岡は、灘屋と奈良岡家との関係を知ったときより、遥かに動揺していた。

「何か悪い知らせでも」

 青ざめている森岡に、住職がもう一度声を掛けた。

「いや、なんでもありません。あまりにも思い掛けないことが記されていたものですから」

「差支えなければ、どなたでございましたか教え願えませんか」

「母は天真宗の瑞真寺と縁があるとありました」

「ほう、瑞真寺ですか。なるほど、なるほど」

 住職はさもありなんというような顔で何度も肯いた。

「親父さんには何か心当たりでもあるのですか」

 森岡より先に副住職が訊いた。

「父と先代の栄興門主の御尊父・栄端(えいたん)上人は、叡山で共に苦学した刎頚の友だったのです」

 叡山とは比叡山延暦寺の指している。

「叡山で」

「宗派こそ違えど、叡山は広く門戸を開けています。思春期を叡山で勉学に勤しまれたお二人の友情は殊の外深いものだったようで、お互いに静岡と岡山を訪ね合っておられました。その御縁から瑞真寺の縁者というお方に話が回ったのでしょう」

 森岡の問いに住職が答えた。

「ところで、その縁者の名前などはわかりませんか」

「栄観尼と言われる尼僧だそうです」

「栄観尼……」

 住職の声が震えていた。

「どうかされましたか」

「栄観尼とおっしゃる尼僧は、栄興上人の末妹です」

「な、なんと……」

 森岡も言葉が出なかった。

――し、信じられない。実の母は栄覚門主の叔母……。ということは、俺と門主は従兄弟同士……。

「栄観尼様は、端倪すべからざる霊力の持ち主だと耳にしていました」

「……霊力」

 森岡は神村の最後の言葉を思い出していた。

「叡山の大阿闍梨様も及ばないほどとか」

「それほどまでですか」

 神村は森岡に潜む霊力は母方、つまり栄観尼から受け継いだものだとも示唆していた。

「ですが、そのせいで幼少期から化け物扱いをされ、心に深い傷を負われたと聞いています」

「今はどこにおられるでしょう」

 森岡は敬語を使った。実の母と知っても実感が湧くはずがない。

「伊豆の真龍寺という尼寺の住職をされておられるはずです」

「伊豆……」

「我が国の尼寺の総本山的な地位にある名刹だと聞いています」

 言うまでもなく、尼寺も各宗派に所属しているが、比叡山や高野山が日本仏教の聖地とされるように、横の繋がりが深い尼寺の間では一目置かれているのだ、と住職は付け加えた。

「写真の一枚でもありませんか」

「残念ながら、私が預かったのはその封書だけです」

 住職は虚しく首を横に振った。

「拙僧が想像しますに、心に深く傷を負っておられたようですから、被写体になるのを避けておられたのではないかと」

「十分に考えられることです」

 森岡もそうだろうと思いながら、手紙を封書に戻そうとしたときだった。何かに引っ掛かって上手く入らない。

 もしや、と期待を込めた目で封書の中を覗くと、写真らしきものが入っていた。

「あっ」

 森岡は自身と思われる赤子を抱いた女性に再び驚愕した。まさに、自身の命を三度まで救ってくれたあの霊だったのである。二十一歳で出産したのであれば、現在は五十八歳のはずだが、目にした霊はこの写真のように若い姿だった。

 森岡は、神村が言ったように、霊の姿は自身が母に抱かれたときに、脳に刻み込んだ姿なのだと悟った。 

「栄観尼様のお写真ですか」

 住職が訊いた。

 おそらく、と言って住職に写真を見せた。

「母としての慈愛に満ち溢れていますな」

 まさしく観音菩薩のような笑みを浮かべていた。

「しかし、貴方の生母があの栄観尼様とは……」

「私も何やら狸にでも化かされているような気分です」

 森岡にしてみれば、自身が神村の仇敵だった栄覚門主の従兄弟だと知っての感想だったが、住職にはわかるはずもない。

 ただ、栄観尼と森岡洋介が母子だと知って、

「トラさんとウメさんの信心深さが、栄観尼様を引き合わせたのでしょうな」

 と嘆息を繰り返すばかりだった。


 それから二日後の夜、山尾茜のマンションを目加戸瑠津が訪れていた。

 森岡の失踪から五日、茜は心労のあまり倒れてしまったと耳にしたからである。

 森岡の失踪は、坂根好之から藤波芳隆に伝えられ、彼から瑠津に知らされた。茜の心情を心配した瑠津がロンドを訪ねたところ、昨日から体調を崩し、店を休んでいることを聞かされたのだった。

「大丈夫なの」

 瑠津は、出迎えた茜の辛そうな顔を見て気づかった。

「ええ、瑠津さんこそわざわざすみません」

「あの馬鹿、身体を壊すほど心配している人がいるっていうのに、いったいどこで何をしているのかしら」

「彼は心の空洞を埋める何かを探しているのです」

 茜は森岡の心が神村で占められていたのを知っている。

 神村の夢を我が夢とし、ひたすらその実現に邁進して来ていた。図らずもブックメーカー事業と出会い、初めて己のための野心を抱いた森岡だったが、その占める範囲は太平洋における小島程度のものである。

「彼にとって神村先生がかけがえのない存在だったというのはわかるけど、貴女という人がいるのに」

 瑠津は憎々しげに詰った。

「瑠津さんがそう怒らなくても」

「貴女だって身体を壊すほど心配しているじゃないの」

 今度は咎めるように言う。

「瑠津さんは勘違いをされています。私は洋介さんのことは少しも心配していません。これまで馬車馬のように働いてきたから、ちょうど良い休息時間だと思っているくらいです」

 瑠津は呆れ顔になった。

「こんなときに強がりを言ってどうするの」

「本心です」

「じゃあ、どうして身体を壊すほど心配するのよ」

「これは……」

 何か言おうとした茜が吐き気をもよおした。瑠津は茜の背中を擦りながら、

「ほら、言わないこっちゃない」

「昨日からずっと吐き気が酷くて」

 茜の声には喜色が含まれていた。

 あっ、と瑠津が大きく目を見開いた。

「まさか、お目出度なの」

 はい、と茜が顔を赤らめた。

「本当に? 本当に妊娠したのね」

「昨日、病院へ行って看てもらいました」

「昨日? じゃあ、あいつは貴女の妊娠は知らないわけね」

 はい、と肯いた茜がクスッと笑った。

「実は、昨日ある人に教えてもらうまでは私自身も気づいていなかったのです」

「なによ、それ」

 瑠津は呆れた顔をした。

「ちょっと体調を崩しただけかと思っていたのです」

 実際、つわりも酷くなかったし、妊娠も六週目にはいったばかりだと言った。

「本人も気づかないのに、教えたある人ってどういうことなの」

「昨日の昼前、突然洋介さんの本当のお母様がお見えになったのです」

「本当のお母さまですって」

 瑠津は思わず驚嘆の声を上げた。

「洋介さんから事情を聞いていたので、お会いした瞬間、彼のお母様だとわかりました」

 茜は、洋介が神村から聞いたという話を瑠津に話した。栄観尼が尋常ならざる霊感の持ち主で、これまで洋介の命を三度まで救ったことを詳らかにし、併せて以前瑠津が言った洋介の『自分は祖父洋吾郎と母小夜子の不義の末にできた子ではないか』との推量を否定した。

「それは本当に良かったわ」

 瑠津は心から安堵したように言った。

「でも話を聞いてみると、彼の生みの母親って人が貴女の妊娠を指摘したことも肯けるわね」

「私もまさしく彼のお母様らしいと思いましたわ.。お陰様で、却って妊娠を意識したためか、つわりが酷いような気がします」

 茜はそう言って苦笑いした。

 ああーそれにしても、といきなり瑠津が恨めしように嘆いた。

「どうされました」

「なんという間の悪さなのかしら」

 茜は、ふっと笑った。

「きっと彼は旅先でこのことを知りますよ」

 栄観尼は何も言わなかったが、茜は彼女が森岡と会うような気がしていた。

「戻って来ると」

「はい。あわてて」

 茜は、そのときの森岡の顔を想像したのか、もう一度クスッと笑った。

「そうね。新しい命を授かったのですもの、きっと立ち直って戻るわね」

 瑠津はそう言うと、

「そうとわかれば、出来る限り私がお世話するわ」

 勝手に張り切って見せた。

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