第46話  第六巻 決意の徒 幽明

 森岡洋介は忙しい日々を送っていた。

 大本山本妙寺の件に手間取った影響で、自社株式公開に向けての準備が当初の予定より大幅に遅れていた。彼はその遅れを取り戻すため、精力的に諸事を熟す一方で、霊園事業や寺院ネットワーク事業、そして営業を開始したブックメーカー事業の陣頭指揮も執っていた。

 この間、ブックメーカー事業の営業開始に先だって、森岡は英国と台湾にも足を運んで地ならしを済ませていた。そして、中鉢博己と南目輝をその英国、坂根好之を台湾勤務とする辞令をそれぞれ下していた。

 南目はこれを機に前杉美由紀と婚約したが、当面は単身赴任を選択した。逆に池端敦子を坂根の秘書としたため、二人は異国の地で確かな愛を育んでいた。

 住倉哲平は榊原商店の取締役に転じ、鴻上智之はウイニットの社外取締役と寺院ネットワーク事業会社の社長に就任していた。 

 仕手戦の準備も着々と進行していた。

 近畿製薬の新薬開発に賭けた森岡は、市場での地道な玉拾いに加え、東京菱芝銀行の瀬尾会長に、近畿製薬への金融支援継続を依頼した。

 プライベートでは茜と所帯を持った。

 とりあえず入籍だけを済まし、結婚式と披露宴は一段落してからと考えていた。茜はロンドの権利の半分を知人に譲り、共同オーナーとして名を留めたが、夜の世界からは身を引いていた。

  

 そうして瞬く間に五ヶ月が過ぎた。

 その日、本妙寺の執事長からの要請で、森岡は蒲生亮太と足立統万、そして宗光賢一郎の三人を伴い、久々本妙寺に足を運んだ。

 この五ヶ月間、森岡は神村と一度も会っていなかった。

 自身の仕事に忙殺されていたことに加え、神村から本妙寺の宗務が殊の外忙しいため、当面の間、ウイニット本社と自宅マンションの御本尊への読経は代理を立てたい旨の連絡を受けていたため、本妙寺への参詣自体も遠慮していたのである。

 本妙寺の執事長は谷川東良ではない。

 彼は神村の貫主就任と同時に、論功行賞として執事長に任ぜられたが、僅か四ヶ月でその任から離れていた。つまり、神村の晋山式直後のことであった。自ら任を辞したのか、それとも解任なのかは定かではないが、忙しさに感けていた森岡が気に留めることはなかった。

 ただ谷川東良の目的は、本妙寺の執事長の歴史に名を刻むことにあったと推察されたので、たとえ四ヶ月か月であろうと四年であろうと、彼にとっては同じことなのかもしれないと思っただけであった。


 正門から敷地内に入り、東側にある駐車場に車を止めて、そのまま庫裡の勝手口へと向かった。勝手口といっても片方の扉の大きさが、高さ二メートル五十センチ、横一メートル五十センチ、厚み五センチもある両開きの引き戸であり、中は十四畳の広さがあった。

 重い引き戸を開けて、土間に足を一歩踏み入れたときである。森岡は懐に黒い塊が飛び込んだような気がした。

 そして、悪い予感に心臓が速い鼓動を打ち始めた。

 中の様子も普段どおりではなかった。

 庫裡に続く居間に待機していたのが、修行僧でも執事でもなく、谷川東良の後に就任した新執事長だったのである。

 それは、明らかに自身の来訪を取り次ぐためだとわかった。いくら森岡といえども通常ではありえないことである。しかも、執事長は森岡の姿を見つけるや否や、長らく到着を待ち受けていたかのように急ぎ足で近づくと、小声で奇妙なことを囁いたのだ。

「貫主様から、森岡さんだけを通すようにと申し遣っています」

 その、執事長の虚ろな表情に、森岡はまるで身体が分厚い金属板を背負っているかのように強張った。

 蒲生、足立、宗光を居間に留め置き、執事長の案内で応接室へと向かった。

 書院を三部屋抜け、短い渡り廊下を通り、本堂の裏手の長い廊下を進む。そして、もう一度短い渡り廊下を渡ったすぐの部屋が応接室だった。扉の前には執事が待機しており、森岡の姿を確認すると、神村はすでに着座していると告げた。

 森岡の動悸は限界点に達しようとしていた。目眩すら覚えていた。

 深呼吸を幾度となく繰り返し、気持ちを整えてから恐る恐る扉を開けた彼の目に、神村の驚愕の姿が飛び込んできた。

「先生……」

 森岡は絶句した。

 彼の眼前には、別人のように変わり果てた神村の姿があったのである。頬は痩せこけ、肌は張りがなく薄黒くくすんでいた。澱んだ目にも力が無く、何よりもこれまで身体全体から滲み出ていた覇気というものが全く感じられなかった。

――まさか……。

 不吉な予感が過ぎった瞬間、森岡の身体に戦慄が走った。脳天から股下に掛けて、電流が流れたかのような衝撃である。森岡はただ動転して、口を半開きにしたまま立ち竦んでいた。

 神村が恐怖の告白をした。

「森岡君、ご覧のとおり、情けない身体になってしまった。君の想像通り、癌、肝臓癌なのだよ」

 非情の毒矢が森岡の胸を的確に射抜いた。全身から血の気が引き、彼は危うく卒倒しそうなったところを、ソファーの背もたれに手を突き、かろうじて身体を支えた。

 氷水を浴びせられたかのような悪寒が全身に奔った。

 三十年もの昔、祖母から母の失踪を聞かされたときのトラウマが蘇ったように、森岡はガタガタと身体を震わせた。

――何ということだ。いまになって、再びあの時の悪夢に襲われるとは……。

 一瞬そう思った森岡だったが、すぐに別の思いが生じた。

――いや、あの時とは全く違う。

 森岡にはわかった。

 混濁した意識の中でも、はっきりと認識することができた。

 今、己を襲っているこの悪寒の正体は、あのときの不条理な現実に対する怒りや失望などではなく、自身にとっての絶対者、すなわち哲学や思想、信条、価値観、道徳観といった自己の精神を形成している全ての要素の根源であり、支柱であり、道標であり、物差しである我が師を失ってしまうこと、それはすなわち自己の消滅をも意味する、圧倒的な絶望以外の何者でもないということを……。

 三十年前とは比較にならない悪夢だった。死人のような顔色は、彼の受けた打撃の深刻さを雄弁に語っていた。

「森岡君。落ち着いて、まあ掛けなさい」

 その声は、まさに『地獄に仏』だった。

 すーと、身体の中に入り込み、凍った血液を溶かしながら、隅々まで染み渡って行くのを感じた。

 いくぶん精気を取り戻した森岡は、倒れ込むようにしてソファーに腰を下ろし、声を搾り出した。

「先生。こうしていらっしゃらないで、入院されなくては……」

 神村は静かに首を横に振った。

「いや、それには及ばない。もう手遅れなのだ。それより、今日君に来てもらったのは、最後に君に会っておきたくてね。忙しいのに無理を言ってすまなかった。いや、無理を言うのはいつものことだったね」

 神村は、いつにも増して落ち着き払っていた。不気味にさえ思えるほどの静けさだった。

「先生、最後などと悲しいことをおっしゃらないで下さい。私なら、明日から毎日でも時間を取って馳せ参じます。いえ、今晩から泊り込みます」

「ありがとう。君の気持ちはとても嬉しい。だが、私は明日には本妙寺(ここ)を離れて、天山修行堂に籠もるのだ」

「えっ、明日? 本当ですか」

 森岡は困惑の面で言った。

「本当だ」

「そうでしたら、なぜもっと早く連絡を頂けなかったのでしょうか」

 少し詰るような口調になった。

「そうしたかったのは、やまやまだったが、君には本妙寺、法国寺とずいぶんと時間を取らせてしまった。会社が上場を控えているというのにね。もし、君が私のことを知れば、また何を置いても駆け付けるのは目に見えていた。そうなれば、ますます君に、そして君の仲間に迷惑を掛けることになる。君には大いなる未来がある。社長としての社会的責任もある。そう思って、遠慮したのだよ」

――そんなことは……。

 と言い掛けて、森岡は思い止まった。

 これ以上何かを言えば、神村を非難することになる。師を苦しめることになる。それは彼の本意ではない。

「しかし、先生。そのお身体で天山修行堂に籠もられるというのですか」

「そう。最後の修行に入り、そのまま入滅したいのだ」

「そんな……。まさに自殺行為じゃないですか」

 森岡は悲痛な声を発した。

「どうせ、あと三ヶ月の余命しかないのだ。しっかり養生したところで、それが数ヶ月延びるだけなら、私は私そのものを創ってくれた天山修行堂を終焉の地としたいのだよ」

 神村は、天山修行堂には身一つで籠もり、妻である沙紀さえもそばに置かないという。むろん、弟子たちや森岡も同様であった。死を目前にした師の並々ならぬ決意は、森岡を沈黙せしめた。

 森岡は、神村が常々真言宗開祖の弘法大師空海上人に倣い、入定することを願っていたことを思い出した。密教奥義伝承者たる神村の最後の願いなのだろう。しかし、現代においてそれは無理な所業であるから、せめて自分自身を磨いた天山修行堂に籠り、読経しながら入滅したいのだろうと、心情を推し量っていた。

 やがて彼は、強烈な悔恨に襲われる。

 かつて、神村が酒席で見せたらしからぬ醜態は、精神的な疲れでも年のせいでもなく、肝臓を患っていたせいだと気づいたのである。あのとき、いち早く察して酒を絶つように、あるいは治療に専念するよう諌めていれば、数年は命を永らえたのではないか、いや完治したかもしれない。

――何故、いま少し思いを巡らさなかったのか。何故いま少し……、何故……。

 深い慙愧の念に苛まれた森岡は唇を強く噛んだ。

 ふいに、神村が森岡を遠い昔話へと誘った。

「森岡君、私たちが初めて出会った日のことを憶えているかね」

 それは、ありありと滲み出ている自責の表情を見て、救いの手を差し伸べたものだった。

「もちろんです。大げさでも何でもなく、あの日が私の生まれ変わった日ですから」

「二十年も前のことだが、私もはっきりと憶えている。あの年は、翌年早々から始まる天山修行堂での荒行の脇導師を御前様から仰せつかり、準備に追われている慌しい年末だった。ある夜、私の夢枕に観世音菩薩様が立たれ、大経寺に訪ねて来る一人の青年を良く導くようにとお告げがあった。私は、米子へ帰郷する予定がなかったから、気にも留めずにいたのだが、次の夜も観世音菩薩様が夢枕に立たれるではないか。これは、私に米子へ帰れということだと悟った私は、忙しい合間を縫って帰郷することにしたのだよ。だが二日待っても、それらしき青年はいっこうに訪れない。とうとう、大経寺に滞在する最後の日になってもお告げのあった青年はやって来なかった。私は、観音様も間違われることもあるのだなあ、と諦めかけたところに、日もとっぷりと暮れた頃、最後の相談者として君が訪れた」

 はい、と森岡は肯いた。

「先生が米子駅に到着されたとき、その場で後光の射したお姿を拝見した祖母は、この方が孫を救って下さると確信し、何とか面会できるようにと奔走し、ようやく最後の最後に面会を許されたのです。ところが、車で送ってもらったのですが、あの日は大雪で思うように進まず、約束の時間に遅れてしまい、先生が不快に思われているのではないかと、私たちも気が気でなかったことを憶えています」

 天真宗開祖栄真大聖人の生まれ変わりと評判の高い神村の凱旋帰郷に、近隣の信者たちが殺到した。その受付とスケジュール管理をしたのは、神村正遠の伯父である大経寺の住職であった。ために、神村には相談者の名前まではいちいち知らされていなかった。

「私は君の顔を見た瞬間、観音様がお告げになったのは、この青年に間違いないと確信した。なぜなら、そのときの私の目には、君の眉間から光が放たれ、観音様の浮かび上がった姿が映っていたからなのだよ。私の守護霊様は観音様だから、魂の泉が同じなのだと悟った。

「魂の泉、ですか」

「森岡君、人の世での親、兄弟といった家族の絆はね、仮初のものに過ぎないのだよ。真のそして永遠の絆は、同じ泉から生まれた魂かどうかということだ」

「はい」

「君と私の魂は、間違いなく同じ泉から生まれたものだよ」

「私と先生の魂は家族のなのですか」

 そうだ、と神村は肯いた。

「では、私は先生の息子なのですね」

 森岡は目を輝かせた。

 神村はゆっくりと首を横に振った。

「いいや、必ずしもそうとは限らない。君の魂が父、私のそれが子供ということだってある」

「それは有り得ません」

 森岡は断固否定した。

 神村のような尊い魂が、自分のような汚れた魂から生まれるはずがない。いや、たとえ松尾正之助であろうと時の首相であろうと断じて生まれないと思っていた。だが、汚れた魂から尊い魂が生まれないのと同様に、その逆も有り得ないということに森岡は気づいていなかった。

 神村は穏やかな笑みを返した。

「君はいつか、本当にあの世はあるのか、と訊ねたことがあったね」

「寄宿させて頂いてすぐの頃でした。ずいぶんと不遜なことをお聞きしたものです」

 森岡は懐かしげに言った。

「この魂の泉があの世といえばあの世といえるかもしれないな」

 神村は諭すように言うと、

「ともかく、私は君に強い宿縁を感じ、手元に置かなければという気持ちになった」

「それで年が明けたらすぐに大阪に来ないか、とおっしゃって下さったのですね」

 神村は無言で顎を引いた。

「八日からは荒行が始まるから、それまでに、君にお寺での生活の段取りを教えなければならなかった。今思えば、君は出会ったばかりの私の勧めに従って、いきなり大阪という未知の大都会に放り投げられただけでなく、すぐに四ヶ月近くも一人きりにさせられたのだから、さぞかし不安だったろうね」

 いいえ、と森岡は強い口調で否定した。

「たしかに物理的には孤独でしたが、私は先生という道標を得て救われた心境でしたので、それまでの全く先の見えない日々を送っていた不安に比べれば、取るに足らないことでした」

 森岡にとっては希望に溢れた再スタートだった。彼は、新しい人生を歩みだした経王寺での生活をいまでもはっきりと胸に刻んでいた。

「ところで、形見といってはなんだが、君に譲りたい物があるのだけれど、受け取ってくれるかね」

「先生の物なら何でも頂戴致します」

 森岡は恐縮して頭を下げた。

「そうは言っても、然したる物ではないのだ。現金は然程残ってはいないし、経王寺の権利を譲っても、君にとっては意味がないだろうしね」

「そのようなことは、お気になさらないで下さい。現金など滅相もないことですし、経王寺はお弟子さんのどなたかにお譲り下さい」

「まあ、私の微々たる現金など、君には必要もないだろうがね。そこでね、残る物と言えば、まずは私の身に着けていた物の全てを受け取って欲しいのだ」

「身に着けられたもの、ですか」

「そう。着物やスーツなどだが、これらは結構良い代物だから、君が年を取ったとき、丈を直すと良いだろう。それと、僧衣もね」

「僧衣? それは、お弟子さんに譲られた方が宜しいのではないでしょうか」

 森岡は丁重に辞退した。だが、

「いや、是非君に受け取って欲しいのだ」

 神村の言葉には力が籠っていた。森岡はその根源が何であるかわからなかったが、素直に従うことにした。

「では、遠慮なく頂戴します」

「もう一つは蔵書でね、中国の哲学書を中心に千冊ほどある。邪魔になるかもしれないが、君に貰ってもらうのが一番だと思って、誰にも譲らないでいた」

「邪魔だなんてとんでもないです。私が書生時代に読んだ古書もあるのでしょう。今では手に入れるのが難しい貴重なものばかりですから、喜んで頂戴致します」

「そう言ってくれると私も嬉しいよ。では、執事に命じて君の自宅へ送らせるとしよう。それから、最後の一つなのだが」

 神村は、手元においていた桐の木箱と二つの宝石ケースを森岡の前に並べた。

「これらは三つとも時計でね。木箱に入っているのが懐中時計で、あとの二つが腕時計だ」

 神村はそれぞれを中から取り出して見せた。

「三つともずいぶんと立派なものですね」

 目の前に置かれたそれらは、時計に興味などない森岡でも、一目で高価なものであるとわかる品々だった。

 神村は、一つ一つ手に取り、それぞれの時計が手に入った経緯を話し始めた。

「純金の懐中時計は、あの豪腕政治家だった田上角蔵さんから貰ったものでね。二十五年前だったかな、東京へ向かう新幹線の中で、トイレに立った秘書の早田茂夫さんが偶然私を見つけてね、親父も一緒だから東京へ着くまでの間、相談に乗って欲しい、と頼むんだ。私も一人だったし、特に用事も無かったので話し相手になった。すると、東京駅が近づいてきたとき、田上さんが(お上人様、有難うございました。お陰さまでようやく迷いか晴れました。つきましてはお礼がしたいのですが、あいにく持ち合わせがありません。その代わりといってはなんですが、この懐中時計を受け取って下さい)と言って、ズボンのポケットから無造作に取り出すと、裸のまま手渡したのだよ。後日、早田さんが木箱と現金を持参して来たがね」

「田上角蔵さんといえば、書生時代、唯一先生のお叱りを受けたとき、引き合いに出されたお名前ですね」

 森岡が懐かしげに言った。

  経王寺に寄宿した森岡は、一旦神村の許を離れたことがあった。神村の人徳を知る周囲の者から抗議を受けたためである。つまり、彼らにとってみれば、自分たちの息子を差し置いて、何処の馬の骨とも知れない森岡を寄宿させるとは言語道断というわけであった。

  森岡は、大学にほど近い大阪北東部の吹田という街にマンションを借りて住んだ。

  あるとき、神村からの呼び出しに応じ、経王寺へと出向いた森岡だったが、不在だったためそのまま帰宅してしまった。それが神村の逆鱗に触れ、生涯で唯一の叱責を受けたのだった。

 そのときの森岡の行動には伏線があった。

 まず、何と言っても経王寺を出る理由に納得していなかった。

 誰を寄宿させるかは神村の勝手である。

 それを彼らの希望が通らないからと言って、どうして自分が犠牲にならなければならないのか、とわだかまりを抱いていたのである。

 もう一つは怠惰が森岡を侵食した。

 経王寺に寄宿していたときは、早朝五時に起床していた。神村の朝の勤行が始まる前に、本堂他の掃除を終えるためである。

 ところが、吹田の住居から経王寺までは電車で一時間を要したため、必然的に起床時間は四時になった。それでも、転居当初は自身の修行の一貫と受け止め、通い掃除を熟していたが、神村の知人たちの理不尽な主張への憤りも相まって、この一時間に不満を抱くようになっていったのである。

 そのような森岡の心境の変化を看破した神村が、森岡を試したというのが実情であった。

「そうだね。そういうこともあったね」

 と言った神村が、珍しく決まりの悪い顔をした。

「あれは滝の坊の中原上人の受け売りでね。実は、私も恩師から同じように試されたことがあったのだよ。例えの竹山さんの話は、田上さんから直接聞いたがね」

 神村が裏話を明かした。

「先生が、田上氏とそのようなご親交がお有りになったとは知りませんでした」

 森岡も、神村が稀代の大学者だった奈良真篤の後継者に指名されていたことは知っていたが、修行一筋で世間音痴の神村がそれほど親密な関係を築いていたとは意外だった。

「私の晋山式のとき、茶室でも話したが、田上さんだけでなく、他の政治家や財界人も、あの奈良岡先生の紹介でね。君も学生時代に読んだ四書などは、言わば帝王学だからね。そういった人たちによく教えを請われたのだよ」

「そういうことでしたか」

「奈良岡先生と言えば、御上にお目に掛かったようだね」

 神村が思い出したように訊いた。

 御上とは、日本仏教の聖地とも言える真言宗金剛峰寺の先の座主、堀部真快大阿闍のことである。

「はい。先月、ようやく時間が取れまして、御山を訪ねました」

「私にも手紙が届いている。御上はたいそうお喜びのようだ」

「光栄の至りですが、なんとも面映ゆい面会でした」

 森岡は正直な感想を述べた。

「それはそうだろう。突然、五代前の先祖が同じと言われてもね」

「ただ、奈良岡先生と何度もお会いしていましたので、初対面の緊張感からは開放されました」

「そうか、そうか」

 神村は何度も肯き、

「この私でさえ、御上の前では緊張を強いられるが、君は然程でもなかったか。それが親類縁者の繋がりというものだな」

 満足そうな笑みを浮かべた。

「先生でも緊張されたのですか」

「何といっても、同じ仏教徒として偉大な先達であられるからね。私など足元にも及ばない」

「それほどまでのお方ですか」

 森岡はつい口を滑らしてしまった。神村を尊崇する彼にしてみれば、たとえ謙遜が含まれているとはいえ、その心中は複雑だった。

「門外漢の君にはわからないだろうが、公平に見てここ百年では最も優れた宗教人だと思う。まさに御上こそ私の目標であり、理想としたお方だ」

 神村は、森岡の疑心を払拭するように言い、

「御上は九十歳の高齢だが、まだまだ御元気のようだ。何かあれば、御上に相談すると良い。いや、何事がなくても暇を見つけては会いに行きなさい」

 と進言した。

「私のような者に、そうそう会って下さるでしょうか」

「文面から察するに、御上もずいぶんと君を気に入られたようだし、何より君が求める答えを御上がご教示下さるかもしれないよ」

 と、神村は遠回しな言い方をした。

「承知致しました」

 森岡は畏まって答えた。

「御上だけではない。他の方々とも面識を持っただろう」

「はい」

「わかっていると思うが、その方々との交誼は大事にして行きなさい。きっと、この先君の力になって下さるはずだ」

 森岡は、神村の言葉を噛みしめていた。神村から授かる形見の中で、最たるものは蔵書でも時計でもなく、この人脈であることを十分に承知していたのである。

「さて、次の小さな女性用の腕時計だけどね。それは美咲こずえの母親の形見なのだよ」

 美咲こずえは、昭和の歌姫と称えられ、一時代を築いた大歌手である。

「形見の品を先生が譲り受けられたのですか」

 不思議そうな目をして訊ねた森岡に、

「そうなのだ。本来は美咲こずえが受け取る品なのだが、その彼女が『大変お世話になったお上人様に受け取って頂く方が母の供養になります』と言うのだよ。いやあね。芸能界、特に演歌の世界というのは、今でも少なからず裏の世界との繋がりがあることは、君も知っているだろう。美咲こずえも、戦後間もない頃から地方の興行廻りをしていたせいで、どうしても関係が切れない場合もあったのだ。二十年以上も昔の事になるのかなあ。母親から依頼があって、彼らとの、あるトラブルの仲裁に入り、丸く収めた御縁で付き合いが始まったのだ。当時は結婚するなんて思いも寄らないことだったから、女性物はいらないと断ったのだが、美咲こずえも譲らなくてね。とうとう根負けして受け取ったのだ」

 神村は懇切丁寧に説明した。

 しかし、多くの言葉を発した神村は辛そうにした。

「先生、少しお休みになった方が宜しいのでは」

 森岡が気遣いを見せたが、

「いや、大丈夫だ。君とは今生で最後の面談だ。言い残したことが無いようにしたい」

 神村は毅然として一蹴した。

「この細工だがね」

 神村が話を続けた。

「これはね、英国のエリザベス女王のコインを二つに割って、その中に部品をはめ込み、再び閉じたものだ。これは君の奥さんにあげると良いよ」

「茜にですか」

 森岡は思わず訊き返した。

「でも先生、これは奥様に残された方が宜しいのではないでしょうか」

「いや、妻は良いのだ。茜さんにあげなさい」

 神村は命令口調で言った。

 その憤怒にも似た言い様は、当然の遠慮をしたまでの森岡にしてみれば、違和感を覚えずにはいられないものだった。

「最後は、そう、これは榊原さんが話されたことがあったと思うが、あの神王組の田原親分から貰ったお礼で手に入れた物なのだよ」

 神村は決まりの悪そうな顔をした。

「いやあね、あのとき金は受け取ったものの、あまり筋の良い金とはいえないからね、それを寺院の経費には使えないと思い、半分を京都の先斗町や祇園で散在し、残った金でこの時計を特注したのだよ」

 森岡は法国寺裏山の霊園地買収に伴い、対立した神栄会に拘束されたことがった。このとき、榊原が神村と神王組の三代目組長だった田原政道との因縁を説いたことがあった。

「これは、オーデマ・ピゲですね」

「そうだ。だが、この三つ合わせても、時計そのものの価値は一千万にも満たないだろうね。君が私のために費やした金の数百分の一にしかならないが、これで勘弁してもらえないか」

 神村は軽く頭を下げた。

「何をおっしゃっているのですか。何度も言いますが、現在の私があるのは全て先生のお陰なのです。私の全てを差し上げても悔いはありません」

 森岡は叫ぶように言った。

「君にそう言ってもらえると、私も気持ちが軽くなった」

 そう言った神村の口元に微笑が宿っていた。

 森岡は、神村の傍で生きて来た十八年の間、これほど神秘に満ちた師の笑みを見たことがなかった。まるで両界曼荼羅の中心にいる大日如来のように慈悲深い表情……。もしかすると、神村は死に直面して、ようやく解脱の境地に達しているのかもしれないと思った。

 暫し救われた心地の森岡だったが、やむなく現実に立ち戻った。世俗に生きなければならない彼には、最後にどうしても神村に教えを請いたいことがあったのである。

「先生、本当に今日が最後なのでしょうか」

 噛み締めるように言葉を吐いた森岡に、

「そうだ。この世では今日が君との最後の日となる」

 神村は冷酷にも映る穏やかな表情で答えた。

「では、最後にご教示下さい。先生亡き後、私は何をすれば良いのでしょう。どう生きて行けば良いのでしょう」

 森岡の切実な言葉に、神村はしばらく瞑目した。

 外は早くも日が傾き始めていた。晩秋の沈みゆく太陽の光は、庭の木々や草花を薄く照らし、障子の隙間から差し込んだ木漏れ日は、神村の閉じた目や鼻や頬を弱々しくなぞっていった。森岡には、そのそこはかとなく移ろい往く時の流れが、神村と自分に重なって仕方なく、虚しい切なさに曝されていた。 

 やがて、神村はゆっくりと目を見開くと諭すように言った。

「私が生きていれば、こうしただろうということを誰かのためにやりなさい」

 森岡は即座に反論した。

「先生、それは無理です。私は、先生のお力になれることが人生最大の目的であり、喜びだったのです。いえ、生きて行く糧だったのです。その先生の代わりになる人物など、この世にいるはずがありません」

 神村を絶対の存在としていた森岡にとっては、唯一無二の真理だった。

 だが、神村は眉一つ動かさなかった。

「いや大丈夫だ、森岡君。必ずや君の力を必要とする、また君も支援したいと思う人物が現れる。私に対する想いとは異なるかもしれないが、きっと君の心を動かす人物は現れる。しかし、もし現れなかったら……」

 神村はその先を言い掛けて、口を閉じた。

「もし現れなかったら、何でしょうか? 先生教えて下さい。先生……」

 森岡は哀願した。

「いや、止そう。それは、いずれ君自身で悟るときが必ず来る」 

「……」

 森岡は、それ以上神村に催促することはできなかった。神村の表情がそれを許さなかったのである。

 森岡は、これまでがそうであったように、神村亡き後もまた彼の言葉を信じて生きて行くしかなかった。

 神村は森岡への形見として、人生の道筋に関わる段取りをいくつか手配していた。しかし、それを受け取るかどうかは森岡自らの悟りが肝要だった。為に、神村は差し出がましい口を控えたのである。

「ところで」

 と、一転神村が遠慮がちな口調になった。  

「私も君に最後の願いを言っても良いかね」

「もちろんです。どのようなことでもおっしゃって下さい」

 森岡は渇望の目で神村を見た。彼は、最後の最後まで神村の力になりたかった。神村の願いが、難題であればあるほど向後の生きる糧になると思っていた。

「一つは、先程話の出た経王寺の後見を君に託したい」

「経王寺にはどなたが入られますか」

「甥の正胤(しょういん)が入る。だが、なにぶん彼はまだ若い。君が後援して、守り立ててやってくれると私も安心できるのだが」

「承知致しました。経王寺は、私にとっても思い入れのある大切なお寺です。必ずや正胤さんを支えて参ります」

「もう一つは、私の夢を引き継いでもらえないだろうか」

「先生の夢……。承知致しました。必ずや、先生に代わる人物を探し出し、実現致します」

 森岡は力強く宣言した。

「いや、違う」

 思わず神村は小さく呻いたが、

「ありがとう」

 と言葉を濁した。

 その神村が思い掛けないことを口にした。

「しかし、君が初めて経王寺にやって来たときから、もう十八年も経ったのだね。実はね、森岡君。私は折を見て、君を養子に迎えるつもりだったのだよ」

「えっ! 私を先生の養子に」

 森岡は、再び言葉を失った。

 書生の頃、彼はそれを密かに夢見ていた。だが、神村ほどの人物の養子に入るには世間体を考えても、それ相応の学識、人格の備わった者でなければ適わないと考えていた。まして、宗教人でもない者が、それを望むことなど畏れ多いことと、ずっと心の果ての一角に閉じ込め、堅く鍵を掛けていたのである。

 森岡は、神村にその意思があったということだけで、胸が詰まっていた。

「君が私のところにやって来た後、間もなくして御祖母さんがお亡くなりになり、君は天蓋孤独になっただろう。そのときから、いずれ君を養子に迎えよう考えていた。しかし、私は悩んだ。悩み抜いた」

 神村は悔しさを滲ませた。

「そうしているうちに機会を逸してしまった」

「ご結婚ですね」

 森岡が推測した。

 うむ、と神村は小さく顎を引いた。

「私自身、それまで考えてもいなかった妻を迎えたことによって、やむなく断念したのだよ。今思えば、君を先に養子にしておけば良かったと深く後悔している」

 そう言った神村の頬を一筋の涙が伝った。最初で最後の師の涙を目にした森岡は、それまで押さえていた感情が堰を切ったように一気に込み上げてきて、ところを憚ることなく大声を上げて泣いた。

 止めどなく涙が溢れてきた。体内の水分や血液が全て涙に変わって出て来るのか、と思うほど涙が出た。祖父のときも、父のときも、母親代わりとなって、一心に育ててくれた祖母のときも、最愛の妻奈津美の死に臨んだときでさえ、一粒の涙も流すことのなかった彼が、このときばかりは童子のように号泣した。それは、あの書生時代、神村に叱り付けられて泣いたとき以来の慟哭だった。

「君を養子に迎えるにあたって私が何を悩んでいたかわかるかね」

「私が灘屋の総領ということでしょうか」

「むろん、それもあった。だが君を養子に迎えたとしても、君の子供が灘屋を再興するという方法だって考えられた」

 神村は暗に違うと言った。

 森岡はある直感に顔を歪めた。

「もしや、私の出生に関わることでしょうか」

――先生は自分が祖父と母の間に生まれた不義の子だということを知っておられたのだろう。先生の法力であれば、灘屋の秘事に触れられたとしても不思議ではない。

 森岡は、穢れた血が流れている自分は、神村ほどの高潔な人物の養子として相応しくなかったのだと理解した。

「その通り。私は君のお祖母様からその事実を伺っていた」

 神村は、森岡の祖母ウメが亡くなる直前、米子の大経寺の伯父に自身宛の手紙を託したのだと言った。

「祖母! まさか」

 森岡には信じ難いことであった。夫と息子の嫁との不義という忌々しい秘事を祖母は知っていた。自身のおぞましい出生の秘密は、祖父と母だけの密事ではなかったのだ。

 神村は腑に落ちない顔つきをした。

「何を驚いているのかね。当時の灘屋の後継者問題は、君が考えるよりも重大事だったのだ。とくにその半数以上が、何らかの恩恵に与っている浜浦の村民にとっては死活問題だったと言える。例えて言うなら、無能の領主を頂いた領民がいかに塗炭の苦しみを味わうことになるか、歴史が証明している」

「うう……」

 森岡はただ唸るしかなかった。

「家族会議では、最初は養子を迎えようということになったらしい」

「養子、ですか」

「とはいえ、全く血が繋がっていないというのも拙いということで、親戚から誰かをということになった」

「わかります」

 森岡は呻くように言った。名門家系を存続するためにはよくある話である。

 もっとも、武家社会においては、血縁もさることながら家門を存続させることが最命題だったため、それほど血の繋がりには拘らなかったが……。

「ところが、これはという目ぼしい男子が見当たらなかった。しかも、猟官運動ではないが、近親者たちの洋吾郎さんへの追従があからさまになり、親戚同士で牽制し合うようにもなったらしい」

 神村は一旦言葉を切り、呼吸を整える仕草をした。

「先生、大丈夫ですか」

 森岡が席を立とうとするのを、心配ないと神村が右手で制した。

「まあ、それは無理もないだろうな、当時の灘屋の威勢は絶頂にあったということだから、蜜に群がる蟻のようなものだろう。頭を痛めた洋吾郎さんは、ある重大な決断をして小夜子さんを説得されたのだよ」

「そうして私が生まれたのですね」

 森岡は失意の声で言った。

 神村が不思議な物でも見るかのような眼をした。

「君は何を勘違いしているのかね」

「はあ? 勘違い、ですか」

 森岡は間の抜けた声を出した。

 ははは、と神村が重病人であることを忘れさせるように笑うと、

「いや、すまない」

 と詫び、

「そうか、そうか、君の精神を蝕んだ真の原因はそれであったのか」

 同情の声を掛けた。

「すると私は……、私は祖父、いや洋吾郎の子ではないのですね」

 森岡は弾む心を抑え込むように訊いた。

「もちろんだ。仮にも灘屋の御当主だよ。洋吾郎さんがそのような鬼畜紛いの所業をなさるわけがない」

 はい、と肯いた森岡は、

「では、祖父が母を説得したというのは」

 と結論を急いだ。

「それは」

 と、神村は一呼吸置いた。

「洋一さんが他の女性に子を産ませることを許せということだ」

「え」

 森岡はまたもや言葉を失った。

 武家社会で言えば側室の斡旋だが、彼を驚かせたのは祖父が父に妾、あるいは浮気を進めたことではない。

「父は子供が作れない身体なのでは……」

「違う。子供が出来難い身体だったのは小夜子さんの方だ」

――そんな馬鹿な……。

 森岡の脳裡に、浜浦での妹寿美子の話が過っていた。

「母は再婚した男性の子供を産んでいます」

「人の世は皮肉にできているのだのう」

 神村は深い溜息を吐いた。

「灘屋を飛び出す前に妊娠したことがわかっていれば、留まったかもしれないというのに。ともかく、その子は再婚相手の子ではない。紛れもなく洋一さんのお子だ」

 後年、ウメと再会したとき、小夜子は全ての事情を話していた。ウメの手紙には、小夜子は駆け落ちするまで男に身体を許さなかったのだという。洋一に対するせめてもの義理立てだった。事情を全て承知していた洋一は、離婚届に黙って署名捺印しただけでなく、子供の戸籍、親権でも争わなかった。彼の小夜子に対する贖罪だと思われた。

「な、なんということ」

 森岡は混乱の極みにいた。

 ただでさえ、神村の死期を知り狼狽しているうえ、己の出生の真実まで、それも想像もしなった秘密が解き明かされて行くのだ。

「君は浜浦で、この世には血の繋がりより大切なものがある、と言ったそうだね」

「な、なぜ」

「それをと思っているな」

「は、はい」

「茜さんから聞いた」

「茜が」

「ロンドに行ったとき、話してくれた」

――先生がお一人でロンドに行かれた?

 訝る森岡に、神村が言葉を重ねた。

「森岡君、誤解しちゃあいけないよ。小夜子さんは、君が実の子ではないから、手放したわけではない。彼女の愛情は、それこそ血の繋がった実の母以上だっただろうと思う」

「はい」

 森岡は屈託のない声で言った。捨てられたというわだかまりは残ったが、子供心に小夜子の愛情は実感していた。

 神村は、それならば良いと柔和な笑みを浮かべた。

「駆け落ちしてすぐに、小夜子さんは妊娠に気づいたらしい。驚愕されただろうて、なにせ結婚して十五年だからの。とはいえ、もうどうにもならない。覆水盆に返らずの例えどおり、灘屋に戻ることなど覚束ないことだったのだ。唯一の救いは、相手の男性が生まれて来る子を我が子として育てると申し出てくれたことだったらしいの」

 森岡と妹の寿美子は、種(父親)違いではなく、畑(母親)違いの兄妹ということだった。

「母は、今は幸せに暮らしているようです」

「それも君が、姪御さんを救ったからではないのかな」

「救ったなどとは大袈裟です」

「いや、君の心根が天に通ずるときが来るだろう」

 神村はいつの日か笑顔で再会する日が近いと示唆した。

 はい、と肯いた森岡はもう一つの想いをぶつけた。

「では、私の産みの母は」

 誰なのですか、と迫った。

「それは」

 神村が再び躊躇った。

 森岡は困惑げに神村を観た。

 ここまで明かしておいて、いまさら躊躇うのはなぜなのか。生みの母にも曰くがあるというのか。

「もう何をお聞きしても驚くことはありません」

 森岡はさりげなく催促した。

「いや、誤魔化そうとしているわけではない。お祖母様から頂いた手紙の内容に私自身も首を捻っていたのだよ」

 神村は手元の書箱から封筒を取り出して森岡に手渡すと、ふーと弱々しい息を吐いた。

 ウメの手紙は、次のような内容だった。


 洋一の相手探しは難航した。

 養子縁組ではないので、親族からというわけにはいかない。といって氏素性のわからないのも不都合である。身分が明らかで、しかも後腐れのないようにしなければならない。後々になって、実母だなどと名乗り出られても困るのだ。

 そこでウメは最上稲荷に祈祷がてら奥の院の住職に相談した。

 岡山県岡山市にある最上稲荷は京都の伏見、愛知の豊川と並んで日本三大稲荷の一つと言われている。稲荷というからには神道なのだが、最上稲荷は日蓮宗に帰属しており、正式名称は最上稲荷山妙教寺(みょうきょうじ)といった。これは明治の初期に起こった廃仏毀釈から逃れるため、神道の形式を採ったためで、そのお蔭で最上稲荷は破壊を免れたという歴史を持つ。

 ウメが奥の院の住職と面識があったのは、姑だったトラの縁によるものである。

 ウメの姑であるから洋吾郎の母ということになるが、実はトラは母ではなく叔母、つまり洋吾郎の母の妹であった。洋吾郎の父は婿養子である。

 トラは中国山地の山間にある『新見(にいみ)』という街の庄屋に嫁いだが、僅か二年余りで夫が急逝したため家を追い出された。亡夫の弟夫婦が後を継いだためである。トラの父は、娘を浜浦に戻して再婚相手を探す心積もりだったが、元来進取の精神の持ち主だったトラはこれを機に、岡山県の総社市に移り、乾物を扱う商いを始めた。

 トラはまた信心深い人間であったらしく、暇さえがあれば近所の最上稲荷へ商売繁盛の祈願をしていたという。その甲斐があったのか、商売は至極順調でかなりの資産を手にした。

 ところが、灘屋に思わぬ事態が起る。

 出産後の肥立ちが悪く洋吾郎の母が急逝してしまったのである。洋吾郎の祖父は若い婿、つまり洋吾郎の父が幼子に縛られるのを不憫に思い、金を渡して自由にした。いや正直に言えば、その後の相続問題の懸念を払拭するためであった。

 洋吾郎の父に後妻を迎えるという選択肢もあったが、その後妻が親族ならまだしも、全くの他人を娶り、そして男子を成したとする。それはつまり、灘屋の血を引いていない子の誕生ということである。

 洋吾郎の祖父は、自身が身罷った後のことを考えてみた。

 後妻が、灘屋の後継に自身が生んだ子を、と願うのは必然ではないか。そして、同じく婿に入った洋吾郎の父が、自分の血を受け継ぐ者同士であれば、灘屋への義理より夫婦の情を優先しても不思議ではないと考えたのである。

 洋吾郎の祖母はすでに亡くなっており、男手一つという意味では祖父も同様で、しかも六十五歳という当時にしては高齢である。

 そこで、トラがひと肌脱いで灘屋に戻り、洋吾郎の養育に当たったという経緯であった。

 そのとき、トラは店を譲って得た資産の半分を最上稲荷の奥の院に寄進した。ちなみに灘屋を出た洋吾郎の実父は、受け取った資金を元手に境港で荷揚げの事業を始めた。これが足立興業の成り立ちである。

 その後、洋吾郎がウメと結婚すると、毎年春と秋の大法会に、トラは彼女を連れて最上稲荷に参詣し、奥の院に逗留した。その際、多額の寄付をしたことは言うまでもない。

 奥の院は代替わりしていたが、むろん当代の住職もトラとウメの献身は知っていた。したがって力になろうとは思ったものの、見ず知らずの男の子を産み、母子の名乗りも上げられない条件を飲む女性などいるはずもない。

 ところがである。その奇特な女性がいたのだという。それも二十歳になったばかりの絶世の美女だというではないか。

 折しも、さる名門寺院の御令嬢が奥の院へ逗留していた。

 彼女は尼僧になるための準備として、まずは最上稲荷の奥の院で住職の身の回りの世話をしながら心構えを学んでいる最中であった。

 その女性が事情を知って自ら手を上げたというのである。

 住職は仰天した。

 それはそうであろう。由緒ある名門寺院の生まれで、おそらく無垢の身体だと思われた。何を好き好んで曰くのある子を産む謂れがあろうか。

 だが、彼女は平然とこう言い放った。

『尼僧になるからには、人々を苦しみや悩みから救わねばなりません。そうであるならば、男も知らなければ失恋の経験もない。結婚もしなければ子供も産んでいないという人間として女性として未熟、半端な者がどうして役に立ちましょう。私は、その方の子を産み、手放すことによって、女として母としての辛酸を舐めたいと思います』 

 住職は彼女の覚悟のほどを両親に報告したが、尋常ならざる娘のこと、何か窺い知れない深い思惑があってのことでしょう。しかも子供の頃より一旦言い出したら後へは引かない強情者であるから好きなようにさせたい、という返事が返ってきた。

 女性は一つだけ条件を申し出た。洋一を気に入ることというのは当然であったが、彼女は洋一にも拒否する権利を与えて欲しいと申し出たのである。

 而して、この奇妙な企ては成立した。

 女性と洋一は、共にお互いを気に入ったのである。いや厳密に言えば、洋一の方はまるで催眠術を掛けられたかのように、彼女に従順であるしかなかったという。

 二人が奥の院の一室で同棲生活を始めて二十日が経った頃、突如女性は貴方の子を懐妊しましたと告げて、跡形もなく姿を消した。

 周囲は何が何だか理解に苦しんだが、ともかく彼女の言を信じて、七ヶ月後小夜子が奥の院に入ることになった。世間へは、奥の院の功徳で懐妊した小夜子が、恙なく灘屋の後継を産むためだと説明した。

 それから三ヶ月が経った頃、小夜子が男の赤子を抱いて灘屋に戻って来たのである。


 森岡は、最上稲荷の奥の院を舞台にした自身の出生秘話を聞いて、ある得心を抱いていた。自身が精神の病に罹っていたとき、祖母のウメは霊験あらたかな、ありとあらゆる名刹に連れだって参詣していたのだが、もっとも縁深いと思われる最上稲荷は、その名さえ口の端に上らなかった。何かの拍子に出生の秘密に近付くことを恐れたのだろうと、森岡は推察したのである。 

「君のご家族は経緯が経緯だけに、できるだけ君の耳には入れないということで意見の一致を見たそうだ」

「父の遺言書にも記述がなかったのはそのためですね」

 そういうことだろう、と神村は頷いた。

「洋一さんも、ずいぶんと苦しまれたことだと思う。いかに灘屋の跡継ぎのためとはいえ、小夜子さんを裏切った形になったのだからね」

 はい、と森岡も同調した。

――お袋への暴力が酷かったのは、自分自身への苛立ちがあったからなのだろう。いかに祖父さんの勧めがあったとはいえ、他の女性との間に子供を作ったことは、お袋への背信行為である。親父は己自身が許せなかったに違いない。歯痒かったのだろう。情けなかったのだろう。だが、その捌け口をお袋に向けるのはあまりに理不尽だし、心が弱過ぎる。

「しかし、お祖母様が亡くなってしまわれると、真実自体がが葬り去られてしまう」

「そこで、祖母は先生を頼ったのですね」

「しかも、君の精神状態に十分な配慮を願う、と念が押されてあった」

 森岡は祖母との日々を思い出し、胸が熱くなった。だが、胸に引っ掛かりが残る。

「その女性の名は何という」

 神村は首を横に振った。

「では、その名門寺院というのは」

「それも聞いてはいないということだ。素性を一切問わないということが条件だったらしいし、灘屋にとってもその方が都合が良かったのでな」

「私の産みの母に辿り着く方法はないのですね」

「もしかしたら、最上稲荷の奥の院ならば何か手掛かりになるものが残っているかもしれないが、代替わりしているだろうし、当時の用心振りからすれば当てにはならないだろう」

「そうでしょうね」

 森岡は少し視線を落として言った。産みの母の消息を切望しているわけではないが、さりとて全く気にならないわけがない。

「君が女性の情に絆されやすいのは、二人の母と縁が薄かったせいかもしれない」

「育ての母はともかく、生みの母とは縁が薄いも何もありません」

 森岡は自虐的に言った。生まれたばかりの赤子では感情も何もないということである。

「それは違うよ」

 神村は強い語調で諌めた。

「いつか私に霊は存在するのか、と聞いたこともあったろう」

「はい。あの世はあるのかとお訊ねした繋がりでお聞きしました」

「あのとき、私は曖昧にしたが、私はこのように考えている」

 と、神村が語り始めた。

 人は父母、祖父母、曾祖父母と先祖を辿って行けば、血の繋がりは無限と言える。胎児は、母のお腹の中にいる十月十日の間に、その記憶を全て受け継ぐ。膨大な先祖たちの視覚、聴覚、触覚、味覚、感情など、目にしたもの、耳にしたもの、触ったもの、食したもの、喜怒哀楽など全ての記憶をDNAに取り込む作業を行うのである。

 これは何も人間ばかりではない。

 たとえば、稚魚のとき川から大海に下った鮭が、産卵のために生まれた川に遡上したり、ウミガメが同じく産卵のために同じ浜に戻るのも、臭いや感覚といったものがDNAに刻み込まれているからである。

「生まれたばかりのまだ目の開かぬ赤子が、自分の母の乳房を嗅ぎ分けるのも同じ理屈だ。だから、君の脳には君を生んだばかりの母の顔立ちも記憶されているし、妊娠中、母がどのような思いで君の成長を見守っていたのか、感情の変化も全て記憶されている」

「それがまだ見ぬ生母を愛しく思う感情に繋がるのですね」

 そうだ、と神村は肯いた。

「前にも言ったが、世に言われている霊能力者というのは、その力量の差は別にして、自身の脳だけでなく他人の脳にも触れることができ、さらに視覚化、音声化できる人間のことを言うのだと私は思う。もっとも、彼らにしてもほんの一部に過ぎないのだがね」

「かつて先生は、そういったた霊能力は、本来誰しもが備えている能力だとおっしゃっいました」

 神村は静かに肯いた。

「その能力に触れる方法はいくつかある。生まれながらにして備わっている者。私たちのように厳しい修行によって啓発される者。事故や病魔に侵されることによって、突然触発される者などが代表的だろうと思う」

 なるほど、と森岡は思った。

 神村は厳しい荒行によって、そして本宮糸は死に瀕してそれぞれ霊力を身に着けたのだろう。

「これは、あくまでも私の推量だが」

 と、神村が前置きした。

「何か、ございますか」

「私の見るところ、君には底知れぬ霊力が備わっている。これは生まれながらのものだ」

「はい?」

 森岡は気の抜けた声を出した。

 自身に異能の力が潜んでいることは自覚していたが、神村の口調に畏敬の念が含まれていたからである。

「まだ本格的に目覚めていないが、私の法力など足元にも及ばないほどだ」

「な、なんと」

 今度は絶句した。荒行を積むこと十二回、宗祖栄真大聖人の生まれ変わりとも評されている神村を凌ぐ霊力など持ち合わせているはずがない。

「冗談はお止め下さい」

「この期に及んで冗談を言っている暇はない」

 神村は語気を強めた。

「申し訳ございません」

 森岡は青ざめた。たしかに、死期に臨んで神村が戯れを言うはずがなかった。

「まあ、落ち着いて聞きなさい。なるほど君には灘屋の血が流れている。ということは、奈良岡家の血、つまり堀部真快大阿闍梨様と血を同じくしているわけだから、霊力が備わっていても何ら不思議ではない」

 神村は一旦言葉を切った。

 おもむろに茶を啜ると、息を整えた。体力の限界を迎えているようだったが、気力を振り絞るように続けた。

「だが、私は違う気がするのだ。君の霊力は母方に依るものだと思う。お祖母様の手紙では、君を産んだ女性は名門寺院の出だということだが、それも並の寺院ではないのだろうと思う。そのあたりが手掛かりになるのではないかな」

 あ、と森岡は思い当った。

「何か心当たりがあるのかね」

「まさかと思うのですが、私はある若い女性に三度命を救われました」

 森岡は八歳のときの石飛浩二の悲劇と、十二歳のとき笠井の磯に身投げした折に助けてくれた釣り人が見たという女性のこと、そして石飛将夫の凶刃により生死を彷徨ったときのことを告白した。

「なるほど、その女性が君の産みの母親かもしれないな」

「しかし、そのようなことが」

「生霊だよ。君の身を案ずる母親が生霊となって救いの手を差し伸べたのだと思う」

 いや、と神村が別の想いを口にした。

「もしかすると、観音様の化身かもしれない」

「観音様は先生の守護霊様ですね」

「君を私に引き合わされたのも観音様だったからね。君の生母が観音様に依頼されたのかもしれない」

 森岡は観音様の化身だと理解した。女性は二十歳前後と非常に若かった。生母の生霊とするには無理がある。

「母にはそれほど霊力があると」

 神村は黙って肯くと、

「いずれ君も本格的にその霊力に目覚めるときが来る。念を押すまでもないが、それを世のため人のために使ってくれるものと信じているよ」

「それは間違いなく」

 森岡は神村の眼を見据えて誓った。


 やがて無常にも時は過ぎ行き、神村と森岡の最後の対面は終焉を迎えた。

 ところが、最後の際になってとんでもないハプニングが生じた。精も魂も尽き果てた神村がお付の者に抱えられるようにして部屋を出て行く寸前だった。

 神村は歩みを止め、顔を途中まで森岡の方に振り返ると、いかにも悲しげな顔で口を動かした。

「……」

――む……え……ん?

 森岡には、神村が何を言い残したかったのか、定かには読み取れなかった。

――むえんとは無縁……。もう先生と俺との縁は切れたということなのか。

 だが聞き返す間もなく、神村はそのまま立ち去ってしまったのである。

 それまでの様子を見ても、これまでの生き様に照らし合わせても、決してするはずのない神村の苦悶の表情に、森岡は不覚にも呆然とその場に立ち竦んでしまい、師にその真意を訊ねる機会を逸してしまったのである。

――無縁とはいったい……。先生は何を言い残したかったのだろうか。

 森岡は、その後幾度となく、最後の表情の意味を自らに問い続けてみたが、納得する答えを見つけることはできなかった。


 神村との最後の面会の日から、二ヶ月が過ぎたある日の夜中――。

 森岡は、過去のある出来事を夢に見ていた。

 それは五年前、神村と多宝塔建立の地を探して、鹿児島へ出向いたときの事だった。車一台がようやく通れるだけの山間を抜ける砂利道にタクシーを走らせていたとき、いきなり神村が車を止めて、獣道らしき道を頼りに、山の中へ入って行った。森岡は訳がわからぬまま、ともかく後を着いて行った。

 すると、およそ百メートル分け入ったところに、二十畳ほどの平地があり、十五基の小さな石塔群が人知れず林立していた。

 神村によると、それは遊女の墓石群だという。戦国時代、この辺りで金が産出したのに伴い、多くの人夫が集められた。遊女は彼らの慰みのために、強制的に連行された者たちだった。そして残酷な事に、必要がなくなると、口封じのために殺害されたのだという。

 神村は、タクシーがその麓を通り掛かったとき、多くの女性たちの霊が石塔の在る方へ消えていったのを見たというのだ。神村はスーツの上に袈裟を掛け、数珠を手にして経を唱え始めた。森岡も目を閉じ、手を合わせてお題目を唱えていた。

 それから数分が経ったと思われた。お題目を唱える事に集中していた森岡は、ふと神村の声がしないことに気づいた。目を開けると、石塔の前から師の姿が消えていた。辺りを探しても見つからず、車に戻ったのかと思い、麓に下りようとするが、道に迷って辿り着けない。森岡は必死で神村の名を叫ぶが、虚しく返事は返って来なかった。

 早朝、森岡はけたたましい電話の音で夢から起こされた。

 久田帝玄から神村が息を引き取った旨を知らせるものだった。

 森岡は静かに受話器を置くと、窓を開けて西の空を仰いだ。

 彼は、溢れる想いを心に刻んでいた。

『身は幽明相別つとも、師の魂は永遠に我が心中に有る』と。










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