第14話  第二巻 黒幕の影 醜聞

 鳥取から大阪に戻った森岡洋介に、探偵の伊能剛史が緊急入院しているとの一報が届いた。

 森岡は、直ちに入院先の東京慈恵総合病院へ伊能を見舞った。連絡をくれた伊能の部下の煮え切らない応対から、急病や交通事故などではないと推量しつつ森岡が病室を訪れると、彼は警察の事情聴取を受けている最中だった。

 森岡は、刑事が退出するのを待って入室した。

「いったい何があったのです」

「いやあ、無様な格好ですみません」

 伊能は左手で頭を掻き、面目なさそうに言った。意外と声に張りはあったが、全身打撲のようで、頭、右手、両足に包帯が巻かれていた。どうやら右手と右足は骨折しているようである。

「無様な格好はお互い様ですよ」

 森岡が笑って言うと、

「本当ですね」

 伊能も肯いた。彼は、森岡が凶刃に倒れ入院していたとき、石飛浩二の件で病室を訪れていた。

「刑事が来ていましたが、事件ですか」

「いえ、たいしたことではありません。部下が大袈裟にしたのです」

 伊能は苦笑いしながら曖昧に否定した。

 森岡はその表情に暗い影を読み取った。

「まさか、私の依頼の件が仇になったのでは……」

「……」

 伊能は押し黙った。

「そうだとすると、私にも責任があります。どうか隠し立てしないで下さい」

 うーん……としばらく考え込んだ伊能は、

「他ならぬ森岡さんだけにはお話します」

 とその重い口を開いた。

 

 警察庁内閣官房審議官の平木直正(なおまさ)から森岡の用件を聞いたとき、伊能は依頼を請けるかどうか逡巡した。何を隠そう、天真宗は彼が警察を辞することになった因縁の相手だったからである。

 伊能剛史は三十八歳。

 三年前、彼の警察庁における最終の階級は警視、職務は警備局・外事情報部・外事課第四係係長である。国家公務員Ⅰ種試験に合格した、いわゆるキャリア・エリートであり、将来を約束された身であった。

 このとき彼は、ある重要な職務に就いていた。

 中国の諜報員が政府の中枢に接触しているという情報を得た彼は、チームの総力を挙げて諜報員と政府側要人の特定に奔走していたのである。

 懸命な捜査の結果、中国の諜報員は『蝶蘭(ちょうらん)』という女性だということ、政府側要人は政務官として、大臣に代わって実質的に外交を担い、将来を嘱望されていた若手国会議員の宅間だと判明した。

 蝶蘭は、日本の風俗店などで働きながら外貨を稼ぐ、中国農村部からの出稼ぎの女性たちに紛れて入国していた。彼女たちのほとんどが、渡航費用を中国マフィアから借り入れているため、ビザの期間中に目標の金額が稼げなかった者は、不法滞在となるのがお決まりである。

 だが、蝶蘭は適当に身分を替えながら、偽造されたビザで長期滞在していた。偽造といっても、中国政府のお墨付きであるから、日本の当局に尻尾を捕まれることがなかったのである。

 その日、宅間は後援者に伴われて、東京五反田のとある飲食店に足を踏み入れた。表向きは中国人をはじめ、韓国人、フィリピン人など、アジア人女性がホステスとして働いている、外国人ショーパブ店を装っていたが、裏では売春を斡旋している違法店であった。そのようなことを知るはずもない宅間は、後援者に誘われるがまま入店したのである。

 美人揃いのホステスの中でも、蝶蘭は群を抜いていた。その美貌もさることながら、流暢な日本語、そして現在の日本女性が無くした楚々とした立ち振る舞いが、宅間の心を捉えて離さなかった。

 宅間は、一目で蝶蘭の虜になった。宅間を的に掛けた中国当局は、彼の好みの女性を調べた上で、蝶蘭を好みの女性に仕立てたのであるから、当然と言えば当然だった。

 宅間を誘った後援者は、中国当局の協力者ではない。宅間に的を絞った中国当局が、彼の身辺を調査し、後援者の愛人がこのショーパブ店で働いていることを突き止め、蝶蘭を送り込んで罠を仕掛けたのである。いわゆるハニートラップである。

 そうとも知らず、蝶蘭と懇ろになってしまった宅間は、寝物語に重要な外交機密を再々口にしていた。彼女はそれを、本国共産党の諜報機関に伝えていたのである。

 スパイ防止法のない日本では、このような類の諜報活動は日常茶飯事であり、平和ボケで緊張感のない国会議員や高級官僚たちは、いとも簡単に敵の術中に嵌まってしまう。ちなみに、さらに酷いのは産業界である。技術先進国の日本は格好の的になり、優れた技術が盗まれ放題なのは周知の事実である。

 さて、伊能は確たる証拠を掴み、上司である課長に上申した。ところが、数日後彼に下されたのは、兵庫県警察本部の公安課・課長に任ずるという辞令であった。

 兵庫県警の公安部門は、日本最大の暴力組織・神王組を抱えた重要な部署であるうえに、階級は警視正に昇格されることから、傍目には栄転と見られた。

 だが、それは再び本庁に戻ることが前提での話であって、そのまま兵庫県警に留まることになれば、体の良い飼い殺し人事なのだ。

 伊能はその意図をはっきりと読み取った。嫌気の刺した彼は、抗議の意味を込めて警察庁を退職したのである。このとき、彼の再就職の面倒を看たのが、当時大阪府警本部長だった平木であった。

 平木は、高校の後輩でもある伊能に目を掛けた。伊能が探偵事務所を開設するに当たっては、関東管内のかつての部下に働き掛け、種々の案件を手配させたり、知人である生命保険会社の役員に依頼して、保険調査の仕事の便宜を図ってもらったりもした。伊能も、もし赴任地が大阪であったならば、退職を考え直したかもしれないほど、平木を信頼していた。

 伊能の退職に際して、平木は可能な限り情報を収集し、彼に伝えた。

 それによると、伊能から上申を受けた公安課長は、警備局長と相談し、宅間の事情聴取を含む、捜査活動の許可を得ていた。

 ところが着手寸前で警察庁長官に『待った』を掛けた人物がいた。

 当時の内閣官房副長官・監物照正(けんもつてるまさ)である。警察庁長官から国会議員に転身した監物は、警察庁内に隠然たる影響力を残していた。現に、そのときの長官はかつて監物の直属の部下であった。

 調査を進めると、どうやら天真宗のさる筋から、監物照正に捜査活動の中止を求めた形跡が浮上した。宅間が天真宗の信者であることは知る人ぞ知る事実だったが、それがただの信者ではなく、総本山の実力者と深い繋がりがあることまでわかった。

 その実力者というのはいったい誰なのか……さすがの平木も、そこまで辿り着くことはできなかった。

 そして、深い闇に包まれたまま、ほどなくこの事件はうやむやになった。蝶蘭は中国に帰国し、宅間は体調不良を理由に、職を辞して一件落着となったのである。

 以来、伊能は天真宗に深い疑念の目を向けていた。

 森岡の調査依頼は、その天真宗に関わるものである。伊能は、掘り起こされた古傷に、痛みを覚えずにはいられなかった。

 それでも、最初の依頼は京都を中心とする関西が舞台だったので、それほど気に留めることもなかったが、その後総本山とも関わりを持つことになり、否応なく伊能の脳裡に総本山の実力者の影が過ぎった。調査を進めて行けば、諜報捜査にストップを掛けた人物が特定できるかもしれないのだ。

 伊能にとっては、古い因縁との対峙だったのである。

「そのような経緯がありましたか」

 森岡は総務清堂の調査を依頼したときの、伊能のらしからぬ緊張を思い出していた。

 その伊能が、総本山の有力宿坊である華の坊を調査しているときであった。

 ある一人の僧侶が、彼の目に留まった。

――あれ? あの男は……確か宅間をマークしたとき、ホテルのロビーで見掛けた男ではないか。

 伊能はソファーに座っていた宅間に、何やら二言、三言話し掛けて立ち去った男を思い出した。

 さすがは有能な公安捜査員である。そのような些末なことまで記憶していた。ただ、その折は単なる知人だと思い、気にも留めていなかった。

 伊能の頭に平木の、

『捜査にストップを掛けたのは天真宗関係者である』

 との言葉が浮かんだ。そして今、宅間に接触した男が僧衣の格好で、華の坊の門を潜った。

――もしや、捜査にストップを掛けたのは総務の藤井清堂なのか。

 藤井清堂が総務になったのは五年前である。十分警察に圧力を掛けることができる立場にあった。

 胸にざわめきを覚えた伊能は、正体を確かめるべく、華の坊を出たその僧侶らしき男を尾行した。といっても、一旦は男を見失った。伊能が見張っていた場所は、華の坊から遠く離れており、数分の用で華の坊を辞した男に、伊能は追い付けなかったのである。

 そもそもが華の坊の調査は容易ではなかった。在野の寺院とは異なり、総本山はそれ自体が一つの『シマ内』のようなものであり、他所者を注視し、牽制し、排除する習性があるからだ。そのような場所で、普段どおりの張り込みなどとうていできるものではない。

 伊能から張り込み場所の相談を受けた森岡は、総本山の地図から、華の坊を見下ろす高台に現法主の生家である『塔(とう)の坊』の存在を認め、一計を案じた。

 伊能を小説家と偽って、寺院を舞台にした執筆のため長逗留したい、ということにしたらどうかと提案したのである。

 森岡は、法主の実子である現住職とは面識があった。そこで、住職にのみ真実を話し、了解を得たのである。塔の坊から華の坊までは直線距離で三百メートルあったが、望遠鏡を使用すれば問題ない。

 そうして、華の坊を訪れた人物を、出版社の編集部員と称した伊能の部下が、入れ替わり立ち代りして追跡調査をしていたのである。

 男の姿を見失った伊能だが、塔の坊にいる部下から、男が向かった方角を聞いた彼は、男の行き先を宗務院か本堂だと当たりを付けた。すると、彼の予想通り男は本堂の前で立ち止まり、ひとしきり読経していた。

 伊能は参拝客の振りをして、何気に男の顔を確認すると、間違いなくかつてホテルのロビーで宅間に接触した男だった。

 ところが、男は読経を終えると、本堂裏手の山道を登って行ったため、尾行はできないと直感した伊能は、宗務院に戻ってその山道の行く先には何があるかを訊ねた。すると、山道は高尾山に通じており、妙顕修行堂と奥の院、そして瑞真寺が建立されているとの答えが返ってきた。

 伊能は、そこで男のことを一旦放念し、森岡の依頼に専念した。そして、調査が一段落した後、再び高尾山の調査に着手したのである。

 伊能は、参拝客の装いで高尾山に登った。高尾山への一般の参拝客は、無くはなかったが、大変に珍しいことだった。妙顕修行堂は僧侶の研鑽の場であり、奥の院には余程の敬虔な信者でなければ足を踏み入れない。

 残る瑞真寺は、一般にはあまり知られておらず、参拝の対象にはなり難かったのである。しかも、冬場の参拝者など皆無である。

 必然的に、高尾山への参拝客は目立つことになり、伊能の行動は誰の目にも筒抜けになった。伊能はそのあたりのことに疎かった。いくら公安捜査出身とはいえ、高尾山は勝手の違う場所だったのである。

 さて、男は妙顕修行堂の僧侶ではなかった。むろん、外出厳禁の修行僧でもない。奥の院は宿泊することもできたので、伊能は一泊して探索したが、目当ての僧侶は見つからなかった。

 残るは瑞真寺となったが、伊能はそこで足止めを食らった。瑞真寺への参拝は、宗務院への事前の届出が必要だったのである。

 伊能には、その後の予定が詰まっており、宗務院に戻り、瑞真寺の許可が出るのを待って、再び当寺を訪れるだけの時間が無かった。そこで、一旦東京へ戻ったところを、暴力団風の男たちに暴行を受けたのだという。

 その折、去り際に、

『今度、高尾山をうろつけば、命の保証はないぞ』

 と恫喝されたのだと、伊能は付け加えた。

「仮に、伊能さんが目障りな存在だとして、それは過去の諜報事件絡みなのか、総務清堂の調査に対してなのか」

「わかりません。ただ、何となくですが、瑞真寺は接触されること自体を嫌っているような気がします」

「しかし、極道者を使って貴方を襲わせるとは、大胆不敵ですね」

 森岡は険しい表情で言った。

 伊能は、警察を辞してはいるが、OBとして紛れもなく警察ファミリーの一員である。場合によっては、警察権力への挑戦とも受け止めかねられない蛮行だった。ましてや暴力団対策法の施行以降、暴力団は僅かな隙も見せないよう神経を尖らせている。そのような状況下で、彼らがわざわざ警察を挑発するような行動に出るはずがない。

 彼らの背後には、警察権力をも押さえ込む勢力が控えているとも考えられる。

――天真宗の実力者……瑞真寺……総務清堂と繋がりが有るのか無いのか。

 正体不明の闇の出現が、森岡の心に重く圧し掛かる。

 その後、労わりの言葉を掛け、森岡が病室を去ろうとしたときだった。

「森岡さん。そういえば、もう一つ気になる人物を総本山で見掛けました」

 と、伊能が思い出したように話し掛けた。

 森岡は息を呑んだ。

「誰ですか」

「筧です。総務の華の坊を張っていたとき、前を通る彼を見つけました」

「筧?」

 因縁の名に、森岡は瞬時訝ったが、

「筧は総務清堂の側に付いた男ですから、華の坊の人間と接触していてもおかしくはないでしょうね」

 と苦々しく言った。

「ただ、彼が華の坊に入った形跡は確認していませんが」

 伊能は、いま一つ確信の持てない表情で言ったが、

 森岡は、

「別の場所で密会でもしているのでしょう」

 と気にも留めなかった。

 彼の胸中には、

――あれほど、釘を刺しておいたのに、懲りない奴だ。

 再燃した怒りが蔓延していたのである。

「いずれ、痛い目に遭わせてやりましょう」

 森岡は憎々しげに言い捨てた。

「ところで、森岡さんに一つお願いがあるのですが」

 話の最後に、伊能があらたまった口調になった。

「実は、私の後輩を一人雇って下さいませんか」

「貴方の後輩ということは警察官ですね」

「そうです。といっても直接の後輩ではなく、私がお世話になった大先輩からのお話なのです」

 伊能は上半身を起こした。

「蒲生亮太(がもうりょうた)といいまして、元は要人警護、つまり『SP』をしていたのですが、不運にも指の怪我をしましてね。その後遺症で小指が曲がったままになり、職を解かれたのです。通常の職務に支障はないと思うのですが、なにせ万全が求められる任務ですから」

「要人警護をしていたぐらいですから、優秀だったということですね」

「はい、それはもう」

 間違いない、と伊能は力強く肯いた。

「ただ、デスクワークに配置転換されましたので、この際警備会社にでも転職しようと考えているようです」

「私の護衛に雇えとおっしゃるのですね」

「此度の私の怪我に託けるわけではありませんが、森岡さんも災難に遭われていますし、得体の知れない連中も蠢いているようです。この際、身の安全の強化を図られては如何でしょうか」

 伊能は親身になって進言した。

「私は構いませんが、蒲生さんがうちみたいな小さな会社で納得されるでしょうか」

「それが、事前に貴方のことを話しましたら、是非仲介の労をとって欲しいとの返事だったのです」

「そうであれば、私の秘書ということで宜しいですか」

「それは有り難い。蒲生に代わって礼を言います」

 そう言って、伊能は不自由な身体を折り曲げた。


 妙智会は、森岡らが期待した以上の行動力を見せ、僅かの間に四千名もの署名を集めた。この数字は天真宗僧侶全体の約二割に当たるもので、決して軽くはなかった。

 弓削は数名の幹部と共に署名を持参し、宗務院に永井宗務総長を訪ねる。

 永井大幹はこの署名を、この数字を粗略に扱うことはできなかった。妙智会と対立する事態だけは避けなくてはならなかったのである。

 もとより、永井に総務清堂と事を構える気などさらさらなかったが、さりとて妙智会を蔑ろにすれば、自身の法主への障害になりかねないとの懸念を抱いた。何しろ、永井が法主を目指す十年後には、今の妙智会のメンバーは皆中堅クラスになっているのだ。

 法主の人選は、総本山四十六子院の専権事項とはいうものの、彼らが再び一致結束して声を上げれば、無視を通すというわけにもいかなくなる。

 神村が永井宗務総長に会えばわかると言った意味は、そのことだったのである。

 はたして、永井は総務清堂に自重するよう働き掛けをすることを約束した。

 永井の助言は、総務清堂をして大いに震撼せしめた。清堂はその数により、妙智会の並々なら決意を知ったばかりでなく、本来自分の補佐役である宗務総長の永井までが、敵対するかもしれぬ事態を深刻に受け止めたのだった。

 この戦略が功を奏し、総務清堂は腹心である景山律堂を引き上げさせ、今後法国寺の件には一切関知しない旨を実弟である清慶に伝えた。

 清堂は自身の法主就任に傷が付く事を恐れ、苦渋の判断を下したのである。

 兄清堂の撤退通告は、清慶にとっては大いなる痛手であった。それは、経済的支援の打ち切りや、総務の権限を利用した人事ができなくなるということよりも、仮に大河内法悦が久田帝玄支持に回っても、次期法主に反目するという、宗門の一員としての不敬を免れるということにあった。


 森岡は、ここぞとばかりに攻勢を掛けた。

 総務清堂の後ろ盾がなくなった今こそ、藤井清慶の資金源をも断って、一気に戦意を喪失させようと目論んだ。すでに、伊能剛史から清慶のスポンサーである吉永幹子に関する調査報告を受けており、その中に彼女に対する攻撃材料を見つけていた。

 森岡は信頼のおけるルポライターにある情報を流す。

 森岡は、吉永幹子がやり手のセレブ社長として、何度かテレビのバラエティ番組に出演しているのを観ていたのだが、その際、彼女は総額百億円を上回る宝石類を身に付けて登場し、他の出演者の羨望の眼差しを浴びるというコンセプトになっていたと記憶していた。

 森岡は伊能から提出された、彼女が経営する企業グループの決算書類を分析した結果、ある疑問を抱いていた。 

 それは事業主でなくても簡単にわかることだった。彼女の企業グループ全体の売り上げ、利益から推察するに、とうてい百億円以上の宝石など手に入れることは不可能だということである。

 森岡は、伊能に吉永幹子の出自(しゅつじ)を含む過去も調べ上げさせたが、資産家の家に生まれたわけでもなく、富豪と結婚したという形跡もなかった。

 それどころか、彼女は没落地主の貧しい家に生まれ育ち、働きながら夜間高校を卒業した後、僅か二坪の総菜屋から始まり、艱難辛苦の末に今日のような成功を収めた、まさに立志伝中の女傑だった。

 そうであるならば、何か裏のからくりがあるに違いないと踏んだ森岡は、さらに身辺を調べさせた結果、彼女が身に着けている宝石類は、番組に出演する度に、さる宝石商から借り受けるという事実を突き止めた。

 簡単に言えば、こういうからくりなのだ。

 彼女が経営するレストランの内、数店舗が広尾や白金といった都内の高級住宅街にあった。宝石商はその地の利に狙いを付け、年に数回宝石の展示即売会を開催させて貰っていた。

 宝石商にしてみれば、招待するのは彼女の店の顧客、つまり上流階級の裕福な主婦が中心であり、上客相手の美味しい商売である。一方客から見ても、店の常連として吉永幹子とは親交があり、信頼が置けるという安心感があった。

 吉永はその場所を提供し、客を紹介する代わりに、高価な宝石を無償で借り受け、テレビ番組に出演することにより知名度を上げ、グループの売り上げアップに繋げるという手法を採っていたのである。

 森岡は、彼女が番組に出演する度に、それらの宝石を自分の所有物であるとの発言を繰り返している事実を受けて、彼女が虚言を労していることを糾弾し、さらにもしテレビ局の製作者側もそのことを承知していながら、見過ごしているか、あるいは増長しているようなことがあれば、一種の『やらせ番組』に該当するのでないかと指摘した。森岡は、ルポライターに原稿を書かせた上で吉永幹子に会い、清慶への支援を打ち切るよう求めたのである。

 吉永も一廉の人物である。人を見る目に自信はあった。

 森岡の両眼は不気味に底光りし、全身からは冷徹な殺気が放たれていた。神栄会若頭の峰松と渡り合ったことで、森岡はそういう類の箔も、自然と身に付けていたのかもしれない。

 吉永は無意識に身を竦め、

――この男は性根を据えている。やると言ったら、刺し違える覚悟で徹底的にやるだろう。そうなったら、命さえも危ないかもしれない。

 と直感した。

 吉永幹子に選択の余地はなかった。その記事が雑誌に掲載されれば、常識的に考えて信用は失墜する。軽く済んでも、全くの無傷で終わることはないと想像できた。

 彼女は、客商売である以上、身の破滅にも繋がりかねない重大事であることを認識し、その場で残りの寄付を撤回する旨を約束した。そもそも、彼女は総務清堂に帰依していたのであり、彼が手を引いた今、そのような危険を冒してまで、清慶に義理立てする謂れはなかったのである。


 こうして藤井清慶の力を削ぎ、大河内法悦を説得するに万全の環境を整えた森岡であったが、そこに大きな落とし穴が待ち受けていた。

 何事にも頃合というものがあり、按配を間違えると手痛いしっぺ返しを食らうものである。若さに任せ、一気呵成に奔った森岡の、その辺りのさじ加減に疎いことが裏目に出た。

 その昔、戦場においての上策は、味方の兵を無傷で帰還させ、勝ちを得ることだった。そのため、必ず敵の逃げ道を残しておいたという。

『窮鼠猫を噛む』の例えではないが、実兄清堂の後ろ盾を奪い、吉永幹子の支援の打ち切りを画策して清慶を追い詰めたことは、予想以上に彼の焦りと憤りを生み、常軌を逸した行動を取らせることになってしまった。

「森岡君、これを読んだかね」

 森岡を幸苑に呼び出した谷川東良は、硬い表情で足元に置いていた週刊誌を手に取ると、テーブルの上を彼の眼前に滑らせた。

「週刊現代潮流ですか。いえ、私はこの類の雑誌は読みませんので」

「そうか。ちょっと、表紙をよく見てくれ」

 森岡は目を凝らした。

「表紙ですか? あっ!」

 思わず息を呑んだ。

「こ、これは……」

「そうなんや。御前様と蔵王興産の速水社長との関係が暴露されてしまったんや。速水だけならまだしも、指定暴力団・稲田連合の傘下、石黒組の組長との関係も書かれとる」

「蔵王興産と石黒組……」

 森岡はつい口を滑らしてしまった。

「なんや、森岡君。知っとるんか」

「いえ、両方とも前にちょっと耳にしたものですから」

 森岡は心の乱れを押し隠し、如才なく誤魔化した。

――そうか、真鍋さんはこのスキャンダルを気に掛けていたのか。そして若頭が言っていたのはこういう事か。

 彼は真鍋高志の忠告と、峰松重一の不適な笑みを思い出し、心の中で苦虫を噛み潰した。

 ようやく、お膳立てを整えたのに、何と言う皮肉なことだろうか。

 久田帝玄が抱える唯一の弱点が、しかもただの弱点ではない、彼の息の根を止めかねないほどの痛恨事が、ついに白日の下に晒されてしまったのである。 

 はたしてこの醜聞は、たちまち全国の諸寺院を駆け巡り、宗門内は騒然となっていた。

 森岡に面に沈痛の色が射していた。

「これは清慶の仕業ですか」

「おそらくな。総務さんから情報を受けたのかもしれん」

「それにしても、血迷ったとしか思えませんね。御前様だけでなく、宗門全体を貶めていることがわからんのでしょうかね」

「形振り構わんということやろう。それだけ、切羽詰ったということやな」

 東良も吐き捨てるように言った。

「これは、大きな問題になりますか」

「いや、これ自体はそれほどの問題やない。宗門の中枢部は、今回ほど決定的なものではないにしろ、過去にも一度だけ御前様の黒い交際話を聞き付けたことがあったらしいが、そのときは帝法上人と御前様の親子二代に亘る貢献を考慮し、不問に付したらしい。せやから、宗門内では単なる黒い噂話で収まった」

「それなら、今回も……」

 穏便に済ませるのでは、という森岡の顔色を東良が掌で制した。

「此度も、週刊誌に掲載されスキャンダルになったことは問題やが、御前様が刑事罰を受けるような罪を犯したのならともかく、いかがわしい連中と付き合いがあるという程度では、今さら問題視はせんかったやろ」

 谷川東良は含みのある言い回しをした。

「せんかった、ということは今回は問題になるのですか」

「ああ、すでに大問題になってしもうた。清慶は自分でスキャンダルを週刊誌にリークしたばかりか、それをネタに御前様を宗務院の規律委員会に掛けよった」

「規律委員会? そんなものがあるのですか」

 森岡は初めて耳にした組織に、つい問い返してしまった。

 東良が呆れ顔になった。

「そりゃあ、天真宗かて組織である以上、当然あるわな。坊主といえども、罪を犯す不心得者がおるやろ」

 侮るような口調である。

「それは、そうですね」 

 たしかに東良の言うとおりである。間抜けなこと聞いた、と森岡は後悔した。

「その犯罪に応じて、社会とは別に宗門内でも処罰を下すんや。一番重い僧籍剥奪から、一番軽いけん責までのな」

「なるほど。それで、今回の件はどの程度の処分対象になるのですか」

「それやがな、問題は……」

 谷川東良は一旦言葉を切り、ビールを飲んで喉を潤した。森岡がグラスに注いで満たす。

「もちろん、今のところ刑事事件やあらへんから、僧籍剥奪や僧階の降格という重い処罰にはならんし、御前様は宗門の公職には就いておられんから、免職ということもない」

「では」

 森岡が先を促した。

「考えられるのは、一定期間の謹慎やな」

「謹慎? それなら別にどうってことないですよね」

 謹慎と聞いて、森岡はほっとした気の緩みを表に出した。

「なんでやねん! 大問題やろうが。謹慎いうて、ただ家の中に居れということやないんやで。新たな役職には就けんということや。もし謹慎の処分が下れば、最低でも一年は公職には就けんのやで。つまりやな、法国寺の貫主にはなれんということや!」

 谷川東良は鋭い目つきで睨み付けると、森岡の緩んだ気持ちを断罪した。それは、森岡の後塵を排して来たこれまでの鬱憤を晴らすかのようであった。

「せやから、なんとしてもけん責で収まってくれなあかんのや」

「不見識で申し訳ありません」

 森岡は素直に詫びると、

「その処分というのは規律委員会が決めるのですよね」

 と思惑めいた口ぶりで訊いた。

「そうや」

「では、その委員たちに働き掛けることはできないしょうか」

「それはできんのや」

 東良は素っ気無く答えた。

「どうしてです」

「規律委員会はな、処罰対象の僧侶の位によってメンバーが異なるんや」

 東良の説明によると、

『大僧都』以下の僧階の場合は、常設されている委員会が判断を下して、宗務総長が承認する形を採り、その上の二つの僧階である『僧正』と『権僧正』の場合は、四十六子院の中から僧正以上の僧侶六名を選び、それに宗務総長を加えた七名で合議のうえ処分を下し、総務が承認する形となる。

 さらにその上の『権大僧正』は、全国四十八ヶ寺の大本山と本山の貫主の中から五名を選び、それに総務と宗務総長が加わった七名で合議のうえ処分を下し、法主の承認を得ることとし、過去に一度も例は無いが、『大僧正』である法主の場合は、大本山の貫主全員と総務で合議をするのだという。

 規律委員会への告発は、対象となる僧侶と同等以上の僧階を持つ者であれば誰でもできた。むろん告発を受けても、むやみやたらに規律委員会で審議されるわけではない。

 僧侶の身分に関わる決定を下すことには慎重を期したため、余程の証拠が提出されない限り、却下された。

 尚、審議入りの有無は、対象が法主の場合のみ総務が、それ以外は宗務総長が判断を下した。

「ともかく、御前様は大本山や本山の貫主になられたことはないが、天山修行堂が特例で本山格扱いになっとるから、権大僧正の位をお持ちなんや」

「それでは、今回の判断を下すのは大本山と本山の貫主五名と総務、それに宗務総長の七名なのですね」

「そういうことや」

「では、その七名に働きを掛けたらどうでしょう」

 森岡は再び謀を持ち掛けた。

「それができんと言うのや」

 東良は何度も言わすな、という顔をする。

 森岡は黙って先を促した。

「あんな、選ばれる五名の貫主は、兄弟弟子はもちろんのこと、処罰対象者の出身地や寺院が所属している地区など、とにかく縁故が考えられる貫主は前もって外され、残りの貫主たちから無作為に抽選で選ばれるんや。そうして選ばれた五名は当日まで公表されんし、本人たちにも守秘義務が課せられるから、当日までは接触することができん。もちろん、総務と宗務総長にも厳格な行動が義務付けられとるから、これまでのように買収することなどできやせんのや。もし強引に買収工作などすれば、却って心証を悪くする」

 そこまで言うと、谷川東良は再び眼つきを鋭くし、

「同門に対する処罰……森岡君、いくら腹黒い奴でも、これに関わることには、まだ良心の欠片というものが残っているんや」

 と凄んで見せた。

――良心だと? 何を今さら……。

と腹の中で冷笑しつつも、

「つまりは、結果が出るまで、私たちにはなす術がないということですか」

 と確認した。

「そういうこっちゃな」

 東良は愛想の欠片もなく答えた。

「ところで、御前様の処分が決まるのは、一ヶ月後ですよね」

「そうや」

「法国寺の合議の日と重なりますが、それはどうなりますか」

「心配無用や。それも相応に日延べとなる。それより、森岡君。今回はくれぐれも余計な事をせんと自重してくれよ。勝手な真似をして、問題がいっそう拗れるようなことはせんでくれ」

 東良はいつにもまして力説し、さらに、

「これに関しては、兄からも重々釘を刺すようにと言い付かっている」

 と、わざわざ東顕の意向も持ち出して牽制した。

「わかりました」

 と表向きには了承した森岡だったが、彼がただ指を銜えて待つはずがなかった。大金を使って策謀を巡らし、身内から裏切り者を出す代償まで払っているのだ。その彼が運命を決する裁定を、黙って第三者に委ねるほど御人好しであるはずがなかった。


 思い立った森岡の行動は素早く、二日後にはもう意外な場所に姿を現していた。

「いやあ、まさか貴方から連絡があるとは夢にも思いませんでした」

「突然のお呼び出しにも、快く応じて下さいまして恐れ入ります」

 森岡は恐縮して頭を下げた。

「なんのなんの、神村上人の懐刀から連絡を頂いて、断る者などいないでしょう」

 笑いながら、その巨漢を揺するようにして近づいて来た男こそ、妙智会会長の弓削広大であった。

 谷川東良と別れた直後、森岡は早くも弓削に対して、仙台市内のホテルでの密談を求めていたのである。森岡は、初めて会ったときの神村に対する言動と、その後の妙智会の指導振りから、彼の才覚を評価していた。弓削ならば何か良い知恵があるかもしれない、と望みを掛けての仙台入りだった。

 一方、弓削の方も森岡の能力を高く評価していたので、自身の将来のためにも懇意になっておいて損はないと思っていた。

「なるほど、谷川東良上人はそんなことをおっしゃっていましたか」

 森岡の話を聞き終えた弓削は、その太くて短い首を傾げた。

「そうじゃないのですか」

「いえ、間違ってはいないと思います。私も、規律委員会はそのように運営されると承知しています。ただ……」

「ただ、なんでしょうか」

「私には、総務さんが情報を流したとは、どうしても思えないのです」

「何故ですか」

「元々、私は清慶上人の法国寺貫主就任に反対なのであって、総務さんの法主就任には異論がありません。もっとも、私如きが異を唱えてもどうにかなるものではありませんがね」

 弓削は苦笑いしたが、すぐに真顔になった。

「そういう私から見ると、総務さんがそのような汚い手段を採られるようには、とても思えないのです」

「そういえば、いつか神村先生も総務さんは法主に相応しい方だとおっしゃっておられました」

「私も同感です」

「そうだとすると、いったい誰が清慶に情報を流したのでしょう」

「それは私にも見当が付きません。それこそ、執事の誰かが総務さんの胸中を推し量り、泥を被る覚悟で独断専行したとも考えられます。ちょうど、神村先生を慕う貴方のようにね」

 ふむ、と森岡は相槌を打った。

「そう考えると納得します」

 脳裡には、景山律堂の名前が浮かんでいた。彼ならやる、という確信もあった。だが森岡は、このような汚い反撃にあっても尚、景山に対して敵対心が沸かないどころか、親近感すら抱く自分が不思議でならなかった。

「しかし、そうだとしても疑問は残ります」

「何が、です?」

「元々久田上人の暗部は、総務清堂上人が宗務総長時代に持ち込まれたのです。清堂上人は、当時総務であられた現法主さんと相談のうえ、不問に伏すことにされたのです。当然、暗部を持ち込んだ本人には、かん口を厳命されたということです。ですから、総本山でも最上層部だけの秘事になっているのです。噂自体はある程度広がりましたが、その内実を知っているのは、今の法主さんと総務さんだけだと承知しています」

「その暗部を持ち込んだ人は誰なのですか」

「それも、極秘扱いで不明なのです」

「では、その人物が情報を漏らしたということはありませんか」

「それは私にもわかり兼ねますが、仮にそうだったとしても、総務である清堂上人の命に逆らうことになるのですから、余程の覚悟が要りますね。たとえ、それが総務さんの利益になるとしてもね」

そう言った後、弓削は独り言のように呟いた。

「もしかすると、私たちはとんだ見当違いをしているのかもしれません」

「見当違いとは……」

 森岡は、その真意を聞こうとしたが、

「いえ、当てが有るわけではないのです」

 と顔の前で手を振った。

「それより話を本題に戻しませんか。この話は埒が明きません」

「……そうですね」

 心にわだかまりも残しながらも森岡は肯いた。

「規律委員会の件ですが、全く付け入る隙がないか? といえば、そうでもありません」

「えっ、付け入る隙があるのですか。それはどのようにすれば……」

 一変して、森岡の表情が色を成した。希望の光を感じ取った森岡の両眼には、弓削の福々しい顔が大黒様のように映り込んでいた。

「規律委員会の前に、御前様に対して査問があるのはご存知ですよね」

「査問? いえ、知りませんが」

「そうですか。東良上人はそのことはおっしゃっていなかったのですねえ」

 弓削は含みのある言い方をした。

「ともかく、御前様から今回の件に関して事実関係を聴取し、併せて御前様の抗弁も許されるのですが、その査問をするのが、宗務総長の永井上人なのです」

「永井上人といえば、規律委員会のメンバーでもありますよね」

「そうです。この永井上人がキーパーソンといっても良いでしょう。というのは、規律委員会は清慶上人が提出した証拠書類と、査問した結果の上申書を元に話し合われるのです。清慶上人が提出した書類の内容にもよりますが、この上申書は大きな意味を持ちます。たとえばですよ。仮に蔵王興産や石黒組との付き合いが、石黒組からの強制であったという上申書が提出されれば、御前様は一種の恐喝を受けていたのですから、無罪放免になるというわけです」

「はい」

 森岡は得心の声を上げた。

「もちろん、恐喝されていたとなれば、警察も動くことになりますから、それは考え難いでしょうけどね。とにかく上申書の内容が大きな影響力を持つことは変わりないのです」

「つまり、査問のときに御前様がどのように抗弁されるか、ですね? 相手が御前様となれば、いかに宗務総長といえども、その抗弁を鵜呑みにせざるを得ない」

「いいえ、そうではありません」

 弓削は太い首を横に振った。

「えっ、違う?」

「御前様のことですから、おそらく御自身の誇りに掛けても、一言も抗弁なさらないでしょう。むしろ肯定されるかもしれません」

 そう言い終わると、弓削はにやりと意味ありげに微笑んだ。

「……そうか、そういうことですか」

  森岡の頬も緩んだ。

「後は、永井宗務総長の胸三寸ということですね」

「そのとおり。永井上人がどこまで御前様のお心を斟酌するかに掛かるということです」

 たしかに久田帝玄ほどの人物が、この期に及んで見苦しい抗弁などするはずもなかった。

「永井宗務総長に会えますかね」

「条件次第でしょう」

「一億では足りませんか」

「いち、一億? 会うだけで?」

 弓削の声が裏返った。

「いえ、口添え料として五千万、今回の件がこちらの望みどおりに御前様が軽微な罪で終わり、首尾よく法国寺の貫主になられたときに五千万の、合わせて一億です。もし、お力添え頂いても、残念な結果になったときは五千万のみということでどうでしょうか」

「しかし、永井上人は法国寺の件には、直接の関わりがないでしょう」

 弓削の言うとおり、宗務総長に法国寺貫主選出の任はなかった。大本山の貫主たちが選出した人物を承認するだけである。余程の瑕疵がなければ却下できなかった。

「そうでもないと思いますよ。現に妙智会の署名を受け取っていらっしゃいますし、できましたら大河内貫主に声を掛けて頂ければ有難いのですが」

「声を掛ける? 永井宗務総長から大河内貫主に圧力を掛けろと」

「いえ、何か口実を付けて連絡を入れた際に、ついでのようにして処分の結果を伝えて頂くだけで良いのです」

 弓削はしばらく沈思した。そして、

「なるほど。たしかに、それだけで意思は十分に伝わりますね」

 と、森岡の考えが読めたように答えた。

 だが森岡の狙いは、宗門ナンバー三の永井宗務総長が久田帝玄側に付いたという事実を知らしめ、大河内法悦に無言の圧力を掛けるだけではなかった。

 もう一つ、別の意図も潜ませていたのだが、弓削の推察がそこまで及ぶことはなかった。

「ただ、首尾良く永井宗務総長を味方に付けても、総務さんが強硬に出られると予断を許さなくなります。何かもう一つ、宗務総長を援護する材料があれば磐石なのですが」

 不安な点を包み隠さず言った弓削に、森岡が余裕の表情を向けた。

「相殺というのはどうでしょうか」

「相殺とは?」

 弓削は訝しげに訊いた。

「こちらも、スキャンダルを暴露するのです。そして同じように規律委員会に掛け、取引材料とする」

「そのような格好の材料がありますか」

 弓削は半信半疑の面で訊いた。

「大本山国真寺の作野貫主について、おもしろいネタを握っています」

 森岡はおもむろに話し出した。

 

 松江で高校時代の恩師である藤波芳隆から耳寄りな情報を得た森岡は、大本山国真寺の当時の執事長と押し問答したという教え子と直接会い、さらに詳細な状況を掴んでいた。

 教え子の名は相良浄光(さがらじょうこう)と言った。

 島根県西部に位置する浜田という街の天真宗寺院に生まれ、宿世に従い、寺院を継ぐ決心をした相良は、宗門の大学である立国大学に進学した。

 相良は後学のため、暇を見つけては天真宗に限らずあらゆる宗派の寺社仏閣を見学して回っていた。むろん、所属する天真宗の大本山と本山は全て参詣しようと考えており、その一環として、大本山国真寺にも立ち寄ったのである。

 彼はまず、本堂入り口付近を清掃していた若い僧侶に声を掛け、当寺院の歴史と縁起について問うた。しかし、その僧侶は『作業を中断させられた』という思いがあったのか、面倒臭そうな顔つきで、宗派の機関紙である『天真宗・本山総覧』という冊子を読むように薦めた。

 言われるまでもなく、相良はすでに読破していた。

 次いで、相良は国真寺の本尊について質問した。というのも、この天真宗本山総覧にも、国真寺の本堂に何が祀られているか、明記されていなかったからである。

 若い僧侶は、

「栄真大聖人手ずから彫られた釈迦立像です」

 と答えた。

 相良にとって国真寺の本尊が、栄真大聖人が手ずから彫った釈迦立像というのは初耳だった。

「その立像はいつ大聖人が彫られたのですか」

 相良の、この質問には驚くべき答えが返ってきた。

「二回目の京都巡教です」

 相良は腰が抜けるほど驚愕した。栄真大聖人が手ずから彫った釈迦立像は五体あるが、最古の立像でも、

『第三回京都巡教の折』

 というのが通説なのだ。第二回京都巡教から五年後のことである。現に、宗務院公認で、天真宗の教義を研究する団体である『天真宗奥義研究会』が発行している書物でも、最古の物は『寛元二年』と記しているのだ。西暦一二四三年のことである。

――そのような馬鹿なことがあるものか。

 相良は重ねて確認したが、答えは同じであった。

 そこで相良が、

「栄真大聖人が手ずから彫った最古の釈迦立像は第三回京都巡教の折ですよ」

 と言うと、若い僧侶の顔から血の気が引き、それ以降何を聞いても押し黙ったままとなった。

 その二人のやりとりが、ちょうど本堂を出ようとした執事長の目に留まった。只ならぬ雰囲気に、執事長は何事かと訝り、二人の許へやって来た。

「どうされましか」

 執事長は穏便な口調で聞いた。だが、相良が若い僧侶とのやり取りを説明した途端、顔を紅潮させて

『当寺院の御本尊は第二回京都巡教の折、当寺院に立ち寄られた栄真大聖人が彫られた物』

 という主張を変えなかった。

 しかし相良の、

「では、ご本尊を拝観したい」

 という要望には、門外不出という虚言を労してまで断固拒否したのである。

 これ以上の押し問答は無益と思った相良は、そこで引き下がったが、詳細にメモを認めていた。相良の寺院巡りは、大学の卒業論文の取材も兼ねていたからである。

 学説上、栄真が彫った最古の釈迦立像は、総本山の瑞真寺に奉納されたことになっている。むろん、確認された釈迦像が五体というだけで、実際には栄真手ずから彫った釈迦像は他にも存在しているかもしれないし、その中には寛元二年より以前のものもあるかもしれない。

 しかし、そうであるなら正々堂々と公に発表し、御本尊を開帳すれば良いのだ。然るに国真寺は、秘宝中の秘宝仏であると安全面を盾にして一定周期の開帳を拒否し、高額の拝観料を得たときのみ、特別拝観させていた。つまり、拝観者を選別しているのだ。

 ホテルに戻ってもわだかまりが消えない相良は、恩師である藤波に電話を掛け、鬱憤をぶちまけたのだった。

 森岡は、吉永幹子の糾弾記事を書かせた件のルポライターに執筆を依頼し、週刊誌に掲載させる腹積もりだと言った。

 

「なんと、そのような情報をお持ちでしたか」

 弓削は複雑な表情を見せた。森岡の情報収集能力には舌を巻くと同時に、大本山貫主の幼稚ぶりに呆れ果てているのだ。

 たしかに、なぜこのような軽率な行動に出るのだろうかと疑問を抱くが、実は同じような事例は、各宗において幾つも見られることである。

 たとえば、宗祖の御真筆による本尊の有無や、宗祖の御真骨勧請の有無等々、宗教団体同士、寺院同士が主張し合っているのが現状なのである。

 国真寺の執事長とて、最初は軽い気持ちで口にしたのであろう。次期貫主の座が内定していたので気分が高揚していたのかもしれない。

 また、参拝客が末寺の信徒団体であれば発言には気を付けたであろうが、個人の参拝客であったため、つい優越感と自己満足に浸ろうと口が滑ったのだとも推察された。

 しかし、当時は執事長、現在は貫主である。事実であれば、魔が差したでは済まされない。 

「この話は使えそうですか」

「国真寺の作野貫主は総務さんの弟弟子ですから、事実であれば情の深い総務さんがお見捨てになることはないと思います。ですが、何か証拠がありますか」

「メモしかありません」

「それでは『言った、言わない』の水掛け論になりませんか。白を切られたら、どうにもなりません」

 弓削は悲観的な意見を述べた。

「そうでしょうか」

 と、森岡は意味有りげな笑みを零す。

「と言いますと」

「この件は、真実がどこにあるか、が問題なのです。この話、私は事実だと確信しています。そうであれば作野貫主がいくら白を切っても、心の動揺までは隠せないでしょう。それが肝心なのです」

「……」

「私は、週刊誌で大々的にキャンペーンを張るつもりです。もし、作野貫主が沈黙を通せば、すなわち事実と認めたことになりますから、彼は事実であってもなくても、名誉毀損で訴えるしかありません」

「なるほど、それで」

「この際、私にとって裁判での勝ち負けは問題ではありません。敗訴すれば金を支払えば済むことです。また檀信徒会から圧力があっても決して怯みません。しかし、作野貫主はどうでしょうか。私は、真贋論争に導くことによって御本尊の所在確認を求めるつもりです。作野貫主は堅く拒否するでしょうが、裁判が続く限り彼はやましい心を隠し続けなければなりません。余人はいざ知らず、総務清堂上人に対して、そのようなことが可能でしょうか」

「そうか」

 弓削は両手を打った。

「もし事実であれば、森岡さんは最高裁まで徹底的に争うことが目に見えている。たとえ、久田上人の規律委員会には間に合わなくても、いずれ可愛い弟弟子が汚名を浴び、退任に追い込まれることになる。必ずや総務さんは、そのような事態は避けたいとお考えになる。森岡さんはそう読んでいるのですね」

「そのとおりです。ですから、こちらは不退転の覚悟を見せ、総務清堂上人に事実だと思わせなければなりません」

「そうであれば、役に立つと思います」

 弓削は確信めいた声で言った。

 森岡は相殺と言ったが、厳密にはそうではない。久田帝玄と作野貫主では置かれている立場が全く異なるからだ。作野貫主が厳罰を受けても投票権を失うだけだが、久田帝玄は立候補自体が取り消されるのである。

 それでも森岡は、仕掛ける価値があると考えていた。

「ところで、弓削さんへのお礼なのですが」

「それには及びません」

 弓削は右手を翳して、言葉を途中で遮った。

「そういうわけにはいきませんよ」

「いえ、今は頂戴しないという意味です。私はまだ三十九歳です。そして、貴方もまだ三十六歳。森岡さん、貴方を見ていると、この先もっともっと大きな人間になりそうだ。ならば、今ここでお礼を頂いて、それっきりになってしまうよりは、ここは一旦貴方に貸しを作り、いずれの日にか、十分な利息を付けて頂戴しようかと思っているのです」

 弓削は包み隠さず本音を漏らした。

 野心を抱く彼は、いずれのときか、己の出世が懸かる正念場まで、森岡の助力を温存しておいた方が得策と考えていたのである。

「結構です。この御恩は決して忘れません。この先、私の力が必要なときは何時でもおっしゃって下さい」

「では、そういうことにして、今回の件は前もって、私が永井宗務総長にお伝えし、その後お付の者を外して、二人きりになれる機会を作りましょう」

「宜しくお願いします」

 森岡は丁重に頭を下げた。

「それにしても、妙智会の署名を持ち込んだことで、宗務総長とお近づきになれていたことが、こんなところで役に立つとは……森岡さんには天も味方しているようですね」

 と言った弓削が何かを思い立った。

「いや、もしかして全てを見通したうえで、私を訪ねて来られましたか」

 弓削が覗き込むように訊いた。

 森岡はとんでもない、という顔の前で手を振り、

「私にそんな眼力などあるはずがないでしょう」

 と真っ向から否定した。

「では、やはり森岡さんは強運の持ち主ということになりますね。私もいつの日か、その運に肖ることを楽しみにしておきます」

 弓削が森岡の運を強調した裏には理由があった。

 このとき、弓削広大は妙智会の署名の一件を機に、将来の法主の有力候補である永井大幹と親交を深め、極秘に盟約を交わす仲にまでなっていた。

 すなわち、永井の法主就任へ協力をする代わりに、いずれ大本山や本山の貫主への道を拓くべく、適当な人脈を紹介してもらう手はずを整えていたのである。

 頭の切れる弓削は、総本山に永井大幹、在野に神村正遠と、それぞれ宗門の将来を担うであろう二人と誼を通ずることに成功していたのだった。

 もちろん、森岡はそのような裏事情を知るはずもなく、弓削もそう認識していた。にも拘らず、まるで生まれたばかりの目の開かぬ赤子が母の乳房を見分けるように、森岡は頼るべき者を的確に嗅ぎ分けて自分の許にやって来た。

 弓削は、そこに森岡の天運を感じ取ったのである。だがそれは、天運というより本能あるいは森岡自身も気づいていない霊力といった方が正確かもしれなかった。

「ところで、森岡さん。一つお伺いしても宜しいですか」

「何でしょうか」

「不躾ですが、どうしてそこまでなさるのでしょう。もちろん、貴方が大学時代、神村上人の書生だったことは伺っています。しかし、ただそれだけでここまでされるとは、正直不思議なのです。お金のことを持ち出して恐縮ですが、本妙寺の件から法国寺、そして今回と相当な出費のはず。たとえ、貴方が相当な資産家だとしても、私には解せないのです」

 ふっふ、ふ……と森岡が笑いを嚙み殺す。

「何かおかしなことを言いましたか」

「いえ、失礼しました。突然、ある人の言葉を思い出したものですから」

「ある人の言葉?」

「ええ、その言葉が答えになるかどうかわかりませんが、私の大切な人にこう言われたことがあります。『貴方は神村先生に母親の影を追っている』と」

「母親ですか? 父親ではなくて」

「そうです、母親です。もっともそれは比喩でして、神村先生自身に母親を求めているということではないのです」

「何か観念的ですね」

「お恥ずかしい話ですが、ある事情から私はずっと母を憎んで生きて来ました。ところがその人に言わせると、それは母を求めている裏返しだというのです。私が事業家として成功したいと願っているのも、先生を支援するのも全てそうだと」

「うーん」

 弓削は腑に落ちない様子を見せた。

「実を申しますと、私はいつか母に巡り会ったときに、『貴女がいなくてもこれだけ立派になった』と見返してやりたいと思い、今日まで頑張って来たのですが、それ自体が母を求めている裏返しだとね」

「なるほど。しかし、お母上を見返すだけなら、事業に成功するだけで十分ではないのでしょうか」

「これもまた、その人の言を借りると、私は単に金持ちになるとか社会的立場を得るだけでなく、いわゆる徳も積んだ人間として、つまり非の打ち所のない立派な人間として、母の前に立ちたいと願っているのだ、ということらしいのです」

 そうか……と弓削が目を見開く。

「お母上と再会されたとき、ただの成金に過ぎないと否定されて、再び心が傷つくことを恐れる貴方は、神村上人の許で心も磨こうとなさっているということですか。だから『神村上人に母の影を追っている』という言葉に繋がるのですね」

「どうもそういうことのようです」

「見事に深層心理を突いていますね。どうやらその方は、余程深く貴方を理解していらっしゃるようだ。いや、理解というより愛、ですかね」

 弓削は冷やかすように言ったが、森岡は少しも不快にはならなかった。

 

 東京青山にあるギャルソン本社の会長室では、柿沢康弘が歯軋りしながら、森岡への反撃策を練っていた。

 柿沢は、吉永幹子と筧克至が理由も告げずに寺院ネットワーク事業から撤退したのは、森岡の策略によるものだと推察していた。世間知らずの、我儘放題で育った彼は、その分歪なプライドを纏っていた。

 その彼にしてみれば、二十歳も年下の若造に、良いようにあしらわれるのは、己の沽券に関わるのである。

 世の中で、柿沢のような手合いほど始末に負えないものはない。自身の能力を横に置き、プライドだけが異常に高く、見え透いた追従には舞い上がり、親身な忠告には嫌悪を抱く輩である。

 森岡を恐れた筧は、一身上の都合とだけ言い残して姿を消していた。つまり、森岡の背後には巨大な闇社会が控えていることを柿沢は知らなかった。それが、彼を無謀な行動に走らせようとしていたのである。

 その夜、柿沢は銀座のクラブに二人の男を呼び出し、ある依頼をしていた。一人の男は、二十年もの昔、柿沢が放蕩無頼に生きていた頃からの遊び仲間であり、現在でも腐れ縁で繋がっている男であった。

 極道者ではないが、堅気というのでもない。言わば社会の表と裏の間で生きる男たちで、たとえばクラブやホステスから依頼を受けての、ツケの取立てや、借金の返済交渉などを代行する。

 極道者ではないので、暴力団対策法の網の目からは逃れ、そうかといってそれなりに強面であるから、使う側は重宝するのである。この場合の手数料は、三割から場合によって折半と、かなりの高額であり、金回りは意外と良かった。

 柿沢はこの種の手合いを従え、お山の大将気取りなのである。

「とにかく、その森岡という男が気に食わないのだ」

 柿沢はいかにも憎々しげに言った。

「その男を痛めつければ良いのか」

 昔馴染みの男が訊いた。四十歳過ぎの小太りで禿げ頭の男である。

「いや。奴は、そうそう一人きりでいることはないだろうから、ちょっとそれは難しいかもしれない」

「じゃあ、どうしますか」

 もう一人の、弟分らしき男が訊いた。年は三十代前半、長身で俳優のような色男である。

「奴の弱点を突けたら良いのだが」

「弱点ねえ……たとえば、女房、子供はいないのか」

 小太りの男が考え込むように言った。

「独身らしいから、家族はいないだろうが、そうだな、女はいるかもしれない」

「じゃあ、その女を甚振るっていうのはどうだ」

 小太りの男は、そう言って舌なめずりをした。

「強姦か、それは良い。奴に悔しい思いをさせられるかもしれない」

 柿沢は下劣な笑みを浮かべて言った。

「俺たちには楽しみな仕事ですね」

 色男は、誰に対してというのでもないせせら笑いをした。この男、見た目が良いだけにずいぶんと女性を食い物にしてきたことが窺える。

「じゃあ、女の件は俺の方で調べてみよう。わかったら、すぐに連絡する」

 柿沢の目が邪悪の光を湛えていた。


 柿沢と別れた二人の男は、河岸を変えて飲んでいた。

「あははは……」

 小太りの男が、堪え切れないように笑った。

「どうしたのですか。いきなり」

 色男が怪訝そうに訊いた。

「やっと、チャンスが回って来たからさ」

「チャンス? 何のことですか」

「さっきの話だ。柿沢の馬鹿が、とうとう弱みを握らせてくれた」

 そう言うと、小太りの男は、胸ポケットからボイスレコーダーを取り出した。

「さっきの会話を録音しておいた」

「何のために?」

 色男が不審げに訊いた。

「お前も鈍いなあ。これで、あの馬鹿を恐喝すれば、俺たちは一生金に不自由しないということさ」

 小太りの男は喜々として言った。

「なるほど」

 と、ようやく得心した色男の面がすぐに曇った。

「しかし、兄貴。聞いた話の限りでは、森岡という男、なかなかの切れ者のようですが、足が付いて報復されるということはないでしょうね」

 だが、小太りの男の面には余裕の笑みが張り付いていた。

「それは全く心配いらない。俺のバックには強力な組織がある」

「極亜会ですか」

 二人は、主に稲田連合・石黒組傘下の極亜会の仕事を請け負っていた。

「極亜会も頼りになるが、所詮は石黒組の枝にしか過ぎない」

「たしかに」

 色男は不安げに肯いた。

「心配するな。いざとなれば、極亜会のような半端な組など足元にも及ばないもっと凄い人脈があるのだ」

「もっと凄いと言いますと、石黒組の幹部ですか」

 違う、と小太りの男は首を横に振った。

「神王組の河瀬という最高幹部だ」

「し、神王組……?」

 色男は意外な名に声が裏返った。

「確か、今は筆頭若頭補佐だから、ナンバー五ぐらいと思う」

 神王組の序列は、組長、若頭、舎弟頭、本部長、筆頭若頭補佐の順だった。

「神王組のナンバー五ですか。しかし、どうして」

「コネがあるかというのだろう」

 色男は黙って顎を引いた。

「実は、その河瀬と深い縁のある阿波野という男の事業に、あの馬鹿から五億円を引っ張り出したのが、この俺なのだ」

 小太りの男は右手の親指を反り返し、張った胸に突き当てた。

「五億も」

「あいつは根っからの馬鹿だからな。美味しそうな話にはダボハゼのように食い付く」

 小太りの男は嘲笑するように言った。

「結局、事業は失敗したが、それは俺のせいではないからな。大きな貸しは残っている」

「それで、河瀬と阿波野の深い縁というのは?」

「聞いて驚くなよ」

 と言うと、小太りの男は顔を色男に近づけた。

「河瀬は、阿波野の父親が組長をしていたときの若頭だったということらしい」

「……」

 色男は瞬時には理解できなかった。

「つまり、河瀬は阿波野が継ぐべき組を譲って貰ったということだ」

「それが、今や神王組のナンバー五なのですか」

「そういうことだ。だから、河瀬は阿波野の頼みは断れないというわけなのだ」

 小太りの男は自慢げな顔で言い切った。

「なるほど、そういうことでしたら、たしかに強力な後ろ盾ですね」

 ようやく、色男は安堵した顔つきになった。


 永井大幹宗務総長の格別な尽力により、規律委員会における久田帝玄の処分は、『厳重戒告』と決した。総務の藤井清堂が強硬な態度に出ることはなく、永井宗務総長の思惑のままに会議は終始したのである。

 規律委員会に先立って、総務清堂は国真寺の作野貫主を呼び付け、事の真偽を問うた。作野は強く否定したが、少年期より長年に亘って寝食と修行を共にした仲である。作野の振る舞いに、総務清堂は真実を見抜いた。

 もし総務清堂が心を鬼にして、弟弟子である作野を切り捨てれば、久田帝玄の厳重処罰、それはつまり実弟である清慶の別格大本山法国寺の貫主就任が決定となった。

 しかし、情の深い清堂は弟弟子を見捨てることができなかった。また、帝玄に非があるとはいえ、一旦は収まった青年僧侶の全国組織・妙智会が再び決起するとも限らない。

 熟慮の末、総務清堂は隠忍自重を決め込んだのである。

 森岡、そして総務清堂も疑った作野貫主だったが、実は彼の言葉は真実だった。

 国真寺の御本尊は、紛れもなく宗祖栄真大聖人が最初に彫った釈迦立像だったのである。だがしかし、作野はそれを公にすることはできなかった。兄弟子である総務清堂の詰問にも沈黙を通すしかなかった。それが清堂の立場を不利にするとわかっていても、である。

 なぜなら、歴代法主や兄弟子清堂にすら知らせていない国真寺の御本尊の正体を明かすことは、作野自身だけでなく、国真寺歴代貫主が犯してきた罪を白日の下に晒すことになるからである。


 久田帝玄の処分も決まり、森岡は再び動き出した。

 買収を終えた霊園地の登記を済ませ、その登記謄本に、財務省から買収した堀川の土地の登記謄本と、無量会の同意書を添えて傳法寺に大河内貫主を訪ねた。

 その場には神村正遠が同席した。神村は森岡らの工作とは別に、自らの信念を訴えるつもりだったのである。

 席に就いた神村と森岡に、大河内から話し掛けてきた。

「先日、永井宗務総長からも電話がありました」

「宗務総長が電話を?」

 神村が、意外という表情をした。

「久田上人の処分について知らせてこられたのです。それがどういう意味かわかっているつもりです。どうやら私は、外堀だけでなく内堀も埋められてしまったようですね」

 大河内は自虐的な笑みを浮かべた。神村はそのような大河内を見ていると同情で心が痛んだが、気持ちを切り替え、毅然として話を始めた。

「大河内貫主、私はどうしても貫主に申し上げたきことがあって参りました」

「私に言いたいこと?」

 はい、と神村が深く肯いた。

「私がこの度、法国寺の貫主には久田上人を、と願いますのは、一つには本妙寺の件が絡んでいることを否定しません。ですが、このようなことを申しますと、私を支援くれている皆には申し訳ないのですが、本妙寺にしろ法国寺にしろ、大本山の貫主たるに相応しい方なら、その方がなれば良いとも思っていました。しかし、藤井清慶上人の法国寺の貫主就任だけはいけません。大げさでもなんでもなく、それは我が天真宗の衰退へのきっかけとなる危険性を孕んでいます」

「なんですと」

 大河内の顔色が変わった。

「大河内貫主、思い出して下さい。なぜ天真宗が戦中戦後の一時期、目を覆うばかりの衰退を見せたのか。もちろん、戦争という特異な状況が影響した事は否めませんが、それは他宗も同様でした。それにも拘らず、天真宗の凋落が一番酷かったのは、本山と末寺が疎遠状態になっていたからです。そして、その疎遠の原因となったのは、総本山・四十六子院の総領以外の者が、大本山・本山の貫主の座を寡占していたことでした」

 うむ、と大河内は唸った。

「本山・末寺の制度があるうちは、強制的に繋がっていましたから、それでも関係は保たれていました。しかし、本来在野の寺院の手にあるべき大本山や本山の貫主の座が、総本山の専横により、蹂躙されていることに内心反発を抱いていた在野の末寺は、本山・末寺の制度の廃止とともに、一斉に離反していきました。それにより、末寺からの上納が無くなるばかりか、反目されて助成もさえも失ってしまった大本山や本山は、以後衰退の一途を辿り、それが巡り巡って末寺の衰退を呼び込み、結果的に宗門全体の疲弊を引き起こしたのです」

 ここで神村は一段と声を強めた。

「それを立て直したのは久田帝法上人です」

 天真宗中興の祖であり、我が師でもある名に大河内法悦の背筋がピンと伸びた。

「在野の寺院の若者を有能な僧侶に導き育て、後年全国の大本山や本山の貫主に据えました。これにより、全国の在野寺院にやる気と活気が漲り、宗門復興の礎となったのです。別格大本山法国寺貫主の座は、その在野寺院の僧侶が目指す最高峰、いわば象徴の座です。この座に清慶上人が就くというのであれば、総務清堂上人は法主の座を辞退されるべきではないでしょうか。総本山の縁者が、法主と法国寺の貫主を独占するだけでも問題なのに、ましてや兄弟など以ての外だからです。それでも尚、この暴挙を押し通すというのであれば、せめてこれまでの慣行を改め、在野の僧侶でも法主の座に就けるよう改革に着手すべきでしょう。そうでもしない限り、悪しき前例を繰り返し、再び宗門の衰退を招くかもしれない清慶上人の法国寺貫主就任は、断固阻止せねばならないのです。これは断じて私利私欲で申しているのではありません。それだけは信じて頂きたい」

 目を逸らさずに聞いていた大河内は、考える時間が欲しいと神村に告げた。

 大河内法悦は迷いに迷っていた。

 過日景山律堂から聞いた総務清堂の真意にしろ、今の神村の信念にしろ、共に宗門の有るべき姿を願っての、深い思い入れの発露であることが胸の奥までひしひしと伝わっていたのである。

 一方森岡は、苦労を重ねた末に纏め上げた霊園事業の計画話をその場で大河内に披瀝するのを控え、またの機会とした。

 神村の心魂を傾けた弁舌の後に、下賎な金の話などをして師の気高い精神を汚したくなかったのである。

 このとき、合議の日まで一ヶ月を切っていた。











 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

 

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