第13話  第二巻 黒幕の影 過去

 森岡洋介と神村正遠は、ロンドで久しぶりに旨い酒を酌み交わしていた。

 仙台市・北竜興寺の弓削広大をはじめとする妙智会幹部らの署名活動は予想を上回る進展を見せ、神栄会と話を付けたことで、霊園地買収作業も滞りなく捗っていた。

 二人にとっては、束の間の休息であった。

「ところで、森岡さん。この間のおかしな電話はいったいどういうことでしたの? ずっと気になって仕方がありませんでしたわ」

 神村が他のホステスと会話を始めたと見るや、すかさず茜は森岡を問い詰めた。

 しまった、と森岡は悔やんだ。その後、彼女に事情を説明していなかったのである。

「電話一本下さらないし……」

「ああ、あれか。ごめん、ごめん、おかしな電話をしてしもて」

 森岡は両手を合わせて詫びると、

「いや、たいしたことやあらへん。ちょっと、芝居を打つ必要があったんや。そこで、ママに電話したというわけや」

 と曖昧な言い訳をした。

「どういう芝居ですの? その、女の人ですか」

 茜は不安そうに訊いた。彼女に嫉妬の情が募った瞬間だった。

「ちゃう、ちゃう、そんなやあらへんがな。ちょっと、その筋が絡んどったんや」

 女性の影をあわてて否定した森岡だったが、

「えっ、その筋? 森岡さん、そういう人たちと付き合いがあるのですか。私、その筋の人は大嫌いですから」

 茜は極道を指す言葉に過剰な反応を示した。

「付き合いなんてないがな。霊園地買収の件で、どうしても話を付けにゃならんかったんや」

「先生や仕事絡みなら仕方ないとしても、個人的な付き合いは止めて下さいね。特にロンド(ここ)へは絶対に連れて来ないで下さい」

「わかっている。ロンドは、極道者の入店は断っとるからな」

「そうですけど、森岡さんが御一緒だと断れませんもの。ですから、絶対に連れて来ないで下さい。とにかく、大嫌いなんです」

 茜は、いかにも忌々しげに言った。

「そないに心配せんでも、ママの嫌がることはせえへん。せやけど、そこまで毛嫌いするとは何かあったんかいな」

 極道者が世間の嫌われ者であることを否定はしないが、茜の態度にはそれ以上の拒否感があった。

「……」

 茜は、黙って顔を顰めた。珍しいことだった。商売上、茜はどのような場合でも嫌な顔は見せないはずであった。

「いや、言い難かったら、言わんでええ。すまん、すまん」

 つい軽い調子で口に出した言葉で、彼女を殊の外不快にさせてしまったことは、森岡を酷く後悔させた。彼は禁断の領域に足を踏み入れたことを察し、低姿勢で詫びた。

 だが森岡には、神栄会の一件以来、心に纏わり付いている疑問があった。そのため、茜に気兼ねしながらも、極道者の話に及ばざるを得なかった。

 顔を戻した神村に、

「ところで、先生。榊原さんから先生と金刃正造という極道者との関わりを伺ったのですが、榊原さんは何故そのことをご存知だったのでしょうか」

 と訊いた。

「金刃正造? ああ、あの金刃さんね。またずいぶんと昔の事を引っ張り出してきたね」

 神村は遠い昔を思い起こし、懐かしむように言った。

「どうしても先生にお伺いしたかったものですから」

「何故って、あの時は私が初めて総本山(おやま)から下りて間もない頃だったから、何分世俗の事には疎くてね。葬儀のことについて、私の方から榊原さんに相談を持ち掛けたのだよ。だから、その経緯は一部始終ご存知なのだ」

 森岡は、全身から血の気が引いて行くのがわかった。

「ちょっと待って下さい。先生のおっしゃるとおりですと、先生と榊原さんは、私が経王寺に入る前から知り合いということになりますが」

「もちろん、そうだよ」

 神村は、至極当然とばかりに答えた。

「でも、私が初めて榊原さんとお会いしたとき、経王寺は初めてだとおっしゃっておられましたが」

 森岡は不審げに訊ねた。

「そうか、君はまだ榊原さんから事実を聞いていないのだね」

「事実、ですか」

 森岡は目を見開いた。

「そう。君も覚えていると思うが、あの頃は宗教上の弟子すら持たない私が、こともあろうに一般学生を書生にしたということで、物議を醸していただろう。信者や知人の中には、君を品定めしたいという者まで現れた」

「はい」

「榊原さんがイの一番だったのだよ」

「え? 福地の義父ではないのですか」

「いや、榊原さんだ。彼は、君が受験勉強をしていた頃からご存知だった。そして、大学受験を終えても、私が君をそのまま寄宿させていたので、どういうことかとお訊ねになったのだよ。そこで、経緯をお話しすると、それならば私の留守中に一度君を観てみたいとおっしゃったのだが、生憎その直後に体調を崩されてしまった。そのうち、一旦君が経王寺を出たものだから、ますます機会を失ったということなのだ。ともかく、榊原さんはただ観るだけではなく、君を試してみるつもりでおられたのだが、君と会った後、すぐ私に電話があってね。予想以上の青年で大いに気に入った、そこで自分にも育てさせて欲しいとおっしゃったのだ」

「……」

 森岡は、思いの外の話に、ただ唖然と聞いていた。

「言われてみれば、私は宗教以外のことには全く疎いだろう。君は宗教上の弟子ではないから、実務というか、社会的なことを学ぶには榊原さんが適任だと思って、申し出を受け入れたのだよ。すると榊原さんは、それなら私とは先に付き合いが無いことにしようと申し出られたのだ」

「それはまた、何故でしょうか」

「もし、私と榊原さんが自分より先に知り合いだったと知ると、筋目ということを重んじる君のことだから、何事も私の判断を仰ぎ、了解を得ようとすることが目に見えている。それだと、決して君のためにはならないと考えられた。さすがに榊原さんだ。君との会話の中で、君の性分を見抜かれたのだよ。本来であれば、年中行事のときに出会っていてもおかしくないのだが、どういうわけか君たちは顔を合わせていなかった。榊原さんは、それも天の配剤だとおっしゃったのだ」

 森岡は、はたと思い当たった。

 榊原が何かにつけて経王寺を訪れたのは、いずれも神村の不在のときだったのである。いかに多忙の神村とはいえ、寺院の内情に通じている榊原のこと、その気になれば神村の在院の予定を把握することなど、さして難しいことではない。商売を第一に考えたならば、榊原が何度も無駄足を運ぶはずがなかった。

「そういうことだったのですか」

 森岡は呻くように言った。

「だから、森岡君。榊原さんを責めてはいけないよ。それもこれも皆、君のことを思っての、親心から出たことなのだからね」

「重々承知しております。榊原さんを責めるだなんて、とんでもないことです」

 森岡は顔が赤らんでいるのを感じた。穴が有れば入りたい気持ちだった。

 常識の上に立って考えたならば、榊原のような一流人が、ただの一学生如きに興味など持つはずもなかった。それを勘違いして、自分が見込まれたなどと、自惚れも甚だしいことだった。

「それなら良い。しかし、榊原さんも、どうしていまさら君に知られるような昔の話をされたのだろうね」

「それは、霊園地買収に関して問題が起こりまして……」

 森岡は、神栄会との一件を詳細に話した。

「それはまた、君たちに苦労を掛けたね」

 神村は詫びるように言い、

「あの葬儀の件は、榊原さんも当事者の御一人だから、詳細に話されたのだろうね」

「そうなのです。榊原さんのお陰で話が纏まりました」

 森岡が小さく肯くと、会話が一段落したのを見て、

「とても素敵なお話ですね。三人とも全く赤の他人なのに、森岡さんの神村先生を慕う心、神村先生と榊原さんの森岡さんに対する親心、何だが狐と狸の化かし合いのような世界にいる私には、心が洗われるような関係ですわ」

 傍らに居た茜がしみじみと本音を漏らした。

 彼女の言葉に、神村が何かを思い浮かべた顔つきになった。

「そうか、心が洗われるかね」

「心の垢が取れそうです」

「それなら、もっとその垢を落としてあげようか」

 神村の目は童のような光を湛えている。

「どういうことでしょうか」

 戸惑う茜に、

「ママは来週の土、日は空いていないかね」

 と、神村が訊ねた。

「来週の土、日ですか? ええーと、特別な用事はありませんが」

「では、どうかね。土曜日一泊で、鳥取へ行ってみる気はないかい」

 神村の眼光がますます輝きを増した。

「先生と鳥取へ一泊旅行ですか? でも……」

 茜は、およそ神村の口から出るはずのない誘い文句に、戸惑いの眼差しを森岡に向けた。

 くっくっ、と森岡は笑いを噛み殺している。

 あははは……と神村もまた破顔し、

「おいおい、ママ。勘違いしてもらっちゃ困るよ。もっとも、ママほどの器量良しなら、私もそういう誘いをしてみたい気もなくはないがね。だが、残念ながら今回はそういうことではないのだ」

 と、茜の想像を否定した。

 神村の誘いとは、来週末に鳥取市の見相寺(けんそうじ)で行われる亡き先代の住職・喜多堂海(どうかい)上人の、七回忌法要に参列することだった。喜多堂海は天山修行堂において、一時期久田帝玄を補佐していたことがあり、神村も何度が教示を受けていた関係で、法要の脇導師を務めることになっていた。

 とんだ見当違いに、茜は身の置き所がないほどに照れた。そして、神村がトイレに立った隙を見計らって森岡にその身をすり寄せた。

 彼女はすっかり恋人気分で、頭を森岡の肩に預け、甘える仕種で訊いた。

「ねえ、ねえ、森岡さん。法要はどうなさるの」

「もちろん、参列するけど」

「それなら、私もお誘いを受けようかな」

 茜は、思惑が有り気な口調で言った。

「止めとけ。法要なんて参列したことがないやろ? あったとしても、一般人のそれとはわけが違うんや。まして、縁もゆかりもない法要に参列したって、時間の経つのが苦になるだけや」

 森岡は、無造作に茜の頭を手で退かしながら、強く反対した。高僧の法要ともなると、そうでなくても儀礼的なものが、さらに格式ばったものになり、読経も長時間もとなった。茜がことさら宗教に興味を持っているとも思えず、退屈するだけだと思ったのである。

 だが、森岡のせっかくの忠告にも、茜は神村が席に戻って来ると、

「先生、私も参列させて頂きます」

 と子供が親の言い付けに逆らうように、あっさりと承諾してしまった。

「そうかね。それなら、森岡君の車に乗せてもらって行きなさい」

「えっ、先生も御一緒ではないのですか」

「私は準備があるから、君たちとは一緒には行けないよ」

 神村は喜色満面でおどけた。それは、意図したことが上手くいったからなのか、法国寺の件が良い方向に動き始めたことによる、心の余裕の表れなのかは定かでないが、ともかく、森岡は初めて見る師のお茶目な一面に、心が癒されて行くのを感じていた。

 と、そのときだった。フラッシュバックのように昔の記憶が過ぎった。

――いや、先生のこの表情は初めてではない。遠い昔に何度も見ている。

 森岡は勘違いに気づいた。

 森岡が書生を始めた当初、神村が在院している日の食事は、外食や出前で済ますか、あるいは近所の信者が料理を運んでくれたりしていたが、稀に森岡が夕食の支度をすることがあった。

 言うまでもなく、それまで一度も厨房になど立ったこともない森岡に、料理などできるはずもなかった。米を研ぐこと一つ取り挙げて見ても、彼は白く濁っているのは米の汚れだと思い、洗い水が完全に澄み切るまで研いだりしていた。

 おかずといえば、彼の大好物で祖母によく強請っていた卵焼きを、記憶を辿りながら見様見真似で作ったのがお決まりで、それも玉ねぎがふんだんに入っている特製だった。

 おまけに、山陰は塩でも醤油でも濃い味が一般的で、少年時代に米子を離れ、関西の薄味に慣れていた神村の口には合わなかったであろう。他はといえば、伯母が送ってくれた若布の茎の漬物と鯵の開きという粗末なものだった。

 しかし、神村は森岡が卵焼きを作る度に、美味いはずがないそれらを、

『なかなかいける』

 と言って、笑って食してくれていた。

 今、目に映る神村の笑顔は、

『まさに、そのときのもの』

 と思い起こしたのだった。

 森岡は、懐かしげに神村の面影を追っていた。神村は大変に品の良い顔立ちだった。四角ばった輪郭で、少しえらが張ってはいたが、それが読経の美声へと繋がっていると思われた。涼しげ目元に、少し大きめの鼻が居座る面立ちは、美男と言うよりは、気品があると言う方が当てはまっていた。

 今頃になって、何故か森岡の脳裡に遠い記憶が駆け巡っていた。


 帰り際、フロントで支払いをしている森岡に、茜が請求書を持って近づいて来た。神村と谷川東良が溜めた『付け』だった。明細を確認すると、二人は森岡の知らないところで十数回訪れており、金額は三百万近くになっていた。

「森岡さん、本当に宜しいの? 私がこんなこと言うのもおかしいけど、神村先生も御一緒ならともかく、半分以上は谷川さんお一人でいらっしゃったものですのよ」

「構へん。前も言うたとおり、しばらくは俺が払う。すまんけど、これを俺の飲み代に同封して、会社に送ってくれるか」

「承知しました。話は伺っていましたけど、高額でしたので、事前に森岡さんの耳に入れておこうと思いまして……」

「おおきに。それよりママ、いろいろ頼みがあんねんけど」

 森岡は口調をあらためた。

「あら。なんですの」

「以前、筧のことで忠告してくれたことがあったやろ」

「その節は差し出がましいことを致しました」

 茜はそう言って頭を下げた。

「いや、そうやない。ママの言うとおりやったんや」

「え、なにがです?」

「実は、奴が裏切りよった」

 森岡は渋い面で言った。

 茜は何とも言い難い表情で、

「まあ」

 と口に手を当てた。

「そこで頼みなんやが、俺の入院中に筧が連れて来た客の名刺を貸してくれへんかな」

「……」

 茜は黙って考え込んだ。

「いや、店の信用に関わるということは重々承知しているつもりや。そのうえでお願いしたいのや」

「実は名刺を頂いていないのです」

「そうか、名刺は出さんかったんか」

「誰かさんみたいに、駆け引きではなく、中には本当に名刺を下さらないお客様もいらっしゃるのですが、筧さんが連れていらっしゃった方は揃ってそうでしたので、おかしな差し出口をしたのです」

 茜は嫌味な色を込めて言った。

「なんか、一生言われそうやな」

 森岡は苦笑いをした。

「一生って、一生お付き合いしていただけるのかしら」

 今度は言葉尻を捉えた。

「あ、あほ。言葉のあや、やがな」

 森岡は突き放したような言い、

「そんなことより、真っ当な商談ではなかったのやろうな」

 と口惜しげに呟いた。

 その表情を見た茜が微笑んだ。

「でも、会社名と名前はメモを残しています」

「ほんまか」

 はい、と誇らしげに肯いた茜だったが、同時に、

「ただ、でたらめかもしれませんから、当てにはならないと思いますが」

 一抹の懸念も示唆した。

「構へん。そのときは諦める」

「では、自宅のノートに控えていますので、後日お知らせします」

「おおきに。もう一つやが、須之内さんはよう来られるのか」

「週に一、二度ぐらいのペースですけど、須之内様が何か」

「俺が法国寺の裏山を買収していることを知っていたんや。これは秘事でな、彼が知るはずがないんや」

「ロンド(うち)が怪しいと思っていらっしゃるのね」

「気を悪くせんといてな」

「でも誰かしら」

 茜は首を傾げた。

「俺が買収地の話をしたのは、真鍋さんをお連れしたときだけや。となると、そのとき席に着いたホステスやないかと思うのやが」

「わかりました。それとなく調べてみます」

「宜しく頼みます」

 森岡は丁寧に頭を下げた。

「ところで、週末は二人で旅行だなんて楽しみですわ」

 茜は手のひらを森岡の胸に充てて、上目遣いで見上げた。

「あほ。南目が運転して行くし、坂根も同行するから四人や」

 とぶっきら棒に言った森岡の目と目が合うと、茜は恥ずかしげに俯いた。

 その、三十路手前の熟れた艶やかさの中に、少女の恥じらいが入り混じった、まるで麻薬のような禁断の色香に、森岡も戸惑いを覚えた。

「それでも良いわ。後部座席では二人きりですもの」

 茜は、もう一度上目遣いで森岡を見つめた。

「物見遊山に行くんやないんやで、法要や法要! ママ、ちゃんとした服を用意しときや」

 動揺を隠し切れない森岡は視線を逸らし、捨て台詞を吐いた。

 後日、茜から情報提供を受けた森岡は、野島に筧が接触した五名を調べせた。野島は、筧の後釜として仕事を受け継いだ営業課長を連れて面会に臨んだ。その結果、五名とも実在したが、取り立てて疑わしい点はなかった。


 明後日に鳥取行を控えていたその夜、森岡は西中島南方の、ある飲食ビルの店子のスナックを一晩で梯子飲みをした。

 実に十一店舗である。

 坂根好之の誕生日の祝いを兼ねての馬鹿遊びだったのだが、午後八時から深夜の二時まで、六時間で十一店舗、つまり一店舗当り僅か三十分強という短い所要時間だった。

 しかも、義理堅いことに全ての店舗でボトルを入れたのである。いずれの店でもヘネシー・VSOPをボトルキープした。スナックでは一万五千円から一万八千円もする高級酒だが、それでも北新地に比べれば半額という安さだ。

 最初に入った最上階の『プロローグ』という店には、二十代後半と思われる男性の先客がいた。この飲食ビルは七階建てで、一階に焼肉店が入り、二階から六階までは二店舗ずつという間取りだったが、最上階のフロアーだけは一店舗だった。

 森岡は、一番奥のカウンターでカプリという極細のタバコを銜えていた男は、ママの『色』だと直感した。ママは二十代前半という若さで、かなりの美形である。おそらく、北新地のホステスだったのを愛人にして店を持たせたのだろうと勘繰ったのである。

 森岡は何気に鼻をつまみ、サインを送った。

 こういうとき、森岡は即席の芝居を打って遊ぶ癖があった。偽名を用い、大企業の社長の息子であるとか、地方の資産家の御曹司だとか、適当に正体を誤魔化して遊ぶのである。いずれも全くの嘘というのでもなく、当らずとも遠からずといった設定だった。

 坂根や南目もよく心得たもので、森岡のアドリブに上手く話を合わせていた。

 二人は、今夜はどういう設定だろうかと、ママの問い掛けを待っていた。むろん、この夜も三人は偽名を使い、名刺は渡さなかった。

 初見で名刺を渡さないとき、森岡は現金を預ける申し出をすることにしている。必要は無いのだが、ママの不安を解消するためだ。もちろん店側も、実際には現金を確認するだけで受け取ったりはしない。

 ほどなく、ママが森岡の職業を訊いてきた。

「IT企業を経営しています」

 森岡はそう言うと、声を低めた。

「実は、大きな声では言えませんが、神王組傘下の暴力団組長の息子なのです」

 森岡は平然と言ってのけた。

 唖然としたのは、ママだけはなかった。坂根と南目も、よりによって暴力団関係者を装うなどとは思ってもいなかった。

「私は後を継いでいませんから、堅気ですよ」

 森岡は笑って見せたが、ママの緊張は解けなかった。何しろ、連れ立っている二人のうち、南目は身体も大きく眼つきも鋭いし、坂根は温和だが、拳には空手の修練でできた胼胝があった。二人が護衛役だとしてもおかしくはないのである。

 微妙な空気が漂う中で、三人はカラオケを一曲ずつ歌った。

 三人とも歌は上手かったが、特に坂根は玄人跣だった。戦後間もない頃の歌から最新の曲、演歌からポップス、果ては外国曲までとレパートリーの幅は広かった。森岡や南目が歌い始めても、他の客は一瞬耳を傾け『上手いな』といった表情をした後、自分たちの世界へ戻ったが、坂根が歌い始めると、話に夢中になっていた客たちも彼の歌唱に聞き惚れ、歌い終えるとやんやの喝采となった。

 そのせいでもないだろうが、夜の世界では坂根が一番もてた。

 南目は元暴走族の頭だっただけに、眼つきが鋭く強面である。森岡は資産家ではあるが、安易に他者を寄せ付けない雰囲気がある。その点、柔和な顔立ちで歌が上手く、うんちくが豊富で会話に事欠かない坂根は人気者だった。

 さて、張り詰めた三十分間が過ぎ、森岡が勘定を頼んだときだった。

「これから、どうされますか」

 件の男が話し掛けてきた。

「下の店に行きます」

 森岡が答えると、

「気に入らないことでもありましたか」

 男は困惑顔で訊いた。高級酒をボトルキープしておきながら、短い時間で席を立つのは気分を害してのものだと勘違いしたのである。

――やはり、ママのスポンサーだな。

 そう確信しながら、

「いえ、いえ」

 森岡が手を左右に振って事情を説明すると、

「でしたら、私もお供させてもらえませんか。もちろん、勘定は自分で持ちます」

 と切り出した。

 来る者は拒まず、が信条の森岡である。

 では、と言って名刺交換をした森岡の目が丸くなった。

「奥埜清喜さんとは……もしかして徳太郎さんのお孫さんですか」

「はい。まさか貴方が森岡洋介様とは……祖父から話は聞いておりました」

 清喜も興奮の体である。

「西中島南方は奥埜家の庭も同然とはいえ、こういう偶然もあるのですね」

「私も森岡さんは北新地が専門だと思っていました」

 と言って清喜も同調した。

 たしかに、森岡の大阪での主戦場は北新地である。

「同郷の方が、この西中島南方で活魚料理店を経営しているものですから、ときどき仕事終わりに寄ることがありましてね、その流れでこの界隈で飲むこともあるのです」

「とはいえ、西中島南方(ここ)にも数百の店が有りますから」

 運が良かった、と言った清喜が真顔になった。

「先ほどのお話は本当のことですか」

「先ほどの話?」

「いや、その、貴方の御実家が極道……」

 ははは……と森岡が言葉を奪うように笑った。

「冗談ですよ。私は歴とした堅気、漁師の息子です」

「そうですか」

 堅気と聞いて、奥埜清喜はむしろ落胆したような顔を見せた。

――俺に近づいたのは、何か曰くがあってのことらしいな。

 そう推量した森岡は、

「それよりどうです、お近づきの印に、今夜は朝まで飲み明かしせんか」

「それはもう、喜んで」

 森岡の誘いに、奥埜清喜は破願して応じた。

 各店のママは一様に仰天した。森岡の遊び方も豪快だが、西中島界隈の大地主で、大家でもある奥埜家の御曹司が下手に出ていたのである。


 神村正遠は法要の打ち合わせで前日に出向いていたため、当日は森岡、坂根、南目、茜の四人で鳥取へと向かっていた。

 鉛色の空と際限の無い群青の海。

 岩礁を打ち付け、空に舞い上がる白い波華と、それを避けるように帆翔(はんしょう)を繰り返す海鳥。

 車が日本海の海岸沿いに差し掛かってくると、森岡は堪らずウインドを少しだけ開けて潮風を入れた。

 山陰の冬場独特の薄暗い風景と子守唄代わりに聞いた波の轟き。

 そして焦げた潮の臭いが、森岡に生まれ故郷を思い出させ、胸を強く打つのだった。

 物憂げに日本海を眺めていた森岡に、茜がそっと声を掛けた。 

「ねえ、森岡さん」

「なんや」

「森岡さんは、どのようにして神村先生と出会ったの」

 森岡は一瞬たじろいだ。

「なんでそんなことを訊くんや」

「だって、どう見たって普通の関係には見えないもの。何か肉親以上の強い繋がりを感じるから、いったいそれは何なのかなあって思って」

 茜は出会ったときからずっと抱いていた想いを素直にぶつけた。

 森岡は再び視線を窓の外に戻すと、瞬きも忘れたように見つめていた。

 重苦しい静寂の時が流れた。

 茜は森岡の躊躇いの様子に、触れてはいけない過去なのだと察し、

「言いたくないのであれば、良いのよ」

 と半ば諦めの言葉を掛けた。

 すると、それに反応して森岡が振り向いた。

「長い話になるで、しかもきつい話ばかりで、ちっとも楽しくないけど、ええか」

 森岡は、愛する茜には自分の過去を知って貰いたいと腹を決めた。

「はい、大丈夫です」

 茜は力強く答えた。彼女は、その表情から森岡の決意の程を十分に感じ取っていた。だからこそ彼女もまた、すでに愛してしまった森岡であれば、たとえどのような過去であっても、真正面から受け止める覚悟だったのである。

「実はな……」

 森岡が、いよいよ話始めようとしたとき、助手席の坂根が急に音楽のボリュームを上げて水を差した。それが気遣いだとわかった森岡は、穏やかに問い質した。

「坂根、どないしたんや」

「社長のお話が聞こえないようにと思いまして」

「そないな気を使わんでええ。お前と関わりのある話も出てくるから、聞いといてくれ」

「私が、ですか?」

 坂根は、森岡の言葉に全く心当たりがなかった。彼が森岡と初めて会話をしたのは三年前であり、森岡の過去に関わりがあるはずがなかった。坂根は不思議に思いながらも音楽を切り、森岡の話しに耳を傾けた。

「俺は関係ないやろうから、ヘッドホーンでもしますわ」

 南目もそう言ったが、

「この際や、輝も聞いといてくれ」

 と、森岡は彼の気遣いも遠慮した。


 森岡は、まるで映画のワンシーンを切り取ったかのように、鮮明に刻み込まれた記憶を話し始めた。

 森岡の故郷は、いま車が走っている道のずっと先、鳥取県との県境近くにある浜浦という漁村である。

 森岡の生家灘屋はこの界隈の分限者で、権力者であった。

 灘屋にとって洋介は、待望の嫡男誕生ということで、大変に可愛がられて育った。

 だが洋介自身は、なぜかわからないが、小学校に上がる少し前の頃から、幼心に『この安寧は長く続かない』との不安を抱いていた。

 洋介の、その漠然とした予感は的中した。彼が八歳の春、母小夜子が、突然家を出て行くという不幸に襲われたのである。

 父の洋一は、素面のときは無口で真面目な働き者であったが、酒が入ると人格が変わったように狂暴になった。

 飲酒は会社経営の重圧から逃れるためのものだった。豊漁のときはまだ機嫌が良く何事もなかったが、不漁のときは些細なことで小夜子に八つ当たりをして、よく暴力を振るった。

 洋介は無抵抗で父に殴られている母をただ見ているだけだった。彼は悲しかったし、何もできない自分自身が腹立たしかった。

 あまりに酷いときには、小夜子は洋介を連れて実家に逃げたので、洋介は玄関先で喚き散らす父の悪態を、押入れに隠れながら母と聞いていたものだった。

 幼い洋介の心に暗い影を落としていたのは、まさしく父の母への暴力だったのである。

 ある日のことだった。

 小学校から帰ると、祖母から母が家を出たと聞かされた。

 そのとき洋介は、『今度はいつものように俺を連れて行かんかった。ああ、おらはお袋に捨てられたんや』と思い知ったのだが、そのときはまだ、母を許せる気持ちがあった。父の暴力は酷かったので、『これでお袋は殴られずに済むし、おらも修羅場を見なくて済む』、そう思ったのである。

 ところが、小夜子はただ出て行ったのではないということが後になってわかった。小学校で、これまで一緒に遊んでいた友人達がどことなく洋介を避けるようになった。そればかりか、陰口も叩くようになった。

 あるとき、洋介はその中の一人である石飛浩二を捕まえて問い質した。

 すると浩二は、洋介にこう言った。

「わいのお母ちゃんは男を作って逃げたがの。男狂いや」と。

 言った方も聞いた方も、男狂いという意味を正確に理解してはいなかったが、両親の陰口をそのまま口にした思われる浩二の言葉は、洋介に脳天を金槌で打ち付けられたような衝撃を与えた。同時に、その無邪気な悪口に含まれる漠然とした背徳と侮蔑の臭いは、浩二に対する憎悪を駆り立てた。

 森岡は茜を見て、小声で言った。

「俺の心のどこかに、コーちゃんを恨む気持ちがあったことは否定せえへん」

 茜は黙って頷いた。

 あの夏の日の悲劇には、このときの森岡の屈託も関連していたのだと、茜は憶測した。

 洋介は授業そっちのけで、学校を抜け出し家に帰り、祖母を問い詰めた。

 すると、最初は誤魔化そうとして祖母のウメも、洋介の表情を見て誤魔化しきれないと悟ったのだろう、涙を浮かべながら洋介をきつく抱きしめた。

 頭の片隅でかすかに抱いていた『何かの間違いだ』という望みを打ち砕かれた洋介は、とにかく頭の中が真っ白になり、いったい何が起こったのかわからなくなった。ただひたすら、寒むかったことだけは覚えていた。身体の芯から、それこそ血とか骨とか肉とか、すべてが凍ってしまうような寒さが襲ってきて、洋介はガタガタと震えていたのである。

 おそらく、突然我が身に降り掛かった不条理な現実に、極限に達した怒りや失望が外に発散されず内面に向かってしまったのであろう。

 その頃は数年続きの不漁で、小夜子は家計を助けるために保険の外交員を始めていた。『漁は水物』と言われるように、不漁だと大きな損益が出る。十三隻の一日の油代だけでも数十万円、一ヶ月だと二千万円近くなり、てご漁師たちの給料を加えると二千五百万円ほどにもなる。

 つまり一年では、休漁期間を差し引いても二億円超の損失が出ることもあるのだ。むろん、これは全く漁が無いという仮定での試算で、実際はどんなに不漁といっても一億円の赤字を出す年など滅多にない。

 灘屋には、数年不漁が続いても問題が無いほどの貯えはあったが、子育ても終わり、籠の鳥状態だった小夜子の気晴らしの意味も含めて、外に出ることを許可したのだった。

 それが裏目に出てしまったのである。

 保険の勧誘の際に知り合った顧客の男性と親密になり、駆け落ちしたのである。都会であれば、特段あげつらうこともない行状なのだろうが、昭和四十年代のしかも地方の閉鎖された村社会にあっては、前代未聞の醜態であった。

 一転して灘屋には村人の侮蔑と好奇の目が注がれることとなった。表面上は、取り立てて変わりはなかったものの、心の奥底では皆嘲笑っていたと思われた。

 いかに灘屋といえども、小夜子の不倫の末の駆け落ちは、それほどまでに取り返しの付かない痛恨事だったのである。洋介に対する世間の目も同様で、その後しばらく、彼は小さな身を針で突き刺されたような痛みに耐えて行かなければならなかった。

 洋一は、後日小夜子から郵送されてきた離婚届に黙って判を押した。

 小夜子が出て行った後、悪霊にでも呪われているかのように、不幸が立て続けに灘屋を襲った。まるで、積み木の一片を抜き取られたように家族崩壊が始まった。

 翌々年、洋介を一番に可愛がっていた祖父の洋吾郎が、それから一年も経たずして父の洋一までが相次いで死去したのである。

 洋吾郎はくも膜下出血、洋一は小夜子が去った後、益々酒に溺れた挙句に肝臓病を患い、食道静脈瘤破裂と二人とも信じられないほどあっけなく往ってしまった。二本の大黒柱を失った灘屋の威光が地に堕ちたのは言うまでもない。

 かけがえのない家族が、次々と傍から姿を消して行く現実に、洋介の喪失感は雪だるまを転がすように、どんどん大きくなっていった。そして、あっという間に彼の小さな胸を埋め尽くしたとき、ある結論に至った。

――おらはこの世に拒まれている、と。

 ときには、この世から疎まれている以上、早くあの世へ行きたい、とさえ思ったこともあった。

「そして……」

 洋介は口籠った。

「……」

 茜は黙って洋介を見つめた。

「一度、海にな」

 洋介は言葉を切ったが、茜には意味がわかった。洋介が金槌であることを知っていたからである。

「もしかして、笠井の磯」

「うん」

 洋介は切なそうに肯いた。

「たまたま、近くで磯釣りをしていた人が居てな。助けてあげてという女性の声で気づき、俺を助けてくれたんやそうだ」

「女性って、まさか浩二少年のときの」

 茜が驚いたように訊いた。彼女は、凶刃に倒れ入院していた洋介の口から霊妙な女性の存在を聞いていたが、半ば信じ、半ば彼は幻覚を見たのだろうと思っていた。

 うん、と洋介は頷いた。

「ただ、それがわかったのは俺が入院していたときや」

「入院?」

「どうやら俺は死ぬ予定だったらしいが、あのときの女性が現れ、救って下さったんや」

「まあ」

「まさか」

「死、ってか」

 茜は目を丸くし、坂根と南目もそれぞれ驚きの声を漏らした。

「その際にな、海に飛び込んだときもこの女性が助けて下さったことを知ったんやが、ともかく金槌の俺には周囲を見渡せる余裕など無かったから、女性の姿は見てへんかったんや。助けてくれた人も、波の音を聞き間違えた幻聴ということになったらしく、結局運が良かったということで片が付いたんや」

「森岡さんは、その女性に三度も命を救われたのですね」

「そういうことやな」

 と頷いた洋介はただ、と口元を歪め、

「そのときの俺は、ああー俺は死ぬことも出来へんのかって、自分の運命を呪ったものや」

 と自嘲した。

 この一件は、公には事故として処理されたが、浜浦の人々は皆、洋介が自殺を図ったものだと察していた。釣り下手の洋介が、よりによって一人で笠井の磯へ釣りに出掛けたのを訝ったのである。

 さて、そのような洋介の唯一の支えは、一人生き残った祖母のウメであった。

「恥ずかしい話やが、ときたま悪い夢にうなされて夜中に目が覚めたりするとな、俺はお祖母ちゃんの布団に潜りこんで、萎んだ乳房を弄(まさぐ)っていた。五年生にもなってやで」

 森岡は恥も外聞も無く言った。

「きっと、お祖母様の肌の温もりでしか、生きていることを確認できないほど淋しかったのね」

 茜は目に涙を溜めながら言った。

 坂根好之と南目輝は息を詰めて聞き入っていた。

 坂根は、兄秀樹から耳にしていた森岡の人生観を変えた詳細な経緯に圧倒され、南目は経王寺での同居時代を思い出し、自分より遥かに辛い過去を生きていたはずの洋介の明るい振る舞いに、感動すら覚えていた。

 結局、小夜子の家出がきっかけとなり、知らず知らずのうちに蝕まれていた洋介の精神は、度重なる不幸で、その症状が徐々に酷くなって行った。

 そして、それが決定的に表面化したのが、大学受験が近づいた高校三年の秋だった。とうとう、人前に出るのが怖くなった彼は、不登校が目立つようになり、部屋に閉じこもりがちになってしまった。現在でいうところの引き籠もりである。そのときの後遺症なのだろうか、彼は人混みが苦手である。

 それでも、洋介は教師に恵まれていた。一年次の担任だった藤波芳隆である。

 彼の尽力で、洋介はどうにか卒業はできた。だが、とても大学受験どころではなかった。当然、浪人する羽目になったのだが、その後も症状はますます酷くなる一方で、家から一歩たりとも出なくなった。

 目を覆うばかりに変わり行く孫の姿を前にして、なす術を知らない老いたウメの辿り着いた先は、神仏に救いを求めるということだった。

 元来、ウメは日頃より暇を見つけては方々の神社仏閣を参拝するという、大変に信心深い人間だったので、ますます神仏に傾倒し、孫の病を治そうと、霊験あらたかと噂に聞けば、一縷の望みを抱いて洋介を連れて参拝した。

 洋介が救われたのは、赤子の頃から家事に追われていた小夜子に代わり、ウメに育てられたということであろう。彼は毎日、朝な夕な神棚や仏壇に読経するウメを傍らで見聞きして育っており、神仏のもつ神秘性に抵抗感がなく、疑念も抱かなかったのである。

「俺自身もな、胸の片隅で何とかせねばという思いを抱いていたから、素直にお祖母ちゃんに従っていた。よくよく考えてみれば、それが俺に神仏の御加護というべき幸運をもたらしたんやな」

「神村先生との出会いですね」

 茜が得心したように言った。

 森岡は力強く肯いた。

「俺が二浪も覚悟していたその年の暮れ近く、神村先生が荒行通算千日達成という偉業を成し遂げて、故郷の米子に凱旋されたんや。先生の偉業は米子だけでなく、近隣地域にも隈なく知れ渡っていてな、ある伝説を生む事になった」

 それは、神村が米子駅に到着したときであった。駅から大経寺までの約二キロ沿道が、天真宗開祖栄真大聖人の生まれ変わりと噂に名高い神村を、ひと目だけでも拝みたいという信者で埋め尽くされたのである。

 交通規制された車道の中央を、警察車両の先導を受けた神村が、読経を唱えながら歩みを進める様は、まさに聖者の行進だったという。

 ウメは、その沿道の人込みの中にいたのである。神村を眺めた彼女は、後光の射したその姿に生き仏様を見た心地になり、

『―このお方こそ、孫の心の病を治して下さるに違いない』

 と確信したのである。

 神村が三日間滞在していた大経寺には、連日大勢の信者が相談事を持ち込んだ。ウメも伝手を頼り、何とか三日目の遅くに神村への面会を許された。

「忘れもせんわ、年の瀬も深まった十二月二十九日の夕方やった。初めて先生の顔を見た瞬間、俺は心の中で『この人だ!』と叫んでいたんや。この人が俺を救ってくれる。俺の心を満たしてくれる、ってな。それまで、数多くの神社仏閣を参拝し、世間から偉いと尊敬されている神主さんやお坊さんと面談したんやけど、皆出会った瞬間『ああ、この人では俺は救われん』と絶望感が沸いたもんやった。それが先生のときは、初めて俺の心が弾けたんや」

 洋介は、とにかく胸の奥底に鬱積していた想いを、次から次へと神村にぶつけた。神村は、その一つ一つに丁寧に答えた。神村の言葉を聞いているうち、洋介は再び生命を吹き込まれたかのように立ち直っていった。全身を駆け巡る血液の流れを感じるほどに、気力が漲っていったのである。

 正直に言えば、洋介には神村の話の内容がほとんど理解できていなかった。

 仏教の世界観と中国哲学。

 小難しい言葉を並べられても、外国語を聞いているようだった。しかし、その良くわからないというのでさえ、不思議と心地良かったのである。

 どう言えば良いのか。赤子のウンチでさえ愛しいと思う母親の心情に通ずるといったところだろうか。高僧の言葉をウンチに例えるなど畏れ多いことなのだが、要するにそのときの洋介には、神村の口から出たものであれば、どのような言葉でも有り難かった、ということなのである。

 最後に神村の、

「年が明けたら、私の許に来るか」

 との誘いに、一も二もなく、

「はい!」

 と即答していた。

 年が明けて、ウメとの最後の正月三が日を過ごすと、洋介は直ちに故郷浜浦を離れ、経王寺に寄宿し、神村が手配した家庭教師の教えを受け、浪速大学に合格したのである。

 ウメは、洋介が大学に入学し、神村に引き取られたのを見届けると、まるでこの世での役目を終えたかのように身罷ってしまった。

「故郷におじやおば、いとこ連中はいるけど、家族という意味では天涯孤独になった俺は、その寂しさを埋めるかのように、先生を父とも兄とも慕い、先生の思想哲学に傾倒していったというわけや」

「そんな辛い過去があったなんて、今の森岡さんからは想像もできない」

 茜は涙が止まらなくなっていた。化粧はすっかり剥がれ落ち、鼻水まで垂らしている始末なのに、その泣きじゃくる素顔が、森岡の目にはとても美しく映り込んでいた。

 ただ、彼女の号泣は単なる同情ではなく、深い仔細があるのではないかと直感した森岡は気分転換にと、話題を変えることにした。

「せやせや、坂根」

 と、いかにも取って付けたように話し掛けた。

「いつか話が途中になった株の話やけどな。元手になったのは、預貯金と死んだ祖父(じい)さん、親父、祖母(ばあ)さんの生命保険金、、底引き網漁と定置網漁の会社の株式と船、網の一切、そして俺が生まれ育った家を売った金や。これら一切合財を合わせて八億ちょっと手元に残った。本来であれば、底引き網漁の船の価値は三倍以上の値打ちが有ったが、事情が事情だっただけに買い叩かれた」

 森岡は苦笑いをした。

「俺はその内の二億で株を始めたんや」

 洋介は、以前坂根から問われた株式投資の元手となった資金の出所を明かした。さらに、株式相場の手ほどきを受けたプロの投資家の正体も話し始めた。

「それとな、これは少々オカルトチックな話やから、信じる信じないは別やが」

 洋介はそう相前置きした。神秘というか摩訶不思議な世界の話だと言ったのである。

 いえ、と坂根は振り向いて真剣な目を向けた。

「先ほどの社長の命を救われたという女性の話を信じますので……」

 これから話されることも真摯に受け止めると言った。

 茜と南目も大きく頷いた。

 洋介の目を株式相場に向けたのは、ウメが彼の行く末を相談していた霊能力者の老婆である。

 その老婆は、鳥取県米子市と島根県松江市の間にある、小さな村に娘と二人で暮らしていた。その界隈では有名人であり、いつも多くの相談者が訪れていた。洋介も祖母ウメの勧めで、何度か一緒に訪ねたことがあったのだが、彼はすぐさまその老婆を絶対的に信用することになった。

「坂根、何故だかわかるか」

「いきなりそのように訊かれましても……」

 困惑した坂根だったが、

「その方の言われることが良く当たったからですか」

 と答えた。

「いや、そうやない」

 洋介は即座に否定した。

「たしかにお前の言うとおり、お婆さんの『神さんのお告げ』というのは、よう当たっとった。だがな、俺はそんなことより、お婆さんが相談者から一円たりとも受け取っておられなかったということに好感を持ったんや。それだけ良く当たる霊能力者やったら、言い値でも相談者は来るやろうが、お婆さんは頑としてお金は受け取らなかった」

 その証拠でもないが、老婆の住んでいた家は掘っ立て小屋に毛の生えたような、みすぼらしいものであった。洋介は、最初にその家を見たとき『これは本物だ』と思ったのである。

 もっとも、相談者の方も気を使い、米とか野菜、魚などを持参していたので、全くのボランティアということではなかったが、それでも老婆の精神が汚されるものではないと洋介は思っている。

「そこで、生活に必要な現金は株で儲けていた、ということですね」

「そういうこっちゃ。とはいえ、お婆さんの名誉のために言うとくけど、そないに大儲けをしていたわけやないで。ほんまに、水道や光熱費といった日常に必要な最低限の現金を捻出しておられただけや」

「なるほど、そういう事ですか。しかし、今どき奇特な方ですね。世間では霊感商法が蔓延る時代ですのに……」

「俺がお婆さんを信頼した気持ちがわかるやろ」

 はい、と坂根は得心の声で言う。

「社長は金に執着しない、清新な心の持ち主がお好きですからね」

「まあ、そうやけどな」

 洋介は照れくさそうにした。

「そんなある日のことやった。俺がお婆さんの家を訪ねると、ラジオから会社の名前と値段を、次々と早口で言っている妙な放送が流れていたんや。俺はお婆さんに『これはなんですか』って訊くと、『株式相場』という答えが返ってきた。それから、俺は株についてお婆さんから色々教わったや。といっても、教わったのは基本的なことだけやった。何故かと言うとな、お婆さんは神様のお告げの銘柄を買っておられただけやから、銘柄の選別方法は特に無いというわけや」

「それで、オカルトチックな話と言われたのですね」

「これをプロの投資家というかどうかも、俺が手ほどきを受けたことになるのかどうかもわからんが、とにかくきっかけになったことだけは間違いない。その後のことは、前に言うたとおりや」

 洋介は、稀代の相場師是井金次郎の相場に提灯を点けて儲けていた。

「話をお聞きしますと、社長はあのとき『あぶく銭』とおっしゃっていましたが、御家族と御先祖様の遺産ですから、魂の籠ったお金ではないですか」

「そうだよな、そんな貴重な金を四分の一とはいえ、よくもまあ、ある意味博打のような株式相場に投入するという不遜なことをやったものだと、今になって考えると、恐れ多くて鳥肌が立つ思いになるよ」

 洋介は神妙な口調で言った。

「でも、社長はなんだかいつも大きなものに護られているような気がします。今回の神村先生の件にしても、社長の才能や努力というだけではない、運の良さと言うものを感じます。世間には頭の良い人や、仕事のできる人は大勢いますが、強運な人というのは少ないと思います。正直に言いますと、私が社長に惹かれるのは、その強運に対してなのかもしれません」

「俺が、運が良い、てか?」

「はい」

「俺の過去を知ってもそう思うか」

「生意気なことを言うようですが、たしかに社長は幼い頃より、散々辛く悲しい思いをされてこられたでしょうが、一度も人の道を外すことなく、今日に至っておられます。それは、その節目節目に社長を導いて下さる人が現れるからでしょう。社長のお祖母さんはもちろんですが、他人でありながら、株を教えてくださった霊能者のお婆さんや、卒業させて下さった藤波先生もそうだと思います。そして、その最たる方が神村先生ではないでしょうか」

「そうね。怒られちゃうかもしれないけど、森岡さんの度重なる不幸は、神村先生に出会うための試練だったようにも思えるわね]

 茜が、森岡の思いも寄らない観念的なことを言った。

 落ち着きを取り戻していた茜には心に響くものがあった。

――そうか、彼の心は初めて神村先生に出会った十代のままなのだ。いかに事業に成功しようと、大金持ちになろうと、神村先生の前では永遠に一書生でしかなく、彼はそれで幸せなのだ。居心地が良いのだ。だからこそ、先生に対する思慕の念は、書生時代のまま色褪せることがなく、それがまた女性に対する純粋さにも繋がっているのだろう。

 茜は、心惹かれた源泉を突き止めたような気がしていた。

「ママの口からそんな運命論的な言葉が出るとは思ってもいなかったな」

 森岡は感心顔で言った。

「そうですか? 森岡さんなら、きっとそういう風に考えておられると思っていましたけど」

 茜のこの言葉は、意図していたものかはともかく、森岡の心を強く揺さぶった。

「正直に言うと、俺もそう思わないこともなかったが、その想いはずっと心の奥底に封印して来たんや」

「どうしてですの」

「もし、それを他人が知れば、ただの負け惜しみのように聞こえるやろうし、それに……」

 洋介が言い渋った。

「それに」

 茜は洋介の手に自身の手を重ねて先を促した。

「それやったら、俺の人生は家族の犠牲の上に成り立っているということになるやろ」

 森岡は物憂げな目をして言った。

「罪悪感が湧くのですね」

 洋介は黙って肯いた。

「でも、多かれ少なかれ、皆誰かの犠牲の上に生きているんじゃないかしら。私には、あの世とやらがあるかどうかわからないけど、もしあるとすれば、森岡さんの御家族は、空の上できっと今の成功を喜んでいらっしゃると思うわよ」

「ママは本当にそう思うか」

 茜は黙って洋介を見つめ、

「生意気なことを言ったのならごめんなさい」

 と詫びた。

「いや、謝らんでええ。ママのお陰で、将兄ちゃんの件に続き、長年心に突き刺さっていた棘がまた一つ取れたようや」

 洋介は、茜にだけ聞えるように言った。

――また一つ? 他にもまだあるの。

 茜は、森岡にそう問おうとして止めた。

 森岡の表情には、いくぶん明るさが戻っていた。彼女は、それが再び曇るようなことは聞くまいと遠慮したのである。

「でもな、坂根の話やないが、八歳のときにお袋に捨てられてから、十九歳で先生に出会うまで、俺の精神を救ってくれたという意味では、恩人がもう一人おんねん」

 坂根が、まさかという顔で振り向いた。

「そのとおり。そいつが、お前の兄貴、秀樹やねん」

「兄貴が、どうして」

 思いも寄らぬ言葉に、坂根は思わず声を高めた。

「秀樹はほんまええ奴やった。中学に入ったとき、俺は家の事を引け目に感じ、とにかく暗い陰湿な性格やった。その点、秀樹はまるで太陽のような奴やった。性格は明るく朗らかで、成績は常に学年で一番やったのに、少しも偉ぶったところがない。スポーツも万能で、野球部の主将もやり、男前で女子にもてたのに、浮かれたところもなかった。ほんと、非の打ちどころのない良い奴やった」

 坂根は何度も肯いた。彼の知る秀樹は弟妹に優しい兄でもあったのである。

「その秀樹が、なぜかしらんが俺のことを気に掛けて、様々なことに誘って仲間に入れてくれるんや。他の奴らも、秀樹には一目置いていたから、秀樹の言うことやったらというて、俺を仲間の輪に入れてくれた。そのお陰で、俺は疎外されたり、いじめにあったりせんで済んだんや。二年生の二学期に、秀樹が生徒会長になったときには、俺を副会長に指名までしてくれた。彼のお陰で、俺の病も中学の三年間は影を潜めていたんや」

「兄貴との間に、そんな関係があったなんて初めて知りました」

「友人には恵まれたのですね」

 坂根が得心したように言い、茜は羨ましげな顔をした。

 南目は、ただただ聞き入っていた。とてものこと、いつもの調子で冗談や差し出がましい口を挟める雰囲気ではなかった。

「その秀樹が、五年前脳梗塞で半身不随の寝たきりになったと聞いたとき、俺は『なんで秀樹やねん。こんなに良い奴が、こないな酷い目に遭わなあかんのや』と、神仏を恨んだものや。俺をそんな気持ちにさせたのは、死んだ奈津実とお前の兄貴だけや。それでな、俺はそのときに勝手に誓ったんや。こないな身体になった秀樹のためにも、俺が兄代わりとなってお前の面倒を見る。それが、中学生のとき情けを掛けてくれた秀樹への恩返しやと思ってな。それでお前をウイニットに引き入れたんや。ただ、引き入れただけやない。お前を一人前に育て、いつかウイニットを背負って立つ男にしたいと思ったのもそういうこともあったからやねん」

「兄が恩人だとおっしゃった意味がわかりました」

 坂根は噛み締めるように言った。

「お前にとっては、有難迷惑な話やったかもしれんがな」

「とんでもないです。前の会社に比べて、給料を倍近くにして下さっているのは、私が兄貴の家族に援助していることを、社長が気づいていらっしゃるからだろうと感謝していました。それに、あのまま前の会社にいたら、たとえ多少の出世をしたとしても、平々凡々で退屈な人生を送っていたでしょう。社長に拾って頂いたお陰で、通常では出会うことすらできない方々と飯を食ったり、酒を飲んだりして、色んな世界を知ることができて楽しいですし、勉強になります」

 それは坂根の偽らざる気持ちだったが、森岡はそれに水を差した。

「だがな、坂根。本当はその平々凡々こそが真の幸せかもしれんのやで。今のお前にはわからんかもしれんがな」

「はあ」

 坂根は気の抜けた声を発した。前途に洋々たる希望を抱いている彼には、森岡の真意が理解できないのも無理のないことではあった。

 一方で、森岡の過去を知った茜は、彼の神村に対する想いの強さの根源を知り、胸の痞えが取れた気分だったが、わだかまりも残っていた。

 森岡の亡妻奈津実である。

 茜は、それが森岡の心に刺さっている棘の一つであることを十分承知していながら、森岡の心を射止めたのはいかなる女性だったのか、という興味を胸の中に押し込めておくことができなくなった。いや、興味というより、森岡を愛してしまった女心というべきであろう。

 彼女は、返り血を浴びることになるかもしれない棘に触れる決断をした。

「ねえ、もう一つだけ良いかしら」

 茜は遠慮がちに言った。

「他に何を訊きたいねん」

「嫌だったら良いんですのよ」

 茜は森岡の心中を気遣い、今度は前もって断りを入れた。

「亡くなった奥様のこと」

「……」

 森岡には迷いがあった。

 奈津実を亡くしてから六年が経ち、昨年の春に七回忌の法要を済ませ、気持ちに区切りを付けたばかりだった。したがって、彼女との思い出の記憶を辿ることに少なからず抵抗があったのである。

 しかしその反面、自身の生い立ちを吐露したことで、長年覆っていた心の闇に風穴が開いたような清々しさを覚えていたのも事実だった。

 洋介は、さらにその闇から開放されるかもしれないという期待から、亡妻奈津実についても語る決断をした。

 

 浪速大学に受かった洋介は、そのまま経王寺の離れに寄宿をしたのだが、神村の信者や知人からの苦情により、一旦寺を出た。そして半年後、再び経王寺に戻り、さらに三ヶ月が過ぎた大学二回生の春だった。

 神村は、相変わらず多忙を極め、全国を飛び回っており、しょっちゅう自坊を留守にしていた。当時、神村はまだ独身であったし、宗教上の弟子はいなかったので、洋介は一人で留守を預かることになった。

 そんなある日の夕方、洋介が帰宅すると、玄関の鍵が開いており、中に人の気配がした。神村が戻るのは二日後のはずで、予定が変わったという連絡もなかった。

――空き巣か?

 と身構えて中に入ると、奥の方から同い年くらいの女性が顔を出した。彼女は洋介を看とめると、近づいてきてぺこりと頭を下げ、にこやかな顔で挨拶をした。

 彼女の名は福地奈津実といった。

 取り立てて美形というのではなかったが、その清新な心根が滲み出ているような顔立ちをしていた。

 洋介は彼女に見覚えがあった。この一年の間に、経王寺に於いて何度か仏教の年中行事の催しがあり、多くの信者の集まりがあったのだが、その度に、当日いち早くやって来ては、奥向きの仕事をてきぱきと手伝っていたのが彼女だった。

 洋介は好感を持ってその姿を見ていた。彼も準備や接客を手伝っていたが、役目が違ったので、お互いすれ違いざまに会釈するぐらいで、言葉を交わした事は一度もなかった。それでも彼女の立ち振る舞いは彼の心を捉えていた。

 洋介は、おそらく近所に住んでいる信者の娘なのだろうと思っていた。神村は留守勝ちであったから、用心のためにときどき様子を見に来たついでに、掃除などをして帰るのだろうと思っていたのである。

 洋介が自己紹介を返して、離れの自分の部屋に戻っていると、しばらくして彼女が呼びに来た。

 夕食の準備ができたというのである。洋介は戸惑いながらも、彼女の作った料理を口にした。

 そのようなことが三度ばかり続いた。そして四度目のとき、洋介は、このような行動は最後にして欲しいと奈津美に告げた。彼女の両親も承知のうえであること、洋介も神村に報告しているとはいえ、さすがに二人切りでいることは、世間に有らぬ風評を生むと思ったのである。男の洋介はともかく、奈津実は嫁入り前の女性である。

 それから数日後だった。

 神村に呼ばれて、洋介が応接室に出向くと、立派な身なり中年の紳士がソファーに座っていた。

 洋介はこの男性にも見覚えがあった。その人物もまた、寺院の行事に姿を見せていたのである。

 男性の名は福地正勝。大手食品会社・味一番株式会社の創業者であり、奈津実の父親だった。かねがね洋介を気に入った福地は、四姉妹の末っ子の奈津実を彼に嫁がせたいと考え、短大を卒業を機に、とりあえず夕食を作りに向かわせたというのが真相だったのである。

「それで、二人は御結婚されたのね」

「いや、俺はこの話を丁重に断った」

「どうしてですの」

「奈津実が気に入らなかったのではないで。むしろ好意を抱いてはいたんやが、俺は少なくとも大学生の間は、先生の許で一心不乱に修行に打ち込みたかった。当時の俺は、この書生期間で得るものによって、自分の将来が決まると思っていたのや。だから、そのような正念場の時期に、女性に興味を持つことなど不謹慎極まりない、と自らを律していたんや」

「へえー、そうなんだ」

 茜は俯き加減で言った。揶揄されたと思った洋介は、

「別に格好つけていたわけやないで。そのときは真剣にそう思っていたんや」

 と仏頂面になった。

「誤解しないでね。格好つけている、だなんて思っていません。私は、そのときの奈津実さんはどんな気持ちだったのだろう、と想像しただけです」

 茜は、己の心情を奈津実に重ね合わせたのである。

「俺の外連味のない心情を聞いていた福地さんは、益々俺のことが気に入ったらしく、是が非でも娘の婿にしたいとの思いを強めていったそうや」

「当の奈津美さんはどうされたの」

 茜は、洋介に拒絶されたときの奈津美の心情を知りたかった。

「ふふふ……」

 と、洋介は思い出し笑いをした。

「何が可笑しいのかしら」

「いや彼女がな、これがまたとんでもない行動に出たんや」

「とんでもないこと、ですか」

 洋介の昔を懐かしむような音色に、茜は複雑な顔をする。

「数日後にな、昼食の弁当を届けに、突然大学へやって来たんや。そしてな、学生課に行って学内放送で俺を呼び出すやないか。これには俺も驚いたなあ。それも、よくよく話を聞いてみると、父親に指示されたからではないと言うやないか。さらにな、驚く俺に向かって、これから毎日届けると、平然と言ってのけたんや」

「失礼ながら、たしかにお嬢様育ちにしては、突拍子もない発想ですね」

「そうやろう」

 と、洋介は肯いた。

「俺もな、大人しそうな奈津実の、どこにそんな大胆な行動を取らせる源があるんやろう、と不思議に思ったものや。奈津実は俺と同い年でな、短大を卒業後、家事手伝いをしながら花嫁修業をしている身やったさかい時間は十分にあったんやな。俺は奈津実の気迫に負けて、弁当を食べる時間だけなら一緒に居るという約束で、二人の奇妙な関係は始まったんや」

 洋介は一旦言葉を切って茜を見た。

「だがな、ママ。俺は正直にいうと半信半疑やった」

 茜はなぜ、という視線を向けたが、

「ママも言った通り、何せ正真正銘のお嬢様やからな、最初は張り切っていても、そのうち根を上げるやろと思っていたんや」

 という森岡の言葉に、ああなるほど、という目に変わった。

「ところがや。奈津美は根を上げるどころか、真夏の暑い日だろうと、土砂降りの雨の日だろうと、一日も欠かさず弁当を作って持って来るんや。それがまたおいしかったんや。食い物というのは恐ろしいものやな。俺はいつの間にか奈津実の弁当を心待ちするようになってしまい、しだいにお嬢様らしからぬ家庭的な性格に惹かれて行ったんや。俺は八歳のときお袋と別れてから、ずっと祖母ちゃんの作った料理を食べて育っていたからな。不味くはなかったんやが、年寄りの味付けは子供の俺の口には合わんかった。せやから、お袋の味に飢えていた俺には、奈津実の作った弁当は、余計心に沁みたんやな。思い起こしてみるとな、彼女はお寺のお祭りのとき、てきぱきと奥向きの手伝いを熟していた。お寺の行事やからな、並の者なら要領がわからず、また気後れしてしまい、決して容易にできる事ではないんや。俺自身がそうやったから良くわかっている。しかも、彼女は良家のお嬢様やろ。お高く留まっていても不思議ではないばずや。それが率先して、下働きの雑用をすることなど考えられないことやと思わんか」

 洋介は途中から堰を切ったように話した。奈津実との出会いの思い出を話す彼には屈託がなかった。

 一方で、

「そうですね」

 と相槌を打った茜の声には力がなかった。

 彼女は、奈津実が良家のお嬢様だったことは知っていたが、あまりに正反対の境遇に育ったことを突き付けられ、落胆していたのである。

「きっと彼女は、小さい頃よりお寺に連れて行かれては、そのように躾られていたんやろうなと思ったとき、ふと彼女なら俺が抱いている夢を理解してくれるかもしれないとの期待が生まれたんや」

「夢、ですか」

「それは、先生が絡む秘事やから今は言えんけど、彼女ならと思った瞬間、俺の気持ちが大きく動いたんや」

 森岡は奈津美との結婚を決意したのだと言った。

 それから、二人は順調に愛を育んで行き、卒業と同時に結婚した。神村の経王寺で仏前結婚を行い、親族、主賓への披露宴を幸苑で、同僚、友人への披露パーティーを大阪市内のホテルで行った

 福地正勝は洋介を味一番に入社させ、秘書として傍らに置いて経営術を叩き込みたいと思っていたが、洋介はそこまで甘えることはしなかった。というより、夢の有った彼は、味一番である意味飼い殺しになることを恐れたのだった。

 結局、学生時代から携わっていたコンピューターソフトの製作会社に就職した。

 二人の結婚生活は順調だった。しばらく子供に恵まれなかったが、洋介は家庭的な奈津実に子供の頃から引きずっていた心の痛みを癒され、会社では次々と重要な仕事をこなしていっていた。

 そして、ついに至福のときが訪れた。結婚してから五年、ようやく子宝にも恵まれたのである。出生前診断では女児であった。

「天にも昇る心地っていうのは、あのときのような喜びを言うんやろうな。嬉しくて、嬉しくて仕方がなかった」

 そう言った後、一転して森岡の表情が暗くなった。

「だがな、そのような幸福から一気に地獄の底に落とされた。青信号の横断歩道を渡っていた奈津実が、居眠り運転のトラックに跳ねられ、お腹の子共々帰らぬ人となってしまったんや。それから俺は、悲しみから逃れるように仕事に没頭した。一年後に独立したのも、理由は色々あんねんけど、より切羽詰った重圧の中に自分の身を追い込んでいないと、ちょっとした隙間から、悲しみが胸の中に入り込んでしまうというのが最大の理由やった」

 洋介の長い告白が終わった。 

「奈津実さんが羨ましいわ」

 茜は森岡に聞こえないように呟いた。日頃の言動から、森岡の奈津実への愛の深さは十分想像できたが、あらためて本人の口から聞き、未だ森岡の心の中に生き続ける彼女に嫉妬した。

「もしかしたら、俺は……」

 洋介はそこまで言って、口を閉じた。

「もしかしたら、なに?」

「いや、なんでもあらへん」

 そう言った洋介の表情は物悲しいものだった。

 茜もまた、辛い心境に追いやられていた。彼女は洋介の話で、彼の女性に対する真摯な態度も理解することができた。しかし、憂いに包まれた彼の微笑に、容易には溶かすことのできない心の障壁を感じた彼女は、暗くて深い不安の海に放り投げられ、今にも溺れそうになっていたのである。

 鳥取へ向かう車中は、まるで外の景色と同化したかような澱んだ空気に包み込まれてしまい、その後ホテルに到着するまでの時間を沈黙が支配した。


 野島真一は意外な男から連絡を受け、大阪梅田のパリストンホテルに出向いた。

 九頭目弘毅(くずめひろき)という高校時代の親友である。親友でありながら意外と言ったのは、彼が高校二年生とき突如退学し、以来音信不通だったからである。

 野島と九頭目が通っていた高校は、大阪でも有名な進学校で、九頭目の成績であれば、最高学府の帝都大学法学部への進学も可能であった。

 野島は、九頭目の高校中退の理由が家庭に不幸があったためだと知っていたが、それでも何の一言も無く、目の前から姿を消したことにわだかまりを持っていた。

 それが、突然十八年ぶりに連絡があったのである。野島は、胸に込み上げるものを感じながらパリストンホテルへ向かった。

 ホテルの喫茶店に到着すると、九頭目はすでに席に付いていて、野島の姿を認めるや、

「よう」

 と、まるで昨日会ったばかりのような気さくな声を掛けた。

「よう、やないがな。いったい、どうしてたんや」

 野島は心とは裏腹の口調で言った。

「そう怒るなよ」

 九頭目は、野島の心底を見透かしように笑みを返した。

「突然高校を中退したうえに十八年間も音沙汰なしだったのだぞ。怒りたくもなるというものだ」

「すまん。のっぴきならない事情があったのだ。今日はゆっくりとその辺りの話をするから勘弁してくれ」

 九頭目は頭を下げた。

「そういうことなら水に流すが……」

 野島は九頭目を舐めるように見た。

「ずいぶんと羽振りが良いようやな」

 九頭目はアルマーニという高級服を着用していた。一般のサラリーマンが気安く購入できる服ではない。しかも、柔和な顔に反して眼光が鋭い。

 眼光が鋭い商売と言えば、極道と警察官が双璧である。特に暴力団担当の刑事は、本物以上に極道に見える。そうでなければ、仕事にならないからだ。

 だが、公務員である警察官がアルマーニを購えるわけがない。そうなると、残るは極道ということになるが、野島には高校時代の面影から、九頭目が裏社会に足を踏み入れるとは思えなかった。いや、思いたくなかった。

「水商売でもしているのか」

「なんでや」

「その恰好で一般のサラリーマンはないやろ」

「そりゃそうだな」

 九頭目は自身の身形を確認して言った。

「俺は今こういうことをしている」

 九頭目が差し出した名刺を見て野島は、

――やはりそうか。

 と心の中で舌打ちをした。

 名刺には神王組を現す桐の代紋と『神栄会・若頭補佐』という肩書が印刷されていた。

「神栄会だと、本当か」

「ああ」

 と、九頭目は小さく肯き、高校を中退した理由と、その後の経過を話した。 

 彼が高校二年生のとき、父が事業に失敗し、挙句に借金を残したまま失踪したため、債権者からの執拗な取り立てに遭った。債権者の中にいわゆる街金もいたため、悪質な取り立てに耐え切れず、精神を病んだ母が自殺してしまった。一人取り残された九頭目の人生観が変わってしまった瞬間である。

 人生に無常を感じ、自暴自棄になった九頭目は、ある意味母の復讐の想いを込めて、その街金で働くことにした。金を生涯の仇と定めたのである。

 九頭目はすぐに頭角を現した。元来優秀な頭脳の持ち主で、しかも腕力の方も小学校低学年からボクシングジムに通い、高校一年時のインターハイでは準優勝をした逸材だった。言わば文武両道の彼が、極道世界でも重宝されるのは必然であろう。

「それにしても、お前が極道者とはなあ」

 と、嘆息した野島に、

「お前だって、コンピューター技術者は道が違うだろうが」

 九頭目が言い返した。

 野島は京洛大学工学部の大学院修士課程卒だが、専攻は化学である。同じ理系と言ってもコンピューターソフトウェアーの技術者とは畑違いだった。

「知っていたのか」

 と言った後、

「森岡社長の線からか」

 野島が訊いた。

 森岡は霊園開発事業を巡って、神栄会若頭の峰松重一と交渉をしていた。九頭目が峰松の部下である以上、野島の名が彼の耳に入るのは自然の流れと言えた。

 うむ、と黙って肯いた九頭目に、

「俺も大学のときに人生観が変わったんや」

 と、ある出来事を話した。


 野島が大学四回生のときだった。サークルの友人から特殊な血液型の収集に協力してくれないか、との依頼を受けた。浪速大学の『森岡』という男が知人のために広く大学生仲間に呼び掛けているというのだ。

 そう、南目輝の実父昌義の心臓疾患手術のために必要な血液だった。

 人助けである。野島は一も二もなく承諾し、率先して協力した。

 その後、森岡から南目昌義の手術が無事成功したとの連絡を受け、併せて感謝の宴を催すので是非参加して欲しいとの要請を受けた。

 野島は、所詮は大学生の開く宴会である。せいぜい大衆居酒屋だろうと思っていたのだが、参加者の二十歳以上の男子大学生十三名が連れて行かれたのは、なんと京都でも一、二を争う老舗のお茶屋だったのである。

 京都の大学に通う野島は、そのお茶屋『吉力(きちりき)』が、一見お断りの看板を掲げていることを知っていた。しかも、大学生ばかりの団体を入店させるはずがない。

 ところが、店側は入店させたどころか、女将らしき人物は森岡とずいぶん親しげに談笑しているではないか。

――この男はいったい何者なのだ。

 野島は、何か得体の知れない、これまで自分が生きて来た世界と対極に生きる人間のような気がしていた。

 野島の驚きはこれだけでは済まなかった。

 なんと、芸妓や舞妓を総勢十三名も呼んでいたのである。つまり、一対一で酌をさせようというのである。

 森岡は、目にしたことも耳にしたこともない高級酒を次々と注文し、芸妓や舞妓と楽しげに遊んでいる。そして、野島と同様、あまりの場違いに身を堅くし、顔を引き攣らせている連中の気持ちを解きほぐしながら遊びの輪の中に引き入れていた。

 野島は吉力の料理代金を知らないし、芸妓や舞妓の花代がいくらなのかも知らなかったが、安く見積もっても百万円単位であることは容易に推測できた。

――なんという規格外の男なのだろう。

 野島は、堪らず女将に森岡の正体を訊いた。そして、神村という高僧の許で書生修行をしていること、その神村に同伴して何度も吉力に訪れていることを知ったが、なぜ森岡が豪遊できるのかまではわからなかった。

 それからというもの、野島の脳裡から森岡のことがこびり付いて離れなくなった。予定通り大学院に進んだものの、卒業を前にしてこのまま内定している化学系の会社に就職して良いものだろうか、と想い悩むようになった。

 そこで野島は、もう一度森岡に会うことにした。

 快く応じてくれた森岡から、いずれ独立するつもりだということを聞かされたとき、思わず、

「私にも手伝わせて下さい」

 と言ってしまった。

 森岡は、にやりと笑うと、

「だったら菱芝(うち)に入れ。俺が鍛えてやる」

 事もなさげに言った。

 野島は唖然となった。たしかに新卒者採用期間は終了していないが、どの会社もすでに内定者は決定している。まだ求人を継続しているような会社は、それこそ学生も敬遠する会社なのだ。菱芝電気は、旧財閥系の大手情報処理機器の製造販売会社である。採用活動は終了しているに決まっている。

 さらに、俺が鍛える、とはどういう意味だろうかと野島は首を捻った。

 森岡は一歳年上だが、浪人していたから現役合格した野島と同学年である。したがって、大学院修士過程を終えて就職する野島の二年先輩になるだけであった。コンピューターの技術スキルが、たった二年で他人を教育するだけのレベルに達するものなのだろうか、と野島は訝ったのである。

 しかし森岡は、実に自信に溢れた表情を浮かべていた。


「なるほど、そういう出会いだったのか」

 と言った九頭目の目が厳しくなった。

「その森岡社長やが。実際に付き合ってみてどうや」

「何を考えているんや」

 野島は気色ばんだ。

 森岡から、土地の買収問題は解決したと聞いていた野島だったが、相手は暴力団である。簡単に心変わりしてもおかしくはない。

「心配するな。森岡社長をどうこうするつもりはない。というより、もし俺が社長に何か手出しでもしようものなら、指を詰めるだけでは済まないだろう」

 九頭目は苦笑いした。

 野島は、肩から力が抜けたような表情になると、話を続けた。

 野島の心から疑念が消え失せるのに時間は掛からなかった。

 菱芝電気に就職した野島は、あらためて森岡の凄さに圧倒される。野島が森岡に相談したときは、子会社から二年間という契約で出向していた森岡を、システム部長の柳下がヘッドハンティングしていたときだった。

 そこで森岡は、自身の転職の条件に野島の追加採用を提示した。柳下は上司の役員を説き伏せ、縁故枠を使って野島の採用を人事部に認めさせたのだという。

 さらに野島は、出向して柳下の部に配属されると同時に、森岡は重要なプロジェクトリーダーに抜擢されていること、自身は教育期間を終えてから幾つかの実戦を経験した後、森岡のプロジェクトチームに配属される予定だということも知った。

 何という桁外れの男なのだろうと、野島は驚嘆した。

 また、森岡は大学生時代からプログラム言語に精通していたのだということもわかった。俺が鍛えてやると言った森岡の真意も野島は理解したのだった。

「入社以来、社長に追い着こうと努力してきたが、追い着くどころが、一ミリとて距離を縮めることさえできない。いや、むしろ社長の背は遠ざかっている」 

「頭脳優秀なお前でも近づけないのか」

 ああ、と野島は肯いた。

「社長は大きい。大き過ぎる人や。経営者としてだけやない、社長なら政治家でも宗教家でも天下を狙える器やと思う」

「そう言やあ、寺島の親父がわしらの世界に来てもええ極道者になるやろうと言いはったらしいわ」

「極道世界のことはわからんが、表の社会やったら何をしても成功されるのは間違いない」

「ええ人に巡り会うたの。森岡社長は人情にも厚い人やで」

「なんで、お前にわかるんや」

「お前、檸檬の真弓という女に惚れたらしいの」

 うっ、と野島は言葉に詰まった。

「それも霊園事業の件からやな」

 いや、違うと九頭目は首を左右に振った。

「森岡社長から直に聞いた」

「なんだと」

 野島は素っ頓狂な声を上げた。

「森岡社長はな、塩谷というチンピラに真弓さんから手を引かせて欲しいと若頭に頭を下げはったんやで」

「なんやて」

「しかも、金も積みはった」

「金? いくらや」

「それを聞いてどうする」

「それは」

「森岡社長に返す気か」

「これでも多少の蓄えはある」

「そうだとしても、金を返すというのは筋が違うんやないか、野島」

「……」

「というより、そもそもが金の問題やないんや」

「どういう意味や」

「お前が知らんのも無理はないが、うちの若頭の貫目はな、高々数千万の金で動くほど軽くはないんや」

 神栄会の会長である寺島龍司は、神王組の若頭補佐をしているが、若頭補佐の序列では三番目だった。したがって神王組内ではナンバー八ということになる。すなわち、組長、若頭、舎弟頭、本部長、筆頭若頭補佐、筆頭舎弟頭補佐、次席若頭補佐の次ということである。

 だが、神栄会は神王組でも一、二の看板組織である。したがって寺島の貫目は序列通りではなく、若頭を努める峰松の貫目もそうである。おそらく、峰松の実質上の序列は二十五番目あたりだと見込まれた。

 構成員が四万人の団体の二十五番目である。

 単純に四万人の従業員を抱える大企業に照らし合わせても、取締役という肩書が付くのではないだろうか。

 その峰松が、数千万のはした金で、しかも男女の色事に首を突っ込むことなど、通常では有り得ないことなのである。

「森岡社長の頼みだからなのだな」

 そうだ、と九頭目は肯いた。

「寺島の親父と若頭にすっかり気に入られたようだ。二人が揃って素人を誉めることなど滅多にない」

「そうなのか」 

 野島は複雑な面をした。

「その証拠でもないが、塩谷に引導を渡す役目を俺が任された」

「な、な……」

 なんという因縁に、野島はもはや返す言葉を見つけられなかった。

「ということだ。俺がきっちり因果を含めたから、後顧の憂いは一切ない」

 野島を安心させるように言った九頭目は、

「次は夜を徹して酒でも飲もうや」

 と言い残して席を立とうとした。

「極道世界のことはよう知らんが、命は大事にせえよ」

 野島が声を掛けた。

 ふふふ、と声もなく笑うと、

「これから先、俺が命を掛けにゃならん機会は滅多にないとは思うが、身体を張らにゃならんときはきっちり張る。せやけど、必ず生き残ってトップを目指す。だからお前も森岡社長に追い着けるよう頑張ってくれや」

 九頭目は生きる世界は違っても、お互いその世界で頂点を目指そうと言った。


 鳥取市のホテルに到着すると、洋介たちは部屋に荷物を置いて、タクシーで見相寺へと向かった。見相寺は市内から、内陸部すなわち中国山地の懐に向けて、二十分ほど入ったところにあった。

 到着してすぐに七回忌の法要が始まった。正導師に久田権大僧正、脇導師に神村僧正と興妙寺貫主で権大僧正の立花が務めた。他に十名もの僧侶が駆け付けていた。

 法要が終わると、精進落としの酒宴となった。

 洋介は茜と共に隅の方にいたが、久田帝玄の目に留まり隣の席に呼ばれた。さすがに帝玄である。全国から高僧ばかりが馳せ参じ、政財界を中心に数多くの地元の名士が顔を出していた。

 宴もたけなわのときだった。錚々たる面子が集った満座の中で、帝玄は突如立ち上がり、洋介をも立たせて皆に紹介すると、洋介は神村の腹心であり、此度の法国寺の一件でも自分のために骨を折ってくれている、と謝意を述べた。

 思い掛けない事だった。天下の久田帝玄から最大級の賛辞を贈られたのだ。

 嵐のような歓声と津波のようなどよめきが湧き起こり、やがて拍手の渦に包まれていった。商工会議所の会頭、地元銀行の会長、県会議員等々名立たる名士たちが次々と酒の勺をしに洋介の席にやって来た。しばらくの間、夢心地の中にいた洋介だったが、彼にとってはまさに面目躍如の一時であった。


 見相寺に泊まる神村を置いて、洋介ら四人はホテルに戻った。

 洋介は湯船に浸かりながら、茜のことを考えていた。車中での話に触発されたわけでもないだろうが、茜は見相寺で甲斐甲斐しく身体を動かしていた。いかに商売柄、接客には慣れているとはいえ、勝手のわからない宴席となると遠慮がちになり、酒の酌、食器を片付け、料理を運ぶことなどできそうで、なかなかにできないものである。

 洋介は、茜の姿に経王寺での奈津実の面影を重ね合わせていた。

 ちょうどそのとき、電話の着信音が洗面室に響き渡った。

 着信を確認すると茜からだった。時ならぬ電話に、洋介の胸は期待と不安が交錯した。

「どうかしたんか」

「あのね。昼間は森岡さんの話ばかり聞いていたでしょう」

「そう言われりゃあ、そうやな。俺一人でしゃべっていたな」

「だから、今度は私の話を森岡さんに聞いてもらいたいの」

――そういうことか……

 言われてみれば、森岡は彼女の私生活のことは何も知らなかった。いかな彼女の美貌でも、二十六歳の若さでロンドのような最高級クラブは持てない。だが、彼女の背後にスポンサーらしき男の影はない。洋介でなくても、素性に興味が湧くのは当然だった。

「駄目ですか」

「いや、ママが話したいのなら、俺も聞きたいな。今風呂に入っとるから、三十分後に最上階のラウンジでどうや? ラウンジは0時までやから、一時間ぐらいなら話せるやろ」

「では、ラウンジでお待ちしています」

 洋介は、速まる胸の鼓動に気づいていた。短い会話の中に、久しくなかった胸のときめきを覚えていた。心を寄せる女性の身の上話を聞くことなど、奈津実以来のことだった。

 三十分後、洋介がホテルの最上階にあるラウンジバーに足を踏み入れると、すでに茜はカウンターの奥の椅子に座っていた。

 洗い髪を束ね、綺麗なうなじを誇らしげに晒していた。薄黄色のセーターにポニーテールのいでたちは、着物のそれとは違う色香で洋介を惑わせ、横に座るや否や、火照った身体から発散された石鹸と香水の入り混じった匂い立つ芳香が、彼の脳を刺激し性欲を喚起した。

 ひととき、甘い気分に浸った洋介だったが、茜の告白が始まると、たちどころに雲散霧消した。

 そして彼は、茜が自分の過去にあれほどの涙を流した理由を知ることになった。


「私の父は広島で的屋(てきや)の親分をしていたの」

 茜はいきなり極道の娘だと告白した。

 洋介は『広島の的屋』という言葉に引っ掛かりを覚えたが、すぐに放念した。彼女の話に集中するためである。

 茜は広島で、神社の縁日などで露店を開く、いわゆる的屋の元締めの子として生まれた。幼少期は、世間の父親と同様、それなりに可愛がられて育ったが、小学校に上がった頃、愛人に男の赤子が生まれると、妻娘への愛情は若い妾とその男児に移っていった。

 茜は自身の宿命を呪い、母を粗略に扱う父を恨んだ。彼女のそのやるせない不満の捌け口は、中学の頃から不良仲間を集め、傍若無人の行いをすることに向かっていた。万引き、恐喝、美人局等々の悪行を重ね、警察の補導など日常茶飯事だった。

 しかし、彼女が十七歳のとき、的屋の頭だった父が広島での勢力拡大を狙った神王組と反目することになった。

 その結果、組織は解散させられ、父もまた刑務所送りとなった。虎の威が無くなった彼女は、立場が逆転し、いじめられる立場に追い込まれた。それまでの反動で、凄惨ないじめを受けた彼女は、母と共に這這の体で大阪に逃れたのだった。

「実は私、私ね……」

 茜が何度も言葉に詰まる。

「私ね、輪姦されたことがあるの」

 目に涙を浮かべ、血を吐くような声で告白した茜の身体は小刻みに震えていた。愛する男を失うかもしれないという恐れだった。

――ああ、なんて愛しい女性(ひと)なんだろうか。

 極限の勇気を振り絞った茜に、胸が熱くなった。

 洋介は、茜の肩に左手を回して引き寄せた。

「俺なんかよりずっと辛酸を舐めたんやな」

 そう言いながら、右手の指で優しく涙を拭いた彼の胸には、罪悪感も芽生えていた。

 極道の娘というだけでなく、女性にとっては命を奪われたに等しい災禍まで告白した茜に比べ、洋介は自身の精神を蝕んだ本当の理由を隠していたのである。

――これだけは、まだ茜にも言えない。いや愛した女性だからこそ言えない。

 洋介は心の中で手を合わせた。

 茜の話は続いた。

 自分たちの過去を知る者がいない新しい土地で、心機一転出直しを始めた母娘だったが、裏を返せば頼る者もいないわけで、必然的に困窮生活を強いられた。茜は家計を助けるため、アルバイトを掛け持ちした。その一つがレストランでの皿洗いだったのだが、これが彼女に幸運を齎した。

 そこである人物と出会うことになったのだが、その人物というのが北新地でも指折りの老舗高級クラブ『花園』のオーナーママ・花崎園子(はなさきそのこ)だったのである。

 園子は、一目で茜の素養を見抜き、夜の世界へと導いた。花園のホステスになった茜は、水を得た魚のように輝き始め、ある時その姿が日本経済界の大立者で、世界的大企業である松尾電器の会長・松尾正之助の目に留まり、彼の愛人になった。

 だがこれは、かつて松尾の愛人だった園子が、茜に悪い虫が付かないようにと仕組んだ親心であり、いざというときには、睨みを利かせてもらうつもりの保険だったのである。   

 園子の頼みで、形ばかりの愛人に応じた松尾だったが、茜の心根に感心し、しだいに情が移っていった。そして、いつしか実の孫娘のように可愛がるようになり、二年前に影の後見人となってロンドを出させたのだった。

「何や、お袋を憎んできた俺と、父親を恨んできたママは似た者同士のようやな」

 洋介はため息混じりに言った。

「本当ですね。森岡さんの子供の頃の話を聞いているとき、環境は違うのに、なんだか身につまされるようで、胸が締め付けられましたわ」

 あっ、そうかと洋介が目を見開いた。

「ママが殊の外極道者を嫌うのは、そういう生い立ちやったからか」

 そうです、と茜は正直に認めると、不安げに訊いた。

「森岡さん。私の身体は汚れているし、おまけに極道者の血も流れています。嫌いになりました」

「いや、逆や。正直言うと、ますますママに惹かれとる」

「まあ、嬉しい!」

 茜は頬を赤らめ、少女のような声を上げた。

「だがなあ、ママ。俺はそんな自分が怖いんや」

「怖いって何が? 私の気持ちはもうご存知でしょう」

「ああ、だから怖いんや。いっそのこと俺の片思いの方が、どんだけ気が楽やと思うくらいにな」

「どうして? 何を怖がっているの」

 茜は、それが洋介を苦しめる棘であると直感していた。

「ママ、俺が車の中で話したとおり、俺の大切な人は、皆早くに俺から離れて行ったり、死んでしまったり、不幸な目に遭ったりしとる。お袋は親父の暴力に絶えかねて、俺をおいて何処かへ行ってしまい、親父も祖父(じい)ちゃんも、女性の平均寿命からすれば祖母(ばあ)ちゃんかて早死にや。おまけに唯一の親友だった秀樹は、病魔に襲われてあんな身体になってしまった」

 洋介は、一段と悲しげな顔をした。

「そして、奈津実や。俺が最も愛した女性が最も短く、俺の許を去って行ってしまった。繰り返すようやが、俺はなママ、俺の人生は俺と親しくなった人の人生を犠牲にして成り立っていると思えてしょうがないのや。それでも血肉を分けた近親者やったらまだ気が楽やが、他人となるとそうはいかんのや。俺はママを愛してしまうと、ママに悪いことが起きそうで怖いんや。俺は奈津実を失ったときの悲しみを二度と味わいとうない。せやから、それやったら最初からママを好きにならん方がええとずっと思ってきたんや。朝、車中で言い掛けて止めたんはこのことやねん」

 洋介は心の葛藤を切々と吐露した。彼は近しい人、特に愛する女性に縁が薄い宿命にあるのではないかという屈託を持っていた。

 幼くして母に捨てられた寂しさと、初めて愛した妻に早々と先立たれ、深い悲しみを味わった彼の心の底に、そのような屈託が澱のように堆積していたとしても、無理のないことではあった。

 だが、茜は強く反駁した。

「そんなばかなことがあるはずがないわ。単なる偶然よ。仮にそうだとしても、そのことで女性に対して臆病になるなんて、貴方らしくもないわ」

 とまるで怒ったような語調だったが、

「それに……」

 と一転して茜は口籠った。

「それに、なんや?」

「いえ」

 彼女は口を滑らしたことを後悔していた。

「そこまで言ったんなら、最後まで言ってくれや」

 洋介は、躊躇する茜に強い口調で催促した。

「怒らないで聞いてね」

 茜が念を押した。

 森岡は黙って肯いた。彼女の言いたいことがわかっている顔つきである。

「それなら神村先生はどうなの? 貴方の理屈だと先生が最も近しい人でしょう? それこそ、血肉を分けた肉親よりも……」

「そうやねん。たしかにママの言うとおりや。せやけど俺は、先生は人間やない、半分生き仏様や思うとる。そんな先生には疫病神も死霊も近づけんのやないかな」

 茜の指摘は、洋介が最も恐れていたことであった。だからこそ彼自身は、心底そのように信じようとしていたが、茜はきっと突拍子もないことを言った自分に呆れるだろうと思っていた。

 ところが予想に反して、茜は真摯に受け止め、

「なるほど、そういう考え方もできるわね。でも、貴方に疫病神や死霊が付いているとしたら、それは貴方のそういう考え方自体なんじゃないの。私に言わせると、貴方の近親者に対する否定的な考え方そのものが、邪気を引き寄せていると思うわ」

 と重ねて反論したのである。

「うっ」

 洋介は、心の奥底を鋭い錐で突かれたような痛みを覚えた。茜の言葉は、真に洋介の精神の奥深いところを射抜き、彼に春秋学の『気』に関する記述の中に、そのような一文があったことを思い出させた。

「たしかにママの言うとおりかもしれんな」

 洋介は観念したように呟いた。

「絶対そうよ」

「……それなら、ママ……その」

 洋介が急に優柔不断になった。

「なに? はっきりと言って」

「その、俺の死霊がママに取り憑くかどうか試してええか」

「……」

 茜はしばらく目を白黒させていたが、やがて、

「うっぷぷぷ……ああ、おかしい」

 突然、堪え切れないように腹を抱えて笑った。

「吹き出すなよ。俺は大真面目なんやから」

「ごめんなさい。だけど、こんな口説かれ方したの、初めてだもの」

 そう言うと、一転真顔になった。

「でも、嬉しいわ。だって貴方、いえ洋介さんが神村先生に出会うために辛い思いをしたように、私のこれまでの苦労は、洋介さんに出会うためのものだったと思うことができるから」

 清々しい表情の中にも目には光るものがあった。

「それにしても……」

 突然、森岡が溜息を吐いた。

「なあに」

 茜は甘えた声で訊いた。

「後見人が松尾正之助とは恐れ入った」

「形だけよ」

「もちろん、これぽっちも疑ってはいないが……」

 洋介は指先を弾く仕種をした。

「余程気に入られているんやな」

「園子ママの手前だと思うわ」

 茜は洋介の懸念を払拭するように言った。

「いや、変な意味やないで」

 森岡は茜に笑い掛けると、思わぬことを言った。

「松尾会長は、茜を女としてというより事業家として見込んだのかもしれんな」

「それは、もっと有り得ないと思うわ」

 そう言った茜に笑顔が戻っていた。


 二人は、カクテルで未来に乾杯した後、洋介の部屋に戻って行った。

 無人のエレベーターの中、欲情を抑え切れない二人は、どちらからともなく堰を切ったように激しい抱擁とキスを交わした。エレベーターを降りると、部屋までの廊下を、唇を重ねたまま歩いた。

 部屋に入っても言葉はいらなかった。お互い背を向けて、無言のまま慌しく服を脱いだ。

「あっ」

 一足早く、全裸になってベッドに潜り込んだ茜を追って、シーツをたくし上げた洋介は、彼女のあまりの見事な肢体に思わず息を呑んだ。白いシーツの上に、抜けるような純白の裸体が浮かび上がっていた。それは血の筋が青く浮かび上がるほどの白さだった。

 彼の目を真っ先に奪ったのは豊かな乳房だった。着痩せするタイプなのか、それとも意識的に隠していたのだろうか、和服のときもドレスのときも気づかなかった。脇に流れるほどの広く丸い乳房の中央には、乳房に比して小さめの乳輪と乳首が身を硬くして佇んでいる。その淡いピンクの乳首を指で戯れると、乳房全体の産毛が波を打って逆立つのがわかった。四肢は細くすらりと伸びているが、華奢というわけではない。腰は括れているが、尻や大腿には適度に肉が付いていた。

 洋介は乳首から腰、腹、尻へと手を這わせた。

「ふう」

 茜が息を押し隠しているのがわかる。

 丸みを帯びた身体全体がやわらかく、少し汗ばんだ肌は、掌に吸い付くように纏わりつき、指を押し返す弾力もあった。

 洋介は手を止め、ふと、

――この身体を何人の男が通り過ぎたのだろうか。

 と思った。男の性である。悲しいほどの本性である。

――こんなことを考えるのは俺だけなのかもしれないな。

 と、洋介が苦笑いを押し隠したとき、茜の目と目が合った。

「私が愛したのは、貴方が三人目よ」

 と言った彼女の目が笑っているように、洋介の目には映った。

 彼女は心の内を見透かしていた。どうやら、こういう事は男は女には適わないように創られているようだ。彼はもう一度苦笑いを噛み殺した。

――三人目か。

 洋介は、嬉しいような悲しいような複雑な心境だった。輪姦は物の数ではない。野犬にでも噛まれたと思えば良い。そんなことより、彼女の心を奪った二人の男性に嫉妬した。

 洋介は、女性には貞操を求めるタイプで、動物的なセックスより、視線に恥らう仕種を好んだ。その方が性欲を掻き立てられるのだ。むろん、茜は処女ではないが、頭のどこかで処女性を追い求めてしまうのだ。

 洋介がそんなことを思いながら、彼女の美しい裸体に釘付けになっていると、

「恥ずかしいから、早くきて」

 茜の顔が朱に染まっていた。

 その言葉に促されて、洋介は唇を彼女の唇にそっと重ねた。もはや、エレベーターのときのような荒々しさはなかった。

「はあ」

 彼女が堪えきれず吐息を漏らした。彼女の熱が口を通して、洋介の体中を駆け巡った。


 翌朝の七時前、静寂を破って部屋の電話が鳴り響いた。

 茜との情交の余韻に浸っていた森岡は、寝ぼけたまま受話器を取ると、久田帝玄の付き人からだった。

 用件は一緒に朝食を取りたいというものだったが、途中からどうも様子がおかしいことに気づいた。帝玄の意向を伝えている風ではなく、本人の意思のような口ぶりなのだ。

 しだいに意識が鮮明になった森岡は、受話器の向うにいるのが久田帝玄本人だとわかり、大いにあわてふためいた。帝玄は、てっきり見相寺に泊まったものと思っていた。いや、たとえ同じホテルに泊まっていたとしても、この程度の用件であれば、付き人が連絡を取るのが当たり前で、本人が直々に電話をすることなどありえないことだったのである。

 急ぎレストランに向かった洋介は、そこでも再び信じられない光景を目の当たりにする。なんと帝玄が一人きりでいたのだ。帝玄ほどの高僧が、出先において付き人を廃することも、通常では考えられないことなのだ。

 まさに異例尽くめだったのである。

「遅れまして、申し訳ありません。加えまして、まさか御前様から直々お電話を頂けるとは思いも寄らぬことでしたので、先ほどは大変失礼な物言いをしてしまいました」

 つい先ほどまで、茜の肌の温もりの中に居たことを思い出すと、身も縮む思いの洋介だった。

「森岡君、そんなに硬くならないで……まあ、座りなさい」

 直立不動で詫びを述べ、膝に頭が着かんばかりに深々と頭を下げた森岡に対し、帝玄は優しい言葉を掛けた。

「御前様はてっきり見相寺にお泊りかと思っておりました」

「皆もそのように勧めたのだが、ちょっと思うとことがあってね。ここに部屋を取ってもらったのだ」

「そうでしたか。そうとは知らないものですから、お電話を頂きましたときは事態が飲み込めておらず、大変失礼を致しました」 

「それは、もう良いよ。それより、君と一度ゆっくり話をしたくてね。それで、一緒に朝食を取ろうと誘ったのだよ」

 森岡は、帝玄の言葉にいちいち恐縮するばかりだった。世間にはあまり知られていないが、現在の日本仏教界において、間違いなく十本の指に入るであろう巨人であった。こうして一対一で言葉を交わしていると、かつて総本山真興寺で垣間見た総務の藤井清堂とはあらためて格が違って見えていた。

「君に一つ聞きたいことがあるのだが」

「なんでしょうか」

「いや、立ち入ったことで申し訳ないが、君と神村上人との繋がりを聞きたくてね。君は実に献身的に神村上人に尽くしている。それは、傍から見ていても、とても尋常なこととは思えず、二人の間には宿縁のようなものさえ感じるのだよ。だから、これまでの経緯を話して貰えないかと思っていたのだ」

「私のことでしたら、いくらでもお話致しますが、御前様のお耳に入れるほどの話ではないと存じます」

 森岡は、一旦丁重に断った。むろん、それは帝玄を警戒してのことではなく、彼の耳を汚すことを憚ったからである。しかし、帝玄の重ねての要望に、森岡は神村との出会いからの経緯を話した。そして話の最後に、

『己の命を掛けても、生涯神村に助力することを心に誓っている』

 とまで告げたのだった。

 森岡の誠実で一途な神村への想いを聞いていた帝玄は、その表情に一瞬だけ翳りを映した。だが、巨人久田帝玄を前にして、森岡に彼の心中を推し量る心の余裕などなかった。

 このとき帝玄は、ある重大な告白を心に決めていたのだが、やむなく断念した。その躊躇が、彼の別格大本山・法国寺貫主就任への最大の障害を放置することになったばかりか、神村との関係にも微妙なずれを生むことになるのだった。

















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