第12話  第二巻 黒幕の影 拘束

 かくして森岡の目論見通り、光陽実業から売買交渉に応じるとの連絡が入る。

 この申し出は、吉永幹子が森岡と同額以上の買収案を提示しなかったことの証明であり、光陽実業の土地が彼らの手に渡るという最悪の事態は免れたことを意味していた。

 ところが、売買交渉はそう簡単には進まず、森岡はしだいに袋小路へと追い込まれて行くことになる。ようやく交渉に応じた光陽実業だったが、坪当たり十万円という法外な値段で買い取るよう要求してきたのである。それは明らかに足元を見たもので、とうてい受け入れられる条件ではなかった。

 五千坪を買収するための五億円という額は、予定買収資金の総額であったうえに、一旦そのような条件を飲めば、他の地権者も黙っていないということが容易に予想されるのだ。

 他方、この期に及んで買収を諦め、他に土地を求めるにはあまりにも時間が無かった。大本山傳法寺貫主の大河内法悦に面会を求めるにしても、計画話の段階では説得力に乏しく、少なくとも霊園地の買収は済ませておくことが不可欠だったのである。

 茫洋たる大海の真っ只中、海図も羅針盤も持たずに進む小船が陸地に辿り着けないのと同様、解決の糸口が見つからないまま、無為な日々が過ぎ去って行った。

 いかに森岡といえども、暴力団が相手では打つ手が無かったのである。

 ついに、時間切れも覚悟したある日の夕方だった。

 急転、森岡は直に極道者と対峙するという、これまでとは勝手の違う戦いの場に引き出されることになった。

 その日、石清水哲玄との面談に赴くため、森岡が車に乗り込んですぐのことである。運転していた南目輝が、二台の黒塗りの高級車に尾行されていることに気づいた。南目は、あの忌まわしい刺傷事件以来、頑として護衛に付くことを主張したため、森岡が折れていた。

 元々、南目が森岡の護衛役を兼ねた運転手であった。だが、谷川東良からの呼び出しがあった日から、坂根好之が森岡の専従となったため、南目は渋々役目を代わっていたのである。

「兄貴。後ろの車、どうも変ですね。会社を出た直後から着けて来ているようです」

「そうらしいな。たぶん、光陽実業か神栄会の奴らやろ」

「どないする」

「せやな。いずれ直接会って、決着を付けることになるやろうとは思っていたから、話をする分には構わんのやが、坂根やお前まで巻き込むわけにはいかんしな」

「何を言ってるや。兄貴を一人にはできんやろ」

 南目がいきり立ったように言うと、

「輝さんの言われるとおりです」

 坂根も力強く呼応した。

 南目はもちろんのこと、この頃になると、坂根にも森岡と一蓮托生という気概が生まれていた。彼は小学生の頃より、空手を習っており、有段者だった。もちろん、喧嘩のプロである極道者を複数人相手にすれば、それが通用しないことは十分承知していたが、坂根は修練を通して漢気というものを培っていた。

 一方、南目は暴走族の頭だったこともあって、喧嘩には慣れていた。身体も大柄の森岡よりさらに一回り大きく、素手での一対一での勝負であれば、大抵の極道者にも引けを取ることはないと思われた。

「二人とも、おおきに」

 森岡は神妙に謝意を示した。

「せやけどな、お前らにはもしものときのために動いてもらわなあかんから、別行動の方がええんや」

「もしものときなんて、縁起でもないことをおっしゃらないで下さい」

 坂根が不安顔を覗かせた。凶刃に遭った夜の光景が脳裡を掠めたのである。

「万が一のときのためや」

 森岡はそう言うと、厳しい口調になった。

「坂根、輝、よう聞けよ。まず、行き先を帝都ホテル大阪からパリストンホテルに変更し、岩清水さんには断りの電話を入れてくれ。次に、ホテルで俺を降ろしたらお前らはそのまま会社に帰って待機しとってくれ。何もなかったらすぐに連絡を入れる。もし、三十分以内に連絡がなかったら、向こうに拘束されたと思え。そしてな、このことを伊能さんに話して、手を打ってもらってくれ。伊能さんは、大阪府警のマル暴の刑事にも知り合いがおるから、場合によっては、そのマル暴から神栄会に連絡を入れるように頼んでもらっておくんや。それでな、坂根は適当な時間を空けて、俺の携帯に連絡を入れろ。用事はなんでもええ。とにかく俺の判断を仰ぎたいとか、俺に連絡を取ってくれと電話があった、とかな」

 そうだな……と、森岡にあることが閃いた。

「そのときのために、二人だけの符牒(ふちょう)を決めておこう」

「ふちょう?」

「合言葉みたいなものや。忠臣蔵の『山』と『川』は、知っているやろ」

「はい」

「それとはちょっと違うが、ええか、もし俺がこれまでどおり、『坂根』と呼び捨てにしたら、異常無しやから、何もせんでええが、『坂根君』と君付けにしたら、やば

い状態やから伊能さんにGOサインを送れ。携帯に出なかったときも同じや、わかったか」

「わかりました」

「もう一つ、これも肝心やからよう聞いてや。後ろの車は二台や。もし俺を降ろした後、お前らを着けて来るようやったら、お前らの身柄をも確保して、動きを封じ込みたいということやから、あいつ等に捕まる前に、坂根の役目を誰かに代わってやってもらわにゃならん。そのときは、野島に連絡して事情を説明し、役目を代わってもらえ。ええな」

「は、はい」

 坂根の声は、微かに震えていた。

「輝。もし、お前らが捕まっても抵抗するんやないで。暴力団と力づくの勝負をしても、ええことは何もない」

 森岡が厳命した。

「わかったすよ」

 南目は渋々承諾した。

「まあ、俺をどうこうしたってなんにもならんから、大丈夫やとは思うが、用心をするに越したことはない。それから、伊能さんにはあくまでも内々に済ませるよう頼んでおいてな。つまり、大阪府警やのうて、刑事の個人的な動きにしてもらえ。事情は後で説明しに伺うことにしてな」

「社長。確認しますが、そのマル暴の刑事は、連絡を入れるだけで良いのですね」

「そうや、連絡を入れるだけで十分や。神栄会に『大阪府警が、俺が神栄会に捉えられていることを知っている』と臭わせれば、それだけで、もしものときの手荒な動きを封じることができる」

 綿密な打ち合わせをしているうちに、車はパリストンホテルに着いた。森岡はロビーの中から、さりげなく立ち去った南目の車を見守っていたが、幸い後を着けて行く車はなかった。

 広いロビーの右手にフロント、左手に和・洋のレストランと喫茶店があり、正面の前方奥に、待合のソファーが四セット並べてあった。

 森岡は、フロントの様子を横目に捕らえ、面識のあるホテルマンが余計な動きをしないか、注視しながら通り過ぎ、一番左側のソファーにフロントを背にして座わった。そして、腕時計を気にしたり、辺りを見回すなどしたりして、誰かと待ち合わせの素振りをした。

 そこへ、昨今では珍しく、一目でその筋とわかる風体の男たち三人が近づいてきた。後ろに付き従っている二人は、プロレスラーかと思うほど大柄で、一人がスキンヘッド、もう一人が顎鬚を生やし、二人ともサングラスを掛けている。

 前を歩く男は、やや小柄で中肉中背ながら、金縁の眼鏡を掛け、長髪を後ろで束ねており、二人の兄貴分のようであった。

 三人は森岡の前に立ち止まると、その兄貴分らしき男が前屈みになって声を掛けてきた。

「失礼ですが、ウイニットの森岡さんですね」

「そうですが、貴方たちは」

「神栄会の者です。そう言えば用件はおわかりでしょう」

 森岡は小さく肯いた。

「その件で、若頭がお目に掛かりたいと申していますので、これからご足労願えませんか」

 外見とは不釣合いの丁寧な言葉遣いだった。てっきり恫喝されるものと身構えていた森岡は拍子抜けした思いだったが、彼が気を緩めることはなかった。一旦は下手に出ても、こちらが少しでも付け上がった言動を取ったりすると、彼らは途端に豹変する人種だということを知っているからである。

 森岡は一瞬考えた後、その要求を呑むことにした。もし、ここで断われば彼らの行動は、よりエスカレートするだろう。場合によっては、森岡や彼の周囲の者に危害を加える事も有り得る。そうであるなら、この場で彼らの要求に応じた方が無難だと考えた。

「承知しました、伺いましょう。ただ、その前にこれから会う約束だった方に、断りの連絡を入れたいのですが、良いですか」

「どうぞ」

 森岡は、迷うことなく茜に連絡を入れた。耳を欹てている彼らを前にして、迂闊な連絡は避けなければならなかった。

――もしもし、ママか? ごめん、急用ができてしもて、同伴できんようになったんや。ほんま、すまん。今度必ず埋め合わせするから、ごめんな。

 森岡は一方的に携帯を切った。彼は茜の機転に期待していた。いや、信じていたと言った方が正しいかもしれない。

 森岡から取り付く島もない電話を受けた茜は、考えを巡らした末、森岡の狙いどおり坂根に連絡を入れた。 

「もしもし、坂根さん? さっき、森岡さんから変な電話があったのですが」

「どんな電話ですか」

「それがね。何の約束もしていないのに、急用で今日の同伴はできないからって連絡があったの。他の店のママと間違えて電話されたのかしら」

 受話器越しに、嫉妬混じりの声が坂根の耳に届いた。当然、坂根は即座に森岡の機智であると察している。

「いえ、間違いではありません。ちょっと理由がありまして、いずれ直接社長の口から説明されると思いますので、ママは気になさらないで下さい」

 坂根は心を配った物言いをして電話を切った。

 そして、森岡が神栄会に拘束されたことを確認すると、指示どおり伊能に連絡を取り、待機することにした。

 

 光陽実業の事務所は、大阪南森町にある神栄会の自社ビルの中にあった。

 八階建てのビルは、全て傘下の企業で占められている。一見したところ、何の変哲もないビルであったが、他のビルと決定的に装いを異にしていたのは、正面入り口の右側に、神王組傘下であることを現す、金塗りの桐の代紋が掲げられていることと、やたらに多い監視カメラであった。

 森岡は、最上階にある神栄会の本部に連れて行かれた。

 一歩足を中に踏み入れると、詰めていた数十人の若衆が、森岡の姿を見るや否や、まるで異星人を見るかの如く、警戒の睨みを利かせた。確かに、ここでは森岡の方が異分子であろう。

 敵視の矛を身体中に浴びながら、応接室に通された彼は、若頭の峰松重一(みねまつしげかず)との交渉に臨むことになった。

 交渉は難航を極めた。

 峰松は坪七万円から一円も下げず、逆に森岡は坪二万円からは一円も上げなかった。峰松は、思わぬ膠着状態に苛立ちを覚え始めていた。彼は筧から光陽実業に齎された情報の報告を受けていた。ならば、たとえ坪七万円であっても、森岡の許容範囲のはずという心積りでいたのである。

 しかし、森岡は頑として二万円から上乗せをしてこない。さりとて、まさか坪五万円までなら買い取るつもりではないのか、などとは言えない。

 もう一つ、極道者を前にしても、何ら怯えることなく泰然としている森岡の態度も、それに拍車を掛けていた。

 対する森岡も相手の強気を見て、吉永幹子が土地買取りの約束の裏付けが取れたと思ってはいたが、峰松にその買取り値段を問うわけにもいかなかった。

 お互いに疑心暗鬼のまま、時は流れていった。その間、坂根から三度の電話があったが、森岡は三度とも『坂根』と呼び捨てにした。

 交渉に入る前、外部との連絡を遮断したい峰松から、携帯の電源を切るよう命令されたが、

『それでは却って部下の疑念を増幅させるだけ』

 と、森岡は反論し、翻意させていた。

 やがて刻限が迫り、ついに交渉決裂、森岡はその場を去ろうと。腰を上げたときだった。

 峰松の眉間が狭まり、目がつり上がった。

「あんたをこのまま帰すわけにはいかんな」

 口調は穏やかであったが、身体全体に殺気が漲り、威嚇するには十分だった。

「では、私はどうしたら良いのでしょうか」

「あんたには、ホテルに部屋を取ってもらう。若い者を三人付けてさせてもらうで。妙な事されたら困るんでの。そいで、明日また今日の続きやな」

 峰松の言い様に、森岡は身の危険こそ感じなかったが、自分が妥協しない限り、解決の糸口は無いと悟った。

 追い詰められた森岡に、救いの手が差し伸べられたのはそのときだった。

 榊原壮太郎から連絡が入ったのである。

「洋介、どないしとるんや」

 実に親身な声が伝わってきた。榊原は、特段の用件もなく、ただ世間話をしたいとのことだった。このような電話を受けたのは初めてであり、違和感を抱かないでもなかったが、このときの森岡には、まさに救いの神であった。

――そうだ。

 会話中の森岡にある考えが閃いた。

「爺さん。明日、時間を空けてもらえんかな」

「ええで」

 と、榊原は理由も聞かずに即諾した。これもまた不可思議なことである。

 森岡は携帯電話を切ると、

「明日、同席させてもらいたい人物がいるのですが」

 と、峰松に持ち掛けた。

「誰や」

「今の電話の相手で、榊原という七十歳半ばのご老人です。この榊原さんが、今度の霊園事業の責任者ですから、この人が同席した方が話は早いと思いますよ」

 峰松は少し考えて、

「よっしゃ、ええやろ。明日、十時にここに来てもらえ」

 と申し出を了承した。

 森岡は勝手の違う相手との交渉で、重要なことをうっかり失念していた。交渉決裂にしても、峰松の言い値で買い取るにしても、独断で決することはできないということである。この霊園計画は、榊原壮太郎を通じてのものだからである。榊原からの電話で、森岡は彼の事前の了承を得る必要があると気づかされたのだった。


 森岡が、大物極道という厄介な相手と向かい合っていた同じ日、京都大本山傳法寺に大河内貫主を訪ねる若い僧侶がいた。総務藤井清堂の意を受けた景山律堂である。景山は神村に先んじて、大河内法悦の確固たる支持を取り付け、暗闘に決着を付けるつもりでいた。

 景山は人目に付くことを恐れ、他の場所を提案したが、心に一点の曇りもない大河内は、それを退け傳法寺での面会となった。

 傳法寺は京都府の南の外れ、大阪府を間近に臨むところにあった。歴史は古く、栄真大聖人が京都で布教を行ったときより、法国寺を補佐する重要な役割を担った。

 また、栄真大聖人の御真筆・御本尊を分祀奉安し、併せて高尾大明神の同木同体の御神体をも奉安していることから「関西の妙顕」との別称もあった。それゆえ大本山の中でも、別格の称号を誇り「西の総本山」と呼ばれる法国寺、「東の妙顕」の異名のある東京目黒の澄福寺に次ぐ格式があった。

 大河内法悦は七十六歳。五年前、七十一歳で大本山傳法寺の貫主になった英傑である。

 景山は、その大河内を前にしても落ち着いていた。

「貫主さん。失礼とは存じますが、三億用意致しました」

「三億? いや、私は金など欲してはいないよ」

 大河内は不機嫌な面で言った。

「もちろん、貫主さんが金で動かれる方だとは思っておりません」

 景山はすぐさま弁解した。

「あくまでも、清堂上人のお気持ちだとお考えいただければ幸いです」

「しかしね」

「それに、立国大学の副理事長の椅子も用意致しました」

 と、大河内の機先を制するように畳み掛けた。景山は一気に事を決しようと考えていた。

「副理事長?」

「はい。後人の指導、教育に熱心な貫主さんには、まさに打って付けのお立場と存じますが」

「そうまでされてもねえ」

 景山の意に反して、大河内の反応は鈍かった。

 彼に駆け引きをするつもりなど微塵もなかった。だが、久田帝玄側からは何の働き掛けもないうえに、むしろ有利な情勢にあるはずの藤井兄弟側の動きに焦りの気配を感じ、本能的に即答を避けたのである。

 決断を渋る大河内の態度に、冷静だった景山の顔が紅潮した。

「貫主さん。此度の戦いは、すでに清慶上人の元を離れ、清堂上人と久田上人との戦いになっていることはご存知でしょう」

 うむ、と大河内は肯く。

「若い僧侶の中には、次期法主と影の法主という、二度とお目に掛かれない戦いが見られるなどと、まるで芝居見物をしているかような不謹慎な輩もいる始末です。事の是非はともかく、これだけの衆目を集めた戦いに、もし敗れるようなことがあれば、総務たる清堂上人の面目は丸潰れです。なぜ次期法主を目前にされている清堂上人が、そのような危険を冒してまで清慶上人を助力されるのか。それは、単に清慶上人が実弟だからではありません。それだけが理由であれば、黒岩上人に勇退勧告をして終わりです」

 景山は、そこで一旦言葉を切って大河内を見据えた。

 大河内は、それも承知していると答えた。

「貫主さん。貫主さんは在野にありながら、総本山の妙顕修行堂と天山修行堂の両堂で荒行を達成されたお方ですから、客観的公平性を持って事に当たられると信じております。それゆえ、清堂上人の御真意を明かしましょう」

「総務さんの真意……」

「そうです。清堂上人の狙いは、鎌倉すなわち久田上人が出馬すると耳にされて、この機会に久田上人を一敗地に塗れさせて面目を潰したうえ、合わせてその影響力を削ごうと思われたのです。本来、宗門の権威と信望は総本山に集約されるべきものです。しかし過去の経緯から、ともすればそれが天山修行堂、すなわち久田上人に移っているかのような風潮があります。いえ、決して風潮だけではありません。総本山四十六子院以外の在野の僧侶は、その多くが荒行の場として、妙顕修行堂よりも天山修行堂を選択しているという現実があります。これが久田上人をして、影の法主などと崇める原因となっているのはご承知のとおりです。そのことをずっと嘆かわしく思われ、生涯を掛けて少しでも本来あるべき姿に戻したいと願っておられる清堂上人は、今回の件がそのための一端になれば、とお考えなのです」

 師である総務清堂の深い想いを理解していた景山律堂は熱弁を振るった。

「なるほど、そういうお考えがあってのことなのか」

 大河内は感じ入ったように言ったが、

「総務さんのお気持ちは痛いほど良くわかるし、理も通っている。しかし、そう一朝一夕に事は運ばないだろう。何せ、久田家の二代に亘る貢献は、それはそれで大いに評価すべきものだからね」

 と結局この日、景山の必死の説得にも拘わらず、大河内は総務清堂支持の明言を控えた。


 翌日、榊原壮太郎は時間通りに神栄会の事務所にやって来た。

 榊原を加えて交渉は再開されたが、やはり両者は平行線を辿ったまま、出口の見つからない状態に変化はなかった。

 とうとう痺れを切らした森岡が、交渉の打ち切りを申し出て、突破口を模索したとき、ようやく峰松が交渉に乗ってきた。一坪当たり五万円まで下げたのだ。

 だが、森岡はそれにも応じなかった。坪当たり五万円で買い取るという情報を得ていた峰松は、話が違う事に業を煮やし、

「五万円で買うという話ではないのか」

 とつい口を滑らしてしまった。

 ついに筧克至が裏切っていたことを証明する言質を取った森岡だったが、彼はあらためて坪当たり二万円までしか出さない意思を明言した。

 当てが外れた峰松の表情は、焦りが怒りに変わった。峰松の後ろに控えていた若衆も身構えた。不穏な空気がその場を覆い、一旦緊張の糸が切れてしまえば、どのような成り行きになるか……。

 森岡の心に一抹の不安が過ぎったときだった。

「宜しいでっか」

 と長閑な声が掛かった。緊張感を溶かすような実に温(ぬる)い響きだった。黙って成り行きを見届けていた榊原が初めて口を開いたのである。

「なんやねん!」

 峰松は吐き捨てるように応じる。

「この年寄りにも話をさせてもらいたいのやが」

「話やと」

 苛立ちを露にした峰松を、どこ吹く風と受け流した榊原は勝手に話し始めた。

 初めに霊園事業の主たる目的が、国のために散って逝った無縁仏を供養するためだということを力説して、峰松の義侠心に訴えた後、大親分だった神王組の先々代組長・田原政道と、ある人物との関わりを話し始めた。

 それは、峰松にとって想像すら付かないものだった。

「峰松さんと言いはりましたな。あんたはん、『金刃正造(かねとしょうぞう)』という極道者に聞き覚えがありまへんか」

「知らんがな」

 峰松は、もはや聞く耳を持っていなかった。

「そうでっか」

 榊原は首を捻ると、

「神王組三代目・田原大親分の舎弟だった男で、関西一円を神王組傘下に収めることに尽力し、三代目の夢やった全国制覇の基礎を築いた男やねんけどな」

 これ見よがしに嘯いた。

 峰松は、はっと目を剥いた。三代目の名前を出されては、聞き捨てにするわけにもいかない。

「今、誰や言うた?」

「金刃正造ですがな」

「金刃正造だと? なんであんたがその名を知っているんや」

 峰松は、驚いたように訊いた。、

「今から二十五年近くも昔の事やねんけど……」

 榊原は、森岡も知らない昔語りを始めた。

 

 金刃は覚醒剤の所持、服用で捕まり、服役することになったのだが、田原は殊の外覚醒剤には厳しい親分で、覚醒剤を扱った組や員は絶縁、破門とする通達を出していた。したがって、たとえ可愛がっていた舎弟の金刃とはいえ、見逃すわけにはいかなかった。他の者に示しが付かないからである。中国古代三国志の『泣いて馬謖(ばしょく)を切る』ではないが、心を鬼にして金刃を破門にした。

 話の途中で、

「そないなことまで知っているとは……あんたは何者や」

 峰松が懐疑的な言葉を挟んだが、

「まあ、黙って最後まで聞きなはれ」

 と、榊原は一蹴した。

 一瞬、むっとなった峰松だが、そこは伝説の大親分に纏わる話である。ぐっと気持ちを飲み込んだ。

 その金刃は、服役中に癌に侵され、余命半年と宣告されることになる。

 抗争に明け暮れ、人生の半分を刑務所で過ごした彼は、かねがね畳の上では死ねぬと覚悟はしていたものの、いざ生に区切りを付けられると、無性に我が家が恋しくなった。そして面会に訪れた妻に、ふとその想いを漏らした。三代目に破門されたことで、すっかり落ち込んでいたことも拍車を掛けていたのであろう。

 これまでに見たことのない気弱になった夫の姿に、妻は何とかならないものかと、東奔西走し、頭を下げて回ったのだが、尽くにべも無く断られた。

 よくよく考えてみれば、破門され落ちぶれた極道者など、極道の世界からも堅気の世界からも相手にされるはずもないのだ。妻がそう諦めかけていたところに、三十歳そこそこの若さながら、生き仏様のような僧侶が、大変な修行を終えて下界に降り、近所に住んでいるという噂が耳に入って来た。

 万策尽きていた妻は、たとえ刑務所や警察病院からは出られなくとも、面会を願えば、夫の魂を救って貰えるのではないかと、藁にも縋る思いで、全く面識のなかったその僧侶の寺の門を叩いた。

 事情を聞いた僧侶は、妻の頼みを快く引き受けたばかりか、どのような方法を用いたのか仔細は不明だが、裁判所から自宅に戻る許可まで得たのである。

 三ヵ月後、金刃は念願どおり自宅の畳の上で亡くなるのだが、彼の遺言によりその僧侶が葬儀一切を執り行った。

 後日、事の経緯を知った田原は甚く感激し、すぐさまその僧侶の許を訪れ、深々と頭を下げた。泣く泣く破門したものの、全国制覇の礎を築いてくれた可愛い舎弟のことを、ずっと心に掛けていたのである。

 そうかといって、立場上田原自身はどうすることもできず、金刃は金刃で破門された身の上を憚り消息を絶っていた。だからこそ、余計に若い僧侶の情けが心に沁みた。

 田原は、金刃を刑務所から出してくれたことに一千万、葬儀を仕切ってくれたことに一千万の、合わせて二千万の謝礼を差し出したのだが、若い僧侶は、この度のことは仏縁によるもの、として頑として受け取ろうとしなかった。

 一方で、田原も極道の中の極道である。男が一度懐から出したものは仕舞えない、とこちらも譲らなかった。

『受け取れ、受け取れん』

 という押し問答が続き、埒が明かないと思った僧侶は、半分の一千万を受け取ることにした。

 

「以来、二人はたまに酒を酌み交わす付き合いをしてゆくことになったのやが、そのお坊さんというのが、今回の霊園事業の中心に居てはる神村正遠上人やで。あんたら、極道の世界は『義理』というもんを一番に重んじる世界と違うんでっか? 最後は破門されたとはいえ、神王組の勢力拡大に、大いに貢献した大先輩の金刃はんが多大な恩を受け、田原三代目が深い恩義を抱いていた神村上人に、お宅らは後ろ足で砂を掛ける気でっか」

 榊原には気迫が満ちていた。峰松をして怒りを静め、沈黙たらしめるに十分なものだった。

 峰松は、榊原の話に嘘が無いと見極めたのか、黙って席を立ち奥の部屋へ入って行った。  

 しばらくすると、中から峰松と共に、一段と風格を備えた男が出てきた。五代目神王組若頭補佐の要職にある最高幹部の一人、三代目神栄会会長の寺島龍司(てらしまりゅうじ)である。

 寺島は、森岡の正面に腰を下ろし、貫禄のある声で神村との接点を話し始めた。

「たしかにお宅さんの話は神栄会の先代から聞いとりますし、実はわし自身も神村先生のことは存知上げております」

「へっ、親分さん、神村上人をご存知ですの」

 これには榊原が驚いた。

「まあ、知ってるいうても、直接口を利いたことはありまへんどな」

「……」 

 訳のわからない顔つきの榊原と森岡に向かって、寺島が話を続けた。

「いやね、二十五年前といえば、わしが本家で修行をしている頃でしてな、三代目が外出されるときは護衛をしていましたんや。せやから、神村先生と三代目が一緒に酒を飲んでおられるところに居たことがあるんですわ」

「そういうことでっか」

 榊原は得心顔で肯いた。

「そういうわけで、金刃はんが世話になったことも、三代目が神村先生に惚れ込んでしまい、自分の葬儀も出して貰うと言い出されて、菩提寺との付き合いもあるんやから、と姐さんが説得されたことも知っとります。此度のことは、神村先生が絡んでいることを知らんかったもんで、ほんま失礼しました。お宅さんが言わはったように、わしらは仁義を守ってなんぼの稼業だす。後は峰松にあんじょうさせますんで、宜しく頼んます」

 言い終えると、寺島は両手をそれぞれの膝において頭を下げた。

 思い掛けない寺島の態度に、横に座っていた峰松や、後ろに立っていた三人の若衆は唖然となった。彼らは、親分の寺島が堅気の人間に頭を下げるところを見たことが無かったのである。

「いや。そういうことでしたら、こちらこそお頼みします」

 恐縮した榊原と森岡も慌てて頭を下げた。

 すると、寺島の表情が緩んだ。

「話の片が付いたところで、一つ訊いてもええでっか」

「何でしょうか」

 榊原が身構える。

「お宅さんらは、神村先生とはどういう関わりで」

「わしは、神村上人のお寺に仏具などを納めているただの業者ですねんけど、この森岡君は弟子なんですわ」

「弟子? とてもお坊さんには見えまへんけどな」

 いやいや、と榊原が手を顔の前で振った。

「弟子というてもお坊さんやおまへんのです。何て言うたらええのか……」

 首を傾けて思案した榊原が、しばらくしてパチンと両手を打った。

「そうや、志ですわ、志」

「志……なるほど、それで何となくわかったような気がしましたわ」

 寺島は胸の痞えが取れたかのように言った。

「何がでっか」

「いえね。昨日からの峰松とのやり取りを、ときどきモニターで見ていて、いったい何者やろう思ってましたんや。堅気にしては、えろう肝が据わっとるし、そうかと言ってわしらの世界の者やない。ただの無神経な男ではないことは一目瞭然やし、とにかくいっこうに正体が掴めんもんで、わしらも扱いに難儀しとったんですわ」

 そう言った寺島が森岡に視線を向けた。

「しかしあんた、わしらの世界に来てもええ極道者になるやろな」

 寺島は腕組みをしながらそう言うと、感心するように一、二度首を縦に振った。

 寺島龍司は仁義に厚い男だった。商談は坪当たり二万円で即決した。それでも、計算外の出費を被る事に変わりはなかったが、これで買収は滞りなく進む目途が付いた。

 商談が纏まり、寺島も退室したところで、今度は森岡が峰松に訊ねた。

「ところで、峰松さん。今回の買収話をどこから聞き付けられたのですか」

「いや、それはちょっとな」

 勘弁して欲しい、という仕草をした。

「いえ、見当は付いています。我が社の筧が情報を漏らしたことも、東京の吉永という女性経営者が高値で買い取る約束をしていたことも掴んではいるのです」

「何や、ばれてたんか。そんであないに強気だったんやな」

 と言ったところで、峰松はなるほどという顔つきをした。

「ということは、そもそも坪五万円で買うという情報は、あんたが流したガセでんな」

「すみません。そのとおりです」

「適わんな」

 と、峰松は首を振った。

「せやけど、今回はええとしても、今後こないなことして、堅気が極道者を誑かすのは止めた方がええで。命取りになるとも限らんでの」

 峰松は柔和な表情をしながらも、目は笑っていなかった。

「以後は気を付けます」

「あんたの言うとおりな、筧ちゅうのが、神栄会のフロント企業である消費者金融の光陽ファイナンスに、コンピューターを売り込みに来たときからの付き合いでな。その流れで、今回の情報を持って来たというわけや」

「やはりそうでしたか」

 森岡は納得顔で言った。

「ところで、もう一つお訊きしたいことがあるのですが」

「なんや」

「これは、この事務所に入って、峰松さんが応対に出てこられたときから疑問に思っていたことなのですが」

 そう前置きした森岡は、

「神栄会と言えば、神王組の中でも一、二を争う大看板の組じゃないですか」  

 と少し大仰に言った。

「せやな」

 峰松は満足そうな顔をした。

「そんな組の若頭が出張るには、どう考えても今回の霊園地買収のヤマは小さ過ぎます。一桁いや二桁は違います。どうして、峰松さんが直々に出てこられたのですか?」

「あんた、それも気ついとったんか。ほんま凄い奴やのう。なるほど、さっき親父が森岡はんは、わしらの世界に来てもええ極道になると言わはった意味がようわかった気がするわ。こんだけ頭が切れたらなあ」

 峰松は感心しきりだったが、森岡は、

「いや、それは違うと思いますよ。私には腕力(ちから)がありません。峰松さん、極道の世界は、最後の最後は腕力でしょう?」

 と峰松の心を擽った。

「まあ、そういうことだわな」

 案の定、峰松は得意満面になった。神栄会は神王組きっての武闘派組織であり、峰松自身もまたそうであった。その辺りの気配りに、森岡の手抜かりはないのである。

「せやなあ、もうええやろうから話たろか」

「お願いします」

 森岡が軽く頭を下げる。

「関東の稲田連合の傘下に石黒組いうのがあるんやが、そこの組長から、霊園の件はあんたと丸く話を付けて欲しいと親父に電話があったんや。石黒の組長と親父は、五分の兄弟分の盃を交わしとんねん」

「どうして石黒組の組長さんがそんなことを?」

 森岡にすれば当然の疑問だった。

「なんでも、久田とかいう偉い坊さんの力になりたい、とかいうことやったで」

――えっ、御前様?

 森岡は、思わず口を滑らしそうになったのを懸命に堪えた。

「それは何時の話ですか」

「そりゃあ、あんたをさらう前やがな。その電話があったさかい、あんたと直接話を付ける気になったんや」

「それやったら、端から話をまとめる気があったのですね」

「そうや」

「でしたら、このようなやり方はないんじゃないですか」

「森岡はん、それは駆け引きでんがな。ちょっとでも高く売った方がええやろ」

「結局、踊らしていたつもりが、踊らされていたのですね」

「お互い様いうことやろな」

 森岡にはそう言い繕ったが、このとき峰松は切羽詰った事情を抱えていた。

 日本最大の暴力組織・神戸神王組は、五代目が一年後の勇退を決意し、代替わりの準備に入っていたのである。六代目はほぼ内定していたが、その若頭の座は流動的で、神栄会会長の寺島龍司もその有力候補の一人であった。しかし、極道の世界も宗教界のそれと同様で、猟官運動ではないが、若頭の座を手中にするためには大金が必要だった。

 武闘派集団として抗争には滅法強い神栄会だが、こと銭儲け、いわゆる『しのぎ』に関しては全くの不得手で、資金難は恒常的であった。

 そういう次第で、神栄会は組を挙げての金策に奔走している最中であり、たとえヤマは小さくても、峰松本人が出馬せざるを得ない状況にあったのである。彼が交渉過程において、執拗に坪単価に拘ったのもそのためであった。

「それにしても、石黒組はどこから霊園事業の話を掴んだのでしょうか」

「へっ、へっ、へっ」

 峰松は不敵な笑を浮かべた。

「森岡はん、わしらの世界を甘もう見たらあきまへんで。稲田連合は神王組に次ぐ大組織や、当然関西にも枝は仰山ある。石黒組とその久田いうお坊さんの関わりがどの程度か知らんけど、その気になれば、ケツの毛の数でさえ、簡単に調べることができるんやで」

 自慢げに言った峰松を見るにつけ、森岡は『石黒組と久田の関わり』という言葉が、鉛を飲み込んだかのように、腹の底に重く沈んで行った。それは、得体の知れない黒い影がひたひたと忍び寄っている不気味さであった。

 尚、枝だとは下部団体組織のことである。

「最後に、これはお願いなのですが」

 森岡は神妙な顔つきで言った。

「あらたまってなんや」

「先程話の出た、光陽ファイナンスに塩見という社員がいると思うのですが」

「塩見? フロント企業の者まではわからんが、その塩見がどうかしたんか」

「手切れ金を渡しますので、北新地の檸檬の真弓というホステスと手を切ってもらいたいのです」

「手を切る?」

「昔ヒモをしていたようで、復縁を迫っているようです」

「二度と近づかんようにしたらええんやな」

「面倒をお掛けします」

 森岡は頭を下げた。

「その檸檬の真弓っていう女にあんたが惚れたんか」

「私ではありませんが、部下と関係ができてしまったものですから」

 ふうん、と何やら思案気な視線を送った峰松は、

「よっしゃ、これも何かの縁や。あんじょう話を付けたろ」

 と力強く請け負った。


 翌日、森岡は大阪・梅田のパリストンホテル一階の喫茶店に、営業部長の筧克至を呼び出していた。何も知らずにやって来た筧が、椅子に座った途端、森岡が低い声で言った。

「筧、近くに神栄会が待機しとる」

 そうして筧を睨み付ける。

「はあ?」

 筧には言葉の意味がわからなかった。

「ここで大声を上げて逃げてもええんやで。そうすりゃ、この場は逃れられるやろ。せやけど、後のことは知らんで」

 森岡はわざと遠回しな言い方をした。恫喝というのは、相手に想像させて気付かせるのが効果的なのだ。

「……」

 筧の背に悪寒が走った。額には脂汗が滲み出てきた。彼は、まだ事態が良く飲み込めていなかったが、それも無理のないことだった。精神的な虚を突く、それこそが森岡の狙いであり、彼の恐ろしいところなのである。

 筧は何が起こっているのか必死に頭を働かせたが、理性とは全く別次元で迫り来る恐怖に慄き、身体全体が小刻みに震え出し、止まらなくなった。

 これは森岡のはったりであった。だが、このときの森岡には、筧をして偽りを信じ込ませるだけの殺気を纏っていた。

「おい、震えとんのか。お前、そないな根性無しで、よう裏の世界と関わりを持とうとしたの。あほちゃうか」

 森岡はあまりに情けない筧の姿に、怒りよりも哀れみさえ感じていた。

「お前。宇川と吉永、柿沢のことをここで何もかも洗いざらい話せ」

「えっ!」

 筧の息が止まった。

「お前が裏切っとるのはバレとるんや。正直に吐いたら、今回に限り勘弁せんでもないで」

 森岡はドスを利かせた。それに呼応して、坂根や南目も身を乗り出して、睨みを利かせた。特に南目は、元暴走族の頭だっただけのことはあって眼光は鋭い。

 筧がしどろもどろになりながらも、全貌を話したのは言うまでもない。


 筋書きはこうである。

 筧は端から、いつかは独立するつもりでウイニットにやって来たという。独立後も、元の会社とは良好な関係を保ちたい彼は、菱芝産業から社員を引き抜くことができなかった。そのため、仲間に引き入れるための社員を物色する目的でウイニットに転職してきたというのである。

 そして、寺院ネットワークの事業話を知ったとき、これを我が物にすれば、独立しても収益が安定すると思い、乗っ取ることにした。そこで、まずスポンサーに名乗りを挙げていたギャルソンの会長柿沢康弘に近づいた。

 筧は、前の会社でギャルソンのコンピューターシステム開発担当だった宇川義実を先んじて退職させ、柿沢の許に送ったうえで、自らはウイニットに残り、森岡や社内の動きを見張った。筧は法国寺の件で藤井清堂、清慶兄弟の名を耳にしていたので、彼らと接触する方法を思案していたところ、柿沢を通じて吉永の方から接触してきたというものだった。

 後は、森岡の推察どおり、ウイニットの会議の情報を吉永幹子に漏らし、霊園の買収を妨害していたというあらましだった。


「お前、明日から会社に顔を出すな。退職願は郵送でええわ。それと、会社にあるお前の荷物は家に送ったる」

「はい」

 筧は観念したように頷く。

「それからな、お前には一つやってもらわにゃならんことがある」

「はあ?」

「はあって。お前、まさかこれでけじめが付いたと思っとるんか!」

 森岡は筧を睨みつけながら一喝した。森岡にこのような一面があるとは思いも寄らない筧は、すっかり肝を潰されていた。

 筧だけではない。日頃、行動を共にしている坂根も、大学生時代の森岡を知っている南目も目を丸くして見ていた。

「な、何をしたら、よ、良いのでしょうか」

 筧は声が震えてまともに口を動かせない。

「向こうの情報を探って俺に知らせろ」

「……?」

 筧は恐怖のあまり、頭も回らないのか、森岡の意図が理解できない。

「わからんか、二重スパイやがな。お前が裏切り者だとバレたことは、ここに居てる者しか知らんやろ。当然、柿沢や吉永も知らんわな。せやから、まだ気づかれていない振りをして、向こうの内情を探り、俺に報告せい」

「そ、それで、いったい何を調べれば良いんでしょうか」

 相変わらずのしどろもどろの筧に、森岡は間を与えるように話題を変えた。

「その前に二、三確認したいことがある。正直に言いや」

「は、はい」

「まず、ウイニットの社員でお前の口車に乗った奴は誰や」

「それは……」

「それは、やないやろ。いずれわかることや。今この場でお前が名前を言ったら、そいつ等の今後のことは考えてやってもええが、後で俺が調べを付けたときは容赦せんで。そうなりゃあ、お前も寝覚めが悪いんと違うか」

「わ、わかりました。インターネットソフトウェア開発部の棚橋、萩原、宇都宮の三人です」

「た、棚橋だと」

 森岡は思わず驚愕の声を上げた。

 棚橋というのは、技術スキルにおいては森岡や野島をも凌ぐウイニット随一のエンジニアだった。

「加えて萩原、宇都宮やと……三人とも優秀なエンジニアとの報告が上がっている奴等やないか」

 萩原、宇都宮も将来が嘱望されている若い社員だった。

「お前も罪作りなことしてくれたなあ」

「す、すみません」

 筧は力なくうな垂れた。

「しゃあない、それはもうええわ。それより、そもそも買収地の件はどないして知った」

 筧は少し考える素振りを見せ、

「檸檬の真弓というホステスから聞き出しました」

 と答えた。

「ホステス? どういうことや」

「真弓を野島専務に近づけて情報を取りました」

 その瞬間、森岡の両眼が鈍く光った。

「筧、海と山、お前はどっちがええ」

「はい?」

 思いも寄らぬ問いに、筧は暫し呆然としていた。

「この期に及んで嘘はいかんな、嘘は。身の破滅になるで」

 森岡は、再び筧を睨んだ。

 このとき森岡は、すでに全容を把握していた。真弓こと町村里奈は野島に対し、ルーベンス時代に筧と交際していたこと、筧との失恋の痛手から塩見という極道者に引っ掛かってしまったこと、半年前、筧と塩見が偶然客として檸檬を訪れ、一旦は手が切れた塩見には復縁を迫られ、筧には野島への接触を持ち掛けられたことなど、洗いざらい告白していた。

 野島が気晴らしのため江坂の欧留笛に顔を出すのを知っていた筧が、里奈を通わせて網を張らせていたことも、誠実な野島を愛し始めた里奈が、良心の呵責から野島の口が堅く情報は取れていない、と誤魔化していたことも白状していた。もちろん、野島が肩代わりした口座の焦げ付きも、狂言だったとして全額を返済していた。

――海と山……海中と山中? うっ。

 ようやく言葉の意図に気づいた筧はあわてて、

「ロ、ロンド、ロンドです」

 と吐き出すように言った。

「ロンド?」

 森岡には、俄かには信じることができなかった。ロンドのような高級店では、ママはもちろんのこと、ホステスであっても客から聞いた話を、他の客に漏らすようなことはない。たとえ、口座客であっても、緊急のノルマの同伴に応じてくれたりする、余程の上客でなければ考えられないのである。ましてや、筧がロンドのホステスとそのような濃密な関係を築いているはずがなかった。そうであれば、筧を嫌うママの茜から報告があるはずだ。

「ホステスからか」

「いいえ。もし、ホステスから探るなどしたら、たちまち社長の知るところになるでしょう」

 もっともな言い分だった。

「なら、どういうことや」

「須之内という人から聞きました」

「なに! 誰やて?」

 森岡は悲鳴のような声を上げた。

「須之内高邦という人です」

「なんで、お前が須之内さんを知っているんや」

「社長はお忘れのようですが、社長にロンドへ連れて行って頂いたとき、須之内さんと一緒になったことがあり、紹介はされなかったのですが、軽く会釈をしたことがあるのです」

「そう言やあ、そんなことがあったな」

「後日、ロンドでお会いしたとき、須之内さんが覚えていて下さり、声を掛けてこられたのです」

「ということは、向こうから話し掛けてきたんやな」

「はい。須之内さんから山科の買収地のことを伺いました」

――なぜ、須之内が霊園の事を知っているのだ?

 森岡はわだかまりを覚えたが、筧よりはまだ須之内高邦の方がホステスと懇ろになる可能性は高い。

「ようわかった。ほなら、本題に入るで」

「……」

 筧の身体が再び硬直した。

「お前には藤井兄弟の許で動いている坊主は誰か、ということ聞き出してもらうで。これは吉永に訊けばわかるやろ。それと、それ以外にこっちの内情を探っている奴がおらんかどうかやな。お前が知らんでも、誰かおるかもしれんし、プロを使ってるかもしれんやろ」

「プロ、ですか?」

「探偵とかや」

 森岡はそう言うと、スーツの内ポケットから現金の入った封筒を差し出した。

「この中に五十万入っとる。これを旅費に使え。まあ、退職金代わりや思うたらええ」

 そう言って椅子の背にもたれると、遠目から冷たい鉄の棒のような視線を浴びせた。

「期限は一週間や。一週間後、俺に連絡を入れろ。それからな筧、よう聞けよ。俺に報告し終えたら、それから先二度と俺の周りをうろちょろするな。今回は目を瞑ったるけど、次は容赦せんで。お前にも、可愛い奥さんと子供がおるやろ、大事にせにゃあかんで」

 その冷徹な眼に、筧はまるで狼を前にした兎のように震え上がっていた。

「い、言われたとおりにします」

 筧は、森岡の言葉の意味を良く承知していた。

 筧にとっては相手が悪かったと言えよう。森岡は善悪、白黒、敵味方をはっきり区別する性格だった。一旦味方と思せば、ふんだんの情けを掛けるが、敵対すれば相手が降伏するまで徹底的に交戦した。

 まして裏切り行為などは、愛情を注いだ裏返しの分だけその報復は熾烈を極め、息の根を止めるまで容赦しなかった。そういう意味では、寺島龍司の『ええ極道者になる』との言は、言い得て妙ではあった。

 さて森岡にとっては、筧がどのような行動を取っても問題がなかった。すでに藤井清慶のために動いている僧侶が景山律堂であることを突き止めており、筧への命令は彼を試したに過ぎなかったからである。

 すなわち、筧が言うとおりに情報を取ってくれば、彼は吉永や柿沢らとは、二度と一緒に仕事はできなくなることを意味し、森岡に裏切っていたことが発覚した、と仲間に告白すれば、もっと辛い人生を送ることになる。なにせ、何時そのことが森岡に知れ、どのような目に遭わされるか、怯えながら生きて行くことになるからだ。

 また、裏切りがバレたと仲間に告白した場合は、一種の保険が掛かることにもなる。森岡と神栄会の関係を誤解したであろう筧は、必ずやそのことを深刻に話すと思われた。さすれば、相手が追い詰められても、無茶な行動には出られなくなる。わざわざ天下の神栄会と事を構える組などあるはずもないからである。

 一週間後、筧は藤井清慶の許で動いているのが、景山律堂であると知らせてきた。彼が、正直に連絡をしてきたということは、それを最後に、消息を断つものと見られた。


 翌日の午後、森岡は帝都ホテル大阪のロビー喫茶で岩清水哲玄と会っていた。同行した坂根は、懐に百万円の札束の入った封筒を忍ばせている。

 榊原壮太郎から紹介されて以来、森岡は岩清水の呼び出しを受け、数回会っていたが、その度に金の無心をされていた。

 岩清水は、普段は名古屋に住まいしていたので、法国寺の用件で京都入りした際は、市内のホテルに宿泊していたのだが、堀川の一件が抜き差しならない状態になったため、手元不如意だというのである。

 堀川の一件というのは、二千基にも及ぶ無縁仏の移設に伴う大規模霊園事業のことである。

 石清水は、法国寺貫主を勇退した黒岩上人と同郷という誼で護山会の会長に就任したということだった。ともあれ、別格大本山という名刹の護山会会長ともあろう者が、高々数十万単位の金に窮するというのは訝しいことだった。

 だが森岡は、彼の無心に快く応えていた。これまでに融通した金は五百万円を上回っていたが、一応の用心はしても決定的な不審を抱くことはなかった。

 森岡にとっては少額ということもあるが、岩清水の人柄、といっても善人だからというのではなく、むしろ脛に傷の有りそうな過去に興味を持ったのである。

 有体に言えば、自分の知らない世界で生きてきたと思われる岩清水は、この先何かのときに役立ちそうな勘が働いたためである。このあたりの嗅覚の鋭さは、彼の天性といえた。

 この日の岩清水には連れがあった。

 恰幅の良い、五十代後半の男である。身形や時計、指輪といった装飾品から、いかにも金持ち風に見えたが、森岡はその目の奥の澱んだ光と、全身から醸し出される気から、真っ当な世界に生きている人間ではないと直感した。

 極道世界とは少し様子が違っているが、堅気でないことは明白であった。

 男の名は『松平定幸(まつだいらさだゆき)』と名乗った。いかにも胡散臭く、本名でないことは子供でもわかる。職業も宝石商だと言ったが、これもまた表看板であり、裏家業があると森岡は疑った。

 森岡の目に、不審の色を嗅ぎ取った岩清水は、床に置いた鞄から風呂敷包みを取り出すと、テーブルの上で紐解いた。百万円の札束が六つあった。

「森岡君。これは今まで用立ててもらった金だ。利息を付けてお返しする」

「いえ。金はお貸ししたものではなく、差し上げたものですから、返済には及びません」

 森岡は毅然として断った。

 岩清水は、松平の方を向いて、

「見たかい、松ちゃん。森岡君とはこういう男だ」

 と微笑んだ。

 松平も口元に笑みを浮かべると、

「岩さんが惚れ込むわけだ」

 と返した。

 訝る森岡に、

「実はな森岡君。わしは、金には困っていなかったのだよ。君を疑ったわけではないのだが、いかに旧知の榊原さんの紹介といっても、君の人柄を知らずに、一緒に仕事はできないと思い、芝居を打たせてもらった。許してくれ」

 と、岩清水は頭を下げた。

「どうぞ、頭をお上げ下さい。岩清水さんが金に困っていらっしゃらないのであれば、それに越したことはありません」

 森岡は笑みを浮かべて言った。

「君の人となりを観察させてもらったが、私もあの榊原さんが自分の後継者にと、惚れ込むだけの男だと良くわかった。そこでだ、私の人脈を君に紹介したくなった」

 岩清水は周囲を見回すと、前屈みになり声を低めた。

「この男は詐欺師なのだ」

 森岡は、はっとして松平を見遣った。当人はいたって涼しい顔をしている。

「ただの詐欺師ではないぞ。超一流の腕だし、部下も数人抱えている」

 何ということはない。詐欺師集団の親玉だというのである。

「君は財界人から極道者まで幅広い人脈を持っているようだが、この詐欺師というのも、使いようによっては、なかなかに役に立つものだよ」

 開いた口が塞がらない森岡の目に、岩清水の老醜の面が、いっそう不気味さを増して映っていた。

 岩清水が松平と知り合ったのは、三十年も前のことだという。その頃の岩清水は、真っ当な繊維問屋を営んでいた。ところが、商品詐欺に遭い店を潰してしまった。

 商品詐欺とは、少額の現金取引を繰り返し、信用を得たところで大口の商談を持ち掛け、商品を持ち逃げすることである。詐欺の手口としては初歩的であるが、売り手の心理を巧みに突くため、現在でも被害が絶えない。

 むろん、持ち逃げされた商品を売買する裏ルートが存在し、それらの商品は量販店などで一般客向けに販売されている。

 さて、一文無しで路頭に迷っていた岩清水を救ったのが松平だった。詐欺師仲間からの情報で、岩清水が詐欺に遭ったことを知った松平は、すぐさま彼の許に駆け付けた。その昔、松平の父が岩清水に世話になったことがあったので、その恩義に報いたいと思ったのだという。

 その後、岩清水は成り行き上、数件の詐欺に加担したが、十五年前に足を洗い、現在の寺院経営を助ける仕事に就いていた。 

「堀川の無縁仏移設の件で世話になっている礼じゃ。何かのときに連絡すると良い」

 岩清水は上の前歯が抜けた口を大きく開けて、ふひゃあ、ふひゃあ、ふひゃあ、と笑った。








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