第11話  第二巻 黒幕の影 裏切 

 敵対する藤井清慶の外堀を徐々に埋めつつあった森岡ではあったが、実はこのとき、彼自身もある難題に直面していた。手掛けている京都堀川の無縁仏の移設作業が思わぬ障害に突き当ってしまい、暗礁に乗り上げていたのである。

 霊園予定地の地権者が二十八人にも及んでいたため、その買収作業に手間どっていたのだが、中でも中心部分の約五千坪を所有する地権者が頑なに買収交渉に応じなかったのである。

 理由は不明だった。

 買収金額は相場より二十パーセントの上積みして交渉していたので、少なくとも地権者の金額的な不満ではないと思われた。

 また此度の霊園地買収は、藤井清慶側の妨害を避けるために極秘裏に進めていた。したがって横やりが入る可能性は低いはずだった。

 成す術もなく虚しく日々が行き過ぎていったある日の夕方のことである。

 何の前触れもなく一人の老人がウイニットに森岡を訪ねてきた。

「これはこれは会長、どうかされましたか」

 森岡はいきなりの来社を訝った。

「久しぶりに君と話がしたくなったまでだ」

「でしたら、連絡を下されば私の方から出向きましたのに」

 森岡は恐縮の顔で言った。

「いや、世間話だからの、それでは君に悪い。年寄りは暇を持て余しているし、それに近所だから散歩がてらやって来た」

 そう言った老人が微笑を浮かべた。

「この後、予定があるかな」

「取り立ててどうしても、という用事はございません」

「では、今晩一杯付き合ってくれんか」

「会長のお誘いであれば、是非にも」

 森岡は一も二もなく承諾した。

 この老人は、新大阪駅前から西中島南方一帯に多数のビル群を所有する奥埜不動産会長の奥埜徳太郎である。

 元々、新大阪界隈の大地主だった奥埜家は、一九六四年の東京オリンピック開催に合わせた、東海道新幹線の開業を機に一躍金融資産家となった。新大阪駅建設に伴う周辺整備の土地の一部が奥埜家所有だったのである。一部と言ってもそこは新駅建設である。相当に広大なものになった。

 奥埜家は土地の売却で得た資金でオフィスビルディングだけでなく、西中島南方に十数棟の飲食ビルと、梅田や難波にオフィスビル、他に京都や東京にも数棟のオフィスビルを所有する大資産家である。

 何を隠そう、以前梅田の高級料亭・幸苑へ出向く際、チンピラに絡まれていた老人こそがこの奥埜徳太郎だったのである。

 二人は、ほどなくロンドで顔を合わせることになったのだが、名刺交換したとき、暫しお互いの顔を見つめるほど驚いた。

 ウイニットが入っているインテリジェントビルのオーナーも奥埜不動産だったのである。つまり、大家と店子の関係なのだが、これまで二人が顔を合わせることがなかったのは、奥埜不動産は物件仲介を他の不動産業者に委託するだけで、直接借主と契約しないからであった。

 徳太郎は差し出されたコーヒーを一口飲むと、

「君は、京都山科の山林を買収しているそうだな」

 と、いきなり切り出した。

 その瞬間、森岡の表情が凍り付いた。

「なぜ? という顔をしているな」

「正直に言えば、驚いています」

 やはり隠密裏に行われていたはずの霊園地買収が外に漏れている。森岡は唇を噛んだ。

「中心部の約五千坪の所有者が買収交渉に応じないのだな」

「そこまで御存知とは、いやはや会長は相当な情報通でいらっしゃる」

 森岡は苦笑いをした。そこに皮肉は一切ない。

「いや、なんてことはない。元の所有者の本間家とは先祖代々からの付き合いがあるのだ」

「えっ、それは本当ですか」

 うむ、と奥埜徳太郎は厳めしく肯いた。

「本間家もまた代々京都の大地主での、同じ豪農家として江戸時代から付き合いがある」

「親戚筋ですか」

 お互いが地主といっても大阪と京都である。近いと言えば近いが、江戸時代から付き合いがあるとすれば、縁戚関係を結んでいたとしか森岡には思い浮かばなかった。

 いいや、と奥埜は首を横に振った。

「交誼の始まりは米相場だよ」

「米、相場ですか」

 森岡は首を傾げた。

 米相場は大阪が発祥の地である。

 大阪の堂島では、宝永・正徳期から米相場が始まり、紆余曲折の末に享保十五年になって江戸幕府の公認を受け、堂島米会所を開いた。これが先渡し契約の無い公認の近代的な商品先物取引の始まりでもある。

 また当時の日本は金本位制と銀本位制が混在していたことから、米は貨幣的な役割を果たしていた。

 いずれにしても、米相場の動向は大阪のみならず全国の大地主の関心の的であった。当り前のことだが、一銭でも高く米を売りたいからだ。先物が上がれば、つれて現物の値も上がるのが道理だからである。

 京都の地主であれば、当然大阪堂島の動向が気になるのは当然で、これが札差や掛屋などの商人であれば、奉公人を常駐させるのだが、地主といえども門外漢の百姓が人を出しても意味はない。そこで本間家は、地元大阪の地主から情報を得ようと、奥埜家を頼ったというのがきっかけなのだと徳太郎は言った。

「その後、君が言ったように婚姻も交わされている」

「そう言われれば、私の生家でも似たようなことがありました」

 森岡は得心したように言った。

 彼の生家灘屋もまた、米相場ほど逼迫性はないものの、近隣の網元とは漁に関しての情報交換を交わしていたことを思い出していた。

「元々あの山林は、後継者に恵まれなかった所有者が売りに出したものなのだが、高度経済成長期に新たに林業など営もうという者がいるはずもなく、そこで旧知の本間家に頼ったというわけだ。ただ本間家としても十万坪は手に余ったため、知人の農家に話を持ち込んだのだ。まあ、元は皆本間家の小作人だったわけだからの。代が変わっても旧主筋からの話であるし、農地解放で本間家の土地を与えられたという負い目も少なからずあったのだろう、皆が細かく分割して買い取ることになったのだ」

「なるほど、それで地権者が二十八人もいるのですね」

 十万坪程度の山林であれば、通常は多くても三、四人が常識的であった。

「ところがじゃ、何処から嗅ぎ付けたのかわからないが、光陽実業といういかがわしい不動産屋が現れ、半ば恫喝されて売却してしまったというのだ」

「何者ですか」

「おそらく暴力団の息が掛かっていような」

「それは困りましたね」

 森岡は眉を顰めた。

「本間家はな、君の買収の趣旨が、無縁仏の供養と霊園事業だと知って大いに賛同していたのだが、それを裏切るようなことになったと、私に漏らしたのだよ。その話の中でウイニットという名が出たので、君のことだろうとこうしてやって来たというわけだ」

「気に掛けて頂き恐縮です。お礼に今夜は私のおごりにさせて下さい」

「端からそのつもりだ。ただし、飯だけというわけにはいかんぞ。ロンドの払いも君が持て」

 奥埜徳太郎は口元を綻ばせながら言った。

 森岡は、買収主をウイニットとしていた。理由は財団法人の設立を待たずに買収作業に入ったからなのだが、たとえ設立が間に合っていてもその腹積もりだった。

 というのも、未だ石清水哲弦に全幅の信用が置けなかったからである。

 石清水は榊原壮太郎の紹介だが、その後、度々彼から金の無心に遭っていた。森岡は、彼が本当に金に困っているのかどうかがわからなかった。もし、金に困っているのが事実であれば、格式高い法国寺の護山会会長としてはあまりにお粗末である。また、財団法人に振り込んだ金を着服しかねないという用心もあった。

 ウイニットの名を出すことに懸念が無かったわけではないが、相手が買収地を突き止めれば、ウイニットであろうと財団法人だろうと森岡の名は浮かび上がる。そこでウイニットを買収主にしたのだが、幸いにもそれが功を奏した結果となった。


 だが森岡の行く手に裏社会という、全く勝手の違う厄介な相手が立ち塞がったののも事実だった。奥埜徳太郎の推察どおり、光陽実業は指定暴力団、神戸・神王組の直系である神栄会の息の掛かった不動産会社だと判明したのである。

 森岡は、さっそく買収作業を委託していた業者に光陽実業との交渉を指示したが、再三の申し入れにも、その度門前払いを食うばかりだった。

 森岡の頭を悩ませたのは、暴力団と関わりを持ったこと以外にもう一つあった。彼は業者から連絡を受けた当初より、内部からの情報漏れを疑わずにはいられなかったのである。

 此度の買収は、藤井清慶側の妨害を避けるために極秘裏に進めていた。したがって、この一件を知る者は榊原と岩清水、ウイニットの幹部社員、そして地権者と買収を依頼している業者に限られていた。神村と谷川兄弟の三人には霊園事業の概要だけで、具体的な買収地までは知らせていない。

 仮に、暴力団特有の旨い話に鼻が利いたということであれば、一切交渉に応じないというのは解せなかった。ただ単に利鞘を稼ぐためなら、法外な値段を吹っ掛けるのが彼らの常套手段だからである。

 もし森岡が買収から撤退すれば、使い道のない二束三文の土地が残ってしまい、大損することになる。暴力団が、間違ってもそのような愚かなことを犯す集団でないことぐらい森岡は知っている。

 となれば、考え得るのは彼らが此度の事情を知っていて、

『何があろうとも買収から撤退しない』

 と見定めているということである。

 森岡は予断を避け、全員を疑うことから始め、一人一人消去する作業をして行った。

 まず、榊原壮太郎は全くの論外だった。

 理由は枚挙に遑がない。仮に彼が裏切っていたとしたら、森岡の人生観を変えるほどの衝撃であり、人間不信は極点に達するだろう。

 次に、岩清水哲弦が消えた。

 知り合ったのはつい最近だが、長年に亘り、大寺法国寺の護山会会長として、私財を投じ支援している。岩清水の方から助力を求めたのであり、彼にとってはこの世での最後のご奉公と心に決めている移設作業の完遂こそが主目的である。

 仮に石清水の目的が金銭だったとしても、森岡に与していた方が実入りが大きいはずである。いずれにせよ、ここで森岡に敵対すれば失うものは大きい。彼が裏切るとすれば、大金を掴んだ後だと推量していた。

 買収を依頼している不動産業者は、榊原と古い付き合いがあり、暴力団と結託するようないかがわしい会社ではない。しかも、買収手数料は買収金額に関係なく一定の額を決めていた。ならば仕事を早く片付ける方が得策である。

 地権者は考えられなくもなかった。中には暴力団が関わって、売値が高くなる事を目論む者がいてもおかしくはないからだ。だが、そもそも地権者と不動産業者は、此度の裏事情を知る立場になく、裏切りようがなかった。

 最後にウイニットの幹部社員が残った。

 森岡は幹部会議において、霊園事業のコンピューターシステム化を示唆しており、ある程度の情報を伝えていた。具体的な買収地までは漏らしていないものの、これが裏目に出たとしても不思議ではない。

 考えれば考えるほどに、情報を漏らした内通者は、幹部社員の誰かを指し示す状況にあった。

 森岡は、身内の詮索を余儀なくされるという不本意な状況に追い込まれていた。しかも、その範囲はおのずと絞られた。まさか、一緒に会社を立ち上げた野島ら子飼いの連中が裏切るはずがない。

 疑わしいのは、システム開発部長の桑原と、インターネット技術部長の三宅、ゲーム開発部長の船越、そして総務部長の荒牧の四人であった。四人とも途中入社であり、共に大企業を退職して入社してきたことからも野心を秘めた独立志向が強いと考えられた。

 森岡は何か特別な利益さえあれば、裏切り行為も厭わないかもしれないと思ったが、システム開発絡みの宇川義美とは異なり、山林地絡みで彼らにその利益なるものがあるとも思えず、いま一つ確信を持てずにいた。

 そこで裏切り者の炙り出しを決意した森岡は、罠を仕掛ける役目を最も信頼を置き、右腕ともいうべき専務の野島真一に託すことにした。

 野島は菱芝電気で森岡の二年後輩であり、大変に優秀なエンジニアだった。年齢は森岡の一歳下であるが、大阪でも有数の進学校から京洛大学の工学部に進学し、大学院の修士課程を経て、菱芝電気に入社した。

 森岡は彼の能力を高く評価し、常に自身の担当したプロジェクトの片腕に用いて可愛がった。

 一言で言えば、苦楽を共にして来た戦友であった。森岡が独立するとき、真っ先に打ち明けたのが野島であり、榊原の事業を引き継ぐ件も、ウイニットの後継を託すことも伝えていた。

 子飼いの幹部の中でも、野島が僅か一歳年上の森岡にひときわ心服する理由は、森岡のエンジニアや経営者としての才能を認めていただけではなかった。彼はある事件を通じて、森岡の人間としての器の大きさに感銘を受けていた。

 それは野島が入社して二年目のことだった。森岡が手掛けるプロジェクトに初めて加わったのだが、彼はそこで大失態を演じてしまった。コンピューターシステムの本番稼動を前にして、重要な客先のデータを誤って削除するという初歩的なミスを犯してしまったのである。しかも、最新データをバックアップコピーしていなかったという二重のミスだった。

 幸い、一世代古いデータが残っており、データの消失は最小限に留めることができたのだが、その復旧のため本番稼動を一ヶ月延ばさざるを得なくなった。そのため、顧客は対外的な信用失墜も含めて、損害賠償として二億円を求めてきた。

 このとき野島が秘密裏に相談したこともあって、事実が他に漏れていないことを確認した森岡は、その失敗を自身が被り、事態の早期終息を図ることにした。

 会社は大きな貢献のある自分に対して、責任を追及し、重い処分を科すことはできないと見越してのことだった。森岡の目算どおり、単純なミスの連続に疑念を抱きながらも、会社は彼の強硬な主張を受け入れ、三か月間、十パーセントの減給という軽い処分を下すに留まった。

 野島はこのときの恩を忘れることなく、森岡の『借りは仕事で返せ』の言葉を胸に刻み、森岡の背中を追うように、努力を重ねて来たのである。

 

 西中島の活魚料理店の座敷に呼び出された野島の顔つきは、いつになく深刻なものだった。

 徒ならぬ気配を察した坂根は、

「私は席を外します」

 と腰を上げようとした。

「いや。お前の意見も聞きたい」

 そう言って引き留めた野島は、座布団に座るや否や大きな深呼吸をした。

「社長、情報洩れの犯人は私です」

 と悲壮な顔で深々と頭を下げた。

 思いも寄らぬ告白だった。

 だが、

「えっ」

 と驚きの声を上げた坂根に対して、

「どういうことや」

 と、森岡は腹心の告白にも意外に冷静だった。

「私が町村里奈という女性に情報を漏らしました」

「町村? 誰や」

「私が今交際している女性です」

「お前の彼女だと。詳しく言うてみい」

 森岡の催促に、野島は詳細に話した。


 借金の肩代わりをした野島は、真弓こと本名町村里奈が勤める檸檬にも顔を出していた。得意先の接待ではなく、部下を連れての慰労が主な目的だった。野島には月に百万円、年間一千二百万円の交際費が認められていたが、彼がその金を使うことはなかった。森岡が夜の飲食代を全て自費で賄っていることを知っているからである。

 それはともかく、週に一、二度の割合で檸檬に通っているうち、どちらからでもなくお互いに好意を抱き始め、理無い仲になった。

 その真弓があるとき、

「森岡さんはどうしていらっしゃるの」

 と訊ねてきた。

 ルーベンスのホステス時代、真弓こと町村里奈は、森岡とは一度も顔を合わせてはいない。だが、幾度となく当時部長だった柳下の口の端に上り、野島もまた心酔する森岡に興味を持ったのだという。

「社長は今大変な時期やねん」

 何の疑念も抱かなかった野島は、話の流れでつい神村や霊園地の件まで話したのだという。


「それで、彼女が神栄会に情報を漏らしたという確たる証拠は掴んどるのか」

「いいえ。ですが、彼女以外に考えられません」

 野島は悲壮な顔つきでそう答えると、一呼吸おいて、

「坂根、お前はどう思う」

 と、里奈と面識がある坂根に、第三者の立場での率直な意見を求めた。

「私には良くわかりませんが、ただ里奈さんの専務への想いは芝居ではないと思います」

 坂根は気遣うように言った。

「俺もそう思いたいが」

 野島が苦渋の面になったとき、森岡がにやっと笑みを零した。

「野島、よう言うてくれた」

「と、おっしゃいますと」

 野島が首を傾げる。

「お前の言うように神栄会に情報を漏らしたのは彼女やろうな」

「も、もしや社長は、何もかもご存知だったのですか」

 いつもは冷静な野島も唖然として訊いた。

「すでに伊能さんから報告が上がっとった」

 森岡は伊能に光陽実業をマークするよう依頼していた。といっても、伊能の会社ではなく、彼を通じて警察、それも暴力団担当だった刑事が多く在籍している調査会社に依頼していた。

 当然、依頼主である森岡の名は伏せ、用件のみを伝えていた。調査会社は、光陽実業だけでなく、光陽実業を訪れた神栄会の組員の行動も徹底マークした。その結果、町村里奈は神栄会系のとある組員と関係があること、さらに野島との関係も突き止めた。

 調査報告を受け野島に疑念を持った伊能は、直ちに森岡に報告していたのである。言うまでもなく、森岡は野島を微塵も疑ってはいない。伊能に対して、第三者の存在を示唆し、調査の継続を依頼していた。

 もっとも、絶対的な信頼を置いているとはいえ、野島が情報洩れに関わっている事実に心穏やかではなかった森岡は、一刻も早く野島自身が気づき、告白するのを待っていたのだった。

「私は騙されていたのですね」

 野島は呻くように言った。

「それはわからん。最初は騙すつもりで近づいても、ミイラ取りがミイラになることもある。お前ほどの男や、坂根の言うように、途中から彼女が本気になったとしてもおかしくはない」

 森岡は慰めるように言った。

「それで、お前の方はどうなんや」

「未練がましい男と思われるでしょうが、彼女を憎めません」

「愛しているんやな」

「はい」

 野島は項垂れるように顎を引いた。

「せやったら、もう少し様子を見てたらええ。彼女もお前を愛しているなら、そのうち自責の念に耐えかねて、正直に告白するやろ」

「しかし、それで良いのですか」

 ええで、と小さく肯いた森岡の目が厳しいものに変わった。

「せやけど、彼女も本気やったら、それはそれで厄介なことになるで。なんせ、極道絡みの女やからな。お前も性根を入れんとあかんぞ」

 極道者相手に話を付けなければならなくなる、と森岡は言ったのである。

「それは覚悟しています」

 と言った野島の目は、決然とした光を湛えていた。

「良し。ほなら、この話はこれで終わりとして、残る問題は、誰が彼女をお前に近づけるよう仕向けたかやな」

「神栄会ではないのですか」

 野島が訊いた。有能な彼にしては愚問であった。

「それは無理やろ。神栄会が、ルーベンス時代の里奈とお前の接点を知っているはずがないがな」

「あ、そうか」

 間の抜けた声を出した野島は、

「では、やはり社内に」 

 と苦々しく言った。

「信じたくはないがな」

「しかし、神栄会と同様、社内に私と里奈の過去の繋がりを知っている者がいるとは思えませんが」

「それはそうやが」

「社長には見当が付いていらっしゃるのですか」

「信じたくはないが、桑原、三宅、船越、荒牧の四人の内の誰かが裏切っていると睨んでいる。誰か一人かもしれんし、四人全員かもしれん」

「私が言うのもなんですが、宇川のこともありますからね。所帯がでかくなりますと、そういう輩が出てきますね」

「残念やが、そういうことやな。この四人のうちの誰かが、なぜかお前たち二人の接点を知っていたのではないかと思うのや」

「調べて行けばそれも判明するとお考えなのですね」

「そういうことや。そこでだ、前と同じようにもう一度、お前に一芝居打ってもらたいんや」

「承知しました。それで、何をしたら良いのでしょうか」

「それやが、適当に商談話を作ってな、打ち合わせと称してそれら四人を飲みに誘い、うまく霊園事業の話にもっていってな、これ以上買収交渉が長引けば、俺が今回の山林の買収から完全撤退するつもりである旨をさりげなく伝えるんや。ただ、荒牧は総務やから、三人とは別に機会を作って住倉を同席させたらええ」

 一旦言い終えた森岡が、ああそれとな、と再び口を開いた。

「ただしや、住倉には本当のことを話すなよ。あいつは芝居などできる性質やないからな」

 聞いた野島が微笑む。

「わかっています。それで、確認ですが、吹き込むのはそれだけですか」

「そうや、それだけでええ。もし、四人の中に裏切り者がいれば、そいつは慌ててこの情報を光陽実業に伝えるやろ。なんというても、高値で売って利鞘を稼ごうとしていたのが、一転して二束三文の土地になってしまうんやからな。それはな、この情報を漏らした本人にとっても恐怖のはずやで。何しろ、悪意はないとはいえ、自分の齎した情報で、暴力団が損をするかもしれんのやからな。如何なる災難が、我が身に降り掛かるかもわからんというのは恐怖やで」

「そうすれば、必ず向こうから何か言ってくると読んでいらっしゃるのですね」

「せや。そやから、絶対に四人に気取られたらあかんで。自然にやで、あくまでも自然に……」

「はい」

 野島は、森岡の意図を十分に飲み込んだ。

 話が一段落すると、同席していた坂根が待ち構えていたかのように森岡の言葉を検めた。

「社長、先ほど『前と同じようにもう一度と芝居を……』とおっしゃいましたね」

「ああ、言った」

「ということは、もしかして今回の一件が始まって最初の幹部会議のとき、野島専務が反対されたのは芝居だったのではないですか」

 ふふふ、と森岡が含み笑いをした。

「なんや坂根、今頃気い付いたんか。あのときだけやのうで、野島はあれからずっと芝居しとんのや」

 森岡は嘲るように言ったが、野島の目には、それは決して坂根を貶してのことではなく、むしろ褒めているように映っていた。

 当の坂根も、満足そうな森岡に心地よい気分が湧いていた。

「やはり、そうでしたか。私も野島専務が社長の考えに反対されたので、おかしいなとは思っていたのです」

「神戸へ行く車の中でお前が疑問を呈したときには、さすがやと思っていたんやで」

 緊急幹部会議で、森岡の子飼いともいうべき野島らが挙って反対し、中途採用者が賛成に回ったことに疑念を抱いた坂根は、森岡にその思いを漏らしていた。

「では、なぜ秘匿されたのですが」

 坂根は顔を綻ばせながらも疑問をぶつけた。

「敵を欺くにはまず味方から、と言うやないか。一番俺の身近にいるお前をどうにか騙せたんや、他の者は推して知るべしやろ」

 森岡は澄ました顔で答える。

「なるほど」

 得心顔で肯いた坂根だったが、

「何のためにそのようなことをされたのですか」

 と重ねて問うた。

「なあ、坂根。株式上場を前にして、社長が個人的なことでその職務を離れるというのは、本来ならいかなる理由があろうとも許されるべきものではない。放っておけば、社内に不満が生じるのは必定や。そういうとき、子飼いの野島や住倉が率先して賛成してみいや、社長の腰巾着やと、こいつ等まで反感を買うやろ。そうなったら、こいつ等に求心力がなくなり、社内がバラバラになる。そうなっては困るから、野島や住倉が俺に毅然と反対することによって、社内に不満が生じるのを未然に防ごうとしたんや」

「それだけやないで、坂根。社長は第二の宇川が出んようにと、俺に課長以上の動向に目を配るよう指示されておられたんや。心にやましいことを考えている奴は、ふとしたときに、どこかに襤褸が出るもんやから、お前の勘でええからそれをよう観とけ、とな」

「そういうことですか」

 坂根は、森岡の深謀遠慮に感動すら覚えていた。僅か五年で、今のウイニットを築き上げた理由の一端を垣間見た気がしたのである。


 しかし、森岡の読みは見事に外れた。

 野島は森岡の指示通り、四人に偽りの情報を流したが、光陽実業からは何の音沙汰もなかったのである。

 それではいったい裏切者は誰なのか……。

 振り出しに戻された格好の森岡は、もう一度野島を呼び出した。

「社長。光陽実業には相変わらず動きがないようですね」

「そうなんや。これで、また訳がわからんようになったな」

 森岡の顔には複雑な心の内が滲み出ていた。読みが外れたことは残念だが、その反面、裏切り者は身内ではないのかもしれない、という救われた思いが入り混じっていたのである。

 野島は、森岡の心中を十分に看取ってはいたが、それでも彼の心に土足で入り込んだ。

「社長、私に心当たりがあるのですが」

「なんやて? 誰や」

 森岡は意気込んで訊いた。

「大変申し上げ難いのですが、筧が怪しいのではないかと思います」

「筧が? まさか……」

 さすがの森岡が言葉に詰まった。

「先日は、町村里奈のことで後ろめたさがあり、申し上げなかったのですが、すでに筧を疑い始めていたのです。そして、八年前のルーベンスへ通っていた頃、私と真弓の両方を知る人物がいないかと記憶を辿ると、一人思い出した男がいました」

「それが筧か」

 はい、と野島が頷く。

「当時の筧の上司だった菱芝産業の営業部長と、柳下部長が親しい関係にあったことから、ルーベンスで筧を紹介されたことを思い出しました。筧と会ったのはその一度だけでしたので、すっかり忘れていたのです」

「しかし、それだけでは線が細いやろ。他に確証はないんか」

「ありません。ですが、細い糸でも繋がったのですから、疑って掛かった方が宜しいかと」

「うーん」

 森岡は頭を抱えて考え込んでしまった。

「どうでしょう、社長。伊能さんに疑いの目のある五人を調査してもらっては……」

「伊能さんか」

 森岡は口を濁した。

 珍しくも優柔不断な返事に、野島がさらに言葉を重ねた。

「差し出がましいようですが、ここは大河内上人を味方に引き入れられるか否かの正念場でしょう。しかも、あまり時間が残っていません。何を迷っておられるのですか」

 野島しては滅多にない強い口調だった。

「お前がそこまで言うのやから、余程のことだな。伊能さんには別件で動いてもらっているが、相談してみるか」

 森岡は、気圧されたように決断した。


 総本山真興寺の護山である高尾山の、とある寺院で二人の僧侶が密談に及んでいた。

 実は、高尾山には奥の院と妙顕修行堂の他に、もう一寺院が建立されていた。世俗から隔離された高尾山で、さらに排斥されたように佇む瑞真寺(ずいしんじ)である。 

「御門主(もんす)。総務清堂が思いの外苦戦しているようですね」

 下座の僧侶が心中を憚るように言った。

「そのようだな。森岡という男、思ったよりやりおるな」

 門主と呼ばれた男が答えた。

 瑞真寺第三十八世門主・栄覚(えいかく)権大僧正である。

 仏教界でいう門主とは、多くの場合が出家した皇族や貴族のために建立された寺院の住職を指している。言わば、仏教界のVIP待遇というべきものである。

 他に、時の権力者やそれに繋がる者が入寺した場合もあるが、天真宗における瑞真寺は、宗祖栄真大聖人の血脈者をいう。正確に言えば、天真宗は妻帯を厳禁としていたので、若い頃俗世に生き、後年出家した末弟・栄相(えいそう)上人の血脈である。

 周知のことながら、仏教は紀元前五世紀頃、インドのゴータマ・シッタルダ「釈迦」が開いたものである。釈迦は王族家に生まれながら、生、病、老、死といった人間本来の根本苦悩の解決方法を探し求めるため、身分や家族を捨て修行の旅に出たのであるが、彼が長年の苦行の末に会得した真理とは、肉体の苦行だけでは真の悟りは得られないということだった。そこで、瞑想に入り、ついに悟りの境地に到達するのである。

 日本への伝来は六世紀の中頃で、伝来当初は釈迦の教えを忠実に実行しようとしたため、自らの解脱を求め、苦行や瞑想が中心だったが、鎌倉時代に入って一大事件が起きる。

 なんと浄土真宗の開祖親鸞上人が妻帯したのである。

 これはある意味、日本仏教界に対する背信行為ともいえた。仏教伝来以来、僧侶は戒律で妻帯を禁じられていた。その理由は、衆生を救うべき僧侶は特定の家族を持つべきではないとか、修行の妨げになるというものだった。

 親鸞上人はその不文律に堂々と反旗を翻したのである。

 親鸞上人の主張は極めて明確であった。

 それまでの苦行による解脱、つまり『自力本願』では、余程優れた者しか到達できない難事であり、釈迦が生きとし生けるもののすべて『一切衆生』の苦しみを救おうと願ったことと反するでないか。そうであるならば、それまでの自力本願ではなく、すでに悟りを開いた如来の慈悲に縋れば良いと考えた。

 これが『他力本願』である。

 当然、他宗派からは非難の集中砲火を浴びたが、民衆からは圧倒的な支持を得た。自らを律し、苦行を続けなくても『南無阿弥陀仏』とお題目を唱えるだけで救われるのであるから、至極当然であったろう。

 しかし、親鸞上人にとって思わぬことが起こる。

 他力本願である親鸞上人の教えは、阿弥陀如来の前では、苦行による差別は無く、全ての人が等しいというものである。これは親鸞上人本人も含めてのことであったが、皮肉にも血脈者である彼の子孫が、信者から生き仏様の如く崇め奉られることになったのである。

 天真宗は浄土真宗より数十年後発であった。そのため、実情を目にした栄相上人に遠大な野心が生まれてしまった。秘密裡に我が子孫を残し、何時の日にか浄土真宗のように血脈者による法統継承を、と思い立ったのである。

 あるとき、栄真大聖人はその栄相上人の野望に気づいた。

 そこで彼は、栄相上人をはじめ血脈者が後継となる危うさを憂い、

『後継は一等優れた者にすべし』

 との遺言を残して逝ったのである。

 事実上の血脈者排除宣言であった。

 以来、総本山は固くそれを守り、いや守り過ぎて、真に優れた血脈者をも排してきた。宗祖家は名門家系でありながら、不当に冷遇されてきた歴史があったのである。

 その反省から、室町時代中期、護山である高尾山に、本山格を与えられた八雲御所(やくもごしょ)・瑞真寺を建立し、栄相上人の子孫が門主の座を世襲するように配慮された。以降、皇位継承権のように後継順位が確立されている。

 史実で言えば、天真宗が妻帯を容認したのは明治時代になってからである。

 天真宗だけでなく、主な宗派の中で、明治以前に公然と妻帯を認めていたのは、親鸞上人が開いた浄土真宗のみである。

 それが、明治五年の太政官布告によって妻帯が自由となった。そもそも、公権力が妻帯を許可するなどという行為自体が奇妙な話なのだが、その二年前の同じく太政官布告による『廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)』と合わせて考えれば、内面的な仏教腐敗が狙いだったことが透けて見える。 

 言うまでもなく、神道祭祀の長たる天皇神格化の一環なのだが、今日の仏教界の精神的堕落をみれば、明治政府の遠謀は大成功だったと言えるだろう。

 それはともかく、そのような次第で、この事実が公にはなることはなく、血脈継続も総本山の時の上層部が密かに与し、妻帯が許された明治まで絶えることがなかったのである。

 現在、瑞真寺の宗門内における影響力は曖昧模糊としているが、宗祖栄真大聖人の血脈家として、また総本山において、唯一宗務院すなわち四十六子院の支配外にある寺院として、不可侵な聖域であることには間違いがなかった。

「村田上人を寝返らせるだけで事は済むと思っていたが、森岡という男がやりおるで、面白くなった」

「面白い?」

 下座の僧侶が訝しげな顔をした。

 そうだ、と栄覚は肯いた。

「森岡が久田を担ぎ出してくれたおかげで、あ奴に煮え湯を飲ませる絶好の機会が巡って来た」

 栄覚はいかにも憎々しげに言った。

「あ奴の、長厳寺のせいで、いかに御先祖様方が苦渋を味わわされたことか」

 長厳寺は久田帝玄個人が所有する寺院である。

「私には打ち明けられないことでしょうか」

 下座の僧侶が恐る恐る訊いた。

 栄覚は目を瞑って沈思した。

「当寺の歴代門主にしか申し送りされない負の遺産であるが、他ならぬ執事長だけには、いずれ話そうと思っている」

 栄覚の厳しい眼差しに下座の僧侶は思わず身震いした。

「それはさておき、久田の登場で私の計画が一気に前進した。もっとも、森岡が担ぎ出さねば、こちらで突いてやろうと思っていたが、向こうから言い出してくれたおかげで、極自然な形となった」

 栄覚は、ふふふ……と声もなく笑った。

「はて、総務清堂と久田帝玄が争うことが御門主の計画を前進させますか」

「共倒れにすれば漁夫の利が舞い込むだろうが」

「しかし、年齢からして両人共、そう長くはございませんが」

 栄覚は四十五歳。総務清堂や久田帝玄に比べて三十歳以上若かった。下座の僧侶には二人が栄覚の行く手を阻むとは思えなかったのだ。

「野望を完結させるためには、二人の、つまり総本山と在野の決定的な確執が不可欠なのだ」

「野望の完結とおっしゃいましたか? では、初手から敵は神村上人一人ではなかったですね」

 そうだ、と栄覚は肯いた。

「当面の最大の障壁は神村に違いないが、その先がある。いずれ君だけには悲願の全貌を話そうと思っているぞ、葛城上人」

「それは、それは」

 葛城と呼ばれた下座の僧侶が平伏した。

「何といっても、上人が味方に付いてくれたからこそ、私の計画が実行に移せるようになったのだからな。あらためて礼を言う」

 と、栄覚が頭を下げた。

 葛城は慌てた。

「どうぞ、頭をお上げ下さい。これまでが不当過ぎる処遇だったのです」

「だがな、これまでの門主は裸の王様に過ぎなかった。なにせ、執事長はじめ当寺の者皆が宗務院からの回し者だからの」

 栄覚は苦笑いをした。

 瑞真寺が建立されたとはいうものの、その一方で、宗務院が警戒の手を緩めることはなかった。門主の傍に仕える僧侶のすべてが宗務院の息の係った者で占められていた。

 つまり宗務院は、瑞真寺の宗務に直接関与できない代わりとして、日頃の行動を逐一監視していたのである。

「亡き父が、御先代様に御恩があることを知らずに私を執事長に任命するとは、宗務院もとんだ手抜かりをしたもので」

 葛城が侮るように言った。

 栄覚は笑みを浮かべて首を横に振った。

「そうではない。事情を掴んでいる者はいた」

「では、まさか宗務院にも御門主の手の者が……」

 葛城は驚愕の眼で訊いた。

「それも、いずれな」

「さすがは御門主様。貴方様の前では、神村上人はおろか、総務や久田上人すら稚児に等しいようです」

「坊主など相手にするまでもない。神村や清堂は修行一筋で世俗のことに疎いやつらだ。久田は少しましだが、それとて赤子の手を捻るようなものだ」

 そのとおりでございす、と葛城が肯いた。

「一人だけ、私の予想を上回る者が登場したがな」

「森岡ですね」

「さすがは神村だな。世事には疎いが眼力は鋭いようだ」

「御門主にそうまで言わしめますか」

 栄覚は、葛城の驚嘆したような問いには答えず、

「お蔭で面白くなった。森岡がさらに引っ掻き回してくれると、ますます私に漁夫の利が転がり込む」

 と笑いを噛み殺した。

「では、次の一手はどのように」

「そこだ。まずは華の坊を牽制したい」

 華の坊は総務藤井清堂の生家である。

「と申されますと」

「私が誼を結びたいと伝えて欲しい」

「……」

「カモフラージュだよ、執事長」

 葛城は、暫し沈思すると、

「ですが、総務が御門主の意図を探ります」

 そこから栄覚の野望に気づくかもしれない懸念を指摘した。

「もはや、ここまでくれば清堂に知られたところで大したことではない。彼に私の行く手を阻む力などありはせん。それより、今後の謀略を考えれば宗務院の内通者に気づかれることの方が余程痛い。だから、私が近付くことにより、周囲の目を華の坊に釘づけにしたいのだ」

「そういうことですか」

 葛城が大きく肯いた。

 なるほど、ベールに包まれた瑞真寺の当代門主と次期法主の接触は、世間に有らぬ憶測を呼び起こし、耳目を集めることだろう。

「もう一つ、ご苦労だが、これを『雲』に渡して貰いたい」

 そう言って栄覚は封書を差し出した。

「直筆の手紙と、ある証拠写真が入っておる。久田の息の根を止める材料だ。くれぐれも間違いのないようにな」

「承知いたしました」

 葛城は額を畳に擦り付けた。


 野島の進言に従って、森岡はいつもの帝都ホテル大阪に伊能を呼び出した。ところが、事態はそこで急転直下の解決を見ることになる。柿沢康弘と吉永幹子の継続調査をしていた伊能の部下から、動かし難い証拠がもたらされたのである。

 それは、報告書の中に混じっていた柿沢と宇川、そして筧の姿が映っている数枚の写真であった。

 森岡は、その中の一枚の写真を手に取り、ぱちんと中指で弾くと、

――やはり、野島の言う通りだったか。

 と溜息混じりに呟いた。

 森岡と筧克至が知り合ったのは四年前である。

 当時、彼は大阪梅田に本社のある『浪速通運』という中堅運送会社にコンピューターシステムの売込みをしていた。

 現在でこそ、三百名を超える社員を抱え、社長業に専念している森岡であるが、当時は独立してまだ一年、社長業の傍ら、自らコンピューターシステムを設計し、企業への売り込みに奔走していた。数多の競合会社から、最終のプレゼンテーションに残ったのが、ウイニットと大手電機メーカー『菱芝産業』であり、その営業担当が筧だった。

 菱芝産業は菱芝電機のンピューター製品を委託販売していた。

 競合の結果、森岡は敗れた。

 浪速通運のコンピューター室の責任者は、その技術力の高さからウイニットの提案を推薦したが、上司の担当役員は価格面から菱芝産業を選択したのである。

 筧から、一度会いたいとの連絡が入ったのは、浪速通運から断りがあった直後だった。用件は、ハードウェアは自社が提供するが、ソフトウェアはウイニットで開発して欲しいとの申し出だった。

 ウイニットが提案したコンピューターシステム設計を分析したところ、自社のそれより優れているとわかったので、ソフトウェアの開発を依頼したいというのである。

 ただ、その時点では筧の独断の提案に過ぎず、結局会社の了解が取れなかったことでこの話は実現しなかったが、それを契機に筧との個人的な付き合いが始まったのである。

 そして一年前、ようやく口説き落としてウイニットへ迎え入れたのだった。

 そのような筧の裏切りが――野島の言動からあるいは、と予想はしていたものの――現実となってみると、彼にとってそれは大きな失望と落胆だった。

 筧の営業力はウイニットの拡大戦略には不可欠であった。だからこそ、入社して間もない彼を近いうちに取締役に昇格させる腹積もりでいたのであり、筧もまたその期待に応えてくれていたと思っていた。その筧に裏切られることなど、簡単に消化できる事実ではなかったのである。

 しかしその一方、冷静になって考えれば、なるほど筧克至と宇川義実を通じてこちらの情報を得たうえで、買収地を高額で買い取るという約束をしていれば、光陽実業は損をする危険が全くなく、此度のような強気の行動に出ることも肯けた。

 迂闊だった、と森岡は悔いた。

 敵の立場になって考えれば、大本山本妙寺の件から中心となって動いている自分の足元を崩す作戦が、最も効果的であることは明白だった。森岡は自分と同じように、相手も必死である事を忘れていた己の落ち度だったと自らを責めた。

 森岡はまた、この不明の原因が、いつしか欲に塗れていた自分自身にあると恥じてもいた。

 以前の彼は、幹部社員には能力だけでなく人格も求めていた。しかし、株式上場を具体的な目標に定めた頃から、会社を急成長させることだけに心を捉われ、知らず知らずのうちに能力偏重の評価に陥ってしまっていた。

 その突っ張った欲の皮が、いつしか両眼を曇らせてしまい、その結果、筧の人となりを吟味することなく、営業能力だけの評価で取締役に昇格させようなどという愚行に走らせ、あまつさえ寺院ネットーワークの宇川と霊園事業の筧という、本来の彼であれば、簡単に結びつくはずの二つの裏切りを見抜けなくさせていた。

 森岡は、筧への糾弾をひとまず避けた。彼はその前に、状況を逆手に取って、筧を情報戦に利用しようと考えたのである。

 

「ところで、例の件ですが」

 と、伊能が報告の終わりに切り出した。

 森岡は、はっと我に返った。

「何かわかりましたか」

「はい。時間を要しましたが、ようやくそれなりの報告ができると思います」

 伊能はそう言って、アタッシュケースから書類を取り出すと、森岡に差し出した。

「石飛将夫は、二年前まで大阪の『住之江』に住んでいたようですが、その後の所在は掴めていません」

 伊能は、森岡の要望により彼の生家がある浜浦での調査活動をしなかった。警察や役所の記録を元に調査をするよう、森岡から指示されていたからである。伊能は疑問に思ったが、ともかく森岡の言に従った。

 しかし、何分にも二十六年も前のこと、限られた情報から追跡することは難しかった。そこで、伊能は森岡の了解を得て、ようやく島根県の浜浦へ直接足を運んだのである。

 鳥取県の米子市から産業道路を北上すると、日本海側随一の漁獲量を誇る境港市に入る。境水道を渡った先は、もはや島根県なのだが、そこから山を越え、海岸沿いに西へ五キロ行ったところが浜浦であった。

 浜浦までに三つの村を通ったが、いずれも百世帯足らずの小さな漁村であり、村と村の間は車一台がようやく通れるほどの細い道を、断崖絶壁を伝うように通った。

 都会で生まれ育った伊能は、時折肝を冷やしながらの、慎重な運転を強いられたが、それでも広大な日本海の波の彼方に、うっすらと浮かび上がる隠岐諸島を目に留めた折には、その壮大且つ優美な風景に圧倒され、一旦車を停め暫し見入ってしまっていた。

 浜浦に着いた伊能は、まず森岡の生家へ顔を出した。森岡から道筋を詳しく聞いていたが、たとえ予備知識がなくとも、すぐにわかったであろうと伊能は思った。何せ、村のほぼ中央の立派な門構えをした屋敷といえば、一目瞭然だったのである。

 森岡の話に寄れば、彼の従兄が住んでいるはずであった。

 伊能は、主人である門脇修二(かどわきしゅうじ)に丁寧な挨拶をし、森岡の依頼により、ある調査をしたいと申し出た。

 森岡から事前に連絡があったとのことで、門脇修二は何の疑いもせず、快く請じ入れた。彼は、森岡の伯母の次男であり、空き家となった森岡の生家灘屋を買い取って住んでいた。

「この前も同じことを訊きに来た男がおったでの」

 門脇修二が開口一番に言った。

「前の男とおっしゃいますと」

 伊能は極めて平静を装って訊いた。何しろ純朴な田舎者である。妙に訝ったりすると、すぐ身構えてしまうとも限らない。

「一ヶ月ほど前じゃったかの。洋介の昔のことを訊いてきた男がおったわい」

「名前は何と」

「確か、坂根とか言ったかの。洋介の部下じゃと言っとった」

――坂根? 坂根好之さんが……それはおかしい。

 伊能は、すぐに誰かが坂根の名を騙ったと理解した。

「どのような風体でしたか」

「三十ぐらいのおっけな男だった。そういやあ、出雲弁をしゃべっちょったけん、地の者だと思うが」

「出雲弁ですか」

 伊能の脳裡にはある男の姿が浮かんでいたが口にはしなかった。余計な混乱を招きたくなかったからである。

「ところで、洋介は元気になったかい」

 門脇修二は、心配げに訊いた。一ヶ月前に訪ねて来た男から、少し身体の調子を崩している、と聞いていたのだという。

「もうすっかり復調されました」

「それを伺って安心しましたわい。なにせ、洋介のことは何もわからんけんの」

 門脇修二は、ほっとした表情を見せた。彼はこの家を購入した切り、十五年近くも森岡とは音信不通の状態であると説明した。

 森岡は、三年前の夏に同窓会へ出席するため、十一年ぶりの帰郷を果たしたが、生家には立ち寄らなかった。その後は一度も帰郷していない。十五年の間には、親戚の結婚式や葬儀も数度あったが、それらも全て無礼を働いていたのである。

 伊能はウイニットのことだけを手短に話した。

「ほう。そげすると、洋介は億万長者になるのだの」

 門脇修二が伊能に確認した。彼は漁師であったが、IT企業が上場すれば、莫大な金が手に入ることくらいは承知していた。時はITバブルの絶頂期であり、テレビのニュース報道でも、IT企業の上場ラッシュを伝えていた。

「ウイニットは前途有望な会社ですから、相当な資産を手に入れられるかと思います」

 伊能はお決まりに答えた。彼は、森岡がすでに莫大な資産を手にしていることを知っていたが秘匿した。

「やはりのう。子供の頃から利発での。末は何者になるかと、親戚中が期待しちょったが、あんな不幸が続いて横道に逸れちょったけん、心配しちょったけど、そりゃ良かった」

 門脇修二は、心から安堵したように言った。

――横道に逸れるとは、森岡さんは不良だったのか?

 疑念を抱いた伊能だったが、やはり話が逸れることを嫌い、本題に入った。

「ところで、門脇さんは石飛将夫という人を憶えていらっしゃいませんか」

「石飛将夫……おう、憶えちょうます。この村で石飛という苗字は珍しいけんの。確か父親は灘屋のてごをしちょったはずだ」

「そうです、その石飛です。将夫というのは、森岡さんより五歳年上だとか」

「そげだ。私より一つ上だが」

「どなたか消息をご存知の方はいらっしゃいませんか」

 門脇修二は、視線を下げて考え込んでいたが、

「そうだ。浜屋の孝明さんなら知っちょうかもしれん」

 と顔を上げて言った。 

「どのようなお方でしょうか」

「将夫さんの親友だったけん、ひょっとしたら、今でも連絡をし合っちょうかもしれん」

「それで、門脇さんはその孝明さんというお方とお付き合いがあるのでしょうか」

「ははは」

 門脇修二は陽気に笑った。

「付き合いも何も、親戚だが」

「それはまた、好都合です」

 伊能の面も明るくなった。

「では、ご紹介願して貰えないでしょうか」

「ええですよ。今日は日曜日だけん、家に居ると思うだが」

 門脇修二はそう言って携帯を取った。

 彼の案内で、浜屋の、これまた門脇姓の孝明と面会した伊能は、有力な情報を手に入れた。

 この界隈は、村落毎に同姓が極めて多い。明治になり庶民が姓を名乗ることになったとき、毛利氏に滅ぼされ、身を潜めて生きて来た尼子氏の残党の姓を、それぞれが名乗ったからという説があるが定かではない。


「修二は父の次姉の、孝明は長姉の息子ですから、共に私の従兄になります」

 そう言った森岡の面が、伊能の目にはどことなく強張っているように映った。  

「孝明さんには、石飛将夫から時々連絡があったようです」

 門脇孝明の話によれば、浜浦を追われた石飛一家は、実弟を頼って福岡に移った。だが、石飛家の不運は続いた。やっとの思いで、遠洋イカ釣り漁船の職に就いた将夫の父が、船の整備と給油のために立ち寄った鹿児島市内の繁華街で、酔った地回りのヤクザと喧嘩になり、刺殺されてしまったのである。浜浦を離れて、半年も経っていなかった。

 母の手一つで育てられた将夫は、高校卒業後、大阪の中小証券会社に就職した。二年前、その会社を退職したところまではわかったが、その後の足取りは掴めなかった。

「西成で日雇い労働をしていたとの噂もありますが、裏は取れていません」

「証券会社を辞めた理由は何ですか」

「横領です。顧客の金を着服し、懲戒解雇されました」

「うーん」

 森岡は沈痛な面で唸った。

「ですが、全額弁済を約束したようで、刑事告訴はされていません」

「それは何より……」

 森岡の、まるで親族でもあるかのような反応は、伊能にとって訝しいものだった。

「立ち入ったことをお訊きするようですが、森岡さんとはどういうご関係でしょう」

 森岡は、暫し沈思した。その葛藤する森岡を初めて見た伊能は、つまらぬ事を訊いたと後悔した。

 やがて、森岡の口から出た言葉に、伊能は驚愕する。

「私の幼馴染の兄ですが、過日私を刺した男です」

「えっ!」

 衝撃の告白だった。元公安警察官という仕事柄、少々のことでは動じない伊能が目を剥いたまま、言葉を見つけられないほどであった。

「でも、伊能さん。今はまだ告発できないのです」

 森岡は、伊能が頭に浮かべた疑問に答えるかのように言った。

「それで、今後はどうされますか」

「何としても居所を探し出して、一度会いたいのです」

「会ってどうされるので」

「真実を語ろうと思います」

――真実……この人は何やら重い荷を背負って生きて来たようだ。

 伊能はそう悟った。

「私が、二十六年間目を背けていた真実です」

 そう言った森岡の表情は、どこか吹っ切れたものだった。

「真実と言えば……」

 伊能が呼応するかのように言った。

「石飛一家が浜浦を出た理由ですが、森岡さんはご存知でしたか」

「ええ、まあ」

 核心を突かれた森岡は言葉を濁した。伊能の目には余人には触れて欲しくないように映った。

「森岡家の怒りを買ったとか」

「そのようです」

 曖昧に答えた面には不快感が表れていた。伊能にはその理由がわからなかった。

「その理由ですが」

 伊能が言い掛けたのを、

「それはちょっと」

 と、森岡は遮ろうとしたが、伊能は委細構わず続けた。

「将夫の父親は、灘屋の金を着服していたようですね」

「え?」

 森岡は、脳天から空気が漏れたような声を出した。

「石飛将夫が顧客の金を横領したのは、血筋なのかもしれません」

 伊能は虚しそうに言った。

 てご漁師として長年灘屋に仕えた将夫の父定治は、森岡の祖父洋吾郎や父洋一の信頼を得ていたのだという。時には、森岡家の代理として、漁協からの水揚げを預かることもあったほどである、と。

 三十年近くも昔の、片田舎の漁村には金にことさら神経を尖らす風潮はなかった。お互い数代にも亘り見知った仲であり、信頼関係が醸成されていたからである。海産物の値相場にも、漁協の経理にも、いわばどんぶり勘定のようなところがあり、少々の計算違いには、目を瞑るという寛容なところもあった。漁師の間には、豊漁でさえあれば、自然と懐は肥えるという気概があったのである。

 とはいえ、毎月末の水揚げの精算時に、一、二万円といった少額ならともかく、十万単位の金を着服すれば、いくらなんでも事は露見する。

 定治が行った着服行為とは、島根半島界隈でいうところの『やんち』、平たく言えば魚そのものの横領であった。

 灘屋は、定置網漁と底引き網漁を合わせると、漁船を十三隻も所有しており、てご漁師の数は三十五人にも上った。その中で、石飛定治は定置網漁の頭分の存在だった。当主である祖父洋吾郎と父洋一が漁に出ることはなく、漁自体は弁才師に、港への荷揚げは定治にそれぞれ任せていた。

 弁才師とは、魚群を探索する役目の漁師のことで、大変に重要な役割を担っていた。何しろ、漁獲高はこの弁才師の能力次第だからである。

 さて、定治はその荷揚げの魚の横流をして、街の鮮魚店に売り捌いていたのである。もっとも、荷揚げ人夫からのご注進で、洋吾郎と洋一もその事実は把握していた。しかし、元々売り物にならない魚は漁師たちで山分けするのが慣習であり、定治の行為はそれを多少逸脱した程度だろうと黙認していたのである。

「ところが、石飛定治は度が過ぎました。横流した量は、一箱、二箱といった程度から始まり、仕舞いには十箱も横流ししていたようです。どうやら、博打に手を出して借金を背負ってしまい、地元のヤクザからの取立てに追われていたようです」

「初めて聞きました」

 森岡は呟くように言った。

 魚の種類にもよるが、水揚げ時の価格は一箱五百円から三千円になる。月に換算すれば三十万円前後という、歩合給を除く月額基本給の倍という当時としては破格の金額だった。

「祖父が談判していたのは知っていましたが、そのような理由だったとは」

「森岡家のてご漁師を外された理由が理由ですから、とても浜浦には居られなかったのでしょう」

「そういうことでしたか」

 腹の底から搾り出すような声だった。

 祖父の威を借りて、石飛家を浜浦から追い出したという長年の罪悪感から解放された森岡は、他方で得心もしていた。思い返せば、祖父は清廉で正直、義理人情に厚い人であった。たとえ可愛い孫の訴えでも、

『公私は自ずと別』

 と考えても不思議ではなかった。むしろ、不義不正を嫌う性分からして、伊能の見解の方に信憑性があった。

 石飛家の転落が、己の告げ口に端を発したものではなかったと知り、その分心が軽くなった思いの森岡ではあったが、重石の全てが取り除かれたわけではない。

 森岡の表情の変化を看取った伊能は話を先に進めた。 

「それと、私の前に石飛将夫の名を聞き出した男がいます」

「なんですって!」

 森岡の面が再び強張った。

「三十前後の大柄な男で、出雲弁を話したそうです」

「名前は?」

「坂根と名乗ったらしいのですが、彼ではないでしょう」

「誰だかわかります」

 森岡の表情は険しいものに変わった。

「それで、修二はどこまで話したと言っていましたか」 

「石飛浩二は森岡さんの幼馴染であること、九歳のとき海難事故でお亡くなりになったこと、その後一家で浜浦を離れられたことまではお話しになったようです」

「石飛将夫が浩二の兄であることも?」

「はい」

 小さく頷いた伊能は、元優秀な警察官だけあって、石飛将夫の凶行と弟浩二の海難事故との関連性を推察したが、それを口にすることはなかった。 


 伊能が退室すると、森岡は隣の部屋に待機していた坂根と南目を呼び付けた。その鬼のような形相に、二人は状況を悟った。

「輝。お前、余計なことをしたな」

 森岡は南目を睨み付けた。

「すまん、兄貴。悪気があったわけやないんや。俺は、どうしても兄貴を酷い目に遭わせた奴を探し出したかっただけだ」

 後ろめたさのある南目は首を竦めた。

 森岡が入院中、南目は毎日欠かさず見舞いに病室を訪れており、森岡が茜に告白したときもそうであった。

 僅かに開いていたドアの隙間から垣間見えた二人の深刻な様子に、南目は中に入ることを憚った。すると、会話の内容こそわからなかったが、『石飛浩二』という森岡の幼馴染の名が耳に届いた。南目は、森岡の悄然とした様子から、その石飛浩二こそ坂根の言った因縁の相手だと推察した。

 米子市出身の彼は、夏になるとよく海遊びに出掛けていた経験から、島根半島の地理には覚えがあり、休日を利用して浜浦を訪れていたのである。

 続いて、鉾先は坂根に向かった。

「坂根。誰にも言うなと命じたはずやで」

「申し訳ありません、社長。輝さんが、あまりにも必死でしたので、つい口を割ってしまいました」

 坂根も肩を落として詫びた。

「あらためて、二人に言うとく。この事、他言は厳禁やぞ。坂根、万が一にも無いとは思うが、野島にもよう言うとけ。それと輝。今後余計なことをしたら、お前かて容赦はせんぞ」 

 森岡の厳しい口調に、二人の顔面は蒼白となっていた。

 

 翌日、森岡は緊急の幹部会議を開いた。

「急なことで悪いが、皆に報告せにゃならんことがあるんや。他でもないのやが、京都の霊園予定地の買収が上手いこといっとらんのは皆も知っとるわな。そこでだ、このままではいっこうに埒が明かんから、最後の手に打って出ることにした。光陽実業にな、抑えている土地を一坪あたり五万円までなら買い取る用意があると告げるつもりや。そうなるとな、さらに二、三億の金が必要になってくる。これは俺にとっても予定外の出費でな、新たに調達せにゃならんのやが、俺はそれを真鍋さんに頼もうと思っているんや。そこで、皆の了解が欲しいんやが、真鍋さんからは借金という形は取りとうないんや。この際、ウイニットの安定株主になってもらおうと思う。つまり俺の持ち株の内、全体の五パーセントにあたる三百株を一株百五十万円で真鍋さんへ売却しようと思うんやが、どうやろうか」

 突然の株式放出話に、幹部たちに波紋が広がった。金融機関以外の外部への株式譲渡は初めてだったのである。

 皆が動揺の色を隠せない中で、野島と坂根の二人だけは、これが森岡の芝居であることに気づいていた。

 二人とも事前に知らされてはいなかったが、野島は先の五人に仕掛けた罠の延長線上にあると推察し、坂根はそれに加えて、森岡が二、三億の金に困るはずがないことを知っていたからである。

 ざわめきが収まらない中で、野島が皆の心情を代弁した。

「あのう、宜しいですか」

「野島か、ええよ」

「社長が真鍋さんと個人的に親しくされているのは知っていますが、ウイニットの株主になるとなれば、話は違ってきます。場合によっては経営にも口出しされるようになると思われますが、その点は大丈夫なのでしょうか」

 全体の五パーセントということは、十分な発言権を有することになる。

「野島の懸念はもっともや。そこでだ、会社ではなく真鍋さん個人に株を持ってもらおうと思っているんや。野島が心配するとおり、会社だと真鍋さんの意向に逆らって、我が社に役員を送り込もうとするかもしれんが、その点、真鍋さん個人なら信用してええやろうからな」

 野島の質問は続いた。

「そういうことできたら、構いません。ただ、それによって社員に割り当てられる株数が減らされるということはないでしょうね?」

「それは心配いらん。約束どおりの株数を持たせる。真鍋さんの分はあくまでも俺の持分を減らす」

 幹部社員の懸念を払拭した森岡は、最後に一言付け加えた。

「皆には、気に入らんこともあるやろうが、俺は今回の件から手を引くわけにはいかんのや。とことんやるつもりやが、そうは言っても、おのずと限度というものもある。光陽実業との駆け引きはこれで終わりや。これが最後通告で、それでも折り合いが付かん場合は、他の土地を買収するつもりや」

 そこまで言うと、森岡は声を低めた。

「実はな、もう他の土地を探してはいるんや。せやけど、ちょっと不便なんでな、できることなら、今の買収が上手くいけばええと思って粘っていたんやが、それもこの提案を最後にしようと思ってる」

 全てが森岡の作り話だった。

 この情報が漏れれば、敵はあわてるに違いないと読んでいた。いかに吉永幹子や柿沢康弘であっても、元は坪当たり五千円の土地を、十倍の五万円で買い取る約束などしてはいないだろう。

 さすれば、彼らに苦渋の選択を迫ることになる。彼らがあらためて同額以上での買収を約束しなければ、光陽実業はさっさと土地を森岡に売却するだろう。そうかといって、同額以上で買収する約束すれば、森岡は他に土地を求めることになり、結果として彼らがこの土地に投じた資金は全くの無駄金になる。

 なにしろ、この土地を利用して霊園事業を考えても、すでに山の入り口を森岡に買収されていて、幹線道路から霊園への道を引くことができないのだ。

 

 その日の夜、森岡は野島を幸苑に呼び出し慰労した。

「野島、ほんま助かったわ。お前の忠言がなかったら、獅子身中の虫を見逃すとこやった。おおきに」

 と頭を下げた森岡に対して、

「いえ、たまたま勘が当たっただけです」

 野島はどこまでも謙虚だった。

「しかし、『灯台下暗し』とはよう言うたもんやな。自分で言うのもなんやが、他人事だとよう見えるものも、自分のことなると、たちまち霞が掛かるということやな。俺が幹部会議で先生の助力を議題に掛けたとき、お前や住倉と対峙してまで筧が強力に賛成したのは、俺の心証を良くしようという狙いと、俺の目から逃れることができ、裏切り工作がし易くなるという魂胆があったんやな。俺が入院していたときも、喜々として跳梁跋扈していたに違いない。お前が居ってくれて、助かったようなものや」

 森岡はほろ苦く笑った。

「神村先生のこと以外でも、そういうことがあるのですね」

 坂根は嘆息すると、

「だとすると、専務の勘が当たって本当に良かったですね。ところで専務、筧が怪しいという勘がどうして働いたのですか? 先日は、社長から『心にやましいことを考えている奴は、ふとしたときに襤褸が出るものや』と言われたということでしたが、本当にそれで気づいたのですか」

 興味深い様子で、野島に訊ねた。

「まあな」

 だが、野島は気のない返事をした。

 それが、自分の胸中を思い遣ってことだとわかっていた森岡は、野島に代わって答えた。

「坂根。厳しい修行を積まれた神村先生や御前様のような高僧か、あるいは超能力者ならともかく、凡人の俺らにそんなことがわかるはずないやろ。俺が野島に言ったのは『言葉のあや』やがな」

「言葉のあや、ですか? では、専務はどうして筧が怪しいと思われたのですか」

 坂根は当惑顔で訊いた。

「野島は何も言わんから、これは俺の推測やけどな、おそらく筧が寺院ネットワークの協賛会社として、ギャルソンを見つけてきたときから、あまりの手際の良さに疑問を持ったんと違うかな。盲目だった俺は、それを筧の手腕やと評価してもうたが、野島はそうやなかったというわけやな。その後、宇川が裏切ったことで野島はますます筧に疑いの目を向け、動向を見張っているうちに、何らかの確信に近いものを抱いたんやろ」

「ちょっと待って下さい、社長。そうなら、なぜ専務はそのようにはっきりと言われずに、『勘』などと誤魔化されたのですか」

「それが、野島の俺に対する心配りやがな。俺が大きな期待を掛けていた筧が裏切っていたことを、部下の自分から指摘されるのではなく、俺自身の手で探り出せれば、面目も保てるし、冷静に事実を受け入れられると考えたんやろ。なあ、野島」

「やはり社長はお見通しなのですね」

 森岡の話を黙って聞いていた野島は、その一言だけ口にした。

「ま、俺が里奈ちゃんの裏切り行為を黙っていたのと同じ配慮と言うことやな」

 森岡は信頼の目を野島に向けた。

 その瞬間、坂根は重苦しい心境になった。

――森岡社長と野島専務。この二人には、十年以上苦楽を共にして来たことで、信頼の土壌が出来上がっている。だからこそ、言葉にしなくてもお互いの考えていることを察せられるのだろう。はたして、自分と森岡社長との間に、二人のような関係性が築かれるまでには、いったいどのくらい時間を要するのだろうか。 

  

 こうして森岡が社内の反乱分子を突き止めた頃、藤井清慶の許には新たな陰謀の計画が持ち込まれていた。

 名古屋城のすぐ脇にあるキャッスル・グランドホテルの一室に、ある男が清慶を呼び出し、密会に臨んでいた。栄覚門主の言った『雲』である。

「清慶上人。状況は一進一退のようですね」

「そうなのだ。鎌倉の裏工作が効いているのか、傳法寺の大河内上人が、なかなか良い返事をくれない。景山は近く直談判するために、彼の許へ出向こうと考えているようだ」

「そのときに良い返事をもらえれば良いのですが」

 清慶は、うーんと深い溜息を漏らし、

「久保上人との関係から、あっさり私を支持してくれると思っていたが、ここまで来ると予断を許さなくなった。万が一のことも考えておかねばならないかもしれない」

 と言って眉間に皺を寄せたとき、男はスーツの内ポケットから一枚の写真を取り出した。

「お上人。そこで、新たな攻撃材料を持参して来ました。まずはこれをご覧下さい」

 男から手渡された写真を見つめていた清慶は、

「これは久田上人と、横に写っているのは? どこかで見たような……もしかしてあの男? 本物か」

 と顔を強張らせて訊いた。

「もちろん、本物です。この男だけではありません。背後には、もっとどす黒い連中が取り巻いています。お上人、私はすでにこの件に関する詳細な資料を取り揃えております。表沙汰になれば、久田上人の息の根を止めることも容易いことでしょう。万が一のとき、ご相談下されば全てをお渡し致します」

 男の自信に溢れた物言いに、むしろ清慶の疑心は増した。

「なぜ君がこの情報を知っている? あまつさえ、なぜ証拠の品まで持っているのだ。これは、総本山でも極々一部の者しか知らない禁断の事実なのだぞ」

「やはり、そうでしたか」

「やはり?」

「この件に関して、総務さんからは何も聞いておられないのですね」

「ああ、そうだ。兄はこのような手段に訴える人ではない」

「そう思いまして、こうして私がお持ちしたのです」

「もしかして、君は総本山の誰かから、その証拠とやらを手に入れたのか」

「私にもそういった手蔓がありますので……」

 男は不敵な面構えで言った。

「手蔓?」

 清慶は思いを巡らし、はたとある人物に行き当たった。

「まさか。まさか、御門主……」

 と口にするのも憚れる体で呟いた。

「その先は何卒」

 男は手を前に出して遮った。

「むむ。では、これ以上詮索するまい」

 清慶は畏まって言うと、

「しかし、君。これを使うとなると、久田本人だけでなく、宗門全体を揺るがすことになる。言うなれば禁じ手のようなもの。だからこそ、兄もこれだけは私にも教えなかったのであろう。それをいくらなんでも、私が使うわけにはいかんだろう」

 と躊躇いを見せた。

「ですから、お上人が窮地に追い込まれ、他に採るべき手段が無くなったとき、起死回生の切り札としてお考えになればと思います。もちろん、これを使わずに済めば、それに越したことはありません」

 男は目配せをした。この禁じ手を使っても清慶に咎めはないと仄めかしたのである。

 清慶は、腕組みをして長い黙考に入った後、目を閉じたままやおら訊ねた。

「それで、君への見返りは何だね」

「お上人が首尾よく法国寺の貫主になれたあかつきには、私を執事長にして頂きたい」

「執事長だと?」

 清慶が目を開け、訝しげな声を上げた。

「君は僧侶としての出世は望まないと承知していたが……」

 ふふふ……と男は笑みを浮かべた。

「気が変わったのです」

「そうか、そういうことであれば、委細承知した。これを使うことになれば、君を執事長にすると約束しよう」

 この密談は、総務清堂の懐刀である景山律堂の預かり知らぬところで行われていた。景山の言いなりになっていた清慶は、己の誇りを取り戻すため、彼の鼻を明かす機会を模索していたのである。


 森岡は、かつて岳父だった福地正勝の許を久々に訪ねた。

 彼の自宅ではない。正勝に連絡を入れたところ、ホテルでの面会を要望したので、森岡が馴染みとしている帝都ホテル大阪のスイートルームを予約したのである。

 福地正勝は七十一歳。

 大手食品会社『味一番株式会社』の創業者で、現代表取締役社長である。正勝は京洛大学・工学部博士課程卒の、一貫して化学畑の研究者であった。

 戦後の貧しき時代、彼は安価な万能の調味料の研究開発に没頭し、やがて『味一番』を発明した。

 味一番は一般庶民の絶大な支持を得て、爆発的に売れた。正勝は研究開発会社とは別に味一番株式会社を設立し、販売部門の拡充に努めた。さらに新製品の開発を進めた結果、現在では年商八千億円超の優良食品会社にまで成長したのである。

 正勝には一男四女の子供がいたが、唯一の男子は高校時代にバイク事故で下半身不随となり、生涯寝たきり身の上となってしまった。そこで、四人の娘婿のうちの一人を後継者にと考えたが、長女と三女の婿は正勝と同じく研究の道を歩んで者たちだったので、研究開発会社の役員に据え、次女の婿である須之内高邦を味一番株式会社の役員に抜擢していた。

 だが、福地正勝の意中の人物は他にいた。他ならぬ四女奈津実の夫、森岡洋介である。

 正勝は、神村の自坊経王寺の護山会の役員をしていたが、神村が森岡を書生として預かっていることを耳にし、それまで数多の要望を断り続けていた神村が、初めて手元に置いた森岡という学生に興味を抱いた。だが、彼がすぐに経王寺を離れた事を知り、自分の推量は見当違いだったか、と一旦は落胆した。

 その後、しばらくして森岡が再び経王寺に戻ったことを耳にすると、正勝は自分の推量の正誤を確認するため、人を使って大学などで森岡の身辺を探らせ、また経王寺の年中行事のときには、自らの目でも確かめていたのである。

 その結果、

――お上人が見込んで手元に置いたのでは?

 との自分の推量が正しかったと確信した。

 森岡に一目惚れした正勝は、四姉妹の末っ子の奈津実を彼に嫁がせたいと切望し、希望通りになった。

 だが、もう一つの、是非とも自分の後継者に……という願いは適わずにいたのである。

――老いられた。

 森岡の正直な第一印象だった。たしかに、昨年春の奈津実の七回忌法要の際にも、やつれた印象を持ったが、僅か一年足らずの間に、さらに老いが深まったように見受けられた。

「ご無沙汰しております、お義父さん」

 森岡は労わるように言った。

「まだ、義父と呼んでくれるのか」

「もちろんです。奈津実が亡くなり、法律上は離れましたが、私にとっては生涯、義父だと思っております」

「本当か? そうなら、これほど嬉しいことはない」

 正勝は感涙に咽ぶように言った。

「洋介君、単刀直入に言おう。君の言葉が真であれば、私の後を継いでくれんか」

 正勝はテーブルに頭を擦り付けた。

「お止め下さい、お義父さん」

 森岡は席を立って、正勝の肩を抱き上げた。

「お義父さん。申し訳ありませんが、それは難しいかと思います」

「なぜじゃ」

「現在、ウイニットは上場準備をしております。とても手が廻りません」

「知っておる。しかし、上場後なら良いではないか」

「残念ながら、未だ後継者が育っていません」

「洋介君、虚言を弄してはいかんな」

 正勝が咎めるように言った。

「はっ」

 森岡は畏まった。

「君は榊原さんの会社を受け継ぐらしいではないか」

「ご存知でしたか」

「先日、久しぶりに経王寺でお会いしたとき、喜色満面で話された」

 正勝は苦虫を潰したような顔で言った。

「弁解の仕様もありません」

 森岡はただ詫びるしかない。

「私にとっては心外な話じゃぞ」

「……」

「そもそも出会いも、君を後継にと目を付けたのも私の方が先だった。それを後から話を持ち出した榊原さんに奪われるとは、私は悔しくてならん」

 正勝は拳で膝を何度も打ち付ける。

「榊原さんには、神村先生の件で大変にお世話なっているため、断り切れなかったのです」

「本妙寺の件じゃな」

「はい。私にとって神村先生は師以上の、命の恩人とも言うべき大切なお方です。協力の交換条件に、後継の件を持ち出されては、否とは言えませんでした」

 森岡は言い逃れだとわかって言った。

「なるほどの。しかし、私は大魚を逃がした想いじゃ」

「お義父さんには、三人の婿がおられるではないですか」

「あんな奴ら、何の役にも立たん」

 正勝は吐き棄てるように言った。温厚な正勝の、このような態度を森岡は初めて見た。

「何かあったのですか」

「う、ううん」

 一転、正勝は口籠ると、

「婿三人が結託しよって、私に退陣を迫まりよった」

 と憔悴した顔で呟いた。

「退陣?」

「私を代表権の無い会長に祭り上げようというのだ」

「後は誰が」

「須之内高邦だ。須之内が、他の二人を上手く誑かして、会社を乗っ取る気なのだ」

「しかし、須之内さんもお義父さんの身内じゃないですか」

「何が身内だ。あいつには権力欲と金銭欲しかありゃせん。会社を我が物にしたら、直ちに上場して巨万の富を得んとするのが見え見えじゃ。あんな薄汚い心根の男との結婚を許したのは、真に持って一生の不覚だった。そのうち、取締役会で正式に退陣を迫るだろうて」

 正勝は唇を噛み締めて悔しがった。

「それで、どうなさるおつもりですか」

「どうもしやせん」

 そう言うと、正勝はニタッと悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

「あいつらには、私の持ち株は洋介君、君に全部譲ると言ってやったわ」

「なんと」

 森岡は開いた口が塞がらない。

「するとな、あいつらだけじゃなく、娘らまで不満たらたらの文句を言いに来たわい。まったく、情けなくて涙が止まらんかったぞ」

 正勝の声は再び憂いを帯びたものになっていた。

「洋介君、君の会社はいつ上場するのかの」

「二年以内にと考えております」

「上場すれば、君の懐にはいくら入る?」

「少なくとも七十億円は入ると思います」

「七十億? IT会社として相当に有望な会社ということだな。僅か七年でのう……さすがだ」

 正勝は目を細めた。

「その七十億の使い道は決まっておるのかの」

「差し当たって、半分は決まっておりません」

 森岡は、神村の夢の実現に全額費やすつもりでいたが、正勝の縋るような目にそう答えざるを得なかった。

「よし、ならば二十五億円を私の為に使ってくれんかの」

「は?」

「私の願いを断っておいて、榊原さんの会社を受け継ぐのは納得がいかん。それくらいは引き受けてもらうぞ」

 戸惑いを見せた森岡を福地は恫喝した。

「どうしたら良いのでしょう」

「二十五億円で私の持ち株を購入して欲しいのだ。相続なら不平も出るが、売買ならば文句も言えまい」

 味一番は、優良会社であったが非上場だった。

 資本金は五十億円。設立当初から数年後に掛けて増資を何度かしたが、いずれも一株五十円だったので、総発行株数は一億株である。そのうち、半数以上の六千万株を味一番研究所が、二十パーセントに当たる二千万株を福地正勝個人がそれぞれ所有していた。

 味一番研究所は、味一番の前身というべきか、実際に調味料味一番を開発した会社で販売権を味一番に貸与していた。言うまでもなく、味一番研究所の資本株式の九十五パーセントも福地正勝が所有している。

 ともかく、一株が五十円なので、二十五億円であれば、ちょうど半数を占めることになるが、非上場とはいえ、会社の財務実態から掛け離れた安価で売買すると、譲渡と見なされるので注意が必要となる。

 味一番の時価は、控えめに評価しても発行額の十倍の、五百円前後と見られた。つまり二十五億では、僅か五パーセントしか購入できない計算だが、大株主であることには違いなかった。

 これに加えて、いずれの日にか正勝が所有する株の相続となれば、法定相続分を除いても、相当な株数が彼の手に渡ることになる。そのあたりまで計算した上での申し出だと思われた。

「承知致しました。それで、お義父さんのお気持ちに適うのであれば、お申し出のとおりに致します」

「本当か」

「奈津実と結婚したのも深い御縁があったからです。お義父さんのお悩みになる姿は私も見たくありませんし、口幅ったい言い方ですが、奈津実が生きていたら、彼女もそう願ったと思います」

「有難う、洋介君。これで、私ももう少し生きてみようという気が湧いて来た」

 正勝が握った森岡の手に、冷たい滴が落ちて弾けた。

――なるほど、義父さんに疑念を抱いた須之内は、さっそく俺の身辺を探ったということか。ウイニットを訪れるには名目がいる。そこでロンドに現れ、偶然を装ったということなのだろう。

 森岡は、須之内の魂胆が透けて見えたような気がした。彼に味一番の経営への興味など露ほどもなかったが、さりとて一時であれ、義理の父子となった縁を疎かにしたくはなかったのである。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る