第15話  第二巻 黒幕の影 決着 第二巻・了

 世に名高い枝垂れ桜の蕾がようやくほころび始めた三月中旬。

 天真宗総本山・真興寺において、宗祖栄真大聖人の没後七百五十年遠忌大法要が、七日間に亘り盛大に執り行われていた。

 森岡洋介は経王寺の護山会代表団に混じり、神村に随伴して参拝することになった。

 護山会とは、葬祭儀礼を委託する檀家と違い、住職個人を支援する親睦団体のようなものである。昔、寺院の多くは山にあったことから、山を護る、すなわち寺院を護る、引いては住職を支援するということになるのだ。

 真興寺は、十三世紀の中頃、静岡県の北西部、愛知県との県境に聳える妙顕山に建立された大坊を、栄真大聖人が『妙顕山・真興寺』と名付けたことに由来している。

 国の重要文化財に指定されている麓の山門・普天門を潜り、霊山全体を覆う杉木立の中を縫うようにして、九十九折の参道を登って行く。

 ようよう、妙顕山の中腹、海抜約七百メートルの地点までやって来ると、参拝者にとって最後の試練とも言うべき、三百段にも及ぶ急勾配の石段が待ち構えている。

 俗にこれを男坂という。

 この辺りまで登って来ると、其処彼処にまだ残雪が見受けられるが、杉の枝葉の隙間から降り注ぐ光は確実に力を増していた。麗らかな温もりに、早春の気配を感じながら、息も絶え絶えに石段を登り切ると、真正面奥に大本堂がその荘厳な姿を現す。

 横十八間、縦十六間もある大坊。

 お堂の四方を囲み、天空に突き刺さらんばかりに聳え立つ、樹齢七百七十年を越える杉の老木。

 木漏れ日が大本堂の金箔の庇に反射して燦燦と身に降り注ぐ様。

 そして、絶え間なく響き渡る読経。

 これらが総本山たるに相応しい霊妙さで参拝者を圧倒する。苦難の末、極楽浄土に辿り着いたかのような錯覚さえ起こさせる。中でも、栄真大聖人手ずから植えたとされるその老木の姿は、まるで御本尊をお護りする四天王、すなわち持国天、増長天、広目天、多聞天の化身のように勇壮であった。

 大本堂の横に祖師堂、続いて御真骨堂、宝物殿が配置されるなど、霊山全体では七十を超える塔堂伽藍が展開し、子院を加えると、その数は有に百を超える壮大なものであった。

 一行が滝の坊に到着したのは、陽が西の枕木山にその身を隠そうとしていた時刻だった。早春とはいえ、山間は目に見えて暮れるのが早く、先刻まで赤みを帯びていた山頂は、すでに山の端が見極め難くいほどに黒衣を纏っていた。

 滝の坊はさすがに名門の子院らしく、真興寺の東門を出てすぐ脇にある学生寮の隣、四十六子院の中では真興寺の一番間近にあった。

 一歩足を坊内に踏み入れると、薄闇の中に人影が忙しなく動いていた。庭先といわず、縁側といわず、はたまた離れといわず、決して狭くない坊内は敬虔な壇信徒で雑然としていた。

 その中に、谷川東顕と弓削広大の姿もあった。玄関前の廊下に続く座敷に居た彼等は、門を潜った神村の姿を目敏く見つけると、急いで玄関先に出迎えた。

 神村の部屋で、さっそく会合に及んだ一同は、明日の午前中、法要の後に総務清堂と面会に及び、その場で一億円を寄進する段取りを確認した。


 翌朝、神村一行は真興寺に参拝する。

 宗務院の受付で記帳を済ませ、一行が法要の執り行われる大本堂までの長い廊下の中ほどまで歩みを進めたときだった。神村が一行を控の間に通し、しばらく待機するよう申し出た。神村は法主への挨拶に出向いて行ったのである。

 僅かな時間だろうと思っていたが、三十分以上も戻ってこない神村に、森岡だけでなく護山会の一行も苛立ちを隠せなかった。

 それというのも、神村を待つ間にも、まるで蜜に群がる蟻のように続々と参拝客が増えて行き、大本堂は全国からの信者で、すでに立錐の余地が無いほどに埋め尽くされようとしていたからである。

 一同は、大本堂の外の廊下にでも座るしかないと覚悟していた。

 しかし、ここで森岡ら一行は、天真宗における神村正遠の僧侶としての値打ちをあらためて認識させられことになる。

 しばらくして、神村が法主の付き人と共に戻って来ると、彼の導きのままに大本堂の裏手から中へ入ったのであるが、なんと法要の読経をする僧侶のすぐ脇に席が設けられていたのである。

 大本堂の中は、御本尊に近いところの床が一段高くなっていて、その領域は読経する僧侶が陣取る場所であった。

 御本尊の正面に、正導師である法主が御座し、背後に脇導師である総務と宗務総長が並んで座る。さらにその後ろに五人の僧侶が控えており、そして、それら八人の高僧を両側から挟むようにして、それぞれ十名の列が三列ずつ配置されていた。

 神村ら一行は、その三列の僧侶のすぐ後ろに通されたのである。神村や谷川東顕とて正装ならまだしも、黒衣に袈裟を掛けているだけの略式であり、まして一般参拝客である森岡らが、いわば聖域である高座に座ることなど考えられないことであった。何よりも、森岡らの行動を注視していた参拝客から、一斉に異様なよめきが沸き起こったことが、それを雄弁に物語っていた。

 これは、他ならぬ法主の格別の配慮であった。

 天真宗・第百五十八世法主・栄薩(えいさつ)大僧正、八十三歳。

 彼は、総本山四十六子院の中では、それほど力のある子院に生まれたわけではなかったが、幼少の頃より才気煥発にして高潔、まさに大器として将来を嘱望されていた。

 とはいうものの、何せ名門家系が幅を利かせる総本山であれば、法主の座など望むべくもないと諦めていたが、そこに父の急逝により、若くして名門中の名門である滝の坊を継いでいた中原是遠が合力した。

 小、中、高校と同級生だったこともあり、中原は子供の時分から栄薩を良く知る立場にあった。彼は、直に栄薩の溢れる才能と慈悲深い人格に触れる度に、宗門を導くに相応しい人物と惚れ込んで行ったのである。

 合力する見返りとして、中原が栄薩に求めたのは我が子の行く末ではなく、掌中の珠であった神村のそれに対してだった。神村が二十八歳の若さで、高尾山奥の院の経理に就任できたのも、別当に就任した中原の強い引きだけでなく、当時宗務院の宗務次長だった栄薩が、前例がなく難色を示していた宗務総長を説き伏せたればこそであった。

 むろん、栄薩も中原の意のままに従ったのではない。神村の才能と人となりを評価した上であったことは言わずもがなである。

 中原は、その後も栄薩を盛り立て、遂に法主の座へと押し上げることになった。栄薩はその恩を忘れてはいなかった。神村を本妙寺前貫主の山際に引き合わせたのも総務時代の栄薩あり、此度もまた影ながら助力したのである。

 法国寺の貫主人事は法主の任ではないが、神村を丁重に遇し、自らの意思を宗門の内外、とりわけ総務清堂や大本山の貫主たちに知らしめることで、無言の後押しをしたのである。


 法要の後、神村、森岡、谷川、弓削の四人は、総務藤井清堂に謁見する。森岡は、初めて正式に面会した清堂に、久田帝玄とは全く正反対の印象を受けたが、それは決して悪いものではなかった。清堂の柔和で上品な話ぶりは、法衣を纏っていなければ、まさしく貴人という表現が当てはまっていた。

 久田帝玄に野武士的な逞しさがあるとすれば、藤井清堂には公家的な気品があった。森岡は、法主はそれで良いのかもしれないと思ったものである。

 その場で、弓削から一億円の寄付の目録が清堂に手渡された。清堂自身もそれが神村によるものだということは承知していた。そして、法国寺の貫主の件から手を引いたことが、賢明な判断だったことをしみじみと実感していた。

 先ほどの神村に対する栄薩法主のもてなしといい、この一億円の寄付といい、さらに宗務総長の永井大幹や四十歳以下の青年僧侶で構成される妙智会会長の弓削広大までも味方に引き入れている現実を突付けられた。

 総務清堂は、もしそのまま神村を敵に回して戦いを続けていれば、如何なる次第になったであろうか、と想像しただけで背筋が凍りつく思いになっていたのである。

 さて、その面談中。

 総務清堂の背後から森岡に鋭い視線を送り続ける男がいた。清堂の命で清慶の許に送り込まれていた景山律堂である。

 彼は、我が師と我が身を窮地に追い込み、やむなく戦場から撤退せざるを得ないように仕向けた森岡とは、いったいどのような人物かと、一挙手一投足を注視し続けていたのである。


 景山律堂は大変に優秀な学生だった。

 その気であれば、在学中に司法試験や国家公務員Ⅰ種の資格試験にも合格することは容易だったと思われ、事実彼も二回生まではそれらを目指し、勉学に勤しんでいた。

 ところが三回生の春、彼の人生観を根底から覆す大事件が起こった。

 当時、景山には六歳年上の恋人がいた。高校受験を控えた中学二年生の春、母親の友人の親戚という触込みで、家庭教師を受け持った女性である。

 彼女の名は中川美那子。都内有名私立大学の現役女子大生であった。

 彼女は、家庭教師としては優秀だった。都内有数の進学校に通っていた景山の成績は悪くはなかったが、トップクラスということでもなかった。それが、見る見るうちに学力が向上し、三年生の春になると、常に上位三番以内をキープするようになった。全国でも五本の指に入ると評されている難関高校への進学も確実な成績であった。

 美那子は教え方も上手かったが、景山がことさら勉学に努力した裏には、彼女なりの仕掛けがあった。彼女は、景山に目標を与え、それが達成されると褒美を与えた。最初は、欲しい物や遊びに行きたい場所など、中学生らしい褒美だったが、美那子は、しだいに思春期の少年の欲望を満たすものに変質させて行った。

 頬への軽いキスから始まり、濃厚なフレンチキス、乳房へのペッティング、女性器への愛撫とエスカレートして行き、ついには都内随一の進学校への合格祝いとして、彼女は自らの肉体を与えた。

 言うまでもなく、景山は初体験だった。

 美那子は取り立てて美人というわけではなかったが、日本人離れした顔立ちが魅力的な女性だった。浅黒い肌に、豊満な乳房と引き締まった肉体、快活であっさりとした気性は、どちらかといえば内向的な景山の心を捉えて離さなかった。

 景山の高校進学が決まったのと同時に、美那子の就職活動が始まったため、家庭教師の役割はそこで終えたのだが、その後も二人の交際は続いた。高校三年間と帝大三回生の春を迎えるまでは、順調な関係が続いていた。

 少なくとも景山はそう思っていた。彼は帝都大学卒業後、美那子にプロポーズするつもりでいたのである。

 悲劇はそのような中で起こった。

 その日の午後九時頃、景山の姿が五反田のラブホテル街に見られた。美那子との情事を楽しむためではない。唯一といってもよい友人からの連絡を受けて、ホテル代を届けにやって来たのである。

 時間を掛けて、ようやく口説き落とした女性と、ホテルにしけこんだまでは良かったが、いざ精算する段になって、友人は青ざめた。ポケットに有るはずの財布がどこにも見当たらないのである。初めての情事の費用を、彼女に出してもらうには、あまりにばつが悪かった。そこで、景山に連絡を入れ、金を借りようとしたのである。

 ロビーで友人に金を渡し、ホテルを出ようとしたとき、背後のエレベーターが降りて来た気配を感じた景山は、自身がホテルを利用したわけでもないのに、罪悪感と羞恥心が入り混じった奇妙な感情に囚われてしまい、咄嗟に身を翻した。

 はたして、エレベーターから男女が出て来て、フロントで精算を済ませ出て行った。景山は、彼らを遣り過ごした後、少し間を置いてホテルを出た。

 これで終われば、どうということもなかったのだろうが、ここで運命が悪戯した。景山はそう思っている。

 ホテルを出た景山に、先ほどの男女の姿が映った。どうやら、タクシー待ちをしている様子である。近づくことができない景山は、しばらくその場に立ち止まっていた。

 やがてタクシーが止まり、乗り込んだ男女の顔が、車内の小さな電灯の光に浮かび上がった。

「あっ!」

 と小さく呻いた景山は、慄然としてその場に立ち尽くした。

 その男女は、中川美那子と父幸彦だったのである。

 意識が朦朧とするほどの衝撃を受けながら、景山は、はたと思い当たった。美那子は大手放送局・関東テレビ放送網に勤務していたが、その関東テレビ放送網の取締役人事部長が父幸彦なのである。

 景山は高校時代を想起した。

 見事難関高校に合格したことで、景山の両親も美那子には大いに感謝したものである。二人の交際は、両親には内緒にしていたが、家庭教師を辞した後も、何かにつけ美奈子は景山宅を訪問し、幸彦とも歓談していた。

 当時、大胆不敵な行動に舌を巻いた景山であったが、思い返せば、美那子の就職活動時期とも見事に重なっている。

――まさか、美那子は幸彦が関東テレビ放送網の人事部長、つまり新入社員の合否を決する重要人物と知って、接触していたのか。

 景山はあらぬ疑念に茫然自失となっていた。

 景山は探偵を使い、二人の素行を調べ上げた。費用の五十万円は、母親に頼み込んでヘソ繰りを融通してもらった。むろん、母には真実を語ってはいない。

 調査の結果、二人の関係は彼女が関東テレビ放送網に就職が内定してときから始まっていたと判明した。実に、五年の長きに亘って不倫関係を続けていたのである。また、普段はシティーホテルで利用していたようだが、その日はたまたま趣向を変えて、ラブホテルに入ったものということであった。

 これを運命の悪戯と言わずして、何と言うのであろうか。

 いずれにせよ、恋人しかも初恋の女性と、実父しかも家庭においては、厳格で真面目を絵に描いたような父に裏切られた景山の胸中や、如何ばかりであったろうか。おそらく、幸彦は美那子が息子の恋人であることを知らなかったと思われるが、何食わぬ顔で母を裏切っていることに違いはない。

 景山は、怒りを通り越して虚しさを覚えた。中川美那子の性悪を見抜けなかった自分自身にも愛想が尽きた。

 この世の一切が嫌になった景山は、両親に何も告げずに家を飛び出した。着の身着のまま家を出た彼の足は、どういうわけか静岡県の北西部にある真興寺に向かっていた。

 後日思い出したことであるが、彼は幼少の頃、信心深かった亡き祖母に連れられ、何度か真興寺を訪れていたのである。その記憶が導いたのか、あるいは宿世なのか、真興寺に足を踏み入れた景山は、心の落ち着きを感じたものである。

 景山は、タクシーではなく自らの足で、本堂を目指した。

 早春の御山は、あちらこちらに残雪が見られたが、木々の新芽は命の息吹を鮮烈に放っていた。景山は心身が洗われてゆくのを感じながら、中腹までやって来た。

 そのときであった。

 どこからともなく、轟々たる水の落下する音に混じり、時折読経が伝わって来た。気になった景山は、本道から外れ、声のする方角に向けて山道を分け入った。

 すると、鬱蒼とした森林の向こうに、十メートルほどの滝と小さな滝壺、そして、滝壺の中央に胡坐を掻いた初老と思しき男性が、水に打たれながら、無心に読経する姿が目に飛び込んできた。

 僧侶が滝行を行っていたのである。

 早春の岩清水は、雪解け水を含み、凍るような冷たさのはずであったが、僧侶はそれから三十分以上も打たれていた。なんという精神力、なんという肉体であろうか。景山は僧侶を見守っているうち、込み上げる思いに、なぜだか目頭が熱く潤んだ。

 やがて、読経も終わり、景山がその場を立ち去ろうとしたときだった。

「そこの若い人。お待ちなさい」

 とその僧侶が声を掛けてきた。

――えっ?

 景山は驚愕した。彼は木の葉に身を隠して様子を伺っていた。しかも、僧侶は目を閉じ、一心不乱に読経していたはずである。

――然るに、なぜ?

 と不思議に思うのも無理がなかった。

 僧侶は手早く身支度を整えると、手招きをして、

「私に着いて来なさい」

 と背を向け、歩き出した。

 景山は、場所柄何やら狐につままれたような面持ちで僧侶の後に続いた。景山は道なき道を、僧侶の背を頼りに進んで行くと、やがて大きな寺院の裏手に辿り着いた。

 表に廻ると、玄関の庇の下に掛かった古びた檜の扁額に『華の坊』とあった。

 そう、この僧侶こそ二十年前の藤井清堂その人だったのである。

 本堂に参拝した後、景山は下山して静岡の温泉宿にでも泊まろうと思っていた。

 目的のない傷心旅である。だから清堂の、

「泊まって行きなさい」

 との言葉に否はなかった。

 その夜、清堂と景山は夜を徹して語りあったという。

 翌早朝、一睡もしなかった清堂が、再び滝行に入ったのを見て、景山は体力回復のための貴重な時間を割いてくれたことに恐縮し、同時に修行僧の凄まじい執念に深い感動を覚えずにはいられなかった。

 清堂は、妙顕修行堂において八度目の荒行を達成し、その仕上げとしての、十日間の滝行中だったのである。年齢からして、清堂にとって最後の荒行であった。その最後の最後に景山が現れた。これを守護霊不動明王のお導きと受け取ったと、後年景山は清堂自身から聞いた。

 あの日、滝行中の清堂は、偶然景山を見つけたのではない。八度目の荒行の終盤ともなると、心身はいよいよ清まり、呼吸は大自然と調和し、肉体は同化の極地を迎える。

 滝に打たれている間、清堂はまさに大自然の一部だったのである。

 そのとき、極限まで研ぎ澄まされた清堂の神経を異波が掠めた。

 景山の呼吸である。通常の自然の営みに加わったその僅かな息遣いを清堂は感じ取ったのだという。

 荒行を重ねた高僧や恐るべし、と言ったところであろう。

 清堂は景山の姿を見留めたときから、彼の虚無感を見抜いていた。見抜いて、景山を諭しはしなかった。ただ、酒の相手をしただけである。もっとも荒行の間、飲酒は厳禁であるから、水を飲んでいただけであるが。

 ただ清堂とたわいもない話をしているだけで、屈託が消え失せて行くのを感じていた景山は、

――このお方だ!

 と心の中で叫んでいた。

 東京へ戻った景山は、すぐさま帝都大学に退学届けを提出し、その足で華の坊に舞い戻り、得度して清堂に師事したのである。したがって、景山の両親や中川美那子は、彼が出家した本当の理由を知らない。

 以来、景山は得度の遅れを取り戻すかのように精進を重ね、すでに五度の荒行を成満し、大本山・本山の貫主の座に就く資格を得ていた。だが彼は、在野に下ることなく、師清堂のため己が力を傾注してきたのである。

 

 景山は己の能力を信じていた。滅多な者に遅れは取らないという自信があった。それが、自分より若い森岡という男に手玉に取られてしまった。いまさらながら世の中は広いと鼻をへし折られ、畏怖さえ抱いた。ただ、悔しい気持ちが湧かないことが不思議だった。

 森岡も部屋に入ったときから、景山の視線を感じていたが、面談中は一度も目を合わせることなく、いよいよ退室の段になって、初めて彼の方を向き、軽く会釈をして立ち去ったのだった。

 その会釈が呼び水になったのか、景山は森岡の後を追い、面会場から宗務院へ向かう廊下の途中で、

「森岡さん」 

 と声を掛け、彼の足を止めた。

 その声に反応して、森岡が後ろを振り返ると、景山は足早に近づき、

「ですよね?」

 と確認した。

「はい。そうですが」

 森岡が答えると、

「初めまして、総務の執事をしております、景山律堂と申します」

 景山は丁寧に頭を下げると、森岡を控えの間に誘った。

「大変失礼を致しました。実は、前々より一度森岡さんとお話がしてみたいと思っておりまして、この機会を逃しますと、当分お会いすることも叶わないと思い、無理強いをしてしまいました」

「いえ、気になさらないで下さい。私も貴方とはお会いしたいと思っていました」

 森岡は柔和な笑みを向けた。

「ところで、お話とはなんでしょう」

「率直にお訊ねいたします。森岡さんは、この世界にお入りになるおつもりはないのですか?」

「この世界とは、天真宗のことですか」

「そうです」

 あははは……と森岡は所構わず大声で笑った。

 あまりに突拍子もない問い掛けだったのである。だが、景山の真剣な眼差しに、全く変化が見られないことを看取った森岡は、

「これは、大変失礼しました。全く予想外のお訊ねだったものですから」

 と丁重に詫び、表情をあらためた。

「それは全くありません。私は宗教人には向いておりませんから」

「そうでしょうか。私にはそうは思えません。貴方と戦っていた私は、姿の見えない貴方が恐ろしくて仕方がなかった。それは、貴方からの目に見えない気力を感じていたからです。そのことだけでも、宗教人に向いていると思いますよ」

「そう言って頂けるのは光栄ですが、景山さんの買い被りだと思います。私は金儲けの方が好きですから」

「お言葉ですが、それは解せませんね。それなら、何故湯水のごとく大金をお使いになるのでしょうか」

「あくまでも先行投資ですよ。神村先生が本妙寺の貫主になられたら、色々なことに利用させて頂いて、十分に元を取るつもりでいます」

「そう聞いておきましょう」

 景山も、それが森岡の本心ではないことがわかっていた。

「ところで、景山さん。私の方も一つお訊ねして宜しいでしょうか」

「どうぞ」

「景山さんは、いつまでも総本山(おやま)に残られるつもりではないのでしょう。何時の日にか総本山を降りられて、御自分のお寺を持たれ、いずれは大本山や本山の貫主の座を目指されるおつもりではないのですか」

「そうですね。貫主の件は別としても、自坊は持ちたいですね。それも、叶う事なら自らの手で開山したいですね」

 宗門所有の末寺ではなく、単立寺院を開基したいと言った。

「でしたら、そのときは是非私に御一報下さい。差し出がましいようですが、必要とあらば御助力致します」

「えっ! 貴方が私を?」

 景山は素っ頓狂な声を上げた。いかにお互いを認めた間柄とはいえ、先頃まで敵対した相手に違いないのである。

「決して冗談ではないですよ。大変失礼ながら、今回の件で私は貴方の能力を高く評価しています。また身辺も調べさせて頂きましたが、帝都大学法学部在学中の成績は大変に優秀なものでいらした。その気になれば、大企業に就職することも、高級官僚となってこの国を動かすこともできたでしょう。ところが、そのような利得を捨てて、仏門に入られた。私は本来、一旦敵となった相手は叩き潰すまで容赦はしない性格ですが、どうも貴方に関しては例外のようで、途中から親近感さえ抱くようになりました。自分で言うのも何ですが、これは大変に珍しいことなのです」

 森岡は笑みを浮かべて言った。

「いやあ、実は私も貴方に同じような感情を抱いていました」

 景山の口元も緩んでいた。

「反対に、この人は、と思う優秀な方にはでき得る限りお力になろうという信念も持っています。特に若い方ならなおさらです。たとえば、景山さんと同年代である弓削さんも、そうしようと決めています。貴方には、何度も危うい場面に追い込まれました。繰り返しますが、私は此度の戦いを通じて、貴方の能力を高く評価しているのです」

「弓削? あの妙智会会長の……」

「そうです」

「では、弓削さんも貴方が? もしかして、その繋がりでいえば、宗務総長の永井上人を動かしたのも、森岡さん、貴方ですか」

「……」

 森岡は黙って小さく肯いた。

「参ったなあ。スキャンダルが週刊誌に載った問題で、久田上人が規律委員会に掛けられたとき、私はすでに清慶上人の許を去っていましたけど、これで不戦勝だと思い、天の思し召しに感謝しましたよ。結局は、ぬか喜びとなってしまいましたがね。なるほど、あの永井上人の暗躍も貴方の仕業ですか」

 大きく肯いた景山を前にして、森岡の顔色が失せていた。

「ちょっと、待って下さい。すると、御前様のスキャンダルは、そちらのリークではないのですか?」

「違いますよ」

 景山は大きく首を振り、

「総務さんは宗門に傷を付けるような手段を採られるお方ではありません。むしろ、清慶上人の規律委員会への告発を、苦々しく思っておられました。その証拠に、規律委員会での懲罰会議のとき、ご自身はなるべく発言を控えられ、皆の決定を素直に受け入れられたのです。もし、総務さんがその気なら、永井宗務総長がどのように頑張られようとも、あのように軽い処分では済まなかったでしょう。むろん、弟弟子である国真寺の作野上人でさえ、切り捨てられることも厭わなかったでしょう」

 ときっぱり否定した。話の筋も十分通っていたし、森岡にもこの期に及んで彼が嘘を付くとも思えなかった。

――たしかに弓削上人も、リークは総務清堂の仕業ではない気がすると言っていた。では、いったい景山が去った後、清慶に入れ知恵したのは誰なのだ? そして、その者の目的はいったい何なのだ?

 そのとき、森岡の胸にある疑念が浮かんだ。

「付かぬ事をお伺いしますが、景山さんは、吉永幹子、柿沢康弘、筧克至の三人をご存知ですよね」

「吉永社長は有力な支援者ですので、もちろん存じ上げていますし、その吉永社長から柿沢様のお名前だけは伺っておりますが、筧という方は存じません」

「柿沢はともかく、筧とも面識が無いと?」

「名前をお聞きしたのも初めてです」

 景山は訝しげな目で森岡を見た。

 彼の言葉を信用すれば、吉永幹子は筧の存在を総務清堂や景山には知らせていないことになる。

 森岡にもう一つ疑念が過った。

「では、以前この部屋で策を弄されたことは?」

「策? 何のことでしょう」

「谷川東顕上人の耳に、澄福寺の芦名貫主が清慶上人を支持する腹を決めたというデマを流されませんでしたか」

「そのようなことがあったのですか」

 景山は言外に私ではないと否定した。

 森岡は暫し考え込んだ。

「貴方以外に、そのようなことをする人物に心当たりはありませんか」

「総務さんのために、他の誰かがやった可能性はなくはないですが……」

 そうであれば、自分の耳にも届いているはずだ、という表情をした。清堂の腹心を自負している顔だった。

――俺はとんだ勘違いをしていた。景山が知らないとすると、噂を流したのは誰なのだ。

 とそのとき、もう一つの疑念が森岡の脳裡を掠める。

――筧……こいつは、いったい何をしに総本山(ここ)へやって来ていたというのだ?

 総務清堂との関わりを否定されたことで、筧克至の行動が不審なものとなった。

 森岡は、また一つ二つ新たな鉛玉を飲み込んだような、後味の悪さを覚えずにはいられなかった。

 

 ついに別格大本山法国寺の新貫主を決定する運命の日が訪れた。

 大河内法悦からは、最後まで良い返事を貰えずにいたが、同時に悪い返事もなかった。どうやら、合議の場で意思表明をするつもりのようである。

 その決戦となる合議は、総本山の宗務院内で行われた。

 ところが、七名の貫主が着座した直後、思わぬ事態が起こる。

 合議の冒頭、宗務総長の永井大幹が、大河内からの傳法寺貫主辞任の届けを受け取り、昨日付けでこれを了承した旨を公表し、それを受けて当の大河内が一礼して退席しまったのだ。

 貫主辞任は、板ばさみになっていた大河内の苦しい胸の内を表していた。

 総務清堂が手を引いたとはいえ、これまで良好な関係にあった藤井清慶をあからさまに裏切っては心が痛む。さりとて、厳然たる力を持つ久田帝玄はもちろんのこと、これから先の長い神村正遠に、結果として刃向かったことになれば、自分亡き後の家門のことが心配でならなかった。

 帝玄や神村自身は、遺恨を我が子孫に残すような人物ではないと信じているが、周囲の者が仇なすかもしれない、と危惧していた。

 特に久田帝玄と稲田連合石黒組との関係が週刊誌に取り沙汰されたことは、大河内が闇の世界から無言の圧力を意識するという、清慶にとってはなんとも皮肉な副作用を生じさせていたのだった。

 辛い選択を迫られていた大河内だったが、事の発端は何かということに思いが至ったとき、自ずと答えが出た。別格大本山法国寺貫主の座を巡る争いとはいえ、元を辿れば大本山本妙寺の問題が遠因にあることは明らかだった。

 本来、山際前貫主が書類を作成するか、せめて遺言さえ残していれば、神村が本妙寺の次期貫主になっていたのだ。一つのボタンの掛け違いが、今日のような争いを生じさせた。そして、その雌雄を決するキーパーソンに立たされてしまったことは、何とも悲運なことであったが、彼は久田帝玄をそして神村正遠を選択し、清慶に対する詫びの印として、傳法寺貫主の職を辞する決心をしたのだった。

 大河内法悦には、自分が辞任した後の成り行きが見えていた。

 合議の末、どちらかに決まらなければ、採決ということになるが、大河内が辞任したため、藤井清慶支持が大真寺の結城、法真寺の窪園、国真寺の作野、神村正遠支持が興妙寺の立花、龍門寺の大塚、澄福寺の芦名の三対三となる。

 そうなれば、最後の決は永井宗務総長の手に委ねられることが決まっていた。これまでの経緯からして、永井がどのような結論を出すかは明白である。

 これこそ、森岡が弓削と面談したとき、永井宗務総長からから大河内貫主への連絡を所望した真の狙いであった。

 森岡は、大河内に永井の態度を明確に知らせることにより、彼の退路を暗に示唆したのである。

 かくして数日後、久田帝玄に法国寺貫主の辞令が下った。

 帝玄はさっそく法国寺に入り、四ヶ月後の晋山式に向けて周到な準備に入った。晋山式を終え、帝玄が正式に法国寺の貫主となれば、それから二ヶ月後には合議が開催され、神村の本妙寺貫主が決定する運びとなる。その後、大河内が辞した傳法寺貫主選出の段取りであった。

 晋山式とは、新任の僧侶が寺院に住職するための儀式のことである。晋とは進むという意味で、昔は寺院の多くが山にあったことからこの言葉が生まれた。

 森岡は、帝玄を支持してくれた興妙寺の立花、龍門寺の大塚、澄福寺の芦名、そして宗務総長の永井に謝礼をした。

 また、大河内法悦に対する配慮も忘れてはいなかった。彼の退位により、霊園事業の主体は傳法寺から本妙寺に移すことにしたが、観世音寺が無量会に加わることはそのままにした。それが、森岡の大河内に対する謝意であった。

 同時に森岡は、来るべき本妙寺の貫主を決める合議を睨んで、神村の支持者にも心付けをする気配り見せた。大河内が辞任したことにより、情勢は六対四とさらに好転したが、彼が気を抜く事はなかったのである。


 一週間後、森岡はロンドにおいて、神村、谷川兄弟と共に勝利の宴に興じていた。

「それにしても、こんな美形のママがいる店で飲んでいたとは……なぜ黙っていたのだ、東良」

 乾杯の後で、東顕は茜の太腿を摩りながら、下卑た笑みを浮べた。

 正面に座る東良は渋い顔で押し黙っている。

――まさか、東顕上人も好色なのか……まさに仏道の堕落、ここに極まれり、だな。

 と、森岡は嘆息した。

「まあ、谷川さんは御兄弟揃って口がお上手ですこと」

 神村と東顕の間に座っている茜は、さりげなく東顕の手を退かすと、神村に向き直り、

「神村先生、法国寺の貫主の件、久田御前様に決まったそうですね。あらためましておめでとうございます」

 と話題を変えた。

「ありがとう。こんなに美味い酒を飲んだのはひさしぶりだよ」

 神村は満面に笑みを浮かべた。

「これで、次はいよいよ先生の番ですね」

「ようやくここまで来た。それもこれもここに居る三人のお陰だよ。東顕上人、東良上人、森岡君改めて礼を言うよ。有難う」

 神村が頭を下げた

「お止め下さい、先生」

 森岡が恐縮したのに対し、東良はどこか上の空で、

「しかし、不思議だなあ」

 と首を傾げるばかりだった。

「先ほどからずっと難しい顔をして、東良上人は何がそんなに不思議ですの」

「私がこんなことを言うのもなんだが、未だにようわからんのが、御前様の処分が戒告で済んだことや。聞くところによると、宗務総長の永井上人が、殊の外頑張って下さったらしいのやが、その場には総務さんもおられたのやから、ようそこまで頑張って下さったものだと不思議に思うんや」

 東良が茜の問いに答える。

「たしかにそれは言えるね。永井宗務総長は御前様の処分が決まったときも、法国寺の合議の後も、直接私に結果を連絡されてきた。まるで、私の味方であるかのようにね」

 神村も東良に同調した。

「永井上人にも何か思惑があるのではないでしょうか」

 森岡は、そう言って惚けた。

「思惑? そりゃあ思惑といえば、自身の法主のことやろうな。しかし、妙智会のように数が有れば影響力はあるかもしれんが、失礼ながら、いくら神村上人といえども、一大本山の貫主に過ぎんのやから、総務に逆らってまで得られるものなどあるんかな……それが解せんのや」

「先を見越して、先生や御前様に恩を売っておこうという考えなのではないでしょうか」

「それは考えられんこともないが、総務と敵対してしまったら、本末転倒やからなあ」

 それでも尚、東良は納得がいかない様子だった。

「まあ、私たちがここで永井上人の胸の内を詮索したところで、仕方のないことでしょう。それより、本妙寺の件が正式に決まるまでは、気を引き締めてまいりましょう」

 森岡は、自分が永井に働き掛けをしたことを、結果の良し悪しに拘わらず、弓削にもそして当の永井にも公言しないように頼んでいた。

「森岡君の言うとおりだな。とにかく、今日は大いに飲もう」

 神村はいつになく上機嫌だったが、

 森岡は、

「ですが先生、飲み過ぎには注意して下さい」

 と、神村に釘を刺すことを忘れなかった。

 この頃から、森岡は神村の様子に異変を感じ始めていた。神村は、すっかり酒が弱くなり、しばしば醜態を見せるようになっていたのである。書生をしていた頃の神村は、滅法酒が強かった。

 神村が酒に酔ったところなど、一度も見たことがなかった。

 その神村がロンドを出て、帰宅する頃にはすっかり酩酊するようになっていた。酷いときには、幸苑で酒を飲み始めて然程時が経たないうちに、座敷で横になることもあったし、そのまま眠ってしまうことさえあった。

 森岡の心配したとおり、この日の神村もほどなく酩酊してしまった。馴染みの個人タクシー呼び、神村と谷川兄弟を見送った後、席に戻って腰を下ろした森岡は、そこはかとない哀愁のようなものを感じていた。

「どうしたの、浮かない顔をして、おめでたい日でしょう」

「さっきの神村先生のお姿が胸に引っ掛かってしょうがないんや」

 森岡は溜息を吐いた。

「だって、お年だもの。仕方がないでしょう」

「年と言ったって、まだ五十七歳やで」 

「きっと、今回のことでずいぶんと心労が重なったからじゃないの」

「たしかにな。俺ら外野とは次元の違う苦悩を抱えておられたから、精神的疲弊は波大抵やなかったやろうけどな」

「先生は、昔はずいぶんとお強かったのでしょう」

「強いなんてもんじゃなかったな。俺がビール一本飲むのと、先生が一升瓶を空にされるのが同じペースやった」

「えっ! そんなに」

 茜は腰を浮かすほど驚いた。

「おいおい勘違いするなよ。今の俺が飲むペースやないで。書生している頃は、酒を覚え始めた頃やからな。鳥取へ行ったときに話したけど、俺は酒癖の悪かった親父を反面教師にしていたから、酒に対してかなりの抵抗感があった。せやから、たとえ正月の御屠蘇やお祭りの振る舞い酒であっても、決して口にすることがなかったんやが、書生となってまもなく、先生の勧めもあって、少しずつ嗜むようになっていったんや。その頃の話やで。でも、俺がビールを二本飲む間に、先生は二升飲まれたからな。それも三時間は掛からんかった」

「嘘やろう、兄貴」

「二升を三時間足らずで、ですか」

 南目が訊き返し、坂根も驚いた表情をする中、一人だけ冷静な顔つきの男がいた。数日前、森岡の秘書として雇われた蒲生亮太である。

 蒲生は二十八歳。南目と同体格の偉丈夫で、前職の仕事柄、運転技術にも優れていたため南目の役割は無くなった。だが、彼が頑として森岡の傍を離れようとしなかったため、坂根を含めた三人体制となっていた。

「本当や、それでも先生は素面かと思うほど、言動に微塵も変化がなかったんやがなあ」

「その頃を知っていらっしゃる森岡さんにしてみれば、あのお姿はたまらないものが あるのでしょうね」

 茜は、しみじみとした声で言った。

「あの頃は、今の俺の年より少し上ぐらいやからな。体力、気力ともに充実しておられた頃やから、それとは比べようもないが、しかしあまりにも急激な酩酊ぶりはショックやな」

「本妙寺の件が片付けば、きっと気苦労も無くなって、お元気になられると思いますわ」

 茜は力付けるように言った。

「そうやな」

 森岡は、今度の一件が精神的に余程堪えているのだろうと思っていた。そして、書生の頃を思い出し、初めて神村に老いを感じていた。彼は、生きていれば父洋一に感じたであろう哀愁を神村に馳せていたのである。

 

 時を経ずして、京都の祇園では、新しいクラブがオープンの日を迎えていた。クラブの名は『菊乃』と言った。祇園のクラブ・ダーリンの瞳が、ママとして経営する店である。

 久田帝玄の法国寺貫主就任が決定したことで、神村の本妙寺貫主就任も目途がついたと見て、かねてからの約束どおり、瞳は坂東の愛人の誘いに断りを入れ、森岡が出資してオープンの運びとなったのである。

 森岡は、この日ある趣向を凝らしていた。

 クラブ菊乃のオープンの初日に合わせ、帝玄の法国寺貫主就任祝賀会の二次会会場として使用したのである。

 森岡は、坂東明園をはじめとして、神村支持の面々にも案内状を送付させた。本妙寺の地固めの意味合いもあったからである。もし坂東が来店すれば、久田帝玄縁の店として、ママの瞳に嫌がらせができなくなり、仮に来店しなくても、この噂は早晩彼の耳にも届き、同様の効果をもたらすだろう。

 むろん、帝玄が法国寺の貫主になったからには、また森岡からの金を受け取った以上は、坂東は神村を裏切ることもできない。

 これが森岡の目論見の一つだった。

 加えて、店の格を上げることにも大いに寄与することになる。 

 何しろ、寺社銀座と言われる京都においてさえも、法国寺は指折り数えられるほどの格式高い寺院である。その名刹の新貫主が、オープンに合わせて就任祝いの会場に用いたことは、それだけでクラブの信用を担保することになる。森岡のもう一つの目算だった。

 だが、このことが同時に思わぬ暗雲も呼び込んでしまったことを、森岡はまだ知らない。柿沢康弘の依頼で、森岡の女性関係を探っていたギャルソン大阪支店の社員は、この瞳こそが森岡の恋人だと誤解したのである。

 柿沢は森岡の身辺調査に、プロの探偵を用いなかった。理由は至極簡単で、調査費用が高額だからである。

 言うまでもなく、柿沢は資産家である。ところが、彼には妙にけち臭い一面があり、こういうことには金を掛けない主義なのである。天邪鬼な彼の面目躍如といったところだろう。

 そこで、大阪支店の総務部社員の男性二人に、森岡の調査を命じた。ギャルソンの大阪支店は、森岡のウイニットのある新大阪から、地下鉄の駅で二駅北の江坂にあったので、安直に考えたのだ。

 しかも、昼間は会社の通常業務に就かせ、定時以降に森岡の行動を調査させた。時間は掛かるが、柿沢にとっては、別段急ぐ必要もないので、このような手段を講じたのである。 

 ともかく、森岡の夜の行動から、北新地の最高級クラブ・ロンドのママ茜と、祇園のクラブ・ダーリンのちいママ瞳の存在が浮上した。二人とも、衆に優れた美貌の持ち主で魅力的な女性である。当初は、茜の方が有力と思われた。森岡が足繁く店に通い、しばしば茜のマンションに宿泊していたからである。

 だが、最近は京都へも頻繁に出向き、瞳ともホテルで密会を重ねている。宿泊こそしていないものの、そのうち瞳がクラブ菊乃を開店した。その費用をある青年実業家が負担した、と店のホステスから聞き及んだとき、ギャルソンの社員はその青年実業家こそ森岡洋介に違いないと確信した。そして、瞳こそが森岡の本命であり、彼の心は茜から瞳に移ったと判断した。一億円もの大金を『遊びの女』に用立てることなどあり得ないからである。

 むろん森岡と瞳の密会は、単にクラブ菊乃のオープンに向けての打ち合わせに過ぎなかった。

 プロの調査員ではなく、素人に任せた詰めの甘さが露呈した結果だったのだが、これが山尾茜と片桐瞳、二人の女性の運命の分水嶺となった。

 

 名古屋城横のキャッスル・グランドホテルでは、瑞真寺当代門主の栄覚と執事長の葛城信之、桂妙寺の村田光湛が集っていた。

「悪運の強い奴よ」

 栄覚が顔を歪めて吐き捨てた。

 その、怨念の籠った声に、三十歳近くも年長の村田が委縮した。

「申し訳ございません。森岡にしてやられました」

 と肩を窄める。

 あっ、いやと栄覚は首を振った。

「貴方のせいではありませんよ、村田上人。上人には良くやって頂きました」

「しかし、久田上人が法国寺の貫主に就いた限りは、神村上人の本妙寺貫主の座は揺るぎないものでしょう」

 村田は尚も重苦しい声で言った。

「いや、すでに次の手は打ってあります」

「えっ」

 村田が訝しげに栄覚を見た。

「もしや神村支持の中に、翻意する者がいると」

 栄覚は無言で顎を引くと、

「森岡という男、私の想像の上を行きますな。妙智会を担ぎ上げて藤井兄弟を糾弾させるところまでは、思う壺だったというのに」

 と、栄覚は再び眉を顰めた。

「しかし、久田の醜聞をあのような策で乗り切るとは……」

「作野貫主の件ですね」

 栄覚の慨嘆に村田が察したように応じた。、

 作野の一件は、宗務院のある筋によって栄覚の耳に齎されていた。

「総務は情が深い方ですから、何とも言えない妙手でした」

 葛城も追随した。

「しかし作野貫主はなぜ、すぐにばれるような嘘を吐いたのでしょうか」

 村田が誰に聞くというのでもなく呟いた。

 宗祖栄真大聖人手ずからの釈迦像で最古のものは、瑞真寺の本尊として祭られている、というのが歴史の事実だったからである。

「いかに総務さんでも、あれじゃあ庇いきれないでしょうに」

 葛城が恨めしげに応じた。作野の失言が無ければ、帝玄の処分は重かったはず、との思いからである。

 違うな、と栄覚が首を横に振った。

「総務は作野の件が無くても、自身の立場を慮って中立を守っただろう。それより、宗務総長の方を落としたのが肝だったな」

 と、永井大幹の籠絡を指摘した。

「まさか、署名を総務ではなく宗務総長に持ち込むとは……森岡という男、そのときすでに永井宗務総長を取り込む算段でいたのかもしれない」

「言われてみれば、そのようです」

「何という男……」

 村田は自身の推量間違いを認め、葛城は森岡を畏怖するように呟いた。

「森岡のせいで、あ奴めが法国寺の貫主に就任してしまった。実に忌々しいことだが、いずれ必ずや久田には辛酸を舐めさせてやる」

 と吐き捨てた後、栄覚は苦々しい顔つきをいくぶん緩めた。

「戦いはこれからが本番だ。となれば、総務清堂と久田の間に太い楔を打つことはできた。私にとってはこれで十分と思うしかあるまい」

「今後私は、どのようにすれば良いでしょうか」

 村田が指示を仰いだ。

「上人にはしばらくの間、静観して頂きます。目立った動きを止め、向こうに油断させましょう。その間に、一つ二つ森岡の足元を揺さ振ってやります」

 そう言った栄覚の眼は不気味な光を湛えていた。











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