第8話  第一巻 古都の変 凶刃 第一巻・了

 京都別格大本山法国寺の、貫主の座を巡る戦いの幕が切られてから、早や二ヶ月が過ぎようとしていた。

 この頃から、森岡の面には焦りの色が滲み始めていた。

 榊原壮太郎の抜け目の無い情報網と、伊能剛史の綿密な調査を以ってしても、京都大本山傳法寺貫主・大河内法悦(おおかわちほうえつ)への付け入る隙は見つからず、対応策は全く手付かずの状態だったのである。

 大河内はすこぶる品行方正で、大本山の貫主でありながら、質素な暮らしを旨としていたため、脛に傷一つ持っていなかった。森岡の忌み嫌う、世間に有りがちな生臭坊主とは異なり、酒は嗜む程度に控え、パチンコ、競馬などのギャンブルや株式、商品相場の類には目もくれなかった。ましてや、女色に溺れることなど、言語道断の所業とみなしていたのである。

 また、良き支援者に恵まれていたのか、霊園や駐車場経営といった生計を補うための事業ですら手を出すことがなかった。つまり、経済的に困窮するということがなかったのである。

 それどころか、仏道一筋に精進を積んで来ており、在野の僧侶にしては珍しく総本山の妙顕修行堂で三度、久田帝玄の天山修行堂で四度、合わせて七度の荒行を達成するといった、律儀な面も覗かせていた。

 言うなれば、本来あるべき僧侶の姿を具現化している人物だった。まさに森岡好みの僧侶であり、法国寺の件さえ絡まなければ、進んで交誼を結びたいほどの清廉な人柄だったのである。

 森岡は、憂さ晴らしにロンドへ行く機会が増していた。

「また今日も浮かないお顔ですね」

 茜は顔色を窺いながら、森岡の横に座った。

「……」

 森岡は無言のままだった。

「今日もだんまりですか? せっかく高いお金を出して遊びに来られても、これじゃあずいぶんと勿体無いことですね」

 顔を見せてくれるのは嬉しいのだが、碌に口も利かない森岡に、茜は堪らず嫌味を言った。商売人らしからぬ物言いだったが、それだけ森岡に想いを寄せているという証拠でもあった。

「上手く行ってないんや」

 森岡は、ポツリと愚痴を零した。

「上手く行ってらっしゃらないって、お仕事ですか」

「仕事のわけがないやろ。仕事が上手く行かんぐらいで俺が落ち込むかいな。先生の件や、先生の」

「そうでしたか。本妙寺でしたね、神村先生のお寺。それが上手く行っていないのですか」

「正確に言うと、その延長線の戦いというか、代理戦争というか、そういうものやけどな。まあ、神村先生の関わりには違いない」

「よくわかりませんけど、森岡さんがこうまで気を落とされているということは、余程のことなのでしょうね」

「ああ、そうやな。こないな窮地に追い込まれたのは生まれて初めてかもしれんな。しかも、自分の事やったら諦めも付くけど、先生の事となるとなあ……何とか道が開けんかなあ。ママにも助けて欲しいくらいやな」

 森岡はそう言うと、いきなり身体を横に傾け、茜の膝に頭を乗せた。およそ、これまでの紳士的な態度からは考えられない砕けた行いに、坂根や周りにいたホステスたちは、皆目を丸くした。

 茜自身も、

「まあっ!」

 と驚きの声を上げた。

 だが彼女は、なすがままにさせていた。他の客やホステスの視線もいっこうに気にならなかった。彼女は、何のてらいもなく膝に頭を置いている森岡を眺めているうち、沸々と心の奥底から湧き上がる愛おしさで、胸が満たされて行くのを覚えていた。

「なあ、ママ。いっそのことママの色気で、大河内を籠絡してくれへんか」

「はい、はい。森岡さんのお頼みでしたら、何でも致しましょうね」

 茜は、まるで幼子(おさなご)をあやす様に言った。

 その声の響きに釣られるように、森岡は横目でさりげなく彼女の顔を仰ぎ見た。

 卵型より少し角張った輪郭で、大きな黒目にやや太目の眉。鼻はすっきりとして小高く、腫れぼったい上下の唇が居座っている。目鼻立ちの整った非の打ち所の無い絶世の美女というのでないが、彼には楚々とした透明感と親しみの持てる愛嬌さが、それを補って余りがあるように思えた。

 そのとき、茜の目と目が合った。

「有難う、ママ。あほな話に付き合ってくれて」

 森岡はあわてて頭を上げ、両手で頬を二、三度叩きながら、

「よっしゃ、弱気の虫は叩き出した」

 と気合を入れ直した。

 この間、僅か一分にも満たなかったが、森岡と茜のお互いの心が触れ合った瞬間だった。

 茜は喜びを噛みしめていた。森岡が初めて気を許してくれたことで、二人の距離が一気に縮まった気がしていた。

 森岡の方は、というと自分自身に驚いていた。これまでに、彼が弱音を吐いたことのある相手は、他界した妻の奈津美だけだった。神村はもちろんのこと、部下に対してもあるまじき行為と厳に戒めていた。彼は奈津美を亡くしてから、ずっと気を張り詰めて生きて来ていた。独立して社会的責任が重くなってからは、その傾向がいっそう強くなっていた。

 森岡は、茜に惹かれ始めている自分にはっきりと気づいた。久しぶりに胸をときめかせてもいた。しかしそれは、彼をある葛藤へと導くことでもあった。

 

 森岡は坂根を伴い、再び松江に足を運んだ。高校時代の恩師に会うためである。

 大河内対策が膠着状態にある以上、森岡は他に手立てを見出すしかない。

 とはいえ、残る寺院は総本山の影響力が強い大真寺、法真寺、国真寺の三寺院である。とてものこと、調略が通じるとは思えなかったが、そうかといって手を拱いている余裕もなかった。

 森岡はこれから会う恩師に活路が見出せないか、と淡い期待を掛けての松江入りだった。

 恩師と言ったが、森岡との関係は実に妙なものだった。

 名を藤波芳隆(ふじなみよしたか)といい、漢文学の大家で、代々地元でも有名な由緒正しき古社の後継でもあった。漢文学の分野では、日本でも五指に数えられるほどの高名な学者で、長らく国営放送の教養番組で漢文講座を担当していた。

 もし、彼が神官職を継ぐ必要さえなければ、母校である帝都大学で教鞭を執っていたと思われるほどの俊才であった。

 森岡が通った高校は、県下一の名門進学校である松江高校だったが、特に国語はこの藤波の存在が大きく、古文、現代国語にも優秀な教師が揃い、当時全国屈指の教諭陣と称賛されていた。

 その証拠でもないが、あの毎年帝都大学進学率・全国一位を誇る兵庫・灘浜高校と、同大学合格者数全国一位の東京・開星高校の両校から、試験問題の作成を依頼されているほどであった。

 実は、藤波は森岡の一年次のクラス担任だった。しかも、森岡がそのクラスの学級委員長をしていたという因縁があった。

 妙な関係と言ったのは、森岡が藤波には苦労をさせられたからである。とにかく、藤波は担任の仕事を全くしなかったため、学級委員長の森岡に代役が押し付けられた。

 毎朝、朝礼の前に職員室へ出向き、連絡事項を聞いてクラスの皆に伝えた。終礼、ホームルームも同様だった。

 後日わかったことだが、担任の職は不適格とされ、藤波は長らくその職に就いていなかった。それが、よりによって森岡が学級委員長を務める年に限って、久々に復職したのである。

 本人は何をしているのかといえば、それが何時出向いても飲酒であった。授業以外の時間はほとんど酒浸りだったと思われた。机の引き出しの中には、ウイスキーのボトルが、ロッカーには日本酒の一升瓶が入っていて、常時アルコールの臭いを漂わせていた。

 彼は個室を与えられていたので、他の教職員に直接的な迷惑を掛けてはいなかったが、それでも尋常ではない振る舞いであった。

 おそらくアルコール依存症だったと思われたが、それでも解雇されなかったのであるから、藤波の学校に対する貢献は多大なものがあったのだと推察された。

 むろん、昭和五十年代前半の話であり、現在であれば、軽くて休職か停職、重ければ即時免職であろう。

 余計な苦労をさせられたのにも拘らず、森岡が藤波を恨みがましく思わなかったのは、ひとえに彼の授業のもの凄さであった。

 酔いが回っているとはいえ、一旦授業となればこれはもう別格で、特に漢詩などは中国語と日本語を交えながら朗々と詠んだ。目を瞑って声だけを聞いていると、いつの間にかその時代、その風景に迷い込んだかのような錯覚を覚えるほどで、森岡に言わせれば、藤波の授業はとてつもなく、

『値打ち』 

 があったのである。

 加えて、昼休みや放課後には藤波の個室で、酒のつまみを口にしながら雑談をするなど、一人だけ親しく接することができた。

 多感な思春期に、藤波のようなその分野の一流人と親密な関係性を体験学習したことが、有形無形に森岡の人生観に影響を与えていた。その下地があってこそ、三年後の神村との出会いが活きた、と森岡は確信していた。

 藤波は、日本最古の風土記である出雲風土記にも記述がある古社の後継だったこともあって、神道をはじめ日本仏教にも興味を抱き、研究に勤しんでいた。


 森岡は高校卒業以来、十七年ぶりに藤波の許を訪れた。

 彼はすでに教職を退官し、生家の神社を継いでいた。

「おい、森岡。お前、俺のお陰で卒業できたくせに、何の連絡も寄こさないとは、ずいぶんと不義理じゃないのか」

 藤波は森岡を見るなり、いきなり小言を言った。

 それもそのはずで、森岡にとって藤波はただの恩師というだけでなく、文字通り恩人の一人であった。

 森岡は高校三年のとき、ある理由があって以前から患っていた精神の病が悪化し、不登校が目立つようになった。そのままでは留年も有り得た状況を救ったのが、誰あろう藤波だったのである。

 日頃の懇親から気心を知る藤波は、森岡のその豹変に心を痛め、彼を救うために奔走した。校長と掛け合い、補習科教室を使用しての一人授業と、休日の補修授業を認めさせたばかりでなく、彼自身や同僚の教職員にも協力を仰ぎ、出席日数を満足させたのである。

 補習科教室とは浪人生用のクラスで、いわば予備校である。昭和五十年代の松江には、レベルの高い予備校がなかった。故に、学校側が補習科という名のクラスを編成し、浪人生の面倒を見たのである。これもまた古き良き時代の逸話であろう。

「先生のお怒りはごもっともです。これはほんのお詫びの印です」

 平身低頭で詫びた森岡は、一升瓶を四本差し出した。銘柄を見た藤波の頬が途端に緩んだ。

「おう。灘の生一本の『李白』ではないか」

「お好きだったと思いまして」

 藤波が、灘の生一本の中でも『詩仙』と謳われた李白の名を刻んだ銘酒を好んでいたことを森岡は憶えていた。

「灘浜の試験問題を作成しているときは、毎年送られて来たものだが、退官してからはさっぱりじゃ」

「そう思いまして、買い求めました」

「うん、うん」

 藤波はますます目尻を下げ、

「元気そうだの」

 と優しい言葉を掛けた。

「何とかやっております」

「華々しい活躍だと聞いているぞ」

「はい?」

 森岡は訝しげな目を向けた。

「斐川角から聞いておる」

「彼が話しましたか」

「あ奴はの、なんやかやと言っては、やって来る」

 口調とは裏腹に目が笑っていた。

「しかし、あのお前がのう……」

 藤波は首を傾げて唸った。

「信じられませんか」

「そりゃあ、そうだろう。あの頃のお前は腐った魚のような目をしていた」

「そうでした」

 森岡も肯いた。

「斐川角の話によると、最近は宗教の世界にまで首を突っ込んでいるらしいの」

「成り行き上、そうなりました」

「ほう。成り行き上で、大金を使うのかの」

「そのようなことまでご存知でしたか」

「お前がのう」

 と、もう一度呟いた藤波の目が坂根に向いた。藤波はまじまじと見つめた。

「おや、もしやお前は坂根好之ではないか」

「憶えていて下さいましたか」

 坂根の面に喜色の色が浮かんだ。

「そりゃあ、憶えておるわい。お前ら兄弟姉妹は揃いも揃って大秀才だったからの」

「恐れ入ります」

「森岡の下で働いておるのか」

「可愛がっていただいています」

 坂根が柔和な笑みを浮かべて言った。

「そうか。落ちこぼれと校史に名の残る大秀才か……妙な取り合わせだな」

 藤波は感慨深げに呟き、

「それで、今日の用件はなんじゃ」

 と顔を森岡に戻した。

「先生に厚かましいお願いがあってやって参りました」

「十七年ぶりに突然連絡があったのだ、そんなことはわかっておる。さっさと用件を言ってみろ」

 ぶっきらぼうな言い様だが、親身さが窺えた。

「静岡にある大真寺、法真寺、国真寺について、先生が何かご存知ではないかとやって参りました」

「天真宗の大本山だの」

「はい」

「俺が宗教学にも興味を持っていたことを憶えていたか」

 と感心した藤波の眼つきが鋭くなった。

「どのようなことが知りたいのだ」

「過去に何か不祥事でもなかったでしょうか」

「不祥事のう。それがお前の役に立つのか」

「わかりませんが、役に立てば、と思っています」

「うーん」

 藤波は眉間に皺を寄せて記憶を呼び起こそうとした。そして、

「国真寺だがの、何年か前に教え子が妙なことを言っておったな」

「妙なこととは?」

 森岡の目に力が籠もった。

「歴史の時系列がどのこうのと不満を零しておった」

「その話、もう少し詳しくお願いします」

 森岡は期待の滲んだ声を上げた。


 その教え子というのは、森岡の松江高校の十年後輩で、天真宗寺院の後継者の身だという。そのため、大学で宗教学を学び、暇を見つけては天真宗を中心に全国の寺院を訪ね歩いていた。

 あるとき、教え子は総本山真興寺を参拝した後、近隣の大本山にも立ち寄った。

 その折、国真寺の執事長が、

「当寺院のご本尊は、宗祖栄真大聖人手ずから彫られた釈迦立像である」

 と説明したのだという。

 そこで、教え子は、

「いつ栄真大聖人が彫られたものですか」

 と訊ねた。

 すると執事長は、

「京都巡教に出られた折、立ち寄って彫られたもの」

 と答えたので、

「何回目の京都巡教ですか」

 教え子は重ねて訊ねた。

「するとな。第二回目の京都巡教の折だと答えたそうだ」

 藤波はにやりと不適な笑みを浮かべた。だが、森岡にはその意味がわからない。

「学説上な、栄真が釈迦像を彫刻したのは第三回京都巡教の折、というのが通説なのだ」

「なるほど。しかし、執事長の単純な勘違いではないのでしょうか」

「そこだ。教え子もの、そのあたりを忖度して、是非その御本尊を拝観させて欲しいと願うとな、執事長は断固として拒否したということだ」

「では、単なる思い違いではないということですね」

 うむ、と藤波は頷く。

「そう思った教え子はな、史実を説いたそうだが、執事長は顔を真っ赤にして主張を曲げなかったそうだ」

「そのくせ、御本尊は参拝させなかった」

「普段は厨子の中に仕舞ってあるが、絶対に拝観禁止というのでもないらしい。教え子も特別拝観料を払うとまで言ったらしいが……」

 藤波は首を横に振った。

「何か臭いますね」

「国真寺はの、大本山とはいえ近隣の大真寺、法真寺に比べると歴史が浅いせいか、栄真大聖人の御真骨は無く、御真筆も少ない。そのあたりかの……後はお前の仕事だな」

 藤波が因果を含めた。

「先生、それはいつの話ですか」

「確か四、五年ほど前だったのう」

「四、五年前……」

 森岡は失礼します、と言って携帯を手にし、榊原壮太郎の番号を打った。四、五年前ということは、その執事長が貫主に就いている可能性が高いのだ。

 はたして森岡の推量どおり、この四、五年前の執事長というのは現貫主の作野俊堂(しゅんどう)であった。二年前に就任したと榊原が断言した。

「先生、有難うございました」

 森岡は深々と頭を下げた。

「その様子では、役に立ちそうだの」

「少なからず」

 森岡は藤波の目を見据えて答えた。

「じゃあ礼として、今後俺が死ぬまで、この李白を毎月五本奉納しろ。今のお前にとっちゃあ、それくらい安いものだろう」

 藤波は命令口調とは裏腹に、柔らかな表情で催促した。

「承知しました。五本といわず、十本献納致します」

 森岡は畏まって答えた。


 数日後の、この年初めての寒波が襲来し、十一月の下旬にしては底冷えのする寒い夜であった。朝からの初雪は止んだものの、その分厳しい冷えが地を這うように広がっていた。

 ロンドで骨休みをした後、坂根が運転する車で、自宅である箕面(みのお)市の高台に立つ高級マンションに帰宅したのは、二十三時を少し回った頃合だった。彼にすれば早い帰宅である。

 森岡は一度結婚し、死別していた。

 この高級マンションは、奈津美との結婚を決意した際に購入したものである。広さが百五十平米もある、いわゆるペントハウスを七千万円で購入した。東京で始まったバブルの波が、いずれ大阪にも押し寄せるだろうと予見し、大学の四回生ではあったが、先んじて手を打ったのである。

 奈津美が他界し、一人住まいとなった森岡には広過ぎたが、彼はここを離れる気はなかった。当初は、亡妻との想い出に執着したためだったが、現在は生活環境の良さから離れ難くなっていた。

 その夜、マンションに帰宅した森岡を、忽然として凶刃が襲った。

 日頃、接待のときは坂根も飲酒をする。森岡が酔い潰れないことを知っていたし、護衛として南目輝が帯同することもあるからである。

 しかし、プライベートのときは、稀に酔ってしまうことがあったので、坂根は自分まで飲酒すれば、火急のとき諸事が立ち行かなくなると危惧し、飲酒しなかった。

 彼らしい律儀さだったが、それがこの夜は災いした。タクシー、あるいは運転代行で帰宅していれば、災難は防げたやもしれなかった。

 森岡の住むマンションは、敷地のどん突きに建っていたため、通り抜けができなかった。したがって坂根は、森岡を玄関で降ろすと、西側にある駐車場でUターンしてから、自宅へ戻っていた。

 その夜も玄関先で森岡を降ろし、マンションの西側にある駐車場で方向転換した。そして、前方を確認したときである。玄関方面から、あたふたと走り去る男の背を目にした坂根は、不吉な予感に駆られた。

 はたして、急いで玄関に戻った彼の目に、腹部を押さえて悶絶する森岡の姿が飛び込んだ。地面を大量の血がアメーバのように這っていた。

「社長! 社長!」

 坂根は転ぶように車から降りると、大声を上げながら森岡を抱き起こした。

 森岡が僅かに目を開けた。

「お、大声を出すな。まず、救急車を呼べ」

 気丈な声であったが、すでに虫の息だった。

 我に返った坂根は、落ち着いて一一九番通報した。それを確認した森岡が奇妙なことを口にした。

「犯人を追うな。そ、それより、背広の内ポケットから財布を取り出し、さ、札を抜いてそこいらへんに投げろ」

「えっ?」

「は、早ようせい」

 坂根は、疑念を抱きながらも、言われたとおりにした。

「右ポケットにマンションの鍵がある。それを取り出せ」

「これですか」

 坂根が森岡に見せた。

「書斎の机の引き出しに、お前に宛てた遺言書が入れてある。後を頼む……」  

 坂根は当惑したが、森岡の縋るような眼に肯いた。

 森岡もほっとしたように肯き返すと、思わぬことを口にした。

「ええか、坂根。こ、これは警察沙汰になる。お前も事情聴取されることになる。そのとき、お、お前は何も見ていないことにしろ」

「えっ? 私は建築労働者風の中年男性の後ろ姿を見ました」

 坂根がそう言うと、森岡は今にも意識が消え失せようとする中で、最後の力を搾り出すように、

「俺がどうなっても……そ、それを誰にも言うな。ええか……誰にも言うな。そ、それが俺の罪滅ぼし……」

 と言い掛けて、意識を失った。

「社長!」

 坂根の絶叫が箕面の山々に虚しく響き渡った。

 森岡は悪夢にうなされ続けていた。振り払っても、振り払っても、ある少年の顔がちらつき、彼を悔恨と懺悔の海に突き落とした。

「コーちゃん、堪忍。コーちゃん、許してごしない……」

 森岡は両手を合わせて哀願するが、少年は無表情のまま、氷のように冷たく、錐のように鋭い視線で彼を見つめているだけであった。


「うるせえな」

 と、森岡は言ったつもりだが、声にはなっていない。

 森岡はようやく悪夢から覚めていた。といっても、意識が戻ったのではなく、相変わらずの昏睡状態の中、悪夢から開放されただけであった。

 ここは大阪吹田市にある『北摂高度救命救急センター』のICU(集中治療室)内である。

 坂根の一一九番通報により、五分余りで現場に急行した救急車は、迷わずこの北摂高度救命救急センターに直行した。この病院は、北摂随一の規模と設備を誇る、救命救急の中心的役割を担っていた。

 坂根は消防に通報した後、救急車が到着するまでの間に、野島に連絡を入れてウイニットの幹部社員への連絡を依頼すると、南目にも急報した。

 ほどなく、救急車が到着した。

――それにしても……。

 救急車に同乗した坂根の面には困惑の色が浮かんでいた。

――後を頼む、とはどういう意味だ。本気で野島専務の後を、とお考えだったのか。

 坂根は初めて榊原と面会した帰途での、森岡の言葉を思い出していた。

 いやいや、と坂根は頭を振った。

――そんなことより、社長が最後に言い残した『罪滅ぼし』とは、いったいどういう意味だろうか。犯人目撃、いや社長は犯人の見当が付いていて、敢えて隠匿したいのかもしれない。

 森岡に対する疑念が、真夏の快晴の天空を瞬時に覆い尽くす積乱雲のように増幅して行った。

 北摂高度救命救急センターに搬送された森岡は、直ちに緊急手術を受けた。刺し傷は一ヶ所であったが、凶刃は腸を酷く傷付けており、出血が尋常ではなかった。

 森岡の緊急手術の最中、南目が真っ先に駆け付け、次いで野島と住倉、少し遅れて筧、三宅、桑原、船越、荒牧が順に到着した。皆一応に蒼白で、言葉も出ない状態である。

 手術室前には、坂根と野島の二人が残り、手術が終了しだい、ロビー控える皆に連絡する手はずにした。

何があったんや。坂根」

 皆が立ち去った後、野島は搾り出すように訊いた。

「それが……それが」

 目を逸らした坂根は煮え切らない返事をした。

「それが、何や?」

「私は、何も見ていないのです」

 坂根は森岡の言い付けを守った。

「嘘やろ。俺に嘘は通用せんで」

 野島は坂根を睨んだ。睨んではいたが、糾弾している様子はなく、坂根には『心苦を共有しよう』と労わっているように思えた。

「社長には、きつく言付けられたのですが」

「わかっとる。俺は何も聞かなかったことにする」

 坂根は、森岡のマンションでの出来事を克明に話した。

「専務。私は、早晩警察の事情聴取を受けることになります。どうしましょうか」

「もちろん、それは黙っていろ。社長の意識が戻られてから、あらためて指示を仰げばええ。もしものことが……」

 と言い掛けて、野島は目頭を押さえた。

――社長。私はまだ、あの時の御恩を返していません。

 野島は心の中で呻いた。

「専務、大丈夫ですか」

 坂根も涙声になっていた。

「なんでもない。万が一、社長にもしものことがあったら、そのとき警察に話したらええ」

 野島は、震える声でそう言った。

 それから、長い沈黙が続いた。

 深閑とした手術室前の廊下には、二人の胸の鼓動だけが咽ぶように音立てていた。

 瞑目する坂根の脳裡に、森岡との追憶が駆け巡った。

 

 坂根好之の生家は、森岡の生家がある浜浦から五キロ西の「諸角(もろずみ)」という、人口が浜浦の五分の一ほどの小さな村であった。

 当然、諸角も漁村である。

 諸角は小さくはあったが、この村には県下にその名を轟かせる名物があった。

 坂根四兄弟である。

 詳細は、長女・真子(しんこ)、長男・秀樹、次女・佳夜(かや)、そして末弟・好之の二男二女の兄弟であったが、何しろこの四名とも、小学校から高校に至るまで、学力成績が常に一番という秀才兄弟なのである。

 小、中学校はともかく、彼らが、また森岡が進学した高校は、山陰随一の歴史と伝統を誇る名門進学校と謳われ、島根県下全域から学力優秀な者が集まる松江高校であったから、驚きの一言であろう。

 真子は帝都大学医学部から同大学病院で小児科医、秀樹は同法学部から島根県庁勤務、佳夜は同文学部から同フランス文学の講師になっている。秀樹が帝都大学・法学部卒ながら、島根県庁に入庁したのは、長男であったため、親元に残る決心をしたからである。

 ただ一人、好之だけが森岡と同じ大阪の浪速大学に進学したのだった。好之の松江高校時代の成績は常にトップであったから、帝都大学への進学には問題がなかった。ところが、兄弟の進言や担任の助言にも、彼は頑として耳を貸さず、帝都大学への進学を拒否した。

 そこには彼なりの理由があった。

 それは、兄秀樹が大学時代に住んでいた東京のアパートへ遊びに行ったときであった。好之は東京に足を一歩踏み入れた途端、

――俺は、ここには住めない。

 と思った。

 理由など何もない。ただ五感がそう訴えているのだ。無機質な空気感が生理的に合わないのである。

 はたして滞在した三日間、好之は嫌悪と拒絶の思いが増幅するばかりだったので、予定を変更して早々に帰郷した。

 京都の京洛大学への進学を考えていた好之に、秀樹は帝都大学でないならば大阪の浪速大学はどうだと薦めた。弟を森岡の後輩にしておこうと考えたのである。

 結局、好之は秀樹の進言に従い、浪速大学へ進学し、卒業後は大手広告代理店・電報堂に就職した。むろん、勤務地は大阪支社である。ここでも好之は東京勤務を拒否した。

 森岡が東京ではなく大阪で起業したことからも、二人は運命に導かれていたのかもしれなかった。

 

 今では尊敬も心酔もする坂根好之だが、森岡と初めて出会ったときの印象は最悪であった。

 それまでの好之は、まだ見ぬ森岡にある種の敬意を払っていた。憧れていた、と言っても過言ではない。

 それというのも、兄秀樹がある言葉を口にしていたからである。

 それは好之が七歳、秀樹が十四歳のときだった。ある夜の夕食時、秀樹の成績が話題になった。秀樹は中学入学以来、あらゆる試験で、成績トップの座を他の者に譲らなかったのだが、

 母から、

「一番のライバルは誰?」

 と聞かれたとき、彼は迷う事なく森岡の名を挙げた。

 家族には、初めて耳にした名であった。それもそのはずで、森岡は試験で十番以内にすら一度も入っていなかったため、成績上位者を聞かれた際には、決して挙がることのない名だったのである。

 怪訝な表情を浮かべる家族を前に、秀樹はきっぱりと言い切った。

「僕は、毎日最低三時間は勉強しているけど、洋介は一分足りも勉強などしていないと思う。もし彼が僕と同じ時間だけ勉強したら、彼には敵わないかもしれない」

 好之は七歳ながら、そのときの不安と嫉妬と憧憬の入り混じった、秀樹の何とも言えぬ複雑な表情を脳裡に焼き付けた。

「森岡洋介……どのような男なのだろう。敬慕する兄秀樹にあのような敗北感を漂わせる男」

 好之は、心の中で大きくなって行く森岡の存在を意識せずにはおれなくなった。

 一年後、森岡は秀樹の予感を実証した。

 高校受験を前にして、学校側はこれまでの、中間、期末、実力の各試験以外に、抜き打ち試験を実施した。数学のみであったが、難問だらけであった。

 さもあろう。この試験は、常に帝都大学進学率・全国一位を誇る、灘浜高校の受験問題だったのである。

 はたして、受験者数・百二十二名の平均点は僅か十八点、受験者の三分の一に当たる三十八名が零点という散々な結果になった。一番の秀才である坂根秀樹も四十三点に終わる中、一人だけ抜きん出て、八十六点の最高得点を挙げた者がいた。

 それが森岡洋介であった。

 全校生徒が驚く中で、担任の岩崎だけは、この結果を当然だと受け止めていた。

 後年、岩崎を囲んだ同窓会の席で、彼は一同にこう言った。

「入学して初めての中間テストの後、私は森岡君を職員室に呼び付け、きつく叱責した。というのも、彼の成績が十四番だったからだ。私は、当然彼が一番になると予想していた。なぜなら、森岡君は入学直後に実施された「知能テスト」で、実に「一四八」という抜きん出た数字を叩き出した高知能の持ち主だったからだ。私は、彼が十四番に終わったのは、自宅で全く勉強をしていないからだと推量した。そこで、生活態度を改めるよう諭したのである。しかし、その後も全く成績が上がらないので、匙を投げていたのだ。ところが、あの灘浜の数学テストで、森岡君の実力が証明され、私のわだかまりも多少は解けた」

 坂根秀樹は大きく肯いた。岩崎の言葉で、中学時代に抱いた森岡に対する直感に得心がいったのである。

 ちなみに、森岡のような男を一種の「天才」と呼ぶのかもしれない。この、難問の数学テストであるが、教科書にも参考書にも載っていない応用問題ばかりであった。これまでのように方程式などの数式を暗記し、多少応用すれば解けるという類の問題ではなかった。

 森岡はそのような問題を逆説的に解いたのだ、と説明した。

 つまり、出題者の身になって、出題の意図を推理し、先に然るべき解答値を予想する。そこから、その値が導かれるための、設問の数値を埋めて行き、あらためて演算し直し、解答値に辿り着くのである。

 現在の、彼の洞察力や相手の心理を見抜く力は、生まれ持った素養が神村の薫陶によって、さらに磨きが掛かったものかもしれない。

 

 さて、坂根好之が初めて見た森岡は、泥酔で苦悶している姿であった。

 その日、松江高校の受験に合格した男女十名を中心に、翌日の学校報告に向けてささやかな祝宴を開いた。

 その場所が坂根家であった。

 坂根家が選ばれたのは幾つかの理由があった。

 第一は、中学校は諸角から徒歩で二十分の場所に在ったことである。

 第二の理由は、坂根家には一種の離れというべき別棟があったからである。

 冬場の漁ができない間、この近辺の漁師は「若布(わかめ)」の養殖で生計を立てるのだが、坂根家にも浜にその作業場所があり、建物の二階は畳敷きであった。それが誠に都合が良かった。

 ささやかといっても、現在では考えられないほど寛容な時代であるし、漁師の村でもあったことから、アルコールも用意された。男共は、夕方から酒を酌み交わし、そのまま宿泊する腹積もりだった。

 この小規模同窓会の噂は、他の同級生の間にも広がり、参加者は倍以上の二十三名になった。坂根家の別棟は六畳間が三間あったので、窮屈ながらも全員が入れたのであるが、五本用意したウイスキーは、いっこうに量が減らなかった。

 宴を始めて間もなく、一人抜け二人抜けして、一時間後には森岡と坂根秀樹の他三名の、合わせて五名しか残っていなかったからである。

 数年後、坂根秀樹から聞いた話によると、部屋を出て行った者たちは恋人同士であり、同窓会を口実に、親の目を盗み、逢引していたというのだ。中には、他家の作業場の二階を利用して、性行為に及んだ者たちもいたのだという。恋愛に関して奥手の森岡は、口をあんぐりとしたものである。

 ともかく、せっかく買い求めた酒である。残しても仕方がないと思い、森岡は一人で飲みだした。彼が洋酒を口にしたのはこのときが初めてだったが、意外と口当たりが良いことに調子に乗って飲んでしまい、すぐに酔い潰れてしまった。

 そこまではありふれたことだったかもしれないが、夜になって塗炭の苦しみが森岡を襲った。胃の腑が引っ繰り返ったような痛みと共に、強烈な吐き気に見舞われた。秀樹が用意したバケツに、胃の中の物を全て吐き出した森岡だったが、吐き気はいっこうに治まらず、黄色い胃液を吐き続けた。消化のために分泌される胃液までもが吐き気の要因になったのである。

 そのうちに悪寒が襲ってきた。三月とはいえ、まだ肌寒くはあったが、森岡は電気炬燵に下半身を入れ、上半身には毛布二枚と、冬用の掛け布団を掛けていた。それでも、悪寒は治まらなかった。身体の内部の冷えだからである。

 軽い急性アルコール中毒の状態だったと思われたが、救急車を呼ぶわけにはいかなかった。動揺した秀樹や他の友人が一一九番通報しようとしたが、森岡はそれを強く拒んだ。

『みっともない』

 ただ、その一念からである。命の危険に晒されていながら……もっとも本人はそのよう畏怖は抱いていなかったが……森岡は自身と灘屋の体面を重んじたのだった。

 そのような森岡を一睡もせず看病したのが、秀樹の姉の真子であった。三歳年上の真子は、秀樹の内密の相談を受け、看病を請け負った。容態が芳しくなくなれば、躊躇せず救急車を呼ぶ、という条件付きであった。

 森岡は半島小町と謳われたほどの美貌の持ち主・真子を初めて見た。これまでに、何度も秀樹の家を訪れていたが、期待に反して真子と顔を合わせたことは一度もなかった。

 まさか、このような形で憧れの真子と対面するとは、と忸怩たる思いの森岡であったが、彼女の前でも、容赦なく吐き気は襲ってきた。何たる醜態に、羞恥心は極限まで達し、自分の身体でありながら、どうにもならない無力感に森岡は絶望した。

 ただ、覗き込むように様子を伺っている真子と目が合ったときの、彼女の微笑だけが森岡の救いであった。朦朧とする意識の中で、まるで女神を見たような心地だった。

 あれが初恋だったのだろう、と森岡は時折振り返ってそう思う。

 さて、もう一人森岡の醜態を目の当たりに者がいた。小学校二年生だった好之である。

 親友でもあり兄秀樹が唯一、一目置く男がどのような男であるか一目見たいと別棟にやって来たのだった。

 森岡の醜態に、好之の憧憬は軽蔑に変わった。

――こんなつまらない男を兄は恐れていたのか。

 これが、坂根好之の森岡に対する第一印象だった。

 好之の悪印象が再び好転したのは、三年前、森岡が十数年振りに、坂根家に秀樹を訪ねたときであった。

 そのとき、秀樹は病床に臥していた。一時的な疾病によるものではなく、生涯その身を床に委ねるやもしれぬという深刻な状態だった。

 森岡が訪れる二年前、坂根秀樹は脳内出血で倒れた。入浴中、激しい頭痛に見舞われた秀樹は、ただ事ではないと直感し、すぐさま妻を呼んで不調を訴え、救急車を呼ぶよう依頼した。

 妻へ異変を知らせてまもなく、秀樹は意識を無くした。迅速な対応のお陰で一命は取り留めたが、脳を損傷した後遺症で、半身の機能を失ったのである。

 同窓会の折、秀樹が出席していないことから、初めて事実を知った森岡は、その見舞いのため坂根家を訪れた。そのとき、たまたま連休を利用して帰郷していた好之と初めて出会ったのである。もっとも、初対面と思っているのは森岡の方だけで、好之にとっては二度目であった。

 好之は森岡の貫禄に驚愕した。

 十七年前の印象があまりに酷かったため、とも思ったが、それにしても強烈な存在感に圧倒された。眼元には精気が宿り、全身には気力が漲っている。穏やかな口調ながら、言葉の端々は自信に満ち溢れていた。

 広告代理店という仕事柄、しばしば企業の幹部とも意見交換をしたり、飲食を共にしたりしていたが、森岡ほどの貫禄を纏っている人物は少なかった。

 聞けば、起業して僅か二年、三十二歳と言う若さで百名近くの社員を抱えているという。あまつさえ、数年の内に上場を計画しているというではないか。あらためて、さすがに兄秀樹が認めた男だ、と感じ入った。

 森岡も好之に好感を持った。特に世間の風潮に流されることなく、己の信念を通すところが気に入った。

 二人は、何かの話の折に出た「忌東京」に同感し合い、急速に親密度を深めて行った。


 東の空が白み始めた頃、ようやく「手術中」の赤いランプが消えた。坂根は、場所を移して住倉に電話をした。その間に扉が開き、執刀医が出て来た。

 野島は執刀医に歩み寄り、

「社長は?」

 と不安な声で訊いた。

「手術は成功しましたが、何分傷が深く、合併症など予断を許しません。二、三日がヤマでしょう。それを乗り越えれば、まず大丈夫だと思います」

 執刀医は無表情に言ったが、却って野島にはそれが誠実に映った。

「有難うございました」

 野島は深々と頭を下げた。

 野島は執刀医の見解を、駆け付けて来た皆に説明した。

 そして、

「社長が心配やろうが、ここは坂根に任せて、会社に戻って仕事をしよう」

 と力強い声で言った。

「しかし……」

 釈然としない二、三の声にも、野島は毅然として、

「俺らがここに居ても、社長はお喜びにはならない。むしろ、叱責されると思う。今俺らができることは、しっかり仕事して会社を守ることやと思わんか」

 と説得した。

 森岡にとって不幸中の幸いだったのは、この受難が冬だったことである。オーバーコートこそ身に付けてはいなかったが、厚手のスーツの下にベストを着込んでいた。その分だけ、刃の侵入を食い止めたのである。これが夏場であったら、命は無かっただろう、というのが去り際に執刀医が付け加えた言葉だった。

 

 帰宅したはずの南目が、再び病院に姿を現したのは三十分後であった。彼は、一旦車のハンドルを握ったものの、坂根の様子が気に掛かり舞い戻ったのである。

「好之。お前、兄貴が刺された相手を知っちょうだろ」

 南目は鎌を掛けた。その目は、さすがに百五十名を束ねた元暴走族の頭のものである。

「知りません」

 いきなりの問いに、坂根の面が強張った。

「嘘を言うだにゃあ。お前の嘘はすぐわかあがな」

 一転、南目の目が笑った。

「なあ、好之。おらは、兄貴を恩人だと思うちょる。その兄貴をこがいな目に遭わせ奴は許せんだが」

「しかし、知らないものは知りません」

「兄貴は、お前のことも義弟じゃと思っちょうことは知ちょうな」

「はい」

 坂根は小さく肯いた。

「そげすると、おらたちは三兄弟ということにはならんか」

「うっ」

「お前。兄貴があがな目に遭って腹が立たんか」

「立つわな!」

 坂根は思わず言葉を荒立てた。

「すみません。もちろん立ちます。社長があのような目に遭われたのは、私のせいですから」

 坂根は、森岡を護れなかったわだかまりをぶつけるように言った。

「それはええ。それはもうええけん、本当のことを教えてごしぇ」

 南目は、一転して懇願した。

 坂根はしばらく沈思していたが、

「私は後姿しか見ていませんが、社長は犯人の見当が付いておられるようです」

 と告白した。

「なんて? 兄貴は犯人がわかっちょうってか!」

 南目の声が病院内に響いた。

「輝さん、声が大きいですよ」

「お、すまん。だいでが、そいは本当か」

「私はそう確信しています」

 坂根は、あの夜の一部始終を南目に話した。

「兄貴は、なんでそいを警察には黙っちょれと言っただか?」

「あくまでも私の勘に過ぎませんが、社長は犯人に何かの負い目があるのだと思います」

「負い目? 何の負い目だ」

「そこまではわかりませんが、社長の過去に関係があるような気がします」

「過去って、子供の頃か?」

「ずいぶんと昔に、兄から聞いたたことがあるのですが、社長が小学生の頃、何かがあったということです。私は、犯人はその事と関係があるのではないかと疑っています。ですから、社長は黙っておられるのだと……」

「うーん」

「輝さん。社長を想う気持ちはわかりますが、無茶なことをしないで下さい。何となく、深い因縁が有るような気がします。勝手なことをすると、却って社長を苦しめることになり兼ねませんよ」

「だいてがなあ。兄貴が死ぬかもしれんのだけんな、このままでは腹の虫が治まらんがな」

「そういっても、どうすることもできないでしょう」

「……」

「くれぐれも、自重して下さい」

 無言の南目に、坂根はそう言って釘を刺した。

 

 南目輝が森岡を実兄のように慕う理由は、神村の経王寺で半年間寝食を共にしたからではない。

 むろん、経王寺での半年間は、輝の人生を変えるほどの有意義な時間ではあった。もし、経王寺に森岡がいなければ、彼が更正したかどうかは疑わしい。

 多忙な日々を過ごす神村は、懇切丁寧に人生を説いたりはしないし、たとえ説いたとしても、輝の心を動かしたとは思えなかった。彼は、自力で神村の教えを悟った森岡とは違うからだ。

 森岡は、神村の教えを噛み砕いて輝に伝えた。正確に言えば、言葉ではなく態度で示した。輝は神村の教えを、森岡というフィルターを通して理解した。これは、次元は違うが、釈迦の教えを「経典」という方便を使って世に広めたことと同様である。

 森岡の背を見て過ごした輝は、しだいに自分の将来に光を見出すようなり、つれて森岡に感謝の念を抱くようにもなった。

 だが、南目輝が森岡を兄と慕うようになった理由は他にあった。

 輝が経王寺に寄宿して二ヶ月が経った頃である。彼の実家から、父が倒れたとの急報が入った。心臓疾患で緊急入院したのである。輝の父が、輝を神村の許へと懇願したのは、病を自覚した彼が輝の行く末を案じたからであった。

 手術が必要だったが、一つ大きな問題があった。南目の父の血液型が、一万人に一人しかいないという特殊なものだったのである。入院先の病院には、十分なストックが無かった。そこで、血液センターをはじめ、関係各病院にも問い合わせを行ったが、予定量には達しなかった。

 この事情を聞いた森岡は、すぐさま浪速大学・学生部の部長に掛け合い、学内に協力を求める活動の支援を要請した。

 学生部長は快諾した。この春、大学は森岡から最新のパソコン五十台の寄贈を受けていたからである。一九八五年当時は、ようやく企業にパソコンが普及し始めた頃で、高価な代物だった。

 現在でこそ、コンピューターの性能はソフトウェアの品質に掛かっているが、当時のソフトウェアはハードウェアの「おまけ」的な位置付けであった。

 ともかく四回生だった森岡は、この頃すでに十五億円の資産を手中にしており、菱芝電気から市場より安価で購入し、母校へ寄贈したのだった。

 森岡の呼び掛けに応じ、浪速大学の学生だけでなく、あらゆるチャンネルを通じて他大学にも協力を求めるなど、支援の輪は急速に広がって行った。その甲斐あって、どうにか輸血量を確保することができたのである。

 輝は目に涙を浮かべて感謝した。非行に奔ったものの、父親を憎んでの所業ではなかったのである。

 以来、二人は兄弟付合いをして行くことになった。森岡が会社勤めをしている間、輝は猛勉強して大学検定試験に合格し、関西の名門私立大学に進学した。

 卒業後、一旦故郷である鳥取県の米子に戻り、実家の手伝いをしていたが、いよいよ森岡が独立すると知って、彼の許に馳せ参じたのである。

 

 その日の夕方になって、茜が病院に駆け付けた。

 驚く坂根に、

「野島専務さんから、連絡がありました」

 と、茜は言った。

 野島は、森岡の意識が戻ったとき、看護する者が必要だと考えた。完全看護とはいえ、身近な者の世話があった方が良いに決まっている。

 そうなると、男の坂根ではいかにも心許無い。だが、野島は森岡に決まった女性がいると承知していないし、家族が居ないことも知っていた。

 熟考を重ねた野島は、以前坂根から聞いたロンドでの森岡の茜に対する言動を思い出し、彼女に好意を抱いているのではないかと推察した。

 むろん、仮にそうだとしても森岡の片想いとも考えられ、茜には迷惑な依頼かもしれなかったが、ともかく連絡だけはしてみた。想いを寄せる茜が傍に居れば、森岡の気力も増すかもしれないとの期待も含んでのことだった。

 すると、野島が依頼をする前に、茜は自ら看護を申し出たのである。

「もしや、彼女も社長のことを? そうであれば、なおさら都合が良い。茜は親身になって看護してくれるであろう」

 野島は、

――社長は間違いなく復活する。

 と胸が弾む思いになっていた。

 悲壮な顔をした茜は、完全防備の装いでICU内に入ると、意識の戻らない森岡の横で誰憚ることなく「わんわん」と声を上げて泣き続けた。

 その声が、森岡の耳にうるさく届いていた。

 それが声にならない、

「うるせえなあ」

 ということなのである。

 森岡は意識こそなかったが、周囲の声は全て聞こえていた。医者と看護師の会話も、点滴の交換や、モニターのチャックをした折の看護師の独り言も全て耳に入っていた。

 それらの内容から、自身の命運は、

『この二日がヤマ』

 ということもわかっていたのである。


 森岡は、それから丸二日、意識不明のまま死線を彷徨った。

 そして、三日目の夕方だった。

 森岡は外を眺めていた。

 夕焼けが窓から入り込んで、ソファーに横たわっている茜の顔を神々しく照らしていた。

 森岡の意識が回復したというのではない。夢を見ているのである。いや、森岡には夢なのか幻覚なのか判別できなかったが、自身の意識が回復したのではないということだけはわかっていた。

 凶刃に遭ったとき、薄れゆく意識の中で、森岡は身体の痛みが強くなる分だけ、心の痛みは和ぐような気がした。そして、このままであればどれだけ楽だろうかとさえ思っていた。

 だが、こうして茜の美しい寝顔を見ていると、

――このまま死んでも良いかな。

 という気持ちが薄らいでゆくのを感じていた。

 そのときである。

 窓の向こうに側に、ぬうーっと人影のような像が映り込んだ。病室は五階なので、当然生身の人間ではない。だが、奇怪な心霊現象にも森岡は動じなかった。

 もちろん、目の前の事象が現実ではないとわかっていたこともあったが、しだいに形づけられてゆく人の面影に見覚えがあったからである。まさしく、この世のものではない美しい女性だった。

 その女性が、すっーと窓を突き抜けて中に入って来た。

「やはり貴女はあのときの……」

 森岡は懐かしげに言った。

「憶えていますか」

「命の恩人を忘れるはずがありません」

「確か、貴方が八歳と十二歳でしたね」

「十二歳といいますと、やはりあの時も貴女でしたか」

 はい、と女性は肯いた。

「あのときは自ら身を海に投げ出されましたが、此度は災難に遭ったようですね」

 森岡は十二歳のとき、我が身を憂い入水自殺を図っていた。

「不徳の致すところで」

 森岡は決まりの悪そうな表情をした。

「不徳ですか……。それで、此度はどうされます」

「はっ?」

「助けてもらいたいですか」

「とおっしゃるということは、やはり私は死ぬのですね」

「さあ、それは」

 女性は明言を避けた。

「過去の二度も此度も、本来は死すところを貴女様のお力で生きながらえてしまえば、私と関わりを持つ多くの人々の運命を変えてしまうのではないでしょうか」

「貴方が、そのようなことを斟酌しなくてもよろしい」

 女性は咎めるように言った。

「も、申し訳ありません」

 森岡が怯むように詫びると、一転女性は慈愛の笑みを浮かべた。

「此度はもうお一方が救いの手を差し伸べておられますが、その方と私の手出しも含めて貴方の宿命なのですよ」

――他にも?

 と一瞬訝った森岡だが、すぐにある老婆の姿を脳裡に浮かべた。その老婆というのは、森岡が中学三年生のとき、株式投資の手ほどきをした人物だった。

 鳥取県米子市と島根県松江市の間の小さな村に住んでいたが、両県に跨って数多くの相談者を抱えていた霊能力者だった。

 精神に病を抱えていた森岡は、神村に師事するまでの間、その老婆の相談者の一人だったのである。

 今は、老婆の元を離れているが、彼女の霊能力からすれば、自身の災禍を知っていてもおかしくはない、と森岡は思ったのである。

 それにしても……、と森岡の脳裡は別の想いに入れ替わった。

 眼前の女性の、まるで母が幼子を諭すような口調が、二十三年前の記憶を蘇らせたのである。

――そういえば、笠井の磯で抱き竦められたときも、母のような温もりを感じたが、今またこの女性に母の匂いを感じるのはなぜだろうか。

 不思議な気持ちに駆らながら、森岡はふと窓の外を眺めた。

 夕焼けがオレンジ色から薄黒く変わっていた。

 そのとき、森岡の耳に茜の小さな寝息が届いた。

 その瞬間、

「助けて頂けますか」

 と、森岡は小さく頭を下げた。

「良いでしょう」

 女性は深く顎を引くと、

「両手を合わせ、お題目を唱えなさい」

 と告げた。

「その前に、貴女様のご尊名をお教え下さい」

「それも、いずれわかるときが来ます。それより、今はただ瞑目して一心にお題目を唱えなさい」

 女性は再度命じた。 

 森岡は言われるがままに目を閉じた。


 それからどれくらい時間が経ったであろうか、森岡は意識を取り戻した。

 枕元では、茜が顔を伏せ、しくしくと泣いていた。

 握っていた森岡の指が、弱々しく握り返したのを感じて、茜は彼の意識が戻ったのに気づいた。目を輝かせて覗き込んだ茜に、森岡はかすかに微笑んだ。その刹那、茜の目から再び大粒の涙が零れ出した。

 茜から森岡の生還を知らされたウイニットの幹部社員が、ほっと胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。中でも坂根好之は、自身が森岡の警護役も担っていただけに、彼の安堵は如何ばかりであったか、想像に難くなかった。

 意識を取り戻した森岡は、さっそくその坂根を呼び、あの夜以降の成り行きを確かめた。

「坂根。先生には連絡しとらんやろうな」

 森岡が厳しい顔つきで問うた。

「もちろんです」

 坂根はきっぱりと答えた。 

『俺の身に何が起こっても、神村先生には知らせるな。俺の事で、先生のお心を煩わしてはならない』

 と、常々森岡に厳しく言い付けられていたのである。

 一転、森岡は柔和な顔になった。

「それと、遺言書は見たか」

「いいえ。社長の生死が不明でしたので、手元には置いておきましたが、内容は読んでいません」

 坂根は、背広の内ポケットから封書を取り出し、森岡に返却した。

 森岡が昏睡状態にあったとき、坂根は森岡のマンションに入り、机の引き出しの中にあった遺言書を預かっていた。

 森岡は封書を受け取ると、

「見ていないのか」

 森岡は複雑な表情をした。密封していなかったので、実際のところはわからなかったが、坂根の言葉を信じることにした。

「見た方が良かったのですか」

「いや」

 と言って、森岡は坂根を見据えた。

「俺が再婚するまでに、もしものことがあったら、この遺言書をお前が管理し、皆に公表してくれ」

「私が、ですか」

「公表するときは、弁護士の先生に同席してもらうことで話は付けてある」

 森岡は頭を下げた。

 坂根は戸惑いの表情を浮かべながらも、はいと返事をした。

 一方、外傷の状況から、事件性を疑った病院側は警察に通報した。だが、唯一事件現場にいた坂根は、犯人と思しき姿を目撃していないと証言したため、捜査は暗礁に乗り上げてしまい、残る期待は森岡の意識回復ということになっていた。

 さらに二日後、ICUから個室に移った森岡を、大阪府警捜査一課の刑事二人が事情聴取のために訪れた。

 森岡は短い供述をした。

 

 車から降りて、玄関の入り口にあるセキュリティーシステムの前に立ち止まったとき、背後に人の気配を感じたので、振り向くと、いきなりナイフのような物で腹部を刺された。犯人はマスクをしており、顔がわからないので確かではないが、二十代の男性と思われる。瞬時のことなので、これも確信はないが、身長は自分と同じ、百八十センチメートルぐらいだったと思う。

 恨みを買うような心当たりはなく、男は蹲る私の内ポケットに手を差し入れたような気がしたことから、金銭目的の犯行ではないかと付け加えた。


 捜査員による現場検証の結果、奪い取られた財布は、マンション前の側溝の中から発見されていたが、森岡本人と坂根の指紋しか検出されず、犯人は手袋をしていた可能性が高いと判断された。

 尚、坂根の指紋については、森岡が普段から坂根に財布ごと渡し、現金精算をさせていた旨の証言をしたため、捜査員の疑念を生むことはなかった。

 以上から、強盗傷害事件として本格的な捜査が開始されたが、何分目ぼしい手掛かりが掴めなかったことから、捜査は難航を極めると予想された。

 この事件に対してマスコミの注目度は低かった。

 同日の夕刻、大阪市内で麻薬中毒者が人質を取って立て籠もるという凶悪事件が発生していたからである。為に、テレビ報道はローカルニュースの、しかも一局のみ、新聞報道も地方新聞に数行の記述しかなかったことから、神村や谷川兄弟の目に留まることはなかった。

 森岡はこれ幸いと、上場に絡む急な長期海外出張ということにして、その間の金銭的決済は野島が代行するよう指示した。

 

 その日の深夜、野島真一は一人で大阪吹田市の南西部に位置する「江坂」のバー「欧瑠笛(オルフェ)」に顔を出した。森岡の容態も安定し、ようやく酒を飲む気分になったのである。

 江坂は大阪梅田から見て北方、ウイニットの本社がある新大阪からは地下鉄で二駅北にあった。

 野島が一人で飲酒するのはこの店だけだった。彼にとっては唯一気の置ける場所なのである。

 バーの経営者である重谷憲弘(おもやのりひろ)は小学校の後輩であり、また過去に彼の危難を救った経緯もあって親しくなった。

 二人は、重谷がバーテンダーとして働いていた北新地のショットバーで出会った。森岡に連れて来られたのである。このとき、重谷が母校の後輩だとわかり、野島は接待の後で度々顔を出すようになった。

 このとき重谷は、自分の店を持つという夢があったのだが、焦りからとんでもない契約をしてしまった。

 大阪ミナミのショットバーを又借りしたのである。

 又借りとは他人が借りた店を借りる、二重借りのことである。賃貸主に対する保証金など、開業資金に乏しい重谷にとっては苦肉の策だったのだが、その際売上額に拘わらず、毎月一定額の金額を分配するという二年契約をしてしまった。

 しかし、いかに北新地に匹敵する繁華街であるミナミとはいえ、いやむしろ競争の激しいミナミであるがゆえに、変哲のない店が繁盛するのは至難の業であった。

 重谷は深夜三時まで営業したが、客足は伸びず、売上はままならなかった。開店してから三ヶ月目には、早くも分配金が焦げ付き始め、熾烈な取立てに遭うこととなった。又貸ししていたのは暴力団関係者だったのである。

 困り果てた重谷は、藁をも掴む思いで野島に助けを求めた。野島がウイニットの専務になっている、と記憶していたのである。

 事実、ウイニットを立ち上げたばかりの時期にも拘わらず、野島の年収は一千八百万円あった。二十九歳にしては相当な高額である。

 野島は重谷を助けることにし、残り契約期間の一括清算という先方の要求を丸呑みした。弁護士を仲介させれば減額も可能とは思ったが、下手な交渉をして後腐れを残してもつまらない、と思い直した。

 清算金は五百万円余だった。

 重谷はその後の二年間、土木工事などに従事し、五百万円を貯めて野島の前に現れたのだが、野島はそのうちの三百万円を受け取り、残りの二百万円を欧瑠笛の開業資金としてあらためて貸し付けたのだった。

 欧瑠笛はカウンター席が八席だけの小さな店で、しかもバブル崩壊後の地価暴落もあって、テナント料は格安の物件だった。過去の失敗を糧にした堅実経営で、細々ではあったが、仕事終わりのホステスなどが集う人気店になりつつあった。

 この夜、二時前になると客足が途絶えていた。

「どうや。ちょっと早いけど、店を閉めてどこかで一杯やらんか」

 野島が河岸を変える誘いを掛けたが、

「せっかくの誘いですが、二時に女の子が来るんですわ」

 と、重谷は丁重に断った。

「女? お前のこれか」

 野島はからかうように小指を立てた。

「いや、違いますよ」

 重谷は、とんでもないという顔つきで否定した。

「まあ、ええわ。お前もそういう特典でもなきゃあ、やってられんわな。じゃあ、俺は退散するとしよう」

 野島は取り合わなかった。いかに堅物の野島でも、重谷のような仕事をしていれば、女性客と懇ろになることぐらいは知っていた。

「本当に違いますよ。あっ、そうだ。真一さんにも居てもらった方が良いかも……」

 重谷は、そう言って野島を引き止め、

「実は、その女の子っていうのは、北新地の「檸檬(れもん)」というクラブでホステスをしているのですが、えらい目に遭うたんですわ」

 と深刻な表情で話を始めた。

 そのホステスは源氏名を「真弓」と言った。

 年齢は二十八歳、檸檬で働き始めて五年の古株だという。一ヶ月ほど前、ぶらりとやって来て、その後しばしば顔を出すようになったのだが、一週間前彼女が客の支払いが滞っている窮状を重谷に打ち明けた。

 通常、ホステスはヘルプと口座持ちとにわかれる。

 ヘルプが給料制のホステスを指すのに対し、口座持ちとは売上が自身の歩合給に直結する制度を利用しているホステスのことをいう。高級店のナンバーワンホステスともなれば、月収が五百万円を超えることも珍しくない。

 だがその一方で、客の支払いはホステスの責任とされるので、支払いが滞った場合はホステス自身が肩代わりしなければならない。ハイ・リターンだが、客を見る目が無ければリスクを伴うシステムである。

 真弓はその罠に嵌まってしまったというのだ。

 半年前、彼女の口座である客に連れられて、不動産会社を経営する「猪瀬」という男が店にやって来た。離婚経験のある三十八歳の男性だった。

 通例として、ホステスが断らなければ、口座の客が紹介した客は、自動的にそのホステスの口座客に組み込まれる。連れて来た客は信用の置ける人物だったので、真弓は盲目的に猪瀬も信用してしまった。

 猪瀬は毎月三十万円ほど使い、月末請求すると、翌月早々には振り込んでくれていた。ところが、先々月の飲み代が一気に三百万円に跳ね上がった。しかも、支払いを一ヶ月待って欲しいと言ってきた。

 大阪市内の二百坪の土地の売買契約に掛かりっきりなっており、まもなく決着が付くということだった。売買代金は六億円、仲介手数料はで三パーセントの一千八百万円ということだった。

 盲目的とは言ったが、そこは口座を持つホステスである。真弓は、猪瀬の身辺調査はそれなりに行っており、北新地の目の前に建つ、梅田第三ビルの中にある彼の事務所も確認していた。むろん、それだけで信用したわけではなかった。実は、真弓と猪瀬は男女の関係になっていたのである。

 真弓はなけなしの預金を下ろし、肩代わりをした。ところが、翌月も四百万円ほど飲食したのだが、その支払いも踏み倒したまま、姿を暗ましたのである。真弓はその四百万円の支払いも肩代わりしなければならず、その期日は三日後に迫っていた。

「良くある話なんですよね」

 重谷は溜息交じりに言った。商売柄、金額の多寡は別としても、この類の話は掃いて捨てるほどあるのだという。

「その真弓というホステスには、他にも口座の客がいるんやろう」

「ええ」

「その中に金持ちがいるやろ」

「何人かに相談したようですが」

 重谷は渋い顔になった。

「身体が条件なんやな」

「そういうことらしいです」

「しかし、こんなことを言うのは語弊があるかもしれないが、上客に身体を許すのはよくあることやないんか」

「まあ、それは女の子によります。簡単に身体を許すのもいますが、真弓ちゃんは真面目な子でして」

「気持ちがないと、そう簡単に踏み切れんということか」

 野島が労わるように言ったとき、ドアが開き華奢な身体つきの女性が入って来た。真弓と思われるその女性は、二十八歳にしては幼い顔をしていた。

 一瞬目と目が合った野島は、すぐさま視線を逸らそうとした。

 ところが、

「野島さん? 菱芝電気の野島さんでしょう」

 女性から声が掛かった。

「えっ?」

 驚いた野島は視線を戻した。

「真弓ちゃん、野島さんを知っているの」

 重谷も呆気に取られた声で訊いた。

「やはり、菱芝の野島さんなのね」

 真弓の語調が懐かしげなものに変わった。

「現在は違うが、たしかに菱芝電気にいたことがあるけど……」

「私です。ルーベンスにいた『里奈』です」

「里奈? 里奈……」

 しばらく首を傾げた野島が、

「ああ、あの里奈ちゃん?」

 と、ようやく記憶の一片に辿り着いた。

 ルーベンスは、北新地の北東に隣接する「兎我野(とがの)町」というエリアにあるラウンジバーだった。

 菱芝電気時代、部長の柳下が利用していた店で、柳下とは月に一度程度だったが、野島を筆頭に住倉や中鉢など、森岡プロジェクトのメンバーが常連となった店であった。

「八年前になるかな」

「そうです。私は二十歳でした。今はおばちゃんになってしまいましたが」

「いや、あの頃は本当に幼い感じだったけど、ずいぶん綺麗になったね」

「そんな」

 真弓は年甲斐もなくはにかんで見せた。

「ひさしぶりの再会なのに、早々で悪いけど、僕はそろそろ失礼するよ」

 深刻な話の邪魔になるだろうと、野島は席を立とうとした。

「ちょっと待って下さい。本当に彼女とは何でもないんです」

 重谷は慌てて野島を引き留めると、

「真弓ちゃん、前に僕の恩人の話をしただろう。その方がこの野島さんなんだ」

「そうなの」

 真弓は、まるで飼い主を求める子犬のような目で野島を見つめた。

「真弓ちゃん。例の件、野島さんに相談してみたらどうかな」

 重谷は、野島に向けて軽く首肯した。

――そういうことか。

 野島は重谷の意図を理解した。

「でも……」

 真弓は躊躇っていた。

「金策は駄目だったんだろう」

「ええ」

 真弓は力なく肯いた。

「だったら、最後の手段だと思うよ。今夜、野島さんの来店があったのは、神様のお導きだと思わないかい」

「だけど、野島さんには迷惑な話だろうし……」

 今にも泣き出しそうな真弓に、実直な野島は絆されてしまった。

「いくらなの」

「……」

「良いから、言ってみな」

 重谷が背を押した。

「三百五十万円です」

「三百五十か……。ええよ、貸してあげる」

 野島は気前良く言った。森岡が一命を取り留めたことに高揚していたこともあるが、真弓が全くの初対面ではないことも影響していた。

「まさか」

 真弓は半信半疑で野島を見つめた。

「その代わり、借用書は書いてもらうし、住民票ももらうよ」

「それはもちろんです」

「じゃあ、契約成立だな。返済方法は、月に十万円。三年間で総額三百六十万円ということでええかな」

「利息がたった十万円で良いのですか」

「利息なんて要らないけど、切りがええからな」

「有難うございます。それで、その、あの……」

 真弓の表情に不安の色が浮かんでいた。彼女の懸念を察した野島は、

「心配せんでええよ。付き合ってくれ、なんて言わんから」

 とさわやかな笑顔で真弓の不安を払拭した。

「良かったなあ、真弓ちゃん。野島さんは真面目な良い人やから、心配せんでええよ。その代わり、毎月きっちり返済するんやで」

 重谷も安堵したように言った。

「わかっています」

「ところで、真弓ちゃんは檸檬という店で働いているんやってな」

「はい」

「どんな店かな」

「どんな店、と言いますと」

 ははは……、と野島は苦笑いした。

「セット料金はいくらかな」

「あっ、三万円です」

「三万か。それなら、俺も週一ぐらいで使わせてもらおうかな」

「私の口座になって下さるのですか」

「口座は懲り懲りかな」

「いいえ、野島さんなら大歓迎です」

「こうなったからには、俺も真弓ちゃんの売上に協力せんとな」

「嬉しいです。でも、大丈夫なのですか」

 真弓は心配顔をした。菱芝電気を辞めたと聞いたが、所詮はサラリーマンであろう。ならば、この不景気な昨今、とても接待費を使えるような年齢ではない。

「う、うん」

「野島さんはな、ウイニットというIT企業の専務さんやねん。せやから年収も凄いけど、ウイニットはもうすぐ上場する予定やから、株主でもある野島さんの資産は数億円になるんやで」

 と歯切れの悪い野島に代わって、重谷がまるで自身のことのように自慢した。

「ウイニット? もしかして、社長さんは森岡さんっていう人かしら」

「そうだけど、真弓ちゃん知っているの? 社長はルーベンスには行っていないはずだけど」

「ええ。森岡さんは、店には来られていないと思います。柳下部長さんも『あいつは奥さん一筋だから、得意先の接待以外は付き合いが悪い』とおっしゃっていました」

 菱芝電気の接待は、北新地かミナミが相場である。柳下は部下との懇親にルーベンスを使っていたが、森岡は全て断っていた。表向きは家庭を理由にしていたが、真実は柳下と個人的な親交を深めたくなかったからである。彼は、いずれ菱芝電気から独立しようと考えていた。情が移って決心が鈍ることを避けたのである。

「じゃあ、どうして?」

「だって、北新地でウイニットの森岡さんの名前を知らない人はいないですよ」

 そう言った真弓の意味深い笑みに、野島もようやく思い当たった。

「ああ、あの豪遊か」

「でも、本当に良いんですか」

 真弓は、もう一度確認した。

「八年ぶりに再会したのも、何かの導きだと思うから、断るわけにはいかないよ」

 と、野島は笑った。

 このときの野島は、貸した金は返って来ないものと覚悟していた。借用書を交わしても、住民票を取っても、真弓が姿を隠せば督促のしようがないのである。

 思い起こせば、八年前の彼女は水商売の世界に入ったばかりで、まだ純粋さが残っていた。それから八年の歳月が経ち、今やどっぷりと夜の世界に浸かっている彼女を丸ごと信用などできるはずもなかった。

 それでも野島は金を貸すことにした。それは森岡の影響を受けたからともいえた。森岡の傍らで、言い尽くされた「金は天下の回り物」を地で行くような言動をつぶさに見ていた野島は、齷齪と金に執着する虚しさを肌で感じていたのである。

 現在の野島の年収は三千万円。森岡と同様、贅沢には興味がなかった。しかも独身である。彼にとって三百五十万円は、真弓にくれてやったとしても惜しい額ではなった。とはいえ、全く無関心というのもどうかと思い、時折彼女が勤める檸檬に顔を出そうと考えたのだった。

 

 森岡が入院してから二週間が経った。

 彼は驚異的な回復を見せ、すでに退院に向けてのリハビリ治療の段階に進んでいた。

 そのようなある日の夕方のことである。この日は朝から大雨だった。

 転寝をしていた森岡は、再びあの悪夢にうなされていた。

「コーちゃん、ごめん。コーちゃん……」

 森岡は、うわ言を繰り返ながら、のた打ち回るようにしている。このままでは傷に障ると思い、茜は森岡の名を呼んで起こした。

 寝巻きは汗でびっしょりだった。

「どうしたの? 今日で三回目よ」

 茜は身体を拭きながら、労わるように言った。彼女は、毎日看護をしにやって来ていた。普段、森岡は起きていることが多かったが、稀に昼寝をしていることがあった。茜は、その度にうなされている森岡を見ていたが、知らぬ振りをしていた。

 だが、今日のそれは比べようもなく酷かったため、堪らず声を掛けて目覚めさせたのである。

 そのとき、稲光と同時に、

『ドーン』という爆音が轟いた。病院の傍に落雷があったのだ。森岡は両手で頭を抱えながら、上半身を丸めた。

 茜は森岡の頭を胸に抱いた。小刻みに震える身体を通して、茜は洋介の畏怖を感じ取った。

「何が貴方を苦しめているの。お腹から吐き出して楽になるのなら、私に話して。決して誰にも話さないから」

 茜は、優しく背を撫でながら言った。

 しばらく逡巡していた森岡が、意を決したようにその重い口を開いた。

「俺は人殺しやねん」

「えっ!」

 茜は、一瞬言葉が飲み込めなかった。

「今、何て言ったの」

「俺は人を殺しているんや」

 森岡は顔を歪めて呻いた。


 それは、森岡が小学校二年生の夏の日のことであった。

 その日、幼馴染で同級生の石飛浩二(いしとびこうじ)と海釣りに出掛けた。二人して海釣りに出掛けることは良くあることだった。

 村は三方を山で囲まれ、唯一東側に広がる浜浦湾は、北が数百メートル、南は半島の岬まで数キロに渡り、小高い丘がいくつも連なって迫り出しており、湾自体が東に向いた天然の良港であった。

 北側の陸地の延長線上には、沖に向かって小さな島々が点在していて、それが適度な岩礁を作り、魚介類の宝庫となっていた。当然のことながら、村の半数以上の家が漁業に関わって生活をしていた。

 当時は、湾内外を問わず、至るところで海釣りができた。それこそ、家を出て数十メートルも歩けば海岸に着いた。竹にビニールの糸を括りつけ、穴の開いたパチンコ大の鉛を通して、針を結び付ける。餌は水に溶かした小麦粉を捏ねたもので十分であった。

 湾内の海中は透明度が高く、海底まで見通せたので、魚の当たりに合わせるといった高度な技術は必要なく、餌に食い付いたところを引き上げさえすれば良かった。

 カサゴやべラはもちろんのこと、鯵(あじ)、鯖(さば)、鯔(ぼら)、イサキなど、季節ごとに湾内を回遊する魚が入れ替わり、ときには鮎魚女(あいなめ)や石鯛、チヌ(黒鯛のこと)といった高級魚も釣れることがあった。

 その日、二人が出掛けた磯は「笠井(かさい)」といって、村の北側の丘を越えて、さらに一キロほど西へ行ったところにあった。小高い丘を越え、険しい山道を歩かねばならず、子供二人で行くには難所であったが、浩二が兄からメバルの穴場と聞き及んだため、冒険心も手伝い、思い切った行動に出たのだった。

「灘屋の総領さん、どこに行かれますかいの?」

 丘を登って行く途中、方々から声が掛かる。この界隈は平地が少なく、緩やかな丘の斜面を開墾し畑としていた。人々が、手入れ中の手を止めて声を掛けるのだ。

 灘屋というのは、森岡洋介の生家の屋号である。

 浜浦は漁村であることから「灘屋」、「浜屋」、「磯屋」、「恵比寿屋」といった、海を連想させる屋号が多い。

 洋介の生家灘屋は「両持ち」漁師であった。この近辺の漁村の漁師は「船持ち」、「網持ち」、「てご」に分かれており、船持ちとは船を、網持ちとは網を所有している家を指し、てごとは雇われ漁師を指していた。

 両持ちとは、船と網の両方を所有している家のことで、浜浦では僅か八軒しかなかった。特に灘屋は別格も別格で、まず定置網漁では、単独で船六隻と鯛網、鯵網、鰯網というように魚の種類毎に所有し、底引き網漁では、やや大型の船七隻と鰤や鮪といった大型魚の網を所有する会社を共同で経営していたことから、特別に「分限者」と呼ばれていた。

 石飛浩二の父定治(さだはる)は、灘屋の定置網漁のてご漁師であり、その関係から洋介と浩二は、物心が付く頃から実の兄弟のように育っていた。

 二人は「静と動」、「白と黒」のように対照的であった。無口で内向的な洋介に比べ、浩二は陽気で快活な少年であり、洋介が学力優秀であったのに対し、浩二は運動が得意だった。

 釣りに関していえば、浩二の方が断然技量に優れていた。一人っ子の洋介に対し、兄から仕掛けの知識や、合わせの技術を教えてもらえる浩二の方が上手いのは当然であったろう。むろん、穴場の情報量においても、浩二には遠く及ばなかった。

 したがって釣果において、洋介は浩二の後塵を拝することしきりであった。釣りから戻ると、いつも周囲の関心は大漁の浩二に注がれ、洋介は卑屈な目でその様子を眺めているしかなかった。

 我が家に戻って、釣った魚を家族に手渡しても、

「またコーちゃんの御裾分けかい」

 と当たり前のように訊かれた。それもまた、洋介の小さな胸を傷付けた。

 にも拘わらず、浩二と一緒に海釣りに出掛ける理由が、洋介自身にもわからなかった。海釣りに行く度に、己がプライドを襤褸雑巾のように引き裂かれ、失意と嫉妬に塗れる自身に嫌悪を抱きながら、それでも洋介は浩二の誘いを断らなかった。

 その日も、やはり浩二の独壇場だった。

 僅か一時間の間に、彼は形の良い「メバル」を八匹と、大振りの「ボッカ(関東ではカサゴ、関西ではガシラ)」を五匹釣り上げていたが、洋介は小さめのボッカを二匹と(べラ)を三匹の釣果しかなかった。

 洋介が釣果とした雑魚のべラを、浩二は躊躇いもなく放流していた。それもまた、何気に洋介の自尊心を切り裂いた。

 

 二時間ぐらい経ったであろうか。ふと気づくと、空模様が怪しくなっていた。

 夏空は突然に変貌する。

 山陰の日本海側は特にそうで、天候の変化が速く、快晴の青空に、突如雲が湧き出でて、夕立となるのは日常茶飯事である。

 浜浦界隈では、この現象を俗に「のぼせ雨」といった。「のぼせる」とは、瞬間湯沸かし器のように、一気に頭に血が上ることを指すが、反面平静になるのも早い。ただ、浜浦の気象は通り雨で終わることは少なく、一旦降り出すと大雨が長引いた。

 漁師の子である二人はそれを十分に承知していたはずであったが、夢中のあまり気づくのが遅かった。

 帰り支度をしている間に、雨粒が落ちてきた。雲の湧き立ちから、時間を置かず豪雨になることが想像できた。

「急いで、帰えらい」

 そう言って、洋介が先を歩いた。

 浩二が教えてもらった穴場は、山道から海伝いに幾つもの小さな岩場を越えたところにあった。洋介が山道の入り口までの、最後の岩場の頂上に差し掛かったときだった。

「うわあー」

 恐怖に慄いた洋介の上半身が反り返った。

「ドーン!」

 という落雷の轟音が耳を劈いたと思うと、岩場の頂上でとぐろを巻いた巨大な青大将が、その鎌首を擡げて洋介を睨んだのである。ペロペロと舐めまわすような赤い舌が好戦的だ。

 洋介は、その迫力に身動きができない。

 次の瞬間だった。

「ぎゃあー」

 という絶叫が山間にこだました。

 洋介が振り返ると、浩二が岩場から海に落ちていた。そういえば、洋介には思わず身体を反らしたとき、背がすぐ後ろにいた浩二の頭にぶつかった感触があった。その反動で、浩二は足を滑らせたに違いなかった。

「コーちゃん、今助けえけん」

 そう言って、洋介が救いの手を差し伸べようと、波打ち際に下りようとしたとき、思わぬ声が掛かった。

「お止めなさい」

 驚いて振り向くと、背中越しに女性が覗き込むようにして立っていた。洋介に、何時の間に、などという疑問を挟む余地がないほど自然体であった。

 この世のものとは思えないほど美しい女性だった。子供心に女神か天女のように思えたほどだった。なによりも両肩を抱き竦められた洋介は、その女性に肉親のような温かみを感じていた。むろん母ではなかったが、なぜか母に抱かれているような錯覚を覚えていた。

 そのとき、もう一度まるで神の怒りのような落雷があった。

 正気に戻った洋介が浩二を助けようと顔を戻したとき、突然高波が浩二を襲い、洋介の眼前から、あっという間にその身体を沖に奪い去ったのである。

「あっ!」

 洋介は小さな声をあげ、呆然と沖に流される浩二の姿を見つめるしかなかった。金槌の彼には、どうすることもできなかったのである。

 彼が再び振り返ったときには、すでに女性の姿は跡形もなく消えていた。

 その後のことを洋介はよく憶えていない。本能的に記憶を消し去ろうとしたのであろうか。

 その所業を咎めるかのように轟く雷鳴から逃れようと、洋介は両耳を塞いだまま、

――コーちゃんは死んだのか? おらが、コーちゃんを死なせてしまったのか。

 ただ、この一念を抱きながら、必死で山野を走った。

 村へと入る丘を下って、すぐのところにある浩二の家の門前に立ったとき、洋介はそれまでの混乱が嘘のように、冷静になっていた。

 そして、彼の母に偽りの報告をした。

 村中が騒然となった。

 それもそのはずで、この島根半島の自然豊かな村は、何年かに一度、漁師が怪我をするぐらいで、殺人や強盗、放火といった重犯罪はもちろんのこと、万引きなどの軽犯罪、いや交通事故すら起こらない、平和で長閑な村なのである。それが、子供が磯釣りをしていて波に攫われたなど、驚天動地の大事件だったのである。

 漁師らは各々船を出し、海上の捜索に当たるのと同時に、村長は隣村の漁師たちにも出船を要請した。地理的に、笠井は浜浦より隣村の方が断然近かったからである。駐在所の警官は、松江市にある県警本部に連絡を入れ、本部から海上保安庁の捜索要請がなされた。

 しかし、その日は悪天候だったため、捜索は早々に打ち切られた。沈痛な空気に覆われた夜をやり過ごし、翌朝日の出と共に捜索が再開されてほどなく、磯から五十メートル離れた海底に、天然の若布に包まった浩二の遺体が発見された。   

 洋介は、警察官の事情聴取に対して……、といっても成人のような厳しいものではなかったが、

『コーちゃんは青大将に驚き、雨に濡れた岩に足を滑らせて海に落ちた。助けようとしたが、あっというまに沖に流されてしまった』

 と、浩二の母に吐いた嘘を繰り返した。

 洋介は恐ろしかった。この世の終わりのように怖かった。自身が受ける刑事的、社会的な罰に対する不安もさることながら、祖父や父の体面を傷つけるということが恐ろしかったのである。

 自分が青大将に驚いたために、浩二は死んでしまったのだ。その罪悪感は、洋介の小さな心を簡単に押し潰し、永遠に消えないと思えるほど、細胞の隅々にまでこびり付いた。

 一方で、美しい女性のことは固く秘匿した。謎めいた話などをして、気が触れたと思われれば、供述そのものの信憑性を疑われるからである。

 客観的状況から、洋介の証言は疑う余地もないと判断された。それどころか、事故現場を確認した捜査官から、

『坊や、良く助かったな。あの足場からして、無理に助けようとしていたら、坊やも助かっていなかったぞ』

 と頭を撫でられた。

 その言葉で、洋介は初めて、あの美しい女性は浩二を助ける邪魔をしたのではなく、自分を救ってくれたのだと感謝した。

 然して、この一件は単純な事故として処理された。

 だが、一人だけ洋介の証言に疑念を抱いた者がいた。浩二の五歳年上の兄将夫(まさお)である。将夫は、日頃山野で蛇を見つけても、マムシ以外であれば手掴みして玩具代わりにするほど肝の太い弟が、青大将などに驚くはずがないと疑念を抱いていたのである。

 将夫は、洋介を呼び出し厳しく詰問した。洋介は青ざめながらも、硬く口を閉ざして沈黙を守った。

――誰も知らないはずの自分の嘘を、見抜いている者がいた。早晩、世間の知るところとなるかもしれない。

 再び恐怖の底に叩き落された洋介は、何とかせねばという焦りからそのことを祖父に告げ口した。子供心に、洋吾郎の威光を期待したのである。

 はたして、祖父の洋吾郎は烈火の如く憤慨し、石飛家に怒鳴り込んだ。

 浩二の父定治は平身低頭で詫びた。孫に責任はなかったものの、同行していたという道義的観点から、洋吾郎は弔慰金として百万円を手渡していたのである。当時の百万円という額は、水揚高による歩合金を度外視すれば、てご漁師の半年分の収入に相当していた。

 だが、その後も将夫の詰問は執拗を極めた。父の説得にも応じず、洋介を付回した。可愛い弟を失った真の原因を知りたいという将夫の気持ちはわからなくなかったが、中学生とはいえ、もう少し村の権力構造を意識するべきであった。

 怒りの極限に達した洋吾郎は、ついに定治をてご漁師から外してしまった。

 このことは、石飛家の死活問題であることを意味していた。

 浜浦きっての権勢家であり、村の重役をも務める灘屋からてご漁師の職を解かれたことは、浜浦では仕事が無いのと同じ意味だったからである。灘屋に睨まれてまで、自分の船の「てご」として引き受ける者などいるはずもなかった。

 といって、自ら船を所有することも無意味であった。実際、海に出て漁をするためには、漁協から漁業権を購入しなければならないのだが、漁協の理事長も務める洋吾郎が認めるはずがないからである。

 このような実態は、浜浦ほどではないにしろ、近隣の村々でも同様と考えられた。灘屋の威光は、それほどまでにこの界隈に行き渡っていたのである。

 進退窮まった石飛家は、ついに故郷の浜浦を捨て、縁者を頼って福岡に移った。

 その後の石飛家の消息は、洋介の耳に一切入ってはいない。


「俺が、コーちゃんを殺したようなものや」

 森岡は憔悴し切っていた。

 茜は、ただ黙って森岡の身体を抱きしめた。不可抗力などと慰めても、気休めにしかならないと悟った彼女は、身体の温もりで凍り付いている森岡の心を少しでも溶かそうとした。

――この人は、ずっと心に十字架を背負って生きて来たのだ。神村先生に一身を捧げているのも、普段の真摯な生活態度も、全て浩二少年に対する贖罪なのだ。

 茜は森岡の苦悩に想いを馳せ、切なさで胸が熱くなるのを必死で押さえた。

 だが、森岡が『俺は人殺しだ』と言った言葉の意味は他にあった。

 彼はもう一つ、より重大な真実を秘匿していたのだが、むろん茜がそのことに気づくはずもなかった。




第二巻 黒幕の影 あらすじ


巨大仏教宗派『天真宗』の覇権を巡る争いは、ますます混迷の度を深めていた。ITベンチャー企業『ウイニット』社長・森岡洋介は、一度は凶刃に倒れたもの死地から生還し、次なる手段を講じていた。しかし、思いもよらない裏切りが森岡を襲う。裏切り者は誰か? 過去と現在が交錯し、さまざまな人々の思惑が駆け巡る。森岡は、どう決断するのか? 新たな手は何か? そして、森岡の宿願の第一歩が叶う日が来る……?   

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