第7話  第一巻 古都の変 布石

 十日と経たずして、榊原壮太郎から澄福寺貫主・芦名泰山の調査を終えたとの連絡が入った。

 さすがはナショナル・モーターの日本代理店を経営していた頃より、名うての営業マンだけのことはあった。世間と一線を画し、容易には心を許さない宗教の世界にあって、五千を超える寺院との取引を勝ち得た実績は伊達ではないということだろう。

 榊原は、誠実な人柄と巧みな話術で相手の懐に飛び込み、信用を得る事に長けていた。もちろん、そういった彼の人徳だけでなく、現実の取引に目を向ければ、全国の多くの寺院にとって榊原商店が製造販売する檜などの製品に希少価値があった。

 彼は奈良の吉野、岡山の新見、大分の日田など、全国七ヶ所に約八十万坪にも及ぶ広大な山林を所有し、そのほぼ全域で檜と欅を植林していた。

 主たる用途は建築用資材であったが、その廃材を利用して、最高級の卒塔婆、御札、護摩木等の木製品を製造していたのである。

 しかも彼は、神仏のご加護に対する報恩という奇特な考えで商売をしていたため、他社より廉価でそれらを販売しており、各寺院にとっては願ってもない納入業者となっていたのである。

 東京目黒の大本山澄福寺には、過去に一度門前払いをされた経緯があったが、護寺院の一つである澄山寺との取引に成功し、今も関係が続いていた。

 護寺院とは、本山の宗務を補佐する寺院のことである。かつて、本山・末寺の制度があった頃の本山は大変に栄えており、参拝客も多く、仏法の年中行事は盛大に執り行われていた。必然的に本山の人手だけでは事足りず、それを補佐する寺院が、周囲に三ヶ寺から五ヶ寺ほど建立された。それが護寺院である。

 本山・末寺の制度が廃止されてから、本山は目に見えて衰退の一途を辿り、つれて独立色を強める護寺院も多くなった。以来、大本山・本山と護寺院の関係の深浅は、四十八ヶ寺でまちまちになって行ったのだが、それでも全体を見れば、多くの寺院が深い部分で繋がっていた。

 榊原は、その澄山寺の住職から情報を得たのである。

「さすがに早いなあ」

「早いのが必ずしも良いとは限らんがのう」

 森岡の感心を他所に、榊原はやんわりと牽制した。彼のこのような物言いは、事が不調に終わったときと森岡は承知していた。

「あんまり芳しくないのやな」

「それが、何とも言えんのや」

 榊原は渋い顔つきで言った。

「というのもな、芦名貫主は長いこと立国大学の教授を務めていたことでもわかるように、生粋の学者肌で、栄達にも金にも欲が無いということやねん。せやから、藤井兄弟や御前様とも親密な交わりがなく、二人からは等距離で、政治的には全くの中立ということらしいのや。しかし、それでいて澄福寺という格式高い大本山の貫主になったんやから、余程の人物ということになるな」

 立国大学とは宗門の大学である。

「中立かあ、それは困ったな」

「でも、向こうの支持ではなかったのですから、最悪のケースは免れたのではないでしょうか」

 顔を顰めた森岡に、坂根が差し出口を挟んだ。

「お前はそう思うか」

 森岡は鋭い視線を向けた。

「劣勢の俺等にとって、堅物の芦名貫主が中立というのは、敵に等しいと思わにゃならんのやないか」

「はあ?」

 坂根は、気の抜けた返事しかできなかった。

 その途端、森岡は厳しい言葉を浴びせた。

「ええか、坂根。欲の無い人間ほど扱い難いものはないんやで。言葉は悪いが、学者いうのんは、独特の世界観を持っていて変人が多い。まして、出世や金に興味が無いということは、芦名貫主を引き入れようにも、これまで俺等が画策してきた、金や女といった世俗的な誘惑では無理ということや。それどころか、下手に近づくと却って気分を害し、それこそ敵に回るかもしれん。そうかといって、無理に接触する必要のない向こうとは違い、数で劣るこっちは近づかんわけにはいかんのやからな。つまり動くのも地獄、動かんのも地獄ということなんや」

「……」

 坂根は項垂れるしかなかった。

 森岡は、委細構わず榊原に視線を戻した。

「爺ちゃん、何でもええから、他に何かあらへんか」

 さりげない物言いだったが、期待を込めた一言だった。榊原であれば、たったこれだけを伝えるために、わざわざ呼び付けたりはしないはず、という確信が入り混じっていた。

「他になあ……あるにはあるんやが、役に立つかわからんなあ」 

「どんなことでもええから言うてみてや」

 及び腰の榊原に森岡は強く催促した。

「なんでもな、学者肌ということでいえば、芦名貫主は書道を嗜んでいてな、なかなかの腕前ということや」

「書道?」

「おお、日展にもちょくちょく入選するらしいで」

 森岡の脳裡の襞を、何かがコツンと叩いた。

「ちょっと待ってや。書道、書道……書道なあ」

 森岡は指で眉間を押さえ、うわ言のように呟いた。

「社長、どうされたのですか」

「いや、書道と聞いてな、胸に引っ掛かるものがあるんや。なんやったかなあ」

 森岡はしばらく記憶を辿っていたが、やがて、

「せや!」

 と気合の声を発すると、携帯を取り出し、無言で番号を打った。

 このとき、森岡の頭の中にはある思惑が浮かんでいた。

――あっ、先生。森岡です……こちらこそ、ご無沙汰しております……はい、元気です……要件と言いますのは、先生と初めてお会いしたとき、良い墨がどうのこうのとおっしゃっていましたよね。それって、どういうことでしたでしょうか? はい、なるほど……それで、現在(いま)最高の墨というのはどういった墨なのでしょうか?……はい、良くわかりました。有難う御座いました。では近いうちに……失礼します。

「誰に電話したんや?」

 榊原は、不機嫌な面で問い質した。

 つるつるの頭に狸顔という、実に愛嬌のある風貌だが、キッと睨み付けられると、森岡でさえ思わず身が竦んでしまうほどの迫力がある。

「ごめんな、爺ちゃん。今話しとったんは、俺が会社の名刺を作ったとき、神村先生に紹介してもらった書道家の北条仙流先生や。書道と聞いてな、その折北条先生に伺った話が胸に痞えていたんやけど、やっと思い出したんで、確認したんや」

 森岡は宥めるように弁解した。

 書道家北条仙流は、森岡が会社を設立した折、名刺の原版に刻む文字を提供した書道家だった。森岡は、神村から多くの葉書や手紙を貰っていたが、それらの字体と結婚式に依頼した誓詞との、極端な書体の違いを不思議に思い訊ねてみると、誓詞や掛け軸、額縁に入れる書は、すべて北条仙流の代筆だと聞かされた。そして代筆は、決して神村に限ったことではないということであった。

「それで、何を確認したんや」

「それがな、爺ちゃん。どうも最近、良質の墨と硯が少なくなってきとるらしくてな、なかなか手に入らないんで、北条先生も困っとるということやねん。ずいぶん前に北条先生から聞いとってな、それが頭の片隅に残っていたんや」

「墨なあ、そうか、そうか」

 榊原は得心顔で肯いた。

「日展に度々入選するほどの書道家だったら、墨には当然関心があるやろうな。なんせ墨の良し悪しが、作品の良し悪しに少なからず影響するということらしいからなあ」

「ほう、それは都合がええな」

 森岡は思わずほくそ笑む。

「なるほど、そういうことか」

 と、榊原も頷く。

「それで、その最高の墨というのはわかったんか」

「ああ、わかった。なんでも、中国十聖人の姿身の墨が最高級らしいんや」

「中国十聖人、ですか」

 坂根の脳裡には、それらしい像が浮かばなかった。この種の話は、全くの門外漢なのである。

「そうや。孔子、孟子、老子、荘子、荀子……といった高名な学者や文人の姿見の墨らしい。ただ、これらは希少品で、手に入れることは難しいということやったけどな」

「中国か。これはまた、難儀なことやのう」

 榊原も難しい顔をした。

 彼の表情は、事が日本を離れ中国に及ぶとなれば、困難極まりないことを物語っていた。森岡も、そのことは十分承知していたが、そうかといって、ただ手を拱いている男ではない。むしろ、障害が大きければ大きいほど、それに立ち向かう反骨心を沸き立たせる男である。

 森岡は、その場で坂根に新幹線の切符とホテルの予約を手配させた。

 

 翌日、森岡は真鍋高志に会うため東京に出向いた。

 森岡は、書道家北条仙流から聞き出した、中国の高名な学者十人の姿身の墨を入手し、芦名泰山に献上しようと考えていた。

 しかし、この十聖人の姿見の墨は、大変な貴重品で、入手するのが極めて困難だという。なにせ十体揃って所有している者は、日本国内では三、四人、全世界でも十人に満たないだろうと目されていたのである。

 問題は、一体が五百万円から七百万円もする高級品だということではなく、いわゆる骨董品の部類に属し、一般には流通していないということだった。

 森岡は、その墨の入手を真鍋に依頼するつもりだった。真鍋グループの霊園事業に用いる石材は大半を中国から輸入していた。そのため、中国の福建省に支店を開設し、何名かの日本人も常駐していた。彼は、そこから得られる情報に、期待しようというのである。

 新宿甲州街道に面した、一際目を引く十二階建てのビルが真鍋興産の本社ビルだった。正面が濃いブルーの総ガラス張りで、仕事柄とは異なり、いかにも洒落たデザインの近代的なビルである。

 真後ろに通信業界大手のDDTの高層ビルが聳え立ち、東京都庁は北西の方角に、不夜城で有名な歌舞伎町は北東の視界の先にあった。

 二人の会談は十一階の応接室で行われた。

「森岡さん。お上人様は大変なことになっておられるようですね」

 森岡の顔を見るなり、真鍋が気遣った。

「真鍋さんの耳にも入っていましたか。まさに晴天の霹靂で、せっかく真鍋さんのお蔭で、広瀬貫主を味方に付けることができたのに、こんなことになってしまって何とも言いようがないです」

 森岡は力の無い笑みを浮かべた。

「僕も貫主さんから話を伺いましてね、大変だろうなと心配していたのですよ。それで、法国寺の情勢はどうなのですか」

 真鍋は遠慮がちに訊いた。

「それが、総本山総務の実弟で、藤井清慶という人が立候補しましてね。いわば、この人が神村先生の敵になるのですが、それに対抗して、こちらは鎌倉の久田帝玄という方を立てることになったのです」

 森岡が掻い摘んで経緯を話した。

「鎌倉の久田上人さんね、噂に聞いたことはありますよ。大変にお偉い方のようですね」

「おっしゃるとおりなのですが、それでも情勢は不利なのです。そこで、何としても二人の貫主を味方にしなければならないのですが、そのことで、真鍋さんに再びご協力を願いたくて、こうしてやって来たのです」

「もちろん、構いませんよ。うちは公私共に、お上人様には大変お世話になっ ておりますから、僕にできることなら何でも言って下さい」

 真鍋の言うお上人様とは、神村正遠のことである。

「そう言って頂くと有り難いです。では、遠慮なくお頼みしますが、実は中国聖人の姿見という高級な墨を探していましてね」

 ほう、と真鍋の目に力が籠る。

「十人の聖人なのですが、それがなかなかに貴重な物らしくて、簡単には手に入らないということなのです。そこで、真鍋さんの会社は中国にも支店があることを思い出しましてね。そちらの方で情報が入手できないかと思い立ったのです」

「おっしゃるとおり、我が社は福建省に支店を開設していまして、僕も度々出向いています。では、すぐにでも事情を話して調べさせましょう」

 そう請け負った真鍋だったが、

「ただ、福建省の支店はそれほど大きくはありませんので、おっしゃるような貴重な代物だと、ご期待に沿えるかどうかはわかりませんよ」

 と正直に不安を吐露した。

「いえいえ、調べて頂けるだけでも有り難いです。とりあえずは、一体でも見つかれば助かりますので、宜しくお願いします」

 森岡はテーブルに手を当てて頭を下げた。

「承知しました。しかし、森岡さん。会社の方は大丈夫なのですか。上場を計画されているはず、ですよね」

 ええ、と森岡は頷く。

「野島や住倉が頑張ってくれてはいますが、今回の件で多少遅れることになるかもしれませんね。私としては、早く決着が付いて欲しいのはやまやまなのですが、そうかといって、この件を徒労に終わらせるわけにもいきませんので、勝つためには時間が掛かっても致し方ないという心境ですかね」

 森岡は、苦しい胸の内を明かした。

「では、少しでもお力になれるよう最善を尽くしましょう」

 真鍋は、森岡の依頼を快く引き受けた。彼にしても、森岡との交誼や神村との仏縁というだけでなく、神村が本妙寺の貫主に就任すれば、霊園事業などの、その後の事業展開に加わりたいという目論見があったのである。

 その真鍋が、話の終わりに気懸かりなことを口にした。

「森岡さん。ちょっと貴方の気持ちを削ぐようで言い難いのですが、重要な事なので、耳に入れておきたいと思います」

 珍しく、ずいぶんと恐縮した真鍋の様子に、森岡は少し不安を覚えながらも、

「どうぞ、どのようなことでも言って下さい」

 とつとめて明るく応じた。

「では、遠慮なく申し上げます。他でもなく、先刻話に出た久田上人のことなのですが、大人物だとは承知していますが、一方で良くない噂も耳に入っていますので、森岡さんには気を付けて頂きたと思いまして」

「良くない噂とは」

「どうやら、今でも蔵王興産の速水社長と付き合いがあるようですよ。我が社も不動産を扱っていますからね。その関係で、久田上人の名前が出たのですが、お上人様と同じ天真宗ということで、気に掛かっていたのです」

 真鍋は慎重な言い回しをした。

「速水って、地上げの帝王と呼ばれていた、あの?」

 蔵王興産の噂は森岡も耳にしていた。

「そうです。現在はバブルの時代と違い、当時ほどの力はないと思いますが、それでもねえ……」

 真鍋は渋い顔をする。

「いや、良いことを伺いました。心に留めておきます」

 このとき、森岡は真鍋が気遣ったほどには驚かなかった。初対面のとき、久田帝玄から受けた威圧感の中に、そういう類の臭いも感じ取っていたからである。

 

 その夜、森岡は珍しく一人で夕食を取った。

 真鍋高志は急な森岡の上京に、二十二時までは身体が空かず、坂根は急な発熱で体調を崩し、ホテルの部屋で休んでいたのである。

 ホテル内の寿司屋のカウンターに座っていると、一つ間を置いて細身の老人が席に着いた。かなりの高齢に見受けられたが、小奇麗な身形で、矍鑠とした老人だった。森岡は軽く一礼をしただけで、特に言葉を交わすこともなく、次々と板前に料理を注文した。

 森岡は寿司屋であっても、寿司を注文することは滅多になかった。最後に巻き物を少々食するだけで、いわゆるにぎり寿司はほとんど口にしなかった。

 森岡は、食事には無頓着な男だった。食事だけではなく、資産家のわりにクルーザーや車といった贅沢品には全く興味がなく、衣服や時計、ネックレスといった装飾品にも関心がなかった。

 唯一拘りがあるとすれば、魚の刺身であろうか。

 彼は、漁師の子に生まれ育ったが、新鮮な魚の刺身を御飯のおかずとしたことがなかった。祖父や父は酒の肴に、祖母や母は御飯のおかずとしていたが、森岡は酒の代わりにサイダーを飲みながら、刺身を食していた。その頃の習慣が残っているのか、魚の切り身と米粒を一緒に口に入れることに抵抗があったのである。

 しかも、寿司屋で酒の肴にするのは、鮑やサザエ、赤貝といった貝類がほとんどであった。これもまた子供の頃の影響が残っていて、獲れ立ての生きた魚ばかりを食して育っていたため、生簀の魚でない限り、刺身を口にしようとは思わなかったのである。

 そのような森岡を、老人は不思議な眼で見つめていた。

 目が合った森岡が軽く会釈をすると、待っていたかのように老人が、

「たばこを吸っても良いのでしょうかね」

 と遠慮がちに声を掛けてきた。

――たばこ?

 と、森岡は訝ったが、すぐになるほどと得心した。

 十席ある寿司屋のカウンターには、森岡と老人以外に五人の客がいたのだが、皆外国人だったのである。

「灰皿が置いてありますから、良いのではないでしょうか」

 森岡はカウンターに灰皿に目をやってそう言った。

「それはわかっているのですが」

 老人は目配せをした。やはり外国人に遠慮しているようだ。

「では、一緒に吸いましょうか」

 森岡はそう言って、ポケットからタバコを取り出した。彼の気遣いである。

 普段、森岡はタバコを吸わない。極稀に飲酒の際の、手持ち無汰沙の慰みに、口に銜えるときがあるという程度である。したがって、深く吸って煙を肺に入れることもない。

 今宵は一人きりの食事だったため、タバコを用意していたのである。

「それは助かります」

 老人は安堵した笑顔を浮かべた。

 それを機に会話が弾んだ。お互いの姓名、職業を明かすことなく、趣味や遊興のことに始まり、政治や経済といった硬い事柄にも話題は及んだ。

 森岡は大阪からの出張と言い、老人は東京住まいだが、妻に先立たれた五年前より、月に二、三度とホテルに宿泊し、夜遊びをしているのだと話した。

 森岡は、これまでのように進んで素性を探ろうとはしなかった。大都会の夜の一時、偶然出会った八十歳手前の老人と、三十五歳のビジネスマンが世代を超えて意気投合し、酒を酌み交わす。それも一興と思ったのである。

 ところが食事を終え、勘定を頼んでいると、

「この後、予定がありますか」

 と、老人が訊ねてきた。その名残惜しそうな表情に、

「何もありません」

 森岡は弾んだ声で答えた。彼自身も、もう少しこの老人と時間を共有したいと思っていた矢先の問い掛けだったのである。

「どうです。銀座で一杯やりませんか」

「良いですね」

 森岡は即諾した。彼にとって銀座は不慣れな場所であった。僅かに数件、真鍋高志の馴染みの店を接待用として使っているだけだった。それだけに、老人に連れて行かれる店に興味を持った。

 そしてもう一つ。

 この温和な老人に、森岡は祖父洋吾郎の面影を追っていた。外見は全く違ったが、優しい語り口調は祖父のそれと重なった。

 痩身で紳士然としたこの老人に比べ、洋吾郎のつるつるに禿げ上がった頭に、大きな目、口周りと顎に髭を蓄えている風貌は、剣聖・宮本武蔵が描いたとされる『達磨』にそっくりで、本人の意図するところではなかったが、相手を威圧してしまうところがあった。

 だが内実は、愛嬌があって義理人情に厚く、涙もろいところがあり、筋目を重んじ、不義不正を決して許さない、正義の鎧を身に着けているような人だった。

 森岡家にとっての、待望の嫡男に対する洋吾郎の溺愛は尋常でなかった。ともかく、何をするにも何処へ行くにも洋介を伴い、片時も離さなかった。洋介は可愛げな顔立ちに、才気溢れる子供だったので、行く先々で人々から賞賛されたため、洋吾郎とって自慢の孫だったのである。

 洋吾郎は県会議員や市会議員、町長や地元財界人など、如何なる要人の来訪であっても、洋介を胡坐の中に座らせて応対していた。森岡はそのような祖父が、仕事で滅多に顔を合わさない父よりも好きだった。

 老人は、その祖父と同じ体臭がした。森岡には懐かしい匂いだったのである。

 老人が入った店は、銀座並木通りにある『花水木(はなみずき)』という中堅のクラブだった。同じ銀座の有馬や北新地のロンドのような高級感はなかったが、足を一歩踏み入れた途端、包み込むような温かみで森岡を迎えた。まさに老人の人柄が、反映しているような和みのある店だった。

 花水木でも、お互いの素性は詮索し合わなかった。ママにもホステスたちにもそのように言い含め、老人の正体の知れる話題は厳禁として飲み明かした。ただ、それでも会話の端々から、老人は相当な会社のオーナーで、後継者に悩んでいるように推測された。


 三週間後、榊原からの連絡で、彼の許に出向いた森岡は、目の前に置かれた品々を見て仰天した。なんと、中国十聖人のうち三聖人と思われる姿身が、黒々とした光沢を放っているではないか。

 森岡は思わず大声を上げた。

「爺ちゃん、これどないしたんや!」

 その両眼は玩具を見る少年のような好奇の輝きを放っている。

「驚いたか、洋介。お前が探している墨というのはこれやろ?」

「いやあ、見たことが無いさかいようわからんけど、見た目には多分間違いなさそうやな」

「多分やあらへん、これや」

 榊原が余裕の笑みを浮かべて言う。

「なんや、知っとるなら俺に訊かんでもええやんか」

 森岡は少し嫌味口調で言った。

「それにしても、どういうこっちゃ」

「おう、それやが……」

 と、榊原が得意顔をする。

「この前、お前から話を聞いてからな、わしも探したということや」

「探したって? この前は、難儀な話やと言うとったやないか。爺ちゃんが、中国にも人脈を持っているなんて聞いとらんで」

 森岡は怪訝そうに榊原を見つめた。

「へっ、お前に話してなかったかな? いやな、ずいぶん昔から兄弟付き合いをしている台湾人がおるねん」

 榊原は涼しい顔で言った。このあたりが何とも食えない老人である。

「兄弟付き合いの台湾人? やっぱり初耳やけど、それにしても凄いな」

 森岡は、恐れ入ったという仕種を見せた。

「わしもな。一応頼んではみたものの、こないに早く見つけ出すとは思ってもいなかったけどな」

 当の榊原も、まるで他人事のように言った。

 それからしばらくの間、二人は三聖人の姿見の放つ玄妙な光沢に、魅入られたかのように押し黙った。


 榊原は独自の人脈を使い、僅かの間にこの希少品を探し出していた。

 その人脈とは、世界最大のウーロン茶製造販売会社『天礼(てんれい)銘茶』の日本支社長・林海徳(りんかいとく)である。

 天礼銘茶の本社は、台湾の台北市にあったが、全世界に生産と販売拠点を有していた。当然、中国本土にも大きな拠点があり、その規模は真鍋グループとはスケールが違った。榊原から依頼を受けた林海徳は、従兄である台湾本社社長の林海偉(かいい)に事情を話し、台湾、中国だけでなく、東南アジアの全拠点に大号令を掛けて、十聖人の墨を探させたのだった。

 林海徳が榊原の願いを聞き入れ、奔走した理由は二つあった。

 一つは、林の榊原に対する恩義である。

 それは二十年も昔、林海徳が三十歳の若き日のことである。

 日本での販売促進の重責を担って来日した彼は、榊原の近所に住居を構えた。当初、両者に親交などあるはずもなかったが、ある日、林は失火で自宅を全焼してしまう不運に見舞われた。

 このとき、焼け出されて途方に暮れる林一家を、当座の間自宅の離れの洋館に住まわせ、親身に面倒を見たのが榊原だったのだ。

 榊原は、元々が義侠心と人情に厚い男だったが、それに加えて、彼自身もまたナショナル・モーターの代理店を開く際、単身アメリカに渡って研修を受けた経験から、異国での苦労を身をもって知っていた。

 だからこそ、見ず知らずの林一家とはいえ、難儀を見過ごすわけにはいかなかったのだ。榊原の厚意に感激した林は、それ以来、彼を実の兄のように慕い、親交を深めていたのである。

 もう一つの理由は、やはり華僑だけのことはあって、この機会を捉え、商売の種も考えていた。神村が本妙寺の貫主に就任したあかつきには、本妙寺を拠点として、全国の寺院で自社のウーロン茶を檀家向けに販売できないかと模索していたのである。

 まずは天真宗の寺院ということになるが、榊原の他宗との取引や人脈を思えば、その先に無限の広がりが想像できるというわけである。

「なるほど、そういうことか。さすがやなあ。いまさらながら、凄い爺さんやと思うで、ほんまに」

 森岡は感心しきりで言った。

 これまで肉親のように接してきた森岡は、同じ経営者として榊原を尊敬していたが、あらためて人脈の広さと、その濃密さに感服していた。

「とりあえず三体やけどな。残りも調べとるから、そのうち揃うやろ」

「それやったら、俺がもうええと言うまで、手に入るもんは全部手に入れてくれへんか。それと、その際に見つけたついででええから、他の高級な墨も頼むわ」

「同じもんが重なってもか」

「そうや」

「余ったもんをどないするつもりや。一体が五百万以上もするんやで。お前、書道するんか、それとも骨董なんかに興味があったんか」

 榊原は訝しげに訊いた。

「両方とも興味なんかないけど、北条先生に差し上げてもええやろ。きっと、先生喜ぶで」

 その一言で、榊原は森岡の意図を見抜いた。

「ふーん、そういうことか。お前も抜け目がないのう」

 榊原は目を細めた。この男を後継者と見込んだ己の目に狂いはなかったと満足したのである。

 森岡にはある狙いがあった。そのためにも、この先いくらでも使い道があり、次に欲したときには、手に入れることが不可能と思われる貴重な代物は、この機会に出来得る限り買い付けておこうと考えていたのである。


「榊原さんって本当に凄い人ですね。いったいどれだけの人脈を持っておられるのでしょうか」

 大阪へ戻る車中で、坂根は素直な感想を洩らした。

 だが、森岡は厳しい顔つきになった。

「お前、今人脈って言ったけどな、ただ知り合いというだけでは人脈とは言えんのやで」

「はあ」

 思いがけない森岡の厳しい反応に坂根は戸惑った。

「ええか、坂根。人脈ってのはな、その人が如何に親身になって動いてくれるかどうかやで。榊原の爺さんの凄いのは、そういう人間が仰山おるということや。それも、ひっくり返せば爺さんがそれだけ親身になって世話をしたということやけどな。もちろん、相手にも全く打算がないとは言えんけど、それでもそういう人脈はなかなか出来へんもんやで」

 思い違いを指摘された坂根は緊張した面になった。

「そうですね。社長はその人脈も受け継がれるのですね」

「いや、それも違う」

 と、森岡が首を横に振った。

「本物の人脈というのは、継ごうと思って継げる類のもんやない」

 森岡はそう窘めると、突然口調を変えた。

「それより、坂根。榊原の爺さんの話、何か気づかんかったか」

「榊原さんの話ですか」

 坂根は、榊原の話を思い返してみるが、心当たりに行き着かない。

「お前、ボーとしとったらあかんで。林さんが墨の件に事寄せて、商売の種を考えたように、どんな話でも頭を働かせとかなあかん」

 森岡はそう言ってしばらく坂根の答えを待ったが、いっこうに口が開かないのを見て、

「ウーロン茶の話やがな。あれ、ウイニットにとってもええ話や思わんか」

 と水を向けた。

「我が社にとってですか」

 坂根は思いを巡らせると、

「あっ、そうか。寺院でのウーロン茶販売のネット・ワークシステムをウイニット(うち)が構築するのですね」

 ようやく森岡の意図に気づいた。

「コンピューターシステムを構築するだけやないで、他にもいろいろ見込まれるやろ」

 さすがに三十歳で起業し、僅か五年で上場を目論む男である。目の付け所が違った。

 森岡が瞬時に描いた構想は一石二鳥どころか、一石四鳥の願ってもないものだった。彼はこの事業において、ウイニットにサーバーを置き、各寺院にはパソコンを配備して、全国寺院のネットワークを構築しようと考えていた。

 これにより、天礼銘茶は販売網の充実が図れ、それぞれの寺院には販売手数料が入るうえに、法事などの檀家の管理や、経理その他のサービスを無料で受けることができる。本妙寺には、本部として管理料が入ることになり、ウイニットにはパソコン販売手数料、ソフト開発料のほか毎年保守料が入る仕組みだったのである。

 つまり、四者がウイン・ウインの関係性を持つのである。

 中でも、森岡にとっては保守料が有難かった。パソコン販売手数料とソフト開発料は、一過性のものであるが、保守料はシステムが続く限り、手元に入ってくる性質のものである。しかも、抜群に収益性が高く、会社を支える柱の事業の一つになると思われた。彼は、いずれ自身が会社を去るに当たっての置き土産になると考えたのだった。


 森岡は、さっそく詳細な計画案を携えて、榊原壮太郎と林海徳の了承を得ようとしたが、そこで一つ問題が発生した。各寺院へ配備するパソコンの初期費用の五億円は、天礼銘茶の負担としたため、先行コストがあまりに大きく、台湾本社において、天礼銘茶一社で全額を負担することの了承が取れなかったのである。

 協賛会社獲得の必要に迫られた森岡は、野島真一に相談した。このとき野島は、臨時ではあるが社長の権限の大半を有していた。したがって、森岡も独断専行するわけにはいかなかった。

 数日後の役員会議において、野島はこの計画が森岡の発案であることを明らかにし、併せて社内体制を含めた準備の指示、特に営業部門に対して、協賛が期待できる取引先を調査するよう命じた。

 すると、その場で企業名が挙がった。

「社長、心当たりの会社が一社あるのですが」

 声を上げたのは、営業部長の筧克至だった。森岡は野島に相談した後、筧に計画を打ち明け、密かに調査をさせていたのだが、その森岡にしても、まさかこの短期間に候補会社を見つけ出すとは、思ってもいない手際の良さだった。

「もう見つけたんか。さすがやの」

 森岡は口元を綻ばせた。

「有難うございます。ですが、これは私の力ではなく、システム開発部の宇川課長の功績です」

「宇川が?」

「はい。社長の命があった後、我が社の取引先だけでなく、桑原部長や宇川課長ら中途採用者が、前の会社で手掛けたユーザーも隈なく洗い出してみたのです。すると、宇川課長がシステム開発のリーダーだった『ギャルソン』という会社が浮かび上がったのです」

「ギャルソン? どんな会社や」

「上場はしていませんが、洋菓子業界では大手で、昨年度の純利益は業界トップの数字を出した超優良会社です」

「先方に話はしたんか」

「さっそく宇川課長が概要を話したところ、会長の柿沢さんから、是非詳しい話を聞きたいとの返事があったそうです」

「なるほどな」

 森岡は、はたと得心した。

「寺院とくれば、普通は和菓子やが、和菓子は日持ちがせず適当でないからな。その点、洋菓子は賞味期限の心配が少ないし、寺院だけでなく、檀家への通信販売も考えれば、ギャルソンにとっても悪い話ではないかもな。よっしゃ、さっそく先方に連絡を入れて、柿沢会長との面会の段取りをしてくれ」

 森岡は気分が良かった。

 筧は手柄を宇川義実(よしみ)に譲るような発言をしたが、森岡は筧の手腕が大きいと見抜いていた。神村の一件が片付けば、取締役に昇格させる心積もりでいた筧の働きに満足していたのである。

 森岡自身にも抜かりはなかった。孫子の兵法よろしく、宇川を社長室に呼び、前もって柿沢に関する情報を入手しようとした。

「柿沢会長はどんな人間や」

「ど、どんな……と、い、言われましても、二、三度食事に連れて行って、も、もらっただけですので」

 宇川義実は生来の上がり症で、人前で話すことが苦手だった。まして社長である森岡の前ともなると、いっそう緊張するのか、言葉がスムーズに出てこなかった。その反面、コンピューターに関しては、いわゆるマニア的な技術力があり、森岡はその点を評価し、寺院ネットワークシステム開発のリーダーに就けていた。

「宇川課長、そんなに緊張せんでもええんや。筧部長も言うとったが、今回のことは、お前のお手柄やないか。今回の件が上手く運んだら、社長賞を出そうかと思っているくらいなんやから、落ち着いて話せ」

「すみません。でも、お手柄と言われましても、私はただシステムを担当しただけですから」

「そこが違うんや、宇川課長。お前がギャルソンの担当者に技術力を認められているから、あるいは人間性を信用されとるからこそ、柿沢会長もお前の話に耳を傾けられたんやで。これは立派にお前の手柄や」

「あ、有難うございます」

「せやから、どないなことでもええ、落ち着いて思い出せ、何かないか」

 森岡にそうまで急かれると、余計に焦る宇川だったが、ようやくかつてシステム開発をしていた頃、何度か居酒屋で一緒に飲んだ、ギャルソンの担当者の話を思い出した。

「あ、そうだ」

 と、宇川が目を見開いた。

「これは柿沢会長ご本人から聞いたたことではないのですが、若いときは相当な放蕩息子だったようで、毎月の銀座の付けが五百万は下らなかったそうです」

「ほおー、五百万か。それはまた相当なもんやな」

 森岡にはその値打ちがわかっている。

「ただ、お酒だけならまだ良かったのですが、女性の方もお盛んだったようです」

「まあ御曹司やし、それだけ金を使えば、女の方も放っとかんわな」

「ところが、ご両親にしてみれば、後継者になり得る御子息は会長お一人でしたので、何度もきつく叱責されたそうですが、いっこうに素行が改まらないので、とうとう研修を名目にフランスに留学させたほどだったそうです」

「海外やったら悪評も日本には届かず、世間体も守られるということか。そうか、親も手が付けられんほどの道楽息子やったんやなあ」

「はい。そういうわけで、どうもご両親の判断だけでなく、ご本人も経営者には向いていないと納得されたのか、苦肉の策として、会長の高校、大学の親友だった今の社長を、大手商社から引き抜かれたということです」

「なんだと」

 森岡の目が光った。

「それじゃあ、今でも経営は社長に任せっ放しで、自分は自由気儘ということか」

「おっしゃるとおりで、会長は取引先の接待ゴルフや銀座専門のようです」

 なるほど、なるほど……と森岡は何度も顎を上下させた。

「それで株式を公開せんのやな。そんな会長やったら、株主もうるさいやろうし、いつ買収されるとも限らんからな。ええこと聞いたわ」

 森岡は、にやりと満足の笑みを浮かべた。

 だが、森岡自身は気づかなかったが、このとき心のどこかに気の緩みが生じていた。宇川の話を鵜呑みにしてしまい、柿沢を世間でいうところの、典型的な出来の悪い二代目と決め付け、頭から組み易しと、甘く見てしまったのである。

 週末、森岡は筧克至と宇川義実を伴って東京へ出向き、ギャルソン代表取締役会長・柿沢康弘と面会する。柿沢は、森岡から詳細な事業計画の説明を受け、前向きに検討し役員会議に諮ると約束した。

 

 一方で、藤井兄弟も着々と手を打っていた。

 天真宗総本山で総務の要職にある藤井清堂は、執事で腹心の景山律堂(かげやまりつどう)を、実弟である清慶の許に送り込み戦略を練らせていた。

 総務ほどの重鎮が懐刀として頼りにするだけのことはあって、景山は総本山において、その聡明さが評判になりつつある人物だった。彼は、我が国最高学府である帝都大学法学部に在学中、総本山真興寺に参拝したとき、偶然出会った華の坊の藤井清堂に心酔し、大学を退学してまで得度したという異色の経歴を持っていた。

 藤井側にしてみれば、楽な戦いではあった。

 すでに、静岡の三ヶ寺からは磐石の支持を取り付けているうえ、京都傳法寺の大河内貫主は、岐阜法厳寺住職の久保を介して良好な関係にあり、支持を取り付けることは、さほど難しいことではないと思われたからである。

 景山は、相手の支持が鮮明な興妙寺と龍門寺の二ヶ寺はもちろんのこと、残る一ヶ寺である東京目黒・澄福寺の芦名泰山にも働き掛けをするつもりはなかった。芦名の気質は彼の耳にも届いており、下手に動いて臍を曲げられ、敵に塩を送ることになるような危険を冒すくらいであれば、相手側にその綱渡りをさせる方が得策と考えていたのである。

 相手もさすがに静岡の三ヶ寺には手を出さないだろう。そうであるなら、すでに味方と思われる傳法寺の大河内を繋ぎ留めておくことが肝要だと考え、全力を注いでいた。

「清慶上人。ようやく、例の方から寄付の約束を取り付けました」

「おっ! 上手くいったか。いや、有難う、有難う。良くやってくれたね。それで、いくらだね」

 清慶が明るい声で訊く。

「総額で三億です。近々、とりあえず一億の寄付があります」

「三億もか、いや有り難い。それで大河内上人にはいくら渡すのかね」

「もちろん、三億全部です」

 当然とばかりに景山は答えた。

「全部か? そこまでする必要もないだろう。久保さんの話では、明言は避けたものの、支持は間違いないということやった。一億は置いといてもらえないかね」

 景山は、色気を抱いた清慶の言い草が気に入らなかった。

「何をおっしゃっているのですか! 相手はあの鎌倉なのですよ。我々の想像を超える手を打って来るかもしれないのです。私は三億でも足りないのではないかと思っているくらいです。良いですか、失礼ながら御年からして、他の大本山ならいざ知らず、別格である法国寺の貫主の座に就ける機会は、この先二度と訪れないでしょう。もう少し真剣に考えて下さい」

 景山は遠慮の欠片もなく叱責した。

 鎌倉とは久田帝玄のことである。

「いや、悪かった。景山君、そう怒るな。試しに言ってみただけだ」

 清慶はあわてて弁解した。彼は、二周り以上も年下で、僧階も下の景山に従順であるしかなかった。景山が兄清堂の名代としてこの場にいる以上、彼の言に逆らうという選択肢は無いのである。

 だが、おもねた清慶に向かっても、景山は苦言を続けた。

「良いですか、清慶上人。敵は鎌倉だけではないのです。鎌倉には、あの傑物と名高い神村上人や九州で名を轟かせている菊池上人も付いているのです。おまけにもう一人、私が最も気になる厄介な青年の影までちらついている始末……」

「気になる青年というと、誰のことかな」

「森岡という三十半ばの青年で、IT企業を経営しているそうです」

「森岡? 三十半ばの青年……ああ、その男なら私も耳にしている」

「上人が彼をご存知ですと? いったいどなたからお聞きになったのですか」

 景山は驚いたように訊いたが、

「それは誰でも良いじゃないか」

 清慶は口を濁すと、

「それより、私の耳にもかなりの切れ者と届いているが、宗門の世界で、そんな若造に何ができるというのだ。君の過大評価じゃないのかね」

 と軽口を叩いた。

 これがまた景山の怒りを買った。

「とんでもないことです。本妙寺の件で、当初八対三と圧倒的優勢だった久保上人が、あわや煮え湯を飲まされそうになるまで追い込まれたのは、この若者の力によるものなのですよ。久保上人が一色貫主から聞かれた話によると、とにかく三十歳半ばの若者にしては、貫主を前にしても何ら臆することなく、自信に溢れた態度だったということです。あの高圧的な一色貫主を相手してもそうなのです。もし、その自信が経済力に基づくものだとしたら、向こうが用意できる金は、三億なんてものじゃないかもしれないのです。巷には、鎌倉が不利な情勢にも拘わらず、あえて負けを覚悟で出馬した裏には、この若者が費用の全てを負担し、鎌倉には金銭的な迷惑を一切掛けないと約束したから、という噂まで広がっているくらいなのです」

 景山はいっそう声を荒げた。

「わかった。わかった」

 清慶は両手を翳して宥め、

「総務が最も信頼をしている君の言うことだから、間違いはないだろう。私はこの手のことは、皆目苦手だから、すべて君に任せるよ」

 と今にも耳を塞がんばかりに言った。

「とにかく今度の寄付は、すべて大河内上人に渡すことにいたしますので、ご承知下さい」

 景山は、最後まで糾弾の手を緩めることがなかった。そのあまりの気迫に、清慶は反論する気力を失っていた。

 景山は清堂の指示で、古くからの支援者に軍資金の拠出を依頼していた。その有力な支援者の一人が、東京を中心とした関東エリアで懐石、割烹、フランス、イタリア、スペイン料理といった十三店舗のレストランと、八十店舗の持ち帰り弁当店、喫茶店や居酒屋、ショットバーを十数店舗など、様々な飲食事業を展開している女傑吉永幹子だった。

 経済的には何の見返りも期待できない吉永であったが、奇特にも彼女は三億円の寄進を確約していた。景山はそれをそっくり大河内に渡す腹だった。

 その他にも、景山は清堂に要請して、総務の人事権を使って、大河内に宗門の大学である立国大学の副理事長の椅子も用意していた。

 華の坊の頭脳とも評されている景山律堂もまた、考え得る全ての布石を打とうとしていたのである。




 





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