第9話  第二巻 黒幕の影 突破

 天真宗・別格大本山法国寺の、新貫主を選出する合議の日まで三ヶ月余りとなった。

 同宗・京都大本山本妙寺の山際前貫主が、後継指名をしないまま急逝したため、筆頭候補だった神村正遠の新貫主就任は白紙となった。

 大学時代、神村の書生をしていた森岡洋介の献身的な助力によって、どうにか擁立成功寸前まで漕ぎ着けたが、その矢先、今度は法国寺の黒岩貫主の勇退という不運に見舞われ、またしても混迷を深める事態となってしまった。

 しかも、思わぬ難敵が出現した。

 本妙寺の新貫主選出の鍵は、法国寺新貫主の意向次第という展開になったのだが、その新貫主の座に名乗りを上げたのが、藤井清慶という次期法主が確実視されている総本山総務の要職にある藤井清堂の実弟だったのである。

 別格の称号を賜り、総本山真興寺に次ぐ寺格を誇る法国寺の新貫主選出は、全国の九大本山のうち、当該の法国寺を除く八大本山の貫主たちによる合議または選挙によって決する。

 ただ、このうち神村が貫主を目指している本妙寺は、現在山際の逝去により貫主不在であるため、七大本山の貫主に委ねられることになる。

 その七ヶ寺の中で、総本山真興寺のお膝元である静岡の大真寺、法真寺、国真寺の三ヶ寺は、これまでの慣例として次期法主が内定している藤井清堂の息の掛かった者が貫主の座にある、と考えるのが妥当であった。

 さらに、京都大本山傳法寺の大河内貫主は、本妙寺の件で神村の対立候補である久保僧を支持していることから、久保僧と兄弟弟子に当たる清慶支持に回ると見るのが常識的だった。つまり、藤井清慶の優位は揺るがないということである。

 それでも強力な対抗馬擁立を図った神村陣営は、天真宗の全国僧侶から影の法主との畏敬の念を抱かれている大物僧侶・久田帝玄を担ぎ出すことに成功した。

 だが、彼を以ってしても苦戦を免れずにいた。

 森岡の奮闘も虚しく、一進一退の膠着状態から抜け出せないままだったのである。

 折しも北新地の高級クラブ・ロンドに於いて、一夜に二千万円もの大金を浪費するという馬鹿騒ぎが起因となって、森岡は理不尽な凶刃に倒れ、生死の境を彷徨った。

 玄妙な霊力によって奇跡的に命を取り留めた森岡は、高級クラブの美貌ママ・山尾茜の献身的な看護もあって順調に回復し、無事退院に至った。完治したわけではなかったが、当分の間、スケジュールを担当医に報告するという条件を呑んで現場に復帰したのである。

 とはいえ、一ヶ月余も入院していたため、大河内法悦に対する手立ては糸口すら見出せないままであった。

 大河内は久保支持と見られてはいるが、あくまでもこれまでの経緯からの憶測に過ぎなかった。彼がどちらに与するかで法国寺の新貫主が決定し、その法国寺の新貫主の意向によって神村の命運が決するのである。大河内への調略は、まさに逼緊(ひっきん)の課題であった。


 焦燥の日々が続く中、さらに追い討ちを掛ける情報が舞い込んだ。 

 谷川東良から、

『東京目黒の大本山・澄福寺貫主の芦名泰山は藤井清慶支持の意向である』

 という旨の報せが届いたのである。

 それは谷川東良の兄東顕が、宗務で総本山に出向いたときだった。年末の挨拶のため、法主を訪ねようとして控えの間を通り掛かったところ、中から人の声がした。東顕は、盗み聞きをするつもりなど毛頭なかったが、中から漏れてきた『法国寺』との言葉に、思わず足を止めてしまった。

 そして、澄福寺の芦名上人が藤井清慶支持の腹を固めたという話し声を耳にしたというのである。

 芦名泰山も法国寺の新貫主選出メンバーの一人で、調略対象の人物だった。ただ、これまで己の意志を表明したことがなく、大河内に比すれば、多少なりとも付け入る隙があると考えていただけに、神村陣営に与えた衝撃は量り知れないものがあった。

「この情報が本当なら、我々の敗北が決まってしまいますね」

 森岡の声には、いつもの覇気が無かった。 

 芦名泰山に対する調略として、中国十聖人の墨の献上という手筈を整えていた矢先だっただけに、失意は隠せなかった。むろん、体調も影響していたことは言うまでもない。

「俺も兄貴に何度も確認したんやが、断固聞き間違いやない、と言い張るんや」

「そういうことでしたら、まず間違いはないでしょうね」

「残念やが、終戦ということやな。肝心なときに、米国のシリ……シリ……何やったかな」

「シリコンバレーですか」

「そうや。そのシリコンバレーとやらに長期出張するから、敵にしてやられたんや」

 森岡は入院中、株式上場に絡む新規取引の商談のため、IT企業の一大拠点である米国西海岸のシリコンバレーへ出張していることになっていた。

「申し訳ありません」

 と頭を下げた森岡だったが、悪びれた様子はない。

 谷川東良の露骨な嫌味も、森岡を不快にさせることはなかった。彼が真実を知っていないということは、神村も同様だと思えたからである。森岡にはこちらの方が、余程都合が良かった。

 瀬戸際に立たされたとは思えぬほど泰然と身構える森岡に、谷川東良は異変を感じていた。

――この男、なにやら雰囲気が変わった。これまでも、年に似合わず豪胆で頭も切れたが、それとは何かが違う。何かが……。 

 強いていえば、久田帝玄や神村正遠が放つ同種の『気』だと東良は思った。修行を積んだことのない男が、どうしてこのような気を纏うことができるのか、と不思議に思いながらも、

「どうする? このことを神村上人に伝えようか」

 と結論を促した。

「……」

 黙って考え込む森岡に、東良が思わぬことを口にした。

「もっとも、君が米国に出張中、神村上人も病に倒れられて、ようやく床上げができたばかりやからな。あまり、良くない報せは伝えとうないのはやまやまなんや」

「え? 先生が病気に」

 森岡は驚愕の目を向けた。

「なんでも、水行をなさって風邪を拗らせたとかで、軽い肺炎だったらしい」

「水行を? 何のために」

――まさか、自分が凶刃に倒れたことを耳にされたのか? いや、坂根は伝えていないと言っていたが……。

 森岡の胸に不安が渦巻く。

「そこまではわからんが、願掛けでもなさったのではないか」

「願掛け……」

「本妙寺、いや神村上人であれば、御前様の法国寺貫主就任祈願ではないかな」

――なるほど先生らしい。

 森岡は得心の顔で、

「それで、今は」

 と先を急かした。

「快癒されたが、念のため静養されている」

「それは良かった」

 とほっと胸を撫で下ろした森岡に、

「静養といえば、さっきから気になっていたんやが、君も痩せたようやな。顔色も悪いし、大丈夫なんか」

 谷川が痛い点を突いてきた。

「米国の食い物が合わなかったので食欲が減り、体調を崩しました」

「水が合わんかったんやな」

 はい、と森岡は頷くと、

「先程の件、一つ確認したいのですが、東顕上人は、その控の間で会話していた人物を特定することまではできなかったのですね」

 巧みに話題を元に戻した。

「そうや。立ち聞きなどしているところを人に見られたらばつが悪いと、足早に法主さんの部屋へ入ったということや」 

「では、先生に報告するのは二、三日待ってもらえますか。出来得る限り、私の方でも確認を取ってみます。それからでも遅くはないでしょう」

「そりゃあ、ええけど。無駄骨やと思うで」

 谷川東良は渋い顔をしながらも、森岡の考えに理解を示した。

 森岡は谷川東顕を疑ったのではなく、情報源が総本山ということが気になった。しかも、せっかく芦名泰山を口説く手掛かりを手中にした彼にすれば、運命を左右する重大事に臨んで、早計な判断を下すわけにはいかなかったのである。


 二日後、森岡は榊原の会社に出向いた。

「おかしいなあ、お前からの連絡を受けて、さっそく澄山寺の住職にそれとなく話を向けてみたんやが、そういう様子は無かったで」

 榊原は首を傾げながら言った。

 澄山寺というのは、かつての本山・末寺制度下において、大本山澄福寺の宗務を補佐する役目を担っていた護寺院の一つである。現在は、以前のような縛りは無いが、それでも親密な関係が保たれていた。

「そうか、それを聞いて一安心やな」

「いや、安心するのはまだ早いんやないか。事実、芦名上人が腹を決めて、総務にのみ伝えたのかもしれんのやからな」

「それは考えられんな」

 森岡は即時に否定した。

「なんでや」

「それやったら、なんで外に漏れるんや。総務清堂のみに伝えたとすれば、秘密厳守のはずやろ。当然、清堂の口も堅いはずや」

 もっともだな、と榊原は肯いた。

「それやったら、洋介はどない考えとるんや」

「多分に希望的観測が含まれるんやが、今回の件は敵の撹乱戦術やないかな」

「撹乱戦術やて」

「この前、爺ちゃんから聞いた話から推察すると、芦名貫主がそう簡単に腹の内を外に明かすとは思えんのや」

「ふむ」

「そこでだ。敵にすれば、大河内貫主を巻き込まれる前に、芦名貫主のところで、こっちに引導を渡そうとしたんやないかな。芦名貫主が味方に付いたと、でまかせを吹聴してこっちの戦意を喪失させようとな」

「せやけど、そないに上手いこといくかの」

 榊原は合点がいかない面をした。

「できんことはないやろ。場所は総本山やで。清堂のお膝元やないか。何人かがその気になればできると思うで」

「どうするんや」

「まず、宗務院に味方がいれば、東顕上人の訪山予定を掴むことができる。次に、法主さんへの面会は、必ず事前に時間を申し出なあかんから、東顕上人が宗務院で記帳を済ませた後、行動を監視して、機会を窺っていたんやないかな」

「そこまではわかるけど、そないにタイミングよく、東顕上人の耳に入れられるか」

 榊原は、まだ懐疑的な眼を解いてはいなかった。

「大して難しいことやないと思うで」

 自信有り気に言った森岡の語調が変わった。

「ところで、爺ちゃんは法主さんにお会いしたことはあるか」

「無いな。真興寺へは何度も参拝してるけどな」

「それやったら、控の間がどこにあるか知らんやろ」

「ああ、知らん」

「俺は先生のお供で、何度かお会いしたことがあるんやが、控の間ちゅうのはな、法主さんの部屋へ行く途中にあるんや。つまり、間違いなく法主さんの部屋を訪ねる者しか前を通らん部屋や。せやから、あらかじめそこに潜んでいて、時間的に東顕上人の向かって来る姿を確認できれば、足音で頃合を計かれる」

「なるほど。そうと聞けば、あながちできんこともなさそうやが、それかて確実に東顕上人の耳に入れられるとは限らんやろ。そないな不確かなことをやるかな」

「やるな」

 森岡は断言した。

「敵にすれば、上手く行かんでも、別に失うものは何も無いのやから、やるだけやってみたんと違うか。もし、俺が向こうの立場やったら、同じ事をするかもな」

 森岡は、にやりと榊原に目配せした。

 その貫録たっぷりの仕草に、

――このわしでさえ圧倒するこの風格は何だ? この一ヶ月の間に何があったのだろうか。

 と、榊原は憶測した。

「危うくその計略に引っ掛かるところやった、ちゅうことか。しかし、もしそうだとすると、向こうにも相当に頭の切れる者が居るということやな。洋介、余程褌を引き締めんと足元を掬われるで」

 言い終えて、

――釈迦に説法だな。

 と、榊原は心の中で呟いた。

「そうやな。もし、芦名貫主が本当に清慶支持を決めたのなら、説得に成功したということやから、それはそれで大したものやしな」

 このとき、森岡は得も言われぬ奇妙な心境に陥っていた。

 さすが総務だけのことはあって、有能な側近を抱えているらしい。彼は、未だ姿の見えぬ強敵を前に気を引き締める一方で、これまでのような敵対心が沸かないことに違和感を覚えていたのである。

「それより、洋介。この一ヶ月の間に何があったか、そろそろ本当のことを教えてくれんかな」

 そう言った榊原の眼は慈愛に満ちていた。

 森岡は微笑を返し、口を開いた。

 

 年末の慌しい中、森岡は芦名泰山と面談すべく、急ぎ東京に出向いていた。

 谷川東顕からの情報が真実にせよ、謀略にせよ、正月を越して時間を置けば置くだけ、不利な状態に追い込まれると危惧したからである。

 この俄かの上京に、彼の心中は穏やかではなかった。今回の役目は久田帝玄の、引いては神村正遠の命運を分かつ大任であった。情報どおり、芦名貫主の腹がすでに清慶支持で決まっていれば、その時点で戦いに終止符が打たれることになる。

 たとえ中立のままであっても、森岡に確固たる勝算があるわけでもなかった。僅かに書道家としての、芸術に対する欲望を喚起することに望みを賭けるしかないという、実に危うい面会だったのである。

 その結果として、交渉が不首尾に終われば、大河内貫主に辿り着くまでもなく、久田の敗北、つまりは神村の敗北となった。

 前夜、森岡は九州から駆け付けた菊池龍峰と酒を酌み交わしながら、面会の段取りを打ち合わせていた。

 飲酒が進んで行くうちに、獲らぬ狸の皮算用ではないが、神村の本妙寺の貫主就任後のことに話が及んだ。

「東良から聞くところによると、森岡君は今回の件だけじゃなくて、本妙寺のときから、随分と神村上人に尽力しているそうだね」

「尽力だなんて、とんでもないことです」

 森岡は首を振った。

「ほんの微力で恥ずかしい限りです」

「いやいや、明日の芦名上人に対する墨の件も、森岡君の働きと聞いているよ」

「私の知り合いに華僑と親しい人がいまして、その縁でたまたま上手く行っただけのことです」

「ずいぶんな謙遜だね」

 と感心したように言った菊池が、一転探るような目つきになった。

「ところで、今このような話をするのもどうかと思うのだが、神村上人が本妙寺の貫主になった後も、森岡君は神村上人に助力するつもりかね」

「ええ、まあ……」

 菊池の真意を計りかねた森岡は、曖昧な返事をした。

「いや、おかしなことを訊いて悪かったが、大本山といっても、名ばかりのところが多くてね。大本山や本山は基本的には檀家を持たないから、安定した収入というのが見込めず、経済的には苦しい寺院が多いのだよ。参拝客といっても特別な史跡でもない限り当てにはならないしね。そこで、比較的都市部に近い寺院などは、広い敷地を利用して駐車場を経営したり、看板広告の場所を提供して収入を得たりするのだが、これらもやり過ぎると景観を損ねてしまい、信者さんの不評を買ったりする。だから、神村上人も経営には苦しむだろうと思ってね、つい老婆心ながら訊いてみたのだ」

 菊池は弁解するかのように、事細かく真意を説明した。

「そういうことでしたら、ご心配は要りません。微力ですが、私の力の及ぶ限り支援させて頂くつもりでおります」

 森岡は、それでも当たり障りなく答えた。

 実際、本山・末寺の制度が廃止されて以来、大本山及び本山の台所事情は苦しかった。大本山や本山の貫主は、名誉職的な色合いが強かったため、滞り無く勤め上げようという者が大半であった。為に、長年に亘り修築を施されず、荒れ果てたままの寺院も多かったのである。

 稀に様々な事業を試みる貫主もいたが、それには支援者が付くか、貫主の個人的な持ち出しとなった。本妙寺とて例外ではなく、しかも貫主が若い神村となれば、長期政権になることが確実で、一層寺院の経営を支える事業が必要と考えられていたのである。

 さて本山と末寺の関係であるが、これは少々複雑である。単純に現在本山と呼ばれる寺院群とそれ以外に別れているのではない。

 天真宗で言えば、総本山真興寺から見れば、別格大本山・法国寺をはじめ、すべての寺院は末寺であり、かつて法国寺は六百余もの末寺を従える京洛流の総本山とも呼ばれていた。

 また、同じ一般末寺であっても名刹、古刹と呼ばれる寺院からは分派した寺院も多数あり、それらの寺院にとってはその名刹、古刹もまた本山となるのである。つまり、総本山真興寺以外の寺院は、本山でもあり、また末寺でもあったのである。もっとも圧倒的大多数の寺院が末寺であることに変わりはないのであるが……。

 尚、厳密に言えば現在においても本山に対しての、いわゆる上納というのはある。だが、過去の本山・末寺制度下における強烈な『縛り』はなく、親睦団体の会費のようなものと考えれば良いだろう。

「それより、私も一つお訊ねしても良いでしょうか」

「何かな」

「菊池上人は貫主の座は目指されないのですか」

 菊池は荒行を六度成満している。貫主の資格は有していた。

「うっ」

 一瞬、菊池の顔色が変わった。急所を突いた問いだったのだろう。

「いや、考えなくもないのだが、何分……」

 菊池は言葉を詰まらせた。

「言い難いことでしたら、無理にはお訊ねしません」

「そうではない。私も貫主の座に就きたい夢はあるが、ままならないのだよ」

「良くわかりませんが」

「憚りながら、自坊の冷泉寺は末寺とはいえ名門でね。檀家も一千二百以上あるのだ」

 つまり、年中行事や葬祭儀式に追われる日々で、そのうえ本山の宗務など手が回らないというのである。

「御子息は」

「長男はまだ二十五歳でね。とてものこと宗務など任せられない。他に弟子も数人いるが……」

 菊池は、任せ切れないのだ、と首を横に振った。

「谷川東顕上人も同じではないかな」

 谷川兄弟の自坊雲瑞寺も名門であった。

「しかし、東良上人がおられるではありませんか」

「あいつは駄目だ」

 と顔の前で手を振った。

「荒行も一度切りだし、東顕上人の信用がない。同じ名門でも雲瑞寺の檀家は名家も多い。とてものこと、宗務は任せられないだろうな」

 たしかに、同じ名門でも京都や近畿内の寺院と地方寺院は同格ではない。たとえば、同じ檀家数を抱えていても、その収入は相当の開きがある。地方寺院の場合は、華美な葬祭儀式を避けるため、葬儀の諸費費用を戒名の位によって一律に決めている場合もあるが、都市部では、そのような取り決めをしている寺院は少ない。したがって、葬儀の御礼に数十万円から数百万円を差し出すことも珍しくないのである。

「なるほど。先生は、ある意味で幸運だったのですね」

「一僧侶としてはそういうことになるな」

 経王寺は檀家がなかった。もっとも神村は、仏道修行のため敢えて檀家を持たなかったのだが、そのような勝手ができるのも、経王寺が極々平凡な末寺であったからといえよう。 


 翌日の午前、森岡と菊池は澄福寺に芦名泰山を訪ねた。

 東京目黒にある大本山澄福寺は、栄真大聖人入滅の霊場であった。

 大聖人の最晩年、周囲の反対する中、天真宗不毛の地であった東北への布教に旅立った彼であったが、道中の関東で病に倒れてしまった。やむなく、支援者だった細見宋沢(ほそみそうたく)の館で養生することになり、五ヶ月後に、波乱に富んだ人生の終焉を迎えたのだった。

 その細見氏館の背後の山頂付近に建立されていた一宇を、栄真が開堂供養し、『栄清山(えいせいざん)澄福寺」と命名したのが、当寺院の起源と言われている。栄真大聖人没後、細見氏が所領四万坪を寺領として寄進し、寺院としての基礎が築かれることになった。

 その後、鎌倉、室町時代には関東の豪族の庇護を、江戸時代には諸大名の信仰を集め、隆盛を極めた。また、栄真大聖人入滅の霊場とあって、御遺品、御真筆が数多く所蔵されており、こうしたことから『東の妙顕』との別称を持っていた。

 貫主の芦名泰山は七十二歳。天山修行堂で八度の百日荒行を達成した傑物である。久田帝玄ほどはないが、この世代では大柄な方である。

 天山修行堂で荒行を成満したということは、久田帝玄の父帝法上人の薫陶を受けた僧侶ということである。であれば、当然のこと帝玄を支持するのが筋と考えられたが、何分生粋の学者肌で偏屈者の彼には、世間の常識が当てはまらないもどかしさがあった。

 芦名泰山は丁重に招じ入れてはくれたが、彼の表情が一瞬たりとも緩むことはなかった。その能面のような表情から、彼の真意を読めない二人は、駆け引きに奔ることを止め、正攻法で臨む腹を決めた。

 茶を運んで来た若い修行僧が退出するのを見計らって、芦名の正面に座っていた菊池は、用件を申し述べることをせず、無言のまま桐の木箱を三つテーブルの上に置くと、一つずつ丁寧に中身を取り出し、正面を芦名に向けて並べた。

 その瞬間、芦名を凝視していた森岡には、彼の身体が硬直したように見えた。芦名は極度の動揺を隠しきれない様子で、両手のひらを何度も握ったり開いたりした後、右手で頬を撫で回し、最後に両目を擦ると、

「こ、これは……もしかしてあの幻の? ……えっ、まさか本物?」

 と半信半疑で訊ねた。

 妙な話だが、人というものは絶対に有り得ないと思っていたことが、現実に目の前で起こると、たとえそれが自身にとっては幸運なことであっても、事態を飲み込めず挙動不審になるものらしい。

「もちろん、本物です!」

 大きな声だった。

 森岡の力強い声が芦名の身体の芯に響いたのか、彼はようやく正気に戻ったようだ。

 落ち着いた声で、

「これは、いったいどのようにして手に入れたのですか」

 と訊いた。

「華僑に頼んで手に入れました。間違いのない代物です」

「手に取っても良いですか」

「どうぞ、どうぞ」

 うおー、と雄叫びのような声が上がった。

「まさか、噂に名高い中国十聖人の姿見の墨を手に取れるとは……これは荀子……これは荘子……これは、おおー、老子か……」

 芦名は目の前の品が本物だとわかると、まるで欲しかった玩具をようやく手に入れたときの子供のように、一つ一つ大事そうに手に取り、学者の面相や衣装などから、人物の名を挙げて行った。

「風体だけで、誰であるかがおわかりになるなんて、さすがですね。私などは、初めてこれらを見たとき、どれが誰やらさっぱりでした」

菊池は本音とも追従とも付かぬことを口にした。

「いやあ、失礼。あまりの驚きで、つい我を忘れてしまいました」

 と、芦名は照れくさそうにした。

 森岡は胸を撫で下ろしていた。芦名が見せた一連の驚嘆と好奇の混ざり合った表情に、森岡は彼の心が魅了されていると看取った。そして、芦名がどちらを支持するか、まだ心を決めてはいないと確信した彼は、ここが潮目だと判断した。

「宜しければ、この三体を貫主様に献上致しますが」

 勝負を掛けた言葉であった。

 少し間があった。

「……そうですか、有難う」

 居住まい正して頭を下げた彼の表情は、如何とも表現しがたいものに変わっていた。もちろん彼は、森岡と菊池の来訪の用件も、墨の献上の申し出が、それを代弁していることも承知していた。彼はそのうえで、了承の返答をしたのである。

 芦名が見せた表情は、貴重な代物を手に入れた喜びの反面、思いも寄らぬ成り行きに、上手くしてやられたという自虐の思いと、己の厳正中立の信念はこれほどまでに脆弱なものだったのか、という失意の念が複雑に絡み合ったものだったのである。

「多少時間は掛かりますが、残りの七体も探し出しまして、必ず献上致します」

「いや、それはまた……本当ですか」

 森岡にそこまで言われると、芦名もすっかり観念する他なかった。

 それでも尚、目的を果たし安堵の表情を浮かべていた菊池を他所に、森岡は念を押しに出た。

「このところ、良い墨が少なくなっているそうですね」 

 その言葉に芦名の眼が反応した。

「そうなのだよ。私も困っていてね。創作意欲すら沸かなくなってしまった」

「そう思いまして、こういう墨も入手したのですが」

 森岡は、アタッシュケースの中から紫色の袱紗包みを取り出すと、芦名の眼前で広げ、和紙に包んだ縦八センチ、横三センチ、厚み七ミリの板状の墨を三枚取り出して見せた。

「これは、もしかして歙州(あしゅう)産ではないかな」

 手に取った芦名は、十聖人の墨を見たときと同じ驚きの反応を示した。

「さすがですね。そのとおりです。どうぞこれもお納め下さい」

「えっ、これも頂戴して良いのかね」

「ご遠慮なく、どうぞ」

「いやあ、それは有難い。この墨でも一枚二百万の値が付く良い墨でね。いやいや、値段はともかく、これもまた手に入り難い品だからね」

 芦名は十聖人の墨を手にしたときと同様に相好を崩した。

 森岡は、榊原壮太郎に依頼して収集していた高級な墨の一部を持参していたのである。たしかに中国十聖人の墨は、これらより遥かに貴重な代物ではある。しかし、芦名はあくまでも書道家であって、骨董品の収集家ではない。

 まさか中国十聖人の墨を創作に使用するわけにいかない。つまり、いくら貴重な品であっても、使えない物の価値は半減するのだ。森岡の凄さは、芦名の心理を推量し、そのジレンマを解消すべく、手頃な墨を持参していたところにあった。

「もし、ご要望がございましたら、私どものルートを使って、今後も入手致しますが」

「本当かね。それは重ね重ねの心遣い痛み入る。そうしてもらえれば、本当に助かります」

 芦名は心底から言った。彼は入手困難な高級品を目の当たりにさせられ、森岡が持つルートの確かさを十分に認識していたのだった。

「ところで、貫主さんに一つだけお願いがあるのですが」

 話も纏まり和やかな談笑が続いた後、退席する間際になって、森岡が神妙な顔つきで切り出した。

「お願いとは、何かね」

 芦名の顔が強張った。

「他でもないのですが、本日の件は合議の日まで内密にして頂きたいのです」

「内密だと? 今日、君たちに会ったことを隠せということかね」

 いいえ、と森岡は首を横に振った。

「本日の面談はすでに他のお坊さんたちに知れています。そうではなく、貫主さんが承諾されたことを内密にして頂きたいのです。つまり、私どもの要請の承諾も、向こうの支持の表明もしていない、お会いする前の厳正中立を守るということにして頂ければ有難いのですが」

「会う前の中立か……良いでしょう。要は、君たちに会う前の言動をしていれば良いということだね」

「そのとおりです」

「それなら、いっそのこと……」

 菊池がしたり顔で口を挟もうとしたとき、森岡は彼の膝をポンと叩いて、その先を封じた。

 そして、訝しげに見つめる菊池に、有無を言わせぬかの如く、

「無理なことをお願いして申し訳ありません」

 と語調を強め、深々と頭を下げた。

「いやいや、君たちの誠意に比べれば取るに足りないことだよ」

 経緯はどうであれ、ともかくも腹が決まったせいか、芦名は晴れ晴れとした顔つきになっていた。

 森岡と菊池は訪れたときと同じように、緊張の表情を装って澄福寺から辞去した。

 

 帰りの車に乗り込むと、菊池はすぐさまわだかまりを森岡にぶつけた。

「森岡君。さきほど、なぜ芦名上人に中立とお願いしたのだね。敵を安心させるためなら、いっそ清慶支持を表明したことにした方が、もっと効果的ではないのかね。つまり、我々の説得は不調に終わったと思わせた方が、敵も油断するのではないのか」

 菊池は、先刻言葉を遮られた不満を洩らした。

「お言葉ですが、それでは芦名上人を追い詰めることになりかねません」

「追い詰めるだと?」

 菊池には意味がわからなかった。

「私たちに御前様支持を承諾しておきながら、中立の態度を取ることは、私たちしか知りません。元々中立を守っていらっしゃったのですから、周囲は芦名上人の御意思に変更なしと受け取るでしょう。それに対して、清慶支持を表明しておき、合議のとき御前様支持に回ったとなると、周囲に嘘を吐いたことになります。もし、合議までに噂を聞き付けて、清慶側が確認をするため、芦名上人の許に出向いたらどうなりますか」

「芦名上人は返答に窮する、か」

 そうです、と森岡は肯いた。

「嘘を吐いた、とまではならなくても、少なくとも前言を撤回する風見鶏と、少なからず信用を落とすことになるでしょう」

 森岡は穏やかな口調で淡々と答えた。

「なるほど……」

「それに、今後我々が大河内上人に大攻勢を掛けることとの整合性が取れなくなります」

「整合性とは」

「清慶側にしてみれば、芦名上人が自分達を支持し、勝負の趨勢は決しているのに、私たちが大河内上人に悪あがきをする理由は何か? と余計に警戒をしかねません。中立であれば、我々の芦名上人の説得が成功しなかったという事実だけが残り、その分だけ清慶側に安心感を増幅させます。それにより、多少でも大河内上人への警戒が緩めばそれで良いのです」

「……」

 非の打ち所のない正論に、菊池には返す言葉が無かった。

 彼は、森岡の真意を聞いているうち、腹の底から末恐ろしいものを感じ、心の中で呟いていた。

――この男はいったいどういう奴なのだ? この若さで芦名上人の前に出ても物怖じ一つしない。そういえば、芦名上人どころか、御前様の前でも動じる姿を見せなかった。無神経なだけなのか……そうではないだろう。ただ無神経な男に、これほどの思慮の深さは有り得ない

 菊池龍峰は、森岡に気づかれないように慨嘆した。

――学生時代は気にも留めなかったが、あの神村上人をして、この男を手元に置きたくなった気持ちがわかった気がする。

 一方で森岡は、菊池龍峰が小さく見えていた。学生時代に感じた豪胆さは影を潜め、何やら目先の些細な事象に囚われているように映った。もっとも、怪物久田帝玄と出会った後では、誰であろうと小物に映るのかもしれない、と思い直したりもした。

 

 物事とは、誠に不思議なものである。動かないときには梃子でも動かないものが、一旦歯車が回り出すと、ボールが下り坂を転げるかのように動き出す。

 芦名泰山の支持を取り付け、ともかくも首の皮一枚繋がった思いで大阪に戻った森岡に、榊原を通じて興味深い情報が入った。

 京都の、とある墓地に関するものであった。

 その情報は、寄りによって渦中である別格大本山法国寺の護山会会長・岩清水哲弦(いわしみずてつげん)から齎されたものだった。

 護山会とは文字通り、山すなわち寺院を護る支援者の集まりを指し、一定の寺院に属し、葬祭儀礼などにより布施をする檀家とは異なる。

 元々、寺院の多くは山にあったことから、その山の名をもって呼ばれており、それを『山号』と言った。比叡山延暦寺、高野山金剛峰寺と言えばわかりやすいであろう。

 通常、檀家を持たない大本山や本山支援のための組織であったが、昨今では檀家を持つ身でありながら護山会をも組織する末寺も多々見られるようになった。寺院の経営が難しくなった証左かもしれない。

 法国寺と聞いて、話の次第によっては大河内工作に役立つかもしれないと、森岡は秘かな期待を抱きながら、詳細な話を聞くため、榊原と共に岩清水を訪ねた。

「岩清水さん、彼が先日お話した森岡君です。そのときも言いましたが、ご覧の通りの若者とはいえ、頼りになりますので、もう一度お話をして貰えませんか」

 榊原に促されて、岩清水が訥々と話し始めた。

 

 京都の堀川通りから、一筋東に入ったところに、約八百坪の無縁仏を祭った墓地がある。その無縁仏というのは、およそ五百年前、室町時代に起こった応仁の乱の戦いで落命したものの、引き取り手が無く、風雨に晒されていた千体以上もの亡骸を、見るに見かねた天真宗の僧侶が、自坊の近くの野原に埋葬したことによるものだった。

 その後、戦国時代の度重なる戦や、明治維新に関わって亡くなった身元不明の遺体を、次々と埋葬していったため、その数はとうとう二千基にも及んだ。そうした無縁仏を、周辺の四ヶ寺から成る『無量会(むりょうかい)』が一年毎に交代しながら、今日まで営々として供養してきたのである。

 ところが、終戦直後のことである。

 占領下の混乱のどさくさに紛れて、登記の不備を理由に、当時の大蔵省がその墓地を勝手に所有地として登記するという暴挙にでた。

 当然、無量会は大蔵省に抗議したが、なんやかやと理屈を捏ねて、自分たちが勝手に作成した登記書を盾に抗議を撥ねつけた。

 無量会は、訴訟を起こして事を荒立てる真似はしなかった。どのような事情があったか定かではないが、登記していなかったのは彼らの落ち度だからである。したがって、実効支配をしていたとはいえ、法律上は大蔵省側に正当性を与えることになった。

 一方、大蔵省側も成す術がなかった。何しろ、宗教法人が相手である。しかも、我が国最大級を誇る天真宗である。下手な手出しはできなかった。小役人には、二千基もの墓石を勝手に処分するというような強行手段に打って出るほどの度胸はなかったのである。

 お互いに有効な解決策を見出すことができず、手詰まりのまま今日に至ったのだが、ここに来て両者に歩み寄りが出てきた。墓地周辺の開発整備が進み、景観的にも墓地の存在が問題視され始めたのである。

 そこで、岩清水の登場となった。彼は、法国寺の黒岩前貫主から依頼を受け、精力的にこの問題の解決に着手していた。

 ところが、その最中に黒岩の勇退が決まってしまい、梯子を外された格好になった。

 そのうち、藤井清慶と久田帝玄の争いまで起こってしまった。次期貫主の決定には時間を要することが確実となり、しかも岩清水は両者とも面識が無く、どちらに転んでも彼が進めて来た解決案に同意してもらえるか不透明である。

 それどころか、法国寺護山会会長の座に居られるかどうかという危惧さえあった。もし、会長を解任されることにでもなれば、彼の計画はご破算になってしまうのだ。

 そこで進退窮まった岩清水が、旧知の榊原に助けを求めた、という経緯であった。

 岩清水は、途中から堰を切ったように捲くし立てた。それは黒岩の勇退以来、どこにも吐き出せなかった不安な気持ちをぶつけたかのようであった。

 岩清水は七十七歳。高齢のわりに頭髪は豊富で若々しく見える。

 彼はこの移設事業が、この世で最後のご奉公と心に決めていると付言した。

「しかし、いかに登記の不備があったとはいえ、戦後のどさくさにまぎれて勝手にわが物にするとは、まったく今も昔も役人という生き物は腐り切っていて、反吐が出ますな」

 榊原は、ずいぶんと口汚く役人を罵った。彼もまた、区画整理という大義名分の下、所有する神戸北区の土地の一部を他地区の土地と強制的に交換させられるという苦汁を飲まされた経験があった。ただ、榊原の怒りは、土地交換そのものではなく、そのとき対応した役人の横柄な態度に対してであった。

「それで、岩清水さんが進めてこられたという解決策とは、いったいどのようなものだったのですか」

 榊原の怒りはさておき、森岡は話の先が知りたかった。

「わしが考えたんは、財団法人形式や」

 一転、岩清水は得意げな顔をした。

 まず、財団法人を設立して出資者を募り、その資金で堀川の土地を現財務省から一坪五十万円で買い取る。

 次に、法国寺の裏手の十万坪の山林を買収して霊園を造り、とりあえず二千基の墓石を移設し、その後は順次霊園を拡大して行く。

 最後に移設をした堀川の土地を整地して、一坪三百万円で売却するというものであった。

 問題は、財務省から買い取る墓地の買収資金四億円と、山林の買収資金五億円――坪たり五千円で十万坪――の、合わせて九億円をどのようにして調達するかということだった。

 墓地と山林を買収さえできれば、霊園地の造成と移設に掛かる費用は、その土地を担保に、銀行から借り受けることも可能であるし、工事を委託する霊園業者に肩代わりさせることも可能である。

 墓石を移設してしまえば、更地にして売却すると、十八億円を手にする計算であるから、無量会にそれぞれ一億円ずつ渡したとしても、残りの十四億円で、買収に掛かった費用と、造成に借り受けた金の大半は返済することが可能であった。

 その後、順次霊園を拡大して行けば、一般に墓地を販売して得た利益で、数年のうちに借金は完済できる。

「なかなか、良い計画ですね。それでこの話は、一旦は纏まったのですね」

 森岡が語調を強めて念を押した。彼が乗り気になった証拠である。

「そうや。無量会とも、財務省とも話は付いていた。売却先には、すでに京洛ホテルや亜細亜生命など数社の申し出もあったんや。もっとも八百坪では狭いから、周りの住宅も地上げせにゃならんけどな」

「それなら、なぜ振り出しに戻ったのですか」

「最初の九億円は、法国寺の護山会のメンバーの中に出す者がおったんやけど、その人は黒岩上人個人の支援者やねん。せやから、黒岩上人が勇退したのなら、計画から抜けると言い出したんや」

「なるほど、そういうことですか」

 森岡は納得顔をすると、

「岩清水さんには申し訳ないですけど、その支援者の気持ちはわからなくもないですね」

 と、神村に対する自身の心情と重ね合わせて言った。

「それで、次の貫主に誰がなるかわからないし、金を出す支援者がいるかどうかもわからない。また御自分が護山会会長の座にいられるかどうかさえも不透明、ということなのですね」

「そうなんや」

「それなら、いっそのこと無量会がやったらどうなのですか」

 森岡の指摘は当を得ていた。

「それやがな、森岡君。霊園事業をするためには、宗教法人が関与せなならんから、当然無量会が事業主になればええのやが、無量会は移設に関する財務省との交渉も、霊園事業も、整地した後の売却先の選定も自分たちが主体になる事は欲しなかったんや」

「また何故でしょうか。格好の儲け話でしょう」

「身の程を弁えていたというか、面倒な交渉事や大金の調達など、分不相応と敬遠していたのやな。せやから、縁を辿って法国寺の黒岩貫主に相談を持ち掛けたというわけや」

 いつしか岩清水は饒舌になっていた。経緯を話しているうち、気分が高揚したらしい。

「洋介、どうや。この話、大河内上人の籠絡に使えんか? お前がやるんやったら、わしも何ぼか出すで」

 榊原も前向きな意向を示した。

「せやな、悪い話やないな」

 森岡は、榊原にはそう答えたが、

「岩清水さん。返事は二、三日待ってもらえませんか。前向きに考えますので」

 と猶予を願い出た。彼には確認したいことがあったのである。

 岩清水と別れた森岡は、さっそく東京の真鍋高志に連絡を取った。真鍋に霊園事業の専門家としての意見を求めたのである。

 二日後、森岡は真鍋と共に、法国寺の裏手の買収予定地を見て回り、幹線道路から直接私道が引けるなど、霊園地として瑕疵が無いことを確認したうえで、岩清水に支援する旨の連絡を入れた。

 森岡は、この話を大河内に持ち込もうと考えていた。

 描いた絵図はこうである

 事業主を傳法寺にして、供養を無量会に委託する。岩清水を法国寺から傳法寺の護山会に移籍させ、財団法人を作る。財団法人の役員には、森岡自身と岩清水の他に榊原と真鍋を入れる。真鍋興産グループからは、いくらかの資金の提供も見込まれるし、本妙寺の件で三重の本山法仁寺・広瀬貫主の支持を取り付けてくれたことへの恩返しにもなる。


 同じ日の夜、久々に気分が晴れた思いの森岡は、真鍋と朝まで飲み明かそうと心に決め、ロンドにも立ち寄った。

 真鍋高志は実に好青年だと、森岡は思っている。

 お互いの本拠地での飲食代は受け持ち合う、というルールを作っているが、森岡の方が頻繁に東京へ出向いているうえ、食道楽の大阪に比べ東京は値段が高い。クラブにしても、平均すれば北新地より銀座の方が二、三割ほど値が張るのが現状だ。単純に地価が高いのだから当然のことである。

 だが、真鍋は嫌な顔一つ見せなかった。

 彼が資産家の御曹司ということもあるだろうが、むしろ資産家の方が始末家は多い。初代ではなく、苦労知らずの三代目だからというのでも、生来が能天気だというのでもない。真鍋は頭は切れるし、大らかで自身の立場に奢ることもなかった。

 森岡は『育ちが良いのだろう』と認識していた。

 樹木に例えるなら、節の全く無い、真っ直ぐ天に伸びる名木であり、些末なことに頓着しないのだ。竹は節があってこそ伸びるとも言うが、人は節が無くても大器に育つということなのだろう。

――多くの節がある俺とは違う。もし母が失踪などしなければ、もし父があと十年長生きしていれば、俺も彼のように成れたのだろうか。

 と、森岡は一種の憧れのような思いを抱きながら真鍋高志と付き合っていた。

 茜は真鍋に会釈すると、いきなり、

「ちょっと、お話があるのですが」

 と、森岡をカウンター席へ誘った。

 ロンドは、入り口の正面にクロークがあり、その横に化粧室があった。さらに、その横にカウンター席が八席あり、廊下を挟んでソファー席があった。

 客が要望しない限り、基本的にカウンターは待合の席である。今宵は、坂根と南目も真鍋と同席をしていたので、カウンター席には一人の客もいなかった。

 バーテンダーが、注文を伺う素振りを見せたが、彼女は片手を胸の前に上げ、彼を遠ざけると、

「森岡さんが入院中、筧さんが頻繁に来店され、勘定は会社に付けくれとおっしゃったので、いちおう保留しているのですが、それで宜しいのでしょうか」

茜は森岡の顔を窺った。

「ええよ」

「うーん」

 茜が思い悩むような顔をした。森岡が、取締役以外のロンドの使用を許可していないと承知していたからである。

「差し出がましいようですが、筧さんは役員ではないのでしょう」

「そうやが、まもなく取締役に昇格させるつもりやから、特例でロンドの使用を許可しとる」

「でも……」

 それでも茜は、含みのある仕草をした。森岡は、いつもと違う茜の表情が意外だった。ママの立場であれば、商売上悪い話ではないはずである。

「どうしたんや」

「あの人の愛想笑いがわざとらしくて」

「そりゃあ、営業マンやからな。仕方がないやろ」

 森岡は思いも寄らぬ茜の言葉に戸惑いながらも、筧を擁護した。

「でもね、時折、寒気がするほどの不気味な眼つきをされることがあるのです」

 茜は嫌悪感を露わにした。

「そ、そうか」

 森岡は戸惑った。

 茜ほどの女性、つまり若くして高級クラブを経営するほどの人物が、これほど毛嫌いする原因は何であろうかと気に掛かった。

「それに」

「他にまだあるんか」

「私や女の子が近づくと、隠語を使って話をされるの」

「隠語?」

 森岡は、一瞬首を捻ったが、

「そりゃあ大事な商談やったら、話が洩れないように隠語も使うやろ」

 と諭した。

「ですけど、幾人もの違う方といらっしゃっいましたけど、いつも同じ隠語ですのよ」

「ふーん、どんなんや」

「『R』がどうのこうの、と話していらしたわ」

「R、それだけか?」

「ええ、Rを利用するとかなんとか」

――Rとは、人か物かそれとも場所か……

 森岡は心当たりを思い浮かべたが、むろん雲を掴むような話である。

「誤解なさらないでね。私はいつもこのような告げ口をしているわけではないのですよ。その、あの……」

「なんや」

「森岡さんですから」

 と、茜は顔を赤らめる。

「そ、そうか。わかっている」

 森岡も照れたように視線を逸らした。

 

 席に着いた森岡は、

「ママ、あらためて紹介するわ、彼が真鍋興産グループの御曹司、高志さんや。ええ男やろ。大金持ちでしかも独身やで」

 と煽るように紹介した。すると、

「ええー、本当に独身なのですか」

「おいくつなのですか」

 狙い通り、ホステスたちがざわめき始めた。

 その中に桐子というホステスもいた。実は、この桐子から言い寄られ、森岡は閉口していた。同伴やアフターを何度も求められ、挙句には口座になるよう懇願されていたのである。

 ロンドの決まりによると、店の口座である谷川東良の同伴で訪れた森岡は、彼が希望しない限りそのまま店、それはつまりママである茜の口座になった。桐子はそれを、自分の口座に移して欲しいというのだ。

 彼女の執拗な誘いに乗って、何度か同伴やアフターに応じたが、森岡には迷惑でしかなく、男女の関係になる気など爪の先ほどもなかった。

 だが、桐子には本心が伝わっていないようだったので、真鍋に対し心の中で手を合わせつつも、彼女の気持ちを彼に向けさせようと試みたのである。

「こら、はしたない」

 茜は彼女たちを一喝し、

「真鍋様、先ほどは失礼しました」

 と非礼を詫びた。

「いいえ。ママほどの美人と秘密の会話ができる森岡さんが実に羨ましい」

 真鍋は鷹揚に笑った。

「まあ。ご冗談を」

「冗談ではありませんよ。仕事柄、銀座の高級クラブをよく利用しますが、ママほどの美形には出会ったことがない」

「森岡さんのお知り合いは口がお上手ですこと」

 茜は照れたように森岡を見た。

「真鍋さんは、べんちゃらを言うような人やないで。俺も同感やな」

 森岡は本音ともからかいとも付かぬ体で言った。

「森岡さんまで……でも、やっと元気になられましたね」

 茜は、どことなく安堵の目をしていた。

「そうやな。芦名貫主は味方に付けたし、残りは大河内貫主一人に絞られた。大河内貫主に関しては、まだようやく戦える武器を手に入れたというだけで、勝てる見込みは薄いとは思うが、丸腰ではなくなった分だけ、勇気が出て来たわ。この間の膝枕のご利益かな」

 森岡は、大河内対策に行き詰まったあるとき、茜に膝枕を求めたことがあった。

「まあ、あんなことでご利益があるのなら、いつでも膝をお貸ししますわ」

 茜はかすかに恥じらいを見せた。

――案外身持ちの固い、初心な女性かもしれない。

 そう思うと、森岡にはそこはかとない嬉しさが込み上げていた。だが反面、茜に惹かれれば惹かれるほど、彼女の背後にいるであろう男の存在が気になった。

「ところで、森岡さん。こんなところで仕事の話はどうかと思うのですが」

 二人の間に通い合う情を察した真鍋は、申し訳なさそうに口を挟んだ。

「いえ、どうぞお話下さい」

「財団法人の役員の件ですけど、後々のことを考えると、京都の有力な府会議員か市会議員を一人、京都市役所のOBを一人入れた方が良いですよ。政治家には政治資金を、役所には天下り先を提供するのです」

うーん、と思わず森岡は唸った。

「さすがですね。そこまでは気が付きませんでした。では、そのように図りましょう」

 と目から鱗を落としたように言った。

「しかし、まさか森岡さんと一緒に仕事ができるなんて思ってもいませんでした」

 真鍋は口元を綻ばせた。

「私も同感です。私がIT産業で、真鍋さんが造園や霊園事業という、まるでデジタルとアナログの代表分野のような仕事に就いていたのですから、一緒に仕事をする接点などありえないと思っていました」

 森岡も笑顔で同調した。

「でもね、森岡さんは神村上人から紹介された方ですから、お寺関係で何らかの関わり合いを持つだろうなとは思っていました。ですから、貫主就任の件で助力の依頼があったときは、やっぱりな、という思いが強かったですよ。それでも、共同で霊園事業を行うことになるとはね」

 真鍋は感慨深げに言った。

「今回の件は、どうにでもなりますからね。傳法寺でも本妙寺でも、あるいは無量会でも良いのですから」

 森岡には、久々に笑顔が戻っていた。しかし、陽気な外見とは裏腹に、彼の気が休まることはなかった。ようやく敵と戦える材料を得たとはいえ、行く手は依然として混沌且つ不透明のままであり、予断を許さない状況に少しも変わりはなかったのである。

 後日、岩清水は森岡が述べた計画案に快く同意した。

 無量会もまた異論を挟まなかったが、それは当然と言えば当然であった。自分たちは全くリスクを負わずに、一億円の現金と、霊園の供養料として、最終的には年間六千万円が入る。四ヶ寺で分担しても、毎年一ヶ寺当たり一千五百万円が転がり込むのだ。

 森岡はこれを『濡れ手で粟』と、彼らを非難する気にはならなかった。この四ヶ寺の五百年以上にも亘り、営々として無償供養を行ってきたことを思えば、彼らの先祖代々の善行に対する対価だと思っていたのである。

 ただ、森岡は無量会に一つだけ条件を付けた。

 整地した墓地跡を売却したときの分配金を二億円に増額する代わりに、『観世音寺(かんぜおんじ)』を無量会に入会させることだった。

 観世音寺は大河内家の所有寺院で、長男が後を継ぎ住職を務めていた。森岡は大本山傳法寺の利益だけでなく、大河内家の子々孫々に亘って安定した収入が入得られる条件を提示しようと考えていたのだった。

 しかし、そうまでしても森岡の心から全ての不安が消え去ることはなかった。藤井清慶側が、どのような条件を出すかわからないということもあったが、最初から久田帝玄支持の二ヶ寺や、中立を保っていた芦名泰山と異なり、大河内法悦は本妙寺の貫主の件で久保を支持したことにより、周囲から藤井清慶に付くと目されている。もちろん、藤井兄弟も同様に見ているであろう。

 そういった情勢下で、もし久田帝玄を支持するとなると、藤井兄弟、とりわけ次期法主就任が確実の清堂を裏切ったと見なされかねない。

 藤井清堂と久田帝玄、次期法主と影の法主、この二人を天秤に掛けることなどできはしない。そうだとすれば、敢えて誤解を生みかねない行為などせず、周囲の憶測のままに従う方が無難と考えるのが人の世の常であろう。

 森岡はそのように推量していたのである。


 この間、森岡の様子を真向かいの離れた席から眺めている男がいた。森岡も視線に気づいていたが、視線を送ると遠慮がちに顔を背けたため、誰であるかわからなかった。

 それでも、何度目かの視線を送ったとき、ついに目と目が合った。

 その瞬間、

「あっ」

 と、森岡は思わず声を漏らした。

 真鍋に断りを入れて席を立ち、男に近付くと、

「一瞥以来です、須之内さん」

 立ったまま挨拶をした。

「久しぶりだね、洋介君。まあ、座ったらどうだ」

 須之内は横の席に誘った。連れが二人いたが、会社の部下だと説明した。

 失礼します、と言って席に座った森岡は、

「奈津実の七回忌法要の節は有難うございました」

 と、もう一度頭を下げた。

「早いものだね。奈っちゃんが亡くなって、もう六年も経つのだからね」

 須之内は感傷的に言った。

 この男、名を須之内高邦(たかくに)といい、森岡の義理の兄だった男である。亡妻の奈津実には姉が三人いたが、次姉の早苗の夫がこの須之内高邦であった。

「店に入って来たとき、すぐに君だとわかったが、お客連れのようだったので、声を掛けるのを憚っていたんだ」

「ロンドへは良く来られるのですか」

「いや、ママの噂を耳にしてね。最近通い始めたばかりだ。洋介君はずいぶんと親しそうだね」

「とんでもないです。私もまだ一年にもなりません」

「私と違い、洋介君は独身なのだから、羽目を外しても誰に咎められることもない」

 須之内は、少し皮肉混じりに言った。

「そういえば、義父(ちち)から聞いたのだが、近々上場するんだって? 義父が、どうして黙っているのかと不満顔をしていたよ」

「上場は予定していますが、いつのことになるやらわかりません」

「義父の熱心な誘いを断ってまで、コンピューター会社に就職し、独立したのだから成功してもらわないと、義父も納得がいかないだろうよ」

「お義父さんのご期待に添えるよう頑張るつもりです」

 森岡が神妙にそう言ったとき、ママの茜がやって来た。

「お二人はお知り合いでしたの」

「ママ。須之内さんは俺の義兄だった人や」

「義兄?」

「亡くなった妻の奈津実と須之内さんの奥さんは姉妹なんや」

「まあ、何という偶然でしょう」

 茜は手を口に当てた。

「須之内さんは、大手企業の専務さんや。俺なんかと違って、接待も多い。せいぜい贔屓にしてもらいや」

 森岡がそう言うと、

「何を言うんや。そっちは、上場すれば何十億、何百億の資産家になる身分やないか。私など、所詮はサラリーマンや」

 須之内が切り返した。

「そうは申しましても、小さな会社は先行き不透明ですし、株の資産なんて有って無いようなものです。それに比べ、須之内さんは大手企業の株主兼重役ですから、安定したものでしょう」

 そう応じた森岡の傍らで、

「あらあら、お互いにご謙遜の仕合っこですこと」

 と、茜が呆れ顔で笑った。

 森岡は奈津実が存命の頃も、須之内とは滅多に会話をしなかった。須之内だけでなく、他の二人の義兄とも交わりが浅かった。大企業のオーナー社長である奈津実の父正勝が、殊の外森岡を気に入っていたため、三人の義兄たちは、後継を巡って彼を牽制するところがあった。

 中でも須之内は、森岡を非常に意識した。彼に最初に警戒の念を抱かせたのは、義妹である奈津美との結構式に、森岡の親族が一人も出席しなかったことだった。味一番は上場こそしていないが、紛れもなく我が国食品業界のトップランナーの一社である。末娘とはいえ、その創業者の娘婿に一般家庭はおろか、身寄りのない男を迎えるなど常識では考えられなかった。

 取りも直さず、それはいかに森岡が有能であるかの裏返しだと須之内は考えた。他の二人の義兄弟は共に研究者だったため、営業畑の須之内にとって敵ではなかった。彼は、社長の椅子を巡る最大の宿敵は、大手企業菱芝電気でも名を馳せるほどに有能な森岡だと睨んでいたのだった。

 奈津実が亡くなった後も、彼がIT企業を起こし、経営者としての能力を発揮していることから、ますます猜疑心を増大させていた。

「お義父さんはお元気でしょうか」

 森岡は春の法要の折、どことなく覇気の無かった姿を思い浮かべていた。

 あたりを見回しながら、

『一度、ゆっくり話がしたい』

 と小声で囁いたときの、切実な口調が森岡の胸を過ぎってもいた。

「元気は元気だが、何せ七十歳を超えたからな。このところ頓に老け込んで行くのがわかる」

 森岡は、一度会いに行きます、と言おうとして、

「そうですか」

 と口を濁した。

――義父さんには何か思い悩むことがあるのかもしれない。

 そう直感した森岡は、須之内の手前、思い止まったのである。







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