第7話 デスティモナ公国の陥落-4




デスティモナの姫君はというと、彼女は期待に胸躍らせて、侍女に手を引かれ廊下を歩いている所であった。

故郷の匂いの染み付いた毛皮は、すでにその手にない。

姫君とは言っても、彼女は今、男児にしか見えなかったのであるが。

いかつい兵士でなく、優しげな侍女が自分を呼びに来た時に、少女は、きっとあの綺麗な竪琴の精が、自分のために何かしてくれたのだろうと思った。

「お腹は空いてらっしゃいますか」

「はい」

傍らの侍女は子供の返事に顔を綻ばせた。

今までどこに居たのかは知らないけれど、利発そうな子だこと。きっと王族ゆかりの方なのだわ――侍女はこの子供の正体を知らされていなかった。

デスティモナでは姫に姫たらんと躾ける習慣はない。礼を尽くす事、感謝を忘れぬ事しか教えない。この少女も姫と呼ばれた事はなかった。少女が今身につけている服にしても、初めて見る物ゆえに、それが男用とは分らなかった。少女には、自分がこの侍女に、どのように勘違いされているのかを知る術はなかったのである。

王妃との邂逅は、この不遇な少女をかつての快活な子供に戻しつつあった。

一度壊れた彼女の土台には、父母への思慕の替わりに、王妃への崇拝が埋め込まれ、新しい彼女の心は随分と歪んでしまっていた。今日の朝までは母を思っては泣いていたというのに、今は熱に浮かされたように表情が明るい。数日前に父母を失った子供としては、不自然なほどに。

――もう一度、あの人に会いたい。

明日にも殺されるのではというほど、ぞんざいな扱いを受けてきた者が、今日は着替えさせられ、夕食に招かれたのだ。幼い少女がもしかしたら自分は死ななくても済むのでは、と思っても仕方のない事だろう。

――あの人に、撫でてもらいたい。

あるいは、それ以上の期待をしたとしても。

「あの」

少女は遠慮がちに侍女に呼びかけた。

「なんですか」

「銀色の竪琴の人は……」

「竪琴?」

つい竪琴と口にしてしまい、少女は赤面した。

「女の人……銀色で、すごく綺麗な人です」

「王妃様ですか」

「おうひさま?」

「銀色のすごく綺麗な女の人というのは王妃様だと思いますわ」

おうひさま――少女は口の中で小さく呟いてみた――王様の奥様の事だ。

あの美しい銀の竪琴の精はお妃様なのだ。

少女はそれを知っただけで、もう一度頬に血を上らせた。

息せき切って尋ねる。

「い、今から行く所に、王妃様は居ますか?」

「いらっしゃいますよ。王様も王妃様も、皇子様も」

少女は嬉しさに叫びたいのを我慢するように、唇をきゅっとすぼめた。


少女が広間に着くと、国王と王妃はすでに、広間でデルエーロ男爵と歓談中であった。

王妃の銀髪はまるで月の光。目を皿のようにして探さなくても、もとより無視など出来ぬ。

あの人だ――少女は震える息を吸い込んだ。

王妃は少女が入って来ると、一瞬そちらに目線を向けた。しかしすぐに、少女と目が合ったのを、なかった事にしてしまうかのように目を逸らした。

王妃の高貴な表情は、毛ほども変わらなかった。

気付かなかったのだろうか。それとも……――少女は食入るように王妃を見つめ続けた。

見れば見るほど、王妃に惹き込まれて行くのを感じた。王妃はその姿形だけでなく、声や所作までが、他の者とは一線を画す。

その時、凍った湖さながらであった王妃の表情が動いた。

水面に春の風が吹くように、柔らかく。

王妃のたおやかな銀の眉は、しんなりと顰められたのだけれども。

少女には話の内容は聞こえなかったが、王妃はその尊い頭を垂れて、デルエーロ男爵に詫びていたのである。

息子バルゼイの所業に関してであった。

それを目にした少女の胸に、深い悲しみが宿った。

あの顔は知っている――昔、少女が遊んでいて、緞帳を裂いてしまった時に、母が浮かべた表情とまるで同じだった。

――王妃は少女とは全く別の方を見ているというのに。

その時、彼女は死んだ母を思い出したのか、はたまた、もはや自分に母はない事を思い出したのか。

少女はなぜか泣きたくなった。

なぜ、そんなにも苦しいのか分らぬままに、少女は苦しみ続けた。

やがて、王妃は何かに気付いたようであった。

「……!」

思慮深げに伏せていた目を見開いて、広間の入り口を見遣る。

周りの者も王妃の様子に気付き、何事かと首を伸べた。

つられて少女もそちらを見る。

「バルゼイ様!」

焦りに引きつった女の声、続いて足音。

小さな影が転がるように広間へ入ってきた。

「母上!」

淡い金色が勢いよく王妃のスカートの膨れた裾にのめり込む。

「バルゼイ」

王妃はふわりと屈んで、その金色を撫で、手を差し伸べた。

「こちらへ」

「いやだ」

広間に控えていた侍女達も皇子と王妃に駆け寄る。

「皇子様!」

「王妃様にお手を」

皇子は王妃の裾を掴んだまま、侍女たちの手から逃げ回る。見上げる顔は王妃と瓜二つ。精緻に整った幼い顔は暴君のそれ。

見間違えるはずもない。先ほど少女を殴ろうとした幼子であった。

――あの男の子は、皇子様だったんだ。

少女は驚きに目を見開いた。

少女が見守る中、皇子バルゼイは息子の手綱を取らんとする母の手を乱暴に跳ね除ける。

「放せ!」

「駄目です。バルゼイ、さあ」

「いやだ! 手は繋がない!」

子供の力とはいえ容赦なく打ち据えられた腕は痛むだろうに、王妃は息子へと手を差し伸べるのをやめない。言う事を聞かない息子に苛立ってはいたが、その顔はどこか柔らかい。

少女はやっと自分が欲しがっていたものの正体を知った。

なぜ、王妃が母と同じ表情を浮かべていて悲しいと思ってしまったのかを。

――そうだ。王妃様はお母様なんだ。皇子様は王妃様の子供だもの。

聡い少女は、もはや自分の愚かな夢が、夢にしか過ぎない事を悟った。

苦しかった。

胸が潰れそうに痛んだ。

それでもまだ王妃を見つめる事をやめられない自分に戸惑った。

すると王妃と皇子に、一人の侍女が駆け寄ってきた。

「申し訳ありません、王妃様!」

皇子の守を言いつけられたうちの一人である。

皇子を部屋から連れて来る途中で振り切られ、今やっと追い着いたのだ。

「構いません。ご苦労でしたね」

王妃は視線を上げずに労った。息子を捕まえるために屈んだまま。

「バルゼイ、この者達の言う事を聞くようにとあれほど」

「だって、こいつらうるさいんだ!」

「バルゼイ、いい加減に……」

侍女達の手を逃れようと、幼い皇子は身を翻す。その拍子に、バルゼイの顔が一瞬少女の方へと向けられた。

王妃と皇子の様子をまんじりともせずに見つめていた少女と、当然目が合う。

「あいつ……!」

――なんでこんな所にまで……!

バルゼイの目が憎しみでぎらりと光った。すかさずバルゼイは少女に向かって駆け出す。

「バルゼイ? 待ちなさい!」

彼は追い縋る王妃のしなやかな腕をすり抜けた。

代わって侍女が追い駆ける。今度こそは逃がさぬと、彼女は皇子の襟首を捕まえた。

「放せ!」

「つっ!」

しかし皇子は、己を守ろうとするがごとく抱き寄せる腕に、爪を立てた。侍女が痛みに怯んだ隙を突いて、突き飛ばす。

「きゃあ!」

そして、皇子はとうとう少女のところまでやって来た。

「お前、誰だ」

皇子は少女の目の前に立ち、倣岸に言い放った。

「……!」

少女の方も負けてはいない。

仁王立ちになり、皇子と同じく――いや、皇子以上の憎しみを琥珀色の目に宿して、皇子を睨みつけた。

もはや、恐ろしくなどなかった。

恐怖以上の何かが少女の中で渦巻いていた。

それは、少女が生まれて初めて感じる、妬ましさだった。

「お前、誰だよ!」

そんな少女の様子に皇子は苛立った。

目の前の子供は少しも動じる様子がない。自分がこのように声を荒立てれば、たいていの大人は慌てるか、猫なで声を出すか。

しかし、自分の前にいる子供にはそれがない。

同じような年頃の子供とほとんど接する事もなく、大人達にかしずかれて過ごしてきたバルゼイにとって、それは侮辱も同じであった。

「……誰だよ! ここから出て行けよ!」

ついに、我慢の限界を超えたのか、皇子は再び手を振り上げる。

しかし……

「……ぎゃ!」

皇子の金切り声が広間に響いた。

少女が皇子の腕が自らを打ち据える前に、思い切り払ったのだ。

「何……っすんだよ!」

自らが受ける痛みには弱い皇子はすぐに目に涙を浮かべる。

年が一つ上なせいもあって、この時は少女の方が皇子よりも身体が大きかった。彼女はデスティモナの城で子供達に囲まれて育ったので、このような喧嘩も初めてではない。出会い頭こそ皇子の闇雲な凶暴さに怯えもしたが、遣り合えば当然、少女に軍配が上がる。

「……謝れ」

その時、少女が初めて口を利いた。子供とは思えぬような低い声で。

「王妃様と、そこの女の人に謝れ!」

侍女という言葉を知らない少女は叫んだ。

その断末魔のごとき悲痛さに、小さな暴君もすっかりたじろいだ。

この子供は自分の言う事に従わないばかりか、皇子に怒鳴り返したのだ。

しかも、自分に詫びろと強いている。

「な、なんで……」

皇子の背後には、腕に青あざを作った王妃と、尻餅をついた侍女が居た。

だが、皇子には何のことやら、さっぱり分らなかった。

今までは、この皇子が誰かに怪我をさせたとしても、謝るのは怪我をさせられた大人の方であって、決して皇子ではなかった。たとえ母には叱られても、召使達が皇子に謝罪を要求する事はなかったのだ。

――そこの女の人って侍女のことか。なんで侍女なんかに謝らなきゃいけないんだ。

詫びる事は知らなくても、侍女という言葉は知っている皇子は訝った。

意味が分らぬまでも、バルゼイは目の前の子供が、今まで自分が接してきた誰とも違っている事は分った。

そして何か、きっと自分がまだ知らないような事をこの子供が知っているという事も。

バルゼイは改めて、目の前の子供を見た。

自分よりも幾分大きい。自分が身につけているのと同じような膝丈のズボンと上着。黒い髪は短く――少しうねっているが――柔らかそうだ。自分を睨み据える大きな琥珀色の瞳は、潤んできらきらと光っている。

蜂蜜みたいな色だ――バルゼイはさっきまでの憎しみも忘れて、ぼんやりとその不思議な色に魅入ってしまった。

――なんなんだ、こいつ。


二人の子供の様子に、広間がざわめく。

そんな中、国王ドラトだけが面白そうに二人の子供を見守っている。

少女はなおも強く皇子を睨む。

皇子が許せなかった。憎かった。

少女は皇子を睨みながら、自らの目にも涙が浮かんでくるのを感じた。

――こんな奴相手に泣くなんてみっともない。

少女は震えるほどに歯を食いしばって耐えた。そして、涙を振り切るようにもう一度叫んだ。

「謝れ!」

その叫びに、ぼうっと目の前の子供を眺めていた皇子も、ようやくいつもの調子を取り戻す。こんな子供に指図されているという事実が、再び皇子を苛立たせた。

「命令するな!」

皇子が少女に掴み掛かろうとした時、大きな人影が皇子の後ろへ立った。

「バルゼイ、そこまでだ」

笑いを含んだ男の声。

少女が驚いて見上げると、続いて皇子の声がした。

「わっ! 父上、放せ!」

小麦色に焼けた屈強な腕が、皇子をひょいと片手で抱き上げたのだ。

皇子がいくらじたばたしても、その腕が緩む様子はない。

少女はあっけに取られて、その腕の主を見た。

硝子玉のように陰のない、しかし底の見えない青い瞳が少女を見下ろしている。豊かな金色の髭を蓄えているのに、その顔はどこか少年のようだ。

「すまんな」

パルトー王ドラト、皇子の父であった。

「放せ! 放せよ!」

「ははは、バルゼイ。放してやってもいいが、落ちたら痛いぞ」

息子はか細く白い腕を、父の盛り上がった胸板に突っ張るが、はちきれんばかりに鍛え上げられた身体はびくともしない。国王に抱き上げられた皇子は、熊に捕らわれた兎も同じ。バルゼイの加減を知らない暴力も、この男にとっては蚊に刺されたようなものであろう。

ぽかんとしている少女に気付いてドラトはにっと笑った。邪気がないのに、背筋の寒くなるような笑顔であった。

ようやく、父の手を逃れる事を諦めたバルゼイは、父に抱き上げられたまま、不機嫌な顔で言った。

「父上、こいつは誰だ」

「誰だと思う」

「腕をぶたれた!」

「痛かったか」

「痛かった!」

バルゼイは自分がそう言えば当然、父がこの子供を罰するだろうと思っていた。

「そうか」

しかし、ドラトは言葉を切って、息子を真正面から覗き込む。ドラトはもはや笑ってはいなかった。息子は父の不穏な様子に身体を引こうとしたが、父の強い腕がそれを阻む。

「そこに居る侍女と、母上も痛かっただろうな」

「……」

バルゼイは父の常にない様子に怯えてはいるものの、やはり、なぜ父がそんな事を言うのかまるで理解していないようだ。

「父の言う事が分るか、バルゼイ」

バルゼイは眉根を寄せて首を振った。もどかしそうに。

「そうか。……その子には分かっているぞ」

国王は少女に「なっ」と笑いかける。片手に皇子を抱いたまま、器用に少女の頭を撫でた。少女の形の良い頭が、無遠慮な手に撫で回されて揺れる。

少女がふらふらしながら見上げると、バルゼイの悔しそうな視線とかち合った。

バルゼイはいたく自尊心を傷付けられ、俯いて唇を噛む。

しかしバルセイの目には野蛮な怒りだけでなく、光を追う若芽のような、透き通った何かが見え隠れしていた。

ドラトはちらりと王妃を見る。

王妃はなんとも複雑な顔で夫と息子を見ていた。

王妃とて、バルゼイに他者を思いやる心を教えようと努力しなかったわけではない。しかし、バルゼイの体が弱かったせいもあり、つい王妃も皇子を罰する事に関しては及び腰になってしまっていた。召使達に至っては、腫れ物に触るように皇子に接した。

そのため、バルゼイは生来の攻撃性を伸びるにまかせてしまったのである。

いくらバルゼイが賢かったとしても、これでは一国を背負わせる事など出来ない。

王妃も国王も、シャイエ宮で暮らす、ありとあらゆる人々が、皇子を憂えていた。いや、シャイエ宮だけではない。バルゼイが滞在してまだ二日目の、ここデルエーロ男爵の居城の人々ですら。

しかし今、初めて同じ年頃の子供と接して、バルゼイは常とは違った様子を見せた。何かが変わりつつあるのを、その場に居た誰もが感じた。

ドラトはそんな息子の淡い金色の頭を軽く撫で、笑いかけた。

「分るようになったら、その子が誰か、教えてやろう」

「「え?」」

二人の子供は同時に言った。

「二人とも、いいな」

国王の声には有無を言わせぬ強さがあった。

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躾け糸の皇子 八鼓火/七川 琴 @Hachikobi

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