第6話 デスティモナ公国の陥落-3
デルエーロ男爵の居城に、夕闇が迫っていた。昼の間は白く輝いていた氷の山が、夏の宵の群青に黒く沈んでいる。
窓から見える景色は優雅な避暑地のそれだったが、皇子のために明け渡されたその部屋は酷い有様だった。
すでに花瓶がいくつか割られていた。
それらは、皇子を傷付けぬために早々に片付けられ、すでにこの部屋にはない。
他の割れ物の類も、王妃の指示ですぐに避難させられた。
絨毯が捲れ上がり、長椅子の位置もバルゼイが部屋に入った当初とはだい ぶ違っている。壁と平行だったはずのそれは、いまや角を覆い、扉を守っている。
さながら洪水に見舞われたかのように。
部屋に戻った皇子バルゼイの機嫌はすこぶる悪かった。
――なんなんだ、あいつ!
部屋へ連れ帰られるなり、幼い彼は小さな拳を壁に叩き付けた。
「っつぅ……」
痛かった。
当然である。
彼の手はすでに暴力に慣れ親しんでいたが、まだか細く、白く、柔らかかった。
「ば、バルゼイ様! 何をなさいます!」
バルゼイの立てた大きな音に驚いて、世話役の侍女達が駆け寄った。皇子の雛菊のような手を心配したのである。あるものは薬箱を取りに走り、あるものは握り締められた拳をほどこうと試みる。
「うるさい! 放せ!」
「きゃ」
バルゼイが暴れたせいで、女中の一人が倒れる。まだ嫁入り前の彼女の瞼に引っかき傷が付いた。
「バルゼイ様!」
「こっから出せ!」
「なりません!」
「じゃあ、あいつを連れて来い!」
「あいつとは誰のことです!」
そしてバルゼイもはたと気が付く。そういえば、自分も知らない。
「……っ、いいから、連れて来い!」
バルゼイは顔を真っ赤にして叫んだ。
何もかもが許しがたかった。
怒鳴り声と猫なで声しか出さぬ女中ども、扉の前で構えている衛兵ども。
こんな所へ閉じ込められている事も、自ら叩き付けた手が痛む事ですら。
そして何より、先ほどの子供である。
――母上は「子供は戦場へは行かないものなのです」と言ったのに!
――「お前が大人になって闘えるようになったら連れて行きます」と言ったのに!
最初はただ、母に置いて行かれるのが気に食わなかったのであるが、その言葉に余計に好奇心を煽られて、こうして無理やり付いてきたのである。
戦場は恐ろしい所、子供には耐えられぬ場所、そう聞いてバルゼイは小さな胸を残虐な期待に躍らせていたのだ。
しかし、道中は馬車に閉じ込められ、外を見せてはもらえぬ。
着いたら着いたで、閉じ込められる。
おまけに、父も母も自分を放ったらかしにして、何やら難しげな事を話している。
母を捜して脱走し、ようやく見つけたかと思えば、彼女は見知らぬ子供の世話を焼いていた。
――子供だって居るんじゃないか! 母上は嘘を吐いた!
大人しか行く事の出来ぬ世界を覗く、それが自分だけには許された。
その事実がバルゼイの幼稚な自尊心をくすぐっていたのだ。
戦場には大人しか居ないと言われれば、バルゼイにはその通りの事しか想像出来ない。戦場が、自分よりも小さな生まれたばかりの赤子ですら、馬の蹄に潰されるような場所だという事を、幼い皇子はまだ知らないのである。
――どこの国の皇子だ。なんで母上があんな奴を。
幼い皇子は、子供が自分と似たような格好をしていれば当然、自分と同じような立場の者だと想像した。あの子供の親がすでにこの世にない事など、ちらりとも考えつかなかった。
バルゼイは王宮以外の世界をほとんど見た事がなかったのだ。
――それに、何だよ。あんなの、してもらった事ない。
母の真珠色の爪先は、子供の胸元の釦を留めていた。
それを思い出して、凶暴な皇子の心に、珍しく子供らしい素直な感情が湧き起こった。
幼い皇子はこの頃まだ、着替えを侍女に手伝わせていた。
彼は胸元の釦を留められるのが、苦手であった。くすぐったいのである。胸に押し付けられる手の平も、鼻先をくすぐる侍女達の前髪も。
自分でやると駄々を捏ねてはみたものの、どんなに顎先を引いても上手く行かぬ。釦は指から逃げて行く。バルゼイは悔しくて、また暴れた。
だが、見知らぬ子供が、母にそれをしてもらっているのを見た時、気位の高い皇子の目に涙が浮かんだ。
――許さない。絶対に、許さない。
子供のきょとんとした瞳を思い出し、バルゼイはもう一度、壁に手を打ち付けた。
その頃、国王と王妃は別の小さな一間を借りて、語らっていた。
デルエーロ男爵が趣味で集めている刀剣を並べた部屋である。
ドラトは王妃に背を向けて、青銅の剣を抜き、蒼い刀身に自らの顔を映している。
抜き身の刃を鏡代わりに、顎鬚を弄くっているようだ。刀身を眺めるつもりが、そうたいした剣でもないのに倦んで、自らの伸びた顎鬚に関心が移ったのだった。
「……姫君は残してしまったのですね」
王妃は部屋の中央に立ち、ひんやりとした視線をドラトの頑強な背中へ投げかける。
「まあ、そう言ってくれるな。お陰で鉱山の開発は楽に済みそうだ。マルギル、どうせ、お前だってこの場で殺せるとは思ってはいまい」
「そうですわね。でも……」
「ん?」
「ボルネミッサ中将にあのような真似をさせたのはどうしてです?」
「なんだ、やっぱり怒っているのか」
くるりと振り返った夫の顔がおかしそうに緩んでいる。
しかし王妃は凪いだ表情のまま淡々と言った。
「皆の見る前で、公の忘れ形見の性別云々を言い始めれば、まるで女児であれば生かすと言っているかのよう。何より、これから消すかもしれぬ子供の顔を皆に見せるなど、良いはずがありません。デスティモナの手の者でなくとも、姫君の行方を探る者が出たらどうするのですか。なるべく注目させぬまま、シャイエ宮に連れて帰れば、どうとでも出来ましょうに。広間に呼び立てるなど……私は聞いておりませんでした」
「そうだな。ジル姫を殺すのは難しくなったなあ」
ドラトは悪童の笑みを浮かべた。
「まさか……」
「駄目か」
悪童の顔の中で、青い目が存外真剣なのを見て、王妃は目を眇めた。
「デスティモナ公ですわね」
「ああ、惚れた」
あっけらかんと言い放つドラトに、王妃の瞼の菫色が青みを増す。
「……ドラト、前にも言ったはず」
「ああ『仁義を気取りたいなら役者にでもなれ』か? ああ、覚えている。が、その前に少しは妬いてくれぬものかな」
夫の砕けた物言いにも、王妃の口調は揺らがない。
「あなたは王です。観客の賛辞など必要ないでしょう」
死者の約束と禍根を残さぬ事、一体どちらが大事なのだ――王妃は国王を見据える。
「民の人気取りも必要だ、とも、お前は言ったが?」
「そのような段階はとうに過ぎています。このパルトーで今、誰が貴方に逆らうと?」
「もしかして俺は今、お前に褒められているのか?」
「なすべき事をなせ、と申し上げていますわ」
「お前だって、あの子供を気に入ったんじゃなかったのか」
「まさか」
そう誤解される事を何より厭うていた王妃である。その声はヘルバン高地の吹雪よりも冷たい。
「とにかく、もうこれ以上、あの姫君を人前にお出しにならないで。シャイエ宮に連れ帰り、私が……」
その時、部屋の扉が叩かれた。
「国王陛下、妃殿下、お食事の用意が整いました」
「おお、ご苦労」
「デスティモナの姫君、ジル様のお食事もご用意させて頂きました。今使いの者が呼びに行っております」
「……」
王妃は表情を変えなかった。
しかし、凍りついたように一瞬動きを止めた。
「いや、王妃自ら服を着せて丁重に扱ったものだから、勘違いされてしまったようだな。参ったな。うっかりした」
「……」
「デルエーロ男爵がお待ちだ、急ごう、我が妻」
ドラトは実に楽しげに王妃を促した。
あの時、少女が身包み剥がされるのを阻んだ事を、王妃は後悔してはいなかった。だが当然、こうなる事もある程度予想はしていた。予想していたからと言って、王妃の苛立ちが減るわけでもなかった。
――あの幼い少女が自分に向けているであろう感情を考えると、虫唾が走る。
その嫌悪感が自身に対するものなのか、少女に対するものなのか、王妃には分らなかったが。
――自分はやはりあの少女を殺すだろう。
王妃の絹の睫毛と菫色の瞼、それらは慎み深く、刃の光を放つ瞳を隠した。
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