いつの日かまた、パドックで

メインレースの神戸新聞杯が終わり、最終レースに出走する馬たちが、パドックを周回し始めた。


神戸新聞杯を目当てに来場していた観客の多くが、競馬場を後にし始める。


僕はパドックで周回する馬たちを眺めながら、今日もねえさんは来ないだろうとあきらめ始めていた。


「まだ最終レースもあるのにな…。」


思わずポツリと呟く。


自分だって、目の前にいる馬たちのレースはそっちのけで、ねえさんを待っているくせに。


最終レースを観ずに帰ってしまう人たちの事は責められない。



もう、会えないのかな…。


おじさんがこの世を去って、ねえさんは競馬場に姿を見せなくなって、僕はひとりぼっちだ。


初めて競馬場に足を運んだあの日は、まさかこんな出会いと別れが待っているとは思わなかった。


指輪の入った小箱を、手の中でギュッと握りしめた。


おじさん、お願いです。


ねえさんに会わせて下さい。


おじさんから預かった指輪を渡す事も、僕のこの想いを伝える事もできないまま、もうねえさんに会えないなんて、つらすぎる。


ねえさんに会いたい。


たとえ僕の気持ちは、ねえさんに受け入れてもらえなくても。




周回していた馬たちが、厩務員に手綱を引かれて本馬場へ向かって移動し始めた。


パドックにいた客たちも、思い思いの場所へゾロゾロと流れて行く。


僕はパドックの観覧席の片隅に座ったまま、膝に肘をついて、両手で顔を覆った。


頬に触れた指先は、無意識のうちに溢れていた涙で濡れていた。



ねえさんは、今日も来なかった。


もう何週間会っていないだろう?


このまま会えなかったら、僕は…。



パドックのモニターでは、最終レースに出走する競走馬たちの、本馬場入場の様子が流れている。


「最終レース、始まるで?」


え…?この声…。


僕は慌てて顔を上げた。


「……何泣いてんのん?」


ねえさんは細い指先で、僕の目元をそっと拭った。


「ねえさん…ねえさん…。」



最終レースのゲートが開き、全馬一斉に飛び出した。


観客たちの歓声を聞きながら、僕はねえさんの肩口に額を預けて泣いた。


ねえさんは僕の背中に腕を回して、優しくトントンと叩いてくれた。


「ねえさん…会えて良かった…。もう…二度と会えないかと…。」


「大袈裟やわ…。大人の男が、こんくらいの事で泣いたらあかんやろ?」


「…うん…。」


ねえさんは少し笑ってポケットからハンカチを取り出し、涙で濡れた僕の顔を拭いてくれた。


「そう言えば…おっちゃんは?今日は来てへんの?」


ハンカチをポケットにしまいながら、ねえさんは尋ねた。


おじさんが亡くなった事は、伝えた方がいいんだろうか?


それとも、遠くへ行ったとだけ伝えるべきなんだろうか?


「おじさんは…もう、ここには来ない…。」


「え?」


僕はおじさんから預かった指輪の入った小箱をねえさんに差し出した。


「これ、ねえさんに渡してくれって、おじさんから預かってたんです。」


ねえさんはそれを受け取り、ゆっくりと小箱を開いた。


「何これ…指輪?なんで…?」


「もう…会えないから…今までねえさんに何度も馬券当てさせてもらったお礼に、プレゼントだって…。」


僕の下手な嘘に、ねえさんは気付いていないだろうか?


僕はうまく笑えているかな?



ねえさんは指輪をじっと眺めて、そっと手に取った。


「おじさんがね…ねえさんには、幸せになって欲しいって、言ってました…。」


ねえさんは指輪を眺めながら、ポロポロと涙をこぼした。


自分が泣いている事に驚いて、ねえさんは慌てて涙を拭った。


「あれ…?なんでやろ…?なんでアタシ泣いてんのやろ…?」



おじさんは僕にこの指輪を託した時に言っていた。



“これな…あの子が欲しがってたもんなんや。あの子は口には出さんかったけど、一緒に買い物行った時に見掛けてな…。やっぱり女の子やな…目ぇキラキラさせとった…。”



もしかしたらねえさんは、失ってしまった記憶の片隅で、この指輪を覚えているのかも知れない。


愛する人と穏やかに過ごした、束の間の幸せだった日々の記憶を守るため、誰にも汚されないように、心の奥に閉じ込めてしまったんじゃないだろうか。


「アンチャン、ごめんな。アタシ…ホンマはもう、ここには来んつもりやった…。」


やっぱり…。


もう、僕には会いたくなかったんだな…。


「でもな、夕べ、夢見たんよ。」


「夢…ですか?」


「うん…。夢におっちゃんが出てきて、ありがとう言うて何回も頭撫でてくれてさ…誰にも遠慮なんかせんでええ、今度こそ幸せになれよ、パドックで待ってるで、って…。」


おじさんは最期にどうしても会いたくて、ねえさんの夢の中まで会いに行ったんだろう。


最期の時まで自分の正体を明かさなかったなんて、おじさんは人が好すぎるよ。


それだけねえさんを大事にしたかったんだな。


「なぁ、アンチャン…正直に言うて。もう会えんって、もしかしておっちゃん…。」


ねえさんは勘付いているみたいだ。


つらいけれど、隠すのはもうやめよう。


僕はゆっくりと口を開く。


「…先週、おじさんの知り合いが運営しているホスピスで…。」


「…おっちゃん…死んでもうたん…?」


僕が黙ってうなずくと、ねえさんは大粒の涙をこぼした。


「おっちゃん、アタシになんの断りもなく死ぬってどういうこっちゃ!散々儲けさせたったのに、挨拶もなしか!」


ねえさんは涙を拭って、無理して作り笑いを浮かべようとした。


その泣き笑いが痛々しくて、僕はねえさんを強く抱きしめた。


「ねえさん、無理して笑わなくていいんです。大事な人とのお別れの時はね…思いきり泣いていいんですよ…。」


ねえさんは僕の胸に顔をうずめて、子供のように声をあげて泣いた。


僕は涙を堪えて、ねえさんを抱きしめていた。




最終レースの払い戻しが終わってしばらく経った頃。


場内には僕たち以外の人の姿は、ほとんどなくなった。


涙の少し落ち着いたねえさんは、僕の肩にもたれ掛かって、涙で濡れたハンカチを握りしめていた。


「お別れもできんかった…。人間いつか死ぬんやから泣く事なんかないて思てたけど、なんでこんなに哀しいんやろ…。ここに来ても、もうおっちゃんに会われへんって思うと、やっぱり寂しいな…。」


「おじさんは最期までねえさんの心配してたんですよ。どうしても会いたくて、ねえさんの夢にまで会いに行っちゃったんですね…。おじさんらしいです。」


「パドックで待ってるでって言うたくせに、おっちゃん待ってへんやん…。待ってたんはアンチャンやんか…。」


ねえさんはそう言ってから、首をかしげた。


「今度こそ幸せになれよって、どういう意味やろ…?誰にも遠慮なんかせんでええとか…。なんか、前から知ってる人みたいな…。」


「さあ…どういう意味なんでしょうね…。」



僕にはおじさんがねえさんに伝えたかった気持ちが、痛いほどわかった。


おじさんはきっと、記憶をなくしてもいつもパドックで待っていたねえさんに、自分の正体を明かして“愛してる”と言えない代わりに、せめて遠い日に交わした“はぐれたらパドックで待ってる”という二人しか知らない約束の言葉を伝えたかったんだ。



「おじさんは優しいですね…。」


「ん?ようわからんけど…。アタシな、おっちゃんはアタシに、アンチャンに会いに行けって言うたんやと思う。」


「…どうしてですか?」


「ん…?うん…。アタシ、もうここには来んつもりやったって、言うたやん?」


「……そうですね…。」


ねえさんはゆっくりと立ち上がった。


「そろそろ出よか。ちゃんと話すからさ…。」


僕が立ち上がると、ねえさんは右手を差し出した。


「歩きながら話すから、手ぇ繋いでくれる?」


「あ…はい…。」


僕は差し出されたねえさんの手をそっと握ってゆっくりと歩き出した。


「あのさ…アタシな…あの時の事、後悔しててん。」


後悔してたと言う事は、もうこれきりにしようって言うつもりなのかな?


変な汗が僕の背中を伝って行く。


「アンチャンの気持ちわかってたくせに、アタシはそれ無視して、今だけって言うたやん?」


「……わかってたんですか…。」


「うん…。ホンマはアタシになんもせんとこうって、思ってくれてたんやろ?」


「まぁ…。」


僕の気持ちって…そっち?


確かにそれも嘘じゃないけど…なんか話がずれてないか?


「アタシはいろいろ複雑やからさ…アンチャンには荷が重すぎるやろうなぁって思って。だから本気にならんように、今だけって言うた。」


ちょっと待って…えーと…?


あれは僕がねえさんに本気にならないように、今だけって言ったんじゃなかったの?


「朝になってシラフに戻ったら、なんでこんな事したんやろってドッと後悔してな…。アンチャン優しいから、酔った勢いでしてもうたけど男やから責任取らなー!って、なるんちゃうかなと思てさ…。もう顔も見れんで、アンチャン寝てる間に、黙って帰った。」


あれ?


なんか僕が思ってたのと違うんだけど…。


「それで競馬場にも来なかったんですか?」


「それもあるけど…。」


ねえさんは言いづらそうに口ごもる。


「なんですか?ちゃんと話して下さい。」


僕は立ち止まり、ねえさんの顔を正面から見つめて、両手を握りしめた。


「……あんな…、ホンマは、自分でなんとかしようと思ったんよ。」


「…何をです?」


「アタシが無理やりしたようなもんやのに、まだ若いアンチャンには背負わされへんって。」


「だから、何を?」


ねえさんは僕の視線から逃れるように、少し目をそらした。


「……でも一人ではしんどいから、一度はあきらめようとしたんやけど…直前になってやっぱり無理やって、結局でけんかった…。」


ねえさんはさっきから、一体なんの話をしているんだろう?


なんの事だかさっぱりわからない。


「だから…何をですか?僕、さっぱりわからないんですけど…。」


「やっぱりあきらめられへんから、アンチャンには頼らんと、なんとか無理してでも一人で頑張ろうって思ってたらな…おっちゃんが夢に出てきた。」


「それ、さっきの夢の話ですか?」


「うん…。おっちゃんが、幸せになれよ、パドックで待ってるでって言うたから、なんか絶対行かなあかんような気がして、思いきって来たんやけど…おっちゃんやなくて、アンチャンが待ってた。」


僕はねえさんの手を引き寄せて、ギュッと抱きしめた。


「ずっと会いたかったんです。何週もずっとパドックでねえさんを待ってました。正直、もう会えないかと思ってました。」


「うん…。アンチャンが会えて良かったって泣きながら言うてくれて、嬉しかった。」


「ものすごく恥ずかしいから、泣いてた事は忘れて下さい…。」


ねえさんは僕の胸に顔をうずめて、小さく笑った。


「僕はね…ねえさんが今だけって言った時…僕がねえさんに本気にならないように、今だけって言ったんだって…ねえさんは僕の事、好きでもなんでもないんだって思って、すごくショックだったんです。」


「…そうなん?」


ねえさんはキョトンとしている。


なんだか勘違いしているみたいだし、この際だから僕の気持ちをハッキリ伝えた方がいい。


「そうですよ。僕はずっと本気ですから。ねえさん、僕は…初めて会った時から、ずっとねえさんが好きです。」


「…えっ、そうやったん?!」


ねえさんって、もしかしてものすごく鈍い人なんだろうか?


本気で驚いてるみたいだ。


「僕はねえさんとお互いを名前で呼び合って、次に会う約束をして、一緒に誕生日をお祝いして、日曜日の競馬場以外でも会える関係になりたいです。」


「うん…それなんやけど…。」


「…ダメですか?」


もしかして、恋人として付き合うのは無理だと言われるのか?


ありったけの勇気を振り絞って、人生で初めて告白したのに…。


「あのさ…アタシを、アンチャンとおんなじ苗字にしてくれる?」


「……はい?」


「そんで、一緒に住むってどうやろう?」


えーと…ねえさんが僕と同じ苗字になって、一緒に暮らすと言う事は…。


ねえさんは僕の手を取って、そっと自分のお腹に導いた。


「ちなみにな…一緒に暮らす予定の子が、ここにおるんやけど…。」


「………ええっ?!」


「あん時の子が、ここに居てるねん。」


えっ?ええっ?!


いろいろ飛び越えて、いきなり結婚?!


初彼女ならぬ…お嫁さん?


ねえさんのお腹に…僕の…子供?!


ねえさんが奥さんで、お母さんで、僕がお父さんになるのか?


あまりの急展開に、僕の頭の中はグルグルと大暴走。


目を見開き口をポカンと開けて放心状態だ。


「……やっぱり、無理…やんな。急にこんな事言うたって…。お腹の子が自分の子っていう証拠もないしって、思てんのやろ?」


ねえさんは少し悲しそうに、放心状態の僕の手を、ゆっくりと離した。


「ごめん。今の全部忘れて。もう会わへんし、アンチャンには迷惑かけへん。やっぱりこの子はアタシ一人で産んで育てるから。」


ねえさんは僕に背を向けて歩き出した。


僕は我に帰り、慌ててねえさんを追いかける。


「待って、ねえさん!」


「アンチャンまだ若いもん、いきなりそんなん考えられへんよな。アタシの方が多分かなり歳上やし、すぐオバチャンになる嫁なんかイヤやろ?」


「いやいやいや、そんな事言ってませんから!!とりあえずちょっと待って!!」


いくら待ってと言っても歩くのをやめないねえさんの手を引き寄せて、思いきり抱きしめた。


「僕はねえさんが好きだって言ったでしょう?ねえさんは、僕の事、好きなんですか?」


「うん…好き…。」


初めてねえさんの気持ちを聞けた。


ちょっと恥ずかしそうだ。


「僕と同じ苗字になって、子供産んで、ずっと一緒に暮らすんですよ?僕の事がイヤになったからやめるなんて、言わせませんからね?」


「絶対言わへん。」


ねえさん、なんだか子供みたい。


かなりかわいい。


「じゃあ…ちゃんとプロポーズしたいんだけど…その前に、まずは名前から教えて下さい。」


僕の腕の中で、ねえさんは顔を上げて、八重歯を覗かせてニコッと笑った。


久しぶりに見た、この笑顔。


ねえさんのこの笑顔、やっぱり好きだ。


「とりあえず立ち話もなんやから…アンチャンち、連れてってくれる?」


「いいですよ。あ、その前に…。」


「ん?」


少し首をかしげたねえさんの唇に、優しく唇を重ねた。


「大事な事だから、もう一度言いますよ。僕はねえさんが大好きです。」


「アタシも好き!」


ねえさんは嬉しそうに僕にしがみついた。





競馬場を出て、しっかり手を繋いで駅に向かって歩く。


「今度…二人でおじさんのお墓参りに行きましょう。」


「うん。ちゃんと報告せんとな。」




おじさんに最後に会った時、僕は頼まれた。



ねえさんを幸せにして欲しい、と。



この先、ねえさんが失ってしまった記憶が戻るのか、それは誰にもわからない。



もしそんな日が来たら僕は、ずっとねえさんを大切に想い見守り続けたおじさんの気持ちを、ねえさんに話したいと思う。




おじさん。



そちらの世界にも、競馬場はあるのかな?



案外、亡くなった名馬たちのレースを楽しんでいたりして。



いつか僕らが天寿をまっとうしたら、また一緒に競馬を観て、ビールを飲みましょうね。




その時はまた、パドックで会いましょう。






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パドックで会いましょう 櫻井 音衣 @naynay

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