第3話 手の中のぬくもり、これだよこれ。

 光の根元へとすすっと吸い込まれていく感覚の俺。

 重力は感じないけれど、これは落ちているっていうもんだ。ほら、SFアニメで見たことあるだろ、大気圏突入。ああいう感じだ。

 根元につくまで時間はいくつなのか、もしかしたら、元いた世界の不浄を消すため、一度塵にまで焼かれてしまうのか。地面が――といっても見えないが――近付くにつれ、俺の意識はぼんやりとしていく。お腹いっぱいの五時限授業が古典だったみたいに、まぶたが勝手にシャッターチャンスでウィンクしている。

「んん、あああ……ねむ……」

 陽気に負けて、諦めて、俺は下につくまで、眠ることにする。きっと目が覚めたとき、控えめ女神が言ってたように、するっと、これから行く世界の住人になってるんだろう。

「おやすみ、今までの俺。目が覚めたら、どうやらおっぱいだぜ」

 幸せな夢を見る魔法のワード。

 そいつはおっぱいさ。


 むにゃむにゃと、ふわふわと、高級羽毛布団にくるまっている心地。お偉いさんもだいしゅきっていう、アイダーダックさんのまるで着てないくらいのおふとんの感覚。

 それが、なぜか手にだけ感じる。

 いや、手だけじゃあない――暗闇の目の前には、こしょこしょと鼻先をくすぐる柔らかな毛と高級な匂い。胸にはしっとりすべすべ、テレビCMのボディソープ商品で写るつやつやな背中のイメージがすりすりだ。

 そして、手には――柔らかい。ひたすら柔らかい。柔らかいとしか言いようがない感覚がある。

「これは何だ――」

 俺はそれを知るために、必死に手を動かす。

 だが、どうだ、動かせば動かすほど、思考なんてどうでもいい、そんなものは捨てるがいいさと手の中の弾力は言ってくる。

 動かす、動かす、ああ、どうでもいい。そういう繰り返しだ。

 けど、やめられない。俺は手を動かす事をやめられない。

 これは水車の運動と同じ――水が流れるならば、水車はとまらない、そういうものなんだ。

 ならばと俺は動かし方を変えてみる。絞るように動かしていた手をこねるようにしてみる。

 こねこねだ。パン生地をこねる。こねた事なくったって、テレビなりで、それくらい見たことあるだろ?

 そう、それだ――パン生地はもっちりしてて、これまたいつまでたっても、できあがらない、コネあがらない。

 もう、一次発酵も二次発酵も、焼成もどうでもいい。俺はずっとずっと、朝日が昇り、月がにっこり笑おうが、ずっとずっとこねこねしていたいんだ、そう思わせる力を持っている。なんてやつだ、こいつは危険だぜ。

 危険とわかってても、踏み込まないやつは男じゃない。俺はそういう事に恐れを成すような弱虫じゃない。こねてやる、こねまわしてやる。俺の指が折れて使い物にならなくなるか、パン生地がくたばるかの勝負だ。

 しかし、いくらこね回しても、パンのやつは、まいったと言わない。

 いや、言うわけない。ならば言わせてやろうパン生地よ!

 と、俺は手をつよくローリングさせる。この技で音を上げなかったパン生地はない。いや、俺はお前等と同じく、パン生地をこねたことなどないがな!

 しかし、このパン生地、これだけこねまわしているというのに、まだほぐれない部分がある。これは俺への挑戦――そうか、控えめ女神が言ってた神ってやつが、俺に与えた試練なんだな。

 見事このパン生地のしこりをほどいて見せろという!

 おーけ、まかせときな。俺は真っ向勝負してやるさ。

 指と指を巧みに使い、しこりを挟み込んでこうだ、こうだ!

 どうだ!

「く…まだか」

 そう、まだなのだ。さすがの俺も息をあげる。

 はぁはぁ、はぁはぁ――疲れた時特有のアレだ、わかるだろ。荒い呼吸をしてるのに、耳がうまいこと働かずに、息が二重に聞こえちまうあれだ。俺も相当に精神が疲弊してるのか、自分のものじゃない息が聞こえる気までしてくる。

 俺はそこまで自分を追い込み、パン生地と格闘してるんだ。なかなかのファイターじゃないか。これなら、勇者や冒険者でもなれたんじゃないのか。

 ちなみに、本来のパン生地だと、ここまでこね回すと、もうダメだ。

 ダメになっちゃうんだ。なのにどうした異世界のパン生地!

 なかなか根性があるじゃないか。それどころか、しっとりと汗をかいたみたいに、ぴたぴたしてきてやがる。ナマイキな、なんてナマイキなコネ具合のパン生地だ。いったいどんな高尚なパンに焼き上がるつもりだ、ええぇ?

 しかし、パン生地こたえない。そういう世界でもないんだろう、無言のままパン生地はしこりを残し……いや、さらに硬くさせて抵抗してきやがる。

 さすがの俺もまいったね、こいつはついにやるしかないようだ。

 何を?

 よく問うたな――そう、俺はこれから揉むんだ。

 このナマイキなパン生地をもみもみもみ、もみもみもみ、もみ倒してやる。

 討伐だ、パン生地討伐クエスト。そいつが俺の初仕事だ!

「おらぁあああああ、往生せえぇやああああ!」

 本来、俺が『揉む』のはおっぱいだけだ。揉むという言葉、行為、テクニック、それらは全て、おっぱいのためにあるものだ。おっぱいにだけ許された言葉なのだ。それを俺はこれから、一介のパン生地相手に振る舞う。

 これは、俺のある種敗北。しかし、このパン生地にはそうさせるだけの力があった。それもまた認める。認めなければならぬのだっ!

「このナマイキ大きめレーズンがぁああ、俺のモミモミできえされぇえええ!」

 俺は気合い注入、全ての機能を手先指先に集中、そして解放した。宇宙のエネルギィが全ての生物に等しく降りかかるとするならば、そのエントロピを越えて、俺の指先には今、力が宿っている。

 おうよ、パン生地を屈服させる力だ。

「おらおらおらおらおらぁあ、音を上げろ、折れろ、俺の前に倒れてしまぇえっ!」

「倒れるのはおまえじゃあああああっ!」

 俺ではない。それはパン生地の言葉。

 パン生地は俺の手の中から逃げ出し、振り返り、俺をぶっ叩いた。

 ああ、パン生地って、こね回すとパンになるんじゃなくって、人になるんだな。

 俺の目前に、それは現れた。パン生地から現れたんだし、パンの精霊か何かか。

 いやしかし――そんな事はどうでもいい。

 なぜなら、目の前には、平面でしか見たことがなかった、おっぱいが、ふたつ。いやこれは正しくはワンセット。そう、存在するのだ。

 隠されるわけでもなく、ででんと重量感ありながら、先に向かって天へとなだらかに昇っていく、その神々しいまでの形。

 夢にまで見て、夢のママ終わったおっぱいが、隠されもせず、堂々と、しかも汗でしめって艶やかに、先っぽはきつとした表情で。

「お前は、ブラ男の分際で、私のおっぱいを好き勝手に揉み倒しおって!! 職務も真っ当できぬか、愚か者、痴れ者、恥さらし!」

 意味が被っているが、それなりにお怒りのご様子のおっぱいさん。言葉に合わせてダンスしておるではないか。

「ええい、私を見ろ、このブラ男めがっ!」

「ああああ……」

 頬を弾く平手は強く、しかし、合わせて揺れて、流れるおっぱいは美しいにもほどがある。

「うぬぬ……私でなく、おっぱいしかみておらぬとは、ある意味で、職に真っ当な男……じゃが、今は私と会話せぬか!」

「ちっ、仕方ねぇなぁ……で、あんたは誰、あと、俺どうなってるかも教えてくれると助かる」

 もっとおっぱいを、おっぱいだけを見ていたかったが、俺は目の前にぎりりと怒りを表して立っている、女に視線をくれた。

 見事な金髪のロール髪、碧眼には意志の強さが灯って目尻をあげている。

 下は白く高級な手触りがするだろうパンツをお召し、ガーターベルトで繋がれた透け具合頼もしいストッキング、足先は美しく鞣された革張りのヒールを履いている。

 もちろん、それ以外はつけていない。

 このセットなら、もちろん純白のブラ装着が世の基本であるところ、惜しげもなく天に向かうおっぱいは、そこにおわす。

 髪をロールにセットする技術と機械、細やかな刺繍をする手工、ストッキングレベルの細い糸を製糸する産業技術に革をなめしヒールを作る伝統技術、どうやらこの世界は、そこそこの文化レベルらしい。

 ではなぜ、ブラがないんだ。

「あ、そうか……俺が、ブラ……」

「そうである。お前は、私のブラ男。ブラ男たるもの、おっぱいを揉まず、ただひたすら陰として、私のおっぱいを支えるのが仕事のはず。それをお前は……そ、その……私が耐えるのをいいことに、そ、その……あんな手前でこねこねもみもみ、先っぽまでぎゅうぎゅうと……くぅうう、うっ」

 名乗らずも高貴なお嬢様、おそらく俺の雇い主である天空おっぱいさんは、パンコネを思い出したのか、顔を真っ赤に染め上げて、斜に伏した。

「まぁまぁ……なかなかのもみ心地……俺の初めて”揉む”を捧げたには、足るもんだったぜ、お嬢様」

「く、この、言わせておけばっ!! ええい、今日のお出かけはやめじゃ、ブラ男、今日はもう下がってよい、雑事の手伝いでもしておきなさいっ!」

「あ、ちょ、俺のあれこれの設定やら、あんたの事、おしえて……」

 俺の声なぞ、豚の餌、そういう顔をしたまま、天空おっぱいさんは、そいつをふるふるぷるっとゆらして、裸のまま、しかし気丈に気高く背筋の伸びた歩きで、部屋を出て行ってしまった。

「はぁ……おぉい、こういう場合は、助けがくるんじゃねぇのかぁ、控えめ女神さまよぉ」

 俺は一人になった室内で、これまた見えぬ天へと向かって囁いてみた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ブラジャー男に愛の手ほどきを 藤和工場 @ariamoon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ