第2話 La Casa di amico

 親友の家に戻り、スーツケースの中のコンパクトディスクを取り出して、一枚を選ぶ。ジャケットに描かれた、ミルクティー色をした甘そうな薔薇の絵を眺め、彼は口元に微笑を浮かべた。

 彼女は自身のコンパクトディスクのジャケットにすら、肖像写真を使ったことがない。音楽雑誌の取材も、受けたことはあるが、写真は使わせない。自らの演奏会リサイタルのときでも肖像写真はパンフレットに載せない。だから、共演でもしないかぎり、その美貌にふれる機会はないと思っていた。

「ご機嫌じゃないか、集一」

 いつの間にか、部屋の扉が開いている。

「やあ、和弥」

 顔も上げずに返事をした集一に、彼は肩をすくめる。

「聴きたいなら、再生機プレイヤーを持ってくるぞ」

「是非、頼むよ」

 すぐに希望は叶えられた。

 典雅な音色が、黄金の陽の光に溶けていく。

 重厚でありながら決して重々しくはない和音。高貴で、しかし優しいほどに軽やかなトリル。華麗なアルペジオは、ダイアモンドが光を乱反射するほどに眩しい。

 夢を語るような演奏。

 作曲家自身も聞き惚れるのではないかと思われる、正統派で、しかし凡庸では決してない演奏だ。

 気がつくと、和弥も椅子に腰かけて、両目を閉じて聴き入っている。背もたれに両手をかけ、顎を乗せて。彼が、リラックスするときにとる姿勢だ。

 天空に浮かぶ宝の石、星が瞬くような分散和音に、彼らは快感を絞られて絶句した。

「……おい、これ、誰だ。聞いたことないぞ」

 ディスクが止まるなり、和弥が訊いてきた。

 当然だ。半月前に出された新盤であるばかりか、これは日本国内でしか、手に入らない。

 集一は、胸に迫る彼女の音楽で声を出せず、黙ってディスクケースを差し出した。

「折橋 結架?」

 和弥の記憶が整理された本に書かれた、そのページには、付箋がつけられていたらしい。彼は、すぐに思いだしたようだった。

「ヴェネツィア音楽院のムーサか。芸術による愛の女神、エラトーだろ。愛らしい女。おまえの理想の女性」

「え?」

「今朝のおまえは、まだ理想の女性には出逢ってない、なんて言ってたけど、本当は、とっくに出逢ってるんだよな。

 天才音楽家と讃えられた折橋崇人と、世界に誇る日本人ピアニストの折橋瑠璃架の娘で、ルチャーノ・スカルパ教授の最後の弟子。最近では録音演奏しか発表しないで、写真も肉声も決して公開しようとしない、謎の多い演奏家チェンバリスト。天使のような美貌の持ち主だっていう」

 唇を大きく引いて笑みをつくった和弥を、集一は驚きの目で見つめる。軽い調子の声色だったが、その両眼は真剣だ。

「彼女を忘れられなくて、どんな女性にも満足できないんだろ」

「いや、たしかに、彼女は容姿も音楽的才能も特別な存在だ。でも、理想の女性だと断言できるほどの関係を築けていないよ。限りなく、理想の女性に近いのは本当だけど。ずっと逢いたいとは思ってきたが、そういう感情が原動力だとは思っていない」

 天使を救う騎士。

 スカルパ教授は、そう集一を言いあらわしていた。それを彼は言葉通りに受け止めていたので、友人とも恋人とも考えなかった。ただ、会って無事を確かめたい。もしも、まだ心を彼女自身ではないべつの何かに支配されているのなら、解放してあげたい。なにものにもとらわれずに音楽と向き合えるように。悲しい思いや辛い考えから自由になれるように。そう心に決めていた。

「限りなく理想の女性に近いというのと、理想の女性だ、というのと、そう違いはないだろ」

「そうだろうか」

「そうなんだよ。おまえ、彼女に完全に魅了されていつつも、それを認めるのは避けるんだな。心奪われているのを隠せもしない癖に」

「ただ対面しただけで魅了されないよ」

 苦笑交じりに応えた集一に、和弥は冷たい視線を返す。

「それは、おまえが心眼を閉じているからさ」

 集一は返答に困った。

「逢いたいと想いつづけて、べつの女性と深い関係になることも回避するほどに影響されていて、そりゃ立派な片恋だろ」

 その言葉を発した声が、とても真面目な調子だったため、集一は怒る気にはなれなかった。でなければ、これほど無遠慮に踏みこまれることに抗っただろう。

 集一は ため息をついた。

「正直に言うと解らないんだよ。ずっと逢いたいと思っていたのも、彼女の幸せを願ってきたのも、大切だからだ。きみの言うように、べつの女性と親しくなるたびに彼女を思いだして比較し、彼女との違いに失望してきたのも事実だ」

「ほらな」

「でも、願っている彼女の幸せに僕がいなくても構わないと思っている」

「なに?」

 和弥の両眼に戸惑いが あらわれる。

「さらに言えば、彼女が欲しいのかというと、それほどでもない」

「集一、おまえ……」

「自分でも軟弱な考えだと思うんだけど、たぶん僕は恐れているらしい」

「なにを?」

「彼女にまで失望しはしないかと」

 あっさりと、感情をこめない集一の声。その淡白さを、和弥はよく知っている。

 昔から、高圧的な父親に抑圧されてきた集一は、どんなことでも自分の望んだようにならないことに対して無感情になるように、執着しないように努めるようになっていた。はじめて会ったころは、それが出来ずに暴れまわっていたものだが、和弥と親しくなるうちに、集一は、そうする術を身に着けたのだった。もちろん、音楽に関してだけは、いまでも決して譲らない。

「彼女とは何度か一緒にレッスンしただけで、それほど、人間性をさらけだすような交流があったわけじゃない。どんな音楽を生みだすひとかは知っているけど、どんな生活を送っているのか、なにに興味を持つのか、そういうことは知らない。趣味嗜好も、信条も」

 なにを言わんとしているのか、和弥は理解したようだった。

「ああ、思いだした。おまえ、つきあって一箇月の彼女とやらがワインを一晩で三本開けるくらい酒豪って知ったとたんに醒めやがったって言ってたよな。おそろしく狭量なやつ」

「それだけじゃないんだが、まあ、そういうこと。些細なことだと解ってはいるんだけど、気持ちが従わないもので。そんな僕だからね。彼女は振りまわしたくない」

 和弥が肩をすくめた。

「集一、おれはルッコラが嫌いだ」

「え?」

 会話があらぬ方向に行ってしまい、集一は面食らう。しかし、和弥は構わずにつづけた。

「あの苦味というか、えぐみが嫌いだ。そもそも、ああいう刺激っていうのは、生物は毒物だと認識するものだろう。それなのに、うちのローザは毎食のようにサラダにルッコラを出してくれる」

 そういえば、ロザネッラが供してくれたサラダには、いつもルッコラがふんだんに盛られていた。そして、ほかの皿は決して一口も残さない和弥が、サラダだけは半分までしか食べたことがない。

「ああ」

「何度、頼もうと、怒ろうと、とにかく半分は食べてくれと譲らない。ハンストしてやろうかと思ったけど、ルッコラ以外は絶つほうが苦痛なんだよ。いまいましい。それが、半年くらい前か。どうにか一気に半分を食べられるようになった。それがさ、ローザときたら」

 にやり、と笑って、和弥が声をひそめる。

「ドレッシングやら、ソースやら、配合をいろいろ変えて出して、おれが食べやすそうな味がどれなのか、探求してたんだよ。半年ものあいだ」

「それは辛抱強い」

「だろう? しかも、ルッコラにこだわった理由を訊いたところ、ローザのお祖父さんが胃癌を診断されたとき、お祖母さんが毎日、ルッコラを食わせていたんだと。そうしたら、胃癌が消えたらしい。それで、うちでは究極の健康推進食品と崇められてるのさ」

 なんとも微笑ましい話だった。

 医学的根拠などよりも、愛情の問題なのだろう。

 集一がそう言うと、和弥は頷いた。

「そう。夫婦になるくらいだから、お互いに歩み寄るものだ。サラダ半皿が舌の上には耐えがたい苦痛であっても、その忍耐に見合う価値がある。おれはローザのサラダ以外ではルッコラを絶対に食わない」

 椅子の背もたれの上で組んだ腕に顎を乗せて、和弥が親友をじっと眺める。

「だから、おまえも心の底から彼女が大切なら、傍にいるために多少のことは耐えざるを得なくなる。第一、人間なんて愛情があろうとなかろうと、振りまわしあうもんさ」

 もっともな意見だった。

「そうだな。実際、会って同じ時間を共有するうちに、それがはっきりするだろうと思ってはいるんだ。僕だけでなく、彼女にも そうしてもらいたい」

「そんな余裕な発言が出来なくなるくらい、夢中になるかもしれないぞ」

 すると集一は声を上げて笑った。

「きみみたいに、かい」

「そうだ。昆布茶も海苔も梅干しも、鰹節も、気安く手に入らないイタリアに住むほどにな」

 重々しく和弥が頷く。それらは彼の好物で、いまでは定期的に日本にいる家族から送ってもらっている。

 彼は、管楽器の世界では有名な制作会社にいる、凄腕の修復師に弟子入りするために渡欧した。

 目が覚めてから眠りにつくまで、ただ、ひたすら楽器と向きあうこと、5年。なんとか独り立ちをしたのだ。そして、修行を始めたときには、いずれ日本に戻るつもりでいたのだが、ロザネッラと結婚して彼女の生まれ故郷に住むことになり、現在に至る。

「──ううむ」

 何かを考えこんでいた和弥が、急に声を上げた。

「そうか、ピアノだ!」

「和弥?」

 すると、すっくと立ち上がった彼は、コンパクトディスクのケースを手にしたまま、部屋を飛び出した。数分後、戻ってきた彼は、もうひとつ、ケースを持っていた。

 ピアノコンクールの録音ディスクだった。

「7歳の彼女の演奏だ」

 弾んだ声が告げる。

 モーツァルトのピアノ・ソナタ。イ短調。ケッヘル番号310。

 美しく張りつめた、優しくも容赦なく刻む和音と、それを縫うように走る、付点リズムの可憐とも思われる主題。まさしくモーツァルト、という特徴的な旋律だ。軽妙さを残した午後の曇り空のような短調。嵐という非日常に心を躍らせ、期待と好奇心を募らせる子供の心情にも似た。

 そして、微睡の第2曲。第1曲で極限まで高まった緊張を、そっと解す音の言葉。歌うように、そして表情豊かに、という指示の通りに、ときに昂ぶる感情は第3楽章の激動を予感させる。待ちくたびれた興奮の退屈と、気晴らし。抑えられた不安。複雑な心を表す数種のエピソードが朗らかに歌い上げる。

 終曲。それは悲劇から逃れようとする疾走。切迫した、緊張の連なり。7歳の少女に、何故、こんな表現ができるのだろうか。鮮やかなほどに暝い、走りぬける燦めく音。逃げきれた歓びと、自由への希望。

「あら。鑑賞会?」

 右手にエスプレッソ、左手にオレンジ・ペコーをなみなみと注いだカップを持ったロザネッラが、首を傾げ、微笑みながら佇んでいた。ディスクを持ってきた和弥がドアを開けたままにしていたので、ノックせずに済んだようだ。

 カールした黒髪を後頭部で高く束ね、体にぴったりした裾の長いシャツとタイツを着こなした彼女は、バレエで培った美しい姿勢を保って歩く。

「オー、ユイカ・オリハーシ?」

 夫と集一に、それぞれの飲み物を手渡しながらディスク・ケースの名前を読みとり、彼女は歓声をあげた。

「知ってるのか? ローザ」

 彼女は微笑みを絶やさず、頷いた。

「わたし、フランスの国立音楽院に通っていたの」

「コンセルヴァトワール?」

「そうよ。そこで日本人とも何人か親しくなったわ。学生寮に住んでいてね。よく、集まって騒いだものよ。そんななかに、とても可愛らしい女の子がいたの。天使みたいに。彼女は寮ではなくて、ピアニストでもある客員教授の家で暮らしていたわ。だから、会ったのは何回かだったけど、いつも、とっても素晴らしい演奏を聴かせてくれた。わたしの試験練習にもつきあってくれたのよ」

「彼女って……」

 ロザネッラは懐かしげな表情になっている。

「ユイカよ」

 二人は顔を見合わせた。

「慥か、まだ13歳だったわね。でも、小さな手で、ショパンやリストの超絶技巧エチュードも楽しそうに弾いてたわ。ちょうど、あのころはラヴェルを勉強していたかしら。私の試験練習はチャイコフスキーだったけどね。そういえば練習ビデオがあるわよ。見たい? いえ、聴きたい? かしらね」

 集一の反応は一瞬ののちだった。

「お願いします」

 ロザネッラは声を立てずに笑った。

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ヴェローナ滞在記 集一 Il Ceppi 汐凪 霖 (しおなぎ ながめ) @Akiko-Albinoni

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