ヴェローナ滞在記 集一 Il Ceppi

汐凪 霖 (しおなぎ ながめ)

第1話 La Tomba di Giulietta

 明るい朝の日差しを浴びた瞼の中が赤い。これは毛細血管を流れる血の色を視ているのだという。けれど、集一は太陽そのものを視ている気がした。


 ヴェローナに来て、今日で5日目だ。

 北イタリアは寒いと聞いていたが、スイスから南下してきた彼には、6月の中世都市は暖かに感じる。

 窓から望める美しい街並みは、彼の心を高揚させていた。

「おはよう、集一。ゆうべもよく眠れたかい」

 セイロンティーをたっぷりと注いだ大きなカップを手に、戸口に立った親友の声を聞いて、彼は振り向いた。きりりと濃い眉の下に、溌剌とした瞳が輝いている。その活力に相応しい、鍛えられた肉体を有する彼は、ただ立っているだけで、いつも自信満々な様子に見える。

「ああ。夢も覚えていないよ」

 窓枠に凭れた集一の そばまできた彼は、カップをさしだした。

「つまらないな。おまえが誰か枕の友を連れてきたって、おれもロザネッラも不思議に思わないってのに」

 軽い口調ながらも、その目は油断のならない光を放っている。

 集一は小さく笑って、カップを受け取った。

「期待に添えなくて、悪いね」

 琥珀色の液体から たちのぼる芳香に、彼の心は和んだ。

 この家には、本来、珈琲の類しかない。これは日本を発つ前に、親友から、飲みたいなら持参するようにと言われて用意していたものだ。

 集一は紅茶党で、珈琲は飲まない。イギリスでは歓待されるが、フランスでは冷遇されるだろう。飲めないというわけではないので、出されれば口にするが、できれば遠慮したいのだ。それを昔から知っている親友が、銘柄にもうるさい集一の好みに対応しきれず、自分で調達するようにと要請したのだった。


 イタリアのトリーノで演奏会をする。

 そうメールを送ると、すぐに返事が来た。

 演奏会の前に、しばらく滞在して、楽器のメンテナンスを受けないか。

 その誘いに、彼は喜んで甘えることにした。

 親友は木管楽器の製作と修繕を行う工房をヴェローナに構えていて、そこで暮らしているのだ。製作しているのは古楽器だけだが、修繕に関してはモダン楽器も扱える。修行中に出逢ったイタリア女性と結婚したばかりである。

 本来、オーボエの発音体であるリードは奏者自身が作るのだが、集一は、この親友が作ったものだけは、空輸してでも手に入れるほど信頼している。

「まったく、つまらないさ。高校生の時に知り合ってから今日まで、おまえが交際相手を紹介してくれたことは一度もないって、気づいてるか? いいかげん、心配になってくるぞ」

 大げさな溜息が、集一の耳を揺るがす。彼は再び小さく笑った。

「婚約者なら、写真くらい見たことがあるだろう」

「馬鹿。あれは親父殿が決めた相手だったじゃないか。しかも、すぐに婚約破棄だ。おまえも結局、対面すらしてないんじゃなかったか」

 成人前の話だ。

 集一の記憶に、苦い過去が甦る。留学の交換条件だったとはいえ、煩わしく、不愉快なことだった。

「あれ以来、ますます、縁遠くなったじゃないか。いつになったら、おまえの幸せそうな姿が見られるんだか」

「兄さんみたいだな、和弥」

「冗談じゃないんだぞ、集一」

 しかし、彼は悠々と紅茶を味わった。

 親友には話していないが、集一にも女性経験はある。それほど多い経験ではないとはいえ、それらは良い思い出だ。未練も後悔も ない。

 ただ、それらの経験は、集一を慎重にさせた。

 恋した相手に失望するのは、彼にとって恋心の死であった。

 なぜか、集一は彼女たちの欠点を認めて受け入れることが できなかった。それも、些細なことが。

 自分だって、完璧な存在ではない。それはよく解っている。しかし、すべてを受け入れて許せるものが愛なのだと信じている彼は、不快な関係を続けることは できなかった。

 そして、当然ながら、彼女たちのなかには、集一に落胆して去っていく者もいた。最初に感じた印象が変わってしまったのだろう。

 そうして何度か出会いと別れを繰りかえすと、簡単には交際を始める気になれなくなった。さらに、そうしたことが、自分の音楽にとって邪魔に感じるようになった。

 彼はそれを気に病むほど孤独を嫌っていないので、それらを親友に語ることがなかった。それで、どうやら心配されている。

「恋愛関係に不自由していると思ったことはないよ。実際、真剣でない付き合いはなかったけどね。僕には遊びの経験が重要とは思えないのさ」

「……おまえを見てると、ときどき、おれでもメルヘンの世界を感じるよ。まあ、その容姿じゃ、異性に夢を抱かせてしまうのも無理はないけれどな。そのぶん、おまえの淡白さに失望するんだろう」

 自分のことのように嘆く親友に、集一は苦笑した。

「すこしは期待に応えて、貴公子っぽく振る舞えばいいのに」

「伊達男っぽく。ドン・ジョヴァンニのように?」

「集一」

 真剣な声が、厳しさを帯びる。

 集一もすこし、声音を変えた。

「夢中になれる相手が現れれば、僕もドンファンよろしく追いかけまわすさ」

「どうだかな」

 視線を逸らした親友に、彼は微笑んだ。

 約束の女性ひとがいる。

 忘れられない、ただ幸せを願うひと。できることなら、この手で守り、幸福にしたいひと。

 ただ、それも何年も前のことで、いま逢ったところで、同じ気持ちになるかはわからない。もしかしたら、お互いに抱くことのできる親愛の情は、友人であるとか、あるいは仲間といった性質のものになるのかもしれなかった。

 それでも、これまでに交際した女性たちと一定の距離を保ったままに進もうとしなかったのは、あの心優しい少女の輝く瞳を忘れられなかったからだ。歓びに煌めき、不安に潤んだ、珍しい色の瞳。

 ──逢いたい。

 いつも、結局は望んできた。

 逢えば、この気持ちが友愛であるのか、性愛であるのか、判別できるだろう。そして、ただひとりのひととなるのかもしれない。

「どうやら僕は、なかなか理想の女性を定められないみたいだね。きみにも心配をかけているようだけど、これほど多くの人と出会う機会があるんだ。焦ることなどないよ。いずれ、出逢うさ」

 すると、親友はイタリア語で小さく何かを呟いた。

 その意味を理解できるほどイタリア語に堪能でない集一は、ちらりと親友を見てから、すぐに外へ目を向けた。

 朝陽が高く昇り、教会の尖塔を照らしている。

 本当に美しい街だ。

 幻影にまどろむ街。

 過去の遺産を抱く街。

 親友が、集一の手から、空になったカップを取りあげた。

「とりあえず、うちの奥さんの手料理を食べて、結婚のありがたみを味わえ。それからサン・フランチェスコ・アル・コルソ聖堂に行って、ジュリエッタの墓参をしてくるがいい。もしかしたら、おまえを憐れに思って、夢中になれる相手を紹介してくださるかもしれないぞ。それこそ、死をも厭わないくらいの恋人を、な」

 そう言われたから、というのも癪なのだが、ジュリエッタの墓、と説明されて見ないのもつまらない。集一はロザネッラの作ってくれたスープとオレンジ・ブリオッシュを食べ終わると、すっかり道を覚えたヴェローナの街に出かけた。

 有名なジュリエッタの家のバルコニーは見たが、墓まで存在するとは思わなかった。家のように、棺に彼女の像が納められてでもいるのだろうか。興味がわいた。


 手入れされた芝生に、白い石の回廊がよく映える。その一端に、地下墳墓への階段はあった。

 薄暗いなかを降りていく。壁が左右に開けた。

 ドーリア式円柱の装飾に挟まれた出入口をくぐる。

 ──あった。

 古めかしい棺だ。

 ほかの石棺と、とりたてて何が違うということもない。説明がなければ通り過ぎてしまう。ただ、その上にかけられたアストラカンが、少女の姿を隠すように覆っている。

 壁際で、彼は陰のなかに身を潜めた。ランタンの光で演出された空間には、伯爵もロメーオも、ジュリエッタもいられるのではないかと思えたのだ。

 古い石の香りをかぎながら、彼は目を閉じた。

 すると、足音がした。

 ロメーオが従者を伴って降りてくる。

 そんな錯覚は、女性のものらしき吐息で打ち消された。

 夢想を邪魔されるのが厭で、彼は陰に身を潜めたまま、観光客が落胆して去るのを待つことにした。

 だが、なんて耳に心地好い、胸を震わす振動だったことか。甘い吐息。やさしい声音。

 なぜか、なんだか懐かしい香り。

 馥郁とした花の──。

「なんだ、これだけか」

 空気を破る、つまらなそうな男性の声。それは、先刻、彼が思ったそのままだ。

 つい、忍び笑いをもらした。

「……!」

 二人分の、息をのむ気配。

 その気配があまりにも切迫し、怯えにも似た緊張に満ちていたので、集一はきまりが悪くなった。

 すると、うまい具合にランタンの光が点滅しだした。まるで彼の考えを支持するように。

 見咎められないうちに、去ってしまおう。

 そう決めて、男性の横をすりぬけることにする。だが、無言で真横を通るのは彼の主義に反した。礼儀は守らねば。

「失礼」

 そして、風のように、まっしぐらに階段へ急ぐ。地上はまぶしく彼を迎えた。

「ま、待って!」

 背中を打った声に、彼の鼓動は失調した。

 なんという声。

 やわらかく、透きとおった、流れる静謐な水を思わせる。

 思わず彼は聖堂の柱に身を隠した。自分でも説明に苦しむ行動だったが、なぜか、そうせずにはいられなかった。

 軽やかな足音が背後を通りすぎて、外へ行く。

 もうひとりの足音が上がってきて、別の方角へ行き、しばらくして外に出て行った。

 彼は少しの間、そこにじっとしていた。

 心臓が、今までになく主張している。はじめてオーボエを手にしたときのように。

 ──なんだ? これは一体……。

 問いかけは、答えを得られなかった。彼にも、これほど胸が興奮する理由が思い当たらない。ただ、彼女の声を聴いて、香気を感じただけだというのに。

 ──夢中になれる相手を紹介してくださるかもしれないぞ。

 親友の言葉が頭をよぎる。

「ばかな」

 苦笑して、我に返る。

 落ち着いて聖堂を出てみて、驚いた。

 中は静まりかえって見学者も信者もいなかったというのに、外はごったがえしている。喧噪が、さきほどの二人をのみこんで、見分けがつかなくしていた。

 不思議なほど気持ちが萎えて、彼はもとの気分で歩きだした。

 カステルヴェッキオの脇を歩み、スカリージェロ橋のたもとを右手に通りを進み、サン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂の門扉の前で止まる。そこで、彼の持つ音楽家の耳が、妙なる響きを聴きとった。

 息せき切って駆けてきた、切れ切れの苦しげな呼吸。

 雑踏のざわめきの中で、その声だけは切りとられたように浮き上がり、彼の胸に迫った。

 行き交う人影の合間から、その声音がすりぬけてきて、心に絡む。

 集一は振り向いた。

 すると、人混みの中心に天使が立っていた。

 大きな瞳に映る景色が、集一を取り囲んでいる。

 紅唇が小さく震え、まだ揺らめく声がそこから発された。

「あなたは──」

 そこで、集一は、自分がひどく驚いて、声も出せずに、硬直していることを発見した。

 不思議な瞬間。

 彼女が口にしたのは、この場に相応しい挨拶の言葉ではないのに、集一は違和感をもたなかった。その問いかけは、彼の中にもあったからだ。それに、そもそもこの場に相応しい言葉とは、まさしく彼女の口にしたものであったろう。

「あなたは、わたしの──」

 問いかけは、確認に変わっている。

 それを察して、集一は微笑んだ。

 彼女が息をのむ。

 集一には、解っていた。

 彼女が何者か。名前も、職業も、そして自分にとってどのような存在かも。

 彼女自身が把握しているよりも、彼は彼女を知っている。さらに彼女が、彼が何者かを知らないことも。

 けれど、それを告げるのは時期尚早に思われた。

 いずれ、数日後、定められた場所で再会する。

 いま、名乗らなくとも、そのときに正体を知ってもらうのも、楽しいだろう。

 いたずら心が、そんなふうに彼の胸を躍らせた。

 まさか、ここで逢えるとは思っていなかった。いったい何故、目の前にいるのかと不思議に思ったが、こんな出逢いも面白い。

 ミレイチェに聞いていたメンバーの中で、ただひとり、同じ日本人だという女性。謎めいた、秘密の薫りのする、美貌のチェンバリスト。その演奏は繊細にして典雅。優美で流麗。華やかでありながら、儚げだった。

 コンパクトディスクで聴いた、バッハのパストラーレ。その響きの、なんと美しかったことか。その美音の数々を大切に集め、具現化して実体をもたせたら、このようになるのだろうか。あまりにも整った姿は、人間であることを否定しかねない。その危うさが、また魅力的でもあった。

 軽く会釈して、緩やかな所作で離れていく。

 実は彼は心では構えていたが、今度は彼女は引きとめる言行を発さなかった。そこで後ろを振り返ることなく路地裏に入り、そこから細い道を何度も曲がって、帰路についた。

 追いかけてくる音がないので、彼はふっと吐息を放った。

 帰ると、きっとコンサート用のリードの試作が山ほど彼を出迎えて、試奏を要求するだろう。コンクールで激闘して疲れた楽器も、きっと最高にリペアされているのに違いない。それが楽しみだった。

 そして、もう一度、彼女の録音演奏を聴こう。

 それから勿体ぶって、友に告げよう。

 理想の女性に限りなく近いだろうひとに、出逢ったかもしれない、と。

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