<エロイム・エッサイム・ファンタズム>~見上げた空がおちてくる~






 子育てを経験したことのない人間には、よく勘違いされるが人間の感情とは本能的なものではなく、経験や幼少時のしつけによって育まれるもので。


 決して生まれつき備わっているものではない。


 それは、正義観や価値観といったようなものと同じく心に育つものだ。


 中でも恥という感覚は反射に近い強い感情の割には時間をかけて育まれる感情だが、恥知ら

ずという言葉があるように、場合によってはそれを感じない人間も育つ。


 恥知らずという言葉は、恥を知らない人間は人間として必要なものを持っていないという考え方から生まれた言葉だ。

 

 教育環境が存在しなかった時代や世界では、征服階級の思惑で、まともな教育を受けられなかった人間と同じ意味で使われることが多い。


 だが、‘外部から意図的に与えられる情報としての知識’と。


 ‘ 自らが外部環境から学んだ経験としての知識 ’の違いから。


 教養を持った恥知らずも存在すれば、無教養だが高潔な人間も生まれる。

 

 しかし、前者は多くはあるが利に聡く、無恥を隠すことを知り、後者はあまりに少ないために、しばしば社会制度による教育を受けていない人間は、恥知らずだと思われがちだ。


 それが必ずしも真実ではないということは、イジメやハラスメントといった問題が多くあることや、自分と支持団体の利益を得るために国を食いものにすることを当然とするような政治を見れば一目瞭然なのだが。


 最近では、そういった連中があまりに増えた為、恥知らずという言葉の意味さえ知らない人間も増えた。


 しかしそれを知り、あえてそれを行わなければならないときに、人は恥を忍んでという言葉を使う。


 たいていは、ていのいい言い訳としてしか使われないからこそ、その言葉の意味を知らない人間が増えたのだが、そういうふうに言葉を使うからこその恥知らずだ。


 その言葉を使っていいのは、本来なら命がかかっているときだけだ。


 そう、今のオレのように。


「まだ、あまり力がはいらないの、身体を拭いてくれない?」


 ようやくベッドに身を起こせるようになったミスリアに、昨日シセリスとの間にあった顛末をすべて話した後、しばらく黙り込んでしまった彼女が唐突に口を開いた。


「……風呂に入ったらどうだい、入れておくから?」


 何故こんなことを言い出すのか判断がつかず、オレはそう返す。


 これは誘惑か?

 昨日の夜に何らかの意識誘導をうけたのだろうか?


 本来の意識を持っているオレと違い、ミスリアという人格を自分と思い込んでいる彼女の意識を操ることは容易いはずだ。


 ここが現実ならマインドコントロールを制御するには接触が必要だが、ASVRなら睡眠時にそれを行うことが可能だ。


「じゃあ、お風呂で洗ってもらおうかしら」


 少し上気した顔で、並みの男なら腰くだけになりそうな流し目で秋波を送ってくる。


「もう、あなたにはすべてを知られてるんですもの」


 そう言ってオレの頬に伸ばされる白くしなやかな手を掴み押し戻す。


 昨日のシセリスといい今のミスリアといい、オレを誑し込もうとしているのか、過剰すぎる色気を隠そうともしない。


 彼女達が実在するのなら傾国の美女もやれることだろう。


「依頼人には手をださない主義なんだ」


 オレは、警戒を表に出さないように少しにやけた顔をつくって言う。


 しかし、やつらの狙いはなんだ?

 オレを油断させることだろうか?


 最悪、オレを殺すための暗示が仕込まれている可能性もある。


 確かに昨日彼女を調べたときに、その手の危険な暗示どころか一切の暗示や怪しげな反応は見つからなかった。


 だが、ここがASVR内である以上、昨日その暗示がないからといって今日もないとは限らない。

 

「わたし、魅力ない?」


 そんなことがないのは判っているだろうにミスリアは若草色の瞳をうるませ、上目がちにこちらを見てくる。


 スケベ男ならむしゃぶりつき、経験の浅いガキなら女は魔物だとでもいいそうな艶っぽい仕草だった。


「いや、そんなことはない──」


 最後まで台詞を口にする前にミスリアが動いた。


 殺気はなく極自然にベッドから身を乗り出し、しなだれかかるように抱きついてくる。


 武器の類は持ってないのは確認しているが、油断せずに身構えていると、ミスリアの顔がくちびるを求めるように、ゆっくりとオレの顔に近づいてくる。


「…………」


 しかしオレは、そのくちびるが届く前に、‘気’を込めた手を黙って彼女の背中にすべらせ

た。


 ここは錬金術師の家だ。


 毒や薬の類はそこらに転がっている。 

 口移しに毒を流し込まれたりはしないとは限らないのだ。


 まあとはいえ、実のところミスリアがオレを殺せる可能性はほとんどない。


 昨夜、月に蝶を見つけた後、眠れなかったオレは、酒を飲んで酔えないことに気づいた。


 酒は百薬の長という言葉もあるとおり、アルコールは薬で薬とは毒でもある。


 そのことで、オレはこの体が毒無効のステータスを持っていることを改めて知り、同時にあらゆる状態異常攻撃や即死攻撃の無効になっているだろうことにも気づいたのだ。


 この世界が‘オレのハックしたリアルティメィトオンラインの世界’である以上、それはまず間違いない事実だ。


 だから、武器も触媒も持たない今のミスリアには、オレを害することはできないということになる。


 だが、それでもオレは、不用意にその危険を冒すわけにはいかない。


 ミスリアがオレを殺すのに毒を使って、オレに毒が効かないことが判れば彼女を操る黒幕もそれに気づくだろう。


 そこから、やつらが全てを操っているはずの世界がオレのハックを受けたデータをもとに構築されているという事実にたどり着くかもしれない。


 もちろん、全ては杞憂であるという可能性もあるが、ASVRで再現された世界なら空が落ちてくる事だって考えられない話ではない。


「ふあ!?」


 オレの手が触れた途端、電気でも流されたようにミスリアの身体がビクッと震え、切れ長の大きなエメラルド色の瞳は更に大きく見開かれた。


「え、なに?! や♥ あ……あ♥ あ~♥」


 とまどっていた声がたちまち甘くとろけてオレの耳をくすぐった。


 オレは、ふるふると震えながら甘い声をあげてしがみついてくるミスリアのうなじから背中の綺麗なラインに‘気’を纏わせた指を触れるか触れないかのタッチで這わす。


「あ……うそ♥ こんな……こんなあ♥」


 オレの‘気’になじんだのかやたらと敏感になったミスリアは、なぜこれだけで自分がこんなふうになっているのかも判らずに、くちびるをぎゅっとかみ締め身体をのけぞらせた。


 まなじりからこぼれ落ちそうになっていた涙が、眼をとじたことでひとすじ流れ落ちる

 

「どうして? どうして──」


 しばらく声もなくただ身体を震わせていたミスリアが、自分でも何を問いかけているのかわからないように混乱した声で、うるみきったまなざしで、オレに問う。


「迫られるのは好きじゃないんだ」


 そう返して、見上げてくる彼女の細くとがったあごを‘気’のこもった指で下から上へと持ち上げるようになぞる。


 ミスリアという女が実在しているのなら、こんな半端なことはせずに彼女の望みに応えるか逃げ出すべきなのだろう。


 だが、ここは昼メロの世界ではない。

 虚実の入り混じった命のやりとりの場だ。


 リスクを考えれば安易に彼女を近づけるべきではないし、目的を考えれば彼女から離れるべきではない。


 ならばどちらも選ばないのが正解だろう。


「くううっ!」


 ミスリアは、オレのその手をしがみつくようにして止める。


「ね、待って! ちゃんと──」


 抵抗するようにミスリアの濡れたくちびるからもれた声を最後まで言わせず、彼女のあごの下に這わせた指をおとがいへとすべらせた。


「あ♥……や♥、待って! だめ♥ それだめえっ♥♥」


 その途端ミスリアは、なす術もなく抵抗の意志を折られ、敗北の悲鳴を上げて、大きく身体を震わせる。


「───ッ あ♥・・あ♥・・あ♥」


 長い痙攣のあとにミスリアの全身から力が抜けて、崩れ落ちる。


「悪いが今日はこれまでだ」


 気を失ってしまったのか、オレの胸に顔をうずめぐったりとした彼女の耳にそう囁いて、その身体をベッドに横たえると、オレは立ち上がり、その場を後にした。



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