<ハニートラップ・パニック>~仮想の夜の夢~





 歴史にも世界にも明確な区切りなどはどこにもありはしない。


 それは全ての基礎となる言葉においてもだ。


 同一の意味を持つという前提でありながら、人は言葉をそれぞれの意味で使い認識差異に気づき或いは気づかぬままに過ごしていく。


 言葉は神であるという一節が暗に示すように、それは、不確かで不完全な人が創った神という概念や言葉もまた不確かで不完全なものでしかないということなのだろう。


 かつて人の多くが無知であった時代に、善意によって造られたにしろ、人を束ねるために造られたにしろ、人を導くために作られた宗教。


 それが、今でもその権威による思想を愚かなまでに妄信する人間や、それを利用するクズどものせいで、宗教が人を救う為の道具から人を戦わせる為の道具にすりかえられたように、人は簡単に本末転倒してしまう。


 だが、それらの事実は逆の可能性もまた示唆している。


 科学が世界を細分化して解析し発展してきたように、観念の基になり世界を表す言葉を細分化して増やすことで、人が完全なものへ近づいていく可能性だ。


 少ない語彙しか持たない子供が広い世界を知り、語彙を増やしながら成長していくように、新たな言葉を定義し増やすなら、人は新たな可能性にたどり着くはずだ。


 もちろん多くの言葉を知っているからといって、それが多くの事を知っているということになるわけではないが、自分がそれを知らないとさえ知らないよりはいい。


 言葉にできない感情や未知の状況に置かれた人間が不安を覚えるのはなぜだろう?


 それは、自己というものを見失う不安だ。


 では、その状況を表す言葉さえなければどうなるだろう?

 人は常に不安に駆られて生きなければならない。


 ならば多くの言葉という定義を創り、曖昧さを排除していくことは、人をなぜ自分が不安なのかも判らないストレスから救うことにもなる。 


 専門的な科学を学ぶなら多くの専門用語を知らなければならないように、あえて複雑化された社会では多くの言葉が必要になる。


 細分化した職業や他者を排除することで富を得るシステムのせいで、ただ生きる為に多くの言葉が必要となっている。


 それらの言葉に圧迫されるかのように、‘人生という道を歩いていく為の道標’となるような言葉は忘れ去られていってさえいる。


 けれど、高度に複雑化した社会を破綻させない為には、そういった言葉こそが多く必要になるのだ。


 そして、民主主義が衆愚政治と呼ばれないようにするにもまた、そういった言葉が必要になる。


 自然科学のみが科学であるかのように人文科学を軽視したなら、民主主義は成り立たない。


 それは、自由に生きていく為には多くの知識が必要であるのに等しく必然だ。


 ‘無知の知’と呼ばれるその真実に人は遥か昔に辿りついているが、多くの人間はそれを実感しないまま生きている。


 そして、多くのかって広く知られていた智恵や知識が世界の画一化で消えていこうとさえしている。

 

 多くの大人たちが子供達の活字離れを嘆く理由は、そこにある。


 多くの、人として生きていくには必要ない知識にさらされ、‘人生という道を歩いていく為の道標’となる知識を得ることができない子供達。


 そんな子供達が、イジメやひきこもりといった方向へ向かうのを止められないからだ。


 そんな‘道に迷う子供’を無くすため、そしてそんな人間を己のために利用するクズどものいいようにさせないためにこそ。


 “ 新たな言葉としての‘ 新たな定義 ’と‘ 新たな罪 ’”という‘ 新たな道標 ’が必要になる。


 そして、その必要性を多くの人間が知り、それを多くに広めていかなければならない。


 それをなす為には、ものごとの本質を見失わない事と本末転倒をしない事。


 そして、そのために必要なことを常に考え続けられる人間の価値観がつくる言葉を増やし続ける事。


 ただそれだけでいい。


 力で人を虐げるクズを恐れ、力を求めることで、その同類に成り下がらず。


 人を貶める事で自らを上位に保とうとする卑劣漢に負けないためにと、同じ轍を踏むことをせず。


 自らの欲望の為に他者の幸福を侵すことを当然とする下衆に対抗することで同じ愚を犯さず。


 小人閑居して不全を成すという言葉にあるように、それは単純で退屈で小人や子供には難しいが、大人にとってはあたりまえのことだ。


 ‘道に迷う子供’でしかない小人を減らし、‘識者’である大人が、社会を動かし、それを子供達が実感し。


 自分もそうありたいと願えるようになるなら、自然と新しい意味を持つ言葉は普及するだろう。


 しかしそれは世界を壊し定義しなおすということだ。


 それを嫌い、人を欲望のままに利用し、愚かなままにして服従させ、自らの保身の為に数多くの人々を殺すこともためらわない‘下種脳’連中が、それを快く思うわけがない。


 だからこそ‘下種脳’供は、理想を追う人間を馬鹿なやつだと嘲笑う価値観をばらまき。


 理想を形だけのものにしてそれを利用し、理想を実現させる為だと言って理想を汚すことで人を本末転倒させる。


 人に認められたいという想いを使って人を服従させ、人の情を利用して人を蹴落とし、目先の利で人を動かす。


 そして最後には、ある‘下種脳’はそうしてとりこんだ人間に命令することで、人を貶めあるいは殺し。


 ある‘下種脳’はそれを知りさえせず自らは手を汚さずに人を消す、という残忍な愚行を繰り返すようになる。


 オレが相手をしているのはそういう連中だ。

 決して油断してはいけない。

 そう、どんなときでも。


「あーん」


 なぜかオレの隣でミスリアは、眼を閉じてそのさくら色のくちびるを開けている。


 ぬめるように光るピンク色の舌が口の中にはっきりと視認できる距離でオレにしなだれかかり、黄金色のまつ毛を震わせているその姿は、どう見ても誘っているようにしか見えない。


 それでもそれが下品に見えないのは、流石にリアルティメィトオンラインの女性キャラでも一二を争う人気の持ち主だけのことはある。


 その男を惑わす為に生まれてきたかのような女を前に、オレは改めて自分を引き締めていた。


 食台の上にはオレが作った料理が並んでいる。


 シテレとファムにブレイドサーモンの切り身で作ったフィッシュサラダ。


 ドードー鳥の卵とローク山羊のバターで作ったスフレオムレツ。


 そしてターク小麦のラゼーズブレッド。


 リアルティメィトオンラインをやっている人間ならミスリア好みと即判るメニューだ。


「あーん」


 黙々と食べるオレの横でまたミスリアが言った。


 ドードー鳥は絶滅動物であるドードーそのものの外見の鳥で、卵は鶏より野鳥のものに近い濃厚な味がする。


 ローク山羊も絶滅種の山羊をモデルにしたもので、その乳から作るバターはすっきりとした上品な味わいでありながら豊かなコクがあるものだった。


 ターク小麦は何も混ぜていないのにかなりの甘みを持つ小麦。


 ラゼーズの実はキウイのような酸味を持つぶどうの食感を持つ果物だ。


 それらから作られたパンは、もっちりとしたパンに干しラセーズを交ぜることでお互いを引き立てるものになっている。

 

 シテレはレタスとキャベツの中間のような味と食感を持った丸い葉野菜。


 ファムは苺のような形のトマトで、食感はトマトだが味は苺に近いほど甘い。


 サラダの材料のこの二つはこの水晶の小屋のあるソレン地方の特産品で、近くの村で手に入るが、ブレイドサーモンは、普通の人間には手に入らないものだ。

 

 今の季節、この地方の川に訪れ卵を産んでいくこの魚は、しかし鮭のようにそこでおとなしく死んだりはしない。


 川を遡る途中、水辺にやってくる動物をその名の由来になったカジキのようなブレードで襲い、食い殺すことで栄養を得るというとんでもない魚だ。


 ミスリア関連のクエストでこれと戦うことになるのでよく知られるブレイドサーモンだが、その身は鮭のように赤いが味は鯛のように淡白で、焼けばほのかな甘みのあるものだ。


 フィッシュサラダなので生の切り身をラゼーズ酢とターク油でマリネにしている。


 昨日も感じたが、ASVRは実際に存在するものを再現するのは簡単だがこれらのようにあるはずのないものを再現するのには、高度な技術を必要とするシステムなのに、実に自然に味や食感が再現されている。


 料理の最中もどこかにバグが生まれないか観察していたが、残念ながら微塵の不自然さもなかった。


 魔法なんてものを見なければ、ここが現実かもしれないと普通なら錯覚してもおかしくないほどだ。


「もう、きのうは食べさせてくれたのにどうして?」


 ついにじれたのか、ぎゅっとオレのシャツの右袖を握ってミスリアが言う。


「昨日は、ミスリアに食べさせてあげたのですか?」


 左側からそう聞こえてきたのはシセリスの声だ。


 通りのいい清楚さをもった声は、疑問というより非難の響きを持って聞こえる。


 これでは、まるで二人が恋の鞘当をしているように思えるが、それをあっさりと信じるほどオレはきれいな世界で生きてこなかった。


 この状況は偶然生まれたにしてはできすぎている。


「昨日は自分で食べられなかったからだな」


 どちらにともなくそうこたえて、オレは熱々のオムレツをスプーンフォークで口に運んだ。


「はやく食べないと冷えるぞ」


 そう言ったことでやっと二人は食事を始めてくれた。


 今日の朝の一件からずっと拗ねたように口を聞かなかったミスリアと食べたブランチもそうだが、この夕食も疲れることこのうえない。


 そのミスリアだが、シセリスが来てからはうって変わったように今の調子でオレを誘ってくるようになった。


 おかげでシセリスから二人は恋愛関係にあるのかなどと問い詰められるはめになり。


 否定すればミスリアがあんなことしたのになどとシセリスを挑発するやら。


 シセリスがわたしだってと決闘のときのことをほのめかしたりだとかで、どこのエロゲだというような騒ぎだった。


 あげくの果てに、御主人様とオレを呼ぶシセリスに対抗して、ミスリアがオレを日本語でいうなら妻が夫に言うところの‘あなた’や‘ダーリン’という意味で使われるティーレル語の‘デューン’と呼んだり。


 ミスリアがいつでも自分を使ってくれと、どこの性奴隷だというような発言をしたりと二人で迫ってきそうになる始末だ。


 とりあえず食事を作るからと手伝うという二人を振り切ってその場を離れ、戻ってきても幾分落ち着きはしたものの、まだこのありさまだ。


 女関係に耐性のない男なら、この状況を修羅場と呼ぶかもしれないが、リアルタイムで命の危機にひんしている身では、せいぜい空騒ぎ程度としか言えないやりとりだ。


 だが、それでもこの騒ぎの中で気づかれないように万一の攻撃に備え続けるのは、面倒このうえない。


 可能性としては低いが、操られた彼女達が二人がかりでオレを殺しにかかってくる可能性もゼロというわけではないし、なにより相手の出方が解らないのが厄介だ。


 今のこの体でなければ絶対にやりたくないし、やろうとも思わなかっただろう。


 おそらくは何者かの意志で起こされているだろうこの騒動を通しての収穫は、この二人がAIではなく感情を持った生身の人間がベースになった人格だということと、不自然にオレに好意を持っているということだけだった。

 

 では、何がこの状況を引き起こしているのだろう?


 オレは答えの出ない問いを考えながら、何かと騒がしい二人を眺めていた。





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