第3話 土曜日の朝


何でもない夏のはじまりの朝に、鳩の声を聴きながら、隣の女の肩に手を伸ばしてみる。まどろみながら背を向けうつ伏して寝ているのは、きのうの飲み会で僕のことを好きだと言った同期入社の女だ。

酔っ払った勢いだった。タオルケットからはみ出し、肌がむき出しになった肩に触れてみると少し煩わしそうに「ううん」といいながら寝返りを打つ。寝息がまたはじまる。どうやらここが僕のアパートだと気づいてないらしい。


住んでいた田舎を離れて上京し、社会人として働き始めてから3か月が経過した。

いわゆる何もない故郷だった。海が近く、森もある。が、かつて波乗りに挑戦したり、虫取りに明け暮れた場所も、大人になってゆくにつれてその隠れ家的な魅力は効力を失った。商店街も、小さい頃に足しげく通った駄菓子屋がつぶれるたのをきっかけに一気ににさびれ、高校を卒業するころにはただの抜け殻のようになってしまった。

周囲の田園風景を眺めて飽き飽きとした気持ちになるだけで、そこにとどまることに違和感を感じはじめると、多くの若者は「過疎」などという言葉を人ごとのように口にし、街を離れる。

自分だけは違うぞ、と思い、故郷を歌い上げようとその場所で踏ん張っていた僕も、やがて手ごたえのない生活から逃げるように、友達や後輩や親せきを残し上京した。振り返ると置いてきたのは後ろめたさだけだった気がする。子供の頃に愛したあらゆる風景さえもが過去になっていた。


隣でもぞもぞと動き出した女に話しかける。

「おはよう 」

「おはよ」

とりあえずかけた言葉の後が続かない。

光の束がカーテンを透かしている。

それが少し、ちくちくと痛い。

「及川君、ごめんねー私。」

沈黙を破ったのは妙子の方だった。岡崎妙子。たしかそういう名前だった。

「謝るなよ、僕がなんとも思ってない女とするわけないだろ?」

とっさに出たでまかせを僕は真実だということにしようと決めた。

こうやって人は僕を優しい男だと誤解する。本当は気持ちだけが先行する臆病な人間だというのに。田舎のことだってそうだ。街を元気にしようと必死でギターの練習に明け暮れた日々は何だったのだろう。宙ぶらりんのまま残してきた仲間たちにどう弁解すればいいのか。

「ギターやってたでしょ?」

「え?」

考えていたことが見透かされたのかと少し動揺する。

「その指。」

「ああ。」

「わたし、好きなんだ。ギターやってた男の人の指。何度もマメをつくったり潰したりして硬くなった指。」

「それは…エロい意味で?」

すかさず腹にジャブを入れた妙子は、膨れたついでに軽く微笑む。

あ、と思う。こういう子は好みだ。

「及川君てそんなこというキャラだったの?」

「ごめんごめん。」

許しを請うたのを、軽く受け流しながら妙子は続けた。

「ねえ、及川君のこと色々ききたいな。」


この子ならば僕の故郷のことをきかせてもいいかもしれない。

そう思った僕は、田舎でのことをぽつりぽつりと語り始めた。


今日は土曜日だから時間はたっぷりとある。

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