第10症 パパとママとわたしとクソと
名も無き魔王がわたしのパパになるずっと前の話です。わたしのほんとうのパパの話です。
パパはママをよく殴りました。わたしもよく殴られました。いったいなにが気に入らないのか、まだ幼かったわたしには理解できませんでした。でも、パパの残した言葉たちは少しだけ真実に足るものでした。
特に好きだったのは、原子爆弾がなかなか落ちて来ないっていう詩でした。パパの言うには、心の傷はただの勘違いだそうです。だからわたしは、パパがわたしの目の前で、真っ黒い熊の姿のような毛の塊に食べられて、ビチクソになって出てきた時も、その一瞬はショックでしたが、心に傷を負うことはありませんでした。台風16号が原爆ドームに上陸した日の午後の事でした。干からびたたんぼでカエルが同じように干からびていた学校の帰り道の出来事でした。
ママも泣きませんでした。きっとパパの死もただの勘違いなのだとママも思っていたのだと思います。そういえば、その少し前にわたしは近所の空き地に不法投棄されていたインフルエンザの注射針二千本の中に手を入れてしまい、てのひらに無数の刺し傷を負っていました。まだてのひら中に絆創膏を貼ったままでした。
パパだったはずのビチクソが酷く臭うので、わたしは絆創膏の湿った生臭い匂いを嗅いで誤魔化しました。そんな幼き日の思い出があります。あの熊に似た黒い毛の塊が「事象」のひとつであったことを知るのはまだずっと先の話です。すでにあの時、世界の終わりは始まっていた。
パパは洗濯機に覚醒剤を忘れたまま、わたしを迎えに家を出て死にました。ママが知らずに洗濯をしたので、わたしのブラウスも覚醒剤まみれになってしまいました。でもわたしは、溶け残ったそれが覚醒剤だとは知らずに、そのまま洗ったブラウスを着て学校に行きました。太陽の光に反射して、薬の粒はキラキラと光っていました。
そのころ唯一わたしと話をしてくれたリナちゃんが、キラキラ光るわたしのブラウスを見て「かわいい服だね」と褒めてくれました。とても嬉しくて、わたしは楽しい気持ちでいっぱいでした。ブラウスはもう一度洗濯すると、もうキラキラと光らなくなりました。
それはさておき…。
生前のパパのする話は、今のわたしを創ってくれました。
「原爆投下は体育の時間に理科の実験をするようなもんや」
「札束はビルの上からばらまくためにあるんや」
「おでこ掘ったら目ん玉が出てくるから注意すること」
「太陽はこの世で一番怖い片目や」
「原爆鳴らしたら一番音がでかい」
「星を数えたらあかん」
「生きてるもんが死んで、かわいそう言ってるやつは頭がおかしい」
「生卵はいくら潰しても俺を許してくれる」
「ゴミはぜったいにほろびない」
「今年の蝉は毎年絶滅しとる」
その言葉達がわたしの脳ミソに貼り付いて、わたしは出来ているのだと思います。パパのことは、暴力をすぐふるうので好きではありませんでしたが、パパの言葉や詩は、本当のことを語っているのだろうと、幼いわたしは畏怖にも似た感情を持っていました。決して尊敬はできないのですが、何故か心にこびり付いて離れてくれないのです。
パパの世界はずっと怖くて、それなのに完全に否定もできませんでした。
小学生のころ、戦争と平和を学ぶ道徳の授業の時に担任から見せられた「核戦争の時代」というビデオがわたしの心を簡単に破壊しました。飛行機雲はぜんぶ核ミサイルに見えるようになりました。赤ちゃんの泣き声は爆風で肉の爆ぜる音に聴こえるようになりました。夕立のボトボトと落ちる大きな雨粒がぜんぶ真っ黒になりました。
パパは「怖いから家から出たくない」と言うわたしに向かって、ボロボロの歯を見せてニカっと笑って「心の傷はただの勘違いや。原爆はなかなか落ちてこんもんや」と言ってくれました。
不思議と、怖くなくなりました。
その後も、相変わらずパパはママを殴って、わたしの髪の毛を引き千切って暴れる日が続きました。
ビチクソになった変わり果てた姿で、道端で死んだ日の朝までそれは変わりませんでした。
もうずいぶん昔の記憶なので、もしかしたらわたしの見た夢だったのかもしれません。ママもパパの話は一切しないし、わたしのパパは今では魔王だからです。
ビチクソのパパと魔王のパパはまったくの別人で、それは断言できるのですが、いくら思い出そうとしても、最初の事象で死んだパパの顔が思い出せません。
心の傷がただの勘違いであるように、本当のパパの存在も、それ自体が勘違いだったんだと大人になるにつれ思うようになりました。
パパの言葉はわたしが創り出した妄想。
原子爆弾はちゃんと落ちてくる。
だけど、パパの言葉を嘘だったと考えようとすると、わたしの胸は黒く重い鉄球に押しつぶされそうになります。汗が全身から噴き出して、ぶるぶると震えがやってきます。わたしのまわりの世界が真っ白になって、なにも見えなくなります。
ただの勘違い。ただの勘違い。ただの勘違い。ただの勘違い。
ピカはドンとは言わない。ピカはドンとは言わない。言わない…。
わたしは急いでパパの幻影と言葉を脳にイメージして、防御のスペルを反芻します。しばらくすると発作は治まります。
パパが存在していたかどうかはこの際どうでもいいのです。厄介なのは、勘違いであるはずの心の傷が、ちゃんとわたしを襲うのです。
目の前で人間が死んでも怖くありません。
おぞましい事象が世界を攻撃してもなんとも思いません。
わたしの心は凪いでいる海のように静かで、ただちょっとだけイライラする時があるだけで、バイオハザードで一番弱いゾンビに殺された時と同じくらいしか心は動きません。なのに、空き地の注射針も、体育倉庫の天井も、バイトの休憩室のシフト表も、わたしをちゃんと襲ってきて、心が「それは傷ですよ」と言うのです。
ただの勘違いなんて嘘だ。嘘だったんだ。
死んだらかわいそうだし、ゴミだってほろびる時はやってくるんだ。
もう本当のパパに問い質す事はできません。魔王のパパなどなにも言ってはくれず、ニヤニヤと卑しい笑みを浮かべるだけ。クソが!
「そうですよ。それでいいんですよ。なにも間違っちゃあいない。みーちゃんの心は正しいんだ。心は傷つくし、常に動いているんだ」
誰かの声がします。この声の主こそが、モコやICBMやバイトシフトがよく言っている「オモヒカネ」さんなのかな?
「そうですよ。さぁ、もうこれ以上傷つくのは止めなさい。みーちゃん一人が背負い込むには、世界は少しばかり大きすぎるんだ。なにも戦う理由などない。世界なんてみーちゃんにとってはどうでもいい場所なんですよ」
また聴こえる。「オモヒカネ」さん。ありがとう…。
でも…。わたしにはまだママがいる。串カツ屋の…あいつも生きたままだ。唯一の友達だったリナちゃんは、今は有名なモデルさんになって活躍している。この間、久しぶりに手紙が来て、手紙には「結婚しました。来年には赤ちゃんが産まれるんだよ☆」って書いてあった。
わたしにも失いたくない物だってある。守るなんて烏滸がましいことは言えないけど、事象を止められるのが世界でわたしだけなら、わたしはまだ逃げちゃいけない気がするのです。
「それがみーちゃんが出した結論かい?心がどうなってもいいのかい?」
オモヒカネさんはわたしを心配してくれているようですが、わたしはたぶん大丈夫。この世界は大丈夫じゃないかもしれないけど、わたし自身は大丈夫です。いくら死ねない身体だといっても、世界が無くなってしまえば、流石にわたしも無事ではないと思う。
その日まで、楽しい事はできるだけやって、厭なこともたくさん体験して、わたしの本当のパパの心と同じになりたい。
「世界は臭くて、ビチクソだ」
それでも命は存在していると思います。命なんて軽くて簡単に壊れてしまうけど、嘘ではないです。心も嘘ではないです。
「そうですか?分かりました。もうみーちゃんの好きに生きればいい。私にそれを止める権限はない。生きなさい。生き続けなさい」
オモヒカネさんの言葉はもうそれ以上は聴こえなかった。
最期にママから返ってきた手紙を読みます。オモヒカネさんも、まだわたしの側に居るならわたしの目になって、一緒に読んでくれますか?
2
みーちゃん。パパのことはもう大人になったのだから分かっていると思う。ママはあなたのママになった日から、なにも変わらずママのままでいる。だけどみーちゃんはもうずいぶん遠くに行ってしまったみたいね。少しだけ寂しいけれど、これが世界のためであるのなら、私は黙って再放送のドラマでも見てるよ。
パパはひどい人だった。暴力もたくさん振るったし、仕事もろくにしなかった。そんなパパがあなたの心を救っていたことを知ったのは、パパがあんな情けない死に方をしてからずいぶん経ってからのことだった。今でもパパを良いパパだったとは言いたくない。それはみーちゃんも分かってくれていると思います。でも、あの人がみーちゃんのパパで良かったって、最近になってやっと思えるようになったよ。
それにしても、あの魔王ってなんなんだろうね。私笑っちゃった。魔王と再婚するなんて、私もみーちゃんと同じくらい変な人生を送っているね。まぁ、この世界はすでにマトモな人間など一人もいないし、これはこれでアリなのかもね。人間との再婚なんて考えられないわ。
みーちゃんはきっともうママの正体が人間じゃないって解ってると思うので正直に言うね。
私はどういうわけかこの世界に連れて来られて、きっといつものように世界を破壊すればいいのだろうと思ってたら、またどういうわけか、ある女の子の母親になって欲しいなんて頼まれて、その頼みが自分にとっては画期的だったし、正直、世界を滅ぼすばかりの人生に飽き飽きしてたから、半分冗談のつもりで引き受けたの。
最初はホントに冗談のつもりだった。母性の感覚って言うの?あれを感じるなんて夢にも思わなかった。だって、私はいつも、どの世界でも、終末を告げる存在だったから。
終末って言うのは、人間が持っている「絶望」や「希望」もすべて関係なく失くしちゃうってことよ。
そんな破壊の象徴だった私が生命を宿すって、こんな画期的な事象はこれまで一度も無かったわ。きっとこの先もありえない事だと断言できる。
赤ちゃんて、オギャーって泣きながら、女の股を裂いて出てくるのね。なにもかもが画期的だった。あの例えようのない痛みも、みーちゃんが産まれた瞬間の、脳ミソがぜんぶ入れ変わる感覚も、これまでの単調な滅ぼしの生活では味わえなかった新世界を見させてもらったわ。
これまで滅ぼすばかりで、本当は天地創造の神を羨ましく感じていた。だけど、たった一つの小さな命を宿しただけで、それを産み落としただけで、こんな気持ちになれるのね。
世界なんて創る必要などなかった。私がたまたま人間で言う女という性別で良かった。もし男の魔王だったら、時の終わりまでずっと神を疎ましく思うだけのつまらない時間をおくっていた。
天地創造だってたぶん退屈な作業だと今は考えているよ。木や土にも感情は存在してるけど、やっぱりあのオギャーって出てくる感じじゃないのよね。説明が難しい。
オギャーの中には「希望」も「絶望」も含まれていて、それがすでに一個の宇宙になってるのよ。
世界をチマチマと滅ぼす毎日と、一瞬で宇宙を誕生させるスペクタクルなんて比べ物になるわけないじゃない。
私はずっとドキドキしてた。みーちゃんがどうやって育っていくのかも、私がどうママとして生きるのかも、これまでの時間ずっとドキドキしてた。
主婦の生活は退屈すぎて、再放送ドラマばっかり見てたけど、みーちゃんの成長が退屈な時間を消し去ってくれた。
初めて歩いた日。初めて言葉を理解した日。初めて世界の怖さを知った日。私はなにも手伝ってあげられなくても、みーちゃんは一人で立派に育ってくれた。
はじめはどうしてあんな頭のおかしい人間の子どもを産まなくちゃいけないのか不満だった部分もあった。でも今はぜんぶを許せるのよ。母親って不思議ね。母親に神も人間も関係ないの。
私はこの世界に来られてなにも後悔はないわ。
どこの世界だって例外なくクソだしね。滅ぼす価値もない世界ばかり。私はもう滅ぼす側には戻りたくはない。ずっとみーちゃんのママでいたい。
最近いよいよ「事象」たちが本気を出してきたようね。
あまり無理しないようにね。みーちゃんは、本当はそんなに強くない普通の女の子なのだから、自分をもっと大切にしてください。
ハーゲンダッツは、今度はキャラメルソース味を買っておきます。
みーちゃん産まれて来てくれてありがとう。世界なんて救わなくて大丈夫だよ。
みーちゃんがみーちゃんの心を取り戻してくれたらママはそれで幸せです。ママこういうの苦手だから、このへんにしておきます。
ずっと元気でいてね。
追伸・私も魔王のパパは大嫌いよ。みーちゃんの言葉を借りるなら、あんなやつビチクソだ。ハエたたきで潰しちゃえ。あのろくでなしだった歯抜けのパパの方が好きよ。
みーちゃんへ・ママより
私は確かにみーちゃんと一緒にこの手紙を読みました。だけどもう私からは語りかけません。みーちゃんはようやくほんの少しだけ「心がどこにあるか」いいえ「心のどこにあるか」を悟り始めました。
私は役目を終えました。あとはみーちゃんがここに辿り着くのを待つだけになりました。
その先の結果は私にも知る術がありません。
人間の言葉を借りるなら「賽は振られた」ってことでしょうか。確か、どこかの世界のいつかの時代で、私に似た人間の科学者が「神はサイコロを振らない」と言っていましたがそんなことはありません。
「賽を振る」行動の意味が人間のそれと違うだけで、神だって事象の結果を自分の意識とは違う存在に委ねることはあります。
例えば人間を創ったのも「賽を振った」ことになるのだと思います。
私もこの先はみーちゃんに委ねました。みーちゃんが神の意志に応えるに足りる成長を私は見届けたので、あとはどうなろうが後悔はしません。無責任な発言ととられてもかまいません。
元々、世界がどうなろうが私にとっては知ったこっちゃあない微小な事象でしかないからです。
私はサービス精神も旺盛ですが、やはり好奇心というココロを文字通り心から愛しています。
もしかしたら私は悪魔に近いのかもしれませんね。ふふふ。
さておき…。
悪魔と言えば、みーちゃんの今のパパであるあの蠅の魔王についてちょっとだけ補足を。
あいつを創ったのはみーちゃんのママが本来の役目を忘れて、破滅を告げる者に戻らぬよう念のためにという理由で創ったのですが、思っていた以上にクソでした。私の悪い癖で、ちゃんと創り過ぎました。あんなもん猿で良かったのです。
屁を嗅ぐ猿で充分でした。少しだけ体裁を気にしたばかりに蠅などから産みだしたせいで、はっきり言って賢くなり過ぎました。
まさか、時間を遡り、存在してはいけないみーちゃんの分身をこの世界に創りだしていたとは私も知りませんでした。大きな厄災なら気配で感じとれましたが、屑の子の気配を感じとれるほど、私の視野も広くありませんでした。
みーちゃんのママは、あいつの存在を私の仕業だと勘違いしているようです。これだけは断言しておきますが、あいつを運命の輪に仕組んだのは私ではなく、少しだけ賢く産まれてしまったクソの魔王の仕業です。「賢さ」という物は使いこなせる資質と技量がなくては結局クソと変わりません。人間の科学だって、使い方を間違うとすぐに破滅に向かってしまうのと同じです。
私は間違っても、みーちゃんと繋がるような存在など創ったりしません。
本当にあいつはバカを仕出かしました。名前を与えなくて正解でした。所詮は名も無き魔王なのです。
魔王自身は大した存在ではなく、きっとみーちゃんのママがハエ叩き一発で潰してくれるでしょう。みーちゃんに降らせる禍はもう充分こと足りました。魔王の存在も必要なくなりました。
残ったのはクソの遺伝子「ペイン」と、そしてあいつ。
そこについては、私も自分のミスを完全に認めます。この場を借りて謝罪いたします。
きっとみーちゃんは最後の山も自力で超えてくれると今は信じるしかないようです。
みーちゃん頑張ってね。オモヒカネからは以上。
3
オモヒカネさんはちゃんとママの手紙を一緒に読んでくれたかしら。なにも声は返ってこないようです。
最後にあの日からのことを記しておこうかな。
「あの日」というのは、わたしが初めて政府の怪しい機関に呼ばれた日のことです。わたしはバイトを辞めてから、鬱々とした日々を自室で過ごしていました。
クマのヌイグルミの腹を切り裂いては縫うを繰り返すのがそのころの唯一の趣味でした。世界すべてが厭になる気持ちの日は、必ずクマのヌイグルミの腹をカッターナイフで裂いて、中の綿に手を突っ込んでぐしゃぐしゃにするのです。そうすると熊の化け物に食べられて死んだパパの仇をとったような爽快な気持ちになりました。
ある夜、ヌイグルミがしゃべるようになりました。わたしもいよいよ頭が怪しくなってきたのだろうと、哀しいとは逆に、寧ろ諦めがついた清々した気分でした。
ただし、クマの腹を裂く遊びは止めにしました。だって、こいつは世の中の事をなんにも知らなくて、バカでトンチキで、こんなカワイイ子の腹を裂くなんて無理に決まっています。
その代わりに大好きなニーソをたくさん集めるようにしました。それまでもいっぱい持っていましたが、バイトで貯めたお金がぜんぜん使わずにそっくり残っていたので、普段は履かなかったようなニーソもたくさん買いました。
するとニーソがしゃべるようになりました。
ニーソ達は普段履かれている時は静かなのですが、時々わたしがドジをして、机の角に足の小指をぶつけて笑い泣きしたりしたら、途端にザワザワし始めて、まるで宗教の教祖様が死んでしまったかのように、わたしを心配し、可哀そう可哀そうと泣いてくれるのです。ちょっとだけキモいと思いました。
わたしは神とか宗教とか嫌いです。だって、あいつら鮫の目をしているんですもの。だからニーソたちにはそんなに心配する必要はないと、きつく叱ってやりました。そしたら、ありがたやありがたやとまた泣くので、わたしはうんざりして、今度同じようにしたら二度と履いてあげないからね。と言いました。やっとニーソたちは黙ってくれました。ニーソはどれだけわたしの心の内を知っていると言うのでしょう。わたしの心など、壊れたおもちゃしか入ってないおもちゃ箱よりもガラクタで一杯になってて、尊敬されるような人間では決してないのに。
ニーソとは肌との密着以上の感情は持たないことにしました。要するに履き心地と見た目の可愛さは認めてあげても、どんなに献身的にわたしに接してくれても、ゴムが伸びればただの布切れとして、無感情で捨てる事にしました。
きっとニーソたちに、今ではすっかり恨まれていることでしょう。
そのわりに今でも目玉なんか無いくせに、子犬が飼い主を待っているような目でこちらを見ている気がするのは、わたしの気のせいであって欲しいものです。
話が逸れました。
ちょうどニーソがザワザワするようになったころ、わたしの家に一台の真っ黒の車がやって来ました。
ママはいつものようにリビングで再放送のサスペンスドラマを見ていました。どういうわけか、ママが無理に働きにでなくても家にはなんとか生活していけるだけのお金は在りました。パパが生きていたころはあんなに貧乏だったのに。
ママは、保険金が入ったからと言って、わたしもママの言葉に深く疑問など抱きませんでした。それよりも、学校が嫌で嫌で仕方がなく、その闇の方が大きすぎて、生活の些細な物事はなんにも気になりませんでした。バイトを始めたのだって、学校を辞めた罪悪感と、その時はわたしなりに大人になろうと真剣に考えた結果の行動でした。
バイトなんてしなきゃ良かったと今は心底後悔しています。
で、なんだっけ。ああそうそう、黒い車の話でした。
車からは、三人の男が降りてきました。わたしは二階の自室の窓から見ていました。なぜならニーソたちがその車がやってくる日の朝「いよいよだ。いよいよだ」と意味不明の言葉を「煩い!」とわたしが怒っても止めようとしなかったからです。
ニーソたちのザワつきの原因はこいつらかな?とわたしは感じていました。
わたしの悪い予感通りでした。わたしはぜったいに行きたくないと、詳しい話をちっともしてくれない男たちに向かって、ありったけの暴言を浴びせましたが、そいつらは眉ひとつ動かさず、まるでもう決定されたことのように、わたしを無理矢理車に乗せ、あのクソ施設に連れていきました。
わたしは怖いのと悔しいのと、それにその時の格好が、連日の雨で洗濯物が乾かなかったせいで、たまたま一番ダサい緑の体操着だったので、それを知らない男達に見られた恥ずかしさもあって、車の中でずっとしくしくと泣いていました。
どうもわたしはなにかを強制させられるのが耐えられない性格のようです。この性格はパパに似たのだと思います。
わたしは建物の中でも泣いていました。
どうしてママは助けようとしてくれなかったのか、その時はなにも解りませんでした。
わたしが疲れて泣き止むまで、今度は白衣姿のお医者さんのような格好の女性がわたしをなぐさめてくれました。
なぐさめると言っても、相変わらず言うことの半分も理解できませんでした。
「事象」によってパパは殺されたといきなり言われても、わたしが理解できるわけがありません。
特別な力ってなんの事なんだか。まさかヌイグルミやニーソがしゃべりだしたことが特別な力とは、その時は思いませんでした。
わたしの頭がおかしくなっただけで、毎日大量に飲んでいた薬のせいだと考えていたのです。
広い、真っ白の部屋で、テーブルの上にわたしのクマのヌイグルミと、ニーソが置かれました。
わたしは泣き疲れて、ぐったりしていました。
その姿が、監視カメラでモニタリングされているなんて微塵も気づきませんでした。
そのあと。
実はここからはあまり覚えていません。思い出そうとすると頭痛がしてきます。
わたしは心を落ちつけるための薬だと言われて、錠剤を何粒か飲みました。いつものように、水で薬は飲めず、ごくんと無理に飲み込みました。思ってたよりも苦くて変な味で、また少し涙が出ました。わたしがいつも飲んでいるお薬とは違う物だとわかりました。
薬を飲んだあと、すぐに頭がクラクラしてきました。心臓も激しく波打つようになりました。ひどい喉の渇きを覚えました。
真っ白い部屋がどこまでも伸びていきました。
あっ。
たぶんわたしは実際に声を上げたと思います。
拡がった部屋の天井から、突然二メートル以上ある黒い塊がボトっと落ちてきました。一瞬それは鉄球に見えました。あのあとの記憶が曖昧だと書きましたが、そこだけははっきりと覚えています。
黒い鉄球はいつもわたしの胸の中に存在していたやつだったからです。鉄球の硬さを持ちながら、なぜかブヨブヨと膨らんだり縮んだりするのです。白い部屋の天井から落とされたそれは、まさにわたしの胸の鉄球そのものでした。
きっと幻だと思いました。
だけどそいつは薬が見せた幻覚などではありませんでした。
黒い塊はすぐに大きな球体からモゾモゾと変化していきました。体毛を持っているのが分かりました。
わたしはそれを知っていました。黒い毛を揺らすその異形の物は、わたしからだいぶ距離があったにもかかわらず、酷い悪臭を放っていて、わたしはその臭いに咳き込んでしまいました。
また涙が出てきました。臭いのせいだけではありません。あいつだったからです。
パパを喰って、パパをビチクソに変えてしまったクマの化け物。
なぜあいつがここに居るのか、わたしは混乱しました。やはり悪夢を見ているのだろうかと、大きな不安が心に浸みていく感覚と同時に涙が溢れてきました。
おそらく呼吸も荒かったはずです。真っ白い部屋に湿り気のある闇が四方から侵入してきました。(これは冷静な今だからこういう表現で書けますが、その時わたしは恐怖に支配されていました)
あいつは、ゆっくりとその体躯を自ら持ち上げるように起き上がりました。あいつの背は天井ギリギリのところまでありました。ずいぶん高い天井だなぁと感じていたのに、あいつが立ちあがった途端、部屋が狭く感じられました。わたしは小さな檻に入れられたエサの兎だったのです。
ぐおおおおぉぉぉぉ。
あいつはわたしの存在を確認すると腹の底から唸り声をあげました。不思議な気持ちでした。あんなに恐怖でいっぱいだったわたしでしたが、あいつの唸り声を聞いたら、なんだか腹が立ってきました。消してやりたくなりました。
ぐっちゃぐちゃにしてやりたくなりました。
パパの仇だったからではないと思います。あの時は、パパのことも忘れていました。単純に、わたしは腹が立ったのです。
わたしはバカで語彙に乏しいから、女の子がよく使う表現しか浮かびません。
あの時の気持ちは「生理的に無理」でした。
もっとよく使うわたしの言葉に直すと「ビチクソ」でした。
そう!ビチクソだったのです。やはりこの言い方がわたしにはしっくりきます。これまで戦ってきたやつも、かわいそうと思ったこともありましたが、いつだって「ビチクソだ」と心が叫んだから殺せました。
殺意とも少し違います。嫌悪?そっちの感情の方がたぶん大きいと思います。
一刻も早く消し去りたい衝動にかられます。
そこに慈悲の気持ちなど微塵もありません。命を殺める罪悪感もありません。わたし自身の狂気は、いつだって大嫌いです。
女の子に狂気は似合わないと、わたしも一応女の子なので、否定し続けたいのですが、あれだけは止められないのです。
心が動く時がいつも狂気に満ちている時だけなんて本当に厭です。でもこれは認めるしかありません。
あの時もそうでした。
あいつはわたしに向かって来ました。殺意という意味では、あいつのほうが明確な殺意を持っていました。
わたしを殺さないと自分も生きていけないと、今考えると悲壮感すら漂っていたと思います。これはあくまでわたしの主観ですが、檻に閉じ込められていたのはわたしもあいつも同じだったのです。わたしはただの獲物ではありませんでした。捕食関係は食物連鎖の縦の繋がりではなく、その時は対等な横の繋がりでした。
見た目で判断するとわたしの方が弱っちぃ哀れな兎で、あいつの優位は揺るぎないものでした。わたし自身も勝てる気はしませんでした。だいたい戦う気だってほんの少しも無かったです。
ただ、こんなビチクソに喰われてパパみたいに死んでいくのは絶対に厭でした。死ぬのが「怖い」ではなく「厭」でした。許せませんでした。
いつの間にか恐怖は去っていました。むしろ力が湧いてきた感じがしました。わたし一人の力ではありません。なにかが心に生まれました。なにかが背中を押しました。
許せないではなく、そいつがわたしを犯す行為を、わたしの中に生まれた力は赦そうとはしませんでした。
記憶がなんとかあるのはここまでです。
次に気がついた時は、わたしは全身包帯に巻かれてベッドに寝かされていました。体が動かないので、青白いLEDライトの天井をいつまでもぼんやりと眺めていました。
夢だったのかなぁとも思いましたが、体のあちこちが痛いので、これは夢ではないとわたしは判断しました。ただあの化け物クマをどうやったかは今でも思い出せません。
たぶんあの部屋に一緒に連れられて来たダ二朗が巨大化して、わたしの代わりにあいつをぶん殴ってくれたのでしょう。
ICBMもすでにあそこに居たのかもしれません。
わたしはよく覚えていないのに、政府の人間だという施設の人間から「合格」と言われました
なにが合格と言うのでしょう。わたしは試験を自分の意思で受けた覚えはありません。無理矢理拉致されて、危うく殺されそうになっただけです。だからパパの仇を討った感覚もありませんでした。
不思議なことに、あの日からわたしはどんなに深刻な怪我を負っても、一週間もすれば完治してしまう体になりました。
傷が治ってからもしばらく施設で、よく分からない戦闘訓練のような事をさせられましたが、わたしはドジばっかりして、ずっと怒られていました。怒られる理由なんてどこにもないのに。
よっぽどこいつらを全員殺したいと思いました。でも人間に対してわたしはまったくの無力だったのです。ただのどこにでもいる少女のままでした。否、それ以下でした。昔と変わらず、人の集団の中にいると自分がいじめられっ子だったと痛感します。なにを話していいかわからないし、たくさんの知らない大人を見ているだけで吐き気がしました。
傷は治りましたが、わたしは吐いてばかりでずいぶん痩せました。
ようやくわたしは家に帰っていいと言われました。
家に帰ったわたしをママは無言で迎えてくれました。ママもぜんぶ知っていたのだなとその時知りました。
こうして、わたしは戦いの日々は始まりました。
力を使えるようになった今でもこれだけははっきりと断言できます。わたしはあの日からなんにも変わらず檻にいれられた兎のままです。
変わったのは、今ではこの小さな檻の中は、命で溢れかえっているようです。
絶望だらけでちっとも楽しくはありませんが、もう地面にめり込むような孤独感は消えました。
わたしもこの世界も、もうしばらくは生きていて良いような気がします。
ビチクソだって許せるような気がします。
わたしも少しはパパの心に近づけたでしょうか?
もう出かけなくてはいけないようです。日記はこのへんにしておきます。ちょっと長く書きすぎました。
どうせ誰も読まない日記だけど、なんだか恥ずかしいです。
4
オレが実働隊に移されたなんて皮肉なもんだ。君もそう思ってるんだろ?一概に皮肉とも言い切れないな。オレは然るべき制裁を受けただけで、そこにはちゃんと理由があるからな。
こうして再び君と逢ったのも必然と言えば必然だ。
オレがもし機関を辞めさせられていたら二度と逢う事もなかっただろう。だがこんなに早く再開できるとは思ってなかった。
まだ一年も経っちゃあいないだろ?
初めて君と逢ってから別れるまでの時間なんてたった一ヵ月足らずだったが、あれはユニークな体験だったよ。これまで付き合ったどんな女よりも君はユニークな時間をオレに与えてくれた。
おっと、怒らないでくれ。
オレなど恋愛対象じゃなかったことくらい解ってるよ。オレの方が君よりも何年も長く生きてる。あれは寂しさまぎれの行動だったんだろ?
そうか、オレのこういう部分が君を傷つけたのかもしれないな。風邪みたいなもんさ、拗らす前に早めにケリをつけて良かったと思う。
いいかげんそのICBMとやらを閉まってくれないかな。そいつらは自分の意思でオレにさっきから突き刺さろうとしているのだろ?君が止めてくれないとオレは穴だらけになってしまうよ。
なんだ?オレがどうなってもいいような顔してるな。初めて逢ったころも君はずっとそんな顔してたね。すべての大人が信じられないって顔だった。
ああなるほど。今夜の任務は誰も信じちゃいけない任務だった。
オレは元々情報傍受専門の部署に配属していたんだ、そのくらいの情報はもうキャッチしてる。この部隊の誰かが今夜の「事象」であり君のターゲットだ。もちろんオレもそのターゲットの中に入っている。
君は疑っているな。オレじゃあないよ。オレは人間だ。それは君が一番解ってるだろ?
それとも、ああいう仲になったからこそオレを疑っているのかい?おいオレを睨むなよ。今度はそのクマも膨らみかけてるぞ。
分かったもうやめておくよ。オレだって怖いんだ。いつもより冗舌なのは怖さを紛らわすためだ。情けないもんだな。
最前線がこんなに怖いなんて思わなかった。君はいつもこんな現場で戦っているんだな。
君の持つ力が、オレたちの装備とは比べ物にならないくらい優秀なのは分かっているが、しかしここは少女が先頭に立つような場所じゃない。オレが恨まれるのはしょうがない。
いつもの実働部隊の成果から考えると今夜のオレの生存率は極めて低いだろう。今夜で本当に最期になるかもしれない。だからって許してくれって言ってるわけじゃないぜ。
オレはまた君と逢えて良かったって思ってる。どっちみちもうこの国は終わるんだ。
君が良く頑張っているのは認めるけど、この国の最高機密まで知っていたオレが言うんだから間違いない。もう終わりだよ。
だから遅かれ早かれオレも死ぬ運命にあるんだ。
今夜ここで君に逢えたのは、これも運命だったんじゃないかな。
なにか言えよ。さっきからずっと黙ったままで。
仮にオレがその「事象」だった時は迷わず殺してくれていいからな。どうもさっきからのやつの動きを見てると、この「事象」の本体である隊員は自分が「事象」だと気づいてないんじゃないかって思えてしょうがない。オレもだんだん自信がなくなってきた。
仮にオレが君に刃を向ける時が来たら、むしろこれまでの恨みをぶつけてくれていいからな。オレは後悔しないから。
悪い予感が的中しそうな空気になってきた。君もこの死の圧力を感じているんだな。オレは怖くて逃げだしたい。
オレは勘違いしていた。国を背負ったらなにも怖い物なんてなくなると思っていたが、怖い物は怖い。ははは。気が狂いそうだ。
生き残りたいなら少し黙っていろ?ああ、ゴメン。そうするよ。つい特攻隊の気分に浸っていた。自分を鼓舞しようとしたけど無理みたいだ。オレはやっぱりデスクワーク専門のようだ。
これでも実働訓練はトップクラスだったんだぜ…。
なんで、そんな哀しい顔をしてるんだ?言ったはずだ。オレは今夜が最期になるって…。もうこうなったら治療のしようもないだろう…。オレのことは忘れるんだ…。オレはもうこの国は終わりだと言った。でも、もし唯一の希望があるとしたら…それは君しかいない…。クソ、目が眩んできた。死ぬ時は痛みを感じないなんて嘘だな…。絶望的な痛みが逆に恐怖を消してくれるよ…。早く、く、く…。オレは…もうダメだから早く行けよ…。これではっきりしただろ、今夜のターゲットはあいつだ…。
オレを守れなったことを後悔する必要はない…。き、きみ、は、こんなくだらない命を守るために存在しているんじゃないはずだ…。
そうだ…。行くんだ…。胸の傷はただのかんちがいだ、よ。
ありがとう、最期に、その優しい目がもう一度見れてよかった…。いよいよみたいだ…。も、もう、声が…。
ああ、そうか、どうやら君の敵は君が思っている敵とは別にいるようだ…。今頃になって…ようやく解るなんて…。
いや、今夜の「事象」のことじゃないよ…。ダメか、声が出ない。もう目も見えない…。
君は最期までオレを抱きしめてくれるんだね。温もりだけを感じる。まるで地母神のような…。
君ならきっと気づくだろう。オレが杞憂することはないかな。
お互い、おかしな関係で、その時間もほんの僅かだったが、今思えばすごく良い時間だったと感じる。
本物の女神と付き合えた人間なんてきっと歴史上を見ても、数えるくらいしかいないだろう。だから、オレはこんなところで無様に死んでも悔いはない。
みーちゃんありがとう。ありがとう。ありがとう。
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