第9症 脳ミソ・ペイン


‐痛いの痛いの産まれてしまえ!‐ 


 テレビはほとんど見ない彼が、たまたま付けていたチャンネルで、とあるお笑い芸人が言ってた「頭パカーン」というフレーズを気に入ったのは、自分の状態がまさにその言葉にぴったりだったからである。

 彼にもそろそろ名前を与えようか。名前が無いってわけではなく、みーちゃん以外の人間の名前を呼ぶのが不必要だから言わなかっただけで、彼にも名前はある。これは私のサービスだ。

 それに、いよいよ彼も人間と呼ぶには些か怪しい者に変貌しつつあるようだし、それは決して「事象」への変化でもないのだから、名前くらいは明かしても不都合はないだろう。


 彼の名は「ヤマギシ・アスカ」と言う。苗字のヤマギシは本名ではない。孤児院に預けられた子たちは、親権が無い者は皆、苗字はヤマギシだった。ヤマギシ友愛学園出身者の、隠せない烙印だった。

 汚れた烙印としてその名を嫌い、学園が消滅してからはほとんどの出身者は改名していたが、アスカはそのままこの名を使い続けた。

 別に拘りがあったわけでもない。むしろ逆だ。自分の名前などどうでもよかった。「ジョン・ウンコ太郎」でもよかった。世の中を渡っていくのに、そんな変な名前じゃ不便だから、ヤマギシ・アスカで通しているだけだ。まぁ、実社会で本名をフルネームで使うことなど、なにかの公的な書類を作成する時くらいで、普段はほとんど名前で呼ばれることなどないし、本人ですら本名に違和感を持っていて、職場の書類に自分の名前を何度も書いているうちに、書面の漢字が溶けるように部首が崩れ出し、いわゆるゲシュタルト崩壊を起こす事もままあったくらいだ。

 ほとんどの場合、特にここ数年は他人から「店長」としか呼ばれていない。みーちゃんがバイトをしていた頃も、二人の関係性が判ってからも、みーちゃんはアスカを名前では呼ばなかった。

 もちろん「お兄ちゃん」などとはぜったいに呼びはしなかった。もし一度でも「お兄ちゃん」などと呼ばれていたら、それこそ「頭パカーン」になっていただろうなと、アスカはワイシャツを脱ぎながらふと思ったのだった。

 今夜も、パートのおばちゃんが急に風邪で休むと電話してきて、本当なら休日だったのに急遽出社した。閉店まで休憩なしでたっぷり九時間働いて、店が閉店したあとも、本店にファックスするための売り上げ伝票を作成していたら、帰宅したころにはもう十二時近くになっていた。

 我ながら真面目に続いているもんだ。アスカはこの単調ではあるが忙しい毎日が不思議でしょうがなかった。世界はすでに崩壊しつつあるというのに、串カツの食材だって毎日ちゃんと本店から搬入される。誰がこの社会を上手く回しているのかも不思議だった。

 たぶんこれが普通の生活なんだろうとアスカが勝手に考えている買い物客の主婦たちの会話も、世界の終わりが議題に上がる事はほとんどない。

 今日だって主婦同士の「週末、台風上陸するのかしら」という会話に、アスカは思わず苦笑してしまった。そのあとふと、井戸端会議の内容に苦笑できる人間性をいつの間にか持ち得ていた自分に少しだけ驚いた。

 自分は殺人者だ。罪悪感は最初から持ってなくても、自分が殺人者である自覚はちゃんとあった。殺人という行為が反社会的行為である事も自覚していた。

 むしろ、アスカにとっての罪悪感は「みーちゃん」に対する物の方が大きかった。今ごろ彼女はどこでどうしているんだろうと、みーちゃんがバイトを辞めてからも時々頭に浮かんで嫌になる。

 あれからお互いに連絡はしていない。

 みーちゃんの母だと名乗った人物からの連絡もなかった。


 ああ今日も疲れた。


 労働による疲労感が、アスカの微小だが確実に脳にこびり付いている不安感と後悔とが入り混じった感情を希釈してくれる。

 この生活は、これはこれで良いのだと自分を納得させ、アスカはシャワーも浴びずに服だけ脱いでベッドに倒れ込んだ。


 そんなアスカに、枕の側らに置かれているボロ布人形の「ペイン」が話しかける。


 ホントにそれでいいのかい?たぶんアスカの考えているほど、世の中はもう平和ではないよ。そろそろ君も動いた方がいいんじゃないの?


 ペインはふふふと生意気そうに笑った。


 アスカは返す気力もなかった。ああそうですね。そうかもしれませんね。でも今夜はもう寝るんだよ。頭パカーンてなったからね。おやすみペイン。


 そう言って、すぐにアスカは眠りについた。疲れきっていたせいで夢も見なかった。


 2


 アスカは完全に寝坊した。昨夜、疲れすぎたせいで目覚ましのアラームをセットし忘れていた。


 ペイン。おまえおれが仕事なの知ってるだろ。起こしてくれてもいいじゃないか。


 ボロ布人形にアスカは怒鳴ったが、ボロ布はボロ布のままだった。しゃべるわけがなかった。時計を見ると、出社時間を二時間も回っていた。もうすっかり社会人として生活していたアスカは、罪悪には疎くても、こういう細かい社会通念に対してはやたら過敏なところがあった。仕事先だって、惣菜売り場では作業服にエプロンスタイルなのに、出社時にはちゃんとスーツで出社して、わざわざスーパーの更衣室で着替えるのだ。そんな社内規定があるわけでもない。ジーンズにTシャツで行っても誰も怒りはしない。

 それでも店長とはこういう者だとアスカは自分で勝手にそう決めつけて、自分で守っていた。いったいなにを恐れているのか。


 ボロ布のフリをしているペインはそんなアスカの姿を見て、ふふふとほくそ笑んだ。


 所詮、おまえの世界など幻に過ぎないのに。いや、幻だって分かっているからこそ世界を失うのを恐れているんだろ?やっと手に入れた偽りの一般人の生活を手放したくないだけだ。


 ペインは、寝癖せでくしゃくしゃの頭のまま部屋を出て行ったアスカを見て、もう一度ふふふと笑った。


 昨日寝る前に言っただろ?平和はもうすぐ終わるよって…。


 光の先は闇だよ。ようこそ、ニューワールドへ。


 誰もいなくなった部屋で、ペインはあくまで独り言として呟いた。


 ストーリーを中断させて申し訳ないが、少しだけ注釈をいれておこう。みーちゃんの意識の中にしか存在しない私、オモヒカネがどうしてアスカの生活を見ることができるのか。

 アスカはみーちゃんに繋がっているからと説明するのが一番解りやすいだろう。アスカとみーちゃんを繋げている人物が他にいるのは賢明な方ならすぐに気づくはずだ。


 おっと、あの腐れ魔王ではないですよ。あいつも本当は幻でしかない存在だ。正義も悪も無い世界に魔王は必要ない。

 あいつも、みーちゃんを導くための光が創り出した副産物である闇でしかない。光あれば闇もある。そろそろ魔王自身も気づくだろうが、私はあえてあいつにはなにも伝えないでおくのだ。みーちゃんに余計な入れ知恵をされると困るからだ。流石に魔王だけあって、クソではあるがバカではないから。


 みーちゃんとアスカを繋げている者は…。


 わざわざ説明するまでもないようだ。時はすでに動きだした。


 私はサービス精神旺盛なのでこのセリフだけ言っておこう。


「乞うご期待!」ふふふ。おっと、ボロ布人形の口癖がうつってしまった。ふふふ。ふふふ。


 果たして、アスカは大遅刻する事は無かった。だってもう出社するはずの職場がそこに無かったから。

 地元の人間に愛された「スーパーTOYOSU」は跡形もなく消滅していた。本当に跡形もなく。瓦礫が散乱しているでもなく、燃え残った残骸が残ったわけでもなく、文字通りなんにも無くなっていた。最初から存在していなかったように。

 ただし、アスカが見ていた幻というわけでもなかった。スーパーは確かに昨日までは存在していたのだ。その証拠に、アスカが現場に到着した時、何十台ものパトカーがスーパーのあったはずの場所に停まっていた。パトカーだけでなく、アスカには知り得ない謎の黒塗りの車両も多数停まっていた。

 なにかの事件であることはアスカにもすぐに推測できた。


 なにかの事件…。


 最近のこの国で起こっている事態からすると、それは「事象」である事ぐらいは、すっかり平和ボケしたアスカにだってすぐに察しがついた。


 これは「事象」だ。でもなぜうちのスーパーだけがピンポイントで狙われた?


 アスカは仕事に追われる毎日で、みーちゃんが現在どういう活躍をしているのか知らなかった。街ではみーちゃんはそこそこ有名人になろうとしていたのに。

「事象」を消滅させる唯一の存在。つまりはヒーローである。

 と言っても街の住人の、みーちゃんに対する認識は、例えば痴漢を撃退した勇気ある女子高生レベルのヒーロー像であって、政府の特殊機関が、国家レベルで守っているようなヒーロー以上の存在ではなかった。真実は、国家どころか神レベルなのだが、そこは人間には関係ないので私は教えない。教えたくない。

 というわけで、ぬるま湯の社会生活にずっぷりと浸かってしまったアスカには、自分の勤め先のスーパーが「事象」によって消滅させられてしまった事実を、すぐにみーちゃんに繋げることができなかった。

 みーちゃんだけではない。アスカ自身がこの「事象」の発生原因だった。みーちゃんとアスカは繋がっているのだ。アスカ自身は哀れで不憫で無能で無知だ。どういう事態に発展しているのか、自分がこの「事象」とどう関係しているのか、微塵も知りはしなかった。唯一の友達であるはずのペインがなにも教えないからだ。

 不運にも、定時に出社していたパートのおばさんや、スーパーの従業員たちは、こいつのせいで消滅してしまった。もちろんそこの部分に関しては、アスカにはなんの責任もないのだけど。真相を知らないアスカは自分の仕事が明日からどうなるのだろうと、それしか頭には無かった。


 ペインはアスカの部屋で、スーパーマーケット消失のニュースを流すテレビのワイドショーを見ながら、またふふふと笑っていた。


 いよいよだね。これまでのアスカが辛うじて保っていた偽りの世界が崩れる時が来たようだ。君はなにも悪くない。強いて言えば産まれた世界が悪かったのさ。それはボクだって同じこと。

 君になんにも教えなかったのは、君が知ろうとしなかったからだ。本当は気づいていたんだろう?でないと、ボクが産まれるわけがない。君はボクをあくまで自分の妄想だと決めつけていた。

 そんなはずはないよね。これまで君の犯した罪を君一人で隠せるわけないじゃないか。ボクはちゃんと存在していた。君の都合の良い時にだけ、君を助けていた。君は残念ながら普通の幸せを掴める人間じゃない。だって普通じゃないからね。

 それと、もう君はとっくに人間じゃあないからね。ふふふ。


「刻の穴」が動き出した。わくわくするなぁ。あの施設の人間が焼け死んだ瞬間よりももっとドキドキする。やっとだ。やっと君がこの世に産まれた意味が明らかになるよ。ぼくはそのために君に命を貰ったんだ。今までの暮らしも楽しくないわけじゃなかったけど、生命は消える瞬間が一番楽しいんだよ。ふふふ。


 ペインは笑った。今度はちゃんと声に出して。


 やっぱりペインは私に似ていると思う。ただ少しだけ可哀想なのは、ペインはしょせんアスカが創り出したボロ布の人形でしかないことだった。私は一応世界を知っている。

 ペインに在るのはアスカがどう生きてどう死ぬかについての好奇心だけだ。私はみーちゃんに対して、好奇心だけでは動いていない。責任感がぜんぜん違うのだ。


 それでも、私とペインは似ていると認めよう。その上で、もう一度しつこく言います。


「乞うご期待!」

 


 3


 みーちゃんは久しぶりになにもない午後を部屋で過ごしていた。ボクはここのところの連戦のせいで、全身ツギハギだらけになってしまったけど、みーちゃんのチョイスする端切れのセンスがいちいち最高にクールだから、今では世界中どこにも無い最高のクマのヌイグルミになってる。潰れた目玉も、政府の報酬とかで、なんでもドイツ製の最高級ドール用のクリスタルが中心で輝いている青い目になった。これまでのただのプラスチックの目とはぜんぜん違う。目の前の世界もまるで違ったように見えるんだ。

 糸もこれまでよりもうんと高級で丈夫な物にしてもらった。ボクにはなんの不満もない。むしろ幸せな気持ちでいっぱいだった。でも、こうしてたまには部屋でみーちゃんとのんびりと時間を過ごすのも悪くはない。

 みーちゃんはと言えば、なんだかずっと様子がおかしい。朝からこれまでずっとそわそわしっぱなしだった。お昼ゴハンも食べていない。

 今朝みーちゃんのケータイにいつものクソ政府から小さな事件の一報が届いたらしいけど、クリ―チャー型の事象じゃなくて、災害型だったみたいで、みーちゃんは出動しなくて済んだ。一応なにかあった時のために、自宅待機させられていた。

 みーちゃんがなんだかいつもよりそわそわしているのは、ニーソから訊いた話によると、事象の発生現場が以前みーちゃんがバイトをしていた場所らしい。そのニーソも何度かそこに履かれて行ったことがあったので場所を知っていた。

 みーちゃんが自分の部屋でそわそわしているなんて、ずっと一緒にいるボクからしても珍しいことだった。

 みーちゃんの新しい力「バスケットケース」が学校の校舎の姿で発現した時の、みーちゃんのうろたえぶりはそりゃ酷かったけど、今日も、その時ほどではないにしても、政府の連絡が来てからずっと落ちつきがない。

 ボクはあんまり他の人間を知らないから、落ちつきがない状態がどういう感じなのか詳しくは分からない。だからさっきから見ているみーちゃんの状態が「落ちつきのない状態」と言えるのか断言できないが、部屋の天井にさっきから、包丁やハサミやカッターやナイフやドスやキリを…とにかく先端の尖った刺さる物をひっきりなしに投げて天井に穴を開けている状態は、たぶん「落ちつきのない状態」なんだと思う。普段そんなことしないから。

 今は、刺さる物が無くなったから48色入りの色鉛筆を投げつけている。流石に色鉛筆は刺さらなくて、時々ボクの頭上にも落っこちて来るのでなるべくならそろそろ止めて欲しい。

 そんな午後ではあるけれど、みーちゃんと一緒の部屋は大好きだ。普段はICBMとして使い捨てされるニーソ達も、部屋では嬉しそうだ。

 にしても、こんな時間を一緒に過ごす事の無かったバイトシフトは可哀想だった。あいつだけはいつも戦いの場にしか居なかったから。そういやあいつは事象との戦いで消滅して、再び元の油に戻ったのだろうか?もしそうなら、政府から連絡が来たその消滅したっていうスーパーの串カツ売り場にいるはずだ。そこがバイトシフトの故郷みたいなもんだろう?みーちゃんはそれを心配してさっきから天井に高ぶる気持ちをぶつけているのかな?

 ボクにはみーちゃんの気持ちは分からない。ニーソ達はみーちゃんの気持ちが分かるからずっとニーソに理由を訊いてるのに、どうしてもニーソは教えてくれないんだ。

「人には知られたくない事があるのです」だって、偉そうに言いやがって。戦いの時はクソほどの役にも立たないくせに、なんだかボクだけのけものにされたようで悔しい。

「悔しい」って感情ゲット!(あれ、この感情はたしか前にゲットしたような…)

 まぁいいか。ボクも無理に理由を訊いてみーちゃんの機嫌を悪くさせたくはない。この平和な時間が続けばいいんだ。

 みーちゃんはぜんぜん平和な感じじゃないけど、ボクはみーちゃんのぜんぶが好きだから、どんな感情でも大人しく見守るよ。


 と、バカのクマは穏やかな午後だと勘違いしていたが、みーちゃんにしてみたらもちろん平和な気持ちでいられるわけがなかった。

 店長、アスカの安否はみーちゃんには知らされていない。スーパーにいたすべての人間が消失したとだけ聞かされていた。普段通りならアスカもその中にいたはずだった。

 本当は今すぐにでも走って向かいたかった。でも、現場に行ったところでどうすればいい?自分になにか出来ることがあるのか?仮にその「事象」がいつものクリ―チャー型であったならみーちゃんにもやりようがあるし、なにより出動命令が来るだろう。しかし、災害型事象ではみーちゃんに出番はない。

 政府の、みーちゃんもよく知らない別の特殊機関が動いているはずだった。

 なにしに来たんだと、黒服の大人達に怒られるだけだ。


 クマはバカだから勘違いしていた。みーちゃんの心が「そわそわ」などという精神状態なわけがなかった。家にいる時だけはなるべく感情を出さないように、平和に過ごそうと努めているみーちゃんが、その感情を抑えきれない状態だった。ニーソ達だけは事情を知っていた。みーちゃんが天井に穴を開けている原因は完全にあの店長だ。ずっと前から天井に突き刺さったままのカッターナイフも、店長にバイト先で襲われそうになった夜に刺さった物だった。


 その感情は怒りではなかった。怒りもほんの少しは混じってはいるが、そんな表面的な感情じゃない。みーちゃんも実は知っていた。店長が自分とまったく赤の他人ではない事実を、とっくの昔にビチクソになって死んだみーちゃんの本当のパパから聞かされていた。


 みーちゃんには血の繋がっていない歳の離れた兄がいるのだと。


 バイト先をそこに決めたのはただの偶然だった。こんな世界だから、完全なる偶然とも言えないかもしれない。運命を否定はできない。でも、店長が兄と知っていてバイト先をそこに決めたわけではなかった。知ったのは採用が決まってからだった。

 あの人がお兄ちゃんだよと教えたのはみーちゃんのママだった。


 アスカがみーちゃんの採用を取り消す選択肢があったように、みーちゃんにもバイトを辞退する選択肢はあった。

 なぜあのままバイトに行くことにしたのだろう。もし止めていれば、今こんなに苦しまずに済んだのに。


 やはり運命の歯車は回っていたのかもしれない。


 みーちゃんの本当の父親が、熊の形に似たクリ―チャー型の「事象」に喰われて、ビチクソになって死ななければ、この出逢いは無かっただろう。みーちゃんはパパのことが知りたかっただけだった。

 ママが教えてくれないパパのことを、腹違いの兄に訊きたかったのだ。みーちゃんも、アスカと同じくなんにも知らなかった。

 アスカがみーちゃんよりも、もっとずっと深く歪んだ人生を歩んでいたことをみーちゃんは知らなかった。アスカがとっくに普通の人間じゃなかったことも。絶対にみーちゃんが出逢ってはいけない人間だったってことも。


 みーちゃんはアスカを殺さなかったわけではない。殺せなかったのだ。高校のころ自分をレイプしようとした男は簡単に殺せた。でも兄であるアスカには自分と似た力があった。

 胸の傷。痛み。憎悪。悪夢。トラウマ。殺意。絶望。鉄球。

 アスカにとり憑いたそいつは自分を「ペイン」と名のった。


 みーちゃんは、アスカの闇を理解できてしまった。痛みを共有できてしまった。あの日、バイト先でアスカに襲われそうになった時、みーちゃんにははっきりとボロ布で出来た動く人形の姿が見えた。


 ぼくの名前はペイン。ゴメンね。アスカのことは許してやって。こいつは可哀想なやつなんだ。心が魚よりも無いんだよ。ほら、そのカワイイニーソックスに命を吹き込むから、それでアスカを慰めてやってくれたら…この事はもう終わりにしよう。どうやら君も、アスカと同じ境遇のようだ。同じ目をしているね。哀しい目だ。鮫に成れなかった鯱の目だ。

 もしかしたらいつか戦うことになるかもしれないね。君にも同じ力が宿っている。アスカとは少し違うようだけど…。


 みーちゃんの履いていたニーソはペインの呟いた言葉で、みーちゃんの脚から脱げ、黒い蛇になってアスカの下半身に纏わりついた。

 アスカは「見るな!やめろ!ペインやめろぉぉ」と叫んだが、すぐに静かになった。

 汚れた蛇は元のニーソに戻った。


 みーちゃんは逃げた。気がついた時は高架の下にいて、いつの間にか手に握られていた汚れたニーソはそのまま捨てた。


 みーちゃんはそのあともしばらくはバイトを辞めなかった。みーちゃんは、アスカの心の闇を理解できてしまった。ペインと名のったボロ布人形をなぜか己の姿と重ねてしまったのだ。そしてあのあと一度だけアスカに唇を許した。どうしてかわからない。すぐに我に返って、側にあった灰皿を投げつけた。灰皿がアスカの額に当たって、血が流れていたのにアスカの顔にはなんの感情もなかった。どこを見ているのかもはっきりしない焦点の定まっていない瞳はただのガラス玉に見えた。


 みーちゃんは恐ろしくなってバイトを辞めることにした。


 アスカと重なるように半透明の状態のボロ布人形が、アスカの顔の回りをゆらゆらと浮かんでいた。


 こいつは人間じゃない。みーちゃんはやっと確信した。そして、みーちゃんは力に目覚めてからもアスカをどうやっても殺すことができなかった。

 ペインの持つ力なのか、みーちゃんが本気を出せないだけなのか、たぶんその両方だろう。


 二人はその後、二度と逢わなかった。


 みーちゃんは事象との戦いの中ですっかり忘れていた。アスカの感情の無い瞳も、ペインの存在も。


 みーちゃんはどこかで気づいていたのだろう。あいつはスーパーが消失してもぜったいに死んではいない。


 みーちゃんは色鉛筆をぜんぶ投げ終わってすぐ立ち上がり、クローゼットからありったけのニーソを出して、ドクロのかばんに詰め込んだ。パイル地の部屋着から翡翠色の薄い生地のワンピースに着替え、黒いカーディガンを羽織り、黒のニーソを履いた。

 かばんはニーソで一杯になっていたので、クマのヌイグルミはわきに抱え部屋を出て、階段を駆け降りた。


 いつもなら、奥のリビングからママが「出かけるのー?」とか「晩ごはんどうするのー?」とか、なんらかの声をかけるのだったが、その時はなんの反応もなかった。

 きっとサスペンスドラマの再放送にでも夢中になっているのだろうとみーちゃんは思ったのだったが、ママはその時家にはいなかった。


 みーちゃんが、辛抱しきれず家を飛び出そうとしていたころ、みーちゃんのママは一人戦っていた。


 相手は、あのアスカとペインだった。


 みーちゃんはなんにも知らなかった。ママが何者かってことも。それはアスカも一緒だった。

 俺はなんで戦っているんだろう?疑問符を頭に貼り付けた全身傷だらけのアスカの頭上を、相変わらず嬉しそうに「ふふふ」と笑いながらボロ布のペインが旋回していた。

 

 4


 みーちゃんごめんねずっと黙ってて。けれどこの戦いにあなたを参加させるわけにはいかなかった。悪いのはママとパパだから。本当はみーちゃんとアスカを遭わせるのもワタシは反対だったわ。パパの脅しに屈したワタシが悪いの。

 アスカの力を見縊っていたところもあった。奇跡はゼロが一になることじゃない。ゼロが一になる時は、それはもはや奇跡ではない。ゼロが一になる事象は、それは神があらかじめ仕組んだ運命の罠よ。

 すべてが「無」だったアスカがペインを産みだす事は絶対に無いと勝手に思い込んでいた。神が、一人のなに者でもない人間に、運命の罠を仕込みはしないと甘く考えていたワタシのミスね。

 よくよく考えたら、アスカにもみーちゃんと同じ運命が待っていてもなんらおかしくはないのよね。

 やっぱり自分が産んだ子どもじゃないからかな。

 ワタシは昔から親バカなのよね。みーちゃんの運命しか頭に無かった。アスカの悲劇の方がみーちゃんよりも先だったのに、なんで頭に浮かばなかったんだろう?


 ああ、そうか。これもすでに神が仕組んでいた罠だったのね。

 ワタシも騙されていた…。ううん違う。アスカの存在を透明にする魔法を掛けられていたのね。

 そしてその監視役にみーちゃんのパパが選ばれた。

 本当のパパじゃなくて、あのクソの魔王の方。


 魔王のパパがどうやって産まれたか知ってる?みーちゃんには教えない方がいいわ。ワタシの心の中に閉まっておきましょう。

 あんなもの、ただの笑い話よ。みーちゃんの本当のパパの残骸にたかっていた一匹の蠅が産んだ卵から孵った蛆虫が魔王になるなんてね。

 ベルゼブブって蠅の魔王がいたわね。あいつとまったく一緒。あっ、ベルゼブブじゃないわよ。パパはそんな高尚な魔王なんかじゃないわ。蠅から産まれる魔王はいくらでもいる。

 どうして蠅から魔王が産まれるのかはワタシもよく知らないんだけど、何故だか蠅から魔王は産まれるようになってるのよ。

 神が魔王を生み出す場合、一番簡単な方法がそれ。

 どこの世界でもインスタント魔王はそうやって産まれてくるの。こんな話をみーちゃんにしても仕方ない。みーちゃんはこのくらいで傷つきはしないだろうけど、戦う気が失せるかもしれないし、ワタシだって話すのもバカらしいから、やっぱり心に閉まっておくわ。


 魔王のパパは今朝ワタシが潰しておいた。


 ほっておいてもあいつがみーちゃんに消されるのは時間の問題だった。親バカのワタシはみーちゃんの手をこれ以上不必要に汚させたくなかっただけ。あんな雑魚魔王、いつでも潰せたわ。

 蠅たたきで一発よ。プチゅって。クソが。


 ところで、みーちゃんは台所に作っておいたソーセージのおにぎりに気づいてくれたかな。みーちゃんの大好物だったおにぎり。

 偏食でお菓子ばっかり食べてたあの子が唯一大好きなおにぎり。あれを考えてくれたのは、みーちゃんの本当のパパだった人。

 弱いくせに暴力ばかり振るうろくでもない男だったけど、みーちゃんを最後まで守って、最期はビチクソになって死んでくれたバカな男。ワタシが愛した最初で最後の人間だった。


 ところで、みーちゃんはまさかこっちに向かってはいないでしょうね。バイト先だったスーパーマーケットが「事象」によって消滅したニュースは見たかもしれないけど、あの子はもうここには関心は無かったはず。ワタシの前で、バイトの話なんて一度もしたことないし、アスカにもみーちゃんは興味を示さなかった。

 ただ少しだけ心配なのは、あの子はいつも本心を隠すから、しかも質の悪いことにワタシの力でさえもあの子の心の鍵は開かないから、あの子がどのくらいアスカと繋がっていたのかワタシは知らないのだ。

 ニュースでアスカの死を知ればここに来ることもない。ワタシが怖れているのは、みーちゃんがアスカはまだ死んでいないと確信していた場合。もしみーちゃんが「事象」でアスカは死なないと知っていたとしたら、それはみーちゃんがアスカの力をすでに知っていると同じことだ。

 みーちゃんがアスカを恨む理由はないはず…。哀れに思う気持ちはあっても、その逆の気持ちはないはず…。

 でもワタシも知らない二人の関係があったとしたら…。

 あそこでバイトさせたのは失敗だったかなぁ。

 仮に、それすら神が仕組んだ運命だったら、それはもう諦めるしかない。だから、せめて母親であるワタシがこうして終わらせるために来た。


 ところで、アスカはどこまで自分を理解しているのだろう。あんなに傷だらけになりながら、うろたえ恐怖し這いつくばって逃げ回りながらも、今も死なずに、逆にワタシの方がダメージを受けている。アスカは自分が戦っている現状も理解できていない様子だ。おそらく元凶はあのさっきからアスカの回りをうろちょろ飛び回っている「ペイン」って名前のボロ布人形。

 みーちゃんの持っているクマのモコちゃんとはぜんぜん違う、牛乳を拭いて三日目の雑巾の匂いのするあの邪悪な塊。

 たぶんあいつがアスカを闇に引きずり込んだのね。

 倒すのはアスカよりもあいつの方が先だわ。


 ところで…ところで…ところで、どうしてさっきからワタシは頭がクラクラするのだろう。思考も定まらない。ワタシ普段はもっと頭も冴えているはずよ。

再放送のサスペンスも二分で犯人が解るくらいワタシは賢いのよ。サスペンスも二分で犯人が解るくらい賢いのよ。犯人だって二分でサスペンスだって解るくらい賢いのよ。二分だってサスペンスくらい犯人だって解るくらい賢いのよ。賢いのだって解るくらい二分だってサスペンスなのよ。


犯人だってサスペンスなのよ。

二分だって賢いのよ。

解るって再放送なのよ。


ところでワタシは何を言っているの?

「ペイン」がこんなに近づいているのに。目の前にいるのに。今ワタシの脳ミソを、なにかストローのような物でチューチュー吸っているのに。耳元で「ふふふ」て笑ってるのに。


 ワタシは賢いのよ。こんなクソ人形にやられるわけは。こんな牛乳の腐ったぁ、ぁぁ。


 あ。い。


 ところで…。みーちゃんはあのウインナーおにぎり食べてくれたかしら。ら。



 5


 はい。僕なら大丈夫です。どうしてだか、足を骨折していたのも気のせいだったみたいです。まだ少し痛みますが、ほらなんとか自分で歩けます。なんせ必死だったんで、いつの間にか思ってたよりも遠くに逃げていたようです。

 ここはどこなんですか?あっすいません。助けてもらったのに、疑っているわけではないです。ただ、僕にはあまりにも突然すぎてまだ頭が混乱しているようです。あなたが何者なのかも訊いてませんし、さっき僕を襲ったあの化け物のような女性がなんだかったのかも解りませんし。あなたはなにか知っているようだから。


 そうですか…。あれは「事象」ではなかったんですか。見た目は人間の女性のようだったけど「事象」にはクリ―チャー型が存在しているっていう噂はニュースで知っていましたし、僕はもっと獣のような姿を想像していましたけど、ああいう「事象」も存在するのかなって。


 どうして僕が助かったって?あなたが僕を助けてくれたんじゃないんですか?

 え?僕自身の力?僕はただの通行人ですよ。いや、あの場所にはちょっとだけ用があっただけで、たまたまです。なぜ僕が襲われたのか見当もつきません。

 嘘じゃないです。本当に解らないんです。

 あいつを知っているはずだって?いえ、見たことないです。てっきりスーパーを消滅させた「事象」だと思っていました。

 「事象」としてじゃなく人間として?いえ、それでもあんな女性知らないんです。それにいきなり僕を攻撃してきたからちゃんと顔も見てないし。


「みーちゃん」「みーちゃん」「みーちゃん」「みーちゃん」


 みーちゃん?その名なら知っています。でも、あの女性はみーちゃんという名前の女性ではなかった。それだけははっきり言えます。

 

 あっ、大丈夫ですか?あなたも傷が酷いようだ。あいつにやられたようですね。あなたは「事象」を倒すための自衛隊かなにか政府の組織の方ですか?そのわりになんの装備もないようですね。やはり「事象」を倒すには普通の銃とかは効かないのか…。特別な力を持った方なんですね?なんとなくそれは解ります。


なんでって?いや、特に理由は…なんとなくですよ。だいたい普通に考えても、ここに今僕と二人で居ることがすでに普通じゃない。他に誰も政府の人間は居ないし。ここに辿り着いたのは僕とあなただけだ。ここに誰一人居ないのもあなたの力なんでしょう?


 え?違う?もう一人居るって。どこに居るんですか?どこを見ても僕たちしかいませんよ。怪我のせいで幻覚でも見ているんですか?

って、嘘を言っても仕方ないようですね。特別な力を持っているのなら、僕の後ろに隠れているこいつの姿が見えてもなんら不思議ではないですね。

 こいつの名前は「ペイン」といいます。僕が作ったただのボロ布の人形ですよ。こいつは決して「事象」なんかじゃないですよ!これまで一度も悪さなどしたことないですし、大人しい良いやつです。孤独な僕の唯一の友達みたいな物です。少し口が悪いとこもありますが、人類の脅威などではないです。もしそうならとっくにあなたを殺しているでしょう?こいつは無害です。


 僕を守ったのはこの「ペイン」だって!こいつにそんな力はないですよ。こんなただの雑巾を結っただけの布人形が、あんな攻撃を防げるはずがないです。

そう言い切れるのかって?だってそうでしょう。実際に僕はなにもできずボロボロにされてしまった。生きているのが不思議なくらいですよ。

 あなたは僕が今生きているのが何よりの証拠だと言いたいようですね。そこは僕もどう説明していいのか。だからさっきから言ってるようにあなたが僕を助けてくれたのでしょう?違うのですか?

 ではあなたはいったいなに者なのですか?何度も同じ質問をさせないでください。どう見てもあなたはなにかと戦って、そこまで負傷しているのですよね。

顔だって半分消し飛んでしまってるじゃないですか!

 この顔を見て、どうして驚かないんだって?普通の人間なら驚くか、怖れて目を背けるはずだって?


 そうなんですか?そういうものなんですか?そこはすいません、よく解らないです。子どものころ少しだけ他の人と違う生き方をしていたもので、僕には普通の人とは欠落している部分があるのかもしれません。申し訳ないです。傷の心配をするだけじゃ駄目なんですね。この場合、驚き怖れなくちゃいけないんですね。ひとつ勉強になりました。ありがとうございます。

 あっ、こういう所がいけないのですね。どうしよう。今から驚いた演技をしてももう遅いですよね。


 兎に角、ここがどこであなたが誰かだけは教えてください。僕がどうして攻撃されたのかは、なんとなく察しがついてきましたから。「みーちゃん」の名前が出たなら、理由はそんなには浮かびません。たぶん僕の考えている理由はそう遠くないでしょう。

 それに理由を知ったところで今さら僕にはどうすることもできないですし。 今、僕が知りたいのは、僕の身の安全はすでに保障されたかどうかです。どうもまだ悪い予感しかしないのですよ。

 あの化け物の女はもうやって来ないみたいですが、何故だか不安がどんどん膨れていってます。この気持ちは、昔散々味わった真っ黒の気持ちに似てます。黒い鉄球が胸に落ちてくる気持ちです。

 恐ろしくて吐き気がします。あなたの半分無くなった顔を見てもなんにも気持ちがざわつきはしないのに、ここに居るだけで、ぜんぜん違う不安が襲ってくるのですよ。


 ねぇ、答えてくださいよ。ねぇ…。ねぇ…。


 おいっ、答えろよ!


 おまえは誰なんだ!なにさっきからニヤニヤしながらこっちを見てるんだ!むかつくんだよ!てめぇはヒーローなのか怪人なのかどっちの方だ!味方か敵かどっちなんだよ!クソが!

 嬉しそうな顔しやがって!

 教えろよ!てめぇは誰だ!俺はなんなんだ?

 

 なんで今俺たちは学校の教室になんか居るんだよ!


 クソが!クソが!クソが!クソが!クソが!ビチクソがぁ!


「やめときな。アスカ、そいつはもう死んでるぜ」


 ペイン…。なにを言っているんだい?ほらこうやってまだ息をしているじゃないか…。


 あっ、ホントだ。もう死んでる。死んでたね。


「アスカ、そいつの正体を知ってももう意味はないようだ。それよりも早くここから逃げた方が良さそうだな。ふふふ。どうやら罠にかかったのはこっちのようだ。こいつが言っていた他の誰かというのはボク、ペインのことじゃなかったみたいだ。ふふふ。こりゃ楽しくなりそうだなアスカ。やっと時は満ちたようだ」


 ペイン、おまえがしゃべっている言葉の意味もよく解らないよ。なにが楽しくなりそうなんだ。オレは不安で吐きそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る