第8症 学校を創りましょう


 国に命を捧げようなどとそこまでの使命感があったわけではなかった。生き残りたいから必死に戦うのであって、死ぬために任務に就いているわけじゃない。そもそも俺は愛国心でこんな部隊に入隊したわけではない。

 もうこの世界に安全な場所など存在しない。それならばまだこうやって完全武装で戦っていた方が、精神を病まなくて済むと思った。

 いや違うな。俺はとっくに狂っていて、それを隠すために戦っていたのだ。

 ある日突如人類を襲った「事象」は俺の人生も狂わせた。俺は元々自衛官だったが「事象」と戦うため、この特殊部隊に入隊した。

 死への恐怖はあったが、まだ戦争のように人間同士で殺し合わなくていいだけマシだった。精神は善悪に左右されなくても済むからだ。生き残ることだけを考えて、手にした銃を撃ちまくればいいから。その点では健康的で、敵である「事象」が銃で死んでくれるのなら、戦闘は一種のスポーツやテレビゲーム感覚に近かった。隊員の中にもそれを楽しんでいるやつもいた。だが、それはあくまで身の安全を保障された上での謂わば戦闘シミュレーションでしかなかった。

 「事象」との戦いは益々熾烈を極める一方だった。任務のたびに必ず死傷者が出た。昨日まで酒を酌み交わしていた仲間もあっけなく死んでいった。効かない武器でなぜ無茶な戦闘をさせるのか?命令は絶対であっても、ただ闇雲に死人の数を増やしているだけならこんな戦闘に意味はない。否、本当の理由はもちろん知っていた。俺たち「事象対策特務課」の所属部隊には「みーちゃん」と呼ばれる少女を無傷で、敵である「事象」に送り届けるという明確なオペレーションがあった。上からは「みーちゃん」としか聞かされていない。本名も知らないその少女が、唯一「事象」を消滅させる力を持っているのだ。

 それならば、その少女単独で「事象」と対峙させればいいではないかと、俺のようなバカはつい考えてしまう。が、少女は実際にはまったくの戦闘の素人であり誰よりも非力だった。

 少女は「事象」のとどめをさせる事が唯一の武器であり、対事象との戦闘において絶対的な戦力である事実に間違いはないが、そこに至るまでの後方支援がどうしても必要だった。


 と、俺は上官からずっと聞かされていた。他の仲間もそうだった。「みーちゃん」という、どこにでもいそうな少しだけ無愛想な少女が、不死の身体を持つ、人ではない存在であると知ったのはもっとあとになってからだった。もし知っていたなら、こんな戦いには参加していなかった。

 だが今はもうすべてが遅すぎた。


 俺たち小隊はいつものように出動命令がかかり「みーちゃん」援護のためにとある山奥に来ていた。とっくに日は暮れて漆黒の闇が森の奥までずっと続いていた。隊員達のライトだけが頼りだった。

「事象」にはランクがあって、俺たちの装備でもなんとかダメージを与えられるやつらもいた。小型クリ―チャータイプAと中型クリ―チャータイプBがそれだった。そいつらは好戦的な「事象」ではあったが、言うなれば生身の肉体を持ったモンスターだ。こちらの銃火器もある程度は効いた。恐ろしいのは「霧型」と呼ばれる物理ダメージがまったく通用しないやつらと「ステルス型」もしくは「ウイルス型」と呼んでいるその正体すら不明の「特別事象」だ。そいつらに遭遇すれば、小隊の一個や二個は数秒で全滅してしまう。幸いこちらの攻撃が効かない「特別事象」との戦闘は、俺がこの部隊に入ってからは一度もなかったが、クリ―チャー型との戦闘だって充分危険であることに変わりはなかった。

 特に中型クリ―チャータイプBには、様々な攻撃形態があり、現場に行ってみないと作戦計画すら立てられなかった。銃火器が効くとも限らない、以前火を浴びせた途端、それを吸収し巨大化した「事象」もあった。こういう「事象」の初期形態を把握するのも俺たちの重要な任務だった。必ず死人を出しながら「みーちゃん」にとどめの一撃をいれてもらうために俺たちは人間トーチカになるのだ。

 トーチカと言っても小型要塞とは程遠い藁の壁でしかなかった。ただの肉塊と化す隊員を横目に、少女は無表情のまま「事象」に突き進む。

 話が少し横に逸れた。


 今回の俺たちへの命令は「みーちゃん」が現場に到着するまでに、なるべく多くのクリ―チャータイプの「事象」を殲滅することだった。これでも俺たちは元々、自衛隊のレンジャー部隊、SAT、SIT、その他外国人部隊から選ばれた精鋭で構成されていた。噂では元殺し屋の死刑囚もいるらしい。全員戦闘のプロフェッショナルだった。対ゲリラ戦くらいなら、一人の死傷者も出さずに敵を殲滅させることなど朝飯前だ。俺自身も、自衛官のころは何度も表彰された。もっとも俺は勲章になど興味はなく、当時は自分がどこまで強くなれるのかだけを追い求めていた。訓練の毎日に辟易していた。後に対殺人格闘術専門の教官に任命されてからも退屈な訓練の毎日が嫌でしょうがなかった。

 そのころはまさか自分がその後、戦争ではなく、化け物退治に銃をぶっぱなす人生を送ろうとは夢にも思ってなかった。


「みーちゃん」はヘリで現場に来る予定だった。あと二十分もすれば到着するだろう。ちょうどそのくらいだった。森の中にアサルトライフルのタタタタタという乾いた音が響いた。あの装備は、最前線の偵察部隊の物だ。俺はやや後方の第二小隊で待機していた。森の中にヘリが着陸できる場所を、チェーンソーで木々をなぎ倒し確保していた。

 そこだけが、強力な大型ライトで照らされていて、漆黒の森の中に唯一安心できる場所を形成していた。もちろん絶対の安全などどこにも保障されていないのは言うまでもない。

 テントが張られ、簡易設営ではあったがそこが部隊のベースキャンプになっていた。

 偵察部隊の銃声はしばらく森の中に響き続けた。これまでの戦闘経験から、後方部隊はすぐに後を追わないという作戦行動が基本になっていて、俺たちは数分間様子を見た。次の行動にすぐに移れるように暗視ゴーグルを装着し、いつでも森に入っていける体勢で待機した。長年の経験によるものなのか、今回の出動は悪い予感がしてならなかった。いつもだって、完全に無事に帰還できたことなど一度も無かったのに、今回は特に悪い予感が強く、戦闘の前に吐きそうになったのはこれが初めてだった。俺はもしもの時のために隠し持っていた覚醒剤の粒が入ったパケ袋をジャケットの内ポケットから出してひと舐めした。少しだけクラっとしただけで、効き目はほとんどなかった。これなら酔い止めでも飲んだほうがマシだ。ウイスキーを忍ばせてなかったことを俺は後悔した。

 そんなバカなことをしているうちに、ついに俺たちの小隊にも出撃命令がきた。もう森の奥から銃声は聴こえなくなっていた。今日も全滅だろうか?最前線の偵察部隊が全滅したとしたら次の任務は、今度は俺たちが最前線部隊を務めなくてはならない。

 俺たちはロケットえんぴつかよ。と、我ながらくだらないツッコミを心の中で呟いて俺は仲間と共に野営テントから出た。くだらないツッコミも自分の心を落ちつけるためだった。

 基本的に「事象」との戦闘に司令官はいない。指示はすべて無線で本部から直接耳に付けているインカムに伝達される。大まかな作戦命令はあるが「事象」の動きが不規則すぎるために、戦闘が始まれば各々の判断に任される。そのための精鋭部隊だった。要するに死んでも文句は言うなということだ。そのぶん生き残って帰還すれば法外な報酬が用意されているが、どんなに金を積まれても最近の生存率からすれば正直わりにあわない。それに金などもらっても、いつまでこの世界で金の存在価値が続くのかさえ分からない。今や明日この世界が無くなってもまったく不思議ではない状態なのだ。

 先日、なんの前触れもなく国土の何割かが消滅した。

 俺たちはそれも「事象」によるものだと聞かされていた。普段戦っている「事象」とは次元が違いすぎる。白兵戦の途中に核を使われたようなものだ。それでも俺たちは部隊に所属している以上は命令通りに動くしかなかった。

 隊員のほとんどがさっき言った(この俺には無い)「使命感」に近い感情で動いていた。要するにそれが精神安定剤代わりだった。戦争ではないのでこの戦闘に大義名分は無い。あるのは生存本能だけ。人は死への恐怖に負けて自ら死を選ぶ矛盾した生き物だ。その恐怖を止めるための、生存を賭けるという意味での使命感だった。そこに正義も悪もイデオロギーさえもない。

 俺の悪い癖で、死地に向かう際に決まって、普段は考えなくてもいいような、例えば今考えた「使命感」などというくだらない思想理念に気持ちがぐらついてしまう。子どもが寝る前に「死んだらどうなるんだろう」と考えて怖くて眠れなくなってしまうのと似ていた。

 考えるのはやめろ。死なない方法だけに脳ミソを集中させるんだ。そう自分に言い聞かせて、俺は銃のトリガーをチェックした。

 戦闘に慣れることはない。油断した時が死ぬ時だからだ。目の前で人間がグチャグチャになる所をこの一年で何度見たことか。

「みーちゃん」はまだ到着しない。正直なところ「みーちゃん」には来て欲しくなかった。特に今日は悪い予感しかしない。

「みーちゃん」の到着は、確実に「事象」との戦闘があって、確実に誰かが死ぬ事を意味していた。

 前回の出動で、仲間がこんな言葉を聞いたと言っていた。

 初めて遭遇する新型の「事象」の前にその日もたくさんの死傷者が出ていた。頼みの綱である「みーちゃん」も苦戦を強いられていた。結果「みーちゃん」の持つ不思議な力によって「事象」は消滅したが「みーちゃん」はボロボロになった服の汚れを気にしながら、帰り際ぽつりと呟いたらしい。


みんな役立たず。来なきゃ死ななくて済んだのに


 俺たちってなんなんだろな?と仲間は続けて言った。そいつもその時の戦闘で、右脚と左目を失いその後死亡した。


 俺たちは政府の秘密特務機関所属なので、死亡しても自衛隊のころのように二階級特進もない。表彰されることもない。俺たちに殉職はありえない。死亡診断書も書かれない。生きているうちから俺たちはすでにゴーストなのだ。この部隊に所属した時から覚悟は出来ている。

 この部隊に所属している人間は命を差し出す代わりにそれぞれに理由を背負っていた。理由は様々で、決して褒められた内容でない者もたくさんいた。レイプ事件を揉み消して貰った者。実弾訓練中にわざと恨みを抱く同僚を殺してしまった者。単に大金が欲しかった者。闇の世界でしか生きられない快楽殺人者。俺だってまともな人間じゃなかった。

 自衛隊のレンジャー部隊で俺は教官をしていた時期があった。レンジャー部隊は精鋭中の精鋭だ。この国を有事の際に本当に守ることが出来るのはこの部隊しかいないとかつては自負していた。

 有事の際。普通ならそれは人間同士の戦争を意味する。災害も有事に含まれるが、暴徒鎮圧以外に殺人術は必要ない…と、勝手に俺は思い込んでいた。災害に殺意が存在するとは普通考えない。たとえ天の所業を神の仕業だと結び付けて天を恨んだとしても、本当に空に向かってマシンガンを連射したりはしない。そのはずだった。

 だが天は「事象」という形で人類に災害とは違う殺意を向けた。初めての実戦の日、これまで積み重ねてきた訓練がまったく役に立たず無駄であったと気づかされた。俺が自信を持って教えた殺人術も、民間人を守るための退避行動さえ機能しなかった。

 俺たち精鋭部隊はわけの分からないまま、のちに「事象」と名付けられた未知の攻撃に対してまったくの無力で、成す術もなく全滅した。運が良かったのか悪かったのか俺だけが生き残った。

 俺が育て上げた自慢の隊員達は無念のまま死んでいった。民間人もたくさん死んだ。ただ一人生き残ってしまった俺は悪夢に魘されるようになった。精神を病み一度は自衛隊を退官した。酒と薬に溺れ、廃人寸前で街を彷徨っていた時、政府の者と名乗る人間がこの部隊へ来てくださいと声をかけてきた。私たちと国を守って欲しいと。

 正直、仲間の弔い合戦など興味なかった。死んだらそこで終わりだ。俺の心だってもう死んでいた。俺が言われるままにこの部隊に入隊したのはただあいつら「事象」がなにものなのか知りたかっただけだ。毎夜見る悪夢を振り払いたかったのだ。ずっと怖かった。プライドも折られた。地位も名誉も失った。残されたのは恐怖心だけだった。

 だから俺は戦う道を選んだ。「事象」を殺せるのなら悪夢も振り払えるかもしれない。


 命をゴミ屑のように散らしていった仲間には悪いが、俺たちの命などに大した意味はない。少なくとも俺自身はそう思うようになっていた。国を守るために戦おうなどという理念は、自衛隊時代に部隊をあっけなく全滅させた時に完全に失っていた。

 今だって愛国心は微塵もない。死んだらそれで終わりという考えも変わっていない。

 部隊に入隊してから続いた、相変わらず自衛隊時代となんら変わらない訓練の日々は、久しく現場を離れていた自分にとって肉体的にはきつかったけれど、気を紛らわせてくれるので助かった。疲労感で悪夢を見ないで済んだ。


 再びやってきたあいつらとの戦闘の日々も、それ自体が悪夢の日々であったので、生還した夜はよく眠れた。他の隊員はそうはいかないらしい。だからやはり俺はすでに狂っていたのだ。

 結局俺は、戦いたいだけで、自衛隊だったころ部隊を全滅させたトラウマなど最初から無くて、戦えなかった自分が悔しかっただけだ。その点では俺もシリアルキラーと同じだった。


 暗い森を「事象」を探して走っているだけで興奮するのだ。

 早くこの50口径ライフルであいつらをデストラクションしてやりたい。いつもの狩人のスイッチが入った感触が背中の震えと共に全身に伝わった。


 犬死にした仲間は「俺たちってなんなんだ?」と言って死んでいった。答えてやろう。俺たちは犬死にするための存在なのだ。そのかわり殺せるだけ殺してやる。


 遠くからヘリの音が聞こえてきた。きっと「みーちゃん」を乗せたヘリだろう。森の中に急遽作られたヘリポートだ。まだ着陸までに五分はかかる。それまでに一匹でもクリ―チャー型を仕留めて「みーちゃん」に「そんなことしなくていいのに」と言わせてやろう。そう思いながら俺はライトを消し、暗視ゴーグルに切り替え、辺りの気配を探った。少し先の林を、素早く駆け抜ける何かが映った。俺はライフルを構えてそいつがスコープに入るのを待った。


 2


 悪い予感は的中した。相手は小型クリ―チャーAではなく、Bの方だった。それも初めて目にするタイプだった。暗視ゴーグルの視点のため、その色までは判別できないが、やつは全身に無数の触手を持っていて、触手は有刺鉄線のように鋭いトゲがビッシリと生えていた。触手は伸縮自在らしい。森の木々を縫うように、触手が様々な方角から俺たちを襲った。本体は素早すぎて狙いが定まらない。突如背中からトゲの触手に貫かれて、俺のすぐ横にいた隊員が闇夜に引きずられて消えた。俺は大木を背にしてライフルのトリガーに指をかけた。変幻自在の触手だ、たとえ大木を背にしたところで身体に巻きつかれてしまったら終わりだった。

 50口径は威力こそ最強だが接近戦には向いていない。銃に手をかけたまま、俺はサバイバルナイフに持ち替えた。

 もし触手が襲ってきたらこいつで切り刻んでやる。これまでの戦闘でここまで「事象」と接近したのは初めてだった。我ながら情けない。脚が震えた。自分の鼓動が聞こえるくらい波打った。

 時々、少し離れた場所で隊員の断末魔が聴こえてきた。

 俺も次の瞬間には同じ運命を辿るのだろうか。恐怖が増すほどに妙に頭が冴えてきた。これが人間の防衛本能というやつか。それまで暗視ゴーグル着用とはいえ、視界が良いとは言えなかった。恐怖心が増幅するほどに、周りの景色がハッキリと見えるようになった。

 やつらが何体存在しているのかわからないが、どうやら触手は俺たちの動きに反応して攻撃してくるらしい。じっとしていれば相手も動かない。俺は一度深呼吸し、次の行動を考えた。

 インカムで仲間に「その場を動くな」と指示を出した。

 だいたいこの森に「事象」が潜んでいる事実が分かった段階で、デイジーカッター(BLU82)やFAEなどで森まるごとを焼き払えば良かったのだ。なぜ本部は圧倒的に不利な白兵戦、それも夜の戦闘を指示したのだろうか。怒りに近い疑問が頭を過ったが、今は考えてもしょうがない。すでに撤退は不可能だった。覚悟を決めるしかなかった。犬死にの覚悟ではない。生き残るための覚悟だ。

 今、俺たちが生還できる可能性があるとすれば、それは例の少女「みーちゃん」の到着を待つのみだった。すでに本部からの命令であるクリ―チャー型の「事象」の殲滅は諦めるしかない。この森の中にどれだけ生き残っている隊員がいるのかさえもう確認できない状況だ。「みーちゃん」自身は戦闘のプロではないが、あの少女には俺からすればそいつらだって「事象」の仲間ではないのかと思える護衛のクリ―チャーが憑いていた。少女の命令しかきかないそいつらが、実際には一番多くの「事象」を葬っていた。


 みんな役立たず。来なきゃ死ななくて済んだのに


 その言葉が脳裏に浮かんだ。本当にその通りだ。後方支援などと立派な任務に聞こえるが、ようするに俺たちはただの囮なのだ。そんなことはもう充分すぎるくらい理解していた。どんなに訓練したところで、人間がやつらには勝てない。抗う術は皆無だった。


「みーちゃん」を守るのではなく、時間稼ぎのための囮になる。これこそが俺たちが課せられた本当の使命だった。


 にしても、今回ばかりはどうしても納得できない。この部隊だって、政府が作りあげるのに時間も金も莫大にかかっているはずだ。無駄死にさせる理由が分からない。

 「事象」に関するデータに間違いでもあったのか?しかし、データなど元々なんの役にも立っていない。毎回の事だ。

 いつもなら、ある程度攻撃のめどが立てば俺たちは即時撤退が常だった。ただでさえ有能な人員は減る一方だ。こんな負け戦をする意味がどこにあるというのだろうか?


 俺は息を殺しながらひたすら「みーちゃん」が来るのを待った。闇の中には相変わらず殺気が充満していた。


 はっ!


 俺の肩になにかが触った。俺は咄嗟に振り向いてナイフを突き出した。


 ちょっとオジサン危ないじゃない。危うく串刺しよ。


 暗視ゴーグルで青白く映し出されたナイフの切っ先すれすれにその少女は立っていた。


 俺を確認するなり少女は言った。

 みんなホントに役立たず。来なきゃ死ななくて済んだのに


 「みーちゃん」だった。戦闘のプロであるはずの俺が、たった一人の少女の登場で泣きそうになるとは思ってもみなかった。

 俺はいつの間にか死への恐怖に負けていたのだ。

 

 少女はいつものように不機嫌な表情と、戦闘には似つかわしくないワンピース姿で、肩からドクロの刺繍の入った鞄を下げていた。暗い森に、完全武装しつつもただ震えているだけの俺と、薄着の少女の対比が、きっと見る者には滑稽に映ったに違いない。

 役立たずと言われ、俺には発する言葉がなかった。少女の言う通りだった。

長年の訓練も、培った戦闘技術も、強力な武器も、喪失した心も、諦めの精神も、俺のなにもかもが、現実の死を前にした途端、すべての説得力を失った。自然に死にたくないと思った。

 俺のこれまでの戯れ言など、ぜんぶ詭弁でしかなかったのだ。

 

 名も無い兵士は神にも英雄にも成れない。


 そんな戯れ言が、また脳裏に焼きついた。


「みーちゃん」は、俺に着いてくるよう促し、俺は弱々しい足どりで「みーちゃん」の後を追った。ついさっきまで、殺気に満ちていた「事象」の触手は、いつの間にか引き千切られて、辺りに散乱していた。その傍らに、おそらく「みーちゃん」の物であろうボロボロになったソックスが何足も落ちていた。


 3


俺の記憶が確かならば、そこはどう見ても学校だった。カビ臭いゲタ箱。無機質な廊下。整然と並べられた木の勉強机と椅子。あの椅子が苦手だった。あんな固い木の椅子に一日座って授業を受けていたことが信じられない。埃っぽい教室も嫌いだった。チョークの意味が今でも分からない。なんて言ったか忘れたが、チョークの粉を吸い取る機械の吸引力の無さも嫌いだった。勉強は出来る方だったし、昔からリーダー的な位置にもっていかれて、俺は気づけば学級委員長をさせられていた。嫌でも好きでもなく、そういうもんかなと思っていた。俺はそういう存在なのだろうなと、なぜあの頃は自分で納得できていたのだろうか。あまりに昔の話でもう思い出せない。地方都市の普通の鉄筋コンクリートでできた校舎だったので、現在の学校とそんなに変化はない。数年前、まだ結婚していたころ、自分の娘の授業参観に行った時に、俺のころとほとんど変わらないなぁと感じた。変わったのは教室にエアコンが設置されたことくらいだった。相変わらずカビの匂いといろんな体臭が混ざって不快な空間だった。生徒だったころよりも、部外者になってからの方が余計に不快さを感じた。もう何年も逢っていない今どこに住んでいるのかも知らない俺の娘は、死んでいないのなら「みーちゃん」と同じくらいの歳になっているだろう。確か今年高校卒業だったと思う。そんな大事なことすらもはっきり覚えていない。そう言えばこの少女「みーちゃん」はいったい何歳なのだろう?俺たちは歳も聞かされてはいない。また話が逸れた。

 兎角、学校に俺は居た。

 窓の外は真っ暗で、おそらく眼下にはクリ―チャー型「事象」が徘徊している森が拡がっているのだろう。どうしてこんな山奥に校舎があるのか。考える時間もなく、俺は少女に連れられるままにここに隠れた。

 生きていたのは俺一人じゃなく、数は相当減ってはいたが、何人かの隊員も同じくここに来ていた。玄関の扉は針金で厳重に封鎖され「事象」の侵入をとりあえず防いだ。だが、他はただのガラス窓だ。いつ侵入されてもおかしくない状態だった。


 ここに居る限りはたぶん大丈夫だから。


「みーちゃん」は俺たちにそう言った。


「たぶん…」という説明がなんとも心細い。なによりここがどこなのかも不明のままだ。

「みーちゃん」は不思議な力を持っている。おそらくなんらかの結界を張っているだろうと俺は推測した。


 ぜんぶで何人?


「え?」


 生き残ってる隊員のこと。


「ああ、そうだな」


 俺たちは教室のひとつに集まって、訓練通りに点呼をとった。軍隊とは少し違う寄せ集めの部隊なので、正確な人数は割り出せない。俺たちには一人ずつ、生命反応装置が防弾ジャケットに取り付けられていた。これは生存人数を確かめるための物ではなく、人間の中にもしも人間に擬態した「事象」が混じっていた場合の事態を考えての装置だった。この装置が反応すればそれは人間である証拠だ。

 同じ部隊でも顔も知らない隊員が何人もいるのだ。


「正確には分からないが、とりあえず今ここにいる隊員は全員で十二人だ」


 十二人か…。だから私が来るまで待ってってあいつらに言ったのに。


「みーちゃん」は深く溜め息をついて、まるで俺たちが生徒であるかのように、教壇に立った。「みーちゃん」の言うあいつらっていうのは本部の人間のことだろう。末端部隊の俺が一度も接触したことのないずっと上の人間だ。

 娘ほどの年齢に見える「みーちゃん」の地位は俺たちよりも上だ。実力も、これまでの成果も考えたらそれは当たり前で、俺たちは「みーちゃん」の言葉に従うしかなかった。

 本部からの指令はさっきから途絶えてしまっている。インカムには耳障りなノイズしか聞こえない。


 死にたくなかったら私の指示通りにして。あんたらが死んでも私には関係のないことだけど、でも気分が悪いから。なるべく生き残って。死ぬ時は猫のように一人になってこっそり死んでください。


 犬死にばかりを考えていた俺は「みーちゃん」の猫のように死ねという言葉に新鮮さを覚えた。猫死にか。誰にも看取られることなく死ぬってのも嫌なものだなと思った。実際そうやって死んでいった仲間もたくさんいたのだろうなと少しだけ感傷的になった。


 「猫死に」哀しい響きだ。


 教室に集まった生き残りの隊員の中にはすでにかなりの傷を負っている者もいた。ぜぇぜぇと荒い息が痛々しい。


 そこの人はもうダメそうだね。可哀想だけど私には治癒能力はないから、私を恨まないでね。


 わざわざそんなこと言わなくても、ここにいる全員はすでに死に対して覚悟は出来ている。それなりの慈悲ってやつか。だが所詮少女の感性だ。慈悲の言葉はむしろ残酷な死刑宣告でしかなかった。

 ただし、深い傷を負った虫の息の隊員は、もう「みーちゃん」の言葉も届いていないくらいに意識レベルは低下していた。よくここまで来れたものだ。


「こいつはもうダメだ。苦しむのなら早く楽にしてやったほうがいいだろう」


 俺は名も知らない隊員の安楽死を提案した。


「みーちゃん」は俺も方も見ず、無言だ。だがその横顔が早くしてと言っているように見えた。


 俺は「天国でな…」と呟き、苦しそうにしているそいつの眉間に小銃を当て引き金を引いた。サイレンサー付きの小銃は「トス!」と、あっけない音を発して、そいつは眠るように逝った。

 俺たちには戦闘用とは違う自害専用の一発だけ弾の入った小銃が支給されていた。銃には敵に音で察知されないようにサイレンサーが装着されていた。俺の行動を非難する者はその場に一人もいなかった。誰もが理解しているのだ。

 ただしこれで俺はもう楽に自害はできなくなった。

 生き残った隊員の誰かが、短い舌うちをした。その意味が、今俺が殺した隊員に対してのものなのか、楽に死ねなくなった俺に対してのものなのか、おれには判断できなかった。

 「地獄にきてしまった」という全員共通の思いが、教室を重い空気にした。


 唯一「みーちゃん」だけがそんな重い空気とは違う、俺たちとは違う空気を醸し出していた。俺の気のせいかもしれない。でも、これまで数々の無残な現場を経験してきた俺の勘はそんなに間違っていないと思う。この娘はさっきからまるで心が動いていない。機械人形のようだと俺は感じた。

 初めてではなかった。これまでも、俺はこの少女に人間を感じたことがなかった。もっともこれほど近くで「みーちゃん」と接触したのも今夜が初めてだったので、あらためて「みーちゃん」の底しれぬ闇を垣間見た感じだった。

 政府が創り出したアンドロイド?そんなことまでつい勘繰ってしまう。しかし、彼女の身体には所々アザや傷があり、ここに来るまでにそれなりの攻撃を受けた跡が見られた。俺たちと同じ生身の人間だった。まさか不死だとはその時は思いも寄らなかったが。


 これで今のとこ全員動けるようだね。一人減って十一人か。何度も言うけどどうなっても私を恨まないでね。


「みーちゃん」は俺たちをどう捉えているのか。俺たちは一般人ではない。死を義務づけられたと言っても過言ではない特殊部隊の兵士だ。それをさっきからまるで子ども扱いしている。俺も少しだけイラついてしまった。傍から見れば守られるべき人間はワンピース一枚で立っているこの幼さの残る少女の方だ。


「確かに俺たちは事象に対して無力かもしれないが、俺たちも戦闘のプロだ。死ぬ覚悟くらいできている」


 思わず俺は反論してしまった。すぐに反論は後悔に変わったのだが。


 なにが覚悟だって。ついさっきまで木の陰で震えてたくせに。あんな雑魚も倒せないのに覚悟とか言わないでください。あと、言っとくけど今日の作戦はぜんぶ本部が仕組んだ罠…。罠ってわけじゃないけど、あんたらはただ利用されただけだからね。私のために無駄死にさせられただけだからね。恨むなら本部を恨んで。あいつらはホントのビチクソだから。


 幼い少女に論破され、俺はそれ以上返せなかった。それに利用されたとはどういうことなのか?俺たちは無駄死にするためにここに来た?


 さぁ、もう突っ立ってないで行くよ。ここはまだ壁の力が薄いみたい。たぶん体育館まで逃げられたら助かるわ。そろそろあいつらが入ってきてしまう。


 疑問は残されたまま俺たちは教室を後にした。その直後、ガラスの割れる音がして、やつらがついに建物内に侵入してきたのだった。マシンガンを装備している隊員が後方に向かってトリガーを引いた。

いくらかはダメージがあったのか、クリ―チャーの悲鳴が廊下にこだました。しかし致命傷ではない。すぐにあの棘の触手が俺たちのすぐ後ろまで伸びてきた。


 ダ二朗!壁になって!


「みーちゃん」がそう叫んでカバンからクマのヌイグルミを取り出し後方に投げた。ヌイグルミは即座に巨大化し、廊下を完全に塞ぐほどの大きさになった。クマの背中で見えないが、おそらくクマにクリ―チャーが突進しているのだろう。バスバスバス!と何度も衝突音がする。廊下の壁にヒビが入った。反対側面の教室の窓枠も派手に弾け飛んだ。後方の状況を確認できたのはそこまでで、俺たちは全力で廊下の角を右に曲がり、長い直線をひたすらまっすぐ走った。「みーちゃん」は俺たちの一番後ろを走っていた。


 ぎゃああああ!


 前方から叫び声があがった。


 クソが!先廻りされてた!ICBM!飛んで!


 先頭を走っていた隊員の顔面に触手が突き刺さっていた。もう駄目だろう。両手両脚に力はなく、そいつは触手に持ちあげられて天井すれすれでぶらんと揺られていた。

 誰の掛け声もなく、俺たちは一斉に前方のクリ―チャーに銃弾を浴びせた。狭い廊下に弾幕の煙と硝煙の匂いがたち込めた。煙の中に「みーちゃん」が叫んだICBMという名の光の矢が飛んで行った。おそらく森に落ちていた破れたソックスの正体があの光の矢なのだろう。

 すぐ前方で爆発音がして、爆風に危うく飛ばされそうになった。俺たちは体を屈め飛礫を避けた。すぐに視界はひらかれ、クリ―チャーと思われる肉の破片が飛び散っているのが見えた。破片の中には死んだ隊員の破片も混ざっていたがそれを気にする余裕はなかった。


 よし行ける!そのまま突破して!


 再び「みーちゃん」が指示し、残り十人になった俺たちはさらに前進した。訓練しているとはいえ、二十キロ近い装備をしている状態での全力疾走で心臓が飛び出しそうだ。十年前ならまだまだ動けた。体力は確実に失われていた。だがその分経験がある。俺は役に立たないバリアジャケットを脱ぎ棄て、横目に一瞬だけ確認したやつの触手を寸でのところでジャケットを盾にして防いだ。触手はカーボンファイバーが縫い込んであるバリアジャケットを簡単に貫通してしまったが、顔面すれすれで止まった。咄嗟に体が動かなかったら俺の顔もグチャグチャのミンチになっていただろう。その触手を「みーちゃん」はICBMの矢で貫いた。

 触手は激しく上下しながら闇の中に消えて行った。


 なかなかやるじゃない。とでも言うと思った?はっきり言ってぜんぜん遅い!これじゃ間に合わない!


 もちろんこんな状態で少女の褒め言葉など期待しない。俺も考える暇もなく、生き残るのに必死だ。ただ「みーちゃん」の言葉に偽りはなく、俺がギリギリのところで死を回避したと同時に、やつらの攻撃で三人の隊員が殺られていた。

 残った隊員は七人になった。

 何人になろうが振り向きはしない。仮に全滅したところで「みーちゃん」一人が死ななければいい話だ。本部だってもう俺たち隊員の安否など気にもかけていないだろう。このミッションの真の意味などもうどうでもよかった。俺は生き残りたいだけだ。

 犬死にも猫死にもごめんだ。生き残りたい一心だった。神経が研ぎ澄まされていくのがわかる。何度も紙一重でやつらの執拗な攻撃を避けて、転がるように這うように、どんなに体勢を崩してでも体育館まで止まらずに進んだ。

「みーちゃん」もやつらと交戦していた。巨大化したクマは触手に巻き付かれる度に咆哮を発して触手を振りほどいた。いくら引き千切ってもすぐに四方八方から触手は伸びてきた。きっとどこかにいる本体を叩かなければ倒せない。分かっていたが、すでにその時俺は戦士ではなかった。逃げ惑うしかない敗残者だった。俺だけじゃない、生き残った隊員は皆、戦いを諦めていた。

 自分たちが敵う「事象」じゃないと気づいたのだ。

 戦いを諦めていないのは「みーちゃん」だけだった。「みーちゃん」はいったいどんな使命感で今戦っているのか、パニック寸前の頭にたった一つだけその疑問が残った。

 俺たちを助けるため?いやそんな素ぶりはない。隊員の死など最初から気にも留めていない。やはり俺たちと同じく生き残るためなのか?なら真正面から対峙せず、あのクマに足止めをさせて先に逃げればいい。俺たちよりもよっぽど身軽だし、効果的な武器もある。でも「みーちゃん」はまるでなにかを守るようにやつらと全力で戦っていた。


 もうすぐ体育館よ!とにかく飛び込んで!


 みーちゃんが叫んだ先に、体育館の扉が見えてきた。しかしそこに辿り着くには一度渡り廊下に出なければならなかった。渡り廊下は屋根があるだけで完全に建物の外だった。ほんの十メートルほどの長さではあるが、攻撃を避けられる障害物がどこにもない。ここで触手に囲まれたら逃げ場はなかった。

 引き下がるわけにもいかない。最後の決断をするしかなかった。壁が無いのならその代わりになる物を見つけるしかなかった。


 俺はただ死にたくなかったのだ。


 俺は目の前の隊員の首に手を回し、全力で体をねじった。闇夜の中から何本もの触手が飛んできて、俺が壁にした隊員の全身に突き刺さった。血飛沫が顔を濡らした。即死だったので断末魔をあげることもできず、そいつは痙攣しながら触手に体を引き剥がされた。臓物なのかどこだかわからない生温かい肉塊が、容赦なく俺の頭に降り注いだ。血で足がすべったおかげで、触手の二撃目を運良くかわせた。

 俺の常軌を逸脱した行動が鬼畜にでも見えたのだろう。もう一人の隊員は体育館の扉まであと少しのところで足を止めてしまった。恐怖で体が動かなくなったのだ。ここで停止することは死を意味していた。そいつも首から上を持っていかれ絶命した。

 俺が確認できたのはそこまでだった。俺は扉に手をかけ、ついに体育館の中に入った。俺の他に到達できた隊員は一人もいなかった。

 残りのやつがどう死んでいったのかもう確認はできない。


 生き残った。俺は生き残った。生き残った。生き残った。生き残った。同僚を壁にして、誰一人助けようともせず、戦いも放棄し、無様に生き残った。 


 ひどい脱力感に襲われ、俺はバスケのゴールの下まで来てヘタリ込んでしまった。体育館の入り口からここまで、床に血の跡がべっとりと続いていた。たぶん数秒しか経っていないと思うが、ずいぶん長い間放心状態だった気がする。

 俺は我にかえって「みーちゃん」がまだ来ていないことに気づいた。


 俺は入口扉に目をやった。数秒して、全身血まみれになった「みーちゃん」が虚ろな表情で前のめりに入ってきた。今にも倒れそうだった。


 生き残った人間は結局俺たち二人だけだった。


「みーちゃん」もふらふらになりながら、体育館の中央まで歩いてきた。クマのぬいぐるみはすでに元の形にもどったようで「みーちゃん」の肩かけカバンの中から破れて綿の出た腕だけが出ているのが見えた。


「生き残ったのは俺たちだけか…。本当にここは安全なんだろうな?」


 俺は壁にもたれかかったまま「みーちゃん」に訊いた。「みーちゃん」の返答はとても奇妙だった。奇妙すぎて頭がクラクラした。



 4


 ここは安全。もう心配ない。これでこれ以上人が死ぬことはないわ。もっとも全員死んじゃったけど。だから最初に恨まないでねって言ったの。ホンットにビチクソ以下の仕事。これまでで一番胸クソ悪い。吐きそう。嘘。今ちょっとだけ外で吐いちゃった。まだ息がある人が一人いた。なんとかなるかなって思って駆け寄ったら、私を見て安心したのかそのまま死んじゃった。クソが!

 こんな作戦は嫌だった。だけどわたしの新しい力はまだ自分じゃ上手く使いこなせなくて、こんな山奥に出現させるしかなかった。だいたいこんな力おかしいと思わない?

 力って、ちゃんとあんたに説明しないと分からないよね。この力は簡単に言うと「事象」を閉じ込めるための「檻」。

 どうせうちのパパがわたしを悩ませるためにこんな力を寄こしたんだと思う。パパって超ドSだから。それと最近分かってきたのは、わたしの力はわたし自身に深く関係のある物が力として具現化されるみたい。ってこんな話あんたにしてもしょうがないか。

 要するに、この学校まるごと全部わたしの仲間。

 名前は…。そうだね。「バスケットケース」でいいわ。なんか青春ぽくていいじゃない。もちろん侮蔑の意味を込めてね。学校なんかに青春なんて存在しないもん。ここは地獄だから。自分の力なのに、ここに居るだけで吐き気がする。お腹も痛くなる。

 あんた知ってる?便所の中で喰う弁当の味。

 チョークの粉のふりかけごはんの味。

 上履きいっぱいに敷き詰められた冷ご飯の味。

 血の滲んだサビの味。

 ゲロ喰ったことある?

生きたカエル喰ったことある?

蝉を口の中で鳴き殺したことある?

用具室で天井に挟まったバスケットボール見ながら股から血ぃ流したことある?ねぇ?ねぇ?ああもういいわ!切りないわ。

 ああああ駄目だなぁ。ここにいるとしゃべらなくていい話をいっぱいしたくなっちゃう。あんたには一ミリも関係のない話なのに言葉にしないと黒い鉄球が胸に落ちてきそうになる。

 用具室が渡り廊下を走ってる時ちらっとだけ見えたの。作戦の途中なのに我慢できなくてダ二朗に破壊させてやった。そのせいで最後の人を助けるのが遅れて死なせちゃった。これ誰のせいだと思う?わたしのせい?でもいくらわたしの力だと言ってもあの用具室まで再現しなくていいじゃない。なんのクソほどの役にも立たないくせに。ひどいと思わない?

 わたしの話がぜんぜん理解できないって?いいよ理解しなくても。必要ないし。これはわたしの独り言だと思ってくださいな。

 本当はこの場合あんたに同情しなくちゃいけないんだろうけど、ここの場所がビチクソすぎてそんな感情は微塵も湧いてこないわ。ゴメンね。

 そろそろ本題に入った方がいいよね。あと何分かしてわたしがここから出ていかなかったら本部のクソ野郎がミサイルを投下させる予定になってるから。

 可哀想だけど、はっきり手短に伝えるわ。


 今回の「事象」はあんたよ。触手の本体さん。


「なにを言ってる?俺もこうやって触手からの攻撃を避けながらここまで逃げてきたじゃないか」…って?あんたずっと自分で気づかなかったの?ぜんぶあんたが殺してたのよ。自分の仲間を。

 でもわたしもあんたが本体だって気づいたのはついさっきだから、わたしにも責任はあるよね。触手の動きが早すぎて気づくのに時間がかかり過ぎた。あんたのまわりだけ人が死んでいくのを見てやっと気づいた。すべてが遅すぎたけどね。

「事象」が隊員の中に混じってるっていう情報しかなかったから、その可能性があった部隊をここまで誘き寄せるしかなかった。ホントはこっそりとここに皆を集めてから調べるはずだった。それが出来ていたら死人を出さずに済んだんだけど、あんたの意思じゃないのは分かってるよ、でも実際に「事象」は危険を察知して、わたしたちが作戦に入る寸前になって暴走を始めてしまった。

 本部からの緊急命令は、どうなってもいいから「事象」の正体を見つけ出して「バスケットケース」に閉じ込めろだって。

 無茶苦茶よね。わたしだって必死に頑張ったのに。この世で一番ビチクソな場所で必死に頑張ったのに…。

 まだ不思議な顔でわたしを見てるのね。可哀想ね。


 あんたの背中から伸びてる無数の触手がわたしを狙ってるわ。もうみんな死んじゃったから隠れる必要ないみたいね。上を向いて見て。ね。うじゃうじゃとミミズみたいに蠢いてるでしょ。それあんんたの背中から生えてるよ。


 やっと自分でも認められたようね。仲間の返り血で分からなかったのね。でもあんた自分が生き残りたいために仲間を盾にして逃げたよね。あの瞬間をわたしは見てたわ。

 誰だって死にたくないのは同じ。そのことを責めるつもりはない。わたしが言いたいのはあんたの本質はそこだってこと。

 死にたくないって想いがその「事象」を発現させた。今、やっといろいろと理解できて、たぶんあんたはこれまでで一番死にたくないって気持ちになってるのね。怖いのね。

 ほら、触手がどんどん増えていってる。わたしを殺そうとしてる。


 痛っ!やっぱり動きが早くてわたしじゃ見えない。ダ二朗ありがと、ダ二朗が防いでくれなかったら首が飛んでたわ。でも片足がどっか行っちゃった。痛みを与えてくれて感謝します。これで罪悪感なくあなたを「事象」として葬れそうです。


 隊員さん。あえて名前は訊かないでおくわ。じゃあサヨナラ。


 こうして俺は奇妙な話に巻き込まれ、奇妙な空間で、奇妙な少女に殺された。


 死にたくないという想いは変わらない。死ぬ前にもう一度だけ娘に逢いたかった。いや、たとえ娘が俺にいなかったとしても、死にたくないのは同じだ。それはすべての動物が持つ本能ってやつだろ?誰だって死にたくなかったのだ。俺が結果的に殺してしまった隊員たちだって、これまで他の事象によって殺された人間すべてが、俺と同じく死にたくはなかったはずだ。

「みーちゃん」君は卑怯だよ。まるで被害者のような顔をしているけれど、不死である君は俺たち人間とはすべてにおいて違う存在だ。そんなに哀しい目で俺を見送る必要なんてない。君は微笑んでいればいいんだ。それが神様って存在だろ?

 

俺は人間として死ねたのかな?それとも元々人間じゃなかったのかな?


最期に「みーちゃん」は教えてはくれなかった。

哀しい顔でこっちを見ているだけだった。


俺の話はこれでおしまい。

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