第7症 黒い舟歌



 今更こんな手紙を送られても困る。と、青年は思った。


青年は自分でお金を貯め、大学にも行った。小さいながらも当時急成長していたIT関連の会社に就職した。大学はそれほど有名な大学ではなかったが、青年は己の実力で内定をもらった。面接の時、自作のゲームソフトを直接面接官に売り込んだのだ。そんな学生は他にはいなかった。就職できなくてもいいから、このソフトをどうか買い取ってください。自分には金が必要なのです。そこまではっきりと言いきった。面接会場は一瞬どよめいた。小さいベンチャー企業だったので、社長もまだ若く、青年とそれほど歳は離れていなかった。ビデオモニターでその様子を見ていた若社長は青年を社長室へと呼び入れた。

 青年の自作したゲームソフトは、そのころはまだ発展途上にあった携帯電話用のゲームだった。画面こそ、単体機器のソフトに劣るものの、携帯電話だからこそ発揮できる画期的なシステムで、なにより面白かった。若社長は、人事部を通さずに青年を正社員として採用した。内定ではなく完全雇用だったので、青年は大学卒業を待たずして、在学しながら仕事に就いた。卒業と同時に、青年の開発したソフトは爆発的にヒットしだした。半年すると、青年はIT部署から独立したケータイアプリ専門部署の部長になっていた。部署と言っても部下は青年と同期に入社した同じ歳の女が一人と、プログラミング担当のその会社で最年長の四十歳を少し過ぎた男の、たった三人の部署だった。でも青年はその環境が好きだった。

 自由にやりたい仕事ができるのだ。好きな作業をしているので残業もまったく苦ではなかった。最初は金が欲しかっただけだったはずの青年は、いつしか大きな夢を持つようになった。自分にそんな感情が芽生えるなんてと青年は自分自身の変化に驚いた。

 翌年には独立し、最初に売り込んだソフトの権利を会社に譲渡した金で自分の新会社を設立した。若くして巨万の富を手に入れた青年は、ついに夢を叶えた。

 青年の夢とは、自分が育った孤児院を買い取ることだった。その孤児院はどんな環境で育った子も、どんな問題を抱えた子も、もちろん親に捨てられた子も、無条件で入所できた。そのせいで、地元では慈悲深い施設だと好感を得ていたが、中身はまったく違っていた。地獄だった。

 青年は何度も職員から性的虐待を受けていた。施設のトップである会長からは毎週のように嬲られていた。青年の心は、物心つくころには歪んでしまっていた。

 施設ではお互いに友達を作ることを禁止されていた。私語も禁止だった。少しでも会話がばれたら懲罰房行きで、そこでは普段よりもさらにきついお仕置きが待っていた。

「ペイン」と名付けた雑巾をビニール紐で縛って作ったボロ布の人形だけが青年の友達だった。

 その人形も、職員に見つかると取り上げられてしまうので普段はただの雑巾として使って、夜寝る時だけまたビニール紐で結えて人形にした。

「ペイン。いつかここを出たら、ぜったいに金持ちになるからな。もし駄目だったら死刑になってもいいからここのやつら全員を必ず殺しに来よう」

 憎悪だけが膨らんでいった。


 ボロ雑巾の「ペイン」が職員に見つかり、目の前で燃やされた夜、彼は生まれて初めて人を殺した。非常発電機用のガソリンを寝ている男の体にぶちまけて火を放ったのだ。

 幸い施設のスプリンクラーが作動し、燃えたのは「ペイン」を燃やした男一人だった。肉の焼ける香ばしい匂いが施設の廊下に漂っていた。犯人が彼だとすぐに判明したが、会長は警察には届けなかった。施設のすべてが暴露されることを恐れたのだ。

 そして彼は施設から姿を消した。


 盗み、盗み、盗み、盗み、生き残るためならなんでもやった。地元の暴走族グループを壊滅させ、不良のトップになった。暴走族の下っ端の両親が学校の先生をやっていると聞き、その家に居座って一から勉強を教わった。教師をしているのに子どもが暴走族だとばれるのが怖くて、彼の生活の世話もすべてやってくれた。私立ではあるが高校にも入れてくれた。

 少年はやがて青年になり、その歪な偽物の家族生活も終わりに近づいていた。ちなみに…。暴走族の下っ端だった教師の子どもは可哀想にとっくに殺されていた。遺体は細かく裁断され、生ゴミに出された。彼は教師の息子として新たな人生を歩みだした。誰も怖くて通報できなかった。彼は性来そうであったのか、天才的に頭が良かった。まわりの人間の、ぜったいに人には知られたくない事象をすべて把握し、掌握していた。三年後には彼の通っていた高校の全ての人間を支配した。彼の棲む小さなベッドタウン一帯の、それは警察署でさえも、彼が高校を卒業するころには彼の物になっていた。どんな方法でやったのかは想像にお任せするとして…。彼は小国の王になった。

 そこまで出来るのなら、あの忌忌しい施設への復讐も容易かと思われたが、彼にはもうどうでも良かった。過去を思い出すのも厭だったからだ。頭脳こそ天才的であったかもしれないが、しょせんは育ちの悪い蠅の王でしかなかった。はきだめで汚れて育った彼は純然たる邪悪だった。野望のない惡は空っぽの小瓶だ。中身があろうが無かろうが、容量はたいしたことないし、使い道も無いに等しい。観賞用の小さいサボテンを植えて、すぐに枯らしてしまうのだ。まだ空っぽのままの方が、未来への可能性が残されている分ましだった。手紙を詰めて海にでも流せばいつか誰かに拾われるかもしれない。彼の存在は蠅の王であり空っぽの小瓶だった。

 彼自信もよく分かっていた。だから、今更復讐などする気にはなれなかった。彼は小瓶を海に流す方を選んだ。賢明な選択だとも言えるし、結果的には最悪の選択でもあった。これはあくまで結果論なのでここで言うことではないのだが。

 大学ではイベントサークルのトップに君臨した。ただし、所詮は三流大学のサークルであったため、社会に太いパイプを作れるような規模ではなかったし、彼自身もたんなる暇つぶしとしか思っていなかった。たくさんの女と肉体関係を持ち、その部分に関しては経験を積んだことになったが、これが将来の役に立つとは考えていなかった。一時の快楽に溺れただけだ。施設にいたころ、自分は散々弄ばれる側だった。自分が弄ぶ側になって、少しは気分も晴れるのかと思っていたが、感情になんの変化もなかった。

 人を殺してもなんとも感じなかったくらいだ。いつも心は穏やかで、無風、凪ぎ、灰色。

 プログラミング技術を半年で覚え、やる気のある若者を装い。順調すぎるほどの早さで彼は社会的にみたら立派な大人になった。

 地獄から悪魔の姿のまま這いあがった人生だ。挫折など微塵も考えたことはなかった。

 ただ、どこまでいっても心には虚無しかなかった。

 だから、復讐心ではなく、彼は心を取り戻すために施設の買収を計画した。そのころには資金はもう充分すぎるほどあった。だが、ちょうどそのころ、施設は職員の内部告発によって、長年の非道な経営実態が明るみになった。経営者である会長は逮捕され、施設も驚くほどあっさりと消滅した。

 彼の中には復讐心など無かったはずだった。だのに、そのニュースを聞いて、彼は生まれて初めての敗北感に襲われた。理由は自分でも解らなかった。敗北感なのかどうかさえ上手く理解できなかった。はっきりと感じたのは、彼にも心が存在し、風も吹くし、波も立つという事実だった。

 青年の中身はぜんぶ無だった。幻ですらない真っ白な無だった。

 青年は挫折などという言葉では生ぬるいほど打ちのめされ、理由なく殺された感覚に包まれた。

 青年は全ての財産を、施設の消滅によって投げ出されてしまった孤児たちに寄付し、人生を辞めた。

 自殺しても良かった。だけど自殺する気分にもなれなかった。青年はもうすでに死んでいた。二度死ぬこともないだろう。ほっといても時期寿命はくる。青年は生きることを選んだ。生を選んだというよりは、勝手に心臓が動いているだけの話だった。


 その後青年は、小さなスーパーの総菜串カツ売り場の雇われ店長になった。職種はなんでも良かった。たまたま目にした求人広告の電話番号にそのまま電話をしただけだった。本当はもうホームレスになって、野たれ死んでも良かったのだが、家のない人間の窮屈さは充分知っていた。むしろホームレスの方が世間から干渉されてしまう。生きている以上は煩わしい事象には巻き込まれたくなかった。これまで散々、たくさんの人間を自分の人生の肥料に使って、家畜のように扱ってきたくせに、青年の邪悪は無を知ったあともその歪さはそのままだった。決して自暴自棄になって、通り魔をするような人間ではなかった。静かに暮らすために人を殺して来た青年は、全部を失っても、やはり生きている間は静かに暮らしたいと考えた。

 新しい職場では、雇われ店長とはいえ、仕事はきっちりとこなした。その姿は誰が見ても好青年にしか映らなかった。本当にきっちりと、青年はその人間を演じてみせた。なにも演じる必要などないのに。油はラードとサラダ油を一対一で配合して…なんて、心にもないこだわりをまわりに見せつけて、でも本当の心はずっと無なのだ。みーちゃんが現れるまでは、青年は嘘で固めた毎日を過ごしていた。

 みーちゃんの出現によって齎された青年の変化は、別にみーちゃんの性格や見た目によるものではなかった。もっと根本的な、血脈に絡みつく問題が発生したのだった。


 あの一枚の手紙。


 差出人はみーちゃんの母親だった。青年とみーちゃんの母親にはなんの接点もない。接点があったのは父親の方だった。みーちゃんのかつての父親は青年を幼少のころ捨てていた。正確に言うと、捨てたのは父親の先妻であった。みーちゃんの母親は青年の実の母親と別れたあとに、父が再婚した相手だった。だからみーちゃんの母親にはなんの責任もない。ただし青年のことは知っていた。どう言うふうに伝えられたのかは青年の知るところではなかったが、手紙には「あなたの本当の父親を知っています。縁とは不思議なもので、今はあなたの父親と私は再婚し、これも偶然ですが、今度そちらのお店でお世話になる子は、あなたとは血は繋がっていませんが、あなたの父親と私との間に産まれた子どもです。どう言っていいかわかりませんが、とにかく弱い子なのでよろしくお願いします」と書かれてあった。


 本当に今更こんな手紙を寄こされてもどうしていいものやら。青年は自分がまだ天涯孤独の身でなかった事実を唐突に知らされ、知らされた以上はなんらかのリアクションをとらねばならぬ現状を心底面倒だと思った。嬉しさなど微塵もない。疑問も山積みだ。

 なぜ実の父親でなく、再婚相手の女が手紙をよこしたのか?みーちゃんをよろしくと言われたところで自分にはなんの関係もない。他のパートと同じ対応をするだけだ。

 この奇妙な手紙が頭に引っ掛かって、何日間か寝られない日が続いた。だいたい青年は父親の顔すらうっすらとしか思い出せなかった。物心つく前に父は母を捨てて家を出ていた。その後、すぐに母は頭がおかしくなって、殺虫剤を3缶飲んで泡を吹いて死んだ。青年は施設に入れられ、そこの職員を殺し施設を脱走した。本来ならもうその時点で、青年と社会との接点は、まして家族との接点はぷっつりと途切れたはずだった。

 そもそもなぜ自分がここで働いていることを知っている?実の父親は俺のその後を知っていたのだろうか?青年は恐怖心すら抱いた。事を荒立てたくない気持ちに変わりはない。とりあえず様子を見ることにして、腹違いの妹であるみーちゃんを、あくまで普通を装い招き入れた。バイト不採用にする選択肢だってあったのに、それが出来なかったのは、青年もまた冷静さを失っていたからだ。

 自分を虐待した施設には復讐心はわかなかったのに、実の父がまだ生きていた事実を知ってから、どういう訳だか父親に対する譬えようもない怒りの心が黒い鉄球になって心を支配するようになった。


「ペイン。どうする?どうしてやろう?どれが正しいと思う?」


 施設で燃やされたはずのボロ雑巾で作られた人形のペインは、青年が心が無だと気づいた日、寝室のクローゼットの中からノソリと出てきた。生まれ変わったペインには命が宿っていた。姿は、ボロ雑巾を連想させる薄汚れた灰色の布で覆われていたが、大きさは人の子どもほどあり、自分の意志で動けた。首の部分が荷造り用のビニール紐で結えてあって、てるてる坊主のようにまん丸い頭部があった。ツギハギだらけの頭部だ。布で出来ているはずなのに、口だけはケモノの口を持ち、長い牙からは常に黒いヨダレのような液体が流れていて、胸元に大きなシミを作っていた。脚はなく、ボロ布を揺らしながらわずかに宙に浮かんでいた。目はない。顔の部分はツギハギの模様で、なんとなく顔に見えているだけだった。

 この奇っ怪な姿を青年はまったく怖がらなかった。それはそうだ。ペインを創った本人がその青年なのだから。でも、青年もペインの産まれた理由や、その正体は知らなかった。自分だけが見ている幻影だろうと青年はペインの存在を結論づけた。

 

こいつだけは自分を裏切らない。こいつは唯一の友達。


ペインは部屋から出ることはなく、青年の部屋のクローゼットで一日のほとんどを過ごした。青年が寝る前の短い時間だけ、クローゼットから姿を現すのだった。


ペインの存在について、私は多くは語らないでおこう。語る必要もないだろう。青年が無なら、またペインも無だから。無を語り記す道理は私には無い。

 今伝えていることはすべてみーちゃんに繋がる事象であって、青年の事象はどうでもいいことだ。


 バイトシフトの最後の頼みを聞いてやっているのだ。みーちゃんと店長との関係を。訊かないほうがいいと忠告してやったが、聞かないことには死んでも死にきれないとバイトシフトが言うので、私は渋々、この青年、つまりはみーちゃんのバイト先の店長の過去について語っている。まぁしかし、こいつの存在も少なからずみーちゃんの今後を左右する存在であることには違いないのだから、バイトシフトが結果、落胆し絶望し消滅していくことになるとしても、ここで語る価値はまったく皆無というわけでもないようだし、もう少しだけ青年の物語を語ることにしよう。


 青年はみーちゃんに対してごく普通の大人として接した。どこにでもいるサラリーマンの大人だ。そのイメージは青年が勝手に思い描いた物で、本当に正解ではないのかもしれないが、それほど世間一般の大人のイメージとも掛け離れてはいないと言えた。みーちゃんにとってはなんの興味もない話で、別に店長が一般的な大人だろうが、全身タトゥーをいれた鼻ピアスのパンクスだろうが、バイト先の上司である以上は目上の人間に対する反応は一緒だった。そもそも反応すらない。無関心だった。変に意識していたのは青年だけだ。みーちゃんは、自分が義理の兄である事実を知っているのだろうか?その事だけがずっと気になってしょうがなかった。

 だが、もしそれを訊いたところでどうなるというのか。完全な兄妹ならまた話は別だが、結局は赤の他人なのだ。変に優しくする必要もないし、逆に厳しくする必要もなかった。いちバイト店員として接していればいいだけの話だ。

 そんなことくらいは青年も頭では理解していた。これまで人を殺しても動かなかった精神が、なぜかみーちゃんに対してだけは激しく揺さぶられるのだ。これが理解できなかった。みーちゃんのどこに己の心の琴線に触れる部分があるのだろうか?

 優しい上司を装ったまま、食事に誘ってみたりもした。最初はあえて無関心を決め込んでいたのがだんだん我慢できなくなってきたのだ。

 みーちゃんは動かない。定時働いて、お給料を貰い、それで終わりだった。こちらが偽物の皮を被っているままではみーちゃんは心を開いてくれないのだろう。青年は、みーちゃんが元々人間すべてを避けて生きていることを知らなかった。もちろん人付き合いの苦手な娘であることは、母親の手紙から知っていた。それは自分だって同じだ。根本的に、みーちゃんが心を捨ててしまっていた事実を理解していなかった。青年は心を捨てたわけではない。元々心など自分の中に存在してなかったと気づいたのだ。覚悟の上で心を捨て去ったみーちゃんを理解できるわけもなかった。


 ある日、青年は強硬手段に出た。


 俺はおまえの義理の兄らしい。でもそれは気にしなくていい。俺が興味あるのはみーちゃんの心だ。その心を掻き乱してみたい。グチャグチャのドロドロに傷つけてみたい。

 理屈は、好きな女の子に悪戯してしまう小学生の男子と変わらなかった。見た目や仕草は大人のふりをしていたが、青年にはいろいろと人として大事な部分が欠落していた。

 みーちゃんのどこに己の精神が呼応したのかただただ知りたかっただけだ。その手段がビチクソだっただけだ。

 女の心を掻き乱す手段は、女の体を破壊することだと、青年は歪な価値観に縛られていた。なにか問題があっても逮捕されない自信があった。みーちゃんはなにをされても誰かに打ち明けたり、まして警察に駆け込むようなことはしないだろうと、みーちゃんと働いた時間の中で、青年は確信していた。


 青年が悪魔に変わる瞬間を見たのはバイトシフトだけだ。正確にはバイトシフトも行為の物音しか聞いていない。一部始終を実際に見ていたのは私、オモヒカネだけだ。私はみーちゃんの意識でしかないので、助けるどころか青年に触ることすらできなかった。

 みーちゃんが高校のころ体育倉庫で犯された時も私は見ているだけだった。もっと昔、みーちゃんの父親、つまりは青年の父親でもあるあの男が死んだ時だって、私はじっと見ていた。

 みーちゃんの心が崩れていく音を聴いた。いつの日か、この子には世界を変える力が宿る。私はその日までずっと待つしかなかった。


 青年の所業の果てに、みーちゃんはついに力に目覚めた。


 みーちゃんはすぐにバイトを辞め、青年の心には虚しさだけが残った。心のない人間に虚無が訪れるのも変な話だが、実際そうだったのだから人間はつくづく複雑な生き物だと思う。

 脳はただの電気信号を伝達するだけの部位ではないのだと、私も知った。


 青年は今も変わらず惣菜串カツ屋の雇われ店長をしている。ちゃんとラードとサラダ油の配合も一対一の比率を守っている。

 パートの年上の奥さんと普通に体の関係も持った。たまには従業員を連れてカラオケに行ったりもしている。おっと、青年のことはこのへんにしておこう。


 青年は、時期に青年では無くなるだろう。青年からさらに大人になるという意味ではない。青年は人間じゃなくなるのだ。

 青年の唯一の友達であるボロ人形の「ペイン」が、青年を変えてしまうのも時間の問題だ。

 またその時に、この話の続きは伝えることにしよう。


 どうだい?バイトシフト。すっかり絶望したかな。


 私はアトモスフィアとなったバイトシフトに問うてみたが、バイトシフトはすでに生命を失っていた。絶望から失ったのか、それとも自然と力が尽きたのか、それは私にも分からなかった。


 みーちゃんにはバイトシフトの代わりになる新しい力を授けたほうがいいかもしれない。しかし時期が来れば自然と新しい生命が宿るだろうと、私はしばらくはほっておくことにした。

 世界がおそろしい早さで姿を変えていくように、みーちゃんもまた変化の時期なのだ。黒い舟はやがて出航するだろう。

 希望の舟などもはや存在しない。それだって本当はみーちゃん自身が決めたことだ。本人に自覚がないだけで、もうすぐ立派な黒い舟は完成しようとしていた。刻の穴に向かって舟は進むだろう。孤独な戦いになる。私はなにも手伝えない。相変わらずただその事象を記し、伝えるだけだ。こんな自分を時々呪いたくなる。

 この世界はみーちゃんの物だ。それが奪われた時、すべては終わる。希望も絶望も無を超えることはできない。


 もしかしたら青年の友達である「ペイン」は知っているのかもしれない。どうも私と同じ存在である気がする。いつか近いうちに逢うかもしれない。

 みーちゃん以外の人間を語るのは苦手だ。本当にこのへんにしておこう。深い溝を無理に埋める必要はないのだ。

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