第6症 虹の歌



 油の霊など聞いたことがありますか?私はありません。そもそも油が意識を持っている状態が自分自身でも理解できてないし、この私の意識はどこに存在しているものなのでしょうか?そして、死は私からなにを奪ったのでしょうか?

 不思議な感覚ですが、私にはまだ意識があります。みーちゃんの側で生命を宿してからずいぶん時間が経ち、私も生命について考えることが多くなりました。同時に死についても考えるようになりました。人間の優しさを知りました。人間の邪悪を知りました。世界の広さを知りました。宇宙の儚さを知りました。私はどんなに生命をこの身に宿したとしても絶対に人間にはなれません。水と油が同じ液体であるのに決して交ることができないように、私はみーちゃんのすごく近くで過ごしたのに、終ぞみーちゃんを理解できませんでした。ただ、自分の与えられた役目を全うしただけです。

 私はみーちゃんにとっては一番わがままな仲間だったことでしょう。仲間とも思われてなかったかもしれません。能力の一部でしかなかった。思えば、私は他の仲間と違い、みーちゃんと話したことは一度もありませんでした。いつも私の一方的な片思いでした。あのクマのように、みーちゃんの体を汚さない身体を持っていたなら、もっと積極的にみーちゃんに近づけたかなぁ。ダメだ。私はみーちゃんが好きだ。誰よりも、ずっとみーちゃんが好きだ。

 すぐ私で火傷するドンくさいみーちゃんが好きだった。

 怒りっぽいみーちゃんが好きだった。

 戦っている時のみーちゃんが好きだった。

 なにより、私の身体で串カツを揚げてくれている時のみーちゃんが一番好きだった。

 みーちゃんへの想いはいくらでも溢れだしてきます。もう私は死んだはずなのに。いやむしろ死んでからの方が、みーちゃんに対する想いは大きくなっていきました。

 それを「後悔」だと知ったのは、ずっとみーちゃんの一番近くにいながら一番遠い存在だったオモヒカネさんが私に教えてくれたからです。私は死んでから初めてオモヒカネさんに逢えました。

 存在は、クマから聞いていました。

 みーちゃんの一番近くで、この世界や事象を記録している存在がいると。私は油なので、目に見えない事実を信じるも信じないもありません。「ああそうなんだ」くらいの認識で、特別な事とも思いませんでした。

 実際にこうしてオモヒカネさんに逢って、やっとみーちゃんの置かれている立場を知りました。オモヒカネさんの存在の重要さを知りました。

 みーちゃんはもう私を認識する事はありません。もしかしたら、再び魔王が新しい油の能力をみーちゃんに授けるかもしれません。でも、みーちゃんの過去を知る油は私しかいません。


 この意識はいつ途切れるのか自分自身でも分からないので、意識が宙を舞っている間に、私の知っているみーちゃんの過去を話します。オモヒカネさんがそうしろと言うし、私自身もそうしたいから。


 それ以前のみーちゃんを私は知らないので、みーちゃんが初めてバイトに来た日から話します。

 バイト初日。みーちゃんはいきなりスタッフ用の男女兼用トイレに駆け込んで吐いた。緊張で体調を崩す人はこれまでも何人かいて、その光景はさほど不思議ではなかった。きっとみーちゃんも緊張していたのだろうと、最初は私もそんなに気にはしていなかった。

 驚いたのは、店長がすごくみーちゃんを心配して、その日はそのまま帰してしまったのだ。いつもの店長ならそんな気遣いはしなかった。暫く休ませたら、きっちり仕事を教えて、きっちり時間まで働かせていた。みーちゃんの初日は、ただトイレで胃の中の物を吐き出して、家に帰っただけだ。

 職場は、スーパーの中にテナントで入っている小さな惣菜串カツの店だった。作業場もそれほど大きくなくて、シフト制ではあったが、つねに二人体勢の勤務だった。アルバイトが仕事を覚えるまでは、いつも店長とアルバイトの二人だけの職場だ。

 本当は、店長は他のパートの人よりも三倍は早く動けるので、一人きりでも充分仕事の対応はできていた。経理の仕事とか、他の作業があるので普段は他のパートの人が二人体勢で店を回していた。

 みーちゃんが帰ったその日は、店長は何事もなかったかのように、一人で閉店まで仕事をこなした。

 私の身体で串カツを揚げて、レジも袋詰めも一人でやった。

「あの子きっと今日一日でクビね」そう私は串カツから水分を飛ばしながら考えていた。

 でも、二日後みーちゃんはまた職場にやって来た。今度は初日とは違い、エプロンの下に可愛い水色のボーダーのニーソを履いていた。初日は膝のところが破れたジーンズとTシャツ姿だった。

 靴も、私の見た事のない、長いガーゼヒモのついた、ソールが十センチほどもあるヒラヒラの飾りのついた赤い靴を履いていた。

 流石にその靴では仕事にならないからと、店長にバイト用の白いデッキシューズを渡されて、みーちゃんは休憩室のパイプ椅子に座って苦労しながらその複雑な造形の靴をぬいで、地味なデッキシューズに履き替えた。エプロンは店から支給された、串カツ屋のロゴが入ったダサいエプロンだったが、みーちゃんは勝手にエプロンに大きな骸骨の缶バッチを付けていた。

 店長はそのバッチに関してはなにも言わなかった。

 黙々と、レジの使い方をみーちゃんに教えていた。

 その日は、ひたすらレジ打ちを覚えるだけで一日が終わった。私はただ「変わった子が入ったなぁ」くらいにしか思ってなかった。

 次の日も、みーちゃんはちゃんと時間通りに店に来た。その日もレジ打ちで終わった。他のパートの人なら、だいたいレジ打ちの作業は二日もすれば終わって、今度は串揚げ作業を覚える工程にうつるはずだった。みーちゃんは、あくる日もまたあくる日もレジ打ちだけをしていた。その間、みーちゃんは一言も話さなかった。店長もなにも注意はしない。一応、お客様が来た時だけ、聞こえないくらいの小さな声で「いらっしゃいませ」とは言っていたようだけど、みーちゃんの口がそう動いていただけで、やはり声は出ていないようだった。店長は叱らなかった。

 レジ打ちの仕事はおよそ一週間続き、みーちゃんはまたしばらく店に来なくなった。私はやっぱりクビになったのだと確信した。


 来なくなってから数日が経ったある日、みーちゃんは今度は両耳に大きなドクロのピアスをして現れた。付けまつげと、濃いアイライナーで、目元は倍ほど大きく見え、目の玉の色も以前と変わっていた。私はカラーコンタクトという物の存在を知らなかったのだ。もちろん勤務中の派手な装飾品や化粧は禁止されていた。

 やはり店長はなにも言わなかった。幸い、みーちゃんの来る日は、他のパートの人は休みで、店は店長と二人きりだったので、店長さえOKなら、みーちゃんの奇抜で派手な格好を侮蔑する者は周りにいなかった。店のエプロンさえ付けていれば問題ないようだった。

 このころやっと私はみーちゃんの名前を知った。店長が、みーちゃんと呼んでいたのを聞いた。これも今思えば不思議だ。店長は職場の人間を名前で呼んだりはしない。他のパートさんはすべて、苗字でさんづけで呼んでいた。なぜかみーちゃんだけは、みーちゃんと呼ばれていた。かといって、なにか特別な好意があるような雰囲気でもなかった。店長はいつものように淡々と仕事をこなし、普通の口調で、みーちゃんをみーちゃんと呼んでいた。

 みーちゃんも、当たり前のようにそう呼ばれることを受け入れていた。仕事中は二人ともずっと無表情なのにだ。


 二人に少しだけ変化が見られるようになったのは、みーちゃんが私の身体で串カツを揚げるようになってからだった。

 

私は不機嫌だった。私の身体は串カツを揚げる適温には到達してなくて、そこに放り混まれた豚カツはブスブスと鈍い泡を立てて沈んでいった。パン粉に私は浸み込んでいって、豚汁の生臭さで死にたくなった。最終的にはみーちゃんがその店で一番私を使いこなし、一番美味しい串カツを作れるようになったのだけれど、最初のころはずっとこんなだった。店長は、みーちゃんを厳しく叱るでもなく無言でフライヤーの火力を上げるのだった。


 ごめん。ありがと。


 みーちゃんが言った。

 私は人間社会のことには疎くて、初めはそこまで気にはしていなかった。でも、何度かみーちゃんと店長のやりとりを聴いているうちに、他のパートの人とは違う二人の距離感に気づいた。

 普通バイトの子が、歳もずいぶん上の店長に向かって「ごめん。ありがと」などとは言わない。

 私はこの子は頭がおかしいのかと思った。でも、店長もそのやり取りが当たり前のように「うん」とか「温度上げたから大丈夫」とかそんな返答で、決してみーちゃんに対して叱責するような言動はなかった。


 お疲れ様。

 お疲れ様でした。


 これだけが唯一、二人が交わす社会的であり業務的な会話だった。


 ただ、みーちゃんがバイトを始めて半年ほど経って、私の身体の使い方もずいぶん上達したころから、店長がやたら慣れ慣れしくみーちゃんに言い寄るようになった。

 私は勘違いしていた。てっきり二人は最初から恋中にあって、付き合っているもとだと思っていたのだ。だから二人の会話が他の従業員と違っているのもそのせいだと、油のくせに勝手に推理していた。疑っていたのは私だけではなく、他のパートさんも頻繁に無断欠勤するみーちゃんをなぜクビにしないのかと訝しがっていた。これはなにか店長と只ならぬ仲に違いないと考えるのは当たり前だ。

 

 今夜これからご飯でもどう?

 いやすいません。用があるもので。


 今夜は暇?カラオケのタダ券あるんだけど。

 ちょっと風邪ぎみで、うつすといけないから帰ります。


 雨が降ってるみたいだね。車で送ろうか?

 大丈夫です。レインコート持ってきたんで。


 たしか誕生日だったね。なにか奢ろうか?

 母がケーキ用意して待ってるんで急がないと。


 こんなやりとりが頻繁に続くようになった。一度もみーちゃんは店長の誘いを受けなかった。最初は自然(?)だった二人の会話が、みーちゃんがバイトに慣れるほどに余所余所しくなっていった。油の私には理由がよくわからないのだけど、どうもみーちゃんは店長を避けているようだった。店長もそのくらい分かりそうなものだと思うのだが、なぜか月に一度か二度は必ずみーちゃんを誘っていた。

 私には店長の行動がどこか義務的に感じられた。断られるのを分かっていて誘っているんじゃないのかとさえ思えた。


 みーちゃんはますます無口になって、無断欠勤も増えていった。それでも辞めることはなく、何事もなかったかのように定時通りにやってきては、また黙々と串揚げ作業にかかるのだった。

 みーちゃんは本当に揚げるのが上手くなった。私は人間関係のあれこれなどには正直そこまで関心はなくて、おかしな二人だなぁ思うくらいで、パートのおば様達のようにそれ以上は詮索しなかった。所詮ただのサラダ油とクソラードとの混合油の私なので、詮索もなにもそれ以上のやりようがなかっただけだったのだが。

 私が出来るのは二人の会話を聴くことくらい。串カツを揚げている間は、私だってそのための存在なのだから、揚げる事に全身を集中させなければならなかった。

 白いパン粉に包まれた串カツがやがてきつね色のサクサクの姿に変化していく過程は、私自身命を削る作業であり、生きている証しだった。黒く変色し、揚げる力が弱まっていっても、みーちゃんは上手く温度調節して、串カツを美味しそうに揚げてくれた。

 最初のころのクタクタのビチクソでなく、黄金の串カツにしてくれた。私はそれが嬉しくて、もう店長との関係などどうでもよくなっていた。この子は私を一番よく知ってくれている。いつの間にか、私はみーちゃんを好きになっていた。

 油の初恋話など、誰が好んで聞くのだろうか。バカバカしいと自分でもわかっているが、これは事実なのだ。油だって恋はする。どういうわけか、私の人格は「人間」で言えば女性の人格に近い。油に性別が存在するなんて自分でも不思議に思うのだけど、なぜか最初から女だった。もしかしたら男の油も存在していて、私がたまたま女として生まれたのかもしれない。それを確かめる術を知らないのでこのことは考えてもしかたがない。ただ、みーちゃんが女の子である事実は変わらない。人間の世界では異性に恋をするのが当たり前のようらしい。もともと私は油なので、たまたま人格が女性であったとしても、同姓に恋することになんら抵抗はなかった。抵抗と言えば、油が人に恋することの方がよっぽど壁は高かった。こんな気持ちに油がなる事が不思議でしょうがなかった。

 だけど、この気持ちははっきりと恋と言っていいと思うのだ。

 みーちゃんがいない日はいくら火力を強にしてもなかなか温度は上がってくれなかった。すぐに身体が黒ずんだ。みーちゃんが来てくれた日は、張り切り過ぎて身体を飛び散らしてしまい、すぐにみーちゃんを火傷させてしまった。私は嬉しかっただけなのに、みーちゃんに火傷をさせてしまった日は火が消されたあとも朝までずっと反省していた。フライヤーの底に沈んだパン粉のカスが忌忌しくて、やつ当たりばかりしてしまった。パン粉に責任はない。私が悪いのだ。みーちゃんは(当たり前の話だが)油の気持ちなど気づくわけもなく、いつも憂鬱な表情で黙々と作業をしていた。

 そんな気配も感じ取れず図々しくみーちゃんを誘い続ける店長がだんだん許せなくなってきた。


 そして事件は起きた。店長は休憩室でみーちゃんを襲おうとしたのだ。作業場にいた私はその状況をはっきりとは見えなかった。

 みーちゃんの激しく抵抗する声と、店長の情けない涙声。

 なぜ店長は涙声だったのだろう?だけどそんな些細な事は関係ない。みーちゃんが嫌がっていたのは明白だった。

 次にみーちゃんの姿を見た時は、みーちゃんの服は汚されていた。この世で一番汚い物で汚されていた。みーちゃんは無表情に戻って、残りの作業をこなし、無言で帰って行った。

 あれからしばらくして、みーちゃんはバイトを辞めた。原因ははっきりしていた。ぜんぶ店長のせいだ。最期まで店長とみーちゃんの関係を知ることはできなかったけど、私はあいつをぜったいに許せない。出来る事なら私は事象ではなくあいつを焼き殺したかった。

 その後、私はなにかの力に導かれるようにみーちゃんの一部となって共に戦う運命を辿った。

 みーちゃんと戦っている間は、ずっと幸せだった。役に立てたのかどうかはわからない。ただ一生懸命戦った。元々命などない存在だった私がみーちゃんの手足になって行動できたのだ。これは奇跡のなにものでもない。

 唯一心残りなのはあの店長を殺せなかったことだけ…。

 みーちゃんが店長を許そうが許すまいが私には関係ない。私の意志であいつを屠りたかった。そういう意味では、みーちゃんは最後まで私に心を開いてくれなかった。クマのようになんでも話す仲ではなかった。私は一方通行でみーちゃんを見ていただけだ。

 みーちゃんを私はなにも知らない。

 みーちゃんは私のすべてを知ってくれていたというのに。

 所詮、私はただの油だ。水には成れない油だ。こんなに苦しいのなら神様は私に愛など与えてくださらなければよかった。テラテラと虹色に光る液体のまま、一生などという人間に似た人生を与えられぬまま、物として破棄されたかった。愛も恋も油には必要ない。同時に憎しみや後悔も油には必要ない。

 私は美味しい串カツを揚げているだけの存在であるべきだった。それでも、今こうやってどこかを漂い続けながら、尚も意識が存在している状況を、どこか甘美に想っている自分もいることは確かだ。私はいったいなんなんだろう?

 みーちゃんの持つ痛みをもう少しだけ共有できたなら、きっと違う感情も湧いたのかもしれない。もし生まれ変われるのなら、今度はもう少しだけみーちゃんの近くに行きたいなぁ。

 一緒にカラオケでも行ってみたい。カラオケがどういう物かよく知らないのだけど、歌を唄う場所らしい。

 みーちゃんと一緒に歌を唄えたらきっと楽しいだろうな。


 みーちゃん。大好きだったよ。火傷させてごめんなさい。

 みーちゃん。こんな私に名前を付けてくれて感謝してるよ。


 バイトシフト。きっと良い意味なんだよね?


 一度だけ、一度だけみーちゃんと手を繋ぎたかったな。


 さて、私はこれからどこに行くんだろう?あの店だけはもう嫌だよ。みーちゃんのいない串カツ屋なんてビチクソだ。


 さようならみーちゃん。ありがとう。愛してる。

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