第3症 綿の咆哮と憂鬱園地

 建物が潰れている。誰も住まなくなった廃墟が、自然と朽ち果てたのではない。地震や火事で消失したのでもない。ぺしゃんこなのだ。田舎道で、何度も車にプレスされ、原型を留めないほどに、煎餅状態に地面にへばりついたカエルの死骸のように、なにかとてつもない力で、天空から押し潰されていた。

 巨人が歩いた痕だろうか?だが、その建物の周りに、足跡らしきものはない。建物だけが、目に見えない圧力でプレスされ、見事にカエルの煎餅状態に潰されていた。

 居住者がいたのかどうかは、もう分からない。崩れたブロック塀の残骸と、何本かの鉄骨が、建物の墓標のように、地上から飛び出していた。何階建てだったのか、もはやぺしゃんこになった今の状態からでは想像できない。おそらく平屋ではないだろう。二階建てでもないかもしれない。屋根がないのだ。一番てっぺんは、屋上になっていたのか、ひび割れたコンクリの破片しか見当たらない。

 数階建てのマンションだったのかもしれない。やはりどう見ても、下から崩れ落ちたというより、天空から、凄まじい圧力を喰らったように見える。建物の周り数メートルの地面も、そこだけ1メートルほど陥没している。風が吹くと、砂埃が舞う。



 みーちゃんは、ドクロの刺繍のしてある肩掛けカバンから、医療用の立体型マスクを取り出して、小さな顔に装着した。サイズが合ってなくて、耳と口までの間に隙間ができる。すぐにずれ落ちてきてしまう。今日も、みーちゃんは機嫌があまりよろしくない。同じくカバンから、アイドルがこれ見よがしにかけるような、フレームの色が派手な、巨大なサングラスを、顔に掛けた。おしゃれのためというわけではない。作業用ゴーグルは、ほっぺに痕が残るから、埃から目を守るのは、この巨大アイドルサングラスが一番合っているのだ。高級な物ではなく、おしゃれ三百円均一雑貨ショップで、ついその日のテンションで購入した物だった。

 まさかこんな本格的な使い方をするとは、みーちゃんも考えていなかった。


 こんな芸能人のお忍びデートみたいな格好で、なんで私はこんな世紀末な場所に立っているのだろう。いや、仕事だからしょうがないけど、でも今日は、本当なら、新しく通販で買ったガーゼ生地の白いワンピに黒のブラウスを併せて、久しぶりにオーソドックスな黒いオーバー二ーソを履いて、バーゲンで買って、あまり使わないままだったエナメル生地のぺったんこパンプスを履いて、貸切りの遊園地に行くはずだったのだ。

 これも成果報酬のひとつで、このボーナスのために、一昨日、紫のキリンの首を、命がけでへし折ったのに。正直、あそこまで手強いとは聞かされていなかった。政府のエージェントも嘘の情報をみーちゃんに伝えたわけではなかった。単にデータが存在してなかった。未知の敵だった。

 未知であったので、そいつがどんな事象を引き起こすのか、政府も知らなかった。名前も無い。エージェントは、タイプGと言っていた。みーちゃんにとって、相手がタイプなんだろうと、はっきり言って興味はない。

 報酬は、現金プラス、遊園地貸切り。しかもナイターで。その条件だけをモチベーションに、触るのも嫌な、得体の知れない紫色のキリン(のようなものと言ったほうがいいだろう)を一人で倒した。


 一応、政府から援護のために特殊部隊が配置されたが、すでに現場に結界が張られていて、運悪く部隊員たちは結界の中に入ってしまったせいで、あっという間もなく全滅した。


 私のせいじゃないからね。だから付いてこなくていいって言ったのにと、一昨日の一件の時も、みーちゃんはご機嫌斜めだった。人間の死に対して感覚が麻痺していることはみーちゃん自身もすでに自覚していた。

 なんかいつの間にか、どんどんまわりの大人は死んでいってしまう。もう目の前で人間が消滅し、或いは中身を抜かれて皮だけになってしまっても、以前のようにショックは受けない。まったくの無感情というわけではないが、いちいち心を痛めても、死んだ人間は元には戻らないとみーちゃんは悟ってしまった。

 今はただ、自分の邪魔だけはしないでと思うだけになった。


 一昨日の紫のキリンのような物は、案外あっけなく倒れてくれた。だって弱点が見え見えなんだから。もしかしたら、首が折れた瞬間、そこから無数の触手が生えてきて、体を縛り上げるかもしれない。みーちゃんは、用心深く、そいつから距離をとり、ドクロのカバンから、自分の分身であるクマのダ二朗を取り出して、キリンに向かわせた。ダニ朗はカバンから出るとすぐ、五メートルほどに巨大化して、そいつに突進していった。一撃だった。

 キリンのような物は、ベキッという骨の折れた音がして、そのまま地面に倒れた。予想外だったのは、思っていたよりも首が長かったのだ。みーちゃんは危うく、そいつの頭に押し潰されそうになった。間一髪、ダ二朗が、そのモコモコの体で、みーちゃんをガードした。ダ二朗は体に穴があき、真っ白の綿がボトボトと地面に落ちた。


 モコちゃんすぐ縫ってあげるからね。ごめんね。 


 みーちゃんはそう言って、小さくなったクマをカバンにしまった。

 クマのダ二朗は、みーちゃんの約束通り、その夜のうちに、新しい綿を入れてもらい、ピンク色の糸で塗ってもらえた。クマは嬉しくて、みーちゃんの夢の中で三回もダンスを踊った。



連投はNGってことになってるでしょ?



 やはりみーちゃんは不機嫌だ。ボクは、みーちゃんの力になれてぜんぜん不満もないし、少しぐらい綿が出てもすぐにみーちゃんが治してくれるし、それに、新しい色の糸で縫われるたびになんだか強くなっていくような気がして、連戦でもぜんぜん文句はないよ。

 みーちゃんから愛されていることもよく分かってるよ。少し前に愛って感情を知ったのは、ボクがみーちゃんを愛しているって気づいたから。愛は相互関係でもって成り立っているんだよね?みーちゃんが、普段はボクのことを「モコちゃん」て呼ぶのに、戦いの時だけは「ダ二朗」って酷い名前で呼ぶ気持ちだって分かってるんだ。もし、戦いでボクが傷ついて再生不能にまでボロボロになっちゃったら、つまりはボクが死んじゃったら、みーちゃんはまた心に穴があいちゃうから、だからなるべく戦闘中は感情が動かないように、ボクに「ダ二朗」なんてクソみたいな名前を付けて呼んでるんだよね?普段部屋で二人の時はぜったいに「モコちゃん」て呼んでくれるもんね。

 それが愛だとボクは感じているよ。オモイカネさんに向けている「信頼」という愛とはちょっと違う、たぶん「可愛い」って言う愛。でも愛には違いはないもんね。今日もボクが「ダ二朗」として、みーちゃんに滅私奉公の覚悟で使われるんだ(滅私奉公て難しい言葉は、政府の人がよく言ってたから覚えたんだ。ようするに命かけて頑張れってことでしょ?)

 みーちゃんは無言で、ボクを連れて部屋を出た。カバンの中で、よく分からなかったけど、たぶん、みーちゃんが「政府の人」って言ってる人間の車に乗ったのだろう。バタンと、ドアの閉まる音がしてすぐに、ブロロロロと機械の音がして、ボクの入っているカバンが上下左右に動きだした。みーちゃんは不機嫌だけど、ボクは少しだけワクワクしてるんだ。だって、あいつらと戦う時だけ、ボクは家の外に出られるから。みーちゃんの夢の中も、外は外だけど、あそこはいつも湿気でジメジメしててあまり好きじゃない。人間の住む世界の方が、最近じゃ好きになってきた。

 そのことをみーちゃんに話しても、みーちゃんは、人間の世界なんてビチクソよと言う。ボクが珍し物好きだからかな?ボクは、たくさんの人が別々のことを考えながら、走り回ってる光景は好きなんだけどな。たまに、血を流して倒れている子どもに寄り添って、泣き叫んでいるお母さんなんかを見ると心がゾクゾクするんだ。人間が死ぬのが面白いわけじゃないよ。掻き乱れた心を見るのが好きなんだ。ボクもああいう感情がいつか宿るのかなと思うと、それだけで泣きそうなくらいゾクゾクする。

 みーちゃんは、モコちゃんは変わってるわねと言うけど、心の無かった物から言わせてもらえば、新しい感情は、みーちゃんがいろいろな二ーソを集めているのと同じで、いくらでもコレクションしたくなるんだ。人が死んだ時の感情なんてどれも同じでしょ?と、みーちゃんはしつこく訊いてくる。だけど違うんだ。誰一人として同じ感情を持ってはいないよ。みーちゃんだって、ぱっと見は、ほとんど違いのない黒二ーソを何十足も持ってるじゃない。赤と白のボーダー二ーソだって、ほんの少し長さが違うからと五足も買ってたことボクは知ってるよ。感情のコレクションは、それこそ無限にあるんだ。人間がこの世に生きているかぎりはね。だからボクは、その人間たちを滅ぼそうとしているあいつらの意味がわからないし、憎いんだ。

 連戦もへっちゃらだよ。みーちゃんの仕事を増やしてしまうのだけが申し訳ないけど。なるべく破れないように戦うから許してね。

(みーちゃんには内緒だけど、ホントは少しだけ破れて新しい糸で塗ってもらいたいけどね。今度は光沢のある青の糸がいいな)



いそいで終わらせたらナイターに間に合うよね。


 みーちゃんは担当者のエージェントに訊く。エージェントは、呆れた様子で、ため息を吐く。ちっとみーちゃんはわざと大きく聞こえるように、舌打ちをする。


「すいません。今回もデータがありません。最近は新しい事象が発生しているようです」


 いよいよこの世の終わりね。と、みーちゃんは心で思う。


 眼前に広がる煎餅ビルディングは、エージェントの情報では、元は八階建てのマンションだったらしい。住人の安否は不明であるが、おそらく中にいた人も煎餅になっているだろう。よく見ると、コンクリの破片に、真っ赤な肉片のようなものがこびりついていた。マンションの住人だろうか?それとも通行人が巻き込まれたか?

 みーちゃんは、肉片らしきものが目に入っても、眉ひとつ動かさない。感情の乱れが、自分を危険にさらすことをすでに知っている。串カツの総菜屋でバイトをしていたころも、イライラすると必ずつまらないミスで火傷を負ったりした。この意味の分からない戦いも、総菜屋の延長線上にあるのだ。感情の起伏にろくな結果はついてこない。

 体育倉庫で犯された時も、興味本位でリスカをした時だって、感情を動かさなかったおかげで、次の日を普通にやり過ごせたのだと、みーちゃんは考えていた。それがみーちゃんの泰然自若(アパテイア)の方法だった。その方法が正しいのかどうかは私の口からはなんとも言えないが。


さぁ、なんでもいいから、早く出てきなさいよ!今夜はぜったいに好きな服を着て遊園地で遊ぶんだからね。メリーゴーラウンドにも、観覧車にも、お化け屋敷だって行くんだからね。今夜はハロウィンなんだから、特別な日なんだからね!ハロウィンの夜に部屋にいるとか、あんたらと戦うとか、ビチクソだからね


 みーちゃんは、独自の価値観を思うままに叫んだ。ハロウィンの夜に、本当のお化け退治などなかなかできるものでもなかろうにと、少し離れた場所に避難した政府のエージェントは思った。


 ダ二朗はその日、大切な右手を未知の事象に引き千切られてしまった。右目も飛び出して真ん中にヒビが入った。あんなにワクワクしてると言っていたダ二朗だったが、流石にここまで痛めつけられて、泣きたい気分だった。感情のコレクションには、すでに「泣きたい気持ち」はコンプされていたので、単に哀しいだけでちっとも嬉しくはない。みーちゃんも疲れ果て、ギリギリ遊園地の時間に間に合いそうだったが、泣く泣くキャンセルした。

 入院するほどの怪我を負わなかったのが奇跡なくらいだった。

 クマの千切れた手も、飛び出した目も、その日は治してもらえなかった。政府の車でどこかの施設で精密検査を受けたあと、みーちゃんはボロボロになった服のまま家に送られた。ママはいつものように二時間サスペンスドラマをリビングで横になりながら見ていた。

 ママにはみーちゃんの負わされた宿命など関係がないのだ。心配したところでなにもしてやれない。それならうろたえず静観の構えを取り続けていた方がいい。きっとママはそういう思考回路なのだろう。ママ本人に訊いてみないと本心はわからないのだけど。

 みーちゃんも疲れ過ぎてなにも話たくなかったし、言葉にするとなにかドス黒い魂が出てきそうな気がしたので、服だけ脱いでゴミ箱に叩き入れると、すぐに自分の部屋に入った。念のために遊園地に着て行くはずだった服は、部屋のハンガーにかけて置いてあった。

 ボロボロになったのは高校のころ着ていた体操着の緑のジャージだった。この世で一番ビチクソな服だ、だからこれがゴミ屑になっただけでも良しとしよう。そうみーちゃんは自分を無理矢理納得させ、シャワーも浴びずにパジャマに着替えてベッドにもぐりこんだ。

 ダ二朗も、一緒に投げ捨てられるんじゃないかとビクビクしたが、みーちゃんは枕元に置いてくれた。


今日は疲れたから、明日まで我慢してね。モコちゃん私が弱くてごめんね。

 

みーちゃんがそう言ってくれたので、ダ二朗は安心して、綿をベッドにいっぱい漏らしながらみーちゃんの夢の中で寝た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る