第16話

 それは先のキマイラに比肩する巨大な狼であった。その背には鷲の翼が伸び広がり、尻尾には蛇が生えている。どことなくキマイラとの関係性を窺わせる風貌をしている。煌く眼光は、しかと創一を獲物として見定めていた。


「おや、姿はマルコシアスに酷似しているようだね。獅子に狗……どうやら守護獣の想念を主軸に構成されているようだ。それならば、二体一対と言うべきだろう」


 青年が暢気な声音で闖入者(ちんにゅうしゃ)を分析している。それとは対照的に、生死に関わる事態に直面した創一は、極度の緊張に襲われていた。いつ巨狼が飛び掛かって来るか分からない。


 急に巨狼が顎(あぎと)を開き、胸を反らして空を仰ぐ。


 何か来る。そう思い、創一はいつでも回避出来るように身構えた。


「どうしたんだい? 炎を撒き散らすつもりのようだが、固まっていて構わないのかね?」


 創一は青年の警告を耳にして、咄嗟にガードレールを跳び越えて側方へ逃れた。


 数瞬後、巨狼の口から灼熱の炎が吐き出された。放射上に広がるそれは、地面を舐めるように焼き焦がし、通りに点在する車両や人々を蹂躙する。車体は熱された飴細工のように歪み、炎を直接浴びてしまった人々は、原型も分からないほど炭化してしまった。


 創一はそれらの惨劇を目にして、生存本能から全力で駆け出した。


(とにかく……とにかく繭羽が到着するまで逃げ切らなきゃ!)


 創一の視界に路地への入り口が映る。すぐさま路地に逃げ込もうとした矢先、側面から凄まじい衝撃に襲われ、創一の体が冗談でもなく宙を舞った。獲物に逃げられることを嫌った巨狼が、自身の鼻 先で創一の体を弾き飛ばしたのだ。


「ぐがっ……!」


 創一の視界が目まぐるしい速度で回転する。間も無く、コンクリートの地面に受け身も取れずに落ちて、慣性のままに二転三転と地面に体を打ち付ける。


 とにかく頭部を守ろうと体を丸めていたので、創一は致命的な負傷を回避することが出来ていた。けれど、全身を打撲したことによる衝撃で意識は朦朧としていた。


 おぼろげに霞む視界の中に、のっそりとした動きで、巨狼の姿が入って来る。獲物にありつける機会を前にしているからか、半開きの口からは、だらしなく涎が滴り落ちている。


 ずんっ! と創一の頭の横に巨狼の太く毛むくじゃらな両脚が置かれた。


 狼の顔が迫る。徐々に開かれる口には、鋭く発達した犬歯がびっしりと生え揃い、それに噛まれれば、たまらず肉を引き千切られるに違いない。


(僕は……死ぬのか……?)


 間も無く絶命する。その実感を覚えた創一の胸に湧いた感情は恐怖でも失望でもなく、身を焦がすような憤怒の情であった。


(……まだ、駄目だ)


 頬に巨踉の温かい唾液が掛かり、生臭い吐息が顔に掛かる。


(こんなところで……こんな無為な死に方を遂げる訳にはいかない。まだ何も知らない。何もかも……何もかも全然分からない)


 創一の拳が強く固く握り締められる。


(知らなきゃいけないことがたくさんある。思い出さなきゃいけないことがたくさんある)


 恐怖に震える奥歯を無理やり噛み締める。


(自分が誰なのかも、どこにいるのかも、自分がここに存在する理由も……何もかも、全部! 全部!)


「ぅ……うぉおおおおおおっ!」


 創一は朦朧とした意識の中、それでも力を振り絞って片腕を振り上げ、巨狼の鼻の頭を横から思いっきり殴り付けた。


 それは何の打開策にも繋がらない、単なる悪足掻きでしかなかった。そのことは重々承知していた。けれど、自分が何もせずに、ただただ眼前の巨狼の餌になることがどうしても許せなかった。


 バシッ、と自分の拳が巨狼の鼻を打つ鈍く非力な音が響く。同時に、大樹を殴り付けた時のような重々しい感触が拳に伝わって来る。それは自分の非力さを如実に表している残酷な事実だった。


 こんな自分の殴打では、巨狼は意に介さずに自分に貪りつくだろう。けれど、絶命する最後の時まで、悪足掻きを続ける覚悟を創一は決めていた。


 だからこそ、続けて二撃目を叩き込もうと、もう片方の腕を振り上げようとしたが――それは出来なかった。最初の拳が鼻に直撃した直後、巨狼が地響きのような唸り声を漏らして仰け反ったからだ。そして、創一から逃げるように後方へ跳ねた。


 創一は突然の予想外な出来事に当惑した。


(まさか……さっきの殴打が効いた?)


 いや、そんな筈がない。あんな非力な拳で、あの巨大な狼をどうこう出来る訳がない。


 創一は混乱に陥りつつも、まだ眩む意識を叱咤(しった)して、なんとか体を起こした。


(何が起きたか分からない……けど、とにかく、今の内に路地へ逃げ込まなくちゃ……!)


 創一はよろめきつつも立ち上がろうとする。同時に、巨狼の次の動作にも意識を払い、正眼に巨狼の姿を収めた。


 そこで、創一は巨狼の鼻の部分が消し飛んでいることに気付いた。いや、鼻どころではない。鼻が付いていた口周りがごっそりと抉られたように消えている。その歪な断面からは、所々に赤黒や青紫の色を呈する奇怪な血肉や脈打つ血管が覗いている。不思議なことに、その断面からは、血肉が蒸発しているかのような煙が上がっていた。


 繭羽がぎりぎりの所で救援に駆けつけて、アレをやったのだろうか。創一はそう思い、瞬時に辺りを見回したが、繭羽らしき者の姿は片影すら見当たらない。


「グル、グルルルゥゥゥ……!」


 巨狼は怒りの情を含んだ威嚇の唸り声を上げた。その視線は、他の誰でもない、創一にのみ定められている。


(なんだ、あいつ……僕のことを警戒しているのか?)


 創一はその巨狼の態度を怪訝に思った。


 自分はあの化け物を怯えさせるだけの威力は持っていない。恐らく、あの巨狼は、誰かが――繭羽の姿は見当たらないので、たとえば謎の青年が行った攻撃を自分が行ったものと勘違いを起こしているのだろう。幻魔の知能の高さは把握していないが、どう見ても、眼前の巨狼が賢いようには見えない。


 創一は先ほど青年がいた街路樹の方へ視線を向けた。しかし、そこには青年の姿は無かった。それどころか、通り一帯に青年らしき人影は見当たらない。いつの間にか、青年はどこかへ消え去っていた。


「グゥゥ……ウガァァァァァァッ!」


 巨狼が猛々しく吠え声を上げると、獣の俊敏性を活かして瞬時に創一に接近した。負傷した大口を開き、創一を一撃で噛み千切ろうと肉迫する。


 創一は今の体では満足に動けないと判断すると、恐怖を押し殺して前に跳びこんだ。頭上すれすれに巨狼の牙を間一髪で避けて腹の下に潜り込む。すぐに体勢を立て直すと、手近にある後ろ足に向かって抱き着いた。


 狼に限らず、四足歩行の獣の最も驚異的な攻撃は鋭い牙を活かした噛み付きだ。それならば、腹の下に潜り込んでさえいれば、大抵やり過ごすことが出来るに違いない。


 創一は必死の思いで丸太のような後ろ足にしがみつく。このままの状態を何としてでも維持して、繭羽が駆けつけるまで持たせるしかない。


 しかし――その目論見とは裏腹に、不意に創一は支えを失って地面に転がり落ちてしまった。コンクリートに体の側面を打つ衝撃に再び目が眩みそうになる。


 創一は何が起きたのか分からなかった。自分の両腕と両足はしっかりと巨狼の後ろ足に回されていた。両手では渾身の力で体毛を掴んでいた。ちょっとやそっとの振り払いでは振り払われるつもりはなかった。それにも拘わらず、後ろ足に跳び付いてから、ものの数秒で地面に転がる羽目になっている。


 まだ、巨狼は振り払いの動作すら取らなかったにも拘わらず。


「ガルァァァァァァアアア!」


 創一の背後で巨狼のけたたましい咆哮が轟いた。創一がそちらを見ると、巨狼は数メートル先の地面に倒れ伏していた。異様なことに、先ほど自分がしがみ付いた巨狼の後ろ足が無くなっていた。その傷口は、鼻に傷を負った時と同様、何かに抉り取られたかのような有り様を呈している。


(いったい……何が起きているんだ……?)


 巨狼の鼻と後ろ足。それらに共通することは、創一が直接触れた部分ということだ。


(まさか、自分がアレを引き起こしたのか?)


 創一は塵(ちり)に塗れた自分の両手を見詰めた。けれど、すぐにその考えを振り払った。


 自分には異常な事象を引き起こすような超能力は無い。誰からも、そのような話を聞いた覚えはない。そんな考えで納得するくらいなら、偶然なことに第三者が創一の触れた部位に攻撃を加えていたと考える方がまだ自然な発想というものだ。


 不意に、のそりと持ち上がる物体が視界の隅に映った。それは、巨狼の尾に生えていた巨大な蛇だ。


 大蛇は創一に向かって鎌首をもたげ、がばっと口を開いた。口内に納められていた毒牙が剥き出しになる。


 まずい、と創一は危機感に駆られた。大蛇の体長と彼我の距離を考え合わせれば、その牙は余裕で自分の体に届いてしまう。


 創一が逃げ出そうと立ち上がる前に、大蛇は動いた。毒液を滴らせる双牙が迫り来る。


(駄目だ、噛まれる!)


 創一がそう覚悟した直後、大蛇の頭部が創一の体に直撃した。しかし、まるで頭突きを食らわせるように頭部がぶつかって来ただけで、毒牙に穿たれることは無かった。


 創一のそばに大蛇の頭部が転がる。文字通り、頭部が胴体から切り離され、ごろりと転がっていた。


 眼前に純白の輝きが舞い踊る。


 大蛇の胴体を切断した繭羽は、すかさず巨狼との距離を詰める。大太刀を切り上げて狼の脇腹を裂くと、その傷口から深黒の火焔が迸って、巨体を焼き尽くし始めた。


 致命傷を負った巨狼は、それでも翼を羽ばたかせて、逃走を図ろうとする。


 繭羽は機敏な動きで巨狼の背に乗り上がり、翼の片方を根元から斬り飛ばした。そして、最後の止めと言わんばかりに大太刀を巨狼の背に突き立て、そこへ大量の火焔を注ぎ込む。


 その途端、巨狼の体が一気に膨れ上がった。


 繭羽が背中から跳んで離れた次の瞬間には、巨狼は体の内側から血肉と深黒の火焔を撒き散らして爆(は)ぜ飛んだ。


 地面に着地を果たした繭羽が、足早に創一にもとへ駆けてくる。


「創一、大丈夫!? 怪我は無い?」


「ああ……うん、大丈夫。大きな怪我は特にしていないから、心配は無用だよ」


 創一は自身の無事を示す為に立ちあがった。全身を打ち身してしまっているが、特に問題ではないだろう。


「そう……良かったわ。遅れてごめんなさい。……それにしても、まさか同じ街に幻魔が複数もいるなんて、珍しいわ。二体のキマイラ型に……金髪の幻魔。計三体も同時に出没するなんて……」


「……たぶん、そのキマイラ型って奴らは、二体一組で活動しているらしい。守護獣の想念を主軸に構成しているとか……だったかな。確か、獅子に狗の組み合わせだ」


「守護獣の想念? 獅子と狗なら……もしかして神社に置かれる獅子と狛犬かしら。確かに、それなら二体一組で現れたことも頷けるけれど……よくそのことに気がついたわね」


「いや、気付いたのは僕じゃないんだ。繭羽。たぶん、この街にいる幻魔は四体だと思う。あの狼の幻魔が現れる前に、奇妙な男に出逢ったんだ」


「……奇妙な男?」


「そう、奇妙な男。なんだか語り口が胡散臭い奴だったんだけど……。その男は、自分の本質は幻魔に近いとか言っていた。とにかく、一般人ではなさそうなのは確かだった」


「……そう。私の蛇眼で見れば、その男の正体を看破出来たのかもしれないけれど……。創一の話が本当だとしたら、同じ街の同じ時期に幻魔が四体も出現した。……これは珍しいどころか異常だわ」


「そうなのか?」


「ええ、私の知る限りでは、過去に類を見ないほどの異常だわ。……詳しい話は後にしましょう。幻魔が暴れた後を収拾しないと」


 創一は改めてキマイラ型の幻魔が暴れた通りの有り様を見渡した。


 先の巨狼が少し暴れただけでも、凄まじい被害が及んでいる。巨狼が吐いた灼熱の息吹の所為で、通り一面は火の海に埋もれた。コンクリートの地面やビルの壁面ですら焼け焦げ、街路樹は燃え尽き、通りに点在する車両の形は溶け崩れてしまっている。


 何にも増して凄惨なものは、灼熱の息吹を直接浴びてしまい、跡形も無く炭化してしまった人々の死だ。皮膚が弾け、肉が焦げ、骨すら残さず塵となった光景は、今でも眼に焼き付いて離れない痛ましい光景だった。


「幻魔が暴れるだけで……こんな酷い被害になるんだな。建物が壊れて、人も……見た限りで何十人と死んだと思う。自分が知らない間に殺されているなんて……酷過ぎる」


 創一は苦々しい想いで呟いた。彼らはセーヌ結界の中にいるので、意識すら停まっている。気が付かぬ内に幻魔に襲われ、そして気が付かぬ内に死んでしまった。


「ええ、そうね……。でも、セーヌ結界内なら、ほぼ元の状態へ戻すことが出来るわ。セーヌ結界内の構造物は現実の複写物……劇の書き割りでしかないから、実際の構造物が壊れている訳ではないわ。結界が解ければ、完全に元の景色に戻る。それに……幻魔が暴れたことによって体を壊されてしまっても、その人を元の状態へ回復する蘇生術式があるわ」


「蘇生術式? 死んだ人が蘇るような、そんな奇跡みたいな魔術もあるのか!?」


「ええ。ただ、蘇生と言っても、セーヌ結界内で肉体を壊されてしまった人を復元する術式であって、現実に亡くなった人を復活させるような反魂術ではないけれど……。とにかく、実際にやって見せるわ。今回は食われた魂の残滓が無いから……私の魂を砕くしかないわね」


 繭羽は両手で盃を作って胸もとまで持ち上げた。すると、神楽鈴(かぐらすず)を鳴らすような清美な音色が響き渡り、両手の中に、神々しい輝きを放つ液体とも気体ともつかない柔和な光が満ち始めた。


 繭羽が何かを感じ入るように双眸を閉じる。


「……因果の断裂を起こしている個体は、この通りにいる人々だけのようね」


 そう言うと、繭羽は手の盃に満たされた光に自身の吐息を吹き掛けた。光は軽やかに空中に舞い上がると、風に運ばれるように自然と肉体が損壊した人々のもとへ流れていく。


 巨狼の疾駆によって下半身が踏み砕かれたある男性を光が包み込んだ。すると、驚くべきことに、男性のひしゃげた下半身が時間を巻き戻すように復元を始めた。光に包み込まれた他の人々にも同様の現象が生じている。さらに驚くべきことは、巨狼の灼熱の息吹に跡形も無く炭化させられた人に関しては、どこからか塵のようなもの――その人の炭化した体の塵だろう――が集まって来て、元の姿を復元し始めていた。


 創一は、その神業の如き奇跡的な光景のあまり、魔術の可能性への感動を禁じ得なかった。


「凄い……凄すぎる。まるで時間を撒き戻したようじゃないか。この蘇生の魔術にも、何か元になっているものがあるのか?」


「ええ。あまり綺麗な話ではないけれど……確かに元になっている話があるわ。この蘇生術式の正式名称は、パールヴァティー術式。長いから、大抵は蘇生術式で通っているわ。パールヴァティーというのはインドの神様の一柱で、自分の垢(あか)に香油を混ぜて人形を作り上げ、そこへ生命の息吹を注ぎ込んで、新しい神を創造した。その神話を元にして、死んだ肉体を老廃物である垢になぞらえて、壊れた肉体を組み上げ直す。私がさっき吹いた光は、魔術的な改変を加えた生命の息吹。肉体の再構成誘導の効果を帯びているわ」


「……何と言うか、魔術って凄すぎる」


 創一は感嘆の声を漏らした。


 もしかしたら、現実に死んだ人を蘇らせる反魂法や新しい生命の創造――神話上の神のみが為せる御業も実現出来るかもしれない。


「そのパールヴァティーって魔術があれば、いくら幻魔が街中で暴れても、人が死んでしまうことを回避出来る訳だね」


「いえ……この蘇生術式には欠点があるわ。セーヌ結界内で幻魔やディヴォウラーに肉体や魂を食われた者は、復元出来ない。その場に肉体や魂の欠片が失われてしまうから。壊された人は復元出来ても、食われた人は……復元することが出来ないわ」


「あ……そうか」


 いくら便利な蘇生術式があっても、元々の肉体が食い去られてしまっては、肉体を再構成することは出来なくなってしまう。


「じゃあ……幻魔やディヴォウラーに襲われ、食べられてしまった人達は……」


「そう。残念だけれど、蘇生させることは出来ない。肉体は失われ、世界の修正力によって、人々の記憶や事物の記録から忘却される」


 誰からも忘れられて、誰からも思い出されることなく、この世にいた証の全てを剥奪されて……存在が消失する。


 創一にとって、その事実は、寒心に堪えないほどの恐るべきことに感じられた。


(もし、昼間にディヴォウラーに襲われた時、リリアや繭羽に出逢わなければ……僕もそうなっていたのかもしれないんだ)


 死ねない。


 まだ何も分かっていないのに、そんな理不尽なことで、この命を失う訳にはいかない。


 創一の胸の内に執着に似た強い意志が湧きあがる。


「……よし。因果の断裂は繋ぎ合わされたわ。全員、無事に蘇生出来たみたい。創一、セーヌ結界を解くわ。停まっていた人や車が動き出すから、歩道に移動して頂戴」


 繭羽は大太刀を掌中に納めていた。既に瞳や髪の色は元に戻っている。


「ああ、分かった」


 繭羽に続いて創一もガードレールを跨いで歩道に戻ると、急にセピア色に染まっていた景色が元の夕闇の街並みの色彩を取り戻した。歩道には何事も無かったように人が往来を始め、車道に停まっていた車が再び走り出す。


 獣の幻魔による暴力の蹂躙が嘘のように、いつもの日常が戻っていた。


 創一はいつもの街並みの風景を再び目にして、戻って来たのかという安堵を覚えた。それは、苦労してお化け屋敷の出口に辿り着いた時のような、異世界からの帰還に似た感慨であった。まるで生まれ変わった気分になる。


「……ふう。とりあえず、誰の被害もなく幻魔を二体屠(ほふ)れて良かったわ」


 繭羽は大きく伸びをすると、心底安堵したかのような緩やかな笑みを浮かべている。


「……ありがとう、繭羽」


「え?」


 繭羽が意外そうな表情を浮かべて創一に振り返った。


「ありがとうって言ったんだ。もし、この場に繭羽がいてくれなかったら……この街に訪れていなかったら、たぶん、この通りにいた人たちは、みんなあのキマイラや狼の幻魔に食われていたと思う。心陽と賢治、昴に陽太も……死んでしまっていたと思う。それ以前に、もしリリアと逢った時に繭羽が来ていなかったら、ひょっとすると、僕は今頃、リリアに殺されていたかもしれない。だから、なんというか……ちょっと照れ臭いんだけどさ。みんなを守ってくれて……ありがとう」


「……」


 繭羽は初めにぽかんとしていたけれど、すぐにその表情に柔和な笑みが浮かんだ。照れ臭さそうに創一から視線を外す。


「うん、ありがとう。そう言って貰えると……私も嬉しい」


 でも、と繭羽は言葉を続けた。その表情は、数秒前の照れを含んだ笑みとは対照的に、どこか悲哀と痛ましさを感じさせる厳しいものであった。


「別に恩義を感じる必要は無いわ。これは……私が好きでやっていること。私が私の目的を遂げる為に勝手にやっていること。この街に来た理由だって……いえ、なんでもないわ。ごめんさない、せっかくのお礼の言葉を言ってくれたのに、気分を害することを言ってしまって」


「あ、いや、そんな気分を害するなんて……」


 創一は先の繭羽の表情のことが気になっていた。あの時に浮かべた厳しい表情は、生半可な意志や感情で浮かべられるものではない。繭羽には、何か自分の想像もつかないような過酷な過去を持っているのではないだろうか。


 幻魔に殺されるかもしれないという危険を冒してでも、孤独に放浪の旅を続け、幻魔を倒し続けるような……凄まじい覚悟を要する動機があるのかもしれない。


 繭羽が幻魔を討つ為に孤独に旅をしている動機は昨晩から気になっていたけれど、それは本人に直接聞いてみてもよい事柄なのだろうか。


 創一は多少の躊躇いを覚えたが、それを押し切って繭羽に尋ねてみることにした。


「なあ、繭羽」


「ねえ、創一」


 偶然にも、お互いに話を切り出そうとして言葉が重なった。


「あ、ごめん。どうかした、繭羽」


「え、あ、うん……。さっきは――キマイラ型の幻魔が襲来する前は、商店街を案内して貰う途中だったけど、今日はもう帰途についた方が良いと思うの」


「家に帰るってこと?」


「そう。商店街の案内や……学生らしく遊ぼうというお誘いは本当にありがたいのだけれど、今日は早く体を休めておきたいわ。キマイラ型の幻魔との戦闘でいくらか魂の一部を消費してしまったし、リリアがいつ襲って来るか分からないという現状に変わりはないわ。だから、もしもの場合に備えて、いくらか心身を休めておきたい」


「そう……だね。そう言えば、僕も割とボロボロだ。身体はあちこち痛いし、学生服も汚れちゃったな」


 自分が全身をコンクリートの地面に打ち付けたことを思い出すと、急に全身を蝕むような鈍痛が走り始めた。


「……本当に大丈夫なの? 流血はしていないみたいだけれど、骨に異常があるとか……そういったことはないの?」


「あー、大丈夫。本当に平気だから。単なる打ち身。骨に異常は無いだろうし、頭を打つようなことも無かったから、問題無いよ。湿布を貼っておけば治るさ。繭羽こそ、怪我は無いの?」


「ええ、特に怪我はしていないわ。それに、私の場合は、人よりも何倍も治りが早いから。多少の怪我はすぐに治るわ」


「治りが早い? 治癒の魔術を使うから?」


「あ、うん……そんなところ」


 繭羽は歯切れの悪そうに言った。どうやら、魔術に関することのようだけれど、多少的を外している推測だったらしい。


「ふうん……。まあ、何でもいいや。じゃあ、家に帰ろうか」


 創一は自宅のアパートへの帰路を思い出しながら、とある重要なことに気付いた。


「ああ、そう言えば……。繭羽、今夜はどうするの?」


「今夜? そうね……」


 繭羽は考え込むように視線を空へ向けていたが、少しして、その頬に何故か朱が差し始めた。


 創一はその繭羽の紅潮を疑問に思い、昨夜のシャワー事件を思い至った。もしや、繭羽は自分にバスタオル一枚の姿を見られたことを思い出して、羞恥心に駆られているのかもしれない。


「あ。いや、その……べ、別に変な意味は無いんだ。ただ、僕の部屋の近くに、どこか寝泊まり出来そうな場所を確保出来ているのかなって疑問に思ってさ」


 創一は慌てて発言の意図にやましいところが無いことを伝えようとしたが、上擦った口調で言ってしまったので、むしろ昨夜の一件を意識的に強調させてしまったのではないかと後悔した。


「うーん……正直なことを言うと、まだ創一の部屋の近場に自分の住居を用意することは出来ていないの。一応、創一のアパートの大家に空き部屋が無いかどうか確認してみたのだけれど、新年度直後で、今までの空き部屋は主に大学生の人達で埋まってしまっているらしくて……。さすがに攻魔師としての権力は公的機関以外に通じないから……やっぱり屋上で夜営するのが一番かな」


「屋上って……まあ、今夜、雨は降りそうにないけどさ」


 仮に雨が降っていなかったとしても、自分のことを善意で護衛してくれている恩人を屋上で待機させるというのは、それはそれで良心の呵責を覚えなくもない。


 出来ることなら、創一としては、昨晩と同様に繭羽に自室で待機して欲しかった。それは、同室で異性と過ごしたという後ろめたい欲望の為ではなく、恩義を受けている相手に対して、可能な限り恩返しをしたいという人情から生じる感情だった。それに加えて、創一には、様々な人物と心理的に深い絆を結ぼうとする、とある心理的な理由があった。


 しかし、昨日の一件もあるので、その申し出を再び行うことは非常に躊躇われた。


「……じゃあ、僕も一緒に屋上で夜営をしようか?」


 創一はあれこれと思案した結果、思わずそんなことを言ってしまった。自分が自室で安楽に寝ながら繭羽を屋上で待機させることが嫌だったので、それならば自分も屋上で夜を明かせば良いという短絡的な発想から出た言葉であった。


「え……創一が屋上で……私と……?」


 案の定、繭羽は創一の奇妙な発言を聞いて、不思議そうな表情をを浮かべていた。


「あ、違うんだ、これはその、何と言うか……自分でも何を言っているか訳が分からないんだけどさ……」


 創一は湧き上がる羞恥心に片手で顔を覆う。


「その、何と言うか……昨夜も同じことを言ったかもしれないけれど、自分が自室で寝ているのに、繭羽が屋外で幻魔の襲来に備えて待機しているのって、こう、心情的に耐えられないというか……。それなら、いっそ僕が屋上で寝て、繭羽が僕の自室で待機して貰った方が、僕としては気が軽いと言うか……。なんなら、僕は玄関の扉の前で毛布に包まって寝て、繭羽が部屋の中で……。駄目だ、自分でも何を言っているのか分からなくなってきた……」


 創一は穴があったら入りたい気分になった。冷静に考えてみても、上手い言い回しが思いつかなかったので、自分が何を言わんとしているのか繭羽が察してくれることを期待するしかなかった。


「……ふふっ。あはは、あははははっ!」


 繭羽は突然笑い出し始めた。周囲を歩く人々の好奇の視線も構わず、少し体を折りながら、心底可笑しそうに笑い続けている。


「あははっ、ふふっ、あははははっ! 創一、あなた、面白過ぎるわ! こんなに笑ったの……いつ以来かしら」


 繭羽はそう言いながら、未だに笑い足りないと言わんばかりに笑いを堪えている。


 創一は自分の発言の奇妙さと繭羽の大笑いに対して、苦笑いを浮かべるしかなかった。


「なんだか、色々と気を回していたことが全部馬鹿らしくなってきたわ。昨日のことがあったから、あまり創一に気を使わせないよう上手い方法は無いかと考えていたのだけれど……まるで自分が道化になった気分よ。創一、薄々思っていたけれど……あなたって本当に御人好しなのね」


「う……確かによく御人好しになったと言われるけどさ。出来れば、人情に厚いとか義理堅いとか、そういった言い回しで褒めてもらいたいところだね」


「そうね、悪かったわ。……あなたって、とても人情家だわ」


 そう言う繭羽の浮かべた笑みは、とても印象的なものに感じられた。まるで、長く過酷な旅路の果てに、ようやく自分の憩いの故郷に辿り着いたような……静謐(せいひつ)な安らぎに満ちた笑みだった。


 その笑みの裏側には……いったいどのような苦悩が隠されているのだろうか。


「本音を言うとね、また創一の部屋で一夜を明かさせて貰えれば、私としては非常にありがたい。やっぱり部屋の中で寝られた方が精神衛生に良いから。でも、また泊めて貰うのは図々しいにも程があるだろうし、あまり行きずりの街で、その時のことを懐かしみたくなる思い出や知人を作りたくはなかったから……。でも、なんだろう。創一と話していると、そう言った自分の気遣いとか流儀とか、不思議と全部……うん、なんだかどうでもよく感じられるようになっちゃった。きっと、創一特有の魔術に違いないわ」


「じゃあ、昨日と同じように、僕の部屋で待機して貰えるってことで……いいのかな?」


「そうね。いえ、そうさせて下さい」


「……そっか。良かった。もしかしたら、本当に屋上で待機させることになるんじゃないかと、冷や冷やしたよ。……と言うか、いちいち了解を取るのも面倒だろうから言うけれど、僕としては、幻魔に狙われている間は、部屋で待機して貰っていて欲しい。そちらの方が落ち着いて寝ることが出来るし、繭羽が屋外で寝泊まりすることを気に病む必要がないからさ。もし繭羽が構わないなら、僕はそうしていて欲しいんだ」


「お心遣い、痛み入るわ。創一の好意に応えて、あなたを幻魔の襲撃から精一杯護衛させて貰うわ。短い間の付き合いになるとは思うけれど、よろしくお願い」


 繭羽が浮かべた笑みに、創一も笑みを返した。


「……よし! 話もまとまったことだし、繭羽の編入祝いとか今後の英気を養う意味で、今日は何か豪勢なものでも作ろうか。繭羽も食べなよ。まだまだ未熟だけど、料理は得意なんだ。友人から料理上手って言われるくらいだから、味の方はそこそこ保証するよ」


「え、でも……。いえ、お言葉に甘えて、ご相伴に与らせて頂こうかしら。料理なら、私も多少の自信があるわ。主に和食だけど、一般教養として叩き込まれたもの。お手伝いするわ」


「うん、お願いするよ。じゃあ、すぐそこに商店街もあることだし、そこで買い物をしてから帰ろうか。ついで食べ歩き……をしたら、夕食を食べる前にお腹が膨れるから、それは止めておこうか」


 創一は財布を取り出して中身を確認した。財布の中には四千円近くのお金が入っている。これだけあれば、充分な食材が買えるだろう。


「よし、行こうか」


「ええ」


 創一と繭羽は再び商店街の入り口の門をくぐった。


「……創一、なんだか楽しそうね」


 隣を歩く繭羽が顔を覗き込んでくる。


「楽しいさ、そりゃあ」


 創一は視線を繭羽から電飾の煌びやかな商店街の店先に移しながら、感慨を込めて言う。


「僕にとって、友人と過ごす時間は……本当に掛けかえのない大切なものだから」


 不意に繭羽は立ち止まった。


 創一は繭羽が付いて来ていないことに気付いて振り返る。


「ん? どうかした?」


「あ、ううん、なんでもないわ」


「そっか。じゃあ、まずは一番近い精肉店から向かおうか」


 創一が再び歩き出したので、繭羽は駆け足でその後を追った。


 創一は振り返った時に気付かなかったが、繭羽の瞳は、込み上げた涙に少し濡れていた。

 

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