第3話

 黒猫のひまわりは幸せだった。基本的には野良暮らしだけれど、真由香に可愛がられている。病院での注射と手術は楽しくなかったけれど、毎日美味しい食べ物を貰え、昼の間は家の中へ招かれ、撫でられたり膝に乗って甘えたり、そのまま寝たり出来た。外の散歩は楽しい反面、縄張り争いもセットになって、喧嘩の苦手なひまわりはいつも逃げ回る羽目になる。その点、真由香の部屋は穏やかだ。ひまわりは毎日、真由香がサッシ戸を開けて自分の名前を呼んで招いてくれるのを、心から楽しみにしていた。真由香もいつも、ひまわりが顔を出すと笑って迎えてくれていた。昼の間、ひまわりはまるで飼い猫のように、しばしの天国を味わうのだった。

「ねえひまわり、」

 真由香はしばしば口にした。

「大好きよ。ずっと傍にいてね」

 言葉の意味は分からない。けれど、柔らかく包み込むような穏やかなその言葉は、ひまわりをいつも温かい気持ちにした。


 昼間はひまわりの天国だった。しかし、夜は必ず外に出されてしまう。

 最初に招かれた日からそうだった。日暮れが近付いて、洗濯物を取り入れた真由香は、ソファーに転がるひまわりを撫で、「ごめんね」と言って抱き上げた。何だろう、と思っていると、真由香は外へ出て、隅の木製ベンチへ歩いた。それは物入れ兼用のベンチで、真由香は座面である蓋を開けて、ひまわりをそこへ入れた。そこには猫用ベッドと、猫用トイレがセットされ、蓋を閉めても左右に猫用出入口がある。しかし、

「ニャー!」

 ひまわりは啼いた。

「ごめんね、夜は家の中に入れてあげられないの。そこを使っていいから。また明日いらっしゃい。ごめんね」

 真由香の声がして、足音が遠ざかる。ひまわりは飛び出して真由香を追ったが、サッシは占められてしまった。ひまわりはしばらく啼いていたが、やがて諦めて先ほど入れられた小屋へと戻り、ベッドで丸くなった。人間なんてそんなものだ。幸いすぐに睡魔がやってきて、ひまわりは間もなく眠りに落ちた。

 翌朝、目覚めて伸びをしていると、サッシの開く音がした。ひまわりは小屋からそっと出てみた。洗濯を干す真由香がいて、目が合った。

「おはよう、いらっしゃい」

 呼ばれてひまわりは、すぐに駆け寄った。「少し待ってね」という真由香の足元をすり歩き、やがて抱き上げられて足裏を拭かれ、また室内に入れて貰えた。ご飯と水とを出して貰い、食べ終わって毛繕いをしていると、頭を撫でられた。ひまわりは甘え、喉を鳴らした。そうして毎日、昼の間は室内で過ごし、夜は小屋で過ごすようになった。


 夜は外でも、小屋がある。昼はいつでも、家の中。

 だが時には、昼間でも締め出されることがあった。ある日、いつものように真由香と寛いでいると、突然玄関の開く音がした。思わず顔を上げると真由香が素早くひまわりを抱き上げ、外へやや乱暴に出された。何事かと思う間もなく室内が騒々しくなり、やがて怒号が聞こえ始めた。ひまわりは直感で身の危険を感じ、素早く小屋へと逃げ込んだ。次の瞬間、サッシ戸が乱暴に開かれた音が聞こえた。ひまわりは思わず耳を伏せて目を閉じた。硬く低い怒号が聞こえる。ひまわりはじっと身を固め、喧騒が止むのを待った。やがて戸の閉まる音がして、そのままシンと静まった。ひまわりはそっと小屋から顔を出したが、真由香が呼ぶ気配は無かった。ひまわりは小屋へ戻り、そのまま眠った。

「ごめんねひまわり、」

 次に顔を合わせる時、真由香はいつも同じ言葉を繰り返した。ひまわりにヒトの言葉の詳しい意味は分からないが、何度も聞く言葉である事は分かる。自分がひまわりと名付けられた事もそうやって覚えた。「ひまわり」と、自分を呼ぶ真由香の優しい声がひまわりは好きだった。

「あなたと暮らせたら良いのだけれど。でもダメなの。ごめんね」

 こう言う時の真由香も普段と変わらず優しいし、むしろ普段より沢山撫でてくれる。だが、顔が悲しそうなのがひまわりはイヤだった。大好きな真由香には、いつも笑顔でいてほしい。だから思い切り喉を鳴らす。そうすると真由香は喜ぶのだと、ひまわりはいつしか覚えた。

「甘えんぼさんね、」

 真由香が笑う。ひまわりの顎の下が優しく撫でられる。ひまわりは目を細めて喉を鳴らす。真由香はよりいっそうひまわりの喉の下を撫でる。ひまわりがコロンとお腹を見せる。真由香がその腹を撫で回す。

 至福の時間。ずっとこの時間が続けばいい。

 この時間さえあるならば、夜に外で過ごすのだって、時折理不尽に追い出されるのだって、全然構わないとひまわりは思った。


 ひまわりが真由香と過ごすようになって、一ヶ月が過ぎた。ひまわりが名付けられた理由である、真由香と出会った頃に咲き誇っていたひまわりはすっかり萎れ、かわりに立派な種を実らせていた。日暮れもずいぶん早くなった夕暮れ、いつものようにリビングのソファーでまどろむひまわりを、真由香が撫でていた。昨夜、またひどい怒号が聞こえていた。今朝の真由香は、心なしかやつれて見えた。ひまわりはだから、今日はいつにも増して真由香に甘えていた。真由香には笑っていてほしい。柔らかく穏やかな声で、自分を呼んでいてほしい。そのためなら、ひまわりは自分に出来ることを、何でもするつもりだった。

 ひまわりはそろそろ外へ行く時間かなと、起き上がって伸びをした。最近はずっと、ひまわりのこの様子を見た真由香が夕飯を用意してくれ、それを食べてから外へ出るのが習慣となっていた。はたして真由香は夕飯を出し、ひまわりはそれを食べ始めた。いつものように真由香が、それを見つめていた。

 否、いつもとは少し違った。

 視線がいつもと少し違う。そう気付いたひまわりは顔を上げたが、それに気付いた真由香はハッとして、「気にしないで」とひまわりを撫でた。ひまわりは真由香が気になったが、撫でられてまた食事を続けた。食べ終わり、毛繕いしていると、真由香がまた先ほどと同じ瞳でひまわりを見ていた。

 ひまわりは毛繕いをやめて、真由香を見た。真由香もひまわりを見て、しばしそのまま見つめ合った。

 やがて真由香が、何か覚悟を決めたように、ひまわりを抱き上げた。ひまわりは不思議に思った。最近はいつも夕飯後は、真由香が戸を開け、ひまわりはそこから自分で出て行くようになっていた。抱き上げられて外へ出されていたのは最初のうちだけだ。

 真由香はサッシ戸の前へひまわりを降ろし、外を見るように座らせた。そして頭をポンポンと二度ほど軽く叩くと、ひと呼吸置いて、ひまわりの背中をゆっくりと撫で始めた。

 ひまわりは「何だろう」と思いはしたが、心地良い背中の感触に身を委ねた。いつもより、ずっとゆっくり撫でられている。一度、二度、三度、四度。ひまわりは何とはなしに、その数を数えた。五度、六度、七度、八度、九度、

 サッシ戸が開かれた。ひまわりは条件反射で外へ駆け出て、それからハッとして振り向いた。

 真由香が見ていた。物悲しい目をしていた。ひまわりはたまらず戻りそうになったが、次の瞬間、真由香がパッと笑った。

「また明日ね!」

 カーテンが閉められた。ひまわりはポカンとしたが、毛繕いをして落ち着いた。

 小屋に入る前に顔を上げると、月が照り始めていた。満月の夜が来る。ひまわりは久しぶりに、少し遠くまで散歩に出かけたくなった。塀に飛び乗り、一度背伸びをして、ピョンと外へ下りた。

 一連のその様子を、カーテンの隙間から、そっと真由香が見ていた。その瞳は、ひまわりの心配していた、憂いに満ちたそれだった。

 翌日から、ひまわりは真由香の元へ来なかった。

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