第4話

 幽は幸せだったが、自分の生活が繰り返されている事を何となく知っていた。最初の記憶は満開の桜。気付くと一人で桜を見上げていた。そこから子どもに追われ、逃げ込んだ軒先で真由香と出会う。毎日食べ物を貰い、隠れ家のような住処を与えられ、部屋で寛いで夜には外へ出され時々追い立てられる。

 そしてそれから一ヶ月が経つ頃、真由香が意を決したように背中を撫でて、

 ――気付くと一人で空を見上げている。次はひまわりを見上げていて、やっぱり子どもに追いかけられて、真由香に出会った。そしてまた穏やかな時間と締め出される時間とを繰り返し、一ヶ月が経つ頃真由香に特別な撫でられ方をして、また花を見上げる。

 イチョウ、桃、あじさい、コスモス――幾度目からか、幽はそれらの流れを辿るようになった。子どもに追われてもどこへ走ればいいか、どのタイミングで追い立てられるかが、何となく分かるようになった。

 だからそろそろ、真由香が自分を抱き上げて、特別な方法で背中を撫でる事も解っている。幽は構えていた。回を追うごとに抱き上げるまでの時間が延びているが、そろそろだ。幽は構えた。構えて、

 抱き上げられなかった。幽は真由香を見た。真由香は困ったように幽を見つめていた。


「幽、」

 真由香が口を開いた。いつも聞く声より、やや低い、どこか憂いを秘めた声だった。

「私はこれまで、この家で、九匹の黒猫の面倒を見てきました。さくら、ひまわり、銀花、もも、あじさい、コスモス、ゆき、うめ――そして幽、あなたです」

 言葉の雰囲気がいつもと違い、どこか凛としたものを感じた幽は、座を正した。真由香に真っ直ぐ向き合い、長いシッポを身体に巻き付ける。

「最初にさくらに会ったとき、さくらが家に通ってくれるようになったとき、私はとても幸せでした。この家では、猫を飼うことは出来ないけれど、さくらは私の作った小屋をきちんと使ってくれて、他の猫を寄せ付けることもなく、ご近所に迷惑をかけたりすることもなく、私はずっとこのまま時が過ぎていけばいいと思いました」

 真由香は話し続ける。

「ですが、ちょうどその頃、私はある願いを持っていました。それは今も持っているのですが――」

 真由香は少し眉根を寄せて、瞳を閉じた。

「それは、言葉にしてはならない願いです。こんなことを考えてしまう、そんな自分を呪い、別の手段を取れるよう、他の方法に代われるよう、私に出来る精一杯を努めてきました。それでも、どうしても、限界だと感じたあの日、私はふと、あのおまじないを思い出しました。そしてさくらに、願いを託すべくおまじないをしたのです」


 真由香の話すおまじないは、黒猫にしか託せないものだという。自分と仲の良い黒猫の背中を、九度撫でながら願いを託す。黒猫は願い主の願いを叶えるべく、撫でられ終わると走っていく――。西洋に伝わるというそのおまじないを、真由香は幼い頃、祖母から聞いた。ずっと忘れていたのだが、さくらに出会って思い出した。そしてあの日、「もしそれで叶うのなら」と、比較的軽い気持ちで試したのだった。

 だが、

「その翌日から、さくらは来なくなりました。私はとても寂しかった。同時に、自分を責めました。私が願いを託したせいで、さくらは来なくなってしまった。私の願いは、簡単に大事な子に託して良い種の願いではなかった。せめて願いが叶ってくれたらと思いましたが、少しだけマシになっただけでした。ですが、」

 リン、と風鈴が鳴った。小窓から吹く風が、夕方のものになりかけていた。

「数ヵ月後、別の黒猫が来ました」


 真由香は最初、さくらが戻ってきたのだと思った。大きさも瞳の色も、もちろん毛の色も、全く同じだった。ところが病院へ連れて行くと、さくらではないと診断された。生後数ヵ月の別の猫だと――真由香は信じられなかった。しかし、医師の診断を疑うことは出来なかった。そこで今度は「ひまわり」と名付け、さくらと同じように可愛がった。さくらを失った悲しみから、ひまわりを失うことを恐れ、決して願いはかけないと誓い、毎日可愛がり続けた。

 だが、やはり一ヶ月が経つ頃、どうしても願いを叶えたいと思う出来事があった。真由香は迷いに迷ったが、気付けばひまわりに願いをかけていた。気付いてハッとしたが、止められなかった。せめて、どうか戻ってきて、と願ったが、やはり翌日からひまわりは来なくなった。真由香は一人、泣いた。

 そしてまた数ヵ月後、別の黒猫が現れた。ひまわり、いえさくら、どちらだとしてもそっくりの黒猫――しかし医師の診断は、ひまわりの時と同じ。真由香は銀花(銀杏の誤読が学名になった、ギンキョウを捩ったものだ)と名付け、また可愛がった。願いは託さないと誓い、そしてその誓いを裏切った。

「そうして、三年近くが経ちました。あなたが九匹目です。ずっと、出会った季節の花や植物にちなんで名付けてきましたが、あなたに出会って、あなたが九匹目と気付いて、ふと思い出したのです」

 

 『猫には九つの命がある』

 猫のおまじないと同じく、古くから伝わる海外のことわざである。これは実際は、高いところから上手に飛び降りたり、長期間の家出を繰り返したり、意外と執念深いことなどを含めたことわざなのだが、真由香はこれを、自分の前に現れ続ける猫たちに当てはめた。

 「仮に、さくらからあなたまでが、全部生まれ変わりだとしたら、」

 こんなこと、普通の人には話せない。気が狂ったとでも思われてしまうだろう。だが、相手は猫だ。大事な猫だ。真由香は続けた。

 「私の託した願いは、さくらたちの命を奪うほど、重く叶えがたいものだったのでしょう。それでも八度生まれ変わって、私の元へ戻ってきてくれた。だからあなたを幽と名付けたのです。そして、」

 また風鈴が鳴った。幽は自分の名前に反応して、少しヒゲを揺らした。

 「――私はもう、あなたを喪いたくありません」

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