第2話

 黒猫のさくらは幸せだった。基本的には野良暮らしだけれど、人間の真由香に可愛がられている。病院での注射と手術は楽しくなかったけれど、毎日美味しい食べ物を貰え、昼の間は家の中へ招かれ、撫でられたり膝に乗って甘えたり、そのまま寝たり出来た。外の散歩は楽しい反面、縄張り争いもセットになって、喧嘩の苦手なさくらはいつも逃げ回る羽目になる。その点、真由香の部屋は穏やかだ。さくらは毎日、真由香がサッシ戸を開けて自分の名前を呼んで招いてくれるのを、心から楽しみにしていた。真由香もいつも、さくらが顔を出すと笑って迎えてくれていた。昼の間、さくらはまるで飼い猫のように、しばしの天国を味わうのだった。

「ねえさくら、」

 真由香はしばしば口にした。

「大好きよ。ずっと傍にいてね」

 言葉の意味は分からない。けれど、柔らかく包み込むような穏やかなその言葉は、さくらをいつも温かい気持ちにした。


 昼間はさくらの天国だった。しかし、夜は必ず外に出されてしまう。

 最初に招かれた日からそうだった。日暮れが近付いて、洗濯物を取り入れた真由香は、ソファーに転がるさくらを撫で、「ごめんね」と言って抱き上げた。何だろう、と思っていると、真由香は外へさくらを下ろし、そして戸を占め、カーテンも閉められた。

 さくらは啼いた。閉められた扉を前足でこすり、爪が当たってカリカリと音を立てる。カーテンが開いて、真由香が言った。

「ごめんね、夜は家の中に入れてあげられないの。また明日いらっしゃい。ごめんね」

 真由香の声がして、足音が遠ざかる。さくらは飛び出して真由香を追ったが、サッシは占められてしまった。さくらはしばらく啼いていたが、やがて諦め、隅にあった木製ベンチの上で丸くなった。人間なんてそんなものだ。幸いすぐに睡魔がやってきて、さくらは間もなく眠りに落ちた。

 翌朝、目覚めて伸びをしていると、サッシの開く音がした。さくらは小屋からそっと出てみた。洗濯を干す真由香がいて、目が合った。

「おはよう、いらっしゃい」

 呼ばれてさくらは、すぐに駆け寄った。「少し待ってね」という真由香の足元をすり歩き、やがて抱き上げられて足裏を拭かれ、また室内に入れて貰えた。ご飯と水とを出して貰い、 食べ終わって毛繕いをしていると、頭を撫でられた。さくらは甘え、喉を鳴らした。

 それから数日後、真由香は木製ベンチを改造して、猫小屋を作ってくれた。そうして毎日、昼の間は室内で過ごし、夜は小屋で過ごすようになった。


 夜は外でも、小屋がある。昼はいつでも、家の中。

 だが時には、昼間でも締め出されることがあった。ある日、いつものように真由香と寛いでいると、突然玄関の開く音がした。思わず顔を上げると真由香が素早くさくらを抱き上げ、外へやや乱暴に出された。何事かと思う間もなく室内が騒々しくなり、やがて怒号が聞こえ始めた。さくらは直感で身の危険を感じ、素早く小屋へと逃げ込んだ。次の瞬間、サッシ戸が乱暴に開かれた音が聞こえた。さくらは思わず耳を伏せて目を閉じた。硬く低い怒号が聞こえる。さくらはじっと身を固め、喧騒が止むのを待った。やがて戸の閉まる音がして、そのままシンと静まった。さくらはそっと小屋から顔を出したが、真由香が呼ぶ気配は無かった。さくらは小屋へ戻り、そのまま眠った。

「ごめんねさくら、」

 次に顔を合わせた時、真由香はいつも同じ言葉を繰り返した。さくらにヒトの言葉の詳しい意味は分からないが、何度も聞く言葉である事は分かる。自分がさくらと名付けられた事もそうやって覚えた。「さくら」と、自分を呼ぶ真由香の優しい声がさくらは好きだった。

「あなたと暮らせたら良いのだけれど。でもダメなの。ごめんね」

 こう言う時の真由香も普段と変わらず優しいし、むしろ普段より沢山撫でてくれる。だが、顔が悲しそうなのがさくらはイヤだった。大好きな真由香には、いつも笑顔でいてほしい。だから思い切り喉を鳴らす。そうすると真由香は喜ぶのだと、さくらはいつしか覚えた。

「甘えんぼさんね、」

 真由香が笑う。さくらの顎の下が優しく撫でられる。さくらは目を細めて喉を鳴らす。真由香はよりいっそうさくらの喉の下を撫でる。さくらがコロンとお腹を見せる。真由香がその腹を撫で回す。

 至福の時間。ずっとこの時間が続けばいい。

 この時間さえあるならば、夜に外で過ごすのだって、時折理不尽に追い出されるのだって、全然構わないとさくらは思った。


 さくらが真由香と過ごすようになって、一ヶ月が過ぎた。さくらが名付けられた理由である、真由香と出会った頃に満開だった桜はすっかり立派な葉桜となり、日差しも随分強くなっていた。いつものようにリビングのソファーでまどろむさくらを、真由香が撫でていた。昨夜、またひどい怒号が聞こえていた。今朝の真由香は、心なしかやつれて見えた。さくらはだから、今日はいつにも増して真由香に甘えていた。真由香には笑っていてほしい。柔らかく穏やかな声で、自分を呼んでいてほしい。そのためなら、さくらは自分に出来ることを、何でもするつもりだった。

 日暮れが近付いてきた。さくらはそろそろ外へ行く時間かなと感じ、起き上がって伸びをした。最近はずっと、さくらのこの様子を見た真由香が夕飯を用意してくれ、それを食べてから外へ出るのが習慣となっていた。はたして真由香は夕飯を出し、さくらはそれを食べ始めた。いつものように真由香が、それを見つめていた。

 否、いつもとは少し違った。

 視線がいつもと少し違う。そう気付いたさくらは顔を上げたが、それに気付いた真由香はハッとして、「気にしないで」とさくらを撫でた。さくらは真由香が気になったが、撫でられてまた食事を続けた。食べ終わり、毛繕いしていると、真由香がまた先ほどと同じ瞳でさくらを見ていた。

 さくらは毛繕いをやめて、真由香を見た。真由香もさくらを見て、しばしそのまま見つめ合った。

 やがて真由香が、何か覚悟を決めたように、さくらを抱き上げた。さくらは不思議に思った。最近はいつも夕飯後は、真由香が戸を開け、さくらはそこから自分で出て行くようになっていた。抱き上げられて外へ出されていたのは最初のうちだけだ。

 真由香はサッシ戸の前へさくらを降ろし、外を見るように座らせた。そして頭をポンポンと二度ほど軽く叩くと、ひと呼吸置いて、さくらの背中をゆっくりと撫で始めた。

 さくらは「何だろう」と思いはしたが、心地良い背中の感触に身を委ねた。いつもより、ずっとゆっくり撫でられている。一度、二度、三度、四度。さくらは何とはなしに、その数を数えた。五度、六度、七度、八度、九度、

 サッシ戸が開かれた。さくらは条件反射で外へ駆け出て、それからハッとして振り向いた。

 真由香が見ていた。物悲しい目をしていた。さくらはたまらず戻りそうになったが、次の瞬間、真由香がパッと笑った。

「また明日ね!」

 カーテンが閉められた。さくらはポカンとしたが、毛繕いをして落ち着いた。

 小屋に入る前に顔を上げると、月が照り始めていた。満月の夜が来る。さくらは久しぶりに、少し遠くまで散歩に出かけたくなった。塀に飛び乗り、一度背伸びをして、ピョンと外へ下りた。

 一連のその様子を、カーテンの隙間から、そっと真由香が見ていた。その瞳は、さくらの心配していた、憂いに満ちたそれだった。

 そしてそれきり、さくらは真由香の元へ来なかった。

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