第六章

 今日も朝からすこぶる晴天だ。

 午前中だと言うのに、目の前の木々から蝉たちの煩い悲鳴が聞こえ続けている。最早夏真っ盛りと言った風情だ。


 まだまだこれから暑くなっていくだろうに……。

 そんなことを不安に感じながらも、心のどこかで可笑しく笑っている自分に気付いていた。

 僕がその時期までここにいられるかどうか……。

 この世界に僕の居場所が残っているのかどうか……。


 一昨日よりも昨日、昨日よりも今日、と確実に体が重くなっていくのを感じていた。動くことが少しずつ辛くなってきているのだ。

 それはダルいとかそういうものではなく、明らかに心臓に対する負担が増えていることを表していた。

 僕は今やトイレに行くだけでも動悸を感じずにはいられないのだ。

 それがどういうことなのか。他でもない僕に一番解っていることだった。


 この数ヶ月間、症状は驚くほどの速さで悪化していった。

 それ以前の生活では時々現れるだけだった動悸や息切れも、この数ヶ月間で程度の差こそあれ、ほぼ毎日現れるようになったし、軽い運動でさえも体に負担をかけるようになった。


 その頃からだろうか……。

 僕がこれほどまでに『死』を強く意識するようになったのは……。


 死んでも良いとは思っていた。

 それは一番最初に症状が出たときに決めた覚悟だ。

 この世界に僕を引き止めるだけの魅力、失うことを怯える程の何か、未知の世界への恐怖、そう言った類のものは不思議と何一つ見当たらなかった。

 どんなに探しても何一つ無いのだ。

 だから死ぬことは怖くないし、寧ろ楽になれるのなら少しでも早く死にたい。そう、僕は死にたいのだ。


 最近はこんなことを考える機会も少なかったのだが、不思議と今日は考えてしまう。

 昨夜書いたノートのせいだろうか……。

 もしも僕が露と消えてもこの世界は呼吸一つ乱すことなく続いていく——そんな風景を思い描いたから……。

 僕はこの世界にまるで影響を与えていない、それはつまり、僕の生きている価値そのものを疑うべき考えなのではないか……。

 生きている理由そのものを見つめ直すべきではないのか……。


 たくさんの小説を読んで、たくさんの人々の考えを垣間見た。

 ある人は言う。

 人が生きることに理由など無いのだ——と。気が付けば存在していた我々が生きていくのに何の理由が必要だろうか——と。

 しかしまたある人は言う。

 人は死というものに対してのみ意味を持つのだ——と。死に直結しているからこそ生きていることにも意味があるのだ——と。


 結局、誰の考えを引用してみたところで、各自の自己主張、自己満足でしか無いのは目に見えている。

 ならば、今まさに『死』という現実に目を向けさせられている僕が、ここで自己主張しよう。


 僕が生きていることに何ら意味など無い。

 僕が死んでいくことに何ら意味など無い。

 僕が生まれてきたこと、僕が存在してきたこと、僕が行ってきたこと、僕が感じてきたこと、僕が……その全てにおいて何一つ、塵さえの意味も無いのだ。

 だから良い。

 死んでいくことにも意味など無い。


 ふと時計を見ると、起きてから30分ほどが経とうとしていた。

 以前こういうことを考えた時に深みに嵌ってしまったから、もう考えることを止めようと決めていたのに……。

 このままの顔では京子さんに会うことも出来ない。

 彼女と僕が同じ時間を共有するためには、最初から一つだけ条件が存在するのだから……。それは僕の小さな本音を押し殺すこと……。


 午前中と昼食後の一時を小説と共に過ごしていると、部屋のドアがノックされた。僕がいつもの様に返事をすると京子さんが入ってくる。


「こんにちは……あ、読書中だったの?」

「いえ……、だらだらと読んでいただけですから……」


 僕は読んでいた本に栞を挟むとベッド脇のテーブルに置いた。


「誰の本読んでるの? あ、三島……。へぇ、君って見かけによらないのね……」

「ははは、どういう意味ですか?」


 最近は彼女も僕に対してそういう茶々を入れることが多くなってきた。

 それは初めて逢ったあの日より、確実に、明確に、二人の距離が縮まっていることを示していて、僕にとって自分でも驚くほどの喜びを与えるものだった。

 だから、僕にしても出来るだけ軽口をたたいて返すように心がけているのだ。


「いや、何だかほら、日本文学とか嫌ってそうじゃない?」

「そんなことありませんよ。京子さんは嫌いなんですか?」


 人差し指を顎に当て、考える仕草を見せる。

 そのまま窓の外に目を遣り、神社の方を見つめる。

 窓から入ってくる光が部屋の中の埃をうっすらと浮かび上がらせていた。


「文学は……嫌いじゃないけど……自殺する人は嫌い……かな」


 小さな声で、しかし重くはっきりと聞こえる声で、そう呟いた。

 僕はそれが誰に対しての非難なのか、その部分を明らかに出来ないまま、言葉を続けていた。


「三島に限らず、自殺する文豪って多いじゃないですか? 太宰しかり……康成しかり……」


 そうして指折り数えていく素振りを見せた。そうすると彼女は『くすっ』と笑いながら、


「うふふ、私が知らない人は良いのよ」


 差し込む光を眩しそうに手で遮りながら、少し斜視気味に微笑む。

 ふわふわと漂う微粒子に反射された光の中で、うっすらと色彩を変えながら微笑む様子はどこか神秘的で、浮世離れした美しさを湛えていて、それでいて現実味を帯びた笑みだった。

 その美しさに魅入られるように、次の言葉に詰まった僕に、彼女はどこか遠くから囁くように、それでも僕の目を見つめながら、


「……君は……駄目……」


 そう言って一際嬉しそうな笑顔を見せた後、顔を紅く染め、また視線を窓の外へと逸らしてしまった。

 ふわりと舞った彼女の髪が、僕の目の中でスローモーションに映っていく。

 そのまましばらく無言が続いた後、また彼女が口を開いた。


「でも……さっきのは嘘……だよね?」

「……さっきの?」


 意味が解らずオウム返しに聞き返していた。話の流れが掴めない。


「うん……だらだらと読んでいただけって言ったの……。だって、三島なんてだらだら読めるはずないもの」

「あぁ、そのことですか。ははは、良いんですよ。どうせ頭には入ってないんですから……」

「あ〜。うふふ、やっぱり……見かけだけなのね」


 そんなことを言って二人で笑いあった。

 すごく不思議だ。彼女がこんなに僕に話を振るなんて。

 それは彼女の欠点というには小さすぎる欠点が、また一つ大きな魅力に変わった瞬間だった。


 その後、僕たちは彼女の提案で屋上へ行くことにした。

 屋上に上れることも知らなかった僕は、少しだけ浮かれた心地で彼女と共に階段を上った。


 屋上はさほど広くは無く、高い高いフェンスで囲まれていた。

 もちろんそれは彼女の嫌いな——多くの文豪たちが実践してしまった——行為を予防するためのものだろう。

 そしてところどころに洗いたてと思われるシーツが干されていた。

 その影になるようにベンチが二つ見える。

 幸い、どちらのベンチも開いていたので、僕たちはその片方に座ることにした。


「へぇ……、こんな場所があるんですね。正直感動しました」


 頷きながらきょろきょろと周囲を見回している僕に、満面の笑みをたたえながら、


「そっか。初めてきたんだね。君だったら真っ先にチェックしてるかと思ってたよ」


 不思議なくらい、今日は饒舌——いや一般的には普通の会話かもしれないのだが、それでも彼女にとっては、という意味で——になっている彼女にほんの少しだけ不安を感じながらも、心のどこかでこういう会話を望んでいた僕は、やはり顔中から喜色が漏れてしまうのだった。


「ははは、もう、どういう意味ですか? 僕はリストカッターじゃないんですよ」


 おちゃらけてそんなことを言う余裕も生まれる。生きるとか死ぬとかのことを不思議と気楽に感じられるような会話の流れだった。


「うふふ、そうだね。ごめんなさい」


 意識してか、それとも無意識なのか、彼女がぺろりと舌を出す。

 その仕草が彼女をとても幼く感じさせた。


「でも……こんなに見晴らしが良いんですね。僕の部屋から見える景色と、京子さんの部屋から見える景色が同時に一望出来るじゃないですか」

「そうだね。すごく綺麗でしょう?」


 まさにパノラマだった。360度ぐるりと見渡すことが出来る。

 もちろん潮の香りも感じることが出来るし、遥か彼方遠くまで続く線路の行方を視力の限り追うことも出来る。

 僕の部屋から見える山々は、僕が考えていたほど大人しいものではなく、実際は山脈と呼べるほどの連山だった。

 そんな景色に見惚れていると、また彼女がぽつりと言った。


「でもね……私、ここはあまり好きじゃないんだ……」

「こんなに綺麗な景色なのに……ですか?」

「そう、あそこに……ほら、君の部屋からも見える神社があるでしょう?」


 彼女が指差す先にあるのは連山の中でも少し背の低い山で、そこには僕の部屋からも見える神社があるのだ。

 山の麓には鳥居があり、そこから階段が続き、頂上に神社がある。遠目に見るだけでも、上るのが躊躇われるような長い階段だということがわかった。


「あの神社が……嫌なんですか?」

「うん、そうなの。君の部屋からだと窓枠に区切られた世界だから、そんなに嫌じゃないんだ。だけど、ここからだと村の景色が一望出来てしまうから……。あの神社でね、一年に一回、夏祭りがあるんだよ」

「夏祭り?」


 突然、彼女の口から出てきた思いもよらない単語に驚いてしまった。

 僕自身、『夏祭り』という言葉を耳にしたのも口にしたのも何年ぶりだか解らないほどだ。


「うん。一日だけね」


 一度僕の方を振り向いて、笑顔を見せた後、またゆっくりと神社の方を向く。そして神社の階段を指差し、その指を駅の方へと下ろしていった。


「あそこの道にね、たくさん出店が出るんだよ。その日だけはこの村が別の場所になったみたいにキラキラ輝くの。だからこの村で育った私たちはそのお祭りが本当に大好きだったのよ」


 彼女はまるでその景色を目の前にしているかの様に目を細める。

 その表情だけで僕にまでその夏祭りの喧騒が聞こえてきそうだった。


「そんなに綺麗なんですか……。見てみたいな」

「そっか、君は村の人じゃないから知らないんだね。夏祭りは明々後日だよ。きっと君の部屋からだったら良く見えるんじゃない」

「そうなんですか? ……でも……どうして夏祭りとこの場所が嫌いなのとが繋がるんですか?」


 そう聞くと彼女は表情を一変させ、悲しそうな目を見せる。

 しかし俯くと同時に滑り落ちる髪がその表情を隠してしまった。


「思い出が……楽しかった思い出が嫌いなの。今年も……私はあの場所に行けないから……」

「あ……」


 そうか。

 その夏祭りには彼女が元気だった頃の思い出がたくさん詰ってるんだ。

 今こうしてこの病院に縛られて——例えそれが彼女の為であるにしても——その夏祭りに行けないのは辛いだろう。夏祭りが大好きであればあっただけ、嫌いになってしまうのも何だか解る気がした。

 そうして僕が言葉に詰っていることに気付いたのか、彼女がまた笑顔を作る。


「あ、でもね、退院したらまた行けるし……。そうそう、それにね、去年は夏祭り中止だったんだよ。本当に珍しいの」

「中止……延期じゃなく中止ですか」


 彼女が振ってくれた話題に乗りたかった。それは重々しい過去を少しでも遠ざけてくれる話題に違いなかったから。


「そう、私が知ってるだけだと、中止は二回しかないの。一回目は小学校の時、台風で。でも去年の中止は事故だったみたい」

「中止になるほどの事故って……どんな事故ですか?」


 話の内容などどうでも良かった。

 ただ少しでも彼女がさっきの悲しそうな表情から離れてくれるなら……。

 今の僕は三島の小説を読むのと同じくらい、会話が頭に入ってないかもしれない。


「人が……死んだの。夏祭りの前日に……。あそこのね、長い階段から落ちて……。不思議なことだけど、今までの村の歴史の中で、あそこの階段で転落事故が起きた事って無かったのよ。だから縁起が悪いって言って中止」


 なるほど。神社を中心とした祭りなら縁起を担ぐのは当然だろう。そんな事故があったんじゃ、中止にするのも仕方が無いと思えた。


「しかし、今まで事故が無かったってのも不思議ですね」

「何でもね、神様が——」


 その後、僕たちはこの村の歴史や守り神様の話、伝説などで盛り上がった。

 驚くほど饒舌になっていた彼女が印象的で、話の内容はあまり覚えていないけれど……忘れずに彼女にノートだけは手渡した。


 『今日は初めての屋上、楽しかったね。

  付き合ってくれてありがとう。

  あのね、君は……気付いてるかもしれないけど……

  今日、私、良く話したよね? 楽しかった……かな?

  もしそう感じてもらえたなら嬉しいよ。

  これからもっともっとたくさん話せる様に頑張ります。

  私にとって君がそうであるように……君が私といることで、

  君にとっての嫌なことを少しでも忘れられる存在になれますように。』


 『君は認めているの?

  君は怯えているの?

  君は震えているの?

  君は泣いているの?

  君は叫んでいるの?

  誰かのことでいっぱいになれば

  小さな心は壊れずに済むね。

  誰かのことでいっぱいになれば

  小さな幸せが見えてくるね。

  だから、私は大丈夫だよ。

  君は…………?』

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