第七章

 今日もいつもと変わらず午前中は一人で窓の外を眺めていた。

 相変わらず小説は進まない。

 昨日よりもダルくなった体が僕という人間の死期の近さを如実に表していた。


「僕は死ぬ」


 小声で呟く。

 この部屋には誰もいないが、そうすることでより一層実感が湧くのだ。


「僕は死ぬ」


 異様な行為であることは自分でも理解している。

 ただ頭の中で理解し、実感した事柄でも、実際に声に出したり、紙に書いたりすることでより明確にリアルに感じられるものなのだ。

 『自分が死ぬ』という出来事が不思議と嬉しく、僕は繰り返し声にしていた。


「僕は死ぬ。僕は死ぬ。僕は死ぬ」


 このまま死んでしまえれば良いのに……。

 心からそう思う。

 ただ僕の中で以前より強く、どこか『死』を渇望する気持ちが生まれてきていることに僕は気付いていた。

 出来るだけ早い死……それを望むこの気持ちはどこから生まれてきたものだろう……?

 考えるまでも無く、それは彼女のことだった。

 僕と彼女は同じ病で、同じだけ重症なのだ。近いうちに二人とも死ぬのは当然だと思えた。

 ならば……どうせ二人ともが死んでしまうのならば……少しでも、数日、一日、一時間、一秒だって彼女より早く死にたいのだ。ほんの一瞬でも残される者の気持ちは味わいたくない。


 そう感じながらふと可笑しくなってしまった。

 『残される者』って……?

 僕がいつからか彼女を特別な人として見るようになっていることは気付いていた。

 ただそれでも飽くまで『特別な人』である。今の僕の考えは彼女に対して『特別な女性』を求めている考えだった。


 その考えに少しだけ驚いてしまう。

 異性に対する目覚め——僕は初恋というものすら経験していないのだ。

 今までにも多くの女性に出会ってきたはずなのに、僕の初恋はこの病院、それも恋愛対象になるような異性はたった一人しかいないような、特異な場所においてのみ行われたのだ。

 僕は明らかに彼女を異性として意識し始めている。

 一般的に見て、この状況下で彼女に異性を感じるのは普通なのかもしれないが、それでも僕においてそれは一種のブレイクスルー、自分の殻——今まで僕が認めてきた自分らしさ——の崩壊を表しているのだ。


 そう思い、悩めば悩むほど心が痛く、彼女に対する気持ちの強さを感じる。

 彼女と共にいたい。彼女と時間を共有したい。そして彼女より早く死にたい。

 そしてもし出来ることなら——。


 コンコン。コンコン。

 突然のノックに思考が中断された。そして一瞬にして考える。もし彼女だったら今の僕の顔は見て欲しくない。


「あ、ちょっと待っててください」


 そう言って慌てて顔を洗う。

 鏡の中の僕には、死に圧迫された何とも言えない嫌な表情は消えていた。そのまま顔を拭きながらドアを開けると、果たしてそこには彼女が立っていた。


「ごめんね、お邪魔だったかな?」

「いえ、顔を洗ってただけですから……」


 困ったような、でも嬉しそうな微笑を見せる彼女に対して、一つ小さな嘘を吐く。ただこの嘘は僕と彼女が一緒にいるために必要な嘘だ。

 そのまま彼女につられる様に二人で廊下を歩き始める。


「今日も良い天気だね〜、外は暑そうだから嫌だな……」

「そうですね。夕方までは控えないと——」


 そう言いながら廊下の中ほどにある多目的スペースまでやってきた。

 この場所の本来の目的は解らないが僕たちが休憩所と呼んでいる場所だ。

 ソファがいくつかあり、マガジンラックには雑誌があり、自販機も幾つかある。

 きっと患者同士の交流を目的として作られた場所なのだろう。彼女と僕はそのソファのうちの一つに座った。


「暑いときは室内に限りますね」

「うふふ、そうだね」


 そう言って掌で顔を仰ぐ仕草を見せる。

 言葉とは裏腹にその表情は少しも暑そうでは無かった。

 そんな彼女の様子を見ながら、ふとさっきの自分の考えを思い出す。

 一瞬にして頭に血が上るのがわかるほど、恥ずかしくなってしまった。


「…………? どうしたの?」


 どことなく顔を合わせ辛くなって、あらぬ方を向いている僕を不審に思った彼女が声をかけてくる。


「あ……いえ、本当に暑いですね。京子さんは何にしますか?」


 慌てて立ち上がり、彼女を見ない様にして自販機へと向かう。

 自販機の前で財布を取り出しながらも、後ろにいる彼女の様子が気になって仕方無かった。

 今、感じている動悸は病気のせいではないかもしれない。


「うふふ、じゃ、私は……緑茶で。ありがとう」


 彼女が実際にどこを見ているのかは分からないが、背中越しに彼女の視線を感じる様な気がする。

 それほどまでに突如として僕は彼女を意識し始めていた。

 ほんの少しだけ震える指先で自販機のボタンを押し、缶を拾う。

 自分の飲み物に悩んでいる振りをしながら、顔の紅潮が引くのを待った。


「はい、どうぞ」


 落ち着きを取り戻し、出来るだけいつもの自分を準備しながら飲み物を渡す。

 彼女は何事も無かったかのように微笑みながら、


「ありがとう。今度は私が奢ってあげるね」


 そう呟いた。汗一つかいていない彼女とは対照的に、僕の背中にはひんやりとする感覚が付きまとっている。


「あ……気にしないでください……。それより、昨日の続きを聞かせてくれませんか?」

「続き?」


 このまま無言になってしまうことに耐えられそうにないので、とにかく話題を振った。

 昨日の話というのはこの村に伝わる幾つかの伝説のことだ。

 屋上で何気なく聞いていた話だったのだが、唐突に思い浮かんだ話題がそれしか無かった。


「はい。泣姫の話です」


 泣姫とは——まぁ、どこにでもあるような話なのだが——この村に伝わる悲しい姫様の話だ。昨日は夕食の時間になってしまったため、途中までしか聞くことが出来なかったのだ。


「君、昔話好きなの? それも見かけによらないね」


 くすくすと笑いながら上目遣いで僕を見つめてくる。

 口元に当てられた緑茶の缶は——真冬に暖かい飲み物を飲んでいるかのように——両手で包まれていて、それが少しだけ可笑しかった。


「ははは、それもひどいですね。こう見えて結構好きなんですよ。その手の話」


 何気に振っただけの会話だったが、それでも何とか話に乗ることが出来た。

 お陰で僕の緊張は少しだけ楽になった気がする。


「あらら、そうなの? うふふ、冗談冗談。じゃ、泣姫伝説ね」


 それから彼女はいかにも昔話を話すといった感じで『むか〜し、むか〜し』と語り始めた。

 後ろの窓から午前の日差しをうっすらと浴び、髪を黄金色に反射させながら、瞳を閉じて本当に嬉しそうに語る彼女。まるで自分が見てきたことの様に。僕はその仕草に見入りながらも、今度はきちんと聞いていた。


 その話は僕も似たようなものをどこかで聞いたことがあるような悲恋物語だった。


 遥か昔、この地方を治めていた当主の一人娘——村人からは姫様と呼ばれていた——が、この村の若者に恋をした。

 しかし当時、この地方は長い日照りが続いており、村人たちと当主の関係はうまくいってなかった。

 そのため娘の恋もうまくいかず、その若者から罵声を浴びせられてしまう。

 ひどく落ち込んだ娘は、この村の山へと一人で入り、そのまま行方知れずとなったのだった。

 そしてそのことが原因で当主は塞ぎこんでしまう。


 しかし娘がいなくなった後、まもなくして突然の大雨が村を潤し、当主を不憫に思った村人たちが娘の捜索を始める。

 何十人、何百人という人手で山の中を隈無く探したが、結局、遺体はおろか遺留品さえも見つからず仕舞いだったそうだ。


 そして捜索を続けるうちに村人たちは不思議な現象に出会う。

 月の綺麗な夜、山の中で姫の泣き声だけが聞こえてくるのだ。

 姿も見えず、声をかけても返事もないが、すぐ近くから寂しく切なくすすり泣く声だけが——。


「それで人々は彼女を泣姫と呼び、その姫のためにほこらを作ったの。そのほこらがどこにあるのかは、最早分からなくなってしまった様だけど……。もしかしたら形を変え、あの神社がそうなんじゃないかって説もあるのよ」


 そう言って彼女は話を締め括った。まるで自分の身に起こったことのように哀しい笑顔を作っている。


「あの神社が……?」

「ま、それは定かじゃないんだけどね」


 確かにほこらが神社になるなんてことが実際にあるのかどうかは分からない。

 この話が真実だという確証も無い。

 それでも伝説には必ずと言って良いほど元になる実話があるのだ。

 きっとさっき彼女が見せたあの表情は、泣姫の元となった少女への同情だったのだろう。僕はあのノート以外でも彼女の感受性の強さをこんなところで感じていた。


 昼食の後、彼女の部屋へと行った僕は、またいつもと同じ様に二人で時間を過ごしていた。

 何気ない会話と、時々黙りがちに海を見つめる彼女、そしてそんな彼女を見つめる僕。

 以前まではそこに恋愛感情は無かったのかもしれない。

 そこだけが以前と違うところだった。

 そのせいか時々不自然になってしまう僕に、彼女は決まって優しく微笑んでくれた。それはいつか見せた母の様な微笑み。総てを包み込むような——。


 夕暮れ時になって、ベンチへと向かう。

 途中で看護婦さんとすれ違い、


「あらららら、若い人は良いわねぇ」


 なんて冷やかされたけれど、決して嫌な感じでは無かった。

 それは京子さんにしても同じようで、姉に甘える妹の様な、僕が見たことのないそんな笑顔で、


「もう〜、そんなのじゃないですよ〜」


 なんて言い返していた。

 僕はと言えば、そんな彼女の新しい表情が見られたことだけで、舞い上がり、耳まで紅潮させてしまうのだった。


 ベンチに着いた頃には、太陽も既に半分以上が海に沈もうとしていた。

 その太陽と海の境目がくらくらと揺れて曖昧になり、まるで太陽の下半分が溶け出して海の上へと流れ出ていくようだった。

 そんな消え行く太陽の最後の抵抗を体中に浴びながら、僕たちは長い影を落とし、ベンチへと座る。


「今日も綺麗な夕日だね」


 眩しさのあまり手を翳しながら、ゆっくりと僕の方を振り向く彼女。

 その細められた流し目と薄っすらと微笑む口元がひどく綺麗だった。


「そうですね。やっぱり夏場は綺麗ですか?」

「そうだね。私は冬よりも夏の夕焼けの方が好きだな」


 そう言ってまた海の方を見る。眩しいはずなのに無理にでも夕日を直視しようとするような仕草だった。


「あ、そうそう。明日はね、毎月の恒例行事なんだよ」


 突然思い出したように、こちらを振り向く彼女。前髪がふわりと優しく揺れた。


「え? 何かあるんですか?」

「うん、近くの町に養護学校があってね——」


 彼女が言うには、近くの町の養護学校の生徒が、明日みんなでお見舞いに来てくれるのだそうだ。

 内に篭りがちになってしまう子と、病院から出られないお年寄りが触れ合うための行事だそうで、毎月一回行われているらしい。


「その学校にね、私の知り合いもいるの。だから明日一ヶ月ぶりに会うんだ」

「知り合いってことは、この村の人ですか?」

「うん、私より一つ年下なんだけどね、中学校までは同じ学校だったんだ」


 彼女は嬉嬉として話している。

 友人のことを話す時の彼女はいつだってそうだった。この人口が少ない村において、友人の存在がいかに大きかったかが理解できる。


「年が違うのにそんなに仲が良いんですか?」

「そうだよ。ほら、こんな村でしょ? 小学校なんて、一番少ない時は全校生徒16人だったんだから」


 田舎だとは理解していたつもりだが、現実にこういうことを聞くと驚いてしまう。


「16人……ですか……」


 彼女は『くすっ』と笑って、『都会育ちの君には珍しいでしょ?』と言った。

 いつもの様に夕日にのまれながら頬を紅く染めて、海風になびく髪はさらさらと音を立てる様に流れて、本当に嬉しそうに微笑む彼女。

 僕はそんな彼女を前にして言葉を失ってしまう。儚いような、切ないような、一瞬にして悠久のような、そんな一日の終わり、黄昏時だった。


 『今日は泣姫の話、ありがとうございました。

  つい聞き惚れてしまいましたよ。

  ああやって京子さんと過ごしている時間は本当に幸せです。

  僕にとって嫌な事、嫌な考えは、京子さんとの時間の中では

  完全に鳴りを潜めています。

  頭の隅にも残っていないくらい——だから本当に幸せなんです。

  それでもたった一人の時間が来ると、

  例えばそれは就寝直前のベッドの中だったり、

  ふと鏡を目にした時だったりするのですが、

  確実に僕の心が蝕まれていくのを感じるんです。

  でもそれは嫌なことじゃありませんよ。

  寧ろ、それも幸せなことなんです。

  だから僕にとって、今は本当に幸せなんです。』


 『僕には二つの時間があって

  それぞれが違う局面を持っています。

  だけどそのどちらに於いても

  僕は何かに心を弾ませているんです。


  新しい自分の発見——

  振り下ろされる鎌への憧憬——


  それは或いは一つの心に共存すべき感情では

  無いのかも知れません。

  その二つの感情を繋ぎとめているのは

  他でもない貴女なんです。


  だからどちらの時間でも

  僕の心は貴女でいっぱいです。

  だから僕は幸せでいられるんです。』

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