第五章

 深夜までずっと降り続いていた雨も、朝起きると見事に上がっていた。

 ダイレクトに朝日を浴びながら、ベッドの中で背伸びをする。

 何だか清々しい目覚めだった。


 昨日一日でわかったことだが、僕は京子さんとあのベンチへ行くのが余程好きらしい。

 彼女の顔が夕日で紅く染まり、髪が黄金色に輝く瞬間を見ているのがとても嬉しいのだ。

 だから今日はそれが見られると思うだけで、何となく浮かれてしまう。


 朝食を終え、一息ついているとドアがノックされた。


「光一君、検診ですよ〜」


 看護婦さんだ。


「あ、良いですよ。どうぞ」

「はい、じゃ、これ」


 そう言って体温計を手渡される。

 僕が熱を測っている間、看護婦さんは慣れた手つきで脈拍を取り、血圧を測っていた。


 田舎の病院だからなのか、都会でもそうなのかは知らないが、ここでは血圧は昔ながらのポンプ式の機械で測っている。

 最近はデジタル表示の全自動のモノがあるだろうに……。

 と、いうことはだ。

 あの全自動の奴はいまいち信頼されていないということなのだろうか……?


 そんなことを考えていると、血圧を測り終えた看護婦さんが聴診器を耳から外し、話しかけてきた。


「そういえば、光一君、最近、西沢さんと仲良いわね」


 西沢とは京子さんの苗字だ。流石にあれだけ部屋を行き来していれば目撃されるだろう。


「京子さんですか? ええ、知り合って一週間位経ちますよ」

「あら、京子さんなんて呼んでるの? 意外と積極的ねぇ」

「ははは、それって積極的なんですか?」


 苦笑しながら聞き返した。何気ない会話。本当にこの人は気楽に話せる人だ。


「積極的よ〜。で、結構気になってたりする?」

「何なんですか、それ?」


 二人で笑いながらそんなことを話した。

 不思議と嫌な気分じゃなかったのは、きっと僕が本当に京子さんのことを気にしてるからなのだろう。でもそれが恋愛感情なのかどうかはわからない。

 あの二人だけの自己満足——特別な状況下の交換日記——がそう思わせているだけかもしれないのだ。


「いやね、君みたいな子には、西沢さんみたいな娘が合ってると思うのよ。お姉さんはね」


 人差し指を『ぴんっ』と立てながらウインクをした。その仕草に思わず苦笑してしまう。


「どういう意味ですか? お姉さん?」

「あ、今ちょっと馬鹿にしたでしょう? 私だってまだ20代なんだからね!! ま、でもね、私としては嬉しいのよ」


 看護婦さんは本当に嬉しそうな人懐こい笑顔を見せる。


「嬉しい?」

「そう、君、ここのところ、すごく明るくなったから……。最初の何日かは部屋に篭りっきりだったでしょう?」


 なるほど。この人はそんなところまで心配してくれてるんだ。

 そう考えるとどうしようもなく嬉しくなった。

 誰かに感謝するということは、こういう日常の些細な場所に隠されているんだと実感する。


「あぁ……確かに、京子さんに出逢ってからは良く外に行くようにもなりましたね」

「そうでしょう? まぁ、明るくなったのは良いことだわ。あ、そうそう、今日は診察だから診察室に行ってね」


 ここの入院患者は診察の日には先生の所まで行くのだ。と言っても、まだ一般外来が開く前だから人はほとんどいなくて、待たなくて良いのが特権だった。

 一般外来が開いてしまえば、流石に田舎とはいえ、お年寄りの数は半端じゃない。何でもここはこの辺りで一番大きな病院だから、近隣の村からも電車に乗ってくる人達がいるらしいのだ。


「あ、ついでだから、西沢さんも誘ってあげてね〜。あの娘も今日だから」

「ははは、それ、計画的犯行でしょ?」


 看護婦さんは『どうかしら〜』と笑いながら出て行った。

 どうせ今から京子さんの所にも行くだろうに……。本当に伝えないつもりなのだろうか?

 それでも僕は少しだけ嬉しかった。何となく押し付けがましい様な看護婦さんの親切も、裏を返せば僕を心配する気持ちから出てきているものなのだ。

 流石にそれを読み取れないほど僕は子供ではなかった。だからより一層感謝の気持ちが増し、嬉しかった。


 看護婦さんが出てからしばらくして僕も部屋を出る。そろそろ京子さんの検診も終わってる頃だろう。


 清掃や食事や検診なんかでどことなく忙しい雰囲気の中、両側が病室になっていて窓の無い廊下を歩いて行った。

 そうして京子さんの部屋をノックするといつもと変わらない返事が返ってきた。


「おはようございます」


 言いながらドアを開ける。


「あ、おはよう。今日は早いのね。今検診終わったばかりだよ」


 看護婦さんは本当に診察のことを伝えていないようだ。僕はそれでまた苦笑してしまった。


「……? どうしたの? 何か面白いことでも?」

「あ……いえ。今日は診察らしいから先生の所へ行くようにと、看護婦さんに言われました」

「え? 診察? 私?」


 何のことだかわからないと言った表情で聞き返す京子さん。僕は困ったような笑みを浮かべながら頷いた。


「……あ〜、篠田さんでしょう? 全くあの人は〜」


 篠田さんとは僕がいつも『看護婦さん』と呼ぶ看護婦さんのことだ。

 きっと京子さんにも僕に言ったのと同じ様なことを言っているのだろう。

 京子さんも僕と一緒に苦笑していた。


「ま……まぁ、そう言うわけで……。僕も今からなんで一緒に行きませんか?」


 そうして僕たちは二人で診察室へと行った。

 京子さんに先を譲ったので、僕は待合室で待つ。

 程無くして彼女が出てきたから、入れ替わりで僕が診察室へと入った。


「おはようございます」

「はい、おはよう、大木君。どうぞ、座って」


 僕や京子さんの担当医の相葉先生だ。年齢は医者にしては若い方だと思われる30代前半の男性。少し太り気味なところが、医者にしてはありがちな神経質でインテリな雰囲気の人とは違い、とても好感が持てる先生だ。

 先生はいつも通り聴診器を当て始める。


「苦しいとか、疲れやすいとか、特に前と変わったところはない?」


 苦しくなるのも、疲れやすいのも以前と何ら変わりない。だから僕は特に変わりないと答えた。


「そうか。じゃ、特に変化はないね。ここは空気も綺麗だし、しばらく養生していれば良くなるよ」


 先生はそう言ってくれたが、僕には『もうしばらくすれば楽になれるよ』としか聞こえなかった。実際、何もせず薬を飲むだけで治るような病気じゃないのはわかっているのだ。自分の体のことは自分が一番良くわかる。

 だから先生が何を言おうと、今の僕には死の宣告にしか聞こえない。

 ただそれでも先生への感謝の気持ちと申し訳なさが相まって、僕は心にも無いことを口にするのだ。


「ありがとうございます。少しでも早く良くなるように頑張りますね」


 その後、僕と京子さんはほぼ一日一緒に過ごした。

 いつものように夕暮れ時にベンチに行き、そこで彼女からノートを受け取る。

 僕の大好きな、幻想的で、神秘的な、彼女の横顔を見られたことも本当に幸せだった。そうしてまた今日という日が終わっていくのだ。


 『今日は朝から参りましたね。でも正直ちょっと嬉しかったですよ。

  何となく看護婦さんの心遣いが……。

  先生の診察はいつも通りでした。しばらくすれば良くなるよ——って。

  可笑しいですね。だったらここにいる意味がないのに——。

  空気が綺麗で薬さえあれば良いのなら——。

  そうそう、昨日、少しだけ羨ましかったですよ。

  僕にはお見舞いにきてくれる人はいませんから……。

  だけど可愛いって……? 僕、女性にそんな風に見られてるんですか?』


 『毎日が同じことの繰り返しで

  先生が同じことを言うたびに

  ああ、僕の命は短くなってるんだなって。

  全てが同じことを繰り返して

  地球がくるくるくるくる回っても

  確実に僕の命は端から削れていくんだなって。

  きっとそれが全て無くなり消え去っても

  相変わらず世界は同じことを繰り返すんだなって。』

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