第7章 イケメンさんと私

第40話

「おはよう……」

「あら、おはよう」


 その日も私が目覚めたのは、大きな太陽が空高く輝き、お母さんの作った朝ご飯の良い香りが漂い続ける頃だった。時計の針は、今すぐ準備をして学校へ向かわないと遅刻してしまう事を示す時刻を指している。でも、今日は行けるのか、と心配そうに尋ねるお母さんの質問に対し、私は首を横に振って今日も難しい、と言う意志を示した。

 数日前から、私はずっと学校を欠席し続けていた。学校へ行くこと自体が怖い、と言うのがその理由だ。


 今までどれだけ酷い苛めに遭っても、相談できる相手が誰もいない一人ぼっちの状態でも、私はずっと学校へ通い続けていた。それなのに、あの日――私の『恋人』であるイケメンさんの正体を知り、二度と会えなくなるという現実を突き付けられ、そして飼育小屋で俯く一頭のブタさんのそばに、イケメンさんが持っているはずのアクセサリーがあるのを知った時からずっと、その場所がある学校そのものに行く事に恐怖を感じていたのである。



「……敦子、本当に大丈夫なの?」


 お母さんは、何度も私にそう尋ねてきた。当然だろう、先生からの突然の連絡で学校に駆けつけてみれば、自分の大事な娘がどういう訳か飼育小屋の前で泣き叫び、それきり意気消沈して何も言わず、何日も家に篭ってばかりなのだから。


「……」

「……そう」


 でも、私はお母さんの言葉に何も返すことが出来なかった。ずっと私を心配し、無理をするなと優しく諭し続けるお母さん、そして同じようにずっと心配し続けているお父さんの気持ちが、とても辛かった。何せ、私はただ「体の具合が悪い」の一点張り、あの時どうして泣き叫んでいたのかの理由を一切言う事が出来ないまま、今に至ってしまったからだ。


 体調不良だなんて、真っ赤な嘘。本当は、秘密の恋人との別れを理解できず、ずっと悩み、苦しみ、もがき続けていた。あの日にイケメンさんから聞いた内容、そしてその後味わった経験を、私は自身の中で未だに整理しきれていなかったのだ。

 確かにイケメンさんの正体が飼育小屋に住むブタさんである事はこの目でしかと確かめたし、科学の常識を超えた奇跡を生み出した要因は私にあるというのも理解した。そう、完全に理解し、納得できたはずだったのに、飼育小屋の前で流した涙で、全ては壊れてしまった。どんな出来事でも、イケメンさんの言葉なら絶対に信じる、と言った私の決意もまた嘘になってしまったのかもしれない。


 私は大嘘つきだ。私は悪い人だ。そう思えば思うほど、また意気消沈し、学校へ向かうどころか、外に出ることすらためらう事態になっていた。


「いただきます……」


 結局その日も私は家から一歩も出る事が無く、お昼ご飯もお母さんが買ってきた弁当を頂いた。既に学校には、お母さんの口から私が『体調不良』であるという連絡が行き届いていた。でも、ずっと無遅刻無欠席で居続けた生徒が急に何日も休む事態になった事に先生たちも不安になっている事は、電話の前に立つお母さんの言葉からも読み取れた。


 私は我がままで愚かだ。イケメンさんとの約束を一切守れない、酷い女だ。ご飯を食べ終わった後、私は自分の部屋で静かに涙を流した。前日も全く同じように考えて、そして同じように泣いたのに、結局一夜経っても何も変わらないまま、再び自分を責め続ける事になってしまった。でも、いくら嘆いても学校へ行く事に対する『恐さ』は消えなかった。イケメンさんの正体であり、言葉も考えも一切交わせず、ただ飼育小屋で一生を過ごすだけのブタさんに会う事、たったそれだけの事が、全ての気持ちをせき止めてしまっていたのかもしれない。


 このまま一生学校へ行けないまま、夢を諦める人生を過ごしてしまうのだろうか。


 そんな事を考えた時、突然家の呼び鈴が鳴る音がした。しばらくすると、玄関のドアが開く音と共に、お母さんの驚きと喜びの声、そして聞き慣れた賑やかな別の声が私の部屋の中に響き始めた。私はとっさに耳を塞いでしまったが、すぐにその賑やかな声は去っていった。


 再び静けさが戻り、一体何だったんだろう、と思いにふけろうとした直後、閉め切っていた私の部屋のドアが開き、お母さんが何かを持って入ってきた。


「敦子、貴方のお友達がこれを渡して欲しいって」

「え……私……に?」


 その通り、とお母さんが言いながら差し出したのは、一枚の封筒だった。先生が資料を渡す時などに使う茶封筒だけど、中の手紙は少し乱雑な入れ方をされており、封もしておらず、何より封筒には住所も何も書かれていない。これは一体何なのか、私が訪ねる前に、お母さんが先に答えを言ってくれた。


「これ、敦子宛の手紙だって」


 邪魔すると悪いから、と言いながら足早に去るお母さんを見送る私は、驚きの顔を崩す事ができなかった。あの賑やかな声の主が、私と同じ飼育小屋の掃除を担当するクラスメイトであるという事は分かったけれど、私の家まで『手紙』を持ってくるとは思わなかったからだ。それも、誰も一度も訪れた事がないはずの私の家へ向けて。



 『学校』に関連する事、と言う怖さも忘れ、私は無我夢中で封筒の中にある紙を取り出し、手紙に書かれている文章を読んだ。そこには、私が急に休んだ事、私が今までしていた仕事を自分たちがする羽目になった事などに対する怒りや文句は一切記されていなかった。むしろ急に体調不良で学校を何日も休み続けた私を心配し続け、具合が良くなるまで学校の様々な仕事や授業の内容の整理は自分たちに任せて欲しい、という優しい励ましが、絵文字やシール交じりで書かれていたのだ。


 その言葉に嘘偽りが全くないというのは、パソコンや携帯を使ったメールではなく、わざわざ『手紙』という方法を使った事からでも明らかだった。少し綺麗な文字には、心から友人を心配する気持ちが溢れんばかりに含まれていたのだ。

 今の私は、学校へ通う単なる一生徒ではなく、クラスにとって欠かせない一員になっていたのである。でも、自分はその事をずっと忘れてしまっていた。でも、今ならきっと大丈夫、一緒に学校生活を楽しんでくれる友達がいるのだから。嬉し涙を流し続ける中で、私の気分は次第に高揚していった。



 そして夕食の場で、私ははっきりとお父さんやお母さんに向けて明日からいつも通りに学校へ行く、と言った。勿論、何日も家に引きこもってしまい、迷惑をかけて申し訳ない、と謝る事も忘れずに。


「本当に大丈夫なのか……?」

「あまり無理しない方が……」


「うん、大丈夫。私、平気だから」


 テンションが高めのまま、私はそう言いながら両親をなだめた。自分の存在を大事に思ってくれる人がたくさんいる、という事実を、私は心の中で何度も噛み締め続けた。きっとこれなら学校が怖いという感情も無くなるだろう、そんな淡い期待や勇気すら頭抱くほどだった。




 次の日、私は数日振りに目覚まし時計に起こされ、お母さんの作る朝ご飯の香りより先に目を覚ます事が出来た。


「ねえ、敦子……」

「大丈夫だよ、お母さん。心配しないで」

「う、うん……」


 お母さんが何を言おうとしていたのかは分からない。でも、あの『手紙』を読んだ自分は何もかも平気、怖いものなんてない。そんな「元気」を胸に、私は久しぶりの通学路へ飛び出していった。





 でも、その元気は単なる『空元気』である、と言う事を、私はすぐに思い知らされる事になった。


「あ、丸斗さん!体のほうは大丈夫?」

「うん、大丈夫。昨日は手紙ありがとう」


 こうやって元気にクラスメイトの星野さんと会話している間、私は完全にある事を頭の中に封印していた。確かに、星野さんたち私の友達が作ってくれた手紙のお陰で、こうやって学校に来る事は出来た。でも、何故手紙を贈るということを考えさせてしまうまで、私は追い詰められてしまったのだろうか。その根本的な要因は一切解決されないどころか、綺麗さっぱり忘れてしまおうとしていたのである。

 でも、永遠に忘れさせてしまうほど、現実は甘くなかった。勿論、星野さんが悪いわけではなく、私の自業自得そのものかもしれない――。


「丸斗さんが休んでる間、ちゃんと『飼育小屋』の掃除、やっておいた……ん?」


 ――中身の無い元気は、ほんの些細な一言によって呆気なく崩れ落ちるものである。



「丸斗さん、どうしたの?

 急に顔色が悪くなったけど……」

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