第39話

「はははは……それで、続きは?」

「ええ、その後に私が……」


 私の言葉に、イケメンさんが耳を傾ける。イケメンさんの話に、私の心が躍る。

 何度も経験し、日常の一部となっていたこの時間も、これが最後だ。イケメンさんに負けじと、私も色々な話題を出し続けた。



 太陽が西の彼方に輝き、空が赤色に染まっていく中、私とイケメンさん――もう少しで、永遠に『ブタさん』の姿に戻ってしまうが――は、図書館から学校へ向かう道を歩き続けた。勿論、なるべく遠回りをしながら、二人でいる時間を長く保ち続けられるよう、互いに意識しあいながら。

 残された時間は、二人で一緒に楽しい事を語りつくそう。目から零れ落ちる涙を拭き、元の優しくも凛々しい顔に戻ったイケメンさんとの約束だった。色々と揺れ動きすぎた今日の出来事を締めくくるのは、悲しみの涙じゃないほうが良いだろう、そう互いに話し合ったのだ。多分、ずっと泣く事がなかった私を見て、イケメンさんもそう決意したのだろう。『終わり』が見えているのに、何故か私は悲しさ以上に、イケメンさんへの感謝とこれまでの日々の嬉しさの方が上回っていたのだ。


 そして、夕陽が差す道で、私たちは思い浮かぶだけ色々な――だけどなるべく楽しく笑えるような話を持ち出し続けた。


 例えば、イケメンさん=ブタさんと一緒にいるときの失敗談。


「うわー、ちょっと待って、なんで敦子覚えてるのそれ……?」

「すいません、記憶に残っちゃって……」


 最近のテストでもまた良い点数を取る事ができた事、ただし――。


「あー、そりゃ気をつけないとな……マークする問題さえずれなきゃ満点だったのに……」

「うっかりミスですね……気をつけます」

「ま、他が良かったんだから、次はそこに気をつければいいさ」

「あ、ありがとうございます……!」


 友達との仲も、上手く進んでいる事。


「あいつ、ようやく俺たち動物の扱いが丁寧になってきたようで何よりだぜ……」

「『イケメンさん』に時々怒られたのが応えられたって言ってましたね……」

「あぁ……そうだろうな!あれくらいすれば……」


 そして、これからの事――。


「学校行事も色々あるんだな……まぁ、俺はいつでも応援してるからな」

「ありがとうございます……私、頑張ります……!」



 ――多分、このときの私は今までで一番饒舌になっていたかもしれない。友達の噂話や自分の欠点など、普段の私なら興味を持ってもすぐに不安になってしまい、口を噤んでしまっていたからだ。でも、イケメンさんとの話題を頭の中で探す中で、私の口からは次々とそういった話題も飛び出し続けていた。でも、それは度々イケメンさんが言っていたように私が強くなったからではなかった。話せば話すほど、イケメンさんといる時間が長くなるという、一言で表すと『時間稼ぎ』に過ぎなかったのだ。


 きっと私は泣かなかったのではなく、悲しみの涙を流す事を後回しにし続けていただけだったのかもしれない。



 

 話しているうちに、少しづつ二人の間に静かな時間が流れ始めた。私もイケメンさんもそれに気づいて新しい話題を持ち出そうとしたけれど、次第に静寂は長くなり、互いの表情にも哀しみが見え始めた。そして、とうとうその時間は訪れた。頭の中で思い浮かぶだけの話題の在庫が、尽きてしまったのだ。そして空を見上げると、太陽が一日の終わりを告げるようにビルの向こうに沈み始めていた。もう、どんな時間稼ぎをしても、二人の時間を作るのは不可能である、と言う事実を、私もイケメンさんも身に染みて感じていた。



「……行こうか」

「……はい」


 

 いつの間にか、二人の足は学校の傍に私たちを導いていた。心が嫌がっても、体は正直に現実を受け入れていたようだ。




 ここが俺の家だ、とイケメンさんは冗談交じりに、しかし寂しさを隠さずに校門を指差した。明日からは『イケメンさん』は元の『ブタさん』に戻り、この場所でずっと暮らし続ける事になる。元々そういうぐうたら生活をしていたから大丈夫だ、と私に優しく言ったけれど、本当は大丈夫ではないという事はもう私にははっきりと分かっていた。

 やがて再び静かな時間が訪れた。私はじっとイケメンさんの顔――テレビに出演するアイドル以上の、爽やかで凛々しく、そして頼もしい美形――を眺め、イケメンさんも上の方から何も言わずに私の顔を見続けていた。名残惜しさを我慢しながら、二人でじっくりとこの貴重な時間をしっかりと記憶に刻もうとしていたのかもしれない。そして、イケメンさんが視線をそらした瞬間、私の頭の中に途方も無いアイデアがよぎった。


「あ、あの……!」


 いつもの通りに顔が真っ赤になりながらも、私はいつも通り、はっきりとイケメンさんにそのアイデアを告げることが出来た。

 やはりそれを聞いた途端、イケメンさんの方も顔が真っ赤になっていたけれど、やがて意を決したかのように了承の頷きを返した。




「……じゃあ、こっちからも、二つお願いをしていいか?」

「……はい……!」


 『さようなら』の挨拶は言わない事。その『感触』が無くなるまで、目を閉じている事。簡単そうな内容だけど、私にとってそれは非常に大きな約束であった。

 どうしてこんな大胆なアイデアが頭の中に浮かんだのか、自分でも全然分からない。今までずっと一緒の時間を過ごしていたときでも、こんな事を考えたのは一度も無かったし、そもそもそういうアイデアに導くほどの勇気なんて私には無かった。でも、一度それを口に出してしまった以上、私の方も覚悟を決める他無かった。いや、むしろ覚悟を決めたかったのだろう。

 本当に良いのか、自分の正体が『ブタ』でも大丈夫か、と言うイケメンさんの最終確認にも、私は大丈夫だと返した。確かに目の前にいるのは、大きな蹄と太い脚、そして巨大な胴体を持つブタが人間の姿に変じた存在である。でも、それ以上に、目の前にいるのは私が憧れ、目指し続けた『恋人』だ。誰が『恋人』の願い、それも最初に言い出したのが自分であるお願いを撤回するだろうか。


「……じゃぁ、行くぜ……今までありがとな、敦子……」


「……はい……ありがとうございました……イケメンさん!」



 お礼の言葉を述べた後、私はイケメンさんの笑顔をしっかりと記憶に焼き付けながらそっと目を閉じた。やがて私の肩を、イケメンさんの掌の感触が覆い始めた。大きくて優しい、私の体を包み込むような心地を味わっていた瞬間だった。



 ――またな。



 その言葉と共に、私の唇は優しい電流に包まれた。


 生まれて初めて味わう他人の唇は、絶品と呼んでも過言ではないものだった。柔らかく、そして滑らかな感触に、私の頭の中は文字通り沸騰しそうなほどだった。きっとこの時――私が『恋人』として、その証を見せてくれる時まで、向こうもずっとこの感触を隠し続けていたのかもしれない。

 目をじっと閉じ、その心地を私は今までの思い出をもう一度噛みしめ続けた。出会い、図書館、ベンチ、テスト、楽しさ、嬉しさ、涙、慰め、忠告、デート、アクセサリー、バイキング、正体、学校、ブタ、会話、髪型、涙、笑顔、そして――。





 ――目を開けたとき、校門の前にいたのは、私一人だった。




 肩や唇に余韻を残し、顔を真っ赤にしながら、私はずっと立ち続けていた。目の前にいたはずの存在の欠片を探すかのように視線を動かしながらも、私の足は一歩もそこから動かなかった。先延ばしにしていた時間が訪れたという事実を、受け入れられないかのようだった。でも、私の視線がある場所にたどり着いた途端、私の体は突然動き始めた。

 


 毎回徒競走でワースト争いのはずの私だけれど、不思議とこの時は体から信じられないほどの力が溢れていた。外部からの侵入者を硬く閉ざし続けているはずの校門を飛び越え、そのまま校庭を凄い速さで駆ける事が出来たのだ。それは心の中の葛藤によって生み出された、火事場の馬鹿力のようなものだった。

 信じられない、でも今ここで確かめなければいけない。でも、信じたくない、いや、それでも――頭の中で様々な思いが巡る中、今までずっと我慢していた感情が溢れ始めた。次第に目の周りが熱くなり、視界がぼやけ始めたけれど、それでも私は走るのを止めなかった。例え近くを、休日出勤で訪れていた事務の先生が通り過ぎても。


「お、おい、どうしたんだ、今日は学校は……」

「すいません!!忘れ物です!!!」


 私の出した大声に驚く先生など、気にする余裕は一切無かった。


 私の足はとある場所でようやく止まった。息も絶え絶え、胃の中がかき乱されたような気持ち悪さを覚えながらも、それ以上に私の感情は爆発寸前の状況になっていた。既に目からは涙が流れ始め、鼻の中も詰まり始めていた。それでも私は何とか体勢を立て直し、飼育小屋――『彼』の自宅へと足を進めた。



 そして、とうとう私は、あの時の話が全て真実であると言う証拠をまざまざと見てしまった。壁を向けてうずくまり続ける『彼』の傍に、一本のバンドが置いてあったのだ。

 ブタの脚や蹄には絶対入らないだろうそのバンドと全く同じデザインのものを、私も持っている。そう、『彼』との最初のデートの時に二人でじっくりと考え、大事な宝物として互いの腕にはめたお揃いのものを。




「……お、おい……どうしたんだ……」



 先生の言葉は聞こえたけれど、その意味は分からなかった。心配そうに近くに寄ってきてくれたはずだけど、その姿も見えなかった。両親がやって来ても、そのまま車で家まで連れられても、何の反応も出来なかった。悲しみや悔しさ、切なさが入り乱れた果てに生まれた感情を爆発させる事以外、私には何も出来ず、何も考える事が出来なかった。






 そして次の日、私は学校の皆勤賞を逃した。

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