第38話

「……敦子……?」

 

 イケメンさんの声が、私の耳に響いた。その後に言葉が続かなくても、どうしてイケメンさんは私の名前を不思議そうに呼んだのか、私にははっきりと分かった。あまりにも意外な反応をされてしまい、唖然としているのだ。


 その声が聞こえない訳じゃない。私ははっきりと、イケメンさん――ブタさんの格好良くも優しさが混ざる声を聞いた。こうやって、一緒に図書館の近くのベンチで話す事が出来るのも、楽しい時間を過ごすのも、そして私の『恋人』でいられるのも、今日が最後になる、と言う内容も。その理由はたった一つ、ブタさんが長い間ずっと続けてきた『恩返し』が、全て終わったからだ。自分の命を助けてくれた存在に対して精一杯の思いを伝えるために、学校で苛められ続ける惨めで無様なブタ子を、友達に恵まれて明るい未来を目指す一人の少女に変える、と言う。



 もう、今の『敦子』に自分は必要ない。大事な友達や先生、家族と一緒に、夢に向かって歩み続ける事が出来る。



 てっきりイケメンさんは、その言葉を聞いた私が不安になり、涙ぐむものだと思ったらしい。でも不思議な事に、私は涙も流さず、不安な顔にもならず、ただ素直に返事をする事ができた。



「……お前……寂しくないのか?」


 そして逆に、イケメンさんのほうが不安げな口調になっていた。



「……寂しいです……悲しいし、辛いです。

 明日からこの場所に、イケメンさんと一緒に行けないなんて……」


「じゃ、じゃあ……なんで、泣かないんだ……?」


 

 私の目線は、ずっと空に向かい続けていた。今日が終わるまで既に半日をきった事を示すように、太陽が西に傾き続けていた空を。だから、イケメンさんがどういう表情をしていたのか、はっきりとは分からなかった。いや、分かりたくなかったからかもしれない。その凛々しく美しい顔を見てしまえば、きっとイケメンさんの考えていた通りの展開になってしまっただろう。

 それでも、私は泣かなかった。じっと空を見上げ、穏やかな心のままで語り続けた。悲しさよりも、感謝の気持ちが強いから、と。


「いつも、『ブタさん』の傍で泣きっぱなしでしたから……」


「別に……別にいいんだぜ?泣いたって……」



「いえ、でも、それだと今までの『過去』の私とそのままになってしまいます……」


 もしかしたら、このときの私は目から涙を流す代わりに、口から言葉を流し続けていたのかもしれない。頭の中で思い浮かんだ様々な言葉が、次々に音に変換され続けていたからだ。

 泣き虫だった自分を変えてくれたのはイケメンさんの『恩返し』のお陰、だったらここで泣いてしまえば恩返しが無効になって、ずっと一緒に居続けられるかもしれない。でも、それは今までの様々な『恩』を仇として返してしまうに等しい行為だ。いつも泣いてばかりだった私を変えるという目標を無かった事にするなんて出来ない。だから、悲しいという気持ちよりも、ありがとうという感謝の気持ちの方が大きい。もう今の私は強くなった。友達も居るし、図書館や飼育小屋以外の場所でも楽しく学校生活を過ごせるようになった。だからこそ――。



 ――言葉の中身が支離滅裂になっていくように感じた私は、慌ててその口を閉じた。


 ごめんなさい、といつものように謝ろうとも一瞬考えたけれど、最終的に私はそれはしなかった。遠慮しないで欲しい、と何度もイケメンさんが笑顔で言っていたのを思い出したからだ。今日限りで、その笑顔ともお別れになるかもしれない、そう思いながら、イケメンさんの方を向いた時、ようやく私は気づいた。



「……敦子……お前……」



 泣いていたのは、私ではなかったと言う事に。



「強くなったよな……可愛くなったよな……」


 大人の男性が涙を流す光景をこうやって目の当たりにしたのは、正直初めてだった。どうやって言葉をかければ良いか、分からないまま、私は呆然とイケメンさんの顔を見つめ続けた。鼻をすすり、目から水を溢れさせ続けるその姿は、どこからどう見てもブタではなく、立派な一人の『人間』だった。

 本当は、正体なんて見せたくなかった。このままずっと、一緒にいたかった。でも、一頭のブタである以上、このまま永遠に二人で過ごす事はできない。でも、それでもやっぱり、悲しいし寂しいし悔しい。イケメンさんの声は、次第に鼻声になってきた。そして、くしゃくしゃになった彼の顔を見た私は、ようやくこういう時にどうすれば良いか気づく事ができた。今までずっと私がそうされ続けてきたようにすれば、きっと相手も同じ気持ちになるはずだ、と。

 

 背の高いイケメンさんの頭に手を伸ばすのは少しだけ大変だった。でも、私の掌はしっかりと、その柔らかい髪の毛や形の整った頭の感触を確かめる事ができた。そして、ゆっくり丁寧に、そして優しく、私はイケメンさんの頭を撫で始めた。




「……私は、絶対に忘れません。今までの事も、そして今日も」



「……う……うぅぅぅぅ……うわあああああああああああああ!!!!」



 ――イケメンさんの涙を収めるつもりで頭を撫でたつもりが、全く逆の結果になってしまったようだ。


  今までずっと溜めていたかのような大粒の涙を流しながら、イケメンさんは泣き続けた。そして、私は彼の頭をずっと優しく撫で続けた。

 悲しみなのか嬉しさなのか、それとも安心の心なのか。涙に込められた感情は、私は勿論、本人も分からなかったようだ。でも一つだけ確かな事があった。ブタさんの不思議な『恩返し』は、全て成功した、と……。

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