第37話

 それは、今からずっと前――まだ私が『ブタ子』だった頃だった。



 毎日のように学校に来ては様々な苛めや嫌がらせを受け続け、それに必死に耐えていた私には知る由もなかったけれど、先生たちの間で、ある議題が飛び交っていた。学校で飼育されている大きなブタ――私の大好きなブタさんを、『処分』するかどうか、と言うものだった。

 昔の名残でずっと学校で飼われていたブタさんは、いつも大人しくて優しく、少々狭い小屋の中でも一日中何も文句を言わずに過ごしていた。飼育当番の生徒たちにからかわれたり、少し乱暴に扱われても、気にする事はなかった。でも、そんなブタさんでもたくさんのご飯や水を我慢する事はできなかった。どうあがいても、生きるためには体に見合ったものを食べて飲まなければいけない。問題となったのは、その量が他の動物たちと比べてあまりに多い事だった。



『昔からの風習を、今に残す必要はあるのですか?』


 動物園に売り払うか、牧場に譲り渡すか、最悪『処分』してもらうか――反対派の先生は、予算や衛生など様々な理由をつけて、ブタさんを学校から追い払おうとしていた。その中には、私のクラスの昔の担任――あの女子生徒と一緒にどこかへ転任してしまった先生も含まれていた。次第にその声は大きくなり、やがてブタさんは学校から追い出されてしまうと言う方向が決まりかけてしまっていた。


 でも、そんな状況に待ったをかけた人がいた。


『あ、貴方は事務の先生でしょ!』

『だからどうしました?貴方がたよりも、私はあのブタをよく知っていると自負していますが』


 学校の見回りから機械の点検、そして飼育小屋にいる動物たちの世話など、日々様々な仕事をこなす、事務の先生だった。確かにクラスを持たない先生は『生徒』の立場には立てないかもしれない。でも、その分動物たちの事はしっかりと把握している、と断言したのだ。

 そして、先生は皆に言った。もしあのブタが、生徒の誰からも愛されていなかったら、この学校にふさわしくないとして自分も『処分』に賛成する、と。ただ、逆に誰か一人でも、ブタを大事にしている生徒がいたら――。


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「それが……私……」


 ――驚く私に、儚げな笑顔を隠さずイケメンさんは頷いた。


「正直、俺は凄い怖かった。もし敦子が、俺のことを何にも思っていなかったらって……」


 でも、その心配は杞憂に終わった。


 私にとって、たった一人で様々な動物のお世話をした後にブタさんの元に行き、今日あった出来事を話したり、美味しい野菜を揚げたりするのは日常的なものに過ぎなかった。でも、それは『彼』にとってはまさに命綱だったのだ。こっそりとその様子を眺めていた先生たちも、私とブタさんの様子を見て、考えを改める事になった、とイケメンさんは告げた。もしそうじゃなければ、自分はここにいないだろう、と笑いながら。

 褒められる事に慣れていない私は、完全に顔が真っ赤になっていた。いつの間にか、私はイケメンさんの運命を変えると同時に、私自身の運命も変えてしまっていたのだ。ありがとう、と改めてお礼を言われた私だけど、どきまぎしながらもちゃんと返事をする事ができた。イケメンさんとの出会いで変わる事ができた私を見せるかのように。


「あ、あの……ど……どういたしまして!」

「まぁまぁ……って落ち着くのは難しいよな……。

 それで、俺はずっと考えていた。どうすれば、敦子に『恩返し』が出来るか、って」


 相変わらず緊張しきっていた私を解きほぐすかのように、突然イケメンさんは全く関係なさそうな、でも私の頭を刺激するには十分な話題を持ち出してくれた。南米に住む、様々な動物の血を吸うチスイコウモリだ。

 恐ろしい病気を媒介したり、家畜を怖がらせたり、とても恐ろしい存在である一方、非常に仲間思いが強い動物である、とも言われている。血が吸えなくて困っている仲間に、自分がたっぷり吸ってきた血をわけてあげるのだ。でも、それにはちゃんとした理由がある。


「俺も動物だけど、外国の動物なら敦子の方が詳しいよな?」

「は、はい……確か血を分けてあげたコウモリは、自分が困っているときに仲間に助けてもらう率が高くなるって……」


 得意な動物の話をしていくうち、私の心の中は一気に晴れ渡るようにスッキリし始めた。イケメンさんが今に至る理由を、私の中でしっかりと呑み込む事が出来たからだ。誰かに売った恩は、必ず売った人に戻ってくるもの。逆に言えば、『恩』を受け取った者は、それを何らかの形で返す必要がある、それが『動物』の心の一つの側面である、と。

 そして、私はずっと前に聞いた、事務の先生の言葉を思い出す事ができた。動物たちに無償の愛をもって接すれば、本人が思おうと思わないと、きっとその『恩』は返ってくる、と言う。



「……それで『ブタさん』から『イケメンさん』に……」

「いくらブタが頭が良いって言われても、敦子は人間だろ?だからどうやっても『恩返し』の方法なんて見つからなかった。


 でも、ある日……本当に突然なんだ、俺が『人間』の姿になれたのは」



 どういう原理なのか、何が影響したのか、ブタさん本人にも分からなかった。勿論私なんて更に分かる訳がなかった。でも、『イケメンさん』になった後に何が出来るか、そして何をするのか、それらはしっかりと頭の中に刻まれていたと言う。だからこそ、迷わず彼は私の元にたどり着くことが出来たのだ。人間の世界で普通に暮らせるという不思議な力を使い、『恩返し』をするために。




「……そうだったんですね……」

「……ああ……」


 空に輝いていた太陽は、西へ傾き続けていた。もう少し時間が経てば、この一帯も夕焼けに染まるだろう。そんな穏やかな空を見上げながら、私とイケメンさんはベンチの上に座り続けていた。

 今、私の頬をつねれば、全てが夢だと分かってしまうかもしれない。そう思ってしまうほど、現実離れした一日だった。でも、実際に頬をつねってみても、私にはしっかりと痛みを感じる事ができる。イケメンさんを助け、イケメンさんに助けられる、今までの事は全て現実に起きた、私にとって最高の日々であった。空を眺めながら、私と『彼』は同じことを感じていた。

 そして、太陽は沈もうとしていた。



「……もうすぐ、『恩返し』も終わりだ」


 別れを示す言葉は、イケメンさんの口から意外にあっさりと出た。先生、家族、そして友達と言う最良の理解者に恵まれ、そして成績もさらに優秀になった。今の私――敦子には、自分の存在は必要ない、と。



「……敦子……?」



 何故か私は無言で、その言葉に頷いた。今までのように泣き崩れたり動揺する事は無かった。今日何かが変わる事を、薄々と予知していたからかもしれない。どんな一日でも、必ず終わりを示す夕焼けが待っているように……。

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