第41話

 私はずっと、自分が普段の元気を取り戻す事が出来たとばかり思っていた。友達から届いた心がこもった手紙を読んだ事で活力を取り戻し、学校でいつもの日々を過ごし、友達と楽しく会話も出来るだろう、考えていた。でもそれらの思いはは全て、私自身に対して嘘をついている事と同じだった。どうして今までずっと家に引きこもり続け、学校に行くことを怖く感じてしまったのだろうかと言う根本的な問題を、私は解決するのを諦め、見なかったことにしようとしていたのだ。


 でも、現実はそうはいかなかった。友達の言葉にあった『飼育小屋の掃除』と言う単語だけで、私の体からあっという間に元気が抜け、代わりに重く暗い気持ちがのしかかってきたのだ。


「ねえ、ほんとに大丈夫なの……?」

「う、うん……」



 私の友達であり、あの言葉を言った本人である星野さんは、どうして突然気分が悪くなったのかを知らないまま、心配そうな顔で尋ねた。それは今までずっとお母さんやお父さんが私に向けていたものと全く同じ、理由も分からないまま困惑するものだった。


 でも、私にはずっと「大丈夫」の一点張りを保つ他なかった。例え友達である星野さんが相手でも、『飼育小屋』へ行くのが怖いという事、そしてその理由を言う事は出来なかった。ブタさんが恋人だなんて流石に誰にも言えないし、何よりその事実はブタさん=イケメンさんとの秘密だったからだ。結局今回も一切本当のことを言えないまま、星野さんに話を打ち切らせてしまった。



「……心配だな、私……いきなり顔色が悪くなるなんて」


 無理はしないように、と星野さんは言った。それもまた、お父さんやお母さんと同じ言葉だった。

 私が何もかも打ち明けられなかった以上、星野さんの無自覚さを責める事は一切出来なかった。そのため、私はずっと心配ないから大丈夫、と嘘を言い続けるしかなかった。絶対に真実を告げてはいけないと言う心と、私一人だけがずっと悲しみに沈んでいると言う事実が複雑に絡み合い、私自身に無理をさせ続けていたのかもしれない。


 私一人だけが、ずっと悲しみに沈んでいるのだとばかり考えていたからなのかもしれない。



 だけど、結局それは長く続かなかった。


「おい、丸斗……さっきからどうしたんだ?」


 どれだけ誤魔化そうとしても、担任の先生の目を欺く事は出来なかった。

 授業の間、ふらりと倒れそうな体を抑えて必死に先生の話を聞き、黒板に書かれた内容を書き写しているつもりでも、私のノートは何が書いてあるか分からない文字と、意味不明な点と線が入り混じり続け、そのうち先生の言葉に集中する事もままならなくなった。ちゃんと真面目に聞いているはずでも、頭の中は後悔や恐怖、懺悔など様々な気持ちが入り混じり続け、最早何が何だか分からない状態に陥ってしまったのだ。


 それでも懸命に耐え続けようとした私に向け、とうとう先生は保健室に言って休んでくるように告げた。大丈夫です、とまた言いかけてしまった私を遮るかのように、先生は厳しめに、だけど真剣な口調で言った。


「お前、これ以上無理して授業受けても内容は身に入らないぞ。早く保健室に行って寝てこい」


 言葉の荒さや口調の厳しさは先生の癖であり、その中身は生徒を気遣う優しい言葉であった。でも、心が掻き乱され続け頭の中が混乱の極致にあったその時の私は、自分の必死さが打ち砕かれたような衝撃的な気分に包まれてしまった。教室を後に保健室へ向かう足がとても重かったのは、そのせいなのかもしれない。


 それでも私は何とか保健室にたどり着き、今にも消えそうな声で事情を説明する事ができた。


「……分かったわ、どう見ても顔色も悪いし体も震えてる。ベッドの中で休んでいきなさい」


 今までずっと無遅刻無欠席を通してきた事もあってか、長い髪をした美人である保健室の先生とこうやって話すのは初めてだった。

 先生の言葉に感謝の一礼をしてからしばらくの間に私がどんな行動をし、どんな事を考えていたのかは、正直に言うとほとんど覚えていない。それだけ私は、混乱と緊張で頭がこんがらがっていたのだろう。でも一つだけ、ここに至るまでの私に対して確かな事があった。保健室の白いベッドの中で眠りに落ちるまで、私はたった一人でたった一人で悩み、苦しみ、そして自分を責め続けていたのだ。


 『もう一人』、同じように苦しんでいる者がいる事に気づかないまま――。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「……ん……?」


 ――ベッドの中で私が目覚めたのは、カーテンに隔てられた部屋の向こう側から、久しぶりに聞き慣れた声がした時だった。そ私がずっとお世話になっているこの学校の事務担当の先生の声だ。だけどそれは普段とのものとは違い、どこか不安そうな声だった。


「あ、丸斗さん……」

「おぉ、大丈夫か!?こんな所で寝てたなんて……」


 病人の前で大きな声は駄目だ、と保健室の先生に怒られてしまったけれど、事務の先生は明らかに私がずっと休んでいた事を知っているような口ぶりだった。一切学校を休まず真面目にきていた生徒が突然体調不良で何日も休むと言う事態が起きると、やはり担任以外の先生たちも心配してしまうようだった。特に、『飼育小屋』関連でいつもお世話になっている事務の先生とならばそれはなおさらだろう。


 一体何が起きて保健室のベッドで眠っていたのか、私より先に保健室の先生が答えてくれた。何かの心労か過労が原因で気分を悪くしてしまった、と的確に、そして簡潔に伝えてくれた。そのお陰で、少し事務の先生も心配が取れたようだった。そして、私自身もベッドの中で熟睡し続けた事もあってか、先程よりも顔色が良くなっている、と保健室の先生は言った。その通り、ここ数日ずっと苦しみ、悩み続けていた期間と比べれば随分体も軽く、そして心も落ち着いたようである。


 そういえば、家に篭っている間ずっと家の柔らかいベッドでも眠る事が出来なかったのだった。


「そうか、体調が良くなって安心したよ」

「すいません、お二人にも心配をかけてしまって……」


「謝る事じゃないから、気にするなって」

「そうよ、これが私の仕事なんだから」


 ぐっすり眠っている間に今日の授業は全て終わってしまい、後は家に帰るだけという状況になっていた。いくらからだが軽くなったとは言え、今日は無理せずそのまま帰宅した方が良いという言葉を聞き入れた私は、荷物を取りに教室へ戻るべく、保健室を後にしようとした。

 まさにその時だった。事務の先生が、ある事を口にしたのは。



「……それにしても、本当に大丈夫なんですかねぇ。心配で心配で……」


 ――飼育小屋でうずくまり、ずっと具合が悪い『ブタ』の体の調子は。


「……あ、あの……!」


 先生の口から飛び出した言葉に衝撃を受け、頭の思考回路が一瞬ショートしそうになりながらも、私は声を荒げながら事務の先生に問いただした。飼育小屋に住む『ブタさん』に何が起きたのか、どのように体調が悪いのか、命に関わる事ではないか、死にはしないか――保健室だから静かにして欲しいと注意されるまで、私は無我夢中だった。



 あの日の夕暮れ――飼育小屋にいる一頭のブタを前でに私が号泣していた時から、ずっとブタさんから元気が失われている、と事務の先生は説明してくれた。普段なら小屋の中を動き回って運動をしたり呑気に寝ていたりするはずなのに、あれから毎日壁の方を向いたままずっとうずくまり続け、鳴き声も発さずにじっとしたままだと言うのだ。さらに、起き上がっても野菜や健康食品をほんの僅か食べるだけですぐに小屋の奥の方へ逃げてしまい、そのままじっと座りこんでしまう。明らかにブタの体の具合がおかしくなっている、と事務の先生は告げた。


 幸い熱などのウイルスや細菌による症状は無かったようだが、それとは別の第三の原因、『ストレス』の危険性を事務の先生は危惧していた。


「ブタはああ見えてもナイーブな動物だからな……食べるための豚肉の味にも現れるほどだ……」

「そうなんですか?」

「そうなんですよ先生」


 保健室の先生は知らなかったようだけど、ストレスが溜まってしまったブタの肉は『フケ肉』と呼ばれ、不味すぎてとても食べられるものじゃないと言う。主な要因として、住んでいる場所がブタたちにとってあまりに過酷な条件である事や、運ばれている際に様々な恐怖や不安を抱いてしまう事などが挙げられている。

 私がこの事を知った図書館の本の中では、この事実を基に様々な持論が展開されていたけれど、今回の事態で重要なのは、ブタさんはふつうの人が考えるよりストレスに弱い事、それはすぐに体に出てしまう、と言う事である。そしてもう一つ、人間と同じく、ブタさんたちもまた自らのストレスによって自身の命が奪われてしまう、と言う場合が――。



「……!」


 ――私は気づいた。『ブタさん』が何故ずっとストレスを抱え続けているのか。何故ずっとうずくまり続けているのかを。

 


 あの夕暮れの別れ、そして最悪の形での再会から立ち直る事が出来ずにずっと悩みつづけていたのは、私だけではなかった。二度と『イケメンさん』の姿に戻る事が出来ない、もう言葉を交わす事が出来ない、という残酷な運命を自ら選んだブタさんもまた――いや、彼は私以上に悩み、苦しみ続けていたのだ。こうやって私は他の人間と話し、自分の考えを伝えたり聞いたりする事が出来るけれど、人間の姿になれないブタさんは、いくら鳴いても自分の気持ちが伝わる事が無いのだ。きっと今も、誰にも自分の心を明かせないまま、たった一人で飼育小屋の中で苦しんでいるに違いない。

 

 今までなんて酷い事をしてしまったのだろうか、とようやく私は気づく事ができた。自分だけが苦しいんじゃない、心を交わした『恋人』だって同じ気分なのだ。大事な人が、これ以上苦しんでいる姿なんて見たくない。一人ぼっちで悩んでいるなんて、もっと見たくない。

 正直、怖い。でも、やるしかない。


「せ、先生……」

「お……ん、どうした?」


 先生同士の話を遮りつつ、はっきりと私は自分の決意を伝えた。飼育小屋に行って、ブタさんに会ってくる、と。


 無理するな、ブタのためにも今は帰った方が良い、と言って止めようとした事務の先生だけど、私の顔をじっと見つめた保健室の先生がそれを止めた。そして逆に、すぐブタの元に行った方が良い、と優しく後押ししてくれた。その言葉に感謝の一礼をして、私は保健室を後にした。




 後で聞いた話だけれど、この後保健室の先生は事務の先生にこう言って諭したらしい。飼育小屋のブタの話が出た途端、明らかに今までと様子ががらりと変わった。聞けばずっとあのブタの世話をし、大事に育てていたのは彼女ではないか。それに信頼関係も、事務の先生より上かもしれない場合がちらほらある。だったら、ブタのストレスを解き、本当の活力を取り戻す事が出来るのは『彼女』しかいないだろう、と。

 もしかしたら、保健室の先生はほんの僅かなやり取りの中で全てを見抜いていたのかもしれない。飼育小屋のブタさんだけではない、私が本当の元気を取り戻す事が出来るのもまた、ブタさんしかいないだろう、と……。

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