第21話

 太陽も傾きはじめ、教室に西日が差し込み始めた。日差しが少しづつ部屋の中の温度を上げていくのとは裏腹に、いくつもの影に囲まれた私の心は、予想だにしなかった一言に凍りつき始めようとしていた。


「ち、違います……先生、そんな事……!」


 必死になって弁明し、それは事実と違うと言おうとしても、先生はずっと厳しい表情を崩さず、悪いのは私――『ブタ子』である、と無言で責め続けていた。その横で、女子生徒は悲しそうな、だけど非常にわざとらしい目線を私に向けていた。


 このクラスをまとめる役割を持つはずの担任の先生が、あの女子生徒たちの言った嘘偽りを完全に信じきってしまうなんて、この時の私は夢にも思わなかった。いくら事務的な事を淡々と済ませているようにしか聞こえない言葉ばかりでも、きっと本当のことを信じてくれると心の底で願っていたからかもしれない。でも、その淡い期待は見事に崩れ落ちた。

 今までの非を謝った女子生徒に対し、私が飼育小屋でブタをけしかけ、彼女たちを脅そうとした。あまりの恐怖に怯え、彼女たちは大泣きしてしまった。いくら自分たちが悪いからといって、このような『仕返し』をして良いのだろうか。女子生徒は、泣きながら先生にこんな感じの嘘を吹き込んだのだ。


 そして、先生はすっかりそれを信じてしまっていた。


「確かに、貴方はずっと動物たちの世話を一人だけでやってきた……」


 普通は数人がかりでこなす事になっている飼育小屋の係だけれど、いつも餌を取りにいくのは私だけだった。その理由は、私と共に仕事をこなすはずの生徒――目の前にいる女子生徒たち――が毎回仕事を私だけに押し付けてしまうからであった。

 私はそれを包み隠さず先生に訴えた。どうか真実を分かって欲しい、その一心で、私は心の中に仕舞い込んでいたものを次々とばら撒き始めた。だけど、それに対する女子生徒たちの反応は意外なものだった。それらは全て真実、私たちが悪かった、と嗚咽交じりに伝えたのだ。一瞬だけ私の心の中をよぎった期待は、すぐに否定されてしまった。わざとらしい言葉の裏で、彼女たちはより私を追い詰めようとしていたのだ。


「た、確かに……ひっく、私は謝ったんです……」

「今日は私たちが代わってあげる……って……ぐすん」


 本当なのか、と尋ねた先生に、肯定の頷きをしてしまったのがまずかった。確かに彼女たちはいきなり今日になって謝り、そのまま飼育小屋の当番を担当した。だけど、その真実は私に無理やり謝罪の言葉を押し付け、一切の意見を聞かないまま飼育小屋に向かって、ブタさんに憂さ晴らしをするというものだ。でも、『女子生徒たちが謝った』事を認めてしまった以上、その真実を伝えるのは困難になってしまったのだ。


「代わってあげるって言ったのに、飼育小屋に向かった訳ね」

「そうなんです……えっぐ、私たちの後をつけてきて、それで……」


「ち、違います……!」


 じゃあ何で私たちの後ろから現れたのか、と猫を被る女子生徒たちに言われた私は、何も言葉を返すことが出来なかった。女子生徒が先生に伝えた内容には、嘘に混じっていくつもの真実が混ざっていた。それを突けば突くほど嘘はどんどん強く補強され、否定することが出来なくなってしまうものだ。気づいた時には、私はただ『違います』『そんな事はしていません』と繰り返すだけになってしまった。

 そして、そんな私の様子を見た先生は、うんざりした表情を隠さないまま言った。


「……じゃあ何?貴方の説明が正しければ、あのブタが自分の意志で襲ってきたって?」


 はっきり言うと、それが今回の真実だ。ブタさんに危害を加えようとした女子生徒を必死で止めようとし、彼女たちによって床に叩きつけられた私を見て、ブタさんは怒りの形相で女子生徒を脅したのだ。私はこの目でずっとその様子を見て、頭の中に鮮明に記憶していた。

 でも、先生にはっきりと、その通りだ、と返す事は出来なかった。先生の口調からは、明らかに私を責めようとする心がにじみ出ていたからだ。それは、先生の傍にいる女子生徒たちが今までずっと私に投げかけたあらゆる悪口と全く同じ感触だった。


「確かに貴方はずっといじめられてきたかもしれない。でも、そんな仕返しなんてして良いと思ってるの?」


 先生は、私がいじめられ続けているのを完全に無視し続けていた。どんなに悪口を言われ、どんなに机や椅子、持ち物に被害が及ぼうとも、先生はそれに見向きもしなかった。女子生徒がばれないように様々な手段でそれらを隠蔽したり、私自身が慌てて被害を隠そうとした事が原因だったのかもしれない。先生にとっては、目に見えるものだけがクラスの全てだったのだ。

 女子生徒の話を真っ先に信じ、私の事を真っ向から批判していたのも、きっとそういう事だったのかもしれない。


「先生……私たち謝ったんです……えっぐ」

「分かっている、そんなに泣かないで。

 貴方、ここまで怖い目にあわせたのに、それでも違うって言い張るの?」


 先生にとって、私は眼鏡をかけた内気で無口な生徒にしか見えていなかったのだろう。内向的で自分の意志を伝えない、そんな生徒よりも、明るく活発で成績も良い女子生徒のほうが扱いやすく、付き合いやすい生徒だったに違いない。

 結局、先生にとっても私は単なる『ブタ子』だったのだ。


 今だからこそ私はこのような風に過去を考察できるけれど、あの時はそのような事をじっくり考え、腹を立てる余裕は一切なかった。クラスの担任と言う重要な立場にいるはずの人にまでそのような事を言われてしまった事に対する衝撃があまりにも強すぎたからだ。つい数十分前の飼育小屋での出来事の心の傷が回復しないうちに訪れた第二波で、私は次第に口を閉ざし始めた。何を言って良いのか、何をすれば良いのか、もはや私には分からなくなってしまっていた。


「ねえ、ちゃんと聞いてるの?」


 前を向いて、と言う先生に私は従わず、ずっと俯き続けた。

 私を追い詰め、本当の『仕返し』に成功しかけていた女子生徒がどのような表情だったのか、私には分からなかった。わざとらしい泣きべそや嗚咽の声が聞こえなかった事を考えると、きっと彼女たちは表情に見せなくとも大笑いをしていたに違いない。憎たらしい『ブタ子』は、所詮自分たちより下劣な存在、先生に責められ続け、全ての罪を押し付けられる哀れな弱者だ、そんな感じの事を、心の中で思っていたのだろう。


 ずっと動かない私を見て、先生は声を荒げ始めた。どうして言う事を聞かないのか、何故罪を認めないのか、と。

 でも、私は頭を上げなかった。自分は悪くない、自分は何も罪を犯していない。その事を必死に伝えようとした。あの時たっぷり流したはずなのに、私の目からは再び涙が零れ落ちようとしていた。


 

 その時だった。

 突然聞こえた大きな音に、私はとっさに頭を上げた。


 

 最初、それは先生が机か何かを蹴飛ばした音ではないか考えたが、すぐにそれは違うということが分かった。私の視界に飛び込んできたのは、目を見開き、口を大きく開けたまま、教室の扉のほうをじっと見つめる先生と女子生徒の姿だったからだ。じゃあ一体あの音はなんだったのか、と扉のほうを向いた私も、全く同じ表情になってしまった。


「……え!?」


 そんな驚きの声も、口から漏れてしまった。

 扉の前に立っていたのは、二人の男の人と一人の女の人だった。中央に立つ一番背の高い男の人は、毎日学校の雑務や飼育小屋にいる動物の世話を担当し、私も今まで何度もお世話になっている事務の先生だ。その顔は、今まで見たことがないほど厳しく、そして怒りに満ちている事が一目で分かるものだった。

 そして、その左右に立っているのは誰か、私は一瞬分からなかった。あまり学校で会う機会が無かったのもあったけれど、一番の理由は、まさかこの二人がやってくるなんて考えもしなかったと言う事だ。そして、それは先生も、女子生徒たちも全く同様だった。


「話は全て聞かせてもらったよ」


 静かな口調で、事務の先生は話し始めた。


「飼育小屋でブタを殴ったり蹴ったりしたのは、どこの誰だ?」


 その一言に、女子生徒たちの表情は変わった。明らかに恐怖をにじませ、責任を押し付けあうかのように互いのほうを振り向き始めた。そして、そのような事を一度も聞いていないかのように、先生はびっくりしたかのような表情を見せていた。まるで自分は一切関与していなかった、そんな事態になっているなど知らない、と言うかのような、新鮮な驚きを見せ付けていた。


 しばらくして、事務の先生の向かって左側に立つスーツ姿の大柄の男の人が、低くよく響く声で、教室に居る私以外の全員に告げた。

 自分の部屋、『校長室』に今すぐ来るように、と。


 その瞬間、女子生徒や先生の顔が一気に青ざめた。先程までの元気や怒りがあっという間に消えた彼女たちに残されたのは、これから自分たちを待っているであろう未来への絶望だったのかもしれない。それだけ、周りに居る全員の様子は変わってしまったのだ。観念したかのように素直に従う女子生徒の一方、先生はその場を動かなかった。教室の椅子に座ったまま、ずっと何かを呟き続けていたのだ。何を言っているのか最初分からなかったけれど、次第に私の耳が先生のか細い声を聞き取り始めた。


 私は悪くない、私は悪くない、私は悪くない――それは、こんな事になったのは自分の責任ではない、と全てを女子生徒に押し付けようとする、先生の悪あがきだった。 

 でも、それが通用することは無かった。


「いいから来なさい!」


 事務の先生と共にやって来た女の人は、学校の先生たちをまとめる教頭先生だったのだ。


 やがて、校長先生と教頭先生に連れられながら、女子生徒たちと担任の先生は教室を後にした。彼女たちの顔は、積み重ねてきた『悪事』が完全にばれて最悪の刑が待っているかのように青ざめていた。




 そして、太陽の光が差し込む教室に、私と事務の先生だけが残された。

 あまりの急展開にどうすれば良いか分からず立ちすくんでいた私に、事務の先生は言った。


「さ、私たちも行こうか」


 その言葉は、元の優しい口調に戻っていた。

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