第20話

 私たちにとって身近な動物の一つであるブタの先祖は、山の中に住むイノシシだと言われている。たくさんの木や草で入り組んだ森の中を高速で駆け回り、大きく頑丈な鼻を使って大きな石も軽く持ち上げ、一度ジャンプすれば高い柵もあっという間に飛び越えてしまう。敵や危険な場所が多い自然の中で、イノシシは高い身体能力を身に付けた。


 そして、それは人間と共に暮らす道を選んだブタにも受け継がれた。

 大きな鼻を使えば脆い柵はあっという間に壊れてしまい、大きな穴もすぐに掘ることが出来る。一度走れば大砲の弾のように速く、飼育小屋から逃げ出しても十分に野生で生きていけるほどだ。そして、一番恐ろしいのは、ブタを怒らせるとそれこそ人間一人では太刀打ちできないほどの力を見せ付ける事だろう。


 私の目の前で、まさにその『力』が実演されようとしていた。


「な、な、何よ……そ、そんな……」

「そ、そうよ……こ、怖い顔して……」


 言葉では必死に強がっていた女子生徒たちだけど、その足は恐怖で震え続け、言葉も泣きべそ混じりになり始めていた。彼女たちの目の前に、今まで見たことも無いほど凶暴な顔をしたブタさんの姿があったからだ。

 いつも優しいはずの瞳で目の前にいる『敵』を鋭く睨み付け、開いた口からは、ブタと言うよりもオオカミが獲物に向けて唸るような声が溢れ続けている。さっきまで女子生徒に殴られたり蹴られようとしていた大きな体は、まるで怒りをこらえているかのように震え続け、四つの足もいつでも突進できるように準備をしているようだった。


 声を荒げ始めるブタさんと対照的に次第に言葉を失っていく女子生徒たちの様子を、私はただ呆然と見つめ続けていた。


「い……いや……やめて……」

「ご、ごめん……あ、謝る……から……」


 そんな上っ面な謝罪、誰が聞くものか。そう言い返すように、ブタさんは女子生徒を飼育小屋の出口に追い詰めていった。大きな蹄があるその足からは、怒りの地響きが聞こえてくるようだった。


 そして、出口の柵の近くにやって来たブタさんは、大きく一声鳴いた。

 地震、雷、火事、台風、それらが一度にやってきたかのような、怒りの声だった。



「きゃああああああ!!!」

「いやあああああ!!!」



 扉を開け放しにしたまま、彼女たちは大泣きしながら飼育小屋を飛び出していった。あまりにも必死だったのか、扉の段差につまづいて転んだ女子生徒もいたが、すぐさま起き上がり、恐怖で叫びながら校舎へと駆け込んでいった。

 その様子をじっと眺めていたブタさんの視線が、不意に私のほうへと向けられた。その瞬間、ブタさんの瞳は先程までの怒りの睨みから、まるで自分の悪いところを見られたかのような、不安混じりのものへと変わったように見えた。


「……ぶ、ブタ……さん?」


 私が声をかけた瞬間、ブタさんは顔を私から反らし、飼育小屋の隅の方――出入り口がある柵や扉とは反対側へと向かい、そしてその場でうずくまってしまった。やがて、そこから小さい鳴き声が聞こえ始めた。

 

 いくらブタさんが頭が良くても、身体能力が優れていても、人間と同じ心を持っているとは限らないし、そんな事が実証されたことは無い。動物の行動を無闇に人間の感情や常識で考えるというのはとても危険な事で、却って動物たちを傷つけてしまう事になるという意見もある。でも、視線の先でうずくまり、どこか震えている様子のブタさんが、私には人間と同じように後悔で泣いているようにしか見えなかった。『優しく頼もしい』はずの自分が恐ろしい存在に変貌してしまい、その様子をまざまざと見せ付けてしまった事に、誰よりも絶望し、そして嘆いているかのように。


 ゆっくりと立ち上がった私は、静かにブタさんのほうを向いた。


「……ありがとう」


 そっと私が呟くと、ブタさんから聞こえていた小さな、涙を流しながら泣いているような声が止まった。じっとうずくまり、ピンク色の筋肉質な背中を見せ続けるブタさんに、私はゆっくりと、でもはっきりと伝えた。助けてくれて、本当に嬉しかった、と。


「私は大丈夫だよ……ブタさんこそ、怪我は無い……?」


 それからしばらく、飼育小屋の中には沈黙が流れた。私やブタさんは一言も声を発さず、近くにいるはずの鳥たちも、一切の声を出さなかった。まるで周りの動物たちが、この様子を固唾を呑んで見守っているようだった。

 じっと動かないブタさんを見続けた私は、これ以上無理をさせたくない、と感じ始めた。こうやって私が優しい言葉をかけ続けるという事は、もしかしたらブタさんにとっては非常に辛いことかもしれない。人間同士でも相手の心のうちが読めるわけではないし、ましてやここにいるのは人間と動物。知らないうちに、相手の心を傷つけている事だって考えられる。今は何も声をかけず、じっとさせたままの方が、ブタさんも嬉しいだろう。そう考え、飼育小屋を後にしようとした時だった。


「……え?」


 聞いた事のある声に呼び止められたような気がした私は、後ろのほうを振り向いた。そこには、頑丈な四本の足で飼育小屋の床をしっかりと踏みしめ、大きな体を立ち上げていたブタさんの姿があった。その顔は、じっと私のほうを見つめていた。いつも通りの丸く優しい瞳は、どこにも怪我は無いと言う事を私に伝えるようだった。

 

 私の心に、ずっと我慢していたかもしれないものがふつふつと込み上げてきた。あっという間に心を覆ったその感情を抑えることは出来ず、私はそのままブタさんの元に駆け寄り、そしてピンク色の大きな体の傍で大声を上げて泣き始めた。


「うわああああああああ!!」


 自分を守ってくれた事への感謝、命に別状が無かったことへの安心、そして例の女子生徒からの仕打ちの辛さ、様々な感情が混ざり合い、眼鏡越しに大粒の涙として溢れ続けた。何度我慢しようとしても、私の瞳の中からは涙が止まることは無かった。

 そんな私の横で、大きく逞しい四本の足で体を支えながらブタさんは何も声を発さずじっと立ち続けていた。長い間ずっと耐え続けた思いが溢れ続ける様子を、まるで優しく見守っているかのようだった。いや、きっとそうだったに違いない。絶対に間違いないだろう。今の私にとって、ブタさんはもはや学校で飼われているただの動物ではなかった。『ブタ子』だったこの私を、一人の人間として認めてくれた、大事な存在だったのだ。



 それからしばらく経ち、ようやく私の方も心が落ち着いてきた。大事な存在であるブタさん本人が直接的な被害を受けた、と言う衝撃から完全に抜け出せた訳では無いけれど、涙を拭いて笑顔を見せ、周りで嬉しそうに鳴く鳥たちの声を聞く余裕は戻ってきた。

 今日はブタさんまで巻き込み、色々と大変な目に遭ってしまった。間違いなく、次の飼育当番は元通り渡し一人に押し付けられることになるだろう。でも、やはり私にとってはそちらの方が嬉しい。こうやってたくさんの動物たち、そしてブタさんと一緒に過ごす時間を作ることが出来るからだ。


 また明日、と声をかけ、飼育小屋を出ようとした、その時だった。


「……!!」


 私の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。


 あの時ブタさんの怒りに負け、飼育小屋から慌てて逃げ出した女子生徒たちが、戻ってきたのである。彼女たちも私同様に頬に涙の跡を残したままだったが、その意味は私とは正反対のものであると言う事が、彼女たちと一緒に居る人物から嫌と言うほど分かってしまった。



「……ちょっと、教室に来てくれる?」



 厳しい目つきを隠さないまま、私のクラスの担任の先生は私の手首を強く握った。訳の分からないまま飼育小屋を後にし、例の女子生徒たちと一緒に教室へと戻ってきた私だけれど、先生から出た言葉に、耳を疑った。



 私が、いつ、どうやって、女子生徒に飼育小屋のブタをけしかけ、仕返しをしたと言うのだろうか……。

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